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2022-08-20

★石垣辰子
「佐渡ジャーナル」関係記事:「38号」(平成26年7月)佐渡(さろ)ん人間(もん)が救ったダコタ!!

★石谷清昌
石谷清昌(田中圭一講演集より)

★石河栄造
長谷寺
いし石河栄造 長谷寺

★石川和子
相川柴町の人、昭和2年~平成23年1月。相川音頭や相川甚句に関して広く研究し、平成4年頃に相川に因む次の歌を作詞した。
御前音頭(天領の町・相川)、相撲甚句(相川町名所)、相撲甚句(佐渡金山)、相撲甚句(佐渡ケ島名所)、古調相川音頭(寝太郎音頭)。これらの歌の幾つかは羽茂の長尾俊(相撲甚句の名人)によってテープに吹き込まれ、佐渡会館での立浪会公演の前に紹介された。尚、人名録中の飯山弘氏は弟である。 →参照(写真:相川地区、歌詞:その他)
「佐渡ジャーナル」関係記事:「8号」(平成19年1月)「布の貼り絵」暮路(ぼろ)の会とギャラリー兎夢遊(とむゆう)
いし石川和子 (1)
佐渡金山物語~布の貼り絵と替え歌で知る佐渡金山の歴史~(石川和子)
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 7小川の濡れ仏 

諸情報

★石川掃部
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年) 
岩根沢の出ということだけで家名不詳。和歌能楽の師匠となる。華道を修めた。歿年不詳。

★石川菊蔵(小倉)
長谷寺
いし石川菊蔵(小倉) 長谷手前 いし石川菊蔵 長谷寺 いし石川菊蔵 長谷寺

★石川清松
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
いし <br>石川清松

★石川久太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いし石川久太郎

★石川九平
『続佐渡酒誌』(平成14年)
いし石川九平 『佐渡酒誌』(平成14年)
『続佐渡酒誌』(平成14年)
いし石川九平 『続佐渡酒誌』(平成14年)

★石川清
両津高校時代のs39年、新潟国体ヨット男子スナイプ級5位(石川清)、男子フィン級5位(坂口繁樹)

★石川賢
041004 (1)
春高バレーに佐渡高が42年ぶり出場 離島の不利はね返す 産経 2020/1/3
「春の高校バレー」として行われる第72回全日本バレーボール高等学校選手権大会(産経新聞社など主催)は5日、武蔵野の森総合スポーツプラザ(東京都調布市)で開幕する。男子では新潟県の佐渡島にある佐渡高が42年ぶりに出場する。中学時代に全国の舞台を経験した1、2年生だけの若いチームは、離島の不利を乗り越えた。北村宏樹主将(2年)は「明るく、自分たちらしく、見た人に感動してもらえるプレーをしたい」と、活躍を誓っている。 昨年11月3日。日本海に浮かぶ人口約5万4千人の島に吉報が届いた。新潟県大会決勝で前年覇者の東京学館新潟を3-1で破り、全国切符をつかんだ。部員14人は全員が佐渡育ち。源氏篤史監督は「選手たちは島の宝物」と目を細める。学校から新潟市内まではフェリーも含め3~4時間かかる。練習試合は泊まりがけになる。費用面から遠征は月に2回が限度。最高峰の試合を見る機会も少ない。離島ならではの悩みを抱える。逆境をはね返した源泉は、島内で築いた中高一貫の強化体制だった。発端は2014年。小学6年だった北村たちの世代が島内の小学生クラブ「かないJr」で、佐渡初の全国大会に出場した。中学進学後はメンバーがまとまって活動できるチームは島になかった。各選手は進学した中学校の部活動などで細々とバレーを続けた。2016年、転機が訪れた。源氏監督、佐渡総合高バレー部の石川賢監督らを中心に、中高生を対象としたクラブ「佐渡レッドシーブリームス」が発足した。中高生一緒の練習が特徴で、石川監督は「中学生は生きた手本を参考にでき、高校生は見られることで練習効果が倍になる」と話す。北村たちは中学3年だった2017年の全国ヤングクラブ大会で準優勝を果たした。注目が集まり、複数の選手が県内外の強豪校から誘われる、「佐渡のみんなと春高に出たかった」と明かす。中、多くが佐渡高に進んだ。セッターの斎藤亘孝(2年)は島内では全国大会出場を知らせるのぼり旗が目立つ。部には連日差し入れが届く。5日の初戦は島民ら650人が応援する予定。まずは42年前に挙げられなかった1勝を目指す。「自分たちはどのチームよりも一緒に過ごした時間が長い」と北村。培った結束力で大舞台に挑む。(川峯千尋)

★石川源吉
『続佐渡酒誌』(平成14年)
いし石川源吉 『佐渡酒誌』(平成14年)

★石川源七郎
住吉神社
いし石川源七郎 住吉神社

★石川権兵衛
畑野加茂神社
いし石川権兵衛 畑野加茂神社 (1) いし石川権兵衛 畑野加茂神社 (2)

★石川佐一郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
畑野村小倉 ・明4、新潟に於ける鵜飼の仮葬[三十四年九月二十八日]・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いし石川佐一郎

★石川佐次兵衛
『加茂村誌』(昭和38年)
いし石川佐次兵衛

★石川里美
佐渡高校時代の昭和61.1.18-19、バドミントン県高校選抜大会(新潟市)女子団体3位 内田美和子、石川里美女子シングルスベスト8、女子ダブルス(内田・山地組 仲川・石川組)ベスト8
62.6.6~8、バドミントン県高校結合体育大会(上越市)女子団体3位、女子シングルスベスト8
62.6.20~21、バドミントン北信越大会(上田市)女子団体戦出場

★石川覚
両津高校時代の1975年度(S50)10月、バスケットボール 男子 新潟選抜チーム3位 石川覚 加藤良昭の2名出場
その後中学校体育教師として県内各地の赴任先で強力なバスケットボール部を作り上げた。南中学校では新人戦優勝や新潟県3位のチームを作り上げた。彼の指導した選手たちが佐渡島内各チームの指導者として活躍している。

★石川小百合
「島の新聞」索引(人名別)

★石川重雄
畑野村長
石川重雄

★石川忍
1932年、両津市に生まれる。
1951年、両津高校卒・明治学院大学文学部入学。
1953年、同大中退・島に帰り、小農・製炭のかたわら、青年、労働運動・政治活動に励む。
1954年日本社会党入党・大謀定置網の漁労漁夫となり、加茂水産を拠点に漁民解放と地域民主化運動に取り組む。
1959年、両津市議会議員となる(27歳)。
1963年、加茂水産・丸内定置組合の出資持分解放運動に励む。
1966年、漁業代表団の一月として中華人民共和国訪問。
1967年、日本共産党入党・9期35年間、島の市議会議員として地方自治の振興に励む。
 この間1974年、95年に市長選挙を闘い、惜敗。
日本共産党佐渡党委員会副委員長、内浦漁協代表監事、清潔で明るい両津市民の会代表、佐渡民主商工会相談役、社会保険労務士当等を歴任。
住所、新潟県両津市大字北五十里25-2
庶民的な人柄で市民から愛され、共産党席でありながら、市長選で大善戦したのも人がらの賜であろう。
常に恩師倉田籐五郎氏を尊敬し、指導を仰いでいた。
長く共産党市議として活躍し、両津高校4代同窓会長(石楠会)、昭和39年。
著書に『佐渡の風と潮騒: 島に生きる人びと』があり、書評には次のようにある。
“日本海海戦”と呼ばれた漁民解放の闘い。9期35年の市議、2回の市長選挙など離島における地方自治のルポ。島の底辺に生き、島人への深い共感と共生のメッセージは胸をうち、生きる勇気を与えてくれる。

