2017-05-06
h300608&300615「佐渡人が築いたアサヒビールの礎」 (前・後編)










★生田秀(いくたひいず)
1856-1906。真野新町の医師生田三折の長男。東京に出て、新町出身の司馬凌海の塾「春風社」でドイツ語を学び、ビールの本場ドイツでビール醸造を学ぶ。アサヒビールの前身大阪ビールの支配人となる。日本・アサヒ・札幌ビール合同に尽力。
★生田三折
真野新町の漢方医。生田秀の父。生田家のルーツは畑野目黒町。当時江戸で学んだ医者は頭髪を剃り、京都で学んだ医者はチョソマゲで、山本桂はチョソマゲ、三折はロウソ(堂僧)とあだ名。
★生田耕一
秀の息子、万葉集や鼓の研究者。能楽関係資料の収集者。関西大に生田文庫あり。
★高橋龍太郎
1875年-1967年。生田秀の三女光子の夫。アサヒビール社長となる。「日本のビール王」と称される。プロ球団オーナー、日本サッカー協会会長。貴族院議員、参議院議員、日本商工会議所会頭から通産大臣に。
★高橋吉隆
龍太郎長男。東京帝大卒、住友銀行副頭取からアサヒビール入社、1971年-1976年まで社長。
★山本桂
当時江戸で学んだ医者は頭髪を剃り、京都で学んだ医者はチョソマゲを結った。山本桂はチョソマゲ、三折はロウソ(堂僧)とあだ名された。長男に貿易商山本一郎、次男に農林大臣山本悌二郎、6男に外務大臣有田八郎。
h300525&300601 「相川音頭について」 (前・後編)















「ダン渡辺の佐渡四方山話」
先週は、宵乃舞近しと言うことで「相川音頭」について話してみました。
話に先立ち、5月に亡くなった佐渡民謡会の巨星お二人にその業績を紹介させていただきました。
★故岩崎康一郎先生
昭和17年生。立浪会で活躍し、後に七浦民謡研究会を立ち上げ、七浦甚句の保存発展に尽力。佐渡おけさ文三節、古調相川音頭の名人でもあった。
★故葛間覚先生
昭和23年生。羽茂民謡研究会の中心メンバーで活躍し、並行して羽茂高校郷土民謡部の地方(唄・三味線等)の指導に尽力し、全国優勝に導いた。
★相川音頭とは
・音頭、御前音頭、佐渡音頭などと呼ばれた。
・江戸初期から伝わる盆踊り唄で歌詞の多くは心中物であった。
天保年間に尚武の気風を重んじ「源平軍談」が出来た。
・源平軍談を初段~5段全てを唄うと2時間以上かかる。
作者は「平家物語」「義経記」その他多くの書物を参考にする。
音頭の歌詞は、山田良範・中川赤水、辻守遊(もりゆき)等が知られる。
・「どっと笑うて立つ浪風の・・」が有名だが、これは「源平軍談」五段目の五番の歌詞。
・相川「立浪会」はこれに由来する。
・山本修之助の「相川音頭集成」(昭和30年)「相川音頭全集」(昭和50年)の労作あり
★いろいろなジャンル
・「謡(うたい)百番くずし」※能曲の題名が百種入る
歌は家隆の流れを伝え 音語れば「山姥」たまの
恋と無常のいりわり聞くに人の命はげに「浮舟」の
・「心中物(おさん仙次郎 心中濃茶染)」
むかし異国の名高き君も色に溺れて身の禍(わざわい)と
なりしためしをさすがに今も 恋に命は惜しまぬならい
・「源平合戦」(初段歌詞)
嘉肴(かこう)あれども食らわずしては 酸いも甘いもその味知らず
武勇ありても治まる世には 忠も義心もその聞えなし
★古調相川音頭
・古い唄い方で、心中物や「謡(うたい)百番くずし」などで唄われる。
・松村直吉、杉山春雄、近年では岩崎康一郎等の名人を生んだ。
岩崎氏は今月死去。
・全国に「おけさの文三、音頭の直吉」として知られた。
★いろんな唄い方
・古調から正調への変化の過程で各種唄い方が出た。
・畑野の松本丈一、立浪会の加藤健三等である。
(CD)
・松村直吉(立浪会):40秒 昭和4年、39歳。3節目が独特
・杉山春雄(立浪会)古調:50秒 平成15年80歳 「謡百番くずし」2節目が下がり3節目上がる
・松本丈一(畑野):47秒 3節目上がる
・加藤健三(立浪会):55秒 2節目下がる
h300511&300518 「芥川賞作家 長島有のルーツ」 (前・後編)












★長島有
・新穂ゆかりの芥川賞作家、コラムニスト「ブルボン小林」、俳人「長嶋肩甲」でも活動。
『佐渡の三人』内容
・「佐渡の三人」:おばちゃんが亡くなった。儀礼嫌いの大叔父に代わり、私と弟、父の三人が佐渡にある一族の墓へお骨を納めに行く。
・「戒名」:ワンマンな祖母は生前に自分で戒名を決めた。問題は字数が足りないことだ、とひきこもりの弟が言う。
・「スリーナインで大往生;祖父が死んだ。99歳9ケ月。「惜しい!」「スリーナインだ」と家族は盛り上がる。
・「旅人」大叔父が死んだ。祖母との「ダブル納骨」で父の後妻を含め一族7人が佐渡に集まる。
