2018-04-26
★土産物屋
・昔の佐渡汽船(夷港)の建物をすぐ出た辺りに数軒か七八軒の土産物店がありました。簡単なアーケード街みたいなもので片側のみでした。その近くではハトヤさんも土産物店でした。
・その道を本町通りに突き当たって後藤清八さん、1,2軒おいてシマヤさん、藤新さんの隣には中川よしやさん、鈴木ミシンさんもやってました。それから丸屋書店の前辺りで佐渡屋さんも土産扱っていた気がします。確か小出苗字だったかな。正札屋さんは海岸通りに面した所で土産物卸をやってましたね。
(山田)正札屋さんはおけさ笠などをかなり扱ってました。笠などは両津では一手販売だったと思う。他の商品も扱っていたとは思いますがおけさ笠は印象に残っています。
正札屋さんの場所は以前には食品雑貨の末広屋さんでした。その後、私の隣、今の「再会」の場所に引っ越しましたが。
私の記憶では、佐渡観光がピークの頃に初めて気がします。店販売でなく倉庫みたいな所に配達商品が積み上げられて、確か小島さんとか言う若い授業員が居てワゴン車で土産物屋に配達していたんじゃなかったかなあ。忠男さんの父が新潟交通でしたから、その関係で土産物販売のルートがあり、忠男さんが第四銀行を退職?してから店を注いだのではないでしょうか。私は忠男さんの父は知りません。ただ、私が小学校に入学する時だったと思いますが、正札屋さんでランドセルを買った記憶があります。茶色の合成皮革で記憶では¥880でした。壁の所にたくさんつるしてあったものから選びました。
・文明堂さんもありました。今の島田医院の斜め前、即ち藤新さんの並びで数軒春日寄りでした。旦那さんはぽっちゃりた色白の人で、奥さんはきれいな方でした。
昭和41年に私は大学に入り、下宿先に土産を持って行く時に文渓堂さんで鬼太鼓の面を買ったものです。高級な彫り物ではなく、大量生産にもので、子供用にちょうど良い大きさの鬼太鼓面でした。今の金額で言うと\2500位のものでした。文明堂さんの弟さんがバー「京」をやった磯野恭二?さんですね。店は神明町で、私が大学の頃ですから、1階は「ミロ」と言うちょっとした高級バーでした。経営者は文明堂さんで、絵画の斎藤清先生や高橋信一先生も出資したと聞いていました。その二階が「京」だったのでしょうか、又は「ミロ」が閉店してから「京」が出来たのか、その辺りはわかりませんが。
磯野家の二人のお父さんは、いつも簡単な着物を着流して、うちの祖父がやってた碁会所の常連でした。屋号で呼んでましたが、仲四郎さんじゃないですよね、そんな名前でした。他にはマルエさん。坊主刈りで多少白髪が混じってました。今の有恒さん正孝さんの父ですよね。二人の上に新潟県の教育次長や新潟中央高校校長、新潟薬科大学教授を歴任した方がいます、阿田辺栄一さんですね。専門は英語関係だったような。相模原伊藤病院を創立した伊藤茂先生のお父さんも常連でした。両津警察の岩下さんもいたなあ、背が高くてハンサムな人でした。糸魚川の人とか聞いてましたが、長く両津警察に居ました。他には、山田さんの近所で下駄屋さんをしていた中田さんと言う丸々したおじさんもいました。中田下駄屋さんと言ってた記憶があります。
(山田)磯野さんは今の着物売ってる「かねもり」だと思う。さっき出た仲四郎さんは藤新のとこじゃないかな。藤新にいた。
実はヤマトヤは今の藤新さんに間借りしてましたんで、私が父や祖父から仲四郎と言う名前を聞いていたのかもしれません。仲四郎さんだけでなく、中野屋と言うおじいさんも碁仲間でした。この方が伊藤茂先生の父かも知れませんが。
他には夷2の裏通り(後に日賀志屋倉庫)におけさ会館がありました。佐渡観光全盛時だったでしょうか。昭和40年頃かな。その真ん前に大きな土産物屋が出来ました。経営者は真野の金杉さんでした。私らの数年上の背の高いハンサムな方で、その後「朱鷺の郷」の食堂を経営した方です。金杉人形店とか言ってましたから、お父さんの代では竹細工でおけさ人形を作っていたのかも知れませんん。ただ、真野から来た人が全てをやるってのも変ですから、もしかして一部が金杉さんで、その他は両津の土産物組合などが入っていたのかもしれません。
おけさ会館は割と簡単なつくりでした。青野屋さんが市会議員選挙に出る時、斉藤甲子郎さんが市長選挙に出る時、総決起大会や祝勝会をあそこでやりましたし、南中の何十周年記念の祝宴そこでやったのを覚えています。簡素な造りとは言え、結構広く、二階席もあったんじゃないかなあ。まあそれだけ観光客を収容できたんでしょうね。
(山田)元々は夷新の正覚寺の前の両津会館(今は渡辺産商さん経営のマンション)で佐渡民謡等を演じていたのが、閉館になったんでおけさ会館としてそちらに行ったのでしょう。まあ、両津会館は映画中心でしたから、映画が斜陽になり佐渡民謡だけでは経営できなくなったんだと思います。
そう言えば、ストリップ劇場がありました。場所は神明町から有楽街を抜けて八郎平町に出た左側ですね。今は、王将さんの息子(私達はタンチと言ってた。今年、平成30年亡くなった)さんが「象のすみか」とか言う名前の和風スナックうぃやってる場所ですかね。八郎平町のストリップ劇場がなくなってから、両津会館でもストリップをやってましたね。王将さん(山本苗字)が経営で、私が両小PTAの役員の時、先生方と王将さんの店(「王将」or「プリズナー」)で飲み、そこには出番でないストリッパーの方がホステスさんしてて、彼女の誘いで先生方と一緒に両津会館へストリップ身に行ったこともあります。先生はびくびくしながら喜んでました。(笑)
(山田)有楽街の出口の右最後の店が「アリババ」で、元は魚喜知の横辺りでした。魚喜知は吉田家の前(加茂湖側の湊側)ですね。火事で三人亡くなった内海さんの前です。有楽街は甲陽館で、元は遊郭でしょうし、それが旅館になり、その後は山喜さんが居抜きで旅館をしました。それが取り壊され通路となったわけです。
神明町の伊藤七蔵の角では一時土産物をやりました。吉田家があり花月があり、当時は観光客が外へ出て土産物を買う時代でしたから。そこに店があれば売れたはずです。土産販売では一等地です。スナック「ベル」さんが言うには、当時観光客が多くてスナックに入り切れず、外で並んで待ってたものだと。浴衣や下駄に旅館名が書かれてあったりなかったりしましたが、酔っぱらった連中が俺の旅館はどこだ?!などとウロウロしてたものです、この辺りは。ただ七蔵さんは短い期間でしたね。
それが、いつの間にかホテルの中でスナックが出来、土産物コーナーが出来て外に出ることが少なくなったと言うことです。土産物やめたと言うんで、私なども竹製おけさ人形などをもらったものです。
「アリババ」は高橋苗字で、そこの息子さんが現在の佐渡市消防署のナンバー2の菊池真也君かな、同じ市役所勤務の吾潟の菊池家に婿入りした。
そう言えば、私の店の辺りにも観光客が道を間違って旅館の場所を訪ねたもんです。
一度など尊大な態度で「ストリップ劇場どこだ」なんて聞くんで、頭に来て海の方を指さし、あっちあっち!などと言ったこともありました。
山喜さんはそこで旅館のノウハウを学び、新潟の礎町の角で山喜旅館を経営したんですね。わたしの小学6年の修学旅行は新潟ですが、山喜さんに泊まりました。何か繁盛してる感じでした。その後、元気のよい男の子が4人成人し、一気に両津、そして相川と大ホテルをオープンしたんですね。一時の隆盛は驚くばかりでした。相川が長男、両津が次男の啓四郎さん、一時相撲取りになり吹雪島のしこ名で幕下まで行ってました。ただ小柄でしたねえ、身長も170㎝はなかったはず。横綱吉葉山門下ですから、高島部屋ですか。そのすぐ下には木島敏雄さんが千鳥島と言うしこ名で幕下かその下あたりまで行きました。細いが身長は185㎝位もありました。諏方神社の立派な狛犬は山口菊治さんの名前がありますし、夷二の町に立派な大太鼓小太鼓、そしてその後でしょうか豪華な子供神輿を寄贈いただきました。3男、4男は山口苗字でなく福島、川口苗字で通ってました。戸籍は山口ですが、お客様に同族と思われないように、胸のネームカードには別の苗字を書いたんでしょうね。なるほど、山口家は本当に商売に徹した家だったんだと思います。まあ、残念ながら昨年(平成29年?)相川ヤマキホテルは閉店し、又両津のヤマキホテルは経営母体は山口家ではなくなったと思います。相川ヤマキは、長男の娘さんが嫁いで佐藤苗字となり、アメリカの大学を出た?息子の佐藤達也?君とホテルを切り盛りして居ました。今は息子さんは佐渡観光協会勤務ですし、お母さんは新穂長畝で「おかめパン」と言う店を出しています。
(山田)有楽街と言えば神明町側の入口右側の二階が喫茶「北欧」でした。キラクホテルさん経営です。「北欧」ママは今店の道挟んで反対側に住んでいます。キラクさんを出たのかどうかは知りませんが。
詳しくは知りませんが、キラクさんは今はうちのせがれと同年の友人である44位の寛人(ひろと)くんが社長です。結婚が遅かったんですが、昨年、加茂の中瀬三のお嬢さんをもらいました。博美ちゃんかな、ぱりぱりした子でホテル関係の学校出てますからおかみさん二は最高です。おめでたいことです。お父さんは大病しましたが元気になりました。私の4つほど下で奥さんは潟上の永井さんからで昭和23年生まれです。
「北欧」のママはキラクの後継ぎだったのかお嫁さんかは知りませんが華やかな方でした。キラクさんの娘さんで池袋で「佐渡」と言う小料理屋をされてる方もいましたね。もう一人は、北小浦出の浅井さんの奥さんですし。
古い写真には、以前川上歯科医院があった場所にあった喜楽旅館の前で主が写ってるものがあります。ハンサムな方です。
キラクさんは鳴子屋さんの親戚で、鳴子屋さんはちょっとした料亭みたいなことをやっていたそうですね。