★石川寿作
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明2、鵜飼郁次郎同志者を招待す[二十三年十月十日]・明3、辛卯倶楽部の設立[二十四年八月十二日]・明4、第十六回選挙[四十四年九月二十五日]・大1、政友会新潟縣支部会[三年十一月十二日]・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]

★石川賞一
両津高校時代のs46年、和歌山国対ヨット男子フィン級1位(甲斐幸、石川賞一)

★石川正市
赤泊徳和の人、昭和4年生。平成29年(2017)3月没(87歳)
新潟在勤中、新潟の民謡団体「いずみ会」で佐渡出身の民謡家岩崎文二に師事し全国各地を公演。この間、新民謡「七浦甚句」を作り上げた師の岩崎文二を手伝い、踊りの振り付けを担当した。その後、佐渡に戻り「松波会」で故岩原芳太郎に師事。昭和45年立浪グループで大阪万博出演他。佐渡竹芳会(竹山流津軽三味線)入門、故細野竹芳に師事し2代目会長、名取芳正襲名。
雲雀竹延氏に師事し、連合雲雀会で各地公演。佐渡「絃芳会」(竹芳会改名)顧問。長く赤泊分校郷土芸能クラブを指導し13年連続全国大会に出場する。赤泊民謡愛好会会長。
→「佐渡の民謡」-「聞き書き」参照(本人写真あり)
いし石川正市

★石川史郎
「佐渡ジャーナル」関係記事:「25号」(平成23年4月)キャッチアップ(※石川史郎)

★石川新吉
いし石川新吉
畑野小3代目校長
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いし石川新吉

★石川水豊
両津高校時代の1993年度(H5)2月、新潟県高等学校総合文化祭文芸部門(『高校文芸』第8号)短歌 奨励賞

★石川清作
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p425

★石川泰明
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
いし石川泰明 新潟県官民肖像録 明治41年

★石川啄木
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)石川啄木 51 <書評>「石川啄木と北一輝」 -小西豊治著を読む- 山本修巳

★石川猛夫
佐渡高校時代の26年、東部高校大会、石川猛夫・武田健司200m継泳4位

★石川忠
両津高校時代の1954年度(S29)5月、第7回全国高校陸上競技大会新潟県予選 800M2位・1500M2位 
          6月、第7回全国高校陸上競技大会信越予選 800M3位・1500M2位 
1955年度(S30)5月、第8回全国高校陸上競技対校選手権大会新潟県予選 1500Ml位・800M2位
          9月、第8回新潟県高等学校総合体育大会陸上競技 男子総合3位、1500Ml位・800M2位

★石川達三
いし石川達三
昭和38年、6月11日。亀井勝一郎・北條誠と共に「文藝春秋」講演会で来島する、。 

★石川タマ
貝塚
いし石川タマ 貝塚 (1) いし石川タマ 貝塚 (2) いし石川タマ 貝塚 (3)
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より ※石碑写真三枚は貝塚共同墓地で撮影。
い石川タマ いし石川タマ (3)

い石川タマ (3)

い石川タマ (2) いし石川タマ (1) いし石川タマ (2)


★石川智恵子

 両津高校時代の1975年度(S50)11月、第9回全国高校生ポスター絵画写真コンクール学校特別賞、絵画部門 個人特別賞(副賞・32日間ヨーロッパ旅行)


★石川朝洋

長谷寺
いし石川朝洋 長谷寺 (2) いし石川朝洋 長谷寺


★石川伝吉

『新穂村史』(昭和51年)より
昭和三十年ころまで瓦を焼いていた潟上の石川伝吉瓦屋は、安政四年(一八五七)生れの音吉が、久文才市の弟子となって技術を教わったものである。この音吉の妻テル(安政三年生れ)は前述のように才市の娘であったが、彼女にも男子がなく、窪田の斉藤多吉の四男を養子にもらった。この養子が伝吉である。伝吉の嗣子常次郎まで家業は続き、孫の一三は多治見市の工場の職人になった。終戦後に潟上に帰って家業を復活したが永くは続かなかった。正明寺、潟上の地質は農業には適しないア力士で、瓦にむいていたし、そのため松の平地林が、「マツベイタ」を得やすくし、又正明寺山、田野沢山にも松が多く潟上も同様であった。
★石川伝吉

「島の新聞」索引(人名別)


★石川希

 両津高校時代の1996年度(H8)県陸上競技大会 800M3位、北信越高校選抜陸上競技大会 800M7位
 1997年度(H9)、北信越大会 800M 石川希出場


★石川彦右衛門

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
いし石川彦右衛門
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
万延元年生、河崎村 ・明4、第五回佐渡郡会議員選挙[四十年九月三十日]・明4、第十六回選挙[四十四年九月二十五日]

★石川彦左衛門
住吉神社
いし石川彦左衛門 住吉神社
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
いし石川彦左衛門 新潟県官民肖像録 明治41年
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いし石川彦左衛門
『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)
いし石川彦左衛門 (1)
いし石川彦左衛門 (2)

★石川正雄
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いし石川正雄

★石川松五郎
『新穂村史』(昭和51年)より
瓜生屋の通称「おけや」こと石川松五郎は、昭和二十六年(一九五一)夏ころまで仕事をしていたが、その後病を得て同年十二月に四十五才で若死にした。当村の廃業した桶屋としてはおそくまで仕事をしていた一人であった。
昭和九年(一九三四)に所帯をもって瓜生産の停留所の近くに居を構えるまでは、青木の住人であった。親たちは吉井本郷の者で、牛のツボなどをつくるのがうまくて、器用な血すじらしかった。松五郎は十二才で新穂小学校前で桶屋をやっていた北方の土屋権七の弟子となり、十年ほど年季をつとめて独立をした。そのころはまだ桶が日常の必需品として重宝していたので、長樽、カタネ桶、洗濯桶などの仕事で忙しかった。松五郎の子の正英も松五郎の死後に畑野の城の越桶屋の弟子となり、桶屋の修業をしたが時勢の変化で大工に転業した。

