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2020-12-27

★安宿王(あすかべのおう)
【生没】生・没年不詳 八世紀(天平から宝亀年代を含む)の皇族で、第三人目の佐渡流人である。『続日本紀』巻二○、孝謙天皇の天平宝字元年(七五七)七月の条によると、橘奈良麻呂が企てた政府転覆事件の巻き添えをうけて、佐渡流罪となったとある。この奈良麻呂らの陰謀では、安宿王は孝謙天皇に代わる次の天皇として、有力候補に挙げられてはいたが、主謀者ではなかった。しかし弟の黄文王は奈良麻呂に加担したかどで、道祖王や大伴古麻呂・多治比犢養・小野東人・賀茂角足と共に、拷問をうけ獄死した。事件の二八年前に、安宿王の父・長屋王は、天皇の命によって妻子とともに縊死した。このとき安宿王は、母が藤原不比等の娘長峨であったがゆえに死罪を免れた。長屋王の罪は、藤原氏の勢力をおさえる皇族勢として、皇位継承の筆頭にあったことによる。つまり安宿王は、皇位にかかわる二つの事件に関係して、二度とも死を避けることになったのである。
安宿王は天武天皇の曾孫にあたり、長屋王の第五子である。玄蕃頭・治部卿・中務大輔・播磨守などを歴任し、唐僧鑑真を迎える勅使をつとめた。佐渡から帰都ののち、宝亀四年(七七三)十月に高階真人の姓を賜わった。佐渡流刑中の、正確な記録や伝承は何も残されていない。
【参考文献】『続日本紀』、『三代実録』、『万葉集』、中川収『奈良朝政争史』(教育社) 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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『佐渡流人史』(郷土出版社)より
播磨守兼内匠頭正四位下 天平元年(七五七)佐渡に配流。
橘奈良麻呂に党し、謀反の罪という。妻子ともに佐渡へ。一七年後の宝亀四年(七七三)大赦帰京。(『続日本紀』)
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「ウィキペディア」より
安宿王(あすかべおう/あすかべのおおきみ、生没年不詳)は、奈良時代の貴族。天武天皇の後裔で、左大臣・長屋王の五男。もと皇族であったが臣籍降下、氏姓は高階真人。官位は正四位下・内匠頭。
・経歴
天平元年(729年)の長屋王の変により父・長屋王は妻子とともに自殺したが、母が藤原不比等の娘(藤原長娥子)であったことから安宿王は同母弟の黄文王・山背王とともに罪を免れた。天平9年(737年)に従五位下に初叙され、同年10月に従四位下に越階昇叙。翌天平10年(738年)玄蕃頭、天平18年(746年)治部卿、天平勝宝元年(749年)中務大輔、天平勝宝6年(754年)内匠頭と京師の諸官を歴任する一方、播磨守・讃岐守と地方官も歴任した。この間、天平12年(740年)従四位上、天平勝宝3年(751年)正四位下に昇叙。また、天平勝宝6年(754年)には唐の僧鑑真を迎えるための勅使に任じられている。天平宝字元年(757年)に橘奈良麻呂の乱が発生した際に関与を疑われ、このとき安宿王は「黄文王の仲介で謀議に加わったが、事情を知らず欺かれた」旨の証言をするも嫌疑は晴れず、妻子とともにし佐渡に流罪となる。その後許され、宝亀4年(773年)高階真人姓を賜与された。
『万葉集』に歌が2首収録され、特に4452の歌は、宮城道雄作曲「秋の庭」(1936年(昭和11年))の歌詞として採用されている。
印南野の赤ら柏は時はあれど君を我が思ふ時はさねなし(万葉集20-4301) 官女らが玉裳裾曳くこの庭に秋風吹きて花は散りつつ(万葉集20-4452)
・系譜: 父:長屋王
母:藤原長娥子(藤原不比等の娘)
妻:不詳 男子:高階浄階(?-834)
・関連項目:高階氏
たまゆらの記:宝塚歌劇団のミュージカル作品で、安宿王を主人公とする悲恋物語。

★梓林太郎
あず梓林太郎

★安曇継成 
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
正六位上 延暦一一(七九二)佐渡に配流。神前奉仕の前後を争い、詔旨に従わず佐渡へ流す。(『類聚国史』)

★畔上輝井
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)畔上輝井 60 二人の思い出 畦上輝井さん 山本修之助

★阿曽義明
あ阿曽義明 さと佐藤利夫
畑野町、医師、平成26年12月~翌年1月歿、89歳。2013年11月、「離島振興60周年記念功労者表彰」を受賞。
父が義則氏。

★阿曽義則
左:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社) 右:『佐渡名艦』(高屋次郎 昭和13年刊)
あそ阿曾義則 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
あそ阿曽義則
あそ阿曽義則 (2)
(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
医師。兵庫県で生まれ、大正五年に東京帝国大学医科大学を卒業、束京、北海道で各会社の付属病院に勤務した。大正十三年に佐渡郡畑野村の畑野療院に招かれたが間もなく同療院が経営不振におちいったため、そのあとを引きつぎ阿曽医院として開院、以来四十数年間農山漁村のへき地の開業医師として住民の健康を守ってきた。昭和四十五年四月二十九日、八十才の時、保健衛生の功労により勲五等双光旭日章を受けた。(昭和四五・四・二九・新潟日報)
阿曽義明はその子。
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より 
大正五年三月、畑野梅ノ木に株式組織の畑野療院が設立された。この定款にょって帝大出身以上を傭聘することになり、東京帝国大学出身の阿曾義則が招かれ、レンノトゲンが設備された。以来同氏は村に定着し、医業の他に青年会など社会活動にも貢献した。大正十四年から学校医を委嘱された。

★麻生直子
「佐渡ジャーナル」関係記事:「43号」(平成27年10月)・旅先の島とシマ7 奥尻と佐渡に絆あり(長嶋俊介)※麻生直子(詩人)

★安達いくや
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
日本画家、俳人。明治二十六年に佐渡郡真野町滝脇で生まれた。本名は多作、雅号は生也、俳号いくやである。京都の西村五雲に入門し、その死後、土田麦僊の勧めで菊池契月に師事した。大阪毎日新聞主催の日本画展に「早春」が一等質となった。小樽にいる姉の病気を聞き、北海道に渡り、姉の生活を助けた。その後、朝鮮から満州まで放浪し小樽に帰った。雑誌ホトトギスに「襟裳岬見えてほのかや月今宵」を投稿したことがあり、北海道タイムス社主催の全北海道俳句大会に「民族に興亡はあり炉火しづか」の句が一等となった。昭和十三年暮、佐渡の生家に帰った。晩年は雲母(飯田蛇笏主宰)から鶴(石田波郷主宰)に移り「未完の絵焼酎舐むる怠け画家」「春風埠頭の雀吹き飛ばす」などの句を残した。昭和三十六年九月二日、六十八才でなくなった。(佐渡の百年)
『未完の繪』(句集 俳句545句 昭和50年 池田屋書店)「伏して踏み仰ぎては打つ鬼太鼓」「母見る目やさし柿持つ痳(せんき)の子」本名多作。佐渡郡真野町滝脇の農家に生まれる。昭和12年北海道タイムスの全北海道俳句大会で「民族の興亡はあり炉しづか」で大会賞。画は菊地契月に師事。大阪毎日新聞社主催日本画展で「早春」が一等入賞。真野町俳句会を指導、昭和29年「馬酔木」の山本修之助、「辛夷」の平井影逸、「芹」の斎藤葵十らと佐渡俳句作家連盟を結成して活動した。明治25~昭和36。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)安達いくや 129 「俳人・画家安達いくやの世界」展 -佐渡博物館 新春特別展(1.1~2.29) 山本修巳
「島の新聞」索引(人名別)

「埋れた芸術家」(「佐渡の百年」)