その鳴子屋さんが、私の大学時代ですから昭和40年代前半ですが、神明町のどこかの二階で「紫苑(しえん)」と言うスナックをやり若者に大変な人気店でした。刺したとか刺されたとかの話もありました。その「紫苑」はその後、新潟の佐渡汽船が移転するとその一角に同名の喫茶店をやってましたね。両津を閉店して新潟に店を出したんですね。
(山田)鳴子屋と言うのは神明町の一階にあった和風のちょっと高級な飲み屋でした。座敷に上がって飲むような。今の「銀太郎」の場所です。ホープのママ(渡辺注:山川さん)はそこに勤めてました。旦那さんは丸勇畳屋の息子さん斎藤勇一郎さんです。
鳴子屋さんは何度か見ましたが小柄で小太りの如何にも料亭の主と言う感じでした。気さくな方で。すると、鳴子屋さんは一階、紫苑は二階ですね。私は紫苑の記憶しかないんですが、当時も一階には鳴子屋と言うお店があったかも知れません。大学生の私とは縁のない店だったので記憶にないのかな。
(山田)そうすると、鳴子屋は元々一階、二階に部屋があり、昭和40年に入った頃に二階を若者向けのスナック紫苑にしたのかな。
先程の斎藤勇一郎さんは、私の子供時代は両津に居なくて、私が佐渡に帰った頃に帰郷して斎藤商事と言う室内装飾の会社を興したんだと思います。友人の小林忠雄さんと二人で興したと聞いています。小林さんは芝浦工大obでしたからもしかして斉藤さんも同じ大が気だったかもしれません。ともあれ、二人は親しい友人だと聞いてました。青年会議所が出来た時、私も会員になりましたが、その時の初代か二代の会長が小林さんでした。渡辺秀樹さんと二人が中心になって佐渡に持ってきた会でした。小林商事は今の社長の小林重則君は忠雄さんの息子さんですから、今は小林家の経営ですが、会社名は「斎藤」商事ですね。
※「再会」のママが、ホープのママが鳴子屋に勤めていたのは知らないけど、山本しょーちゃんの奥さんのみどりさんが鳴子屋に勤めていたのは知ってると話す。
そう言えば「みどり」と言うバーがありましたね。私らよりずっと年上でしたが、ママさんが美人でした。何度か行きましたし、結構繁盛店でしたね。
(「再会」ママ)「リヨン」は今の「天の川荘」の所にあり、相川から来た年取った主と若い奥さんが経営者でした。経営者は二階に住んでました。その息子さんが山本しょーちゃんです。そこにみどりさんが勤めていてしょーちゃんと結婚したんです。正式には山本正治です。10年位前に亡くなりました。(山田注:正治さんは昭和8年生)
しょーちゃんとみどりさんの娘さんが夷2の光電社の奥さんです、きれいな人ですわ。その兄は確か新大を出て県内で教員をしてると聞きました。山本しょーちゃんが優秀だったと聞いてますので、その血があるんですね。
(山田)鳴子屋ははやってました。私が郵便局に入った頃ですが。まあ、あの当時は神明町はどこもはやってましたが。
丸屋の裏に「なかよし」と言う芸者置き屋がありました。
土産物に戻りますが、佐渡汽船が湊側に移り、ターミナルビルが出来た。両津の土産物屋さんは大打撃でしたが、協同組合を作って、ビルにいくつかのスペースを確保して土産物販売を始めました。当時はたくさんの土産物屋さんが権利を持っていたのでしょうが、今はシマヤさん、中川よしやさんとか、そんなにお店はないんじゃないでしょうか。
湊地区は千載一遇のチャンスとばかり湊商事と言う会社を立ち上げ、土産物販売に手を出した。喫茶「カド」の隣辺りに事務所を開設したのを覚えています。 創立時は年長者の富田さん(現「ロータリー」)が会長、副会長が斎藤幸之助さん、吉島さん、事務局長が中村怜さんだったと思います。中村さんは、自宅の近くにあった両津消防署に勤めてましたが、間もなく退職して湊商事に専念したと思います。その後、自民党の患部になったりして政治的にも活躍されました。喫茶「カド」も繁盛しました。吉島、斉藤さんもターミナルとは別に自宅の裏側(ターミナル真ん前)に土産物屋を開店しましたね。今両津港ターミナルで各種イベントを行ってますが、その代表の斎藤勉氏は幸之助さんの長男ですね。彼は神明町には「幸之助」と言う赤ちょうちんの店、ターミナル一階には「幸ちゃん」と言うちょっとした飲食店を出してます。どちらも父親の幸之助さんに因んでつけた名前ですね、ちょっといい話だと思っています。彼は自ら先頭に立って色々頑張ってます。大したものです。
(山田)佐渡汽船が湊側に移転した時に、湊には大物市議の中川瓦屋さんこと中川吉右衛門さんが居まして湊発展の好機といろいろ音頭をとって頑張ったそうです。いくらいい機会があってもしっかりしたリーダーが居ると居ないとでは大違いってことですね。夷側にはその点ちょっと不足していました。鬼太鼓ドームにしてもあれだけ行事が行われて居ますから、あれを活用してここまで持ってきたのは湊地区の結束のたまものです。夷とその点ちょっと違います。
私も当時は若かったんで内容はわかりませんでしたが、当時県議だった新穂の中川秀平さんに対して斎藤幸之助さん達が集団で怒鳴りつけたなんて勇ましい話も漏れ聞きました。今思えば、現在ある改札口出口の土産物街の造り方で中川県議と湊関係者の間で大きな考えの違いがあったんでしょう。そうは言っても力のある県議に対してそれほど大胆に物が言える人物たちが湊に居たと言うことでしょうか。県議を超えて、市長や国会議員とのコネも必要だったでしょうしね。
あの鬼太鼓ドームにしても、元来は阪神淡路大震災の後、各地に災害時の避難場所としてあのようなスペースが確保されたわけです。元々はイベント会場でも何でもない。しかし、それを使用目的範囲内で最大限に湊の人達は活用していると言うことです。
ところで、当時の土産物と言うと今とはまるっきり違ってましたね。とても懐かしく感じられます。先ず、精巧な竹細工でブローチなどがありました。今でも覚えてますがセミなどもありました。最近偶然ネットで見つけたのですが、昭和30年代に佐渡で販売されていた竹製品と紹介しつつ、あの当時と似た作品が東京の会社でネット販売されていました。直接佐渡関係の楷書ではないようでしたが。あれなどは元々佐渡では誰が作っていたんでしょうね。

(山田)当時はともかく竹細工職人が居ました。例えばうちの近所で言うと、「再会」を下って火事で全焼した内海さんの手前辺りに川崎さんと言う竹細工職人が居ました。
小菅先生が書かれた新保の竹細工関係の本に詳しく出てましたねえ。昭和3年の夷大火の本(渡辺注:若林甫周著)の被災者名に仲川十左衛門さんも載ってましたね。ただ、その火事の当時、「佐渡タイムス」さんはその場所にあったかどうかはわかりません。私の知ってるのは火事の後の「佐渡タイムス」の建物で、とても洋風な建築でした。
内海精米所さんは、神明町のずっと福浦側にあり、住まいは「佐渡タイムズ」さんの家を求めてそこに入ったわけです。だからちょっとモダンな建物で、その一階はちょっとした雑貨屋さんにしてました。その後、三階のビルにし、家事を出して三人が焼死したと言うことです。私の子供の頃はなにも知らないんで、ただタイムスタイムスと呼んでました。外側が洋風で。
私は夷一の岩谷栄治さんくらいしか知らないんですが。藤原製麺を海岸に下りてすぐ左側にありました。20年くらい前ですか、火事で全焼し、この地を離れました。私のちょっとしたの男女が一人ずついましたが。親父さんは鴨湖会の歌い手でしたね。福浦の加茂湖側裏通りに板井さんと言う職人さんもいました。うちの親父より年上に見える上品な方でした。お嬢さんが私の少々下かな、きれいな方でした。
新保の竹細工と言うと、仲川十左衛門さんの新保同志団ですね。その中川さんはその後夷に出て、今出てきた内海さんの所で「佐渡タイムス」と言う新聞を発行していた。
その後、わかったこともあるんですが、中川十左衛門さんの奥さん?が小木出身の芸者さんで、弟二人の学資の面倒をみて二人とも教員になった。兄が私らの時の両津小の校長だった木村幸次郎さん。弟の武さんも船栄中等の校長となり、新潟大学系の教員組織常盤会会長になった方です。木村兄弟の二人の姉の一人は小木の歯科医師北島仁さんに嫁ぎました。佐渡高校obですが、私の同年で今、東京の連合佐渡会の役員やってます北島准氏はその息子さんです。尚、木村幸次郎さんの娘さんが夷一の坂口昭一先生の奥様美年子さんですね。幸次郎先生の住まいは、森田床屋さんの1、2軒加茂湖側の家だったはずです。洋風の門があって、ちょっとした庭があり、奥に洋館風の建物があった気がします。とても英国的だった印象があります。幸次郎先生の奥さんは私の頃、即ち昭和35年頃は南中の美術の先生で、とても怖かったことを覚えています。何か私が反抗的だったんだと思いますが、美術が5点評価の2だったことを覚えています。後にも先にも私が2だったのは、この時と佐山勇先生の書道の二回です。佐山先生の習字はそれなりに評価されてたんですが、相撲大会の選手に(本人の許可なく勝手に)選ばれたんですが、練習に一度もいかなかった時です。先生に尋ねると、「習字の心も相撲の心も同じものだ。相撲の練習をさぼる者は書道でも精神がなったないと言うことだ」と一蹴されました。人間性もあって、佐山先生のその処置には不思議と頭に来ないで、何だか納得しましたね。それまでに何度か習字で誉められていたんで、自分にとって佐山先生は立派な先生だったからです。書道の授業で、筆でなく何か別のものを使って字を書けと言うのがありました。幾つか、例えばこんなものを使ってと言うヒントの中に稲の穂があったんで、それを数本束ねて、一番簡単な文字「力」を、それこそ力強く書きました。これは大変ほめられましたねえ。自分としていい出来だと思いました。
土産物に戻りますが、神蔵武志さんも土産物を作ってましたよね?