★石川満治
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いし石川満治

★石川弥一
吉井出身、山口大教授、鷺流狂言研究家で『山口に残存する鷺流狂言』を刊行する。
「サントリー地域文化賞(山口鷺流狂言保存会)の紹介ページ」
明治期に途絶えたとされた「鷺流狂言」は、大内氏、毛利氏の文化の薫り高い山口の地で、町の「普通の人々」によりその技が今日まで伝えられてきた。その歴史は、長州藩狂言方の春日庄作が素人衆に狂言を教え始めたことに始まり、町の人々が相互に稽古をつける「伝習会」によってその歴史は受け継がれてきている。大正期には春日の直弟子もいなくなり、細々とその技は伝承されてきたが、昭和20年代になって山口女子短期大学(現:山口県立大学)の故・石川弥一教授の研究を契機として、1954年に保存会が結成されることとなった。その後1967年に山口鷺流狂言は県指定無形文化財の第一号となり、技の伝承者たちは県指定無形文化財保持者として顕彰され、後進の指導者となった。現在では、二人の無形文化財保持者が中心となって、小学4年生から88歳までの20人が「伝習会」で研鑽をつみ、次代への継承に努めている。
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊 「さかんな文芸熱」)より
大正時代になって、新町には文芸熱がさかんになった。文芸雑誌「白壁」「響」「潮光」「純芸術」など、つぎつぎと発行された。「白壁」の創刊されたのは、大正五年一一月十五日となっている。発行人ほ松井夕葉(源三)であるが、発行所の白壁社は夕町京吉(山本登か)の宅になっている。同人は朝比奈萩葉(義太郎)、本郷涙果(保雄)、山本陵村(堅太郎)のほかは匿名ばかりである。「海蒼ニ」とか「丘暮ニ」などの変った名前である。この仲間に、当時佐渡中学校の在学生も加わっていて、風紀問題をおこしたといわれる。そのころ自然主義文学がさかんで「赤裸々な人生」を表現する、悪い半面を体験する若い人たちであったのであろう。三号で廃刊になった。「響」は、大正九年十二月二〇日創刊。同人は真野郵便局貞の立花京二、本間芳水(鉄治)、佐々木酒水(高瀬)、野口萍花であるが、金子不泣、本間五丈原・後藤奥衛・山本修之助なども寄稿している。この雑誌は、活版刷でなく、石版刷である。そのころ仙台から小川一という人が新町へ来て石版業をやっていた。文字は立花が原紙に書いていた。これも第三号で廃刊。この第三号の表紙は、山本半之助の筆になるものであった。「潮光」は、大正十年年九月一五日創刊で、山本修之助が独力で発行した。これは、山本修之助を中心とした全国各地の文芸仲間から寄稿された。もちろん、旧制新潟高校にいた藤川忠治・長井一男、佐渡では近藤俊作・渡部秋雄・熊木啓作などがいた。つぎに出る「純芸術」の前身のようなもので、二号で廃刊となった。 大正十三年五月一日「純芸術」が山本修之助を中心に集ったグループにより創刊された。同人には金子不泣(畑野町)・本間林三(両津市)・藤川忠治(羽茂町)・庵原健(同)・石川弥一(旧吉井村)・駒形多郎(相川町)・近藤俊作(佐和田町)等であった。これは、文学だけでなく音楽会や絵の展覧会も催すという芸術運動であった。第五号(大正一四年八月一日)までつづき、のち「向日葵」と改題して第七号までつづいた。大正一五年七月二〇日であった。この「純芸術」の運動は、佐渡の文芸復興ともいわれ、かつてないはなやかな時代であった。昭和時代に入ると、プロレタリア文学がさかんになり、暗い時代となって、戦争突入の前触れを感じさせた。
「大正の文芸運動」(「佐渡の百年」)

★石川泰明
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
いし石川泰明

★石川安右衛門
住吉神社
いし石川安右衛門 住吉神社

★石川弥八
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河崎村住吉 ・明3、鵜飼の送別会[二十五年三月十九日]

★石川芳彰
い石川芳彰
畑野町出身、東映株式会社取締役相談役。1940.6札幌生れ、1959.3佐渡高校卒業、1963.3中央大学卒業、1963.4東映㈱入社。1978.6本社宣伝プロデューサー、1986.6事業推進部長兼俳優センター長。1996.6取締役事業推進本部担当、2001.6常務取締役、2006.6専務取締役、2010.6取締役相談役。

★石川利兵衛産婆
『金沢村誌稿本』(昭和9年7月 金沢村教育会刊)(閨秀伝)より
い石川利兵衛産婆 閨秀伝 

★石川林作
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明4、政友会新潟支部の役員[四十年十一月十七日]

★石川林平
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河崎村吾潟 ・明3、佐渡自由党の解党[三十一年七月一日]・明3、佐渡憲政党の発会式[三十一年七月二十四日]・明4、山本悌二郎、政界乗り出しの経路[三十五年四月]・明4、政友会新潟支部役員[四十三年十一月二十日]

★石工彌助→臼杵弥助

★石工重太郎→中川重太郎

★石倉(旧姓 広瀬)なるみ
「島の新聞」7号

★石榑千亦(いしくれちまた)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)石榑千亦(いしくれちまた) 7 鑑賞 佐渡のうた (7) 石榑千亦(いしくれちまた)・本間七左衛門・富安風生 山本修巳 

★石黒七夫
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・4・8月 県水泳選手権大会(県体協・県青年団・北陸水上連盟)悠久山プール
200平泳5位

★石花将監(いしげしょうげん)
【生没】一五七一ー一六四○ 石花将監は、戦国期石花に居住し、小川から岩谷口まで(現相川町の内)の二二か村(小川から願までの二四か村の説もあり)を支配する小領主であった。「佐渡古代記」によると、吉井殿(藍原氏)が外海府のうち、片辺・石花・後尾・関・五十浦・岩谷口の六か村を切りとり、石花村の飛木惣右衛門という者を代官として、その地域の支配を任せた。そののちこの地域を惣右衛門が拝領し、石花将監と名乗ったとある。すると、将監はもともと石花村の百名名主(土豪的武士)であったのだろう。寛永七年(一六三○)剛安寺七世によって書かれた「藍原大和守興亡記」には、「石花城主本間将監殿 」とあるところをみると、本間姓を名乗っていたらしい。入川地蔵寺文書(正保四年)の中に、上杉景勝入国のころ(天正十七年)、海府一帯は河原田殿の知行地であったと記録されているが、そうすると、石花将監はこのころ河原田本間氏の配下にあったものか。相川の「総源寺縁起」に、天正の乱で将監は河原田城応援に駆けつけようとしたが、途中で河原田落城を聞き、家臣を逃がし自らは髪をおろし僧となり、諸国行脚修行し、二○年後帰国して、吉井剛安寺へ入ったとある。寛永十七年没。六九歳。【関連】総源寺(そうげんじ) 【参考文献】『高千村史』、『佐渡相川の歴史』(資料集四)、山本仁『佐渡古城史』 【執筆者】山本仁 相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡国羽茂郡石花(相川町)の人で、上杉時代の地頭本間信濃守(檀風城主)の旗本である。
小川、達者、北狄、戸地、戸中、片辺、後尾、石花、河内、入川、千本、高下、田野浦、小野見、石名、小田、大倉、矢柄、五十浦、岩谷口を領した。(佐島遺事)
「戦国佐渡国人名辞典」より
【いしはらごろうざえもん(15??~15??)】雑太郡北片辺城主。通称五郎左衛門。別名本間五郎左衛門。藍原秀氏の家老職を務め北片辺城(小川、達者、北狄、戸地、戸中、片辺、後尾、石花、河内、立島、入川、千本、高下、田野浦、小野見、石名、小田、大倉、矢柄、五十里、岩谷口)を領した。1589年、「河原田城の戦い」では、河原田高統を支援したが到着前に落城した。後に出家した。

★石子順
 ➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 4【映画】「きけわだつみの声」

★石崎澄夫
「島の新聞」索引(人名別)

★石崎種臣
県立佐渡高等学校4代校長(昭和34・4・1~昭和38・3・31)。巻高校長なども歴任する。

★石崎義典
新潟日報(平成27年8月26日)
いし石崎義典 h27 8 26 新潟日報


★石瀬佳弘(いしせよしひろ)

『島の新聞』94号
1938年-2010年3月11日、72歳。吉井村生まれ。佐渡の近現代史の第一人者。小学校教諭のかたわら、昭和初期の文化運動に関わり、佐渡地域誌研究会初代会長、両津市教育長、佐渡市教育長、佐渡伝統文化研究所長、佐渡学センター所長などを歴任。活動は「自分の意思で、自分の時間で、自分の金で」を貫き、後進を指導した。
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1937年、両津市上横山生まれ。加茂小学校等島内小学校校長歴任。佐渡市教育委員長、教育長、佐渡学センター長を歴任。新潟県立公文書館調査員。新潟県史・相川町史などの町村史を調査執筆している。『図説 佐渡島-自然と歴史と文化-』(1993年 佐渡博物館刊)の共同執筆者の一人。

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)石瀬佳弘 131 石瀬佳弘先生の思い出 風間進
「島の新聞」索引(人名別)


★石田宇吉

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
安政二年生 外海府村、または高千村高千 ・明4、第五回佐渡郡会議員選挙[四十年九月三十日]


★石田亀次

「島の新聞」索引(人名別)


