2017-11-27
(渡辺)私たちの年代でも子供の頃にはよく食べた沖汁について教えてくださいませんか。
おばあさんがリヤカーで売りに来ていた記憶があるんですが。
(小池)沖汁は買った記憶がなく、いつももらってたなあ。近しい漁師からだと思う。名前の通り、沖でスケトをとって、船に持って行った鍋で煮たんだと思う。スケトをぶつ切りにして、持って行った味噌とかネギとかをいれて煮たんだろう。船で作ってあり、それを下すわけですから、沖汁で熱いのを見た覚えはないなあ。
(山田)船で漁師は飯のおかずに多少は食べたでしょうし、大部分は持ち帰ってうちでおかずにするとか売ったりしたんでしょう。平沢のおばさんが売りに来たのを覚えています。その人はリヤカーでなく背負って来ました。容器はアルミの弁当箱だったと思う。ぎゅうぎゅうに詰めれば結構入るし、それをいくつも持ってきたと思う。だから買いに行く人はどんぶりを持って行ったと思う。夷に出れば、お得意さんと言うか、買う家が大体決まっていてそこに行ったんだと思う。今でも、北五十里だったかのお婆さんがイゴネリを持って来ますよ。スーパーで売ってるものより厚くておいしいです。
(小池)私の記憶も平沢で沖に行った人の家が持ってきたと思う。親戚と言うより知り合いの漁師だったと思う。沖漁師と言うより、磯漁師でいわゆるすけと漁師と言うかなあ。一泊で漁に出るって感じではなかったと思う。最初は行商みたいな恰好だったけど、評判が良くなったのか鮮魚店でも売り始めた。
(山田)沖汁は商品化されてはいなかったと思う。自分の知ってる限りでは、店に並べて売るのは最近仲助がやってるくらいで、当時は漁師が一杯取れた時に家庭で余ったものを近しい町の人にくれたり売ったりしたんだと思う。
(渡辺)私のうっすらした記憶では、おばさんがリヤカーに魚関係のいろんなものを持ってきて、その中に沖汁もありました。ところで、どんな食べ方をしたんですかね。
(山田)買うのは、冷たくなってるけれどスケトを煮たものを切り分けてあるもので、それを皿の上でほぐして醤油をかけて食べたものです。特に温めるとかはしなかった。
(小池)俺も沖汁を温めて食べた記憶はないなあ。湊のおばさんたちが売って歩いたのは覚えています。
(渡辺)湊の(渡辺)五郎助さんのお婆ちゃんがかなり高齢になっても魚の行商をしてましたよね。80歳は過ぎてました。消防署が市役所の前の角地にあった時、よくリヤカーが止まってました。消防署の連中は夜も勤務してますから、自分たちで夕飯作って食べるんでしょうから、魚を売りに来てくれるおばあちゃんは重宝したんでしょうね。
(小池)今思い出すと、湊の魚屋さんは夷に来るより新穂辺りが多かったんでしょうね。
(山田)そうそう、その行先ですが、俗にいう縄張りがあったようです。お互いの行先があり、そこには他者が行かないというか。
(渡辺)桜井さんは畑野に店を出しましたから、元々はそちらが行商のテリトリーだったというか。松ちぇむさんは新穂で、吉島さんが潟上で、佐助さんも新穂にありますよね。
佐助さんは新穂のど真ん中で、大きな看板が目立ちます。隣が空き地で元々は本間芳太郎さんが経営の本間医院だったようです。湊でも本通りを行くと、海の方に下る小路がありますが、そこに「佐助通り」と表示されてます。よく知りませんが、元々はそこに佐助さんがあってそこが道路になったんでしょうか。佐助鮮魚はもう湊にはないんでしょうかね。
※渡辺注:本間芳太郎医師の次男が堀家に婿入りした堀治部(じぶ)医師で、東京池袋で大きな医院を経営した。子供がいなかったのでそのビルを当時の金井町に寄付し、町はそれを町出身の三井物産専務池田正雄さんに相談したら、三井不動産が管理してくれて家賃収入が町に入りようになったそうです。なお、堀家の実家は中興の「佐渡能楽堂」です。堀家が無住の時には相川出身の金井小遠藤校長?先生一家が住んでいたそうで、映画「佐渡ヶ島エレジー」(根上淳・三宅艶子等)のロケでその場所が一か月使用の時に別の所に住んだと、遠藤先生のお嬢さんである、渡辺産商さんの奥さん美智子さんが話してくれました。遠藤先生の下には渡辺よし子先生もおられたとか。
(渡辺)行商と言えば、古い写真に今のまるか旅館のおじいちゃんになるんでしょうか、その方が自転車に魚箱を何段か積んで走っているものがありますよね。吉井あたりだったかな。当然吉井辺りは夷の魚屋さんの縄張りだったんでしょうね。湊は新穂行きで、加茂は海岸もあり漁師もいるんで特に魚を持って行かなくてもよかったのかな。
(山田)吉井への行商と言うと、まるかの加賀さん、築地の中田ひろし君(山田さんの同年でNTT勤務)のうちも魚屋だった。その前の鷲崎屋は大きい魚屋だった。苗字は渡辺です、同級生に渡辺伸一郎君が居て野球がうまかった。長岡に行きました。隣は北川魚屋で、親戚みたいに花月さんにずっと出入りしていたものです。
(渡辺)私の一年先輩に渡辺正勝さんがいて南中野球部の4番バッターで、確かキャプテンだったような。その鷲崎屋さんに中川マンちゃんと言う元気のいい人がいましたね。斉藤甲子郎さんの頼母子仲間で、当時はすでに経営者になってた気がします。確か羽茂出身で中川苗字です。鷲崎屋で丁稚奉公して後継ぎがいないんでその店をマンちゃんが継いだというか。斉藤さんの選挙などの集まりでも勇ましい人でした。息子さんが新大出て教員になったとかで自慢したわけでもないんですが、周りの人からトンビが鷹をうんぬんと冷やかされてましたが、まあうれしかったんだと思います。