・文學界新人賞「サイドカーに犬」
・芥川賞(平成13年)「猛スピードで母は」
・川端康成文学賞(平成15年)「タンノイのエジンバラ」
・第1回大江健三郎賞(平成19年)『夕子ちゃんの近道』
★長嶋康郎(やすお)
・長島有の父、新穂生。東京・国分寺の古道具「ニコニコ堂」店主で作家。
・つげ義春の漫画に出る「変な石ばかり集るオッサン」のモデル、著書多数。
・長嶋長節(東大医学部名誉教授)の三男。
★長嶋長節
・新穂長嶋医院の長男。東大医学部名誉教授、循環器が専門。
・昭和25年頃、父隆次死去後、一時新穂で病院を継いだ。
・長嶋有は祖父長節について、小説「スリーナインで大往生」で書く。
「長節には三人の息子がいて、長男のヨツオは言語学の、次男のムツオは医学部の大学教授になった。三男で私の父のヤツオだけが古道具屋になった。」
★長嶋善郎(よしお)
長嶋長節長男、新穂生。言語学者、東大卒、学習院大学教授、著書多数。
★長嶋和郎(かずお)
長嶋長節2男、新穂生。東大卒、北大医学部名誉教授。
★藤田赤二
・哲学者、早大教授。長島長節弟。父が赤泊で開業時に出生の為「赤二」。
・「ヤスパース選集」「レオナルドの幻想」等。ガ
・長島有は赤二を描写。
「大叔父は筋金入りの文学青年がそのまま老人になった人で、「道子さん、あなたはドストエフスキーを読みなさい」と肩を叩いてくる」
★長嶋隆次
・明治11年真野町新町生。赤泊、新穂に医院開業。子、孫、ひ孫が大成する。
長島家墓所は北方護村寺。俳人で長島城村と名乗る。
・長嶋長節の父。
h300422&300503「北海道と佐渡」―田辺九郎平と松沢伊八― (前・後編)























「北海道と佐渡」―田辺九郎平と松沢伊八―
★田辺九郎平:1831-1902。赤泊の田辺九郎兵衛の長男。早くに父を失い、嘉永元年徳和村の羽豆太郎三郎家へ奉公に出た。嘉永2年(1849 松沢伊八と同船)19歳の時に北海道の江差へ渡り、同郷の武部喜八郎の店で4年間働き蓄えた金を元に、反物行商を始めた。その後店を開き、漁業者相手の貸金業も行い資産を残す。明治19年(56歳)帰島、この時出入漁業者に米3000俵と漁具一切を与え、貸付金も反故にした。帰島後は、公益事業に努め、明治20から、自費で赤泊港の修築工事を始めた。又、赤泊・寺泊間に定期航路を開き、占魁丸を就航、越佐航路の発展にも尽力した。68歳で押されて島内政治事情からやむを得ず自由党家から衆議院選立候補、進歩党現職市橋藤蔵に大差で敗退。
(追)・江差を引上げ佐渡へ。永年仕入れし者共へ貸付たる金円凡そ五・六万円(2億~2.5億)もあり、貸金を取下る事は素より出来ず、さりとて同氏手を引くときは漁民は差当り困難すべし。夫等を配慮され今度同氏引上るに就ゐては、彼抵当付の証書はことぐく反古となし、若し資本に差迫らばこの抵当を他へ入れて資本の融通に供されよ。差網建網類も持去るときは村々の迷惑なるべし。されば置土産とすべし、仕入地なる小砂子村より島牧郡の村々16ヶ所へ建網23投(とう)差網150投を進物とし、且つ今漁期の仕度に際し漁具のみありて食米に乏しきときは難渋ならんと4斗俵3千余俵(五千円=2000万)を之に添へて、この村々の兼て同氏の仕入れをせし者共へ進物にとなしたるにぞ。同氏はこの五・六万円の貸金のほかに、猶2万円はどの貸金証書あり、正金としては凡五千円余(2000万)を携帯し、功成りて来年一月佐渡へ帰国さるゝといふ。尤も本国の家も同氏が少年の頃見捨てたる貧しきとは違ひ、今は年に幾百俵とも収入米もある身代ゆへ、同氏はこれにて日常の家計にはさしつかへなき豊なる身代なりとぞ。
・九郎平のこうした篤志事業は佐渡へ帰ってからも続いた。明治22年、田辺九郎平は玄米25石代価142.5円分(30万)を、村で生活に困っている人たちに施与してほしいと寄付した。明治21年に赤泊に火事があり、その罷災者への援助であった。
・(港の改修と九郎平)
さて本工事に必要とする石材については赤泊の地先海岸にある分を拾い尽したため近村の海中より拾い取ることにしたところ、すでに許可された場所でもかれこれの故障を申し出、徳和村の如きは、昨年七月中はじめてさしむけた石拾い船に多人数で暴行加える仕末。また今年八月中相川の治安裁判所へ石材のひろいとりを拒否する出願をする、エ事は意の如くはかどらず、半ばにしては休止しているのが実情。そのため昨冬よりの大浪で、その都度修繕した場所も大破して損害はひとかたならず、止むを得ず工期の延期を願で出、目下もエ事中であるが、そのような事情なので材料もなく、私の力をもってしては竣工できないというのが実情である。若しこのままでいけばこれまでの苦心と消費した金額は水泡に帰すことになり甚だ当惑する次第である。