★足立勇
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)より
「真野村志」にみえる臼杵恕庵・同昌庵・足立勇はすべて豊田岩野の「なかの」家の人である。漢方医で、足立勇は盲人だったというがいつ頃からそうなったのかはわからない。同一の家系で姓が違うのはふしぎにみえるが、足立兵庫守以来の足立姓がいつか臼杵姓にかわり、明治のはじめ、本来の足立姓にかえったのである。「佐渡百話」には恕庵と昌庵についておもしろい話が載っている。『公民館の豊田分館附近に、江戸時代の「浦目付役所」があった。文政のころ、ここの役人だった清水季左衛門のところへ夜になると老婆姿の妖怪が現われた。ある日季左衛門と親しくしていた白杵恕庵が来て、顔色の悪い理由を聞いた。はじめ隠していたがとうとう妖怪の話をしたら、恕庵は「庭下駄の左の方を仰向けにしておけ」と教えた。それ以後妖怪は全く姿を見せなくなったという。』昌庵についてはこんな話がある。『昌庵は当時質屋も兼ねていたが、ある年の末、相川の春駒から頬の曲がった春駒がいて、駒の面を質草にとったことがあった。新町の下町の山本半五郎家に滑椿な、そして狂歌を作っては人を笑わせる老人がいて、それを聞いて一首の狂歌を作った。
 いしゃはまあ頬のまがった面をとり さりとは智恵の白木松庵』
「いしゃ」は佐渡の方言では「お前」の意、それに「医者」をかけたものである。また「智恵の臼木」は「智恵のうすい」にかけたのである。昌庵と松庵、どちらが正しいかはわからない。恕庵は文久三年、昌庵は明治八年に死んだ。その子勇は二八年没。お墓に「貞隆」とあるのは、医者としての名前であろう。
あだ足立勇

★足立高行
あだ足立高行 (1) あだ足立高行 (2)
工学部出身→広告業界でディレクター→環境会社に勤務→応用生態研設立。専門は動物生態、環境教育、環境保全など
「伝統文化と社会福祉の専門学校」(自然環境保全学科講師)

★安達忠雄
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
真野能楽会は「笛畝会」と「清諷会」とが合流して生まれたが、その頃誕生早々で、今は真野能楽会に所属しているものに「宝清会」がある。この会は昭和四九年、町役場勤務の若い者を中心に五、六名が山本清左衛門に習ったことから始まり、今は二〇名近い。会長は羽生茂・内田喜久男・渡辺ヤス・安達忠雄と続き、現在は再び羽生茂である。師匠は山本の没後、その高弟である小泊の浜岡直一にかわった。

★安達鉄理(てつり)
あだ安達鉄理 (1) あだ安達鉄理 (2)

★安達智子
佐渡高校時代の昭和38、全国学校書道連盟主催全日本学生競書大会、特選、昭和38、全国学生選書会展団体賞受賞、特選、昭和39,1、日本書道美術院主催全国競書大会団体奨励賞受賞、文化院賞

★安達久
→山本清左衛門「清諷会」参照

★安達文平(旧姓佐々木)
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
あだ安達文平 佐渡郡肖像録 大正15
明治四十五年三月佐渡中学卒(第十二回生)、、金沢医専卒。

★安達本識
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
あ安達本識

★安達益蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
あだ安達益蔵 佐渡郡肖像録 大正15年
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
あだ安達益蔵
あだ安達益蔵 (2)

★安達ミス   
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
佐渡高女時代の昭和3年、第6回県下女子中等学校陸上競技大会(新潟高等女学校グランド)で走幅跳2位(4mO4)

★安達茂吉
『続佐渡酒誌』(平成14年)
あだ安達茂吉 『佐渡酒誌』(平成14年)

★足立儀國
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
郡長 ・大1、佐渡郡会に於ける商舩問題[六年十二月]・大1、相川町立女学校の郡立決議[六年十二月]・大2、佐渡経営會の創立[八年七月十五日]

★安達義任(よしとう)
草創期の佐渡中学教師。
→嶺直貫(「佐渡高等学校百年史」-嶺直貫の〝日の丸事件″と柏倉校長の休職-)

★安達(足立)義任(よしとう)
(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
佐渡の地頭で兵庫といった。渋手に住み、渋手、滝脇、背合等を領有し、百六十≡石でぁった。(佐渡大観)
「戦国佐渡国人名辞典」より
吉岡秀躰家臣。羽茂郡渋手城主。官途は兵庫。別名阿部兵庫。渋手城(渋手、滝脇、背合)200石余りを領した。1589年、「渋手城の戦い」で直江兼続勢の攻撃を受け落城した。

★安達若松
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
あん安達若松 新潟県官民肖像録 明治41年
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
安政六年生 八幡村 ・大1、青木永太郎等同志会を脱党す[四年九月]・大1、第七回佐渡郡会議員選挙[四年九月三十日]・大1、第十三回衆議院議員選挙[六年四月二十日]・大1、相川町立女学校の郡立決議[六年十二月]・大2、佐渡郡会[七年十二月]・大2、第十八回新潟縣会議員選挙[八年九月二十五日]

★新貞老(あたらしさだおい 新五郎)
【生没】一八二七ー九九 文政十年九月十八日、因幡国高草郡松上村の衣笠家に生まれ、初め田中姓を名乗ったが、後に鳥取藩士新庄氏を継いで恒蔵と称し、明治になって新五郎と改名、老年になって貞老と名乗った。国学と和歌を学び、のち医学を修業した。文久二年(一八六二)国事周旋方として京都に上り、尊攘派として同三年八月に本圀寺事件に加わって追われると身となり、大坂で長州藩に加担していて捕えられた。慶応三年(一八六七)出獄し、木戸孝允に認められて新政府に出仕、明治二年九月二十日佐渡県権知事に任じられて来島、漸進的で着実な政治を行なった。まず県庁を相川へ戻し、翌三年二月には、廃合寺院五五か寺の再興を認めた。明治二年に佐渡鉱山が官営となって改革が進められると、それを支援して二割安米を復活、近代化によって失業者が大量に出ると製陶・製紙・機織・牧畜・養蚕など産業を振興、富者から献金を募って救助役所を設置、来島した外国人技術者の保護などに努めた。旧地役人には、手当金と開墾地の支給を条件に帰農を勧め、ほぼ実現している。明治四年十一月、佐渡県が相川県に改称されて相川県権令となったが、同年十二月に免ぜられて佐渡を去った。晩年因幡国一の宮宇部神社の宮司となり、明治三十二年三月没した。
【関連】佐渡県(さどけん)・奥平謙輔(おくだいらけんすけ) 【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、『明治維新人名辞典』(吉川弘文館)、森納『大因伯』 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説
1827-1899 江戸後期-明治時代の国学者。
文政10年9月18日生まれ。因幡(いなば)鳥取藩士。飯田秀雄,加納諸平にまなぶ。文久3年尊攘(そんじょう)派として京都本圀(ほんこく)寺で二十士事件にかかわり,入獄。維新後,佐渡県権(ごんの)知事,宇倍神社宮司をつとめた。明治32年3月9日死去。73歳。本姓は衣笠。通称は五郎,田中良達,新庄恒蔵。号は真木園。著作に「万葉集摘英新釈」「催馬楽解」など。

(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
明治二年九月二十日に佐渡県権知事となり、四年三月三十日に相川県権知事となった。
八月七日退任した。(新潟県政党史)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
貞老 ・明1、佐渡縣の再置[二年七月] 「佐渡関係事典に載る」

「洋学校と英字鋳造」(「佐渡の百年」)


★渥美清

1967年の映画『父子草』で、相川二見出身の「帰って来た英霊」役を演じ、独特のこぶしを効かせた「相川音頭」を唄う。
あつ渥美清
寅さんシリーズ『旅と女と寅二郎』(昭和58年8月 31作)
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★阿桐