(小池)伸一郎さんは私の一年先輩で野球がうまかった。弟が野球をやってと言うのは覚えてないなあ。まあ、10年も違うから。後を継いだマンちゃんとは同年位だと思います。彼は確か身寄りがなかったんじゃないかなあ。何か複雑な事情があるように聞いてました。
(渡辺)私に1年上の南中野球部の正勝さんはとてもいい体つきでおとなしい感じでとてもいい感じの先輩でした。中肉中背かなあ、野球の選手ですからそれなりにがっちりしてましたが、陸上競技とかで活躍した覚えはないですね。この年代には野球ではピッチャーに八木、生田さん、一年下に投手の後藤吉彦、サードショート辺りに星野哲次郎、小池義晴などがいました。後藤君は審判に「今のはストライクだろう!」などと文句ばかり言ってました。また、一年上の確かセンター守っていた木次健次さんは陸上の800,1500mで県のトップだったと思います。高校でも全国4位くらいの選手で、法政に入って箱根駅伝に出たはずです。数年前に亡くなったそうです。
渡辺家で思い出しましたが、7,8年前にロバート君と言う完全な外人顔ですが日本語しかしゃべれない人、当時40歳位かなあ、その人が「国籍のない日本人」と言うことで裁判所関係でいろいろマスコミも騒いで一時問題になりました。佐和田に住んで海岸沿いでスナックをやり、バンブー何とかいう竹製楽器を使ったグループを作っていました。福浦の間口君もメンバーだったなあ。ロバート君とちょっと話した時に、母は鷲崎屋の人と言ってました。母がアメリカ人との仲で出来たのが自分だと。すると正勝さんの姉になるんじゃないでしょうか。ロバート君は今は50歳位かな。
(小池)そのお母さんは私らより二つ三つ年上だなあ。渡辺伸一郎さんの姉ですね。覚えています。佐渡を離れてからその人は見たことないです。ところで、伸一郎さんは中学の野球部で私の一年先輩で中心バッターでした。高校では一緒の記憶がないですね。
(渡辺)鷲崎屋さんの隣が北沢魚屋で、私の一年先輩に俊ちゃんが居ました。小学生の頃は小さいけど柔道が強かった、渡部繁先生や本間喜一郎先生が両津小に居て鍛えられていました。まあ、眼がぎょろっとして喧嘩早い先輩でした。大人になって板前さんになって椎崎のホテルやグランドホテルにも居たかなあ。腕をふるってましたが、いろいろあったり事件も起こしたようで。
(山田)夷新の星の湯の前辺りに小池魚屋があった。店で販売と言うよりも売って歩く魚屋でした。同級生のまさひろ(兄はあきお)の親で、角が勝田商店、隣が斎藤看板屋でその隣かな。ここの娘さんが磯野畳屋のおばあちゃんです。こうしてみると鷲崎屋、北沢、中田(同年の友はNTT勤務)、小池と夷新も魚屋の町だったんですね。昔は魚屋さんもしっかり仕分けされていて、店で販売と行商専門と。それ以前に、株と言うか権利を持ってる業者が居て、魚市場で大量に仕入れてそれを店売りの魚屋に卸したり、行商の人に売ったりしたんです。それぞれが住み分けていたんですね。
(渡辺)夷二ノ町には今は木下魚屋さんとヘエム鮮魚店があります。木下さんは元は春日町で、その家を新聞記者の市橋輝雄さん(市橋輝蔵長男)に売って夷二の現地に来たそうです。以前はその場所に中田魚屋さんがありました、昭和17年生まれ位の先輩がいました。いつの間にかいなくなりましたが。
(山田)ヘエムさんは同級生で、東京で修行して、戻ってからは太郎平さんに勤めました。そこで店の株をもらって暖簾分けして夷2で開店したんです。ヘエムさんから直接聞いたんですが、元々の家は道挟んで反対側にあって、商売の関係で縦に長い敷地が要るとかで今の場所に移ったとか。染物とかかなあ。
(渡辺)ヘエムさんと言えばこんな話が。去年「ハローブックス」と言う若者のイベントに来た芸人がヘエムさんの親戚とかで挨拶に来たと。聞いてみたら、ヘエムさんは今のお父さんの弟と奥さんの妹が結婚してその子供さんだそうで。奥さんは岩首か蚫出身でしたか。武井苗字は夷1,2に何軒もありますね。桧田さんの近くで日通に努めていた家、夷二裏の木下さんの隣辺り、ヤマトヤ車庫の大屋さん、そしてヘエムさんですから少なくとも4軒ですね。ここに武井一族がいたんですね。
(山田)そうそうヘエム膏薬があった。油紙に漢方薬か何かが塗ってあり、それを湿布みたいに患部に貼るんです。有名でしたよ。以前聞いたら、薬は内地から材料を仕入れて、それをすりつぶしたり混ぜたりして薬にし、油紙に塗って売り出したんだそうです。今のサロンパスみたいなもんですね。本業と言うより内職だと思います。さっきの長い場所が必要な家業と言うのとは違う話です。
(渡辺)他には海岸通りに小池権吉さんがあったし、他にも旭町に小池苗字の魚屋さんがありました。また、夷二の裏でヤマキホテルの実家の隣にも魚屋さんが。体の大きな昭和16年位生まれの先輩がいました。岩原じんねむ(甚右衛門)さんは親父と同年大正12年生まれで、倅さんの淳一さんは昭和21年生まれでした。明治の商学部出て公認会計士になったとか。この家は仲買ですかね。