(山田)神蔵さんは元々は歯科技工士です。本間林三先生とはそんな縁があり、若い頃本間林三先生の文化グループに入ってました。晩年に土産物を作っていた気はします。神蔵さんは畑野生まれで実家は下駄屋さんだったそうです。
神蔵さんの奥様はサクヨさんで両津病院の看護婦さんで、岩田歯科の秀夫先生の姉ですね。武志さんはとてもハイカラな人でした。社交ダンスもやってました。
岩田さんと言う苗字はどこから来てるんでしょうかね。岩田苗字は金井に何軒かありますね、校長先生や元共同通信の岩田雅(まさる)さんとか。秀夫さんの父は退職後だと思いますが、誘致企業で最初三瀬川辺りに出来た佐分工業の所長さんでした。秀夫さんの姉は新潟で日本舞踊の先生だと聞いています。奥田保保険の奥田富子さん達が古い両津甚句を復活するとかの時、岩田先生に踊りのご指導を頂いたと聞いています。旦那さんが亡くなり遺稿集の川柳本を出版されました。佐渡の新穂出身で荒井冽と言う方だったんで、すぐに荒井実さんの息子さんかなと思いました。実氏は佐渡博物館の芸能部会の会長さんなどをしてましたし、能や鬼太鼓に関しての文章を多く書かれています。新穂で第四銀行の支店などもしてたそうです。冽さんも第四銀行obと聞きましたから間違いないでしょうね。
(山田)岩田秀夫さんのお母さんは婦人会活動を頑張ってましたね。岩田タネさんですか。保屋の奥さん、山本桝屋のお母さんた達が仲間に居ました。他には桝口さんとか。
大概は旧制女学校卒の方でしょうね。岩田さんのお父さんは職安とかそう言った公的機関にお勤めだったと思います。
桝口さんは両津高校1回生ですね。
他の土産と言うと、土人形で、のろま人形の頭(かしら)を串刺しにしたようなものがありました。今思うと何とも言えない味のある土産でした。あれは中川雀子さん辺りが考案したんでしょうか。雀子さんは多くの土産物も作ってたそうですし。おけさ人形と並んで佐渡土産の代表的な逸品でした。人形のそれぞれの顔がしっかり作られており、製作者はただ者ではなかったはずです。
雀子さんの土人形は近所であった夷二の根塚徳右衛門さんの型を使ったんでしょうね。
人形芝居の藤村半四郎さん、祝次郎助さんも夷1,2の近所ですし、半四郎さんは古銭研究家でもあったわけで、中川雀子さんは身近にたまたますごい人達が居たってことになりますね。
(山田)おの串に刺した独特ののろま人形の土人形は間違いなく中川雀子さん辺りじゃないかと思います。中川雀子さんは自由人でありながら、本当に美しいもの価値のあるものを見抜く目があったんでしょうね。土産物物一つとっても芸術作品ですし。
雀子さんは家が貧しくて学校に行けなかったが、近所に官選夷区長の石井秀次郎さん(石井文海の子)が居て勉強を習い、古銭研究家、土人形師、人形芝居座を近くにあったとなりますね。その文化的環境あってこそ、かの中川雀子が生まれたと言うことでしょうか。
佐渡土産にもどりますが、当時かなりで回りましたし、最近、若い佐渡市議の室岡君が時々話に出すんですが、イカ徳利がありました。
イカのはらわたを抜いて、中を空洞にして固く成形し徳利型にする。そこに酒を入れて飲めば、イカの風味が混じって独特の酒を楽しめると言うことです。
私は利用したことはありませんし、どんな味かわかりませんが、何かトライしてみたいですねえ、今なら。私の小、中学頃は土産物屋には必ずあったと思います。
当時の記憶では、両津高校の水産製造科が発明して発売したとか聞いてます。そう言えば、当時、両津高校水産製造科は缶詰などを作っていて、一年に一度、数日間を製造科のあった住吉後者で製造品を一般の人に販売してましたね。魚缶詰が多かったんだろうと思いますが、ブリキの缶に紙を貼り付けマジックで商品名と製造日辺りを書いて張ってました。思いま出します。そんな時代があったんですねえ。私が高校に入った時にはなかった気がしますがどうなんでしょうか。
おけさ人形も土産物の代表でした。これはどこで作ってたんでしょうかねえ。
(山田)本間幸二さんです、高橋信一先生の弟の。あくまでおけさ人形を製作して販売する店で、当時はおけさ人形が飛ぶように売れた時代ですから、作ればすぐに売れたんでしょうね。「みさお」さんは多少他の土産物も扱っていたかも知れません。奥さんも上品な人で一緒に人形を作ってましたね。
「みさお」人形店ですねえ。子供さんが二人いて、私の二年ほど先輩と1年下で二人ともとっても美人だった記憶がありあります。今もあの店の様子は覚えてますが、本郁さんの手前辺りかなあ、又は今本郁さんは間口が広いですが、その半分がそうだったかも知れません。もしかしてその後、店名は忘れましたが相川から来た村田勇さん経営のベビー用品店になった店かも知れません。間口は狭いが結構奥行きはありました。村田さんは商工会青年部等で大変お世話になりましたが、相川羽田のマルニさん(風岡苗字)と言う大きな店に勤めており両津で独立したと聞いてました。奥さんが五泉屋さんの奥さんと姉妹だったかなあ、違うかも。
本間幸二さんはハンマー投げで大学か何かの大会で日本一とか準優勝とかのスポーツマンだったそうですが、そんな風には全く見えない、普通の体格で優しそうな芸術家風の方でした。兄の信一先生もそうですが、運動と芸術の両面を備え持ったと言うことですか。
幸二さんがいつも店に座っていたのを覚えてますから、座っておけさ人形を作っていたんでしょうね。奥さんも一緒に。
おけさ笠は夷では作ってなかったですよね。今でも、畑野では飯持地区(昔は河内)の九十過ぎた伊達さん(佐渡病院前、パーマの「ベルマン」小田恵子さんの母)がおけさ笠を作ってまして、民謡関係者はそこで求めています。伊達さんの弟子筋も何人かいるようです。
これにしても、わらの選別、乾燥、作成等大変な技術が要るに違いありません。
おけさ人形は大小があり、大量販売用のものから、大きくて相当の値段のするものもありましたよね。
今思いだしましたが、両津に初めてやって着た文部省派遣の外国人英語教師デビッド・ストーマ―さん(当時AET、現在ALT)が利用する時、確か平成2年頃ですが、その時南中の英語の先生だった児玉敦子先生がおけさ人形をお土産に差し上げたのを覚えています。その時、まだおけさ人形ってあったんだ・・と驚いた記憶があります。これはガラスは子が30×30×70㎝位の箱に入ったものでした。私はどうやって持って帰るんだろうと心配しましたが、たまたま車で帰る人に同乗して行くとかで車で運んだようでした。
(山田)竹細工でおけさ人形を作ったのもありました。竹を大きく裂いて独特の形のおけさ人形に仕上げていました。
「赤泊資料館」

ありましたねえ! 竹を細く籤(ひご)にしたのでなく、大きく咲いてデフォルメしたおけさ人形にするものでした。細部と言うより、イメージでおけさ人形らしさを出すと言うか。今考えれば、造形的芸術的に大変高度なものだった気がします。竹の丸みをうまく利用したものでした。
鬼太鼓の面がありましたねえ。手のひらより小さいものから、子供の顔位の物まであった気がします。私的な話ですが、昭和31年に京都の大学で学んだんですが、下宿先にお土産として鬼太鼓の面を持って行きました。一対だったのか一つだけか覚えていませんが、今の値段で言えば\3000位と思います。物の割に案外安かったのはある程度大量生産できる仕組みがあったんでしょう。しっかりした手作りの芸術的な物ではありませんでした。枠にはめて作れるものですから、材料は木製でなく、粘度と言うか、粘土と紙を混ぜたようなものだった気がします。それを塗装でうまくごまかすと言うか。四角な木製台座につけたあり、四角な箱に入れて渡してくれましたね。お土産で届けた下宿屋のお母さん(京都市小山上板倉町の竹内千代さん、現在は竹内医院、弟が医師となり家を継いだ)夷の文明堂さんで買いました。今の「カネモリ」辺りでしょうか。奥さんがきれいな方だったのを覚えています。旦那さんは当時新潟の佐渡汽船(礎町辺り)の近くに土産店だか食堂だかと出店していた記憶があります。その話はその後だったかも知れませんが。
当時の佐渡の土産物は今に思うと上質なものがおおいですよね。これは中川雀子さん、本間幸二さん他、目利きの出来る人達が多くいたんでしょうね。佐渡観光、佐渡民謡に大変な尽力を去れた金井の川辺時三医師も佐渡土産について研究され、かの雑誌「磯打つ波」は佐渡土産物研究会とか言う組織の発行だった気がします。
あの当時の土産物は、当時土産物屋だったお店の蔵辺りに放り出されている気がしますね。
佐渡汽船でおばあちゃん達が何か売ってたのはずっと後ですかね。
(山田)あの時お母さんお婆ちゃんが売ってたのは先ずはわかめです。昔の佐渡汽船の場所は今は北埠頭と言いますが、昔は中央ふ頭でした。その時、観光客が観光バスに乗る時などにお婆ちゃん達が走り寄ってわかめを売ったものです。元々は二見とか産地から来て売ってたんでしょうが、その内三陸とか佐渡と関係ないとこのわかめを大量に売りさばいたり、また売り方が観光客にまとわりついてしつこいとかの苦情が高まって大騒ぎになりました。監視の目が強くなり少しづつ減っていきましたね。今の南埠頭になってからも多少はありましたが、そんなに売れなかった気がします。
一つの理由は、土産物関係者が行政に働きかけたことだと思います。業者からすれば大変な営業妨害ですし、その説明としては観光客が売り子がしつこくて辟易してる、また、その商品が現地ものではない、と言うことです。ある意味筋の通ることです。
土産物業者の人が現物を手に入れて商品の仕入れ先を調べるのは容易ですから。
おばあちゃん達は特に悪意はなくて、元々家で採ったものを売ってたが、商品が無くなればどこかから集めて売るのは自然の流れです。小銭も結構入るわけで。
これは観光客相手の話ですが、それまでは外海府辺りからアオネバを越えてやって来て夷辺りでわかめなどを売って歩いたものです。うち(山田家)は母が海府の出なんで大きな籠を背負って来て、我が家に下して、一軒一軒売って歩いていました。そのお婆さんは、両津小の校長やった浜田毅の母で95歳(平成30年当時)ですが、当時のことを聞きたいと思っているのですが、なかなかかないません。商品はわかめの他にも塩イカ、干イカがありました。
一夜干しもその後出ましたが、これはある程度冷凍技術や保管技術が進化してからの産物と思います。昔の写真などで、湊のサンキ(三国苗字で三国医院の反対側、今の新潟交通車庫にあった大きな海産物問屋。三国医院の創業者、三国栄次郎医師はサンキの人。山喜か。)さんの写真などで大規模にイカを乾燥させている場面がありますが、あれが干しイカでしょう。写真のようにあれだけ大量に干しイカを製造し、実際売れてたんですね。しかもサンキだけではありません。正月には松飾等にも利用するわけですし。松飾の所に干イカを一匹そのまま、イカの足を松飾の枝に縛り付けたんです。三角の頭は下を向いていて。最近までやってましたよ。
うちは10年前位までやってましたね。
一夜干しと言うのはその後出たもので、一晩だけ干しただけだから柔らかくて食べやすいと言うことで人気が出たんでしょうね。さっと一あぶりして食べられる。一方、干しイカは確かに固くて歯がわるい人には食べられない。私などただなめてるだけで。
そうそう、フグのハリセンボンも真ん丸にして観光土産になってました。観光客からすれば珍しいし、如何にも佐渡ヶ島らしい土産物だったんじゃないでしょうか。
(山田)ハリセンボンは中に豆電球入れて提灯にした気がするなあ。フグちょうちんというか。
私の家か、よその家か定かではないですが、家の玄関に垂らしてありました。悪い奴が入ると針で刺されるみたいな迷信でしょうか。
うちの女房は三島郡越路町なんですが、鮮魚がない場所ですから、子供の頃は姫津の棒鱈を食べたと言ってました。姫津って名前を覚えてました。まあ棒鱈ですから、タラを乾燥させてカチカチにしたものを、冬にお湯を通して柔らかくして煮付けなどにして食べたんでしょう。
ミリン干しもありました。イワシを開いてミリンに漬けてそれにゴマなどを振り甘く似て乾燥させたんでしょうか。焼いて食べると本当においしいものでした。今も年に数回食べたりすると懐かしい味がしますねえ。
佐渡独特ではないんでしょうが、佐渡の土産としてはかなり売れたんじゃないでしょうか。
(山田)土産物で他には、高橋幸次郎さん製の「わかめ最中」もありました。私らより年上の人が居ますが、その親父さんがわかめ最中を初めて作ったんです。何とか言う賞をもらったりして。