九郎平の港湾修築の考えは、このころまだ徳和など周辺の地域の人々にとって、港をもつ赤泊だけの問題としてしか映らなかったのが、こうしたトラブルを引き起したのであろう。
結局、県からの援助はなく、独力で工事を成し遂げたのである。
田辺九郎平の築堤工事は明治23年10月に完成。その工費は5300円(2200万)余りである。
★松沢伊八:1835-1893。赤泊の商人の子、嘉永2年(1849、田辺九郎平と同船)15歳で北海道江差に渡り、呉服商川端武右衛門に奉公、慶応2年(32歳)独立、幕府官米の精米業を始めるが、維新で挫折。江戸へ出て上野戦争後、物価が低落した江戸市中で古着を買い江差で売って巨利を得る。その後、呉服を扱い、江差を代表する商人になり明治19年(52歳)三井物産と提携してスルメの中国輸出を開始、漁油製造も行う。北海汽船会社を設立、初代江差郵便電信局長・田畑開墾・道路改修・江差灯台建設などに多大の功績。江差を見下す丘の上に、三井物産が発起建立した、巨大な伊八記念碑が残る。
(追)・その後、鰊漁業の終末期を迎えたが、それに代わる産物として清国貿易品に鯣(するめ)が有望であると判断、明治19年(52歳)に長男儀造と函館支配人杉村福造を上海及び香港に鯣現品を持参させて、輸出に成功。これは三井物産の市場開発で、これによって道南鯣の三井買付となる。竹葉スルメと言う。又、魚油製造も行う。明治22年、汽船会社江運社を興し、明治23年(1890)に創業した北海汽船会社は、7隻の汽船を所有する北海道随一の船会社に成長。また伊八は、初代江差郵便局長、田畑開墾、道路改修、江差灯台建設など公益事業に大きな功績を残し地域に大きく貢献した。明治24年(1891 57歳)同社所有の瓊江丸(タマエマル)が津軽海峡で船舶が321人を乗せて津軽海峡を航行中、他の船と衝突・沈没し、乗客321人中253人と乗員8人が溺死する大事故が発生。社長の松沢伊八は私財を投げ出し、死者の供養、損害補償や遺族の救済に臨んだ。彼はその心労が祟って二年後の明治26年(1893)、志半ばにして58歳で死去。同時に会社も消滅した。現在も「正覚院」に海難事故を悼む「瓊江丸記念碑」が残されている。江差港、日本海を眺望できる高台に設置されたこの記念碑(現、江差町指定文化財)は、松沢伊八の徳を記念するため三井物産が発起人となり、多くの人々の寄付により明治34年(1901)に建立。高さにして8mはあると思われる巨大な碑で、本碑を中心に右側に「遺芳」(明治32年5月)左側に「常夜燈」(明治32年12月3日)が建つ。この碑は伊八の徳を偲んで明治301897)年に貴族院議長近衛篤麿公爵の揮毫で建立。
h300406&300413 「佐渡を愛した作家達」-吉村昭と津村節子- (前・後編)











「佐渡を愛した作家達-吉村昭と津村節子-」
★吉村昭
妻の津村節子と共に佐渡を愛し、何度も来島して佐渡に関した作品を発表した。「破船」「花渡る海」等。前者は小木堂の釜地区辺りをモデルにしたと言われる。後者は横谷出身の蘭方医長野周甫が登場。この医院は芳蘭館、昭和になって佐渡を訪れたブルーのタウトが書いた「日本美の再発見」に登場。吉村氏夫妻は郷土史家であり佐渡博物館館長であった本間寅雄氏とは昵懇。
『破船』:小木の一漁村をモデルにしたと言われた。住民の海賊行為が問題となった。
『花渡る海』:極寒のシベリアに漂着。日本に西洋式種痘法をもたらしたが、発痘の花を咲かせることはなかった。横谷出身の蘭方医長野周甫が登場。
『石の微笑』:佐渡へ石仏収集に出かけ、女と心中して自分だけ生き残る。
★長野秋甫
羽茂郡金井村横谷に生れ。江戸に出て医術をまなび、その後、オランダ医学の修業を志し、長崎に行って魯庵の門に入る。佐渡に種痘法を持ち帰るため、魯庵から痘苗をゆずりうける。
佐渡へ帰郷の途中、広島に滞在中、松軒の依頼により、二人の子に種痘し)見事な発痘をみた。
嘉永六年に故郷の佐渡に帰ったが、種痘を恐れてうける者は一人としてなく、安政二年(一八五五)正月二十一日、業の成らぬことをなげきながら三十四歳の著さで病歿した。
吉村昭『花渡る海』に登場する。
又彼が設立した洋風病院の芳欄館はブルーノタウト『日本美の再発見』に出る。
★津村節子
福井市出身で『玩具』で芥川賞。『海鳴』の舞台は佐渡相川、『紅梅』には佐渡関係の随筆が載る。「海鳴」等佐渡を描いた作品を多く残す。夫婦共に元佐渡博物館館長で郷土史家でもあった本間寅雄氏(ペンネーム磯部欣三)と昵懇。『
『海鳴』:作者が何回も佐渡へ足を運び、相川郷土博物館や郷土史家などから資料を得て書いた。無宿者であった相川金山の水替え人足直吉と相川の水金遊廓の遊女花衣との話。
『紅梅』には佐渡で本間寅雄さんの弔辞を読む話が出る。