(小池)じんねむさんは市場で買った魚を島外に売ってたんじゃないかなあ。個人的に魚売買と言う感じではなかった。
(渡辺)漁業関係では、夷二裏の一休館のはす向かいに岩崎さんと言う漁具関係の店がありましたし、本間旅館を下った角に安藤漁網店がありました。岩崎さんには私の一年先輩の女性を筆頭に子供が何人かいた気がします。安藤さんは私の同年の男の子がいたし、先輩がいて家業を継いでました。
(小池)安藤さんは両津とは関係ない人だと思う。漁具の商売で両津にやって来て店を出し住み着いたんでしょうね。元気のいいあんちゃんでした、うちを継いだのは。
(渡辺)安藤君と言えば、彼と親しかったのが飯島君で都藤三郎さんの息子です。二人ともおとなしそうでなかなか真のある男でした。特に飯島君の親父は見た目は優しそうでしたが、いざ七夕辺りでテキヤ連中と話す時などを別人のように風格がありました。当時は夷の七夕には諏方神社の所にサーカスが来たり見世物が来たり、いろんな夜店が並んだりして賑やかでしたものね。それを都さんが取り仕切ってたんでしょうね。何かの時にこの人がおそげえ顔したやくざみたいなあんちゃんを怒鳴りつけてました。すごい迫力でしたねえ。腹は座ってたんでしょうね。
(山田)祭りのヤシ(香具師)と言えば、ヤシがテーブルを出して詰将棋やりました。
お客と一勝負終わって帰ろうとすると負けたから一手いくらで金を出せみたいな話になって。勿論違法な博打の一種なんでしょうね。夷三にあった川島徳四郎さんのおじいさんが何か関わっていたようで、ある時、もめ事があった時に、川島さんは都屋の飯島さんを呼びましたね。ちゃんと話がつきました。香具師としっかり話し合いができる立場の人だったんでしょうね。
(小池)川島さんのお爺さんと言えば、家にその人が褌一丁で写ってる写真があります。うちとは日蓮宗信者仲間でしたが。川島さんのお母さんは確か仲助の出と聞いてます。もしかして養女で川島家に入り、婿さんをもらったのかも知れません。
(山田)川島さんの前の山本ます屋さんの奥さんも仲助の出でした。婦人会長を長くやりましたねえ。ます屋さんは神明町に遊郭(「桝屋」)を持ってました。その兄が町会議員やった中沢保助さんですが、弟が優秀で東京で活躍したと聞きました。
※渡辺注:(田中角栄の刎頸の友)小佐野賢治が興した国際興業の重役になった。
保助さんの親は北玲吉と同級生で、選挙運動には先頭に立ってました。もしかして保助さんの弟が国際興業で活躍したのも北玲吉さんの関係があったかも知れません。また、中沢つながりで中栄商店の倅が優秀で丸井デパートの重役になりましたね。丸井創業者の娘婿になって、結局は池袋丸井をもらったそうです。
※渡辺注:中沢仲助出の中栄商店の人は佐渡大商社長をやり、その弟は北越銀行に入り、銀行の東京支店開設時に抜擢されて東京勤務となる。ハンサムな人だったようで、丸井の娘婿となり、次期社長と言うことで、当時佐渡関係者が多数丸井に入社した。しかし病気か何かで結局は社長にはならなかった。
中沢さんで戦死した人の大きな碑が安照寺さんにあります。年代的には保助さんの弟でしょうか。本間雅晴中将が揮毫してます。
(渡辺)川島徳四郎さんのお爺さんは細身で何時も着物を来ていて、如何にも気骨ある明治人の面影がありましたねえ。徳四郎さんの長男は私の1年下のとしお君で両津高校から新大歯学部に行きました。あの年は新大医学部に川崎昭一君(佐渡病院脳外科)、歯学部に川島君で結構騒がれました。川島家の長女は1年上(昭和21年生)で美しく優秀な方だった記憶があります。確か二人のお父さんはちょっと身体がわるいと言うか精神的な障害があったんじゃないでしょうか。いつも本をもってぶらぶら歩いていまして、一度、この「久地軍記」を読んでみい面白いぞ、と言われた覚えがあります。その時は何だかピンときませんでしたが、今思えばその本を借りたりして話をしてみたかったですね。後年得た情報ですと、その方はお婿さんで城腰の実家は新大の有名な三国眼科の三国政吉先生の家だと。もしかして三国先生の弟とだったかもしれません。
話は変わりますが、夷には魚屋さん関係に小池苗字が多いんですが、小池清吉さんはやはり魚屋さんですか。
(山田)あそこは魚屋でなく魚の加工業です。俗にいう四十物(あいもの、えーもん)屋
ですね。「合い間物」、即ち魚が捕れない合い間の時期に食べる加工された魚との意味もあるようです。間物(あいもの)です。他には両津活版さんの近くの金子八次郎さんも魚屋でした。倅が新潟交通の専務になりましたね。他には小木の「魚晴」の秀方さんは神明町にいたんです。元々は玉崎の人で漁連の役員だった人の息子さんで、うちの隣にいて芸者さんと一緒になって、仕出しのようなことをしてました。そして夫婦で小木に行ったわけです。そこの親父は私より年下だから70代ですね。
神明町でも紅屋さんの横に平方魚屋がありますが元々は漁師の家です。親父と子供二人が海で遭難しました。時化の中、築港に入って来る時にみんなが見える所で沈没しました。私と同級生がいましたが、両津高校の1年ですから昭和26年頃です。その兄二人と父が亡くなったんです。ほかの船も事故にあったかどうかは覚えていません。その後、仲間の漁師達の尽力で魚を扱う株を手に入れ、同級生だった三男が高校を辞めて魚屋になったんです。どこかに弟子入りしたのかどうかは覚えていません。だから魚屋はおじいさん、お母さんと子供二人がやったんです。その後三男の方は加茂湖で変死しました。今は同級生の奥さんと弟の奥さんとせがれさんで魚屋をやっています。この苗字は平松辺りですかね。