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
あと <br>阿桐


★アドルフ・ルー

「鉱山に来た異人」(「佐渡の百年」)


★穴沢忠次

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
北蒲原郡水原町の庄屋。文政十一年(一八四〇年)佐渡金鉱山御仕入方へ御奉公のため上ケ切二百両出金を願い出た。佐渡奉行は勘定奉行を経て水野出羽守の許可を得た。この時、同村の真島権兵衛、近藤甚助がそれぞれ七百五十両、芋川才次郎八百両、岩船郡下関村庄屋渡辺三左衛門が五首両、計三千両の出金である。(佐渡年代記中巻)

★アーネスト・サトウ
パークス(Harry Smith Parkes 英国全権特派大使 )の秘書官として慶応3年(1867)8月5日両津港に上陸し、周辺を巡検する。休憩は夷山形屋甚右衛門方、その後潟船三隻で加茂湖を検分し、更に籠に乗って湖岸の状況を見聞して回った。
但し、サトウの著書「A DIPLOMAT IN JAPAN」(1921年)によると、パークスは上陸せずサトウに全て代理させたように書かれている。一方、パークスを迎えた名主土屋正容の記録を元に、若林甫舟は「パークスは上陸し、視察し、宿泊もした」と記す。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/11/02 10:08 UTC 版)
サー・アーネスト・メイソン・サトウ(英語: Sir Ernest Mason Satow、枢密顧問官、GCMG、1843年6月30日 - 1929年8月26日)は、イギリスの外交官。イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、イギリスにおける日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤 愛之助(または薩道愛之助)。日本滞在は1862年から1883年(一時帰国を含む)と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると、計25年間になる。息子は植物学者の武田久吉。
「ウィキペディア」より 
「明治の夜明け」(「佐渡の百年」)
「両津港の歴史」 (『両津町史』(昭和44年)より)
「島の新聞」(両津港物語)

★阿野呑牛(功)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
あの阿野呑牛

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
日本画家。明治三十三年五月二十五日に佐渡郡佐和田町沢根で生まれた。佐渡中学校在学中、両親の反対を押し切って上京、荒木十畝の門に入り後に葛谷竜岬に学んだ。呑牛の絵は繊細で華麗であった。戦時中佐渡に疎開していたが、後に白根市へ移った。昭和二十一年十二月二十六日に四十七歳でなくなった。(佐渡の百年)
「埋れた芸術家」(「佐渡の百年」)

★阿野松二
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
あの阿野松二

★阿野松蔵
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
あの阿野松蔵 新潟県官民肖像録 明治41年

★阿野松朗
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)

★阿仏坊→日得(にっとく 阿仏坊)

★阿部海太郎(うみたろう)
あべ阿部海太郎050630 あべ阿部海太郎 (1) あべ阿部海太郎 (1) あべ阿部海太郎 (2)
父征男氏(ゆきお、昭和18年生)が両津湊山本喜太郎家(伊豆野石油実家隣)の人。山本清氏(故福島徹夫先生妻の実家)の兄の子。その兄は戦没、軍隊ではかなりの高官であったらしい。喜太郎家は代々の大船主。征男氏は佐渡高校ー早稲田の後、出版社(新季節社)に勤務、大学時代に知り合った奥様の実家阿部家(宮城県栗駒町)に婿入りする。奥様は私大芸術学部でピアニストを志したが小学校教員となる。
・山本清家は湊4丁目。清の父は伝蔵、長男は猛で戦死。長女は福島静江さん母。次男は健次。家を継いだ清氏は3男。子供は8人いた。猛氏の奥様は家を出て再婚。その子征男氏は祖父母に養育された。
【阿部海太郎 Umitaro ABE】
1978年生まれ。作曲家。東京藝術大学と同大学院、パリ第八大学第三課程にて音楽学を専攻。
自由な楽器編成と親しみやすい旋律、フィールドレコーディングを取り入れた独特で知的な音楽世界に、多方面より評価が集まる。 故蜷川幸雄演出作品の劇音楽を度々担当したほか、舞台、テレビ番組、映画、他ジャンルのクリエイターとの作品制作など幅広い分野で作曲活動を行う。これまでに発表したアルバムは、留学時代に制作し音楽とフィールドレコーディングに対する独特な視点や作曲力が注目された『パリ・フィーユ・デュ・ カルヴェール通り6番地』(2007年)、クラシックを土台にした自由な編成の室内楽を聴かせた『SOUNDTRACK FOR D-BROS』(2008年)、アンサンブル楽曲を中心に様々な音の構築に挑んだ『シネマシュカ、ちかちかシネマシュカ』(2012年)、文化施設「クレマチスの丘」のために作曲した曲を収録したアルバム『The Gardens -Chamber music forClematis-no-Oka』(2013年)。 『シネマシュカ、ちかちかシネマシュカ』では、シングルカットとして7インチアナログも発表した。
・『AERA2017.9.25』の「現代の肖像 作曲家・阿部海太郎」で大きく紹介される。

諸情報

★阿部勘右工門
『新穂村史』(昭和51年刊)より  
客馬車を新穂で初めて営業した。明治四十年(一九〇七)両津新町間を一、二年走らせたものといわれる。馬丁ほ上新穂の長九郎であったが、外に北方の甚五郎、横丁の金助も走らせ、一時は大切な大衆輸送機関であった。


★阿部惠音

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
あべ阿部惠音

★安部源次郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
あべ安部源次郎

★阿部研三
エスライフ2019年6・7月号
あべ阿部研三 エスライフ2019年6・7月号 1 あべ阿部研三 エスライフ2019年6・7月号 2

★阿部コウ
→小黒ヨシ参照

★阿部幸作(棚田)
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
あべ 阿部幸作
「新穂村史」(s51年)
あべ阿部幸作 新穂村史 s51年
『新穂村史』(昭和51年)より
新穂大野の人、1881-1921年。彫り師で、一度照造が師である。
同じ大野の河野よりはかなり古くから彫っていた。彼はもともと若いときから大エまがいのしごとをしたり、ムシロ梭(び)の製作を義弟の目黒町の斎藤盛蔵から教わってつくっていた。大野と粟野江は、ゴザ・カマス・ムシロの産地でムシロ梭の需要があったためである。こうしてカンナ・ノミに馴れたころ、鬼瓦を手本にして木彫りの鬼面をこしらえたのがはじまりで、一度照造の弟子入りをした。
幸作の父の忠太郎は謡曲の師匠で弟子が二十人もいた風流人であった。幸作もその血をひいて生花・立花・庭師などが得意で、彼の彫りものの作品にも落着いた品位がある。
→一度照造

★阿部耕介
あべ阿部耕介050405

★阿部サタ
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より 
坊ケ浦の本間金信が昭和三年、畑野村に私設の通年託児所をつくった。当時熊谷八右衛門家の裏手側にキリスト教の集会場があり託児所として使われていた。翌四年になると阿部眼科医院のサタ夫人が運営し、渡辺金左衛門の協力で、両津にあるカトリック教会・キンダー旧川西保育所正面玄関ホールから保母を派遣してもらった。

★安部式部
(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
佐渡奉行、延享二年(一七四五年)十二月十五に西丸御目付より佐渡奉行に、宝麿二年(一七五二年)正月十一日御持筒頭へ転任した。はじめ右衛門といい、後、式部といった。名は信之、知行千石、御役料千五百俵百人扶持であった。(佐島遺事)

★阿部次作
明治四十五年三月佐渡中学卒(第十二回生)、東京帝大医学部卒。
→嶺直貫(「佐渡高等学校百年史」-嶺直貫の〝日の丸事件″と柏倉校長の休職-)
『佐渡プロテスタント小史』(本間雅彦 「佐渡郷土文化」30・32・33号)

★阿部純
佐渡中学12回生、医学博士。佐渡中学時代は教諭嶺直貴に感化され熱心なキリスト教徒であった。
(参考:「佐渡プロテスタント小史」本間雅彦)