『相川心中』:男と心中を図って、男が死に自分が救われた女は佐渡相川に泊まり、そこがかつて女郎と客が心中した女郎屋であったことから、百年以上も前のことをきく。
★文学碑(二基 金山の奧、第六駐車場付近の大立公園)
(1)華々しい繁栄を見せた金山
余光をとどめる相川を歩ていると
過去と現在を行き来しているような
不思議な気分に襲われ
望郷の念に駆られながら
若い命を相川に埋めた無宿たちの
かすかな声が石や草の蔭から
聞こえてくるような気がする
平成三年四月
津村節子
(2)慶長六年に三浦治兵衛ら
三人の山師に発見された鉱脈は
鮎川の警告をさかのぼり
鬱蒼とした茂みをぬけたところに
燦然と
その露頭を現わしていた
小説「海鳴」より
h300309&0300316 「本間泰蔵とその孫一夫」-豪商と点字図書館創設者- (前・後編)





















「本間泰蔵とその孫一夫」-豪商と点字図書館創設者-
★本間泰蔵
北海道を代表する実業家。嘉永2年(1849)、佐和田在の仕立屋3男に生れた。24歳で渡島、小樽で丸一松居呉服店に勤務、増毛で丸一本間を創業。呉服店、雑貨店、酒造、漁業鰊漁の網元、廻船業と事業を拡大。
明治31年(1902)丸一本間合名会社創立。事業分野には、呉服雑貨業、醸造業、漁業、海運業(汽船5隻所有)、不動産業、また増毛電気株式会社の初代社長と総合商社のような多角経営。天塩國随一の納税者で豪商。現在、國稀酒造が存在し、「旧商家丸一本間家」は国重要文化財で、地域の観光スポット。羽幌の本間藤右衛門とは親戚筋。
・「国稀」酒造
日本最北の酒造。『國稀』『鬼ころし』『北酔』『暑寒美人』『北じまん』他、創業者に因んだ『泰蔵』も醸造。高倉健主演の映画『駅 STATION』のロケ地ともなった。
・「丸一本間家」建造物群
増毛町は増毛町文化財に指定し「増毛町本間家保存修復事業」として推進。「レトロの街増毛」に多くの人が見学に訪れ、本間家は観光のシンボルとなった。
<旧商家丸一本間家‐国指定重要文化財>
100年前の明治時代の姿をそのまま現代に伝えている旧商家丸一本間家。屋根瓦の一枚一枚には屋号が彫り込まれ、壁面や門柱には洋風の装飾が施されるど当時の建築職人の心意気が感じられます。
★本間一夫
日本初の点字図書館開設、盲人文化発展の父である。本間一夫の孫にあたる。1915年(大正4年)増毛生まれ。5歳で失明、読み聞かせてもらい読書の喜びを知る。関西学院大卒業後、点字図書館づくりをライフワークにしようと決意、昭和15年「日本盲人図書館」を創立。「
1915年(大正4年)増毛生。5歳のころ脳膜炎で失明、13歳で函館盲唖院に入学まで学校に通わず在宅生活。この間、毎日のように読み聞かせてもらった『日本児童文庫』『少年倶楽部』によって読書の喜びを知る。函館盲唖院時代、本間は点字に出会うとともに、イギリス・ロンドンにある点字図書館の存在を知り、常日ごろ点字図書の不足を嘆いていた本間は、点字図書館づくりを自らのライフワークにしようと決意する。1936年(昭和11年)、本間は視覚障害者に門戸が開かれていた関西学院大学の専門部英文科に入学、盲哲学者・岩橋武夫や英文学者・寿岳文章らに師事。卒業後、本間は東京の視覚障害者施設・陽光会に迎えられ、そこで点字月刊誌の編集責任者を1年半務めた。
(日本盲人図書館の創立)
1940年(昭和15年)11月10日、本間一夫は東京市(当時)豊島区雑司ヶ谷の借家に「日本盲人図書館」を創立。今日の日本点字図書館で、点字図書700冊、書棚4本からのスタート。翌年、図書館は淀橋区諏訪町(現・新宿区高田馬場)の本間家宅地に移転する。
(日本点字図書館の発展)
昭和28年、本間の朝日社会奉仕賞受賞をきっかけとして、ようやく当館事業の公益性が広く社会に認められる。昭和30)、点字図書の製作と貸し出しが厚生省委託事業、当館は全国点字図書館の中央館的役割を担い、点字出版所をも兼ねる。昭和33年から録音図書(テープ図書)の製作、「声のライブラリー」が発足。
昭和39年、世界盲人福祉会議出席のため渡米その帰途ヨーロッパを回り、欧米の視覚障害者用具約150点を収集。これがきっかけで、昭和41年に視覚障害者用具の販売事業が発足。現在では約1000点を扱うまでに発展し、新商品の開発や全国各地での展示会、海外への輸出。
昭和58年からは情報提供サービス充実。図書検索にコンピュータを導入し、昭和60年に当館および東京都内の点字図書館・公共図書館にある点字図書・録音図書のデータベースを作成。その後は情報収集の範囲を都内から全国の図書館へ広げ、平成13年には全国の点字図書館・公共図書館・大学図書館・利用者・ボランティアがインターネットを介して自由に書誌情報や点字データの送受信を行える、「点字図書情報ネットワーク整備事業」を稼動。