★石田邦蔵

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日] ・昭3、佐渡政友倶楽部秋季大会[七年九月六日]

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
い石田邦蔵


★石田清作

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いし石田清作


★石田松治

『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
河原田町池金平の後に、大正初期、「有卦の福助の図」(幸運を呼び込む)を発行し売り歩いた。
変わり者で、自分で「飴売りトツツァン」と称し「飴売りトッツァン、五年も来んぞ」といって、鈴を振りながら、たびたび来て子供たちに飴を売って歩いた。

→池金平

『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)


★石田波郷

い石田波郷
高名な俳人であり、小川一灯等、佐渡の多くの俳人に影響を与えた。島内に句碑がある。

「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説.
1913-1969 昭和時代の俳人。 大正2年3月18日生まれ。水原秋桜子の「馬酔木(あしび)」同人となり,昭和12年「鶴」を創刊・主宰。中村草田男(くさたお),加藤楸邨(しゅうそん)とともに人間探求派といわれた。肺結核で入退院をくりかえしながら人生を凝視する句をよみつづけた。昭和44年11月21日死去。56歳。愛媛県出身。明大中退。本名は哲大(てつお)。句集に「鶴の眼」「惜命(しゃくみょう)」「酒中花」など。
【格言など】霜柱俳句は切字(きれじ)響きけり(「風切」)

→参照(小川一灯)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)石田波郷 
 36 鑑賞 佐渡のうた (29) -補遺- 新井精斎・石田波郷 山本修巳
 143 波郷編「鶴俳句選集」を観る 鈴木しげを

石田波郷句碑
い石田波郷

『佐渡・羽茂 文学碑めぐり』(平成21年10月刊)より

(句碑:樟石丈○、九五㍍ 滝平の大下家近辺)

○黙(もだ)涼し牛飼君と真向(まなか)ひて

この句碑は、佐渡縦貫線より二〇〇メートル入った所に立つ。
石材は、長野県千曲川産。寄付者は打越美好。(自注)
碑は、師没後三十五年目の平成十五年十一月藤井青咲自費建立。尊い師弟愛の碑である。

石田波郷は、伊予松山の人。
俳誌「鶴」を主宰。韻文精神徹底を提唱。人間探究派と呼ばれた一人。
朝日俳壇選者。読売文学賞、芸術選奨文部大臣賞。
この句は、青咲が上京した際石神井「梅の井」に在京同人を集め、歓迎会を開いた時即刻に詠んだ句。
句集「酒中花」に所収。

「「しどみの花」の俳人」(「佐渡の百年」)

「ウィキペディア」より


★石田芳太郎(いしだよしたろう)

『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
いし石田芳太郎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
いし石田芳太郎
【生没】一八九一ー一九四七 明治二十四年十月十五日、赤泊村山田の石田金平とモンの長男として生まれる。大正十二年四月五日に、菊池弘吉(赤泊村)や藤木駒蔵(二宮村)らと佐渡郡小作連合会を組織して役員となり、佐渡実農倶楽部でも幹事に就任して中心となって活動した。昭和二年(一九二七)四月に政友会の代議士山本悌二郎が農林大臣となった際、その就任報告会の演説を聞いて、農民の利益とは無縁であるとして本間汎(新穂村)らと山本悌二郎排斥連盟会を組織した。同年八月十八日、この連盟会を基盤に、伊藤治一(新穂村)や江口武(金沢村)らを加えて、佐渡立憲民衆党を結成して代表(総務長)となったが、翌三年には分裂して佐渡立憲公政会を組織し、会頭に就任した。昭和二十一年三月七日に新潟県木炭党を結成して党首となり、衆議院議員選挙に立候補して落選はしたが、越佐で四四○○票余を集めた。昭和二十二年五月五日没。
【関連】菊池弘吉(きくちこうきち)・伊藤治一(いとうじいち) 【参考文献】斉藤長三『佐渡政党史稿』、後藤奥衛「佐渡政党史」(『近代』)、『赤泊村史』(下巻) 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治二十四年生 (大正)赤泊村山田、農林娯楽社長 ・大3、佐渡実農倶楽部[十二年八月一日]・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日]・大3、須貝快天の政談演説会[十二年十一月十五日]・大3、小作労働組合の會合[十三年二月七日]・大3、塚本派の演説会[十三年四月三十日]・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]・大3、政友本党の遊説[十三年十月二日]・大3、佐渡実農倶楽部の秋期総會[十三年十月四日]
(昭和)・昭1、佐渡実農倶楽部の幹事会[二年四月三日]・昭1、佐渡立憲民衆党の創立[二年八月十八日]・昭1、佐渡立憲民衆党の結党式[二年八月十八日]・昭1、佐渡立憲民衆党の政談演説会と石田総務の辞職[二年十二月十九日]・昭1、佐渡立憲公政會の創立委員会[三年一月十六日]・昭1、後藤與作等の新党樹立[二年十一月十六日]・昭1、第十六回衆議院議員選挙[三年二月二十日]・昭1、石田芳太郎の保証金[三年二月二十日]・昭1、佐渡公正会秋期大会[三年十二月六日]・昭2、佐渡公政会の秋期総会[四年十月十六日]・昭2、石田芳太郎の選挙違反[五年四月十日]・昭3、第二十一回新潟縣会議員選挙[六年九月二十五日]・昭3、第二十一回新潟縣会議員選挙[六年九月二十五日]・昭3、佐渡民憲党[六年十一月六日] 「佐渡関係事典に載る」


★石高精作

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いし石高精作


★石地重兵衛

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いし石地重兵衛

いし石地重兵衛 (2)


★石塚一二

『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
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★石塚一郎

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
いし石塚一郎


★石塚一作

・石塚稲次郎-長男:石塚一作-孫:石塚秀夫
・石塚稲次郎の弟が野沢卯一
・野沢卯一の長男は野沢安太郎(村長)、次男は菊池伴次
・菊池伴次の長男が菊池恒雄(赤泊郵便局長)
いし石塚一作
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
赤泊村徳和 ・大3、政友本党の遊説[十三年十月二日]・昭2、佐渡民政倶楽部の発会式[四年九月二日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いし石塚一作

『明治・大正・昭和を生きた男』(令和1年7月 野澤正幸)
明治・大正・昭和の三代を生きた男 0107月 (5) - コピー
明治・大正・昭和の三代を生きた男 0107月 (6) - コピー
明治・大正・昭和の三代を生きた男 0107月 (7) - コピー

→◆未公開情報 S


★石塚稲次郎

・石塚稲次郎-長男:石塚一作-孫:石塚秀夫
・石塚稲次郎の弟が野沢卯一
・野沢卯一の長男は野沢安太郎(村長)、次男は菊池伴次
・菊池伴次の長男が菊池恒雄(赤泊郵便局長)
いし石塚稲次郎

『明治・大正・昭和を生きた男』(令和1年7月 野澤正幸)
明治・大正・昭和の三代を生きた男 0107月 (5) - コピー
明治・大正・昭和の三代を生きた男 0107月 (6) - コピー
明治・大正・昭和の三代を生きた男 0107月 (7) - コピー

→◆未公開情報 S


★石塚栄一

『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・14・6・18 第2回近県中等学校水上競技(新潟市水上競技連盟)新潟中学競泳池
(佐渡中・総合3位・得点44点)100背① 1.22.6、300mメドレー(石塚・本間・土屋)3・58・5新
昭・14・7・23 第9回県中等学校水上競技選手権(県中体聯・県水上競技聯盟)柏崎・八坂プール
(佐渡中・二年連続、通算3回目の優勝。得点61点)
200背① 3.05.2、100背① 1.24.3


★石塚盈始(えいし)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
い石塚盈始

い石塚盈始 (2)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
歌人。佐渡都真野町金丸の人である。
通称を喜兵衛という。海野遊翁について和歌を学んだ。(佐渡人名辞書)