名田製菓さんも土産物のお菓子関係をやってましたね、真木か椎泊ですね。私の一年下位の方が社長ですが、その親父さんが始めたのかなあ。当時は最中で佐渡おけさや鬼太鼓の形を取り入れたりしたものが結構ありました。最中は案外成型しやすいし。おけさ笠の形もあったのかなあ。
(山田)他には佐渡に関した饅頭関係も多かったはず。干し柿も土産にあったと思う。縄に何個かをつないだものです。今のアンポ柿でなく昔風のもので、かなり固いものでした。私は当時のものが好きですがねえ。
栃餅がありました。佐渡独特ではないでしょうが、おいしいものです。西山とち餅屋、田中餅屋さんですね。現在の西山さんの当主はみゆきさんで、私らの三つ下だと思いますが、職業病なのかどうか、かなり腰が曲がってます。そのお母さんも同じく腰が曲がってました。私はお母さんの旦那さんは全く見たことありませんが、新潟の人だと聞いてます。みゆきさんも離婚されましたし、親子ともとてもいろんな意味で似てる気がします。みゆきさんは三人姉妹の長女で、次女は湊一?の栗山さんに、三女はバスケ同士で白山の祝博之さん(佐渡汽船運輸社長?)の奥さんです。皆さん美形です。今年(h30年)2月24日の内田家具さんの住居を火元とする火事(5軒全焼)で西山さんも全焼しました。長女優子ちゃんが東京から大工さんの婿さんをもらって家を継ぎ、妹の佳奈ちゃんは裏でカフェ「Heavens Kitchen」をやってますね。
西山さんはもう栃餅製造はやめたのかな。田中さんの方は勿論続いて繁盛してますね。ヨモギ餅とかいろいろあるようです。奥さんは小池荘一郎さんの長女ですか。
田中さんと言えば、ネットの同志社ラグビーサイトで知り合った同志社obで鎌倉在住の森庸弘さんと言う方と一時ネット上で交流しました。彼の母が夷新にあった本間外科医院の娘さんだそうで、子供の頃の夏休みはお爺さんの所に長く居たそうです。中田床屋さんで調髪し、田中餅屋さんで買った栃餅が懐かしいと言ってました。何とかして宅急便で送ってもらいたいとか言ってましたねえ。子供の頃食べたあの味が今でも忘れられないと言うことですか。何かほろりとしました。
(山田)高橋幸次郎さんも栃餅をやってました。
ちょっと土産物とは違いますが、モジャキンさんの屋号は斉藤茂左衛門ですね。モザエモンのキンツバでモジャキンでしょうね。他所では栗型とかいろいろあったんでしょうが、あそこのは丸ですね。モジャキンさんと言えば、私のダンス仲間で羽茂の丹藤敦子さんが居ます。羽茂のイベントで彼女が時々キンツバを売ってるんですが、それがモジャキンさんのに形も味も似てる。聞いてみたらびっくり仰天。自分の母がキンツバを始めたのだが、母は若い頃両津夷のモジャキンさんから古いキンツバ製造機をもらい、製造技術は夷に行って習ったんだと。そう言えば、私ら家族は40年も前から元旦の午後は羽茂一宮詣でなんです。30年以上も前、社務所でキンツバ売ってるお婆ちゃんが居て、彼女の羽茂弁を聞くのが楽しみでした。毎年訪ねてキンツバを買い、会話するのが楽しみで、そのことを話すとお婆ちゃんも大層喜んでくれました。その方が何と親しい友人の母で、モジャキンさん系のキンツバだったとは。何のことはないわざわざ羽茂まで夷のキンツバを食べに行ったことになる。
キンツバの後には大判焼きが一世を風靡しましたね。私ら小学校の高額年頃に出ましたが、当時のあのおいしさは革命的でした。ちょっと高かったけど本当においしいと思いました。
一時ネット上でも有名になって、10年位前ですか、東京から来た知人がモジャキンに行きたいと言うので連れて行きました。昔は場所がすぐわかったのに、その時はなかなかわからないで。その辺の家がみな新しくなっており、その一つの家の一角がモジャキンでした。ポチャッとしたお婆さんが、夏でしたんで前のはだけたシャツで汗をふきふき作ってました。おっぱいがはみ出てるんで目のやり場に困りました。確か一個60円だったかな、余りの安さに驚きました。モジャキンは冷たくなってもおいしかったなあ。餡が甘すぎず癖になるうまさだったと思います。
このモジャキンさんの新築前の家は中川雀子さんが建てた家だそうで、くわがら屋さんは長くここに居たようです。
モジャキンさんのお嬢さんは斉藤奈津子さんだったと思いますが両小のPTA活動で仲間でしたが、頭の切れる人でしたねえ。なかなかの人物だった記憶があります。
(山田)茂左衛門さんは通称「もじゃむ」でしたね。モジャキンさんは一時佐渡汽船に出たんじゃなっかな。又ツルヤの「ハーティウッズ」にも出てたことがあります、ほんの最近ですが。お昼頃に行くとはや売り切れてました。それから本家帰りじゃないけど、今度夷から羽茂にモジャキンの作り方を習いにいかんとだけだなあ。私も、モジャキンのお婆ちゃんに誰か後継者に作り方を教えてくれっちゃと言ってたものですが、亡くなってしまい。
粉菓子もあった。どんなのがあったか覚えてませんが、観光用に形を変えてあったと思います。
菓子製造と言うと、小川屋さん、保刈さん、南雲さんとか。小川屋さん保刈さん(昭和11年生)は浜田で近所同士でしたし、南雲さんは神明町ですね。うちの近所には保刈さんの親戚と聞いてましたが丸藤パン屋があり保刈苗字でした。私の同年で元気のよい娘さん(保刈清美さん)が居ました。バスケやってたなあ。
朝、出来立てのパンを丸藤さんに買いに行ったものです。出来立てのパンのうまさったらありません。いつもツケで買ってました。コッペパンとか食パンとか、勿論ジャムパン、アンパン、クリームパンやメロンパンもあったかなあ。思いだすのは、大きなガラス瓶があり、そこにキャラメルがいっぱい入っており、一個50銭でした。当時既に銭単位はなかったですが、キャラメルは二個で一円と言う意味で50銭と書いたんだと思います。
「キン」ツバは金属製の刀の「ツバ」に形が似てるところからでしょうね。
(山田)小川屋、保刈さんが並んでましたが、これは近所の人に売ると言うより、田舎の店に卸してたんでしょう。だから隣同士でも一向にかまわないわけで。当時は冠婚葬祭に和菓子の需要は大きかったんでしょう。南雲さんは大正の古い地図にも載ってますし、元々は今の反対側にあり大火後に今の所に落ち着いたのでしょう。
保刈さんは和菓子ですから、そこの人が洋菓子もやりパン屋を夷新に開店したと言うことでしょうか。お父さんお母さんの顔も覚えています。お母さんは片手に障害があったと思います、機械に挟まれたとか。清美さんが高校生前後の頃に店は閉めた気がします。お父さんが亡くなったのかなあ。まるふじさんは店売りだけでしたね。
他には洋菓子でマリヤさんがありました。夷新で、中田床屋さんの隣かなあ。小さいですが、当時としてはお洒落な店でした。長男の磯野富士夫君が同年で、小学校時代は親しい友人でした。相撲が強く、同年では磯野君、石黒肉屋の石黒富雄、大場(後に榎)健次、長登敏郎君などが大きくて強い連中でした。長登君は柔道で、中学、高校と県のトップクラスの選手で、キックボクシングの東日本チャンピオンになり、その後格闘技で名を成し、ブラジルに修行に言ったとか。現在は武道道場をやってるはず。
(山田)保刈さんには私の弟と同級生がいました。
その方は京都の立命館を出て大同生命に勤めていました。保険の関係でうちとも取引がありましたが、私が同志社に入ったと聞くとことのほか喜んでくれ、同志社を誉めてくれたのを覚えています。自分もほんとは同志社に行きたかったとかおっしゃって。
同志社ついでなんですが、姿屋さんはお父さんが滝口三郎さんで東中等で英語の先生でした。退職後、アイワ会の重鎮で私も大変お世話になりました。その長男の方は耳に障害があるとかで、佐渡市職員でそちらの担当ですね。その弟さんがお父さんが英語の先生だったことも関係してるのか同志社を出て、大同生命に勤務していましたが、兄さんが言うには最近両津に戻って来てるとか。どうしたのかなと。
滝口三郎さんは最近亡くなりましたが、元は石塚三郎で、例の映画「飛べ!ダコタ」の部隊となった北立島出身で、その関係本に石塚三郎として登場します。英国人達と多少英語でやり取りしたんでしょうか。
姿屋さんに婿入りしたと思いますが、姿屋さんは元は滝口苗字ですよね。
滝口さんと言う大店があり、その後共楽パチンコさんになり、今は「ふれあい広場」になった場所ですね。共楽のお嬢さんの金村京子さんは、昭和23年生まれで青森県の三沢で育ち、自分は三沢の中学、八戸の高校を出たが、自分が中学の頃に両親は佐渡に亘ってパチンコ店を開いたと言ってました。すると昭和30年後半に開店ですから、その前に滝口商店があったと言うことですね。そこの娘さんが姿屋呉服店をやり、英語の先生石塚三郎さんが婿入りしたことになりますね。
(山田)正確には滝口百貨店と言いました。百貨店だから呉服以外にいろいろ扱ってたんでしょう。トランプ、百人一首なども売ってました。食品はなかったと思います。滝口苗字は和木かどこかにありましたから、そこから出たと聞いたことがあります。同級生も居ましたが、大学に行き卒業した頃亡くなりました。あそこにお婆さんが居ました。姿屋さんの経営者の母だと思います。
新穂に滝口綾子?さんと言う品のいいお婆ちゃんが居ました。息子さん?の関係でわが店でよく買い物をしてくれたんですが、滝口呉服店の関係者だと言ってました。姿屋さんの姉妹か、又は山田さんの言うお婆ちゃんの妹かも知れません。ただ滝口苗字ですんでどうなんでしょう。もしかして、滝口苗字のルーツが新穂とか。
元に戻り土産物ですが、鈴木ミシンさんが土産物屋でもありました。私の同級生に鈴木範夫君がおりました。お店は元々ミシン店で、観光が盛んになった時、そちらに重点を置き、お母さんは「楽園」と言うスナックも始めましたね。昭和40年代だと思います。お父さんはがっちりした無口の方、お母さんはぽっちゃりしてよくしゃべる方でした。範夫君はその後新潟に行き、佐渡汽船内で喫茶店をやったんじゃないかなあ。その後、並行してか、佐渡汽船を閉めてからかわかりませんが、新潟古町のバスセンターの所でラーメン屋をやっていました。
他に土産物と言うと、卸では以前出た正札屋さん、大手では佐渡汽船系の新潟県観光物産、小木の村川さんがやってた佐渡観光物産とか。前者では湊の坂本君が頑張ってました、私の2年下位かな、奥さんが私の同年の友人山本忍君(新潟交通勤務)の妹で美人でした。他には玉崎で私の一年下の加藤さん何かが所長やりました、後者は村川四郎市議の兄が創業者だったはずです。一時は手広くやってましたが、その後やめたんでしょうか。
(山田)菓子とか羊羹もあったんでしょうが、名前が変わってるだけで中身が特に変わってるわけでないしね。
他には、今市議やってる祝優雄君が湊の埠頭前で焼き物を中心とした店をやってました。
「アモーレ」か「アムール」かどっちかでしたね。神明町の伊藤七蔵さんの奥さんが自宅(角地)でやってた店がそのどっちかで。今は別の方が「四つ葉のクローバー」と言う軽食喫茶みたいな店をやってます。大正琴やってる昭和21年生の加茂の菊池さんの息子さんです。結構知られた店です。祝さんの店も南埠頭が出来てすぐでしたか。彼が昭和19年生まれですし、そう長くは続きませんでしたね。
話は変わってしまいますが、昔の魚市場から、夷一から出ていた築港には簡単に泳いでいけましたかね? 私は一度も行ったことがないんです。逆に言えばそれは小学校の低学年だったのかなあ。
(山田)それは子供でも簡単に泳いで行けたです。大した距離じゃなかったし。ただ、船が出入りして危険だったり汚かったりしてあまりそこで泳ぐ場所ではなかった。
そしてあの場所はその前は夷地区の魚市場だったんです。湊にも魚市場があり、夷にもあって、それが一緒になってその場所に両津魚市場ができたんです。
その昔の魚市場の前で漁業関係者がたくさん並んで映ってる写真がありますね。大正15年生まれの渡辺しろぜむさん、いわゆる渡辺オートさんのお母さん(お婆さん)が映ってる写真です。明治30年代の生まれの方でしょうから、その時代は明治末か大正で、場所はその後両津魚市場になった所でしょうかね。また、湊魚市場の写真も残ってますね。
(山田)佐渡汽船が埋め立てられて出来たのが昭和11年頃だから、その後の魚市場の場所はまだ海辺だったんで、最初の夷魚市場は加茂湖沿いかも知れません。今の加茂湖漁協辺りかなあ。湊魚市場も加茂湖側だし。
なるほど、当時はまだ開拓地と呼ばれてた場所ですね。大正14年の例の地図に出てますね!これによると、後に新潟交通の車庫になった所で、今の斎藤管工業さんの前です。
話が変わって、今萩田ビルになってる所は私の知ってる時代は新潟交通ビルでした。その前は貯蓄銀行だったそうですし、写真も残ってますが、山田さんはその時代はわかりますか?