(本間一夫の志)
本間一夫は平成15年に亡くなりましたが、その想いは今や国境を越え、アジアの視覚障害者にも届けられています。平成5年、当館はアジア盲人図書館協力事業を開始。アジア地域の視覚障害者に豊富な点字図書を供給するため、マレーシアを拠点に、毎年アジア各地で「コンピュータ点字製作技術指導講習会」を開催し、周辺の国々から図書館や盲学校、盲人協会などのスタッフを招いて、パソコンによる点訳技術や作図法などを指導。
「権利において、義務において、晴盲二つの世界があくまでも公平でなければならぬ」(本間の言葉)
・黒柳徹子の朗読奉仕・井深大さんの盲人用テレビ・松下電器の協力・高見順の『各駅停車』
・有吉佐和子『閉店時間』・式場隆三郎博士の温情(世界盲人会議出席と世界周遊)
・幼少時の北海道時代から関西学院在学中、東京での点字活動人生にほぼ一生涯そばに居て支えたばあやは明治5年佐渡島生まれ。文盲であった。ばあやの後は妻喜代子が身辺の面倒を見てくれた。
・昭和38年、ヘレンケラー賞を受賞。・昭和46年、藍綬褒章を受章。・昭和52年、吉川英治文化賞を受賞。・平成14年、井上靖文化賞を受賞。
h300223&0302 「両津甚句の話)」(前・後編)













『両津甚句の話』
1小林よしえ
両津入桑出身の民謡家、昭和16年生。県内外(東京・大阪)に民謡教室を主宰。佐渡で開催される各種民謡大会には多くの生徒達を引率参加、佐渡民謡の発展普及に貢献。
★両津甚句
久地八幡宮の「久知甚句」から派生した「夷甚句」「湊甚句」が夷町、湊町の合併後「両津甚句」となる。現在の両津甚句は大正初期「両津甚句会」によって完成した。
※昭和42年国立劇場が初めて民謡に解放された時、日本の代表的民謡数曲の一つに選ばれた。
★代表的歌詞
・両津欄干橋は真ん中から折りょうと船で通うてもやめりゃせぬ
・松になりたや御番所の松に枯れて落ちても離りゃせぬ
・前は漁火うしろは加茂湖中は色街恋の町
・行こか湊町もどろか夷ここが思案の両津橋
・しんと更けたる夜はこわござる烏賊が啼きます船底で(中川雀子作)
※囃子言葉の「りゃんとーうりゃんとーりゃんとー」は「両(りゃん)とー」で「二つ、繰り返す」の意。即ち、一節は終わったが、次に続いて唄ってくれ、との意味。
★両津甚句一節の長さ(歌のみ)
1朝日亭八重子40秒 2中川千代(本間ふさ)40秒 3田中幸月60秒 4佐藤みやこ60秒 5松本丈一 8小林よしえ65秒 9村田守60秒
★両津甚句を支えた人々
1小林よしえ 両津入桑出身の民謡家、昭和16年生。県内外(東京・大阪)に民謡教室を主宰。佐渡で開催される各種民謡大会には多くの生徒達を引率参加、佐渡民謡の発展普及に貢献。
2朝日亭八重子
大正末に両津甚句を初めてレコードに吹き込む。昭和2年。両津甚句がNHKで放送された時の唄い手。「朝日亭」は昭和22年頃まで八郎平町にあった料亭。
3中川(山田)千代
明治39年生、両津の料亭吉田屋に勤めた。昭和27年第2全国民謡大会に「両津甚句」で優勝。
42年、国立劇場が初めて民謡に開放された時、一般民謡人として初出演。
4田中甚平(紅月・幸月)
新穂舟下の人、明治37年生。独特の節回しで両津甚句を唄った。
5佐藤ミヤ子
大正10年生。昭和30年代、「両津甚句」で全国優勝。レコードも多く吹き込む。2男が有名な津軽三味線奏者木田林松次。
6村田守
小木の人、昭和19年生。中川千代から古い形の両津甚句を習得し唄った。「さざ波会」会長、佐渡民謡協会会長を務めた。
7浦本政三郎
日本民謡協会初代理事長。両津甚句を愛し昭和3年初来島以来、昭和34年まで20回程来島。
8松本丈一
畑野小倉出身の大民謡家。日本民謡功労賞受賞。現在の両津甚句の形を作ったと言われる。
「松本丈一師民謡碑」が小倉に建つ。
9渡辺忠一
両津夷の人、明治40年生。三味線の名人で鴨湖会会長を務め、昭和29年の日本民謡大会で日本一。
h300209&0216
「プライバシーを広めた佐渡人(久保田きぬ子と有田八郎)」(前・後編)>
















★「宴のあと」裁判
昭和36年、三島由紀夫『宴のあと』が有田と元妻畔上輝井(あぜがみてるい)との結婚生活をモデルとし、プライバシー侵害に当たるとして訴えた。日本初のプライバシーと表現の自由が争われた。『宴のあと』はプライバシー侵害に該当ー三島側は控訴、翌年の昭和40年有田死去ー有田の遺族と三島・新潮社が和解、無修正で出版。
★有田八郎