桜井鮮魚さんもありましたが、最初は築地の、今の藤木副市長の隣辺りで魚屋をやってました。店売りと言うより、海のない他所への行商だったと思います。その後、旭町が出来たので20年代の後半から30年頃にそこに引っ越したんですね。
※渡辺注:桜井哲夫氏は、子供の頃近くに中川雀子さんがいたと語る。また、その後畑野の角地に桜井鮮魚店を開いた。身体の大きな方で、顔つやのいい方でした。最近、哲夫さんがお父さんにとてもよく似てきました。最近、安照寺さんに入ってすぐの所に桜井家の新しい墓がありますね。哲夫さんは、ご存知の通り佐渡関係ネットで有名な『佐渡広場』管理者です。
(渡辺)うちの近所の小池新平さんは、今後を継いでる敬二さんが昭和23年生ですが、でっぷりしたお父さんは両津漁協の役員だったり、保険の仕事もしてました。その父は両津町の収入役だったと思いますが、この家も元々は漁業関係だったんでしょうかね。
もう一つ、今は渡辺オートですが、元々は渡辺自転車屋さんこと渡辺四郎左衛門も大正15年生まれの今のおじいちゃんの母は魚屋だったそうです。漁業関係者が集まってる古い写真を見て、お爺ちゃんがこれが私の母だと言ってました。野浦か片野尾辺りの人だとか。だから、お爺ちゃんは能生水産出なんです。結局は、自転車の時代が来ることを見越して、魚屋にならなかったわけです。そう言えば、うちの隣の瀬戸物のあめ屋さんも能生水産を出ています。これも、磯野家は漁業関係だったとうかがえますね。
(山田)それは知らんかった、そうですか。あめ屋さんも元々は船でも持ってたのかなあ。船持ちと言えば、春日町の吉島十衛門さんも船持ち漁師でした。前は八郎平町です。その前は上町十字路の海側だったそうです。吉島は旧家で、築地にあるお旅所は吉島家が寄贈したものです。
(渡辺)他には、我が家のはす向かいの本間庄七さんが魚屋でしたね。私の子供の頃は本間組の両津出張所(所長は後に高名な作詞家になる保科義夫氏)で、その後本間庄七魚屋です。後で聞くと、本間組の前は病院だったそうです、そこで母が亡くなったと栄町の渡辺さんのお婆ちゃんが言ってましたね。庄七のお父さんは、月布施か赤玉辺りからの婿さんと聞いてます。細身で眼光の鋭い、独特の風貌で頑固そうな人でした。この方の兄が浜田何とか言う両津市会議員だったのを覚えています。うちの町内ではこの庄七さんと七星屋のお父さんが論客で、町民運動会の反省会では、紅白玉入れは中に入っているものの大きさや重さで有利不利があるから役員にそれは言うべきだなんて弁じていました。二の町は綱引きやリレーが強いのに、球入れが弱いので優勝できないと言う話の中で出たことです。ともかく、庄七さんはあの時代の人物の一人を象徴するような親父でしたねえ。
(山田)斎藤梅助さんがいます。後に斎梅履物屋になりますが、この場所は元々源助屋履物屋でした。斉藤さんから借りていたんだと思います。源助屋さんが藤新本屋の隣に移転したので、斎藤さんが続いて履物屋をやったんです。斎藤梅助さんは元は船持ち漁師で、八郎平町に居ました。八郎平町と夷6に家があり、後者は源助屋さんに貸してたわけですね。
(渡辺)そう言えば、八郎平町のおけさ食品の奥さんは梅助さんの人と言ってましたねえ。ここはおけさ食品は本間苗字ですが、旦那さんはものすごく大きい人で怖そうな人でした。確か、黒姫とかあっちの出と聞きました。確か、お姉さんが両津高校時代に砲丸投げか何かで県大会で優勝したとか。石楠会でその方にあっていろいろ話を聞きましたが、この方も大きい女性でした。二見の大屋旅館?のおかみさんでした。私の十年も上だったでしょうか。今に思えば、このおけさ食品(おけさ弁当)が斎藤梅助さんの家だったんでしょうか。
(山田)ちょっと話が変わりますが、昭和20年代に埋め立てられて旭町が出来ますが、当時は道路はありません。新潟製氷のすぐ前が海で、私達は泳いだ後に新潟製氷のプールみたいなところで体を洗いました。製氷の段階で大量の水が出るんでそれを一時的にためるような大きな水槽だったんですね。ものすごく冷たい水だったのを覚えています。
それから、今の「小舟」さんの場所には船持ちの小さな漁師がいました。そこの娘さんが、城ノ内の小林鉄工所の人に嫁いで、今汽船前で喫茶店「あしあと」をやってるわけです。梅助さんや吉島さんは大きな発動機付きの船持ちでした。他には八郎平町の昔ホテル「蓬莱」があった辺りに平助さんと言う大きな船持ちの漁師も居ました。
(渡辺)小舟さんは、元は夷新の勝田さんの(本町に上る方向の)隣にありましたね。石月と言う珍しい苗字ですが、家の女房の実家近くの越路町の宝徳稲荷に入った時、「佐渡両津 小舟 石月なにがし」みたいな名前で大きな酒樽が奉納されていました。小舟のお婆ちゃん(昭和25生位の女性の母)はこの辺出身だったなのかなと思ったものです。確か芸者さんで向こうから来たと聞いてましたので。