(山田)私は貯蓄銀行時代は知っています。私が中学時代は貯蓄銀行でした。それが第四銀行に吸収されたわけです。
・昔の佐渡汽船(夷港)の建物をすぐ出た辺りに数軒か七八軒の土産物店がありました。簡単なアーケード街みたいなもので片側のみでした。その近くではハトヤさんも土産物店でした。
・その道を本町通りに突き当たって後藤清八さん、1,2軒おいてシマヤさん、藤新さんの隣には中川よしやさん、鈴木ミシンさんもやってました。それから丸屋書店の前辺りで佐渡屋さんも土産扱っていた気がします。確か小出苗字だったかな。正札屋さんは海岸通りに面した所で土産物卸をやってましたね。
(山田)正札屋さんはおけさ笠などをかなり扱ってました。笠などは両津では一手販売だったと思う。他の商品も扱っていたとは思いますがおけさ笠は印象に残っています。
正札屋さんの場所は以前には食品雑貨の末広屋さんでした。その後、私の隣、今の「再会」の場所に引っ越しましたが。
私の記憶では、佐渡観光がピークの頃に初めて気がします。店販売でなく倉庫みたいな所に配達商品が積み上げられて、確か小島さんとか言う若い授業員が居てワゴン車で土産物屋に配達していたんじゃなかったかなあ。忠男さんの父が新潟交通でしたから、その関係で土産物販売のルートがあり、忠男さんが第四銀行を退職?してから店を注いだのではないでしょうか。私は忠男さんの父は知りません。ただ、私が小学校に入学する時だったと思いますが、正札屋さんでランドセルを買った記憶があります。茶色の合成皮革で記憶では¥880でした。壁の所にたくさんつるしてあったものから選びました。
・文明堂さんもありました。今の島田医院の斜め前、即ち藤新さんの並びで数軒春日寄りでした。旦那さんはぽっちゃりた色白の人で、奥さんはきれいな方でした。
昭和41年に私は大学に入り、下宿先に土産を持って行く時に文渓堂さんで鬼太鼓の面を買ったものです。高級な彫り物ではなく、大量生産にもので、子供用にちょうど良い大きさの鬼太鼓面でした。今の金額で言うと\2500位のものでした。文明堂さんの弟さんがバー「京」をやった磯野恭二?さんですね。店は神明町で、私が大学の頃ですから、1階は「ミロ」と言うちょっとした高級バーでした。経営者は文明堂さんで、絵画の斎藤清先生や高橋信一先生も出資したと聞いていました。その二階が「京」だったのでしょうか、又は「ミロ」が閉店してから「京」が出来たのか、その辺りはわかりませんが。
磯野家の二人のお父さんは、いつも簡単な着物を着流して、うちの祖父がやってた碁会所の常連でした。屋号で呼んでましたが、仲四郎さんじゃないですよね、そんな名前でした。他にはマルエさん。坊主刈りで多少白髪が混じってました。今の有恒さん正孝さんの父ですよね。二人の上に新潟県の教育次長や新潟中央高校校長、新潟薬科大学教授を歴任した方がいます、阿田辺栄一さんですね。専門は英語関係だったような。相模原伊藤病院を創立した伊藤茂先生のお父さんも常連でした。両津警察の岩下さんもいたなあ、背が高くてハンサムな人でした。糸魚川の人とか聞いてましたが、長く両津警察に居ました。他には、山田さんの近所で下駄屋さんをしていた中田さんと言う丸々したおじさんもいました。中田下駄屋さんと言ってた記憶があります。
(山田)磯野さんは今の着物売ってる「かねもり」だと思う。さっき出た仲四郎さんは藤新のとこじゃないかな。藤新にいた。
実はヤマトヤは今の藤新さんに間借りしてましたんで、私が父や祖父から仲四郎と言う名前を聞いていたのかもしれません。仲四郎さんだけでなく、中野屋と言うおじいさんも碁仲間でした。この方が伊藤茂先生の父かも知れませんが。
他には夷2の裏通り(後に日賀志屋倉庫)におけさ会館がありました。佐渡観光全盛時だったでしょうか。昭和40年頃かな。その真ん前に大きな土産物屋が出来ました。経営者は真野の金杉さんでした。私らの数年上の背の高いハンサムな方で、その後「朱鷺の郷」の食堂を経営した方です。金杉人形店とか言ってましたから、お父さんの代では竹細工でおけさ人形を作っていたのかも知れませんん。ただ、真野から来た人が全てをやるってのも変ですから、もしかして一部が金杉さんで、その他は両津の土産物組合などが入っていたのかもしれません。
おけさ会館は割と簡単なつくりでした。青野屋さんが市会議員選挙に出る時、斉藤甲子郎さんが市長選挙に出る時、総決起大会や祝勝会をあそこでやりましたし、南中の何十周年記念の祝宴そこでやったのを覚えています。簡素な造りとは言え、結構広く、二階席もあったんじゃないかなあ。まあそれだけ観光客を収容できたんでしょうね。
(山田)元々は夷新の正覚寺の前の両津会館(今は渡辺産商さん経営のマンション)で佐渡民謡等を演じていたのが、閉館になったんでおけさ会館としてそちらに行ったのでしょう。まあ、両津会館は映画中心でしたから、映画が斜陽になり佐渡民謡だけでは経営できなくなったんだと思います。
そう言えば、ストリップ劇場がありました。場所は神明町から有楽街を抜けて八郎平町に出た左側ですね。今は、王将さんの息子(私達はタンチと言ってた。今年、平成30年亡くなった)さんが「象のすみか」とか言う名前の和風スナックうぃやってる場所ですかね。八郎平町のストリップ劇場がなくなってから、両津会館でもストリップをやってましたね。王将さん(山本苗字)が経営で、私が両小PTAの役員の時、先生方と王将さんの店(「王将」or「プリズナー」)で飲み、そこには出番でないストリッパーの方がホステスさんしてて、彼女の誘いで先生方と一緒に両津会館へストリップ身に行ったこともあります。先生はびくびくしながら喜んでました。(笑)
(山田)有楽街の出口の右最後の店が「アリババ」で、元は魚喜知の横辺りでした。魚喜知は吉田家の前(加茂湖側の湊側)ですね。火事で三人亡くなった内海さんの前です。有楽街は甲陽館で、元は遊郭でしょうし、それが旅館になり、その後は山喜さんが居抜きで旅館をしました。それが取り壊され通路となったわけです。
神明町の伊藤七蔵の角では一時土産物をやりました。吉田家があり花月があり、当時は観光客が外へ出て土産物を買う時代でしたから。そこに店があれば売れたはずです。土産販売では一等地です。スナック「ベル」さんが言うには、当時観光客が多くてスナックに入り切れず、外で並んで待ってたものだと。浴衣や下駄に旅館名が書かれてあったりなかったりしましたが、酔っぱらった連中が俺の旅館はどこだ?!などとウロウロしてたものです、この辺りは。ただ七蔵さんは短い期間でしたね。
それが、いつの間にかホテルの中でスナックが出来、土産物コーナーが出来て外に出ることが少なくなったと言うことです。土産物やめたと言うんで、私なども竹製おけさ人形などをもらったものです。
「アリババ」は高橋苗字で、そこの息子さんが現在の佐渡市消防署のナンバー2の菊池真也君かな、同じ市役所勤務の吾潟の菊池家に婿入りした。
そう言えば、私の店の辺りにも観光客が道を間違って旅館の場所を訪ねたもんです。
一度など尊大な態度で「ストリップ劇場どこだ」なんて聞くんで、頭に来て海の方を指さし、あっちあっち!などと言ったこともありました。
山喜さんはそこで旅館のノウハウを学び、新潟の礎町の角で山喜旅館を経営したんですね。わたしの小学6年の修学旅行は新潟ですが、山喜さんに泊まりました。何か繁盛してる感じでした。その後、元気のよい男の子が4人成人し、一気に両津、そして相川と大ホテルをオープンしたんですね。一時の隆盛は驚くばかりでした。相川が長男、両津が次男の啓四郎さん、一時相撲取りになり吹雪島のしこ名で幕下まで行ってました。ただ小柄でしたねえ、身長も170㎝はなかったはず。横綱吉葉山門下ですから、高島部屋ですか。そのすぐ下には木島敏雄さんが千鳥島と言うしこ名で幕下かその下あたりまで行きました。細いが身長は185㎝位もありました。諏方神社の立派な狛犬は山口菊治さんの名前がありますし、夷二の町に立派な大太鼓小太鼓、そしてその後でしょうか豪華な子供神輿を寄贈いただきました。3男、4男は山口苗字でなく福島、川口苗字で通ってました。戸籍は山口ですが、お客様に同族と思われないように、胸のネームカードには別の苗字を書いたんでしょうね。なるほど、山口家は本当に商売に徹した家だったんだと思います。まあ、残念ながら昨年(平成29年?)相川ヤマキホテルは閉店し、又両津のヤマキホテルは経営母体は山口家ではなくなったと思います。相川ヤマキは、長男の娘さんが嫁いで佐藤苗字となり、アメリカの大学を出た?息子の佐藤達也?君とホテルを切り盛りして居ました。今は息子さんは佐渡観光協会勤務ですし、お母さんは新穂長畝で「おかめパン」と言う店を出しています。
(山田)有楽街と言えば神明町側の入口右側の二階が喫茶「北欧」でした。キラクホテルさん経営です。「北欧」ママは今店の道挟んで反対側に住んでいます。キラクさんを出たのかどうかは知りませんが。
詳しくは知りませんが、キラクさんは今はうちのせがれと同年の友人である44位の寛人(ひろと)くんが社長です。結婚が遅かったんですが、昨年、加茂の中瀬三のお嬢さんをもらいました。博美ちゃんかな、ぱりぱりした子でホテル関係の学校出てますからおかみさん二は最高です。おめでたいことです。お父さんは大病しましたが元気になりました。私の4つほど下で奥さんは潟上の永井さんからで昭和23年生まれです。
「北欧」のママはキラクの後継ぎだったのかお嫁さんかは知りませんが華やかな方でした。キラクさんの娘さんで池袋で「佐渡」と言う小料理屋をされてる方もいましたね。もう一人は、北小浦出の浅井さんの奥さんですし。
古い写真には、以前川上歯科医院があった場所にあった喜楽旅館の前で主が写ってるものがあります。ハンサムな方です。