★石塚修

石塚修
両津病院院長。両津夷出身、両津高校卒。
「島の新聞」索引(人名別)


諸情報


★石塚亀蔵

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
い石塚亀蔵


★石塚勘太郎

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いし石塚勘太郎


★石塚喜一

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、佐渡新報の発刊[十四年十一月十日]

★石塚喜三郎
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
相川町高千字千本の人、千本人形の創始者。喜三郎は太夫で、通称八兵衛。役者に石田駒次郎がいたというが、くわしいことはわからない。(昭和八年仲原俊精よりの聞き書ノートによる)

★石塚絹代
「エスライフ」2011年12・1月号
いし石塚絹代 エスライフ2011年12・1月号 1 いし石塚絹代 エスライフ2011年12・1月号 2
「佐渡広場」(佐渡の画廊35:裂織展 石塚絹代)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=4
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=8
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/51978719.html
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/51979375.html

★石塚金平
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いし石塚金平

★石塚邦彦
相川出身、父は三菱佐渡鉱山に勤務。国士舘専門学校時代の剣道の師範で剣道8段、戦中は陸軍中野学校、戦後は中学校で剣道師範などをする。弟健三郎氏(相川高校出)は新生国士舘大学になってから卓球で名を上げる。

★石塚敬一
草創期の佐渡中学歴史科(西洋史)教師。明治三十一年四月から同三十七年七月まで勤務したあと、二、三年の空白を置いて、二度、佐中に勤めた。舎監を兼ねていたこともあって、生徒と課外スポーツを楽しむことが多かった。(「佐渡高等学校百年史」より)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いし石塚敬一

★石塚敬一
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
金沢村 ・明3、辛卯倶楽部の設立[二十四年八月十二日]・大2、佐渡経営会[九年二月二十五日]

★石塚敬一郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いし石塚敬一郎

★石塚恵子
いし石塚恵子050406

★石原健治
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)石原健治 140 台湾と佐渡の 戦後七〇年

★石塚兼次郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
慶応三年生 赤泊村 ・明4、第三回佐渡郡会議員選挙[三十五年三月三十日]

★石塚幸一
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・14・7・30 第9回県学童水上競技(佐渡会場)(県小学校体育聯盟)
〔大会新記録・タイ記録〕100自(金)1.21.5(新)
(昭和16年・県学童佐渡会場 大会記録)100自1.21.5 石塚幸一(金泉)昭14

★石塚光太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いし石塚光太郎

★石塚五三郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
い石塚五三郎

★石塚五郎平
「相川暴動」(「佐渡の百年」)

★石塚権治
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡新穂村瓜生屋石塚初造の三男として明治三十三年十月二日に生れた。大正六年佐渡農学校卒業、十年佐渡都農会より福岡県へ畜力利用研究に派遣された。十二年県より犂耕教師を委嘱され、十三年新穂村産牛組合を組織して組合長となり、昭和六年県畜産連より牛馬耕教師を委嘱された。八年全国馬匹博覧会の馬耕選手として出場し、入賞した。以来畜力利用教師して帝国農会の委嘱を受け、全国馬耕大会県選手指導員、馬匹組合役員として全国的に活躍した。
生家の庭に関係者によって建てられた碑がある。(草の根もとの指導者)

★石塚権平
『加茂村誌』(昭和38年)
いし石塚権平
和木の人。明治32年、梅津渋谷甚平、馬首本間太郎八等と但馬牛加茂村内に導入し飼育した。

★石塚聡子
佐渡高校時代の昭和58.5.29-31、陸上競技県高校総合体育大会(柏崎市)5種競技4位・砲丸投7位
58.6.17~19、陸上競技北信越大会(富山市)砲丸投・五種競技出場
59.6.2~4、陸上競技県高校総合体育大会(柏崎市)走幅跳5位・砲丸投4位
59.6.18~20、陸上競技北信越大会(金沢市)出場

★石塚三平
『宿根木村誌』(有田楽山著 s23年)
いし石塚三平 (1)
いし石塚三平 (2)
いし石塚三平

★石塚重雄
佐渡高校時代の40.6.11~13、陸上競技全国高校大会県予選会(柏崎市)上位に入賞 40.6.26-27、陸上競技全国高校大会北信越地区予選会(福井市)、200mHで入賞

★石塚重幸
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いし石塚重幸

★石塚秀策(いしづかしゅうさく)
【生没】一八五二ー一九一○ 嘉永五年四月十七日、上中興村(現金井町中興)の石塚与十郎(民也)とリツの長男として生まれ、幼名を克広といった。明治元年(一八六八)河原田に移った修教館に入り、その後相川に出て圓山溟北の学古塾で漢学を、上原直中に書法を習った。明治五年、眼科医であった祖父秀琢のあとを継ぐため南蒲原郡の竹山有穆に入門したが、病を得て帰郷した。明治八年、相川大工町の教員講習所へ入学、翌年卒業して中興小学校の教師になった。明治十三年、羽生郁次郎(のちの鵜飼郁次郎)・丸岡重五郎らと国会開設運動を起こし、同十五年には県会議員に当選して県道の改修や海底電線の架設などに努めた。明治十七年自由党に入党、同二十二年越佐同盟会(自由党系)の結成に参加して評議員にまでなったが、同二十四年越佐同盟会が分裂して議員を辞職、鵜飼郁次郎らと国権党を組織して入党した。しかし、政争に嫌気がさして明治二十五年頃に政界から引退し、家業に専念しながら国府川の改修や牧畜会社の設立、産業組合の結成などに貢献した。かたわら、「茶話会」を組織して歌の道に遊び、明治四十三年十二月三十日に没した。
【関連】佐渡自由党(さどじゆうとう)・鵜飼郁次郎(うがいいくじろう)・師範相川伝習所(しはんあいんかわでんしゅうしょ) 【参考文献】『金沢村誌稿本』、斉藤長三『佐渡政党史稿』 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
嘉永五年生 金井村中興 ・明2、第三回選挙[十六年三月]・明2、電線架設の建議[十七年五月]・明2、第四回の選挙[十八年六月]・明2、第五回選挙[十九年五月]・明2、第六回選挙[二十一年一月]・明2、後藤の大同団結[二十一年六月]・明2、越佐同盟會の創立[二十二年三月二十一日]・明2、越佐に於ける条約改正中止の建白[二十二年七月二十日]・明2、第七回選挙[二十三年三月] ・明2、第八回選挙[二十三年七月七日]・明3、星亨等の来越[二十四年五月十二日]・明3、鵜飼郁次郎の議会報告[二十四年六月十五日]・明3、越佐同盟会の去就[二十四年六月二十六日]・明3、鵜飼郁次郎等旧友と袂を断つ[二十四年十一月四日]・明3、第十四回通常縣会(國権派議員の辞職)[二十四年十一月二十四日]・明3、鵜飼の送別会[二十五年三月十九日]・明3、鵜飼の慰労会[二十五年八月二十日]・明3、第四回衆議院議員の選挙[二十七年九月一日]・明4、新潟に於ける鵜飼の仮葬[三十四年九月二十八日]・明4、鵜飼元代議士の追悼会[三十五年十月二十七日] 「佐渡関係事典に載る」『金井を創った百人』『佐渡中興史』
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より
い石塚秀策 (2)
い石塚秀策 (3)
い石塚秀策

「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)

数字は「孤島コンミューン論」掲載の page数 43・55
「孤島コンミューン論」(松本健一)

★石塚順一
「島の新聞」38号
38いし石塚順一 (1)
38いし石塚順一 (2)
「島の新聞」索引(人名別)