★阿部勘右工門  
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
ボーッ、ボーッとしんちゅうのラッパを馭者台で吹き流しながら走る客馬車が初見えするのが、明治四十年頃上新穂村の都会義貞にもなった事のある阿部勘右工門氏で、中町へ出て開業し新穂、両津間を運行したが、翌年訳あって北方の甚五郎に譲り、その後間もなく横町の金助も客馬車を運行した。その代価は新穂、畑野間七銭、新穂、夷間二十一銭、新穂、金沢間が十六銭であった。当時清酒一升は三十九銭の時代である。

★阿部誠之(あべせいし)
【生没】生・没年不詳 鉱山測量術(振矩術)の書『校正振矩術』(文化八年・一八一一)の著者。自序によると、静野与右衛門から振矩術を受けた山尾氏は、これを山下氏に伝え、寛政年中大坂より下った妻野氏が山下氏の書を改め、新法
と称して青木氏に伝えたが、実はそれは邪法であり、山尾の書にも疑点があるので、これらを校正したという。縄引・野帳をもとに、高低・方位・距離・面積等の算出法を、種々の具体例で詳説、計算に必要な勾配乗率表・開出乗率表(すなわちサイン・コサインに相当する表)、それらの作表法とその根拠となる多角形の理論、円周率十一桁の算出等を詳述した、和算(江戸時代日本で発達した数学)の香り高い測量術書である。この測量法は、振矩師阿部六平や山本仁右衛門によって、明治時代まで伝えられているが、誠之の原本の所在は不明である。写本は相川郷土博物館本・東京大学本・東北大学本・日本工業会旧蔵本などがある。誠之の職歴などはわからないが、関流藤田貞資の門人で、幕府天文暦作方や、蝦地測量に従事した津和野藩士堀田仁助泉尹に師事し、「天文暦数」を学んだことが、文政五年(一八二二)堀田より贈られた『加減乗除対数表』(相川郷土博物館蔵)のあとがきから知ることができる。誠之が和算に明るい一つの証である。【関連】静野与右衛門(しずのようえもん)・振矩師(ふりかねし) 【参考文献】阿部誠之『校正振矩術』、堀田仁助『加減乗除対数表』 【執筆者】金子 勉 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

★阿部忠吉
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治四年生 新穂村上新穂 ・明4、第四回佐渡郡会議員選挙[三十六年九月三十日]

★阿部定治(定二)
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
あべ阿部定二 新潟県官民肖像録 明治41年
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より 
大正初期、新潟から畑野に来て開院した眼科医。はじめ西町で、のち現熊谷歯科医のところで開業した。そして阿部眼科の名は全島的に知られ、通院患者のための下宿屋が何軒も開業していた。その子息治作も第一高等学校から東京帝国大学医学部に進んだが、郷里の家を継ぐことなく阿部眼科院は一代で閉院した。

★阿部藤策
県立佐渡高等学校初代校長(昭和25・4・1~昭和30・3・31)。
「佐渡高等学校百年史」
佐渡中学と河原田高女統合後初代の校長。阿部は新潟中学校、旧制新潟高校を経て東京帝国大学文学部西洋史学科を卒業し、新潟・長野両県の旧制中学校教諭を歴任、村上高等学校校長より佐渡高校に着任した。四六歳という若さと、卓越した見識をもって、戦後の佐渡高等学校の事実上の基礎を築き上げた。四月十二日着任した阿部は、全校生徒・職員に次のように述べた。「日本の現在将来と高等学校教育の使命や理想とを対照するならば、我々の出発は決して安易なものではない。すべてのものの初めは難しい。創業の労苦は我等が当然甘受しなければならない運命的なものといえる。それだけに、この困難な中を希望を持ち理想を目ざして進む我等に重大な決意と覚悟がなければならない」(統全別「佐高新聞」第二三号 昭和二十五年四月二十一日)。校舎改築・施設の拡充・衛生的環境の整備など、新制佐渡高等学校の抱える問題は多かった。
「佐高回顧」(土建校長)
新制高校発足当時は旧制中学校が新制高校へ移行したが大小さまざまの規模や校地でもそのまま居すわりで決まった。佐高のような統合高校は男女共学の原則から獅子ケ城の山上と河原田の海岸平地の両校を合併して新構想の学園形成へ進む場合、一般と異なる複雑な問題があった。文部省の高校設置基準によるならば現在の旧制中学、女学校を拡大整備すれば可であろうが、当時終戦後の疲弊、混乱が続いて新設とか拡張は望むべくもなかった。佐高は創立当時の木造校舎が残り、耐用期限をはるかにこえたオンボロで伝統を誇るにはあまりも腐朽、破損が多く、古色蒼然の廃屋にちかい惨憤たるていたらくであった。玄関の沓脱ぎから雨もり、校長室、廊下の天井は破れ放題、壁紙はしみだらけでちぎれ、階段の手摺りはグラグラ、雨の日や夕暮れともなれば電燈もともらぬ暗いパケモノ屋敷同然、佐渡の最高学府と自他ともに誇った学校がこの有様、涙のこぼれるほど、痛ましい姿であった。しかしこの環境、荒れはてた校舎で黙々と学び勤め、やがて新生日本再建の担い手となろうとする青少年の挫けない姿、それを導く職員に接した時、胸中、猛然と反発奮起の心がわき起った。県内の高校長を歴任した二十数年の経験で、これほどのショックをうけ、その対策に苦心惨憤したことは前後二回にすぎぬ。第一が佐高、第二が新潟明訓高校(新潟大地震被災)である。佐渡赴任前、予備知識として勉強したものの当時の佐渡は見るもの間くもの、白面の青年校長にとって意外のことが多く、まして、統合高校の新設に至っては非才、無力のものが、よく為し得る筈もなかった。成るか成らざるか、もし成らざれば辞職して逃げ出すほかはない。転任辞令をうけた時、先輩友人は激励と壮行の言葉をよせ、一方、絶海の孤島、流人の地へ渡る旧時代の悲壮感をこめたもの、伝統ある名門、佐渡第一の代表校へ栄転すると祝うものさまざまであった。複雑な感慨に悩む私がはじめて校長室に入ると壁面にかかげられた八田三喜先生の写真があった。先生は旧制高校創立時の恩師であり、卒業後教職についてからも特別の恩顧をうけた師弟の結びがあった。先生の慈眼が諭すように見下していられる。このときの感激が意気消沈の私を整えらせたように思われる。先生については既に多くが語られているので割愛するが、五十五周年の昭和二十六年十月、本館の建築落成式に、わざわざ老躯をひっさげて来島、教え子の依頼にこころよくこたえて、講演され、もろもろの追憶談をのべて佐高の前途を祝福された。県立初代の八田先生、統合はじめての校長、因縁をつければそんなことも学園創成の歴史に残ることかもしれない。昭和二十五-三十年の頃、全国都道府県おしなべて新制高校がスタートした。

★阿部寅二
畑野 長谷寺前
あべ阿部寅二 畑野 長谷寺前

★阿部兵庫
(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
佐渡国羽茂郡渋手に住み、上杉時代の地顔。本間信濃守の旗本、本間遠江守の旗本である。渋手、滝脇、背合、百六十三石を領した。(佐島遺事)

★阿部美智子 

「佐渡ジャーナル」関係記事:「27号」(平成23年10月)ふるさと(阿部美智子)

★阿部泰之 
両津高校時代の1991年度(H3)6月、北信越高等学校総合体育大会 柔道個人 男子軽量級出場
12月、全日本新人体重別柔道選手権大会県予選 個人 男子65K以下 2位 

★安倍吉岡
 『佐渡流人史』(郷土出版社)より
 元慶四(八八〇)佐渡に配流。大逆罪誣告の罪、死一等を減じて流罪。誣告事件は不明。陽成天皇廃位事件に関係か。(『三代実録』)
(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
元慶四年(八八〇年)十月二十六日、吉岡は大逆罪により死一等を許されて佐渡国へ流された。(越佐史料)