おばあさんがリヤカーで売りに来ていた記憶があるんですが。
(小池)沖汁は買った記憶がなく、いつももらってたなあ。近しい漁師からだと思う。名前の通り、沖でスケトをとって、船に持って行った鍋で煮たんだと思う。スケトをぶつ切りにして、持って行った味噌とかネギとかをいれて煮たんだろう。船で作ってあり、それを下すわけですから、沖汁で熱いのを見た覚えはないなあ。
(山田)船で漁師は飯のおかずに多少は食べたでしょうし、大部分は持ち帰ってうちでおかずにするとか売ったりしたんでしょう。平沢のおばさんが売りに来たのを覚えています。その人はリヤカーでなく背負って来ました。容器はアルミの弁当箱だったと思う。ぎゅうぎゅうに詰めれば結構入るし、それをいくつも持ってきたと思う。だから買いに行く人はどんぶりを持って行ったと思う。夷に出れば、お得意さんと言うか、買う家が大体決まっていてそこに行ったんだと思う。今でも、北五十里だったかのお婆さんがイゴネリを持って来ますよ。スーパーで売ってるものより厚くておいしいです。
(小池)私の記憶も平沢で沖に行った人の家が持ってきたと思う。親戚と言うより知り合いの漁師だったと思う。沖漁師と言うより、磯漁師でいわゆるすけと漁師と言うかなあ。一泊で漁に出るって感じではなかったと思う。最初は行商みたいな恰好だったけど、評判が良くなったのか鮮魚店でも売り始めた。
(山田)沖汁は商品化されてはいなかったと思う。自分の知ってる限りでは、店に並べて売るのは最近仲助がやってるくらいで、当時は漁師が一杯取れた時に家庭で余ったものを近しい町の人にくれたり売ったりしたんだと思う。
(渡辺)私のうっすらした記憶では、おばさんがリヤカーに魚関係のいろんなものを持ってきて、その中に沖汁もありました。ところで、どんな食べ方をしたんですかね。
(山田)買うのは、冷たくなってるけれどスケトを煮たものを切り分けてあるもので、それを皿の上でほぐして醤油をかけて食べたものです。特に温めるとかはしなかった。
(小池)俺も沖汁を温めて食べた記憶はないなあ。湊のおばさんたちが売って歩いたのは覚えています。
(渡辺)湊の(渡辺)五郎助さんのお婆ちゃんがかなり高齢になっても魚の行商をしてましたよね。80歳は過ぎてました。消防署が市役所の前の角地にあった時、よくリヤカーが止まってました。消防署の連中は夜も勤務してますから、自分たちで夕飯作って食べるんでしょうから、魚を売りに来てくれるおばあちゃんは重宝したんでしょうね。
(小池)今思い出すと、湊の魚屋さんは夷に来るより新穂辺りが多かったんでしょうね。
(山田)そうそう、その行先ですが、俗にいう縄張りがあったようです。お互いの行先があり、そこには他者が行かないというか。
(渡辺)桜井さんは畑野に店を出しましたから、元々はそちらが行商のテリトリーだったというか。松ちぇむさんは新穂で、吉島さんが潟上で、佐助さんも新穂にありますよね。
佐助さんは新穂のど真ん中で、大きな看板が目立ちます。隣が空き地で元々は本間芳太郎さんが経営の本間医院だったようです。湊でも本通りを行くと、海の方に下る小路がありますが、そこに「佐助通り」と表示されてます。よく知りませんが、元々はそこに佐助さんがあってそこが道路になったんでしょうか。佐助鮮魚はもう湊にはないんでしょうかね。
※渡辺注:本間芳太郎医師の次男が堀家に婿入りした堀治部(じぶ)医師で、東京池袋で大きな医院を経営した。子供がいなかったのでそのビルを当時の金井町に寄付し、町はそれを町出身の三井物産専務池田正雄さんに相談したら、三井不動産が管理してくれて家賃収入が町に入りようになったそうです。なお、堀家の実家は中興の「佐渡能楽堂」です。堀家が無住の時には相川出身の金井小遠藤校長?先生一家が住んでいたそうで、映画「佐渡ヶ島エレジー」(根上淳・三宅艶子等)のロケでその場所が一か月使用の時に別の所に住んだと、遠藤先生のお嬢さんである、渡辺産商さんの奥さん美智子さんが話してくれました。遠藤先生の下には渡辺よし子先生もおられたとか。
(渡辺)行商と言えば、古い写真に今のまるか旅館のおじいちゃんになるんでしょうか、その方が自転車に魚箱を何段か積んで走っているものがありますよね。吉井あたりだったかな。当然吉井辺りは夷の魚屋さんの縄張りだったんでしょうね。湊は新穂行きで、加茂は海岸もあり漁師もいるんで特に魚を持って行かなくてもよかったのかな。
(山田)吉井への行商と言うと、まるかの加賀さん、築地の中田ひろし君(山田さんの同年でNTT勤務)のうちも魚屋だった。その前の鷲崎屋は大きい魚屋だった。苗字は渡辺です、同級生に渡辺伸一郎君が居て野球がうまかった。長岡に行きました。隣は北川魚屋で、親戚みたいに花月さんにずっと出入りしていたものです。
(渡辺)私の一年先輩に渡辺正勝さんがいて南中野球部の4番バッターで、確かキャプテンだったような。その鷲崎屋さんに中川マンちゃんと言う元気のいい人がいましたね。斉藤甲子郎さんの頼母子仲間で、当時はすでに経営者になってた気がします。確か羽茂出身で中川苗字です。鷲崎屋で丁稚奉公して後継ぎがいないんでその店をマンちゃんが継いだというか。斉藤さんの選挙などの集まりでも勇ましい人でした。息子さんが新大出て教員になったとかで自慢したわけでもないんですが、周りの人からトンビが鷹をうんぬんと冷やかされてましたが、まあうれしかったんだと思います。