★石塚丈太郎
『新穂村史』(昭和51年)より
両津夷築地の鍛冶屋で名エといわれ、弟子に新穂の『金助かじ』(本間勇)等が居る。


★石塚次郎

「躍進日本」
いし石塚次郎「躍進日本」


★石塚甚吾

『続佐渡酒誌』(平成14年)
いし石塚甚吾 『佐渡酒誌』(平成14年)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
石田村 ・明2、佐渡新聞の計画[十七年四月]・明2、越佐同盟會の創立[二十二年三月二十一日]

★石塚甚太郎
明治44年3月29日死亡。二宮村かじ町甚五右衛門家の分家
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
石田村 ・明2、越佐同盟會の創立[二十二年三月二十一日]


★石塚スエ   

『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
河原田高女時代の昭和13年、第8回県下女子中等学校体育大会(柏崎グランド)で河原田高女が200mRで5位(石塚スエ、近藤絢子、山崎友子、真島佐智子)、
河原田高女時代の昭和13年、第8回県下女子中等学校体育大会(柏崎グランド)で河原田高女が200mRで5位(石塚スエ、近藤絢子、山崎友子、真島佐智子)、体力競技(ボール投、三回跳、300mRの三種目の合計点で採点し、順位を競う競技)で5位。
昭和14年、第9回県下女子中等学校体育大会400mRで河原田高女5位(近藤絢子、石塚スエ、本間マツ、小野トイ)
河原田高女時代の昭和16年、第11回女子中等学校体育大会(上越、中越、下越の三会場で開催)河原田高女(近藤絢子、引野シズェ、梶井千恵子、石塚スユ)400mR3位。


★石塚清太郎

『新潟県官民肖像録』(明治41年)
いし石塚清太郎 新潟県官民肖像録 明治41年
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
安政二年生 湊町 ・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]

★石塚千吉
「躍進日本」
いし石塚千吉「躍進日本」

★石塚惣助
旧金丸村(真野)村長、明治三一・五・二三~。

★石塚惣助
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
畑野村 ・昭4、山本悌二郎 薨去[十二年十二月十四日]

★石塚宗太郎
「葛西周禎と長谷川海太郎」(「徳和の口碑伝説その他(昭和45年 高木彦治 ))

★石塚大蔵 
二見の人。旅人宿・廻漕業・漁業とある。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★石塚多恵子
いし石塚多恵子050801 いし石塚多恵子050613 いし石塚多恵子050427  いし石塚多恵子050307 いし石塚多恵子 いし石塚多恵子 いし石塚多恵子 いし石塚多恵子 (2) いし石塚多恵子 (3) いし石塚多恵子

★石塚猛
「島の新聞」索引(人名別)

★石塚武彦
佐渡中学水泳部発足当時の選手で、昭和22年の金沢国体で活躍する。また、昭和23年8月の第一回北日本新制高等学校選手権大会では佐渡高校が優勝した。佐渡中学最初の国体選手。尚、初代監督は現役時代に県チャンピオンだった本間竹志氏。

★石塚玉吉
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
いし石塚玉吉 新潟県官民肖像録 明治41年
★石塚哲雄
 ➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 2僕の佐渡観光

★石塚照(てらし 卓堂)
※照の令孫間島具代(旧姓高松、新穂武井)より(「佐渡郷土文化」108号):読み方は「てらす」、照の家は現在の新穂中敷地内にあった。
『新穂村史』(s51年)
いし石塚卓堂 新穂村史 s51年
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
い石塚照(てらし)
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
いし石塚照(卓堂)
いし石塚照(卓堂) (2)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡中学校教諭。佐渡新穂村瓜生屋の人で卓堂と号した。塚本倹斎に漢文を、堀口松庵に書を学んだ。上京して芳野金陵の門渡東隅について研修した。明治三十年県立佐渡中学校教諭となり、四十三年に四十五才でなくなった。(佐渡人名辞書)
「佐渡高等学校百年史」より
慶応二年新穂村瓜生屋に生まれ、明治八年から十三年まで、佐渡三筆の一人、相川町の堀口松庵に書を学び、照庵と号した。明治十三年、上京して神田佐久間町の渡政奥に漢学を学び、その年のうちに帰郷して、円山溟北に師事して漢学を修めた。また、湊の儒者塚本倹斎にも学んでいる。明治十九年に新穂小学校訓導になるが、二十年に再上京して渡門下で修学した。帰郷後、明治二十三年に梅津小学校、二十余年に栗野江小学校、二十五年に大野小学校の訓導になった。学校で教えるかたわら、各地の青年会で孟子の講義などをして回った。佐渡青年協会の会長をしたこともある。授業は頼山陽の『日本外史』や『史記』『資治通鑑』『文選』などの東洋史の書物を用いて行った。『日本外史』に傾倒していたので「日本外史先生」と呼ばれたり、丸々と太つたからだに黒羽織に袴を着けていたので「西郷様」とか「布袋様」などと呼ばれていた。明朗な性格で、酒を好み、休み時間にはよく小使室で酒を飲み、そのまま授業に臨んだ。明治四十三年四月、下校途中に脳卒中で死去した。
青野季吉 『一つの石』
漢文の石塚照老先生はまた、自身で教科書を巧妙な口調で読まれるだけで、生徒は、ただそれを感心して聴いてをればよかった。この先生も漢学者としては、相当の人であったらしいが、私塾と学校との区別をはっきり認識されなかったやうだ。
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の書家は、潟上の稲葉事、牛尾神社宮司土屋一丸(号は賢継)、瓜生産の石塚照(号卓堂)、潟上の後藤与作(壷中庵)、大野の小杉猪吉(号は悟東)等があり現存では潟上の佐山大業を師に土屋甚平(号桂石)、本多正吉(号彰雲)、渡辺健三郎(号竹翠)、河原治一(号思秋)、本間忠雄(号越堂)、雑賀栄助(号雨石)等があり、子弟を集めて教えているものもある。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)石塚照
 107 草創期の佐渡中学教師-石塚照の俤- 倉田藤五郎 108 北一輝を教えた石塚照のこと 山本修巳
数字は「孤島コンミューン論」掲載の page数 141
「孤島コンミューン論」(松本健一)
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p370

★石塚東平 
明治33年2月27日死亡。二宮村かじ町の旧家甚五右衛門家当主。酒造業明治期、かじ町に九軒の分家あり。

★石塚徳松保高 
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。小木町宿根木清九郎、当時独立して鍛冶業を行なっていたが現在は農業。

★石塚豊吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いし石塚豊吉

★石塚直吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
い石塚直吉

★石塚二太郎
『加茂村誌』(昭和38年)
いし石塚二太郎

★石塚暱孝(いしづかに(orじ)っこう)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、縣会議員の補欠選挙[五年七月五日]・昭3、第二十二回新潟縣会議員選挙[十年九月二十五日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
いし石塚暱孝(いしづかに(orじ)っこう)

★石塚初太郎 
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。西方片志田惣四郎。慶応元年五月五日生、大正九年二月十日没。