★安倍龍太郎
あべ安倍龍太郎
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)安部龍太郎 152 作家安部龍太郎氏と 山本修巳

★阿部六平(あべろくべい)
【生没】生・没年不詳 石扣町に住んだ文政~明治初年の振矩師、号済美。算術にすぐれた六平は、文政七年(一八二四)振矩師助に取り立てられ、同見習の悴熊太郎(小太郎)とともに、若年の振矩師山下数右衛門泉を助け、文政八年から始まる中尾間歩水貫間切の測量に従事、天保二年(一八三一)百五十間余の水貫普請を、最初の測量通り少しの狂いもなく完工、一山繁栄の基をなすと称され、数右衛門は一代給銭を増額、六平も給銭増額のうえ振矩師に昇格、熊太郎は振矩師見習となり、給銭を与えられている。六平は後に、修教館の算術指南方を兼務しているが、振矩術の門人に山本仁平(仁右衛門徳基)がおり、六平に血判の上模写した『校正振矩術』を残している。仁平は少年の頃、最上流二伝北見星月(佐渡奉行所御出入医師格後詰医師・素読書算術指南方阿都真玄勇)に算術を学び、文政十一年一七歳で海府番所下遣となり、勤務の傍ら同僚に筆算を教授、番所廃止(明治元年十二月)後は振矩師となるが、六平への入門はこの時期である。仁平も県学の算術方を務め、晩年は小学校教師となっている。なお、算術方は六平と仁平の間に、筋見で『諸算集記』の著者谷口平八がいる。【関連】振矩師(ふりかねし)【参考文献】金子勉「振矩師雑記」(『佐渡郷土文化』)【執筆者】金子 勉(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※振矩師(ふりかねし)
 佐渡奉行所雇の、鉱山の測量師を振矩師という。鉱石の採掘場所である敷が深くなるにつれ気絶(通気不良)や、湧水による水敷(水没した敷)が多くなる。これを避るための煙貫(通気坑道)や水貫(排水坑道)工事、探鉱坑道の延長工事等々には、つねに具体的な測量が不可欠である。地上や地中の各地点間の方角・勾配・距離を測定し、精密な計算等を経て、その位置関係を定めるのが、振矩師の職分である。振矩師の下に、振矩師見習・振矩師助・同助見習などの身分があり、宝暦~文政年間(一七五一~一八三九)には振矩師に二人扶持(一日米一升)、一か月銭一貫三百四十八文が支給され、文政の例では、振矩師助にもなにがしかの給銭が与えられたが、助見習は無給であった。ただし、水貫工事などで特別な業績があったときには、増給や身分の昇格もあった。また幕末~明治初年には、「算術指南方」を兼務する者もあり、これには別に手当が出た。なお、振矩師には大略次の人たちがいた(ただし、○印は振矩師助である)。樋野半三・持田半左衛門(後に地役人に昇格)・静野与右衛門・品川平左衛門・古川門左衛門・山下数右衛門(初代~四代)・○青木忠四郎(青木次助・羽田町青木家の祖先)・阿部六平・阿部坤三・山本仁右衛門。
【関連】山下数右衛門(やましたかずうえもん)・阿部六平(あべろくべい)・樋野半三(といのはんぞう)【参考文献】金子 勉「振矩師雑記」(『佐渡郷土文化』)、「酒井家覚書」【執筆者】金子勉(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
あ阿部六平
あ阿部六平 (2)
(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
佐渡の振矩師(ふりかねしと読み測量士のこと)。文政年間(一八一八~二九年)に活躍した。数学がすぐれ、山下数右衛門と共に文政八年(一八二五年)より七年間に、宮中尾間歩の水道を岩石百五十間二尺四寸を切り開き、両方から貫通して誤らなかった。(佐渡人物志)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
振矩師(ふりかねし 測量)天保三年(一八三二年)佐渡鉱山中尾間歩の水貫間切工事に振矩師山下数右衛門と測量にあたり、最初の縄引(測量の通り聊かの狂いなく貫合したのは職業鍛練故の儀につき、六平は振矩師助から振矩師へ雇入れられ給銭を増すと役所から申付けられた。(佐渡軍代記中巻)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)阿部六平 40 振矩師雑記 (13) -山下数右衛門(5) 阿部六平-金子勉

★雨池栄吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
あま雨池栄吉
『佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内』(大正12年 佐渡日報社)
あま雨池榮吉 『佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内』(大正12年 佐渡日報社)
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)
あま雨池榮吉 「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)

★天池範夫
「島の新聞」索引(人名別)

★天池則子
両津高校時代の1991年度(H3)2月、新潟県高等学校総合文化祭文芸部門(『高校文芸』第6号) 短歌奨励賞 

★天池勝
「15年目のホームイン」(両津野球連盟15年誌)
あま天池勝 「15年目のホームイン」(両津野球連盟15年誌)

★天川勇
佐渡高校時代の昭和34、全国学校書道連盟主催全国学生競書大特選  

★天城寿夫
歌人、「新潟短歌」(昭和40年)に「島に住む寂しさ襲ふ冬の波荒々しくも聞こえ来る夜は」等多くの佐渡歌を詠む。早稲田大学卒業後、県内公立中学の教職者として終始した作者は野地曠二の「何げなく見過す周囲にも歌材は十分ある」という示唆と、佐藤佐太郎の「短歌は抒情詩である」を念頭に若わかしく新鮮な作品をなしたが、歌集を出すいとまもなく永眠したのは、初代の新潟県歌人クラブ事務局長の激務も一因であったのかも知れない。

★天久保惣蔵藤原本希(もとのり) 
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。羽茂町西方天久保、鍛冶秘伝一軸(年代不詳) 自宅で独立して鍛冶業を営んでいたが二代は小木町に移り金物商を行い、現在に至っている。安政元年二月十六日生、大正七年二代と共に小木町に移った。元彦作以外の千歯の代表的なものに、天久保作のものがある。弟子の天久保惣蔵本希の作ったもので、地球儀の商標と「佐州羽茂郡大橋村天久保本店」の焼印が台に押してある。

★天沢出雲 
連歌関係者 →下記資料のp662
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』

★天沢幸子   
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
羽茂高校時代の昭和16年、第11回女子中等学校体育大会(上越、中越、下越の三会場で開催)短棒投2位。

★天沢実因(豊前) 
羽茂草刈神社神官、連歌関係者。→下記資料のp698
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』