外交官・政治家。明治17年、真野町新町山本桂の六男に生まれ2歳で、獄死した父の友人、有田真平未亡人の養子に。農林大臣を務めた山本悌二郎は兄。一高-東大から外務省、昭和11年外相、以後4度外務大臣。その間、日独伊三国同盟には、一貫して反対。第二次大戦の戦況が悪化した昭和20年天皇に上奏文を提出して、戦争の早期終結を訴えた。戦後は社会党に属し、昭和28年衆議院議員に当選、革新推選の候補として出馬した東京都知事選では2度敗北。相川町名誉町民(第二号)。
・有田八郎記念館(相川郷土博物館)
・五男に有田啓輔外務次官
・昭和27年相川鉱山大縮小時、相川代表として三菱代表田中完三と会談
・妻は小木の佐藤嘉十郎家の出
★三島由紀夫
戦後の日本文学界を代表する作家、ノーベル文学賞候補、代表作は『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』等。晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、「楯の会」結成。昭和45年、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地で東部方面総監を監禁。バルコニーでクーデターを促す演説後、割腹自殺。
★久保田きぬ子
憲法学者。大正2年相川町生。父久保田金五郎は醤油醸造業など営み相川町長。きぬ子の回想だと「父は私が一二歳のとき他界したが、蔵にあった大判小判などを神田の地金商で換金し、水平社運動などにつぎこんだりした」。東大初の女子学生。国連総会に日本政府代表代理として女性初の出席。同郷の有田八郎が、三島由起夫の『宴のあと』を告訴、米国通の彼女は「名誉棄損でなくプライバシーでやったら」と提言。プライバシーの権威として知られた。
・祖父久保田金五郎は沢根青野屋の出で、青野季吉の伯父。祖父と季吉は従兄弟。
h300126&0202
「オリンピックと佐渡人(体操と水泳のパイオニア」(本間茂雄と斎藤兼吉)(前・後編)>




















★斉藤兼吉
1894(明治27)-1960。新潟県初のオリンピック選手、日本初の水泳オリンピック選手。両親は相川小六町で旅館「えびすや」を経営。佐渡中学に入学、相川から片道三里を歩いて通学。大正五年の極東大会(現アジア大会)で水泳の三種目と陸上の円盤投げ・やり投げ・五種競技で優勝、「水陸両棲動物」と言われた。アントワープの第七回オリンピックに出場。日本の水泳技術の遅れを痛感し、米国などの先進的なクロール泳法を学び、日本で普及させ水泳日本の基礎を築く。欧州と英国に遊学、晩年は満州医科大・新潟大・金沢大学の教授。中京大体育学部創設。
★本間茂雄
畑野坊ケ浦出身、日本初の体操オリンピック選手。日本の体操競技を世界一に押し上げた功労者。明治37年出生、東京高師卒。後年、東京教育大名誉教授。昭和7年、第10回ロサンジェルスオリンピック体操競技に初出場、主将。以後、オリンピック体操競技コーチや競技団長を歴任、世界を制した日本体操競技の礎を築く。指導者としての教育大後輩達に小野喬、遠藤幸雄、加藤沢男等のオリンピック金メダリストが並ぶ。
★渡辺利雄
新穂潟上出身の東大名誉教授、日本を代表する英米文学者。本間茂雄の甥。
★伊藤勝二
昭和20年、相川町生。1500m自由形日本チャンピオン、メキシコオリンピック日本代表。実家は相川下戸の山與鮮魚店。昭和38年の相川高校時代は全国高校大会五位。名門日大入学後頭角を現し、1500m自由形で日本新記録を樹立。
伊藤は当時の長距離泳では使われなかったクイックターンを1500メール泳では世界で初めて使用。
h300112 「ウイスキーとチーズ-二人のカリスマ-」(前編)









★土屋守
ウイスキー評論家、作家、ジャーナリスト、スコッチ文化研究所代表。1954年生まれ、両津市夷出身。実家は源助屋履物店で、母は商店会婦人部会長等で活躍された。佐渡高校時代は山岳部、学習院大学時代は探検部に籍を置いた。学習院大学文学部卒後、週刊誌記者(「フォーカス」)を経てロンドンで日本語雑誌の編集に携わる。帰国後、ウイスキー、釣り、紅茶、英国関連の著述で活躍中。1988年、ハイランドディスティラーズ社より「世界のウイスキーライター5人」に選ばれる。主な著書に『モルトウイスキー大全』『ブレンデッドスコッチ大全』(小学館)など多数。
・従兄弟に『北一輝のための終わりなき戯曲』著者の伊藤正福氏が居る。
・主な著作
「イギリス・カントリー紀行」(1995年5月) 「モルトウィスキー大全」(1995年12月) 「ブレンデッドスコッチ大全」(1999年3月) 「スコッチ三昧」(2000年5月) 「スコットランド旅の物語」(2000年7月) 「改訂版モルトウィスキー大全」(2002年4月) 「シングルモルトを愉しむ」(2002年11月)
★本間るみ子