キラクさんは鳴子屋さんの親戚で、鳴子屋さんはちょっとした料亭みたいなことをやっていたそうですね。
その鳴子屋さんが、私の大学時代ですから昭和40年代前半ですが、神明町のどこかの二階で「紫苑(しえん)」と言うスナックをやり若者に大変な人気店でした。刺したとか刺されたとかの話もありました。その「紫苑」はその後、新潟の佐渡汽船が移転するとその一角に同名の喫茶店をやってましたね。両津を閉店して新潟に店を出したんですね。
(山田)鳴子屋と言うのは神明町の一階にあった和風のちょっと高級な飲み屋でした。座敷に上がって飲むような。今の「銀太郎」の場所です。ホープのママ(渡辺注:山川さん)はそこに勤めてました。旦那さんは丸勇畳屋の息子さん斎藤勇一郎さんです。
鳴子屋さんは何度か見ましたが小柄で小太りの如何にも料亭の主と言う感じでした。気さくな方で。すると、鳴子屋さんは一階、紫苑は二階ですね。私は紫苑の記憶しかないんですが、当時も一階には鳴子屋と言うお店があったかも知れません。大学生の私とは縁のない店だったので記憶にないのかな。
(山田)そうすると、鳴子屋は元々一階、二階に部屋があり、昭和40年に入った頃に二階を若者向けのスナック紫苑にしたのかな。
先程の斎藤勇一郎さんは、私の子供時代は両津に居なくて、私が佐渡に帰った頃に帰郷して斎藤商事と言う室内装飾の会社を興したんだと思います。友人の小林忠雄さんと二人で興したと聞いています。小林さんは芝浦工大obでしたからもしかして斉藤さんも同じ大が気だったかもしれません。ともあれ、二人は親しい友人だと聞いてました。青年会議所が出来た時、私も会員になりましたが、その時の初代か二代の会長が小林さんでした。渡辺秀樹さんと二人が中心になって佐渡に持ってきた会でした。小林商事は今の社長の小林重則君は忠雄さんの息子さんですから、今は小林家の経営ですが、会社名は「斎藤」商事ですね。
※「再会」のママが、ホープのママが鳴子屋に勤めていたのは知らないけど、山本しょーちゃんの奥さんのみどりさんが鳴子屋に勤めていたのは知ってると話す。
そう言えば「みどり」と言うバーがありましたね。私らよりずっと年上でしたが、ママさんが美人でした。何度か行きましたし、結構繁盛店でしたね。
(「再会」ママ)「リヨン」は今の「天の川荘」の所にあり、相川から来た年取った主と若い奥さんが経営者でした。経営者は二階に住んでました。その息子さんが山本しょーちゃんです。そこにみどりさんが勤めていてしょーちゃんと結婚したんです。正式には山本正治です。10年位前に亡くなりました。(山田注:正治さんは昭和8年生)
しょーちゃんとみどりさんの娘さんが夷2の光電社の奥さんです、きれいな人ですわ。その兄は確か新大を出て県内で教員をしてると聞きました。山本しょーちゃんが優秀だったと聞いてますので、その血があるんですね。
(山田)鳴子屋ははやってました。私が郵便局に入った頃ですが。まあ、あの当時は神明町はどこもはやってましたが。
丸屋の裏に「なかよし」と言う芸者置き屋がありました。
土産物に戻りますが、佐渡汽船が湊側に移り、ターミナルビルが出来た。両津の土産物屋さんは大打撃でしたが、協同組合を作って、ビルにいくつかのスペースを確保して土産物販売を始めました。当時はたくさんの土産物屋さんが権利を持っていたのでしょうが、今はシマヤさん、中川よしやさんとか、そんなにお店はないんじゃないでしょうか。
湊地区は千載一遇のチャンスとばかり湊商事と言う会社を立ち上げ、土産物販売に手を出した。喫茶「カド」の隣辺りに事務所を開設したのを覚えています。 創立時は年長者の富田さん(現「ロータリー」)が会長、副会長が斎藤幸之助さん、吉島さん、事務局長が中村怜さんだったと思います。中村さんは、自宅の近くにあった両津消防署に勤めてましたが、間もなく退職して湊商事に専念したと思います。その後、自民党の患部になったりして政治的にも活躍されました。喫茶「カド」も繁盛しました。吉島、斉藤さんもターミナルとは別に自宅の裏側(ターミナル真ん前)に土産物屋を開店しましたね。今両津港ターミナルで各種イベントを行ってますが、その代表の斎藤勉氏は幸之助さんの長男ですね。彼は神明町には「幸之助」と言う赤ちょうちんの店、ターミナル一階には「幸ちゃん」と言うちょっとした飲食店を出してます。どちらも父親の幸之助さんに因んでつけた名前ですね、ちょっといい話だと思っています。彼は自ら先頭に立って色々頑張ってます。大したものです。
(山田)佐渡汽船が湊側に移転した時に、湊には大物市議の中川瓦屋さんこと中川吉右衛門さんが居まして湊発展の好機といろいろ音頭をとって頑張ったそうです。いくらいい機会があってもしっかりしたリーダーが居ると居ないとでは大違いってことですね。夷側にはその点ちょっと不足していました。鬼太鼓ドームにしてもあれだけ行事が行われて居ますから、あれを活用してここまで持ってきたのは湊地区の結束のたまものです。夷とその点ちょっと違います。
私も当時は若かったんで内容はわかりませんでしたが、当時県議だった新穂の中川秀平さんに対して斎藤幸之助さん達が集団で怒鳴りつけたなんて勇ましい話も漏れ聞きました。今思えば、現在ある改札口出口の土産物街の造り方で中川県議と湊関係者の間で大きな考えの違いがあったんでしょう。そうは言っても力のある県議に対してそれほど大胆に物が言える人物たちが湊に居たと言うことでしょうか。県議を超えて、市長や国会議員とのコネも必要だったでしょうしね。
あの鬼太鼓ドームにしても、元来は阪神淡路大震災の後、各地に災害時の避難場所としてあのようなスペースが確保されたわけです。元々はイベント会場でも何でもない。しかし、それを使用目的範囲内で最大限に湊の人達は活用していると言うことです。
ところで、当時の土産物と言うと今とはまるっきり違ってましたね。とても懐かしく感じられます。先ず、精巧な竹細工でブローチなどがありました。今でも覚えてますがセミなどもありました。最近偶然ネットで見つけたのですが、昭和30年代に佐渡で販売されていた竹製品と紹介しつつ、あの当時と似た作品が東京の会社でネット販売されていました。直接佐渡関係の楷書ではないようでしたが。あれなどは元々佐渡では誰が作っていたんでしょうね。












(山田)当時はともかく竹細工職人が居ました。例えばうちの近所で言うと、「再会」を下って火事で全焼した内海さんの手前辺りに川崎さんと言う竹細工職人が居ました。
小菅先生が書かれた新保の竹細工関係の本に詳しく出てましたねえ。昭和3年の夷大火の本(渡辺注:若林甫周著)の被災者名に仲川十左衛門さんも載ってましたね。ただ、その火事の当時、「佐渡タイムス」さんはその場所にあったかどうかはわかりません。私の知ってるのは火事の後の「佐渡タイムス」の建物で、とても洋風な建築でした。
内海精米所さんは、神明町のずっと福浦側にあり、住まいは「佐渡タイムズ」さんの家を求めてそこに入ったわけです。だからちょっとモダンな建物で、その一階はちょっとした雑貨屋さんにしてました。その後、三階のビルにし、家事を出して三人が焼死したと言うことです。私の子供の頃はなにも知らないんで、ただタイムスタイムスと呼んでました。外側が洋風で。
私は夷一の岩谷栄治さんくらいしか知らないんですが。藤原製麺を海岸に下りてすぐ左側にありました。20年くらい前ですか、火事で全焼し、この地を離れました。私のちょっとしたの男女が一人ずついましたが。親父さんは鴨湖会の歌い手でしたね。福浦の加茂湖側裏通りに板井さんと言う職人さんもいました。うちの親父より年上に見える上品な方でした。お嬢さんが私の少々下かな、きれいな方でした。
新保の竹細工と言うと、仲川十左衛門さんの新保同志団ですね。その中川さんはその後夷に出て、今出てきた内海さんの所で「佐渡タイムス」と言う新聞を発行していた。
その後、わかったこともあるんですが、中川十左衛門さんの奥さん?が小木出身の芸者さんで、弟二人の学資の面倒をみて二人とも教員になった。兄が私らの時の両津小の校長だった木村幸次郎さん。弟の武さんも船栄中等の校長となり、新潟大学系の教員組織常盤会会長になった方です。木村兄弟の二人の姉の一人は小木の歯科医師北島仁さんに嫁ぎました。佐渡高校obですが、私の同年で今、東京の連合佐渡会の役員やってます北島准氏はその息子さんです。尚、木村幸次郎さんの娘さんが夷一の坂口昭一先生の奥様美年子さんですね。幸次郎先生の住まいは、森田床屋さんの1、2軒加茂湖側の家だったはずです。洋風の門があって、ちょっとした庭があり、奥に洋館風の建物があった気がします。とても英国的だった印象があります。幸次郎先生の奥さんは私の頃、即ち昭和35年頃は南中の美術の先生で、とても怖かったことを覚えています。何か私が反抗的だったんだと思いますが、美術が5点評価の2だったことを覚えています。後にも先にも私が2だったのは、この時と佐山勇先生の書道の二回です。佐山先生の習字はそれなりに評価されてたんですが、相撲大会の選手に(本人の許可なく勝手に)選ばれたんですが、練習に一度もいかなかった時です。先生に尋ねると、「習字の心も相撲の心も同じものだ。相撲の練習をさぼる者は書道でも精神がなったないと言うことだ」と一蹴されました。人間性もあって、佐山先生のその処置には不思議と頭に来ないで、何だか納得しましたね。それまでに何度か習字で誉められていたんで、自分にとって佐山先生は立派な先生だったからです。書道の授業で、筆でなく何か別のものを使って字を書けと言うのがありました。幾つか、例えばこんなものを使ってと言うヒントの中に稲の穂があったんで、それを数本束ねて、一番簡単な文字「力」を、それこそ力強く書きました。これは大変ほめられましたねえ。自分としていい出来だと思いました。
土産物に戻りますが、神蔵武志さんも土産物を作ってましたよね?