★天沢実伝 
連歌関係者、下記資料のp670
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』

★天沢伝兵衛家 
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
草苅村のなかで草苅神社ともっとも関係の深かったものに天沢伝兵衛家がある。この伝兵衛家は草苅神社の社人として神社の祭祀を取りしきってきた。草苅神社は羽茂祇園さんともいわれ、土地の農民からは「作りの神様」といわれていた。社領米として五斗九升余をそれぞれ、次の百姓らが納入していた。二斗九升六合 伝兵衛、一斗四升八合 市郎兵衛、七升四合 市右衛門、三升七合 助十郎、三升七合 伝次 この五人の百姓は、いずれも草苅村の百姓であり、伝兵衛家をはじめとして古くからの神社とのかかわりをもった百姓であった。伝兵衛家は慶安期の戸ノ内で草苅神社の社人、市郎兵衛家は現在の氏江市郎平家で五社神社の社人、市右衛門は慶安期の甚太郎で下川原に屋敷があり、代々市右衛門を名乗り、助十郎はいだ町に屋敷があり、代々中原助十郎と言われた。伝次は中原市右衛門一族で、「わき」というところに屋敷地をもっている。もともと草苅村百姓であったものと思われる。神社は市右衛門と同じ山王権現を祀っていたる。このようにまとめてみると、草苅村は八王子権現の草苅神社を含め、山王七社を信仰する村であったことがわかる。天沢伝兵衛家(戸ノ内) の耕地所有関係を慶安石直し帳と元禄検地帳をもとにして整理してみよう。は伝兵衛家の屋敷は「天沢」に三畝六歩、「はたまき」に三畝歩、「中野」に二畝一八歩、合わせて三筆の屋敷があったが、神社のある天沢が本拠地である。伝兵衛家の米物成二斗九升六合は神主半納となっており、田地は宮ノ前にたくさん持っていた。三筆の屋敷地には数人の百姓が住んでいた。伝兵衛所有の田地三反三畝を含む「宮ノ前」一町一反余は伝兵衛はじめ中原一族らの開いたところである。戸口田は中川(下長野尾)家と両家で開いたところ。川ばたは草苅村百姓らが多数かかわって開いた。中世からの古田とみられる田地は垣の内、後田、戸口田、唐崎、宮の前、沢田などで羽茂川上流からの古い用水江による水掛り地域である。天沢伝兵衛家が、かつての草苅村に深いかかわりをもっている事実は、羽茂本郷村地内に分散する「大草」というところを保有していることでわかる。伝兵衛はここ大草の「ほたまき」というところに屋敷三畝歩持っていた。他に大草には中田二六歩と畑二反三畝を持っているが、おそらく、草刈場の管理人屋敷である田屋があったものであろう。そして、大かりやの方にある細野にも九筆の山下々畑二反三畝五歩があった。もとは広いひとつながりの採草地であったところに新田畑ができて、各地に山畑が散在するという状態になった。

★天澤眞幸
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
あま天澤眞幸 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
あま天澤眞幸

★天田
小木天田医院跡(平成29年8月 現在は計良氏宅)
代々の医家で、後に料亭「竹本」となり、経営者は計良氏。屋敷内には、天田医院当時の立派な庭が残る。
あま天田医院 298月 (1) あま天田医院 298月 (2)

★天田謹四郎
あま天田謹四郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★天田左与ノ一
湊の人で盲人、寛政の頃、京都から文弥人形を伝習したと言われる。(天和の頃、加茂羽黒の富の一がもたらしたとも言われる。)
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
佐渡の文弥節は天和のころ両津市羽黒の富一が伝えたとか、寛政ころ両津市湊の天田佐与ノー(文化三年没)が伝えたとかいっているが、みな盲人の間に伝承されたもので、正確な史料はない。また、相川音頭に「文弥法師歌の中山」という一篇があり、佐々木義栄氏によると、その女主人公「おたの」という瞽女の名が、「伊藤家日記」の明和八年(1771)七月二十日の記事に見えるから、このころ文弥節は佐渡で語られていたものであろうといっている。とにかく、江戸時代の中ころ享保以前、元禄に近いころ佐渡へ伝来したものであろう。
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)

★天田正右衛門(狂楽)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
あま天田正右衛門
「両津港の歴史」 (『両津町史』(昭和44年)より)
「島の新聞」(95号)
佐渡鷺流の先駆者たちは、宗家に学び、佐渡に芸を伝えた。草分けは吾潟の葉梨源内。一八二一年(文政四)に宗家十六世仁右衛門に師事たとされるが、島内での記録はない。沢根の土屋辰次郎が一八五三年(嘉永六)に上京し、宗家十八世から相伝書を受けているが、帰郷後は不明。同時期、五十里の林喜正が十八世と十九世に師事し、相伝書五通を受けて帰島。昭和初期の林家の火災で相伝書は焼失したが、喜正が使用した台本が真野町の若林義太郎家に移されて保存され、今日の鷺流復活の基となっている。喜正に師事した青野の小杉忠三郎は上京して宗家に学び、零落した宗家から伝来の古面や台本を譲り受けて帰郷した。佐渡は正統を継いだことになる。幕末から明治期にかけて最後の佐渡奉行鈴木重嶺の用心として来た三河静観は明治維新後も両津に定住し、和歌や狂言を安藤世彦・幸彦父子に教えた。湊に住んでいた天田狂楽は安藤父子に手ほどきを受け、明治三十年代に上京して畔翁に指示し、皆伝免状を受けて帰島している。天田は名人といわれ、多いときは年間五〇~六〇回演じたという。また天田は、喜正の弟子で加茂歌代の古木弥十郎らと明治末期に両津鷺流狂言会を組織した。天田が一九四四年に没すると、佐渡狂言は衰運をたどる。一方、真野では鶴間兵蔵が明治十八年から二度上京し、一噌流の笛と狂言を学び、帰郷して活躍、後継者を育てた。高弟の若林米蔵らは能楽上演団体「笛畝会」を立ち上げ、狂言も演じた。米蔵に師事したのが佐々木文蔵、その弟子が鷺流最後の狂言師土屋増一である。これらは要となる人物で他にも多くいた。中央で芸を身につけた人々の活躍で、明治後期から昭和初期にかけては佐渡鷺流の最盛期だった。「能楽を学びに上京して、能をやるなら狂言もと身につけたのだろう。能楽があったから佐渡に継承されてきたと考えられる」と祐亨さんは見る。最近になって天田家に伝わる台本が島外へ持ち出されてしまった。小杉家が宗家から譲り受けた古面や台本も今では小杉家を離れ、転売されて所在不明となっている。天田本や小杉本を借りて、安藤本と照合していた裕亨さんは「佐渡鷺流狂言の復活に欠かせない貴重な財産。調査未了のうちに散逸してしまい、残念でならない」と嘆息する。安藤家は代々夷諏訪神社の宮司で台本は保存されている。
※天田家のルーツは小木である。
さぎ鷺流狂言 (1)
さぎ鷺流狂言 (2)
さぎ鷺流狂言 (3)width="4011" height="1206" />
さぎ鷺流狂言 (4)
あま天田正右衛門
「島の新聞」索引(人名別)


★天田菁莪

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
あ天田菁莪
あ天田菁莪 (2)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
あ天田菁莪 (3)
(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
医家で俳人。佐渡小木の人で、名は弼、字は敬立、通称は元貫、号はほ莪陵、自耕斎等といった。
俳句に長じ詩歌をよくした。書は米南宮に学んで逸致があった。
天保(一八三〇-四三年)ころの人である。(佐渡人名辞書、佐渡人物志)


★天田美喬

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
あ天田美喬

(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
医家。佐渡小木の人である。鍔にその銘のあるものが往々あるが詳かでない。(佐渡人名辞書)


★天田峰五郎

『新潟県官民肖像録』(明治41年)
あま天田峰五郎 新潟県官民肖像録 明治41年>


★天地堅磐

『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)


★天地重作

『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎の人。森田流の笛を習い、仕手方その他諸役に通じ名をなした(羽茂村誌抄出)。

『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)


★天野助次郎

佐渡奉行。勘定吟味役より宝暦十二年(一七六二年)佐渡奉行となり、明和二年(一七六五年)七月十六日、持筒役へ転任した。
名は正景、知行三百石、役高千五首俵百人扶持であった。(佐島遺事)


★天野清一

・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p423


★天野泰蔵

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
あま天野泰蔵


★天野尚

あま天野尚 佐渡ジャーナルh27 10 15 (4)

あま天野尚 佐渡ジャーナルh27 10 15 (5)


★天野伝右衛門

佐渡奉行所役人、銭座役。享保二年(一七一七年)佐渡で銭鋳立の命を戸田山城守より奉行に伝えられた。伝右衛門は田嶋与兵衛と共に銭座役となった。役扶持三人扶持を与えられた。下使役に佐野長兵衛、水品安右衛門、町年寄も協力を命じられた。新銭は銅一万貫に白日錫三百貫目、上錫千貫目、鉛二千八百貫目を加えて、寛永通宝を表に、佐を裏にしたもので、良貨といわれる。(佐渡年代記上巻)