★石塚彦兵衛
『小木町史』より
越後府中にとって宿根木はどんを役割を果していたのでしょうか。そこですぐ気がつくことは、宿根木には石塚、高津という越後頚城地方の名族が居住している事実です。天明三年(一七八三)の年号の入る『古事伝聞記』には、称光寺の往古の寺地は、「惣兵衛諏訪の前の畑通りに七堂伽藍」があって、そこに諏訪の明神さまがあったとしています。この惣兵衛は、宿根木称光寺の過去帳に高津惣兵衛と載っていて、高津氏であることがわかります。寺の土地を管理する老が高津氏であるということは、高津氏が昔から称光寺と浅からぬ関係にあったことを物語るものでしょう。次に、宿根木の大家は石塚彦兵衛であるといわれています。村の大家がわかる場所というのは、中世のころに村が一つの族(名)によって形づくられていたことを物語るものです。国仲の村むらのように、いくつかの名によって村ができる場合には、村の大家というものがありません。石塚彦兵衛やその一族の持っている地所を調べてみますと、宿根木村の海岸に多いことがわかります。いまの宿根木の入江のところには石塚一族が住んでいて、優勢を誇っていたのでしょう。そう考えてくると、この宿根木という場所は、越後からの渡船場ではなかったかと考えられるのです。村の草分けといわれる旧家の人たちは、江戸時代に入っても名主をどの村役人を勤めた者が多くいました。こうした人びとは、戦国時代にはその地を支配した殿さまに仕えた地侍でした。これらの人たちの中には、江戸時代にも姓を名乗ったり、その名残を留めている者がいます。戦国時代末、天正年間に宿根木の彦兵衛が羽茂の殿さまの港代官をいいつけられている記録があります。慶長のころの中使与四郎も石塚氏と思われますし、寛永のころの中使は彦兵衛です。高津氏は、頚城の高津から釆てそれを姓としたのでしょう。

★石塚尚
金井出身、工学博士。佐渡中学11回生、久原鉱業。佐渡中学時代に教師嶺直貴に感化され洗礼を受ける。
「佐渡高等学校百年史」より
明治四十四年佐渡中学卒(11回生)、日本金属学の碩学。石塚は金井町中興の出身で、二高から東京帝大へと進み、生涯を日本金属学発展のために捧げた。それというのも、曾祖父の秀琢が佐渡奉行所の医師であったことから、石塚は少年時代より佐渡金山に一種の憧れと好奇心を抱いて育ったからだといわれている。東京帝大工学部冶金学科を卒業後、久原鉱業日立電錬工場に就職し、以来金属精製技術の研究に没頭したのである。昭和十九年「高純度白金線並に白金ロヂウム合金線の製造法」で学位を取り、さらにその後、摂氏一〇〇〇度以上の高温測定の標準計器である熱電対線製作法開発に打ち込んでこれも成功した。また粗銅急速電解法開発とその工業化に大きな功績を残した。
「躍進日本」
いし石塚尚「躍進日本」
→嶺直貫(「佐渡高等学校百年史」-嶺直貫の〝日の丸事件″と柏倉校長の休職-)
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p371

★石塚英夫
いし石塚英夫
2010年9月12日 石塚英夫氏顕彰碑建立
いし石塚英夫 いし石塚英夫
いし石塚英夫 (1) いし石塚英夫 (3) 
いし石塚英夫 (2) いし石塚英夫 (4) いし石塚英夫 (5)
(新潟日報2009年11月12日)
-昭和6年生、平成21年(2009年)11月11日没。新潟県佐渡郡赤泊村(現在の佐渡市)の元村長。 佐渡市町村会長、新潟県治水防砂協会長、佐渡大会組織委員会会長(トライアスロン世界選手権大会の開催機関) 1972年9月25日から2004年2月29日 - 赤泊村長を務める。2009年11月11日、事故により、亡くなる。
(受賞歴)トライアスロン佐渡大会組織委員会会長として、新潟日報文化賞 - 1998年
※野沢卯一と石塚英夫
英夫の父は一作、祖父は稲次郎。稲次郎の弟卯一は野沢家に入り野沢卯一となった。従って、石塚英夫の父一作の叔父が野沢卯一である。
『明治・大正・昭和を生きた男』(令和1年7月 野澤正幸)
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諸情報

★石塚英樹
佐渡高校時代の平成3.6.1-3、バドミントン県高校結合体育大会(男子上越市 女子村上市)男子シングルスベスト8、石塚・相田組男子ダブルスベスト8

★石塚ヒロ子
佐渡高校時代の昭和38、全国学校書道連盟主催全日本学生競書大会、推薦 

★石塚博通
佐渡高校時代の昭和43.6.8~10、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)槍投2位

★石塚浩之
わた渡辺有恒

★石塚碧郎
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)

★石塚孫四郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
徳和村 ・明2、第三回選挙[十六年三月]・明2、第四回の選挙[十八年六月]・明2、第六回選挙[二十一年一月]
『明治・大正・昭和を生きた男』(令和1年7月 野澤正幸)
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★石塚正子
「島の新聞」索引(人名別)

★石塚勝
佐渡高校昭和33年卒。ジャーナリスト。
「島の新聞」索引(人名別)

★石塚三四吉
「故里つばき」
いし石塚三四吉 故里つばき
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
白瀬、政党史には石塚三代吉と誤記 ・明3、在京学徒鵜飼を訪問す[二十五年一月二十三日]

★石塚茂三郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
いし石塚茂三郎

★石塚輿次右衛門
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
金沢 ・昭1、佐渡革政党の創立[二年十二月四日] 『金井を創った百人』
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より
い石塚與次右衛門 い石塚與次右衛門 (3) い石塚與次右衛門 (2)
いし石塚與治右エ門 中興公民館 (1) いし石塚與治右エ門 中興公民館 (2) いし石塚與治右エ門 中興公民館 (3)

★石塚芳太郎
旧真野村村長、明治二七年・六・二より。

★石塚芳太郎
いし石塚芳太郎

★石塚由成
いし石塚由成 いし石塚由成1 いし石塚由成 (2)
昭和24年,、新潟県佐渡佐和田町河原田本町生まれ(父、春海)。47年東京大学経済学部卒業、住友金属工業入社。取締役専務執行役員を経て 、平成22年SUMCO取締役副社長(代表取締役) 。現在(平成29年1月)は西日本高速道路代表取締役社長。
諸情報

★石塚善晴
「島の新聞」索引(人名別)

★石塚ヨネ
「エスライフ」2007年3・4月号
いし石塚ヨネ エスライフ2007年3・4月号 (2) いし石塚ヨネ エスライフ2007年3・4月号 (1)