(小池)伸一郎さんは私の一年先輩で野球がうまかった。弟が野球をやってと言うのは覚えてないなあ。まあ、10年も違うから。後を継いだマンちゃんとは同年位だと思います。彼は確か身寄りがなかったんじゃないかなあ。何か複雑な事情があるように聞いてました。
(渡辺)私に1年上の南中野球部の正勝さんはとてもいい体つきでおとなしい感じでとてもいい感じの先輩でした。中肉中背かなあ、野球の選手ですからそれなりにがっちりしてましたが、陸上競技とかで活躍した覚えはないですね。この年代には野球ではピッチャーに八木、生田さん、一年下に投手の後藤吉彦、サードショート辺りに星野哲次郎、小池義晴などがいました。後藤君は審判に「今のはストライクだろう!」などと文句ばかり言ってました。また、一年上の確かセンター守っていた木次健次さんは陸上の800,1500mで県のトップだったと思います。高校でも全国4位くらいの選手で、法政に入って箱根駅伝に出たはずです。数年前に亡くなったそうです。
渡辺家で思い出しましたが、7,8年前にロバート君と言う完全な外人顔ですが日本語しかしゃべれない人、当時40歳位かなあ、その人が「国籍のない日本人」と言うことで裁判所関係でいろいろマスコミも騒いで一時問題になりました。佐和田に住んで海岸沿いでスナックをやり、バンブー何とかいう竹製楽器を使ったグループを作っていました。福浦の間口君もメンバーだったなあ。ロバート君とちょっと話した時に、母は鷲崎屋の人と言ってました。母がアメリカ人との仲で出来たのが自分だと。すると正勝さんの姉になるんじゃないでしょうか。ロバート君は今は50歳位かな。
(小池)そのお母さんは私らより二つ三つ年上だなあ。渡辺伸一郎さんの姉ですね。覚えています。佐渡を離れてからその人は見たことないです。ところで、伸一郎さんは中学の野球部で私の一年先輩で中心バッターでした。高校では一緒の記憶がないですね。
(渡辺)鷲崎屋さんの隣が北沢魚屋で、私の一年先輩に俊ちゃんが居ました。小学生の頃は小さいけど柔道が強かった、渡部繁先生や本間喜一郎先生が両津小に居て鍛えられていました。まあ、眼がぎょろっとして喧嘩早い先輩でした。大人になって板前さんになって椎崎のホテルやグランドホテルにも居たかなあ。腕をふるってましたが、いろいろあったり事件も起こしたようで。
(山田)夷新の星の湯の前辺りに小池魚屋があった。店で販売と言うよりも売って歩く魚屋でした。同級生のまさひろ(兄はあきお)の親で、角が勝田商店、隣が斎藤看板屋でその隣かな。ここの娘さんが磯野畳屋のおばあちゃんです。こうしてみると鷲崎屋、北沢、中田(同年の友はNTT勤務)、小池と夷新も魚屋の町だったんですね。昔は魚屋さんもしっかり仕分けされていて、店で販売と行商専門と。それ以前に、株と言うか権利を持ってる業者が居て、魚市場で大量に仕入れてそれを店売りの魚屋に卸したり、行商の人に売ったりしたんです。それぞれが住み分けていたんですね。
(渡辺)夷二ノ町には今は木下魚屋さんとヘエム鮮魚店があります。木下さんは元は春日町で、その家を新聞記者の市橋輝雄さん(市橋輝蔵長男)に売って夷二の現地に来たそうです。以前はその場所に中田魚屋さんがありました、昭和17年生まれ位の先輩がいました。いつの間にかいなくなりましたが。
(山田)ヘエムさんは同級生で、東京で修行して、戻ってからは太郎平さんに勤めました。そこで店の株をもらって暖簾分けして夷2で開店したんです。ヘエムさんから直接聞いたんですが、元々の家は道挟んで反対側にあって、商売の関係で縦に長い敷地が要るとかで今の場所に移ったとか。染物とかかなあ。
(渡辺)ヘエムさんと言えばこんな話が。去年「ハローブックス」と言う若者のイベントに来た芸人がヘエムさんの親戚とかで挨拶に来たと。聞いてみたら、ヘエムさんは今のお父さんの弟と奥さんの妹が結婚してその子供さんだそうで。奥さんは岩首か蚫出身でしたか。武井苗字は夷1,2に何軒もありますね。桧田さんの近くで日通に努めていた家、夷二裏の木下さんの隣辺り、ヤマトヤ車庫の大屋さん、そしてヘエムさんですから少なくとも4軒ですね。ここに武井一族がいたんですね。
(山田)そうそうヘエム膏薬があった。油紙に漢方薬か何かが塗ってあり、それを湿布みたいに患部に貼るんです。有名でしたよ。以前聞いたら、薬は内地から材料を仕入れて、それをすりつぶしたり混ぜたりして薬にし、油紙に塗って売り出したんだそうです。今のサロンパスみたいなもんですね。本業と言うより内職だと思います。さっきの長い場所が必要な家業と言うのとは違う話です。
(渡辺)他には海岸通りに小池権吉さんがあったし、他にも旭町に小池苗字の魚屋さんがありました。また、夷二の裏でヤマキホテルの実家の隣にも魚屋さんが。体の大きな昭和16年位生まれの先輩がいました。岩原じんねむ(甚右衛門)さんは親父と同年大正12年生まれで、倅さんの淳一さんは昭和21年生まれでした。明治の商学部出て公認会計士になったとか。この家は仲買ですかね。
(小池)じんねむさんは市場で買った魚を島外に売ってたんじゃないかなあ。個人的に魚売買と言う感じではなかった。