★天野孫太郎(あまのまごたろう)
【生没】一八一九ー七九 文政二年十月、地役人の天野家に生まれる。名は翔、耻堂(恥堂)と号し、晩年には雪翁とも号した。先祖は越後の出身で七兵衛と言い、元和四年(一六一八)に佐渡奉行所の地役人となっている。修教館で学び、
漢詩にすぐれ藤木実斎・丸岡南 等と詩社を結成している。一六歳の時から奉行所に勤め、目付役、鉱山・民政の諸役を経て、慶応四年(一八六八)広間役となって中山修輔らと共に難局の処理に当たった。維新後も
、新政府から佐渡の取締を命ぜられ、同年九月に佐渡県が置かれると県の職員となって民政局の局長・夷代官所頭取などを歴任したが、明治九年四月に相川県が新潟県に合併されたのを機会に退官し、夷町に移住した。晩年は東京で高田商会を興して成功していた次子高田慎蔵邸に移り、明治十二年六月二十四日、六一歳で没した。お墓は、下山ノ神町の日蓮宗・法泉寺に残る。漢詩集「耻堂遺稿」がある。
【関連】佐渡県(さどけん)・高田慎蔵(たかだしんぞう)・伊東高雪(いとうこうせつ)【参考文献】岩木拡『相川町誌』、萩野由之『佐渡人物志』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代) 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説.
1819-1879 幕末-明治時代の官吏。文政2年10月生まれ。高田慎蔵の父。家は代々佐渡(新潟県)相川の地役人。明治4年相川県の大属となるが,9年相川県が廃県となったとき退官。明治12年6月24日死去。61歳。名は翔。字(あざな)は説之,雲漢。号は恥堂。
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))
あ天野孫太郎翔
あ天野孫太郎翔 (2)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
あ天野耻堂
(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
官吏。佐渡相川の人で字は説之、名は翔、また雲漢、通称孫太郎、別に旗山、雪鴎、雪翁等の号がある。はじめ名を長章、字を斯文といった。相川の地役人で吏務に長じ、日付鉱山民政等の諸役につき、幕末には広間役として治績があがった。維新後越後府の参謀奥平謙輔に抜擢されて要路についた。明治四年佐渡県が相川県と改った時、相川県属となり、九年廃県とともに退官、鴨湖畔に移居し、吟詠を楽んだ。修教館に学び漢詩俳諸にすぐれていたのである。次子高田慎蔵にたよって東京に移り、十二年六月に六十一才でなくなった。遺書に「祉堂遺稿」がある。(佐渡人名辞書、相川町誌)
「密訴する男」(「島の新聞」)
「鬼参謀・奥平謙輔」(「佐渡の百年」)
「順徳上皇奉迎使」(「佐渡の百年」)
「島の新聞」(両津港物語)
「両津港の歴史」 (『両津町史』(昭和44年)より)

★天野彌蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
あま天野彌蔵 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
あ天野彌蔵

★網野了宅
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
あ網野了宅
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
あ網野了宅 (2)
(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
佐渡相川の町医者。宝永(一七〇四-一〇年)ころの人で畸人であった。
薬を求めても名をきかず、いつも古い狭箱にたくさんの薬を入れて、自ら背負って歩いた。
したがって貧しく、衣食にも事かくありさまであったが、平気であった。
関口流柔術に達し、町同心も勤めた。そのころ相川三丁目の山に住んでいた雲鈴という隠者と交わりが深く、多くの逸話が伝えられている。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)

★荒芳信
https://www.niikei.jp/132172/

★新井朱実
佐渡高校時代の昭和38、全国学校書道連盟主催全日本学生競書大会、特選 

★荒井確治

『新潟県官民肖像録』(明治41年)
あら荒井確治 新潟県官民肖像録 明治41年


★荒井吉次郎

平泉毘沙門の白山神社標柱の寄贈者に名前あり
あら荒井吉次郎 平泉白山神社

★新井精斎(あらいせいさい)
左は「佐渡の石仏」(祝勇吉)より
あら新井精斎「佐渡の石仏」(祝勇吉) (3) あら新井精斎 (4) あら新井精斎 (1) あら新井精斎 (2) あら新井精斎 (3)
小倉
あら新井精斎 小倉 (1) あら新井精斎 小倉 (2)
あら新井精斎 あら新井精斎 「波多」 (23)
【生没】一七七二ー一八四一 上野国厩橋(現群馬県)の人で、先祖は出羽国の出身と伝えられる。幕吏として大目付・遠山左衛門尉景晋に仕え、海防・外国人接待などの役をつとめた。その頃、蝦夷地や奥州・出羽各地の紀行を記した『東海参譚』と、朝鮮使節を対馬に迎えたときの『有明日記』を遺しているという。能吏であったためか、同僚のざん言で職を失ない、文化七年(一八一○)に甲府に移り医業を学ぶ。当時草津で湯治中、小倉村の中村重左衛門と知り合い、重左衛門の招きで来島し、小倉村にそのまま土着し、医業の傍ら塾を開く。同塾からは、医師の松瀬弁昌、文人として三宅鶏口・菊池貞麿・青木竜丸・本間三咲・能楽の師匠として石川掃部、華道師匠として青木廉ら、多才の人物が輩出した。地元の新井儀左衛門の娘とわ女と結婚し、志鎌姓を新井姓に変え、しばらく物部社奥の杉平というところに家を構えたが、のち字川端の現精斎家の位置に移って、天保十二年二月十九日に歿するまでここで塾を行ない、生前に筆供養として建てた(位置は不明だが同家の少し上流に餓死碑があり十王堂跡とされる)が、洪水で流されていたのを近年になって、当家の座敷庭に建てかえられた。精斎の佐渡での著作とされる、『多田往来』『小倉往来』『長谷往来』の三地誌が、新町の山本半右衛門家に所蔵されているが、後二著の筆跡は三宅鶏口のものなので、精斎が原著者かどうか詳かではない。他に『
昆花物語』『東橘集』『天真道学万葉布言』『五十音書艶話』『四十九縄天神考』『本屋敷浄瑠璃』『管見語』『小倉八景歌』『竹田落穂帳』『飯出観音ぼさつ由来考』などの諸著が伝えられている。本名は志鎌万輔といい、筆名は精斎のほか、自雲・東 ・嶺松軒・愚 ・兎昇・元 ・叔泰などがある。生年は、六九歳の歿年から逆算すると安永元年となる。とわ女との間に一男二女があったが、男子と長女が幼死したため、末女に皆川村磯部家から養子を迎えて家を嗣がせた(その磯部家は現在はない)。
【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説.
1773-1841 江戸時代後期の医師。安永2年生まれ。江戸で幕臣遠山景晋(かげみち)につかえる。景晋にしたがって諸国を遊歴,「東海参譚(とうかいさんたん)」などの紀行文をあらわす。文化12年佐渡にわたり,医を業とする新井家をついだ。天保(てんぽう)12年2月19日死去。69歳。上野(こうずけ)(群馬県)出身。本姓は志鎌。名は元稹。字(あざな)は叔泰。通称は万輔。別号に嶺松軒東寗,鞭羊居愚僊。著作はほかに「有明日記」など。
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
あ新井精斎
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
あ新井精斎
(『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より)
佐渡小倉の医師、俳人。本姓は志鎌氏、名は元禎、字は叔泰、通称を万輔、号は嶺松軒、東○(原本参照)来賓、鞭羊居愚僊、自雲と号した。上野厩橋(前橋)の人で、幼時江戸に出て幕臣遠山景晋につかえた。後、諸国をまわり、文政十二年(一八二九年)佐渡に釆て小倉にとゞまり、新井家をついだ。医業のかたわら子弟を教授した。「東海参譚」「有明日記」「草津紀行」「越路日記」等の紀行、「天真道学万葉布言」「昆花物語」 「東橘集」「五十音書艶話」「三百粂」「二十五箇条」「四種糾縄天神考」等の著書がある。天保十二年(一八四一年)に六十九才でなくなった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年) 
畑野村の文人たちに直接、影響言えたのが文化十二年に小倉に住み塾を開いた新井精斎である。精斎の経歴や業績については、本書の教育の部で1精斎塾」の項姦け、詳述してあるのでそのほう譲ることとする。精斎と当地とのかかわりはじめについては諸説があるが、旧村志は、二十六才の時、幕臣大目付遠山左衛門尉景晋(かげみち)に仕官した。(注・景晋は後、北町奉行になった遠山の金さんこと景元の実父である。)文化七年に同僚の宮島某のざん言によって景晋の怒りをかい、浪人となり甲府に移り住んでいた。ある時、草津温泉で小倉村の住人中村重左衝門と知り合い、重左衝門は彼の人柄と学識に感銘を受け、小倉村の里へ彼を招聘したと書かれている。そして、小倉村の中村重左衛門家系譜によると彼を尊敬し村内外より子弟が集まったと書かれ、彼の書物や書道の手本などが町内に多く残っている。彼の代表的な短歌として「夕月夜 小倉の山の麓川 影とどめねばすむかひもなし」が小倉・青坂の所に歌碑として建てられてある。
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年) 
精斎の佐渡での遺稿および彼の著作とされるものとしては、左のような著書がわかっている。しかし△印を付した三著についてほ写本であって、小倉往来と長谷土産については伝えられるように精斎が原著者であるかどうかは確認はできていない。尾花(このはな)物語 東橘集 天真道学万葉布言 五十音書艶話 四十九縄天神考 本屋敷浄瑠璃 管見語 小倉八景歌 △小倉往来 △多田往来 △長谷土産 竹田落穂帳 半留能君佐(はるのくさ) 三百条 廿五ケ条 神文 飯出観音ほさ(つ) 由来の事
・精斎の経歴は旧村志に詳しく書かれているが、精斎と親交があり、養子縁組の形跡さえある小倉の牛場こと中村重左衛門家系図に、新しい資料が発見されたので抜書を略記してみる。→「波多 」p419
・小倉の八瀬松堂に寓居した精斎は、新井とわ女と結婚して字杉平の五兵衛持の地所に家を構え、のち字川端の現精斉家の位置に移ったもようである。同家の横には、門弟たちによって建てられた筆塚がある。
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より 
小倉村に医者でもあった志鎌精斎が移り住んだのは文化十二年であった。精斎は儀左衛門の娘とわをめとり、その姓新井姓に変えた。塾を開き、その塾生から医者も出た。(精斎塾」の項)
地域文化を変えた余所者達の話
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)新井精斎 36 鑑賞 佐渡のうた (29) -補遺- 新井精斎・石田波郷 山本修巳
あら新井精斎 (1) あら新井精斎 (2) あら新井精斎 (3)