★石塚林次郎
「佐渡ジャーナル」関係記事:「65号」(令和3年4月)・資源減少の天然「イワガキ」を養殖で復活 ※石塚林次郎・瀬浪勝海

★石月清江
佐渡高校時代の昭和43.10.5~6 、陸上競技県高校新人大会(新潟市) 走高跳入賞

★石野源栄
佐渡における電灯事業の先駆者。
詳しくは下記。(「佐渡の電気」-佐渡電友会-平成7年発行)
(1)佐渡水力電気株式会社(明治43年~昭和15年)
石野源栄氏は初め新穂村潟上栄法寺の住職であつたが、晩年に至り還俗して両津町に居住していた。上京し電気の便利さに感心し、しかも水力で電灯がつくことに異常な関心を覚え、早速帰郷してこの事実を島民に知らせ、かつ実際に発電し電灯を点灯してみたいと考えた。そこで帰郷するとすぐに当時の両津町の財産家として知られた土屋六石衛門氏、金沢村本屋の素封家伊藤円蔵氏ほか数人と協議して「佐渡水力電気株式会社」を設立し、加茂村梅津種山地内において梅津川の水利を使用して発電し、両津町一円に電灯電力を供給、あわせて機械器具の貸付け・販売も行うということを決議した。こうして上記の人々は佐渡水力電気株式会社発起人となり、ただちに梅津川の水利使用許可を逓信大臣に出願した。明治43年5月のことである。そしてこの水利使用許可願いは同年12月に認可され、早速に電気事業取締規則第13条による梅津川電気経営工事施行認可申請書を作成提出した。明治44年7月に工事施行ガ許可されるや、新潟市の工事請負業篠崎五郎氏に発電工事を依頼、工事に着手した。大正2年2月、年来の宿願は達成され、出力32KWの梅津発電所ガ竣工し、送電を開始することになつた。この時の両津町民の驚きと喜びは言うに及ばず、近隣の町村の人々までが、わざわざわらじガけで見物に来るという、上を下への大さわぎであつたという。
このようにして佐渡水力電気株式会社(総資本金4万円)は事務所を両津町大字夷川方242番地に設置し、一般の需要に応じて電灯電力を供給し、あわせて機械器具の貸し付け・販売もするという営業を開始することになつた。初代社長は石野源栄氏で、当時の従業員は事務員4名、発電所勤務員4名(内主任技術者1名)、電工4名の計12名が雇傭されていた。電灯の供給範囲は両津町一円であり、当初の送電は昼間は行わず、日暮れから翌朝までのいわゆる終夜灯のみの供給であつたが、のち電力の需要も次第に増してきたので昼間も送電するようになつた。この頃の需要電灯は593戸・1,724灯、燭光数はほとんど10燭光で、各戸1灯平均であり、2灯以上点灯するという家庭はごく少数であつた(需要電力なし)。料金は、定額灯10燭光(約15W)1カ月1□につき52銭であつた。会社は滑り出し以来順調な営業を続けたガ、予期しない一大事が起きた。それは夏の渇水期の到来によつて、従来の豊水期のように満足な電圧で送電することガできず、低電圧送電、いわゆる「ナンバン電灯」(フィラメントだけがどうにか赤く色付いている暗い電球のこと)の憂目をみる破局におちいったのである。このことに対して町民が非難の声を上げ、ついに会社の不誠意を糾弾するための両津町民大会開催にまで発展した。そこで、会社は世論に応えるべく、大正8年8月落差を変更して出力38KWを計画して許可を得、大正11年9月にこれを完成した。

梅津発電所
発電所位置……加茂村大字梅津字種山
竣   工……大正11年9月
有効落差……62.2m
認可出力‥…・最大38KW 常時38KW
発電機容量…‥・42KVA(キロボルトアンペア)
 (昭和28年11月30日廃止)

この会社は初め梅津発電所を開発して両津町に送電するに当たり、地元梅津部落経由両津町に至る配電線架線計画に同意すれば各戸1灯すつ献灯する旨を村民に申し入れ、協力を依頼した。ところが、何分にも電気知識に乏しい当時の部落民にとつては容易にこれに同意するはずもなく、電気を危険視し、また灌漑用水の不足を告げて反対し、しかも発電所建設自体にも猛烈な反対運動を展開するという事態もあり、逓信大臣の口入れによつてようやく和解、また、線路を梅津部落を経由せず、同部落の田圃を横断して両津町に導くことによつて発電所建設が可能になつたといういきさつがあつた。その後次第に電灯需要数ガ増加するにしたがい、これに対応する供給対策ガ必要となつてきた。折しも重油の入手が容易である事を耳にした同社は、早速加茂村大字加茂歌代字外城322番地に加茂発電所を建設、ディーゼル機関による火力発電を行い、水力の不備を補おうと計画した。昭和2年5月のことであつた。そして、この計画は同年12月に許可され、ただちに工事に着手、昭和4年5月に完成した。ところがこの発電所は加茂湖畔に建設されていたため、降雨の度に浸水の憂目にあい、またこの付近の水は冷却水としてものぞましくないので、のち昭和17年7月佐渡電灯株式会社の手によつて両津町大事加茂歌代字石橋に移転されることになつた。
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・大正10年、佐渡人で初めて、東京で「佐渡おけさ」名称を使って唄った石野琢磨は源栄の息子である。
・明治16年現在は潟上栄法寺住職で潟上太子堂も管理していた。


★石野琢磨

大正10年第2回日本民謡大会に唄い手として三味線の富樫栄吉と共に出演、この時に初めて「佐渡おけさ」という名称が使われた。「佐渡おけさとはんや節」(平野零兒)に「佐渡の電燈会社の石野といふ人達が、神田の青年館で都会進出を試みたのが始まりである」とある。父源栄は天保11年生、潟上栄法寺住職の後還俗して両津夷に住み佐渡水力電気会社創業。石野家の本家と思われる山田集落の石野栄一さん(大正4年生)の父駒蔵さん(明治35 年生)の従兄弟(昭和3 年生の女性)が両津に住み次の証言。「小学校に入る前に石野と言う当時の有名な民謡の歌い手がいた。昔の映画館の前でリンゴ箱の上で民謡を唄っていた」。父が佐渡の電力事業の父石野源栄であり、琢磨も父の電力会社に勤務した。

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
両津町 ・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]
「島の新聞」
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★石野広通(いしのひろみち)
【生没】生・没年不詳
天明元年(一七八一)から同六年までの佐渡奉行。通称平蔵、号を通翁・花月堂・大沢という。石野は江戸後期の高名な国学者であり、歴代佐渡奉行のなかでも、川路聖謨と並んで学問的業績がある。和歌を冷泉為
村に、故実を伊勢貞臣に学び、内藤正範・横瀬貞臣とともに、近世武家の三歌人と称せられた。著書も多く、『佐渡事略』『佐渡日記』『うきくさ』『絵そらごと』『仮名文字遣』『閑斎随筆』『源語演説抄』『憲法部類編』『礼
典類纂編』等がある。奉行在任中のこととしては、少壮より江戸・京都に遊学し、出群の風評のあった湊町医師藤沢子山を陣屋出入医師並に遇して、毎月十・二十・晦日の三回、駕篭で相川に招き論語を講義させ、地
役人を教育した。在任中天明大飢饉に遭遇し、相川市中の治安強化のため、従来四七か所あった木戸を、七三か所に増加したり、夜番(自身番)を強化するなどした。特に天明四年は、相川の御蔵詰米が不足し、諸
役人の扶持米支給を止め、銭で支給したほどで、夫食になる品の他国出しを禁止し、島内の食料確保に努めた。また、同年羽田町覚左衛門が、越後で入手した米一九○石を、相川町の小前の者に、延払いで配給す
るなど善政を行った。

【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集七) 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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「朝日日本歴史人物事典」の解説
生年: 享保3.5.9 (1718.6.7) 没年: 寛政12.5.21 (1800.7.12) 江戸中期の歌人。本姓中原。通称平蔵。大沢,蹄渓と号した。父は幕臣で大番役を勤めた広包。御納戸番,御膳奉行,御納戸頭,佐渡奉行,御普請奉行を経
て西城御留守居に至る。幕臣として任務に篤実に対した。佐渡奉行としてまとめた佐渡の地誌『佐渡事略』や,御普請奉行として江戸の上水道を調査した折の報告書『上水記』などに,その姿勢をうかがうことができる。
公務のかたわら,和歌を武者小路公野,高松重季,冷泉為村,冷泉為泰に学ぶ。特に為村 為泰2代の指導を仰いで,宝暦(1751~64)ごろには江戸冷泉門人の主要メンバーとなった。明和年間(1764~72)には江戸の武家
歌人六歌仙のひとりに数えられる。

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
国学者 佐渡奉行。享保三年(一七一八年)に江戸で生まれた。
名は広道、平蔵は通称、花月堂、通翁と号した。幕府の旗本で三百石であった。和歌を冷泉為村に、古実を伊勢貞文に学び、内藤正範、横瀬貞臣と共に近世武家の三家人といわれた。
御膳奉行、御納戸頭を経て、天明元年(一七八一年)四月十五日に佐渡奉行となった。
佐渡事略を編した。天明六年十二月十五日に普請奉行に転役し、従五位下遠江守となった。
佐渡奉行は役料千五百俵百人扶持である。寛政十二年(一八〇〇年)に八十三才でなくなり、江戸牛込万昌寺に葬った。
「沢蘆集」「兼好家集曙雲抄」「重陽日記」等の著書がある。(国学者伝記集成、佐島遺事)
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