(渡辺)漁業関係では、夷二裏の一休館のはす向かいに岩崎さんと言う漁具関係の店がありましたし、本間旅館を下った角に安藤漁網店がありました。岩崎さんには私の一年先輩の女性を筆頭に子供が何人かいた気がします。安藤さんは私の同年の男の子がいたし、先輩がいて家業を継いでました。
(小池)安藤さんは両津とは関係ない人だと思う。漁具の商売で両津にやって来て店を出し住み着いたんでしょうね。元気のいいあんちゃんでした、うちを継いだのは。
(渡辺)安藤君と言えば、彼と親しかったのが飯島君で都藤三郎さんの息子です。二人ともおとなしそうでなかなか真のある男でした。特に飯島君の親父は見た目は優しそうでしたが、いざ七夕辺りでテキヤ連中と話す時などを別人のように風格がありました。当時は夷の七夕には諏方神社の所にサーカスが来たり見世物が来たり、いろんな夜店が並んだりして賑やかでしたものね。それを都さんが取り仕切ってたんでしょうね。何かの時にこの人がおそげえ顔したやくざみたいなあんちゃんを怒鳴りつけてました。すごい迫力でしたねえ。腹は座ってたんでしょうね。
(山田)祭りのヤシ(香具師)と言えば、ヤシがテーブルを出して詰将棋やりました。
お客と一勝負終わって帰ろうとすると負けたから一手いくらで金を出せみたいな話になって。勿論違法な博打の一種なんでしょうね。夷三にあった川島徳四郎さんのおじいさんが何か関わっていたようで、ある時、もめ事があった時に、川島さんは都屋の飯島さんを呼びましたね。ちゃんと話がつきました。香具師としっかり話し合いができる立場の人だったんでしょうね。
(小池)川島さんのお爺さんと言えば、家にその人が褌一丁で写ってる写真があります。うちとは日蓮宗信者仲間でしたが。川島さんのお母さんは確か仲助の出と聞いてます。もしかして養女で川島家に入り、婿さんをもらったのかも知れません。
(山田)川島さんの前の山本ます屋さんの奥さんも仲助の出でした。婦人会長を長くやりましたねえ。ます屋さんは神明町に遊郭(「桝屋」)を持ってました。その兄が町会議員やった中沢保助さんですが、弟が優秀で東京で活躍したと聞きました。
※渡辺注:(田中角栄の刎頸の友)小佐野賢治が興した国際興業の重役になった。
保助さんの親は北玲吉と同級生で、選挙運動には先頭に立ってました。もしかして保助さんの弟が国際興業で活躍したのも北玲吉さんの関係があったかも知れません。また、中沢つながりで中栄商店の倅が優秀で丸井デパートの重役になりましたね。丸井創業者の娘婿になって、結局は池袋丸井をもらったそうです。
※渡辺注:中沢仲助出の中栄商店の人は佐渡大商社長をやり、その弟は北越銀行に入り、銀行の東京支店開設時に抜擢されて東京勤務となる。ハンサムな人だったようで、丸井の娘婿となり、次期社長と言うことで、当時佐渡関係者が多数丸井に入社した。しかし病気か何かで結局は社長にはならなかった。
中沢さんで戦死した人の大きな碑が安照寺さんにあります。年代的には保助さんの弟でしょうか。本間雅晴中将が揮毫してます。
(渡辺)川島徳四郎さんのお爺さんは細身で何時も着物を来ていて、如何にも気骨ある明治人の面影がありましたねえ。徳四郎さんの長男は私の1年下のとしお君で両津高校から新大歯学部に行きました。あの年は新大医学部に川崎昭一君(佐渡病院脳外科)、歯学部に川島君で結構騒がれました。川島家の長女は1年上(昭和21年生)で美しく優秀な方だった記憶があります。確か二人のお父さんはちょっと身体がわるいと言うか精神的な障害があったんじゃないでしょうか。いつも本をもってぶらぶら歩いていまして、一度、この「久地軍記」を読んでみい面白いぞ、と言われた覚えがあります。その時は何だかピンときませんでしたが、今思えばその本を借りたりして話をしてみたかったですね。後年得た情報ですと、その方はお婿さんで城腰の実家は新大の有名な三国眼科の三国政吉先生の家だと。もしかして三国先生の弟とだったかもしれません。
話は変わりますが、夷には魚屋さん関係に小池苗字が多いんですが、小池清吉さんはやはり魚屋さんですか。
(山田)あそこは魚屋でなく魚の加工業です。俗にいう四十物(あいもの、えーもん)屋
ですね。「合い間物」、即ち魚が捕れない合い間の時期に食べる加工された魚との意味もあるようです。間物(あいもの)です。他には両津活版さんの近くの金子八次郎さんも魚屋でした。倅が新潟交通の専務になりましたね。他には小木の「魚晴」の秀方さんは神明町にいたんです。元々は玉崎の人で漁連の役員だった人の息子さんで、うちの隣にいて芸者さんと一緒になって、仕出しのようなことをしてました。そして夫婦で小木に行ったわけです。そこの親父は私より年下だから70代ですね。
神明町でも紅屋さんの横に平方魚屋がありますが元々は漁師の家です。親父と子供二人が海で遭難しました。時化の中、築港に入って来る時にみんなが見える所で沈没しました。私と同級生がいましたが、両津高校の1年ですから昭和26年頃です。その兄二人と父が亡くなったんです。ほかの船も事故にあったかどうかは覚えていません。その後、仲間の漁師達の尽力で魚を扱う株を手に入れ、同級生だった三男が高校を辞めて魚屋になったんです。どこかに弟子入りしたのかどうかは覚えていません。だから魚屋はおじいさん、お母さんと子供二人がやったんです。その後三男の方は加茂湖で変死しました。今は同級生の奥さんと弟の奥さんとせがれさんで魚屋をやっています。この苗字は平松辺りですかね。