(山田)神蔵さんは元々は歯科技工士です。本間林三先生とはそんな縁があり、若い頃本間林三先生の文化グループに入ってました。晩年に土産物を作っていた気はします。神蔵さんは畑野生まれで実家は下駄屋さんだったそうです。
神蔵さんの奥様はサクヨさんで両津病院の看護婦さんで、岩田歯科の秀夫先生の姉ですね。武志さんはとてもハイカラな人でした。社交ダンスもやってました。
岩田さんと言う苗字はどこから来てるんでしょうかね。岩田苗字は金井に何軒かありますね、校長先生や元共同通信の岩田雅(まさる)さんとか。秀夫さんの父は退職後だと思いますが、誘致企業で最初三瀬川辺りに出来た佐分工業の所長さんでした。秀夫さんの姉は新潟で日本舞踊の先生だと聞いています。奥田保保険の奥田富子さん達が古い両津甚句を復活するとかの時、岩田先生に踊りのご指導を頂いたと聞いています。旦那さんが亡くなり遺稿集の川柳本を出版されました。佐渡の新穂出身で荒井冽と言う方だったんで、すぐに荒井実さんの息子さんかなと思いました。実氏は佐渡博物館の芸能部会の会長さんなどをしてましたし、能や鬼太鼓に関しての文章を多く書かれています。新穂で第四銀行の支店などもしてたそうです。冽さんも第四銀行obと聞きましたから間違いないでしょうね。
(山田)岩田秀夫さんのお母さんは婦人会活動を頑張ってましたね。岩田タネさんですか。保屋の奥さん、山本桝屋のお母さんた達が仲間に居ました。他には桝口さんとか。
大概は旧制女学校卒の方でしょうね。岩田さんのお父さんは職安とかそう言った公的機関にお勤めだったと思います。
桝口さんは両津高校1回生ですね。
他の土産と言うと、土人形で、のろま人形の頭(かしら)を串刺しにしたようなものがありました。今思うと何とも言えない味のある土産でした。あれは中川雀子さん辺りが考案したんでしょうか。雀子さんは多くの土産物も作ってたそうですし。おけさ人形と並んで佐渡土産の代表的な逸品でした。人形のそれぞれの顔がしっかり作られており、製作者はただ者ではなかったはずです。
雀子さんの土人形は近所であった夷二の根塚徳右衛門さんの型を使ったんでしょうね。
人形芝居の藤村半四郎さん、祝次郎助さんも夷1,2の近所ですし、半四郎さんは古銭研究家でもあったわけで、中川雀子さんは身近にたまたますごい人達が居たってことになりますね。
(山田)おの串に刺した独特ののろま人形の土人形は間違いなく中川雀子さん辺りじゃないかと思います。中川雀子さんは自由人でありながら、本当に美しいもの価値のあるものを見抜く目があったんでしょうね。土産物物一つとっても芸術作品ですし。
雀子さんは家が貧しくて学校に行けなかったが、近所に官選夷区長の石井秀次郎さん(石井文海の子)が居て勉強を習い、古銭研究家、土人形師、人形芝居座を近くにあったとなりますね。その文化的環境あってこそ、かの中川雀子が生まれたと言うことでしょうか。
佐渡土産にもどりますが、当時かなりで回りましたし、最近、若い佐渡市議の室岡君が時々話に出すんですが、イカ徳利がありました。
イカのはらわたを抜いて、中を空洞にして固く成形し徳利型にする。そこに酒を入れて飲めば、イカの風味が混じって独特の酒を楽しめると言うことです。
私は利用したことはありませんし、どんな味かわかりませんが、何かトライしてみたいですねえ、今なら。私の小、中学頃は土産物屋には必ずあったと思います。
当時の記憶では、両津高校の水産製造科が発明して発売したとか聞いてます。そう言えば、当時、両津高校水産製造科は缶詰などを作っていて、一年に一度、数日間を製造科のあった住吉後者で製造品を一般の人に販売してましたね。魚缶詰が多かったんだろうと思いますが、ブリキの缶に紙を貼り付けマジックで商品名と製造日辺りを書いて張ってました。思いま出します。そんな時代があったんですねえ。私が高校に入った時にはなかった気がしますがどうなんでしょうか。
おけさ人形も土産物の代表でした。これはどこで作ってたんでしょうかねえ。
(山田)本間幸二さんです、高橋信一先生の弟の。あくまでおけさ人形を製作して販売する店で、当時はおけさ人形が飛ぶように売れた時代ですから、作ればすぐに売れたんでしょうね。「みさお」さんは多少他の土産物も扱っていたかも知れません。奥さんも上品な人で一緒に人形を作ってましたね。
「みさお」人形店ですねえ。子供さんが二人いて、私の二年ほど先輩と1年下で二人ともとっても美人だった記憶がありあります。今もあの店の様子は覚えてますが、本郁さんの手前辺りかなあ、又は今本郁さんは間口が広いですが、その半分がそうだったかも知れません。もしかしてその後、店名は忘れましたが相川から来た村田勇さん経営のベビー用品店になった店かも知れません。間口は狭いが結構奥行きはありました。村田さんは商工会青年部等で大変お世話になりましたが、相川羽田のマルニさん(風岡苗字)と言う大きな店に勤めており両津で独立したと聞いてました。奥さんが五泉屋さんの奥さんと姉妹だったかなあ、違うかも。
本間幸二さんはハンマー投げで大学か何かの大会で日本一とか準優勝とかのスポーツマンだったそうですが、そんな風には全く見えない、普通の体格で優しそうな芸術家風の方でした。兄の信一先生もそうですが、運動と芸術の両面を備え持ったと言うことですか。
幸二さんがいつも店に座っていたのを覚えてますから、座っておけさ人形を作っていたんでしょうね。奥さんも一緒に。
おけさ笠は夷では作ってなかったですよね。今でも、畑野では飯持地区(昔は河内)の九十過ぎた伊達さん(佐渡病院前、パーマの「ベルマン」小田恵子さんの母)がおけさ笠を作ってまして、民謡関係者はそこで求めています。伊達さんの弟子筋も何人かいるようです。
これにしても、わらの選別、乾燥、作成等大変な技術が要るに違いありません。
おけさ人形は大小があり、大量販売用のものから、大きくて相当の値段のするものもありましたよね。
今思いだしましたが、両津に初めてやって着た文部省派遣の外国人英語教師デビッド・ストーマ―さん(当時AET、現在ALT)が利用する時、確か平成2年頃ですが、その時南中の英語の先生だった児玉敦子先生がおけさ人形をお土産に差し上げたのを覚えています。その時、まだおけさ人形ってあったんだ・・と驚いた記憶があります。これはガラスは子が30×30×70㎝位の箱に入ったものでした。私はどうやって持って帰るんだろうと心配しましたが、たまたま車で帰る人に同乗して行くとかで車で運んだようでした。
(山田)竹細工でおけさ人形を作ったのもありました。竹を大きく裂いて独特の形のおけさ人形に仕上げていました。
「赤泊資料館」

ありましたねえ! 竹を細く籤(ひご)にしたのでなく、大きく咲いてデフォルメしたおけさ人形にするものでした。細部と言うより、イメージでおけさ人形らしさを出すと言うか。今考えれば、造形的芸術的に大変高度なものだった気がします。竹の丸みをうまく利用したものでした。
鬼太鼓の面がありましたねえ。手のひらより小さいものから、子供の顔位の物まであった気がします。私的な話ですが、昭和31年に京都の大学で学んだんですが、下宿先にお土産として鬼太鼓の面を持って行きました。一対だったのか一つだけか覚えていませんが、今の値段で言えば\3000位と思います。物の割に案外安かったのはある程度大量生産できる仕組みがあったんでしょう。しっかりした手作りの芸術的な物ではありませんでした。枠にはめて作れるものですから、材料は木製でなく、粘度と言うか、粘土と紙を混ぜたようなものだった気がします。それを塗装でうまくごまかすと言うか。四角な木製台座につけたあり、四角な箱に入れて渡してくれましたね。お土産で届けた下宿屋のお母さん(京都市小山上板倉町の竹内千代さん、現在は竹内医院、弟が医師となり家を継いだ)夷の文明堂さんで買いました。今の「カネモリ」辺りでしょうか。奥さんがきれいな方だったのを覚えています。旦那さんは当時新潟の佐渡汽船(礎町辺り)の近くに土産店だか食堂だかと出店していた記憶があります。その話はその後だったかも知れませんが。
当時の佐渡の土産物は今に思うと上質なものがおおいですよね。これは中川雀子さん、本間幸二さん他、目利きの出来る人達が多くいたんでしょうね。佐渡観光、佐渡民謡に大変な尽力を去れた金井の川辺時三医師も佐渡土産について研究され、かの雑誌「磯打つ波」は佐渡土産物研究会とか言う組織の発行だった気がします。
あの当時の土産物は、当時土産物屋だったお店の蔵辺りに放り出されている気がしますね。
佐渡汽船でおばあちゃん達が何か売ってたのはずっと後ですかね。
(山田)あの時お母さんお婆ちゃんが売ってたのは先ずはわかめです。昔の佐渡汽船の場所は今は北埠頭と言いますが、昔は中央ふ頭でした。その時、観光客が観光バスに乗る時などにお婆ちゃん達が走り寄ってわかめを売ったものです。元々は二見とか産地から来て売ってたんでしょうが、その内三陸とか佐渡と関係ないとこのわかめを大量に売りさばいたり、また売り方が観光客にまとわりついてしつこいとかの苦情が高まって大騒ぎになりました。監視の目が強くなり少しづつ減っていきましたね。今の南埠頭になってからも多少はありましたが、そんなに売れなかった気がします。
一つの理由は、土産物関係者が行政に働きかけたことだと思います。業者からすれば大変な営業妨害ですし、その説明としては観光客が売り子がしつこくて辟易してる、また、その商品が現地ものではない、と言うことです。ある意味筋の通ることです。
土産物業者の人が現物を手に入れて商品の仕入れ先を調べるのは容易ですから。
おばあちゃん達は特に悪意はなくて、元々家で採ったものを売ってたが、商品が無くなればどこかから集めて売るのは自然の流れです。小銭も結構入るわけで。
これは観光客相手の話ですが、それまでは外海府辺りからアオネバを越えてやって来て夷辺りでわかめなどを売って歩いたものです。うち(山田家)は母が海府の出なんで大きな籠を背負って来て、我が家に下して、一軒一軒売って歩いていました。そのお婆さんは、両津小の校長やった浜田毅の母で95歳(平成30年当時)ですが、当時のことを聞きたいと思っているのですが、なかなかかないません。商品はわかめの他にも塩イカ、干イカがありました。
一夜干しもその後出ましたが、これはある程度冷凍技術や保管技術が進化してからの産物と思います。昔の写真などで、湊のサンキ(三国苗字で三国医院の反対側、今の新潟交通車庫にあった大きな海産物問屋。三国医院の創業者、三国栄次郎医師はサンキの人。山喜か。)さんの写真などで大規模にイカを乾燥させている場面がありますが、あれが干しイカでしょう。写真のようにあれだけ大量に干しイカを製造し、実際売れてたんですね。しかもサンキだけではありません。正月には松飾等にも利用するわけですし。松飾の所に干イカを一匹そのまま、イカの足を松飾の枝に縛り付けたんです。三角の頭は下を向いていて。最近までやってましたよ。
うちは10年前位までやってましたね。
一夜干しと言うのはその後出たもので、一晩だけ干しただけだから柔らかくて食べやすいと言うことで人気が出たんでしょうね。さっと一あぶりして食べられる。一方、干しイカは確かに固くて歯がわるい人には食べられない。私などただなめてるだけで。
そうそう、フグのハリセンボンも真ん丸にして観光土産になってました。観光客からすれば珍しいし、如何にも佐渡ヶ島らしい土産物だったんじゃないでしょうか。
(山田)ハリセンボンは中に豆電球入れて提灯にした気がするなあ。フグちょうちんというか。
私の家か、よその家か定かではないですが、家の玄関に垂らしてありました。悪い奴が入ると針で刺されるみたいな迷信でしょうか。
うちの女房は三島郡越路町なんですが、鮮魚がない場所ですから、子供の頃は姫津の棒鱈を食べたと言ってました。姫津って名前を覚えてました。まあ棒鱈ですから、タラを乾燥させてカチカチにしたものを、冬にお湯を通して柔らかくして煮付けなどにして食べたんでしょう。
ミリン干しもありました。イワシを開いてミリンに漬けてそれにゴマなどを振り甘く似て乾燥させたんでしょうか。焼いて食べると本当においしいものでした。今も年に数回食べたりすると懐かしい味がしますねえ。
佐渡独特ではないんでしょうが、佐渡の土産としてはかなり売れたんじゃないでしょうか。
(山田)土産物で他には、高橋幸次郎さん製の「わかめ最中」もありました。私らより年上の人が居ますが、その親父さんがわかめ最中を初めて作ったんです。何とか言う賞をもらったりして。
名田製菓さんも土産物のお菓子関係をやってましたね、真木か椎泊ですね。私の一年下位の方が社長ですが、その親父さんが始めたのかなあ。当時は最中で佐渡おけさや鬼太鼓の形を取り入れたりしたものが結構ありました。最中は案外成型しやすいし。おけさ笠の形もあったのかなあ。