佐渡新穂長畝に昭和29年生。父は長く佐渡農協・組合長を務めた本間一雄。・佐渡高校ー桜美林大卒後、アメリカ留学。・1977年、チーズ輸入専門商社に入社しチーズと出会い、1986年に日本で初めての本格的チーズショップである株式会社フェルミエを設立。 店名のフェルミエは「農家製」という意味のフランス語。
(チーズ研究家)講演活動や、チーズスクールの講師を務めるなど、日本のチーズ第一人者として、チーズ普及に情熱を傾けている。
(著書)『チーズ図鑑』『いま、チーズがおいしい』『チーうを楽しむ生活』『チーズで巡るイタリアの旅』、『POPのチーズ達』『AOCのチーズ達増補版』『チーズの悦楽十二カ月』『チーズの選び方・楽しみ方』『パルミジャーノ・レッジャーノのすべて』『チーズ』」等)。
(称号)・1999年、フランス農水省より農事功労賞 ・2002年フランスチーズ鑑評騎士の会よりグランオフィシエの称号 ・同上チーズ熟成士の称号(フランスで30人、史上、女性では2番目) 他多数
・佐渡高校山岳部に所属、1年先輩にスコッチウイスキー研究所所長土屋守氏が居る。
h300119 「ウイスキーとチーズ-二人のカリスマ-」(後編)








今回はチーズのカリスマ本間るみ子さんについて話しました。
6年位前でしょうか、北海道帯広在の友人(「十勝毎日新聞」)から電話。
「帯広で世界のチーズフェアを開催したい、その冠にチーズのカリスマ本間るみ子さんをお願いしたいと電話した。すると、父の葬儀で佐渡島に帰ってると聞いた。そこで、佐渡のあなたに本間さんについて教えてもらいたい」と。
彼女の父本間一雄さんのことなどを話しました。
この北海道の友人とはその後二つの機縁もありました。
帯広畜産大の何十周年記念があるので、校歌を石碑に刻んだ。
何とその校歌作詞者は畜産大第一回卒業生の佐渡人名畑武男氏であった。
この奇縁を私が新潟日報に書いたら、早速、その記事が畜産大記念祭に紹介されたと。
もう一つ。
帯広の友人と親しい帯広近辺の獣医さんが故郷に帰ると言う。
聞いてみると佐渡ヶ島だと言う。
現在、新穂在の葉梨獣医さんで、何と私のまた従兄弟であった。
★本間るみ子
佐渡新穂長畝に昭和29年生。父は長く佐渡農協・組合長を務めた本間一雄。・佐渡高校ー桜美林大卒後、アメリカ留学。・1977年、チーズ輸入専門商社に入社しチーズと出会い、1986年に日本で初めての本格的チーズショップである株式会社フェルミエを設立。 店名のフェルミエは「農家製」という意味のフランス語。
(チーズ研究家)講演活動や、チーズスクールの講師を務めるなど、日本のチーズ第一人者として、チーズ普及に情熱を傾けている。
(著書)『チーズ図鑑』『いま、チーズがおいしい』『チーうを楽しむ生活』『チーズで巡るイタリアの旅』、『POPのチーズ達』『AOCのチーズ達増補版』『チーズの悦楽十二カ月』『チーズの選び方・楽しみ方』『パルミジャーノ・レッジャーノのすべて』『チーズ』」等)。
(称号)・1999年、フランス農水省より農事功労賞 ・2002年フランスチーズ鑑評騎士の会よりグランオフィシエの称号 ・同上チーズ熟成士の称号(フランスで30人、史上、女性では2番目) 他多数
・佐渡高校山岳部に所属、二年先輩にスコッチウイスキー研究所所長土屋守氏が居る。
★土屋守
ウイスキー評論家、作家、ジャーナリスト、スコッチ文化研究所代表。1954年生まれ、両津市夷出身。実家は源助屋履物店で、母は商店会婦人部会長等で活躍された。佐渡高校時代は山岳部、学習院大学時代は探検部に籍を置いた。学習院大学文学部卒後、週刊誌記者(「フォーカス」)を経てロンドンで日本語雑誌の編集に携わる。帰国後、ウイスキー、釣り、紅茶、英国関連の著述で活躍中。1988年、ハイランドディスティラーズ社より「世界のウイスキーライター5人」に選ばれる。主な著書に『モルトウイスキー大全』『ブレンデッドスコッチ大全』(小学館)など多数。
・従兄弟に『北一輝のための終わりなき戯曲』著者の伊藤正福氏が居る。
・主な著作
「イギリス・カントリー紀行」(1995年5月) 「モルトウィスキー大全」(1995年12月) 「ブレンデッドスコッチ大全」(1999年3月) 「スコッチ三昧」(2000年5月) 「スコットランド旅の物語」(2000年7月) 「改訂版モルトウィスキー大全」(2002年4月) 「シングルモルトを愉しむ」(2002年11月)
h291222 「歌舞伎尾上松也のルーツ佐渡」(前編・後編)







佐渡TV「ダン渡辺の佐渡四方山話」
こんなことを話しました。
今を時めく歌舞伎界のスター尾上松也。
母は新派を代表する女優だった河合盛恵。
この母のルーツが佐渡両津なんです。
松也の父は尾上松助、子役時代にはあの「赤胴鈴の助」役でデビュー!