★荒井太次郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
あら荒井太次郎

★荒井忠平
『佐渡名勝史』(昭和11年 山本幸作 山本商会出版部)
あら荒井忠兵衛 佐渡名勝史 昭和11年 山本幸作 山本商会出版部
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
安政六年生 新穂村、呉服商 ・大1、青木永太郎等同志会を脱党す[四年九月]・大1、第七回佐渡郡会議員選挙[四年九月三十日]・大1、第十三回衆議院議員選挙[六年四月二十日]・大1、相川町立女学校の郡立決議[六年十二月]
『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
あら荒井忠平
呉服店で、後にその一部を第四銀行新穂支店?みたいな形で営業した。荒井実氏の頃である。西三川の佐々木農園次男で、新穂で果物店をしていた人が「スーパー佐々木」を経営した。

★荒井悌吾
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
あら荒井悌吾 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)  あら荒井悌吾 夷保育園園長
両津小学校校歌を作詞した7代目の校長。(大正12年2月21日作成)三島郡越路町出身と言われる。昭和3年の両津町大火の際には両津尋常小学校校長であった。
「両津小学校校歌」
1.東亜の池や日本海底ひも深く入江なす法馬の岸に影映ゆるわが学校(まなびや)の旗印
2.海洋々のふところに雄々しく育つ教草(おしえぐさ)日々にいそしみ進みゆくわが学校の楽しさよ
3.空に秀でし金北山鏡と澄める湖を心の友と永久(とこしえ)にわが学校は栄えなむ

★荒井敏彦
金井出身、(株)共英 代表取締役。
(会社概要)
・本社 東京都江戸川区江戸川5-16-51
・デイサービス 東京都江戸川区江戸川
・サービス付き高齢者向け住宅 東京都江戸川区江戸川
・設立 昭和46年2月18日 ・資本金 4,212万円
・社員数 正社員 50名  登録ヘルパー 50名
(営業所)・松戸事業所(介護)
(事業内容)・建機レンタル事業 ・建設事業 ・介護事業 ・ベーネ事業部
(沿革)

昭和44年 江戸川区一之江において荒井敏彦が創業
昭和46年 資本金100万円で共英商事株式会社を設立
昭和52年 建設部門を独立、共英建設を設立する
昭和57年 共英商事株式会社を株式会社共英に改称
昭和63年 江戸川区江戸川に本社ビル完成
平成 3年 機械置場土地取得
平成 4年 株式会社共英、増資により資本金4,212万円
平成13年11月 福祉用具レンタル事業を開始
平成15年 1月 居宅介護支援事業を開始
平成15年 3月 訪問介護事業を開始
平成17年 4月 千葉県松戸市仲井町に介護事業部松戸営業所を開設
平成19年 9月 共英建設株式会社を株式会社共英と統合
平成24年 4月 江戸川区新堀に介護事業部消毒センターを開設
平成24年 4月 建機レンタル事業部機械置場を浦安及び原木に移設
平成26年 2月 江戸川区江戸川にデイサービスとサービス付き高齢者向け住宅を開設
(荒井敏彦)
「佐渡ジャーナル」関係記事:「27号」(平成23年10月)平成22年秋の叙勲で 荒井敏彦氏(68歳)が黄綬褒章受章(本間淑人)


★荒井八兵衛

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
あら荒井八兵衛


★荒井真理

あら荒井真理 (1) あら荒井真理 (2) あら荒井真理 (3)
新潟日報(h28年4月12日) 市議二期目 佐渡市の不祥事問題では追及の先鋒として活躍した。(佐渡市議初挑戦時は落選) 
せん選挙 h28 4 11 (4) せん選挙 h28 4 11 (5)
あら荒井真理
平成28年4月10日執行 佐渡市議会議員選挙公報
あら荒井真理
「島の新聞」索引(人名別)

★新井満
1946年5月7日 - 2021年12月3日。あら新井満
・新井満 『佐渡島』
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)新井満 70 作家新井満氏の母 山本修之助
「ウイキペディア」より

★荒井実
あら荒井実
荒井呉服店跡(令和2年)
あら荒井実 (1) あら荒井実 (2) あら荒井実 (3)
新穂の人。山王神社宮司の守屋家の出。「佐渡歌舞伎考」著者。佐渡博物館官報1号に掲載されたもので、佐渡おけさ16足踊りの創始者浅尾森之介について詳述。新穂商店街の旧「スーパー佐々木」の場所にあった金融会社を経営していた。荒井家は元々新穂街の大店であった。長男は荒井洌(きよし)氏で、新大を出られ新潟に住み2015年頃歿。川柳句集『花火』を遺す。
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
あら荒井実
写真:➡映画「鬼太鼓」に出てくる。
『佐渡の鬼太鼓』(荒井実 昭和39年 )
「佐渡歌舞伎考」(荒井実 昭和52年 「佐渡芸能史上」)
「中川融とその周辺」※「佐渡ジャーナル」59号~64号

「山本伝十郎家」
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Author:渡辺和弘
・佐渡市両津夷在住
・両津高校-同志社大
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