(山田)他には佐渡に関した饅頭関係も多かったはず。干し柿も土産にあったと思う。縄に何個かをつないだものです。今のアンポ柿でなく昔風のもので、かなり固いものでした。私は当時のものが好きですがねえ。
栃餅がありました。佐渡独特ではないでしょうが、おいしいものです。西山とち餅屋、田中餅屋さんですね。現在の西山さんの当主はみゆきさんで、私らの三つ下だと思いますが、職業病なのかどうか、かなり腰が曲がってます。そのお母さんも同じく腰が曲がってました。私はお母さんの旦那さんは全く見たことありませんが、新潟の人だと聞いてます。みゆきさんも離婚されましたし、親子ともとてもいろんな意味で似てる気がします。みゆきさんは三人姉妹の長女で、次女は湊一?の栗山さんに、三女はバスケ同士で白山の祝博之さん(佐渡汽船運輸社長?)の奥さんです。皆さん美形です。今年(h30年)2月24日の内田家具さんの住居を火元とする火事(5軒全焼)で西山さんも全焼しました。長女優子ちゃんが東京から大工さんの婿さんをもらって家を継ぎ、妹の佳奈ちゃんは裏でカフェ「Heavens Kitchen」をやってますね。
西山さんはもう栃餅製造はやめたのかな。田中さんの方は勿論続いて繁盛してますね。ヨモギ餅とかいろいろあるようです。奥さんは小池荘一郎さんの長女ですか。
田中さんと言えば、ネットの同志社ラグビーサイトで知り合った同志社obで鎌倉在住の森庸弘さんと言う方と一時ネット上で交流しました。彼の母が夷新にあった本間外科医院の娘さんだそうで、子供の頃の夏休みはお爺さんの所に長く居たそうです。中田床屋さんで調髪し、田中餅屋さんで買った栃餅が懐かしいと言ってました。何とかして宅急便で送ってもらいたいとか言ってましたねえ。子供の頃食べたあの味が今でも忘れられないと言うことですか。何かほろりとしました。
(山田)高橋幸次郎さんも栃餅をやってました。
ちょっと土産物とは違いますが、モジャキンさんの屋号は斉藤茂左衛門ですね。モザエモンのキンツバでモジャキンでしょうね。他所では栗型とかいろいろあったんでしょうが、あそこのは丸ですね。モジャキンさんと言えば、私のダンス仲間で羽茂の丹藤敦子さんが居ます。羽茂のイベントで彼女が時々キンツバを売ってるんですが、それがモジャキンさんのに形も味も似てる。聞いてみたらびっくり仰天。自分の母がキンツバを始めたのだが、母は若い頃両津夷のモジャキンさんから古いキンツバ製造機をもらい、製造技術は夷に行って習ったんだと。そう言えば、私ら家族は40年も前から元旦の午後は羽茂一宮詣でなんです。30年以上も前、社務所でキンツバ売ってるお婆ちゃんが居て、彼女の羽茂弁を聞くのが楽しみでした。毎年訪ねてキンツバを買い、会話するのが楽しみで、そのことを話すとお婆ちゃんも大層喜んでくれました。その方が何と親しい友人の母で、モジャキンさん系のキンツバだったとは。何のことはないわざわざ羽茂まで夷のキンツバを食べに行ったことになる。
キンツバの後には大判焼きが一世を風靡しましたね。私ら小学校の高額年頃に出ましたが、当時のあのおいしさは革命的でした。ちょっと高かったけど本当においしいと思いました。
一時ネット上でも有名になって、10年位前ですか、東京から来た知人がモジャキンに行きたいと言うので連れて行きました。昔は場所がすぐわかったのに、その時はなかなかわからないで。その辺の家がみな新しくなっており、その一つの家の一角がモジャキンでした。ポチャッとしたお婆さんが、夏でしたんで前のはだけたシャツで汗をふきふき作ってました。おっぱいがはみ出てるんで目のやり場に困りました。確か一個60円だったかな、余りの安さに驚きました。モジャキンは冷たくなってもおいしかったなあ。餡が甘すぎず癖になるうまさだったと思います。
このモジャキンさんの新築前の家は中川雀子さんが建てた家だそうで、くわがら屋さんは長くここに居たようです。
モジャキンさんのお嬢さんは斉藤奈津子さんだったと思いますが両小のPTA活動で仲間でしたが、頭の切れる人でしたねえ。なかなかの人物だった記憶があります。
(山田)茂左衛門さんは通称「もじゃむ」でしたね。モジャキンさんは一時佐渡汽船に出たんじゃなっかな。又ツルヤの「ハーティウッズ」にも出てたことがあります、ほんの最近ですが。お昼頃に行くとはや売り切れてました。それから本家帰りじゃないけど、今度夷から羽茂にモジャキンの作り方を習いにいかんとだけだなあ。私も、モジャキンのお婆ちゃんに誰か後継者に作り方を教えてくれっちゃと言ってたものですが、亡くなってしまい。
粉菓子もあった。どんなのがあったか覚えてませんが、観光用に形を変えてあったと思います。
菓子製造と言うと、小川屋さん、保刈さん、南雲さんとか。小川屋さん保刈さん(昭和11年生)は浜田で近所同士でしたし、南雲さんは神明町ですね。うちの近所には保刈さんの親戚と聞いてましたが丸藤パン屋があり保刈苗字でした。私の同年で元気のよい娘さん(保刈清美さん)が居ました。バスケやってたなあ。
朝、出来立てのパンを丸藤さんに買いに行ったものです。出来立てのパンのうまさったらありません。いつもツケで買ってました。コッペパンとか食パンとか、勿論ジャムパン、アンパン、クリームパンやメロンパンもあったかなあ。思いだすのは、大きなガラス瓶があり、そこにキャラメルがいっぱい入っており、一個50銭でした。当時既に銭単位はなかったですが、キャラメルは二個で一円と言う意味で50銭と書いたんだと思います。
「キン」ツバは金属製の刀の「ツバ」に形が似てるところからでしょうね。
(山田)小川屋、保刈さんが並んでましたが、これは近所の人に売ると言うより、田舎の店に卸してたんでしょう。だから隣同士でも一向にかまわないわけで。当時は冠婚葬祭に和菓子の需要は大きかったんでしょう。南雲さんは大正の古い地図にも載ってますし、元々は今の反対側にあり大火後に今の所に落ち着いたのでしょう。
保刈さんは和菓子ですから、そこの人が洋菓子もやりパン屋を夷新に開店したと言うことでしょうか。お父さんお母さんの顔も覚えています。お母さんは片手に障害があったと思います、機械に挟まれたとか。清美さんが高校生前後の頃に店は閉めた気がします。お父さんが亡くなったのかなあ。まるふじさんは店売りだけでしたね。
他には洋菓子でマリヤさんがありました。夷新で、中田床屋さんの隣かなあ。小さいですが、当時としてはお洒落な店でした。長男の磯野富士夫君が同年で、小学校時代は親しい友人でした。相撲が強く、同年では磯野君、石黒肉屋の石黒富雄、大場(後に榎)健次、長登敏郎君などが大きくて強い連中でした。長登君は柔道で、中学、高校と県のトップクラスの選手で、キックボクシングの東日本チャンピオンになり、その後格闘技で名を成し、ブラジルに修行に言ったとか。現在は武道道場をやってるはず。
(山田)保刈さんには私の弟と同級生がいました。
その方は京都の立命館を出て大同生命に勤めていました。保険の関係でうちとも取引がありましたが、私が同志社に入ったと聞くとことのほか喜んでくれ、同志社を誉めてくれたのを覚えています。自分もほんとは同志社に行きたかったとかおっしゃって。
同志社ついでなんですが、姿屋さんはお父さんが滝口三郎さんで東中等で英語の先生でした。退職後、アイワ会の重鎮で私も大変お世話になりました。その長男の方は耳に障害があるとかで、佐渡市職員でそちらの担当ですね。その弟さんがお父さんが英語の先生だったことも関係してるのか同志社を出て、大同生命に勤務していましたが、兄さんが言うには最近両津に戻って来てるとか。どうしたのかなと。
滝口三郎さんは最近亡くなりましたが、元は石塚三郎で、例の映画「飛べ!ダコタ」の部隊となった北立島出身で、その関係本に石塚三郎として登場します。英国人達と多少英語でやり取りしたんでしょうか。
姿屋さんに婿入りしたと思いますが、姿屋さんは元は滝口苗字ですよね。
滝口さんと言う大店があり、その後共楽パチンコさんになり、今は「ふれあい広場」になった場所ですね。共楽のお嬢さんの金村京子さんは、昭和23年生まれで青森県の三沢で育ち、自分は三沢の中学、八戸の高校を出たが、自分が中学の頃に両親は佐渡に亘ってパチンコ店を開いたと言ってました。すると昭和30年後半に開店ですから、その前に滝口商店があったと言うことですね。そこの娘さんが姿屋呉服店をやり、英語の先生石塚三郎さんが婿入りしたことになりますね。
(山田)正確には滝口百貨店と言いました。百貨店だから呉服以外にいろいろ扱ってたんでしょう。トランプ、百人一首なども売ってました。食品はなかったと思います。滝口苗字は和木かどこかにありましたから、そこから出たと聞いたことがあります。同級生も居ましたが、大学に行き卒業した頃亡くなりました。あそこにお婆さんが居ました。姿屋さんの経営者の母だと思います。
新穂に滝口綾子?さんと言う品のいいお婆ちゃんが居ました。息子さん?の関係でわが店でよく買い物をしてくれたんですが、滝口呉服店の関係者だと言ってました。姿屋さんの姉妹か、又は山田さんの言うお婆ちゃんの妹かも知れません。ただ滝口苗字ですんでどうなんでしょう。もしかして、滝口苗字のルーツが新穂とか。
元に戻り土産物ですが、鈴木ミシンさんが土産物屋でもありました。私の同級生に鈴木範夫君がおりました。お店は元々ミシン店で、観光が盛んになった時、そちらに重点を置き、お母さんは「楽園」と言うスナックも始めましたね。昭和40年代だと思います。お父さんはがっちりした無口の方、お母さんはぽっちゃりしてよくしゃべる方でした。範夫君はその後新潟に行き、佐渡汽船内で喫茶店をやったんじゃないかなあ。その後、並行してか、佐渡汽船を閉めてからかわかりませんが、新潟古町のバスセンターの所でラーメン屋をやっていました。
他に土産物と言うと、卸では以前出た正札屋さん、大手では佐渡汽船系の新潟県観光物産、小木の村川さんがやってた佐渡観光物産とか。前者では湊の坂本君が頑張ってました、私の2年下位かな、奥さんが私の同年の友人山本忍君(新潟交通勤務)の妹で美人でした。他には玉崎で私の一年下の加藤さん何かが所長やりました、後者は村川四郎市議の兄が創業者だったはずです。一時は手広くやってましたが、その後やめたんでしょうか。
(山田)菓子とか羊羹もあったんでしょうが、名前が変わってるだけで中身が特に変わってるわけでないしね。
他には、今市議やってる祝優雄君が湊の埠頭前で焼き物を中心とした店をやってました。
「アモーレ」か「アムール」かどっちかでしたね。神明町の伊藤七蔵さんの奥さんが自宅(角地)でやってた店がそのどっちかで。今は別の方が「四つ葉のクローバー」と言う軽食喫茶みたいな店をやってます。大正琴やってる昭和21年生の加茂の菊池さんの息子さんです。結構知られた店です。祝さんの店も南埠頭が出来てすぐでしたか。彼が昭和19年生まれですし、そう長くは続きませんでしたね。
話は変わってしまいますが、昔の魚市場から、夷一から出ていた築港には簡単に泳いでいけましたかね? 私は一度も行ったことがないんです。逆に言えばそれは小学校の低学年だったのかなあ。
(山田)それは子供でも簡単に泳いで行けたです。大した距離じゃなかったし。ただ、船が出入りして危険だったり汚かったりしてあまりそこで泳ぐ場所ではなかった。
そしてあの場所はその前は夷地区の魚市場だったんです。湊にも魚市場があり、夷にもあって、それが一緒になってその場所に両津魚市場ができたんです。
その昔の魚市場の前で漁業関係者がたくさん並んで映ってる写真がありますね。大正15年生まれの渡辺しろぜむさん、いわゆる渡辺オートさんのお母さん(お婆さん)が映ってる写真です。明治30年代の生まれの方でしょうから、その時代は明治末か大正で、場所はその後両津魚市場になった所でしょうかね。また、湊魚市場の写真も残ってますね。
(山田)佐渡汽船が埋め立てられて出来たのが昭和11年頃だから、その後の魚市場の場所はまだ海辺だったんで、最初の夷魚市場は加茂湖沿いかも知れません。今の加茂湖漁協辺りかなあ。湊魚市場も加茂湖側だし。
なるほど、当時はまだ開拓地と呼ばれてた場所ですね。大正14年の例の地図に出てますね!これによると、後に新潟交通の車庫になった所で、今の斎藤管工業さんの前です。
話が変わって、今萩田ビルになってる所は私の知ってる時代は新潟交通ビルでした。その前は貯蓄銀行だったそうですし、写真も残ってますが、山田さんはその時代はわかりますか?
(山田)私は貯蓄銀行時代は知っています。私が中学時代は貯蓄銀行でした。それが第四銀行に吸収されたわけです。
スポンサーサイト
Powered by FC2 Blog
Copyright © 佐渡人名録 All Rights Reserved.