桜井鮮魚さんもありましたが、最初は築地の、今の藤木副市長の隣辺りで魚屋をやってました。店売りと言うより、海のない他所への行商だったと思います。その後、旭町が出来たので20年代の後半から30年頃にそこに引っ越したんですね。
※渡辺注:桜井哲夫氏は、子供の頃近くに中川雀子さんがいたと語る。また、その後畑野の角地に桜井鮮魚店を開いた。身体の大きな方で、顔つやのいい方でした。最近、哲夫さんがお父さんにとてもよく似てきました。最近、安照寺さんに入ってすぐの所に桜井家の新しい墓がありますね。哲夫さんは、ご存知の通り佐渡関係ネットで有名な『佐渡広場』管理者です。
(渡辺)うちの近所の小池新平さんは、今後を継いでる敬二さんが昭和23年生ですが、でっぷりしたお父さんは両津漁協の役員だったり、保険の仕事もしてました。その父は両津町の収入役だったと思いますが、この家も元々は漁業関係だったんでしょうかね。
もう一つ、今は渡辺オートですが、元々は渡辺自転車屋さんこと渡辺四郎左衛門も大正15年生まれの今のおじいちゃんの母は魚屋だったそうです。漁業関係者が集まってる古い写真を見て、お爺ちゃんがこれが私の母だと言ってました。野浦か片野尾辺りの人だとか。だから、お爺ちゃんは能生水産出なんです。結局は、自転車の時代が来ることを見越して、魚屋にならなかったわけです。そう言えば、うちの隣の瀬戸物のあめ屋さんも能生水産を出ています。これも、磯野家は漁業関係だったとうかがえますね。
(山田)それは知らんかった、そうですか。あめ屋さんも元々は船でも持ってたのかなあ。船持ちと言えば、春日町の吉島十衛門さんも船持ち漁師でした。前は八郎平町です。その前は上町十字路の海側だったそうです。吉島は旧家で、築地にあるお旅所は吉島家が寄贈したものです。
(渡辺)他には、我が家のはす向かいの本間庄七さんが魚屋でしたね。私の子供の頃は本間組の両津出張所(所長は後に高名な作詞家になる保科義夫氏)で、その後本間庄七魚屋です。後で聞くと、本間組の前は病院だったそうです、そこで母が亡くなったと栄町の渡辺さんのお婆ちゃんが言ってましたね。庄七のお父さんは、月布施か赤玉辺りからの婿さんと聞いてます。細身で眼光の鋭い、独特の風貌で頑固そうな人でした。この方の兄が浜田何とか言う両津市会議員だったのを覚えています。うちの町内ではこの庄七さんと七星屋のお父さんが論客で、町民運動会の反省会では、紅白玉入れは中に入っているものの大きさや重さで有利不利があるから役員にそれは言うべきだなんて弁じていました。二の町は綱引きやリレーが強いのに、球入れが弱いので優勝できないと言う話の中で出たことです。ともかく、庄七さんはあの時代の人物の一人を象徴するような親父でしたねえ。
(山田)斎藤梅助さんがいます。後に斎梅履物屋になりますが、この場所は元々源助屋履物屋でした。斉藤さんから借りていたんだと思います。源助屋さんが藤新本屋の隣に移転したので、斎藤さんが続いて履物屋をやったんです。斎藤梅助さんは元は船持ち漁師で、八郎平町に居ました。八郎平町と夷6に家があり、後者は源助屋さんに貸してたわけですね。
(渡辺)そう言えば、八郎平町のおけさ食品の奥さんは梅助さんの人と言ってましたねえ。ここはおけさ食品は本間苗字ですが、旦那さんはものすごく大きい人で怖そうな人でした。確か、黒姫とかあっちの出と聞きました。確か、お姉さんが両津高校時代に砲丸投げか何かで県大会で優勝したとか。石楠会でその方にあっていろいろ話を聞きましたが、この方も大きい女性でした。二見の大屋旅館?のおかみさんでした。私の十年も上だったでしょうか。今に思えば、このおけさ食品(おけさ弁当)が斎藤梅助さんの家だったんでしょうか。
(山田)ちょっと話が変わりますが、昭和20年代に埋め立てられて旭町が出来ますが、当時は道路はありません。新潟製氷のすぐ前が海で、私達は泳いだ後に新潟製氷のプールみたいなところで体を洗いました。製氷の段階で大量の水が出るんでそれを一時的にためるような大きな水槽だったんですね。ものすごく冷たい水だったのを覚えています。
それから、今の「小舟」さんの場所には船持ちの小さな漁師がいました。そこの娘さんが、城ノ内の小林鉄工所の人に嫁いで、今汽船前で喫茶店「あしあと」をやってるわけです。梅助さんや吉島さんは大きな発動機付きの船持ちでした。他には八郎平町の昔ホテル「蓬莱」があった辺りに平助さんと言う大きな船持ちの漁師も居ました。
(渡辺)小舟さんは、元は夷新の勝田さんの(本町に上る方向の)隣にありましたね。石月と言う珍しい苗字ですが、家の女房の実家近くの越路町の宝徳稲荷に入った時、「佐渡両津 小舟 石月なにがし」みたいな名前で大きな酒樽が奉納されていました。小舟のお婆ちゃん(昭和25生位の女性の母)はこの辺出身だったなのかなと思ったものです。確か芸者さんで向こうから来たと聞いてましたので。
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