相手役がテレビ初出演の吉永小百合。
この作品の脚本を書いたのは有名な穂積純太郎。
相川出身で本名は宮本佐三雄。
「佐」渡で生まれた「三」男のよし。
「歌舞伎尾上松也のルーツ佐渡」
★尾上松也
1985年日生-。歌舞伎俳優。屋号は音羽屋。五歳で初舞台。父尾上松助は松也20歳の時没。松竹エンタテインメント所属。舞台やTVで大活躍。母方祖母 磯野初枝が両津湊の磯野嘉右衛門家の人。祖母は燕の鍔師(つばし)河合一舟に嫁ぎ、移住した鎌倉で盛恵(松也母)を出産。
尾上松也が父と母の借金まみれの壮絶な過去を告白! 父・松助の死去後一門を背負う立場に。
尾上松也は、歌舞伎界の若手ホープの1人。現在32歳の尾上松也は、歌舞伎の舞台の他、バラエティ番組、ミュージカル舞台でも活躍中。歌舞伎役者の父・六代目尾上松助と、新派の女優だった母・河合盛恵の長男に生まれ、5歳で初お目見得。2005年に父・尾上松助が他界、若干20歳にして、家族や弟子を抱え、一門を継ぐ立場に。25歳で自主公演「挑む」を始めるも、集客に失敗、多額の借金。その後1年1回公演開催、今年で9年目。尾上松也の名が世に知られ観客数も大きく伸びた。2012年、蜷川幸雄の「ボクの四谷怪談」でお岩役を好演した尾上松也。2013年「ロミオ&ジュリエット」のベンヴォーリオ役をオーディションで見事射止める。舞台やミュージカルに出演中も、歌舞伎役者として舞台をこなし、私生活では前田敦子との熱愛で世間を賑わせる尾上松也。同時にテレビやCM、雑誌、映画やドラマ等メディアに露出。ここ数年で一気に駆け上がる。年末には「忠臣蔵」、年始には「新春歌舞伎」とハードスケジュール。これだけテレビに出演し、スポンサーもつけば、借金のかなりの部分は返済できたのではないでしょうか。尾上松也が熱愛中の彼女はAKB48の元メンバー前田敦子!前田敦子が「梨園の嫁」になるのではないかと、一時はかなり盛り上がった2人の結婚話。
★尾上松助
松也の父、1946年生-2005年没、59歳。尾上松緑に師事、菊五郎劇団で松緑や尾上菊五郎を支えた。子役時代はTV『赤胴鈴之助』の主役で活躍した。
※ラジオ東京(現・TBSテレビ):1957年1-1959年、主演(尾上緑也、後尾上松助)、吉永小百合(テレビ初出演)等。赤胴鈴之助の脚本は相川出身の穂積純太郎。
★河合盛恵
新派の役者や女優として活躍、歌舞伎役者尾上松助に嫁ぐ。新派では水谷八重子の最後の弟子。母の実家、磯野嘉右衛門家の先祖は夷4丁目で、湊5丁目に移住、蒲鉾製造を行っていた。磯野家の菩提寺は安照寺で墓は盛恵さんが守る。磯野家は田中湖山家と親戚で、盛恵さんは学生時代そこでお手伝もした。
★春本由香
松也の妹。新派の女優。二代目水谷八重子に師事。テレビドラマ『雲霧仁左衛門』に初出演。人気上昇中。
★音羽屋
音羽屋は歌舞伎役者の屋号。ゆかりの清水寺境内「音羽の滝」にちなむ。尾上松也の一門である「音羽屋」は初代から続く尾上菊五郎家と分家筋の尾上松緑家の系統にわかれる。菊五郎家は、歌舞伎界に多大な貢献をしたとして、現七代目菊五郎が人間国宝に指定され名門中の名門。この現・七代目菊五郎は寺島秀幸。女優・寺島しのぶの父親。
★音羽屋の代表的な名跡。
音羽屋は尾上菊五郎家と分家筋の尾上松緑家の系統がある。
菊五郎家は現七代目菊五郎が人間国宝。女優・寺島しのぶの父。
「宗家」・尾上菊五郎・尾上菊之助・尾上丑之助・尾上梅幸・尾上九朗右衛門・尾上右近・尾上榮三郎
「分家」・尾上松緑・尾上辰之助・尾上松助・尾上松也等
h291124&1201 「佐渡の三奇人」(昭和編) 前編・後編









★近藤福雄
1900-1957。金沢村種の裕福な農家の長男。福雄は父の死去で高等小学校後、家業。18歳で写真機を持ち、自然や風俗を撮る。大正9年、柳田国男来島、伯父の茅原鉄蔵を通して接触。大正13年、大町桂月の案内役。昭和8年、牧野富太郎を案内し、山や植物への関心。考古学や歴史に関する知識は、親戚の川上喚涛や茅原鉄蔵の影響による。後に関係者により写真集『佐渡万華鏡』『佐渡写真帖』が出版。
・1983年(s58)12月号の「アサヒカメラ」で近藤福雄大特集があり、一気にブレーク。
・著名人の専業ガイドを兼ねた写真家。蛇腹の大型ガラス乾板写真機。乾板の現像後の処理は自宅の暗室で行う。・牧野富太郎を案内後、山や植物への関心が強まる。旅行雑誌『旅』の編集長戸塚文子の誌上の紹介が彼を著名人紹介に役立つ。
・平成6年、写真家富山治夫らにより写真集『佐渡万華鏡』出版。
★中川雀子
1889-1966。郷土史家。父は外山、母は竹田の人で母方の苗字を名のる。明治27年、両津で父のそば屋「くわがら屋」を継ぐ。そばの研究に上京、江戸風の種物そばを持ちこむ。相川で土産物屋を開業、夷で土製「のろま人形」を売り出す。東京や九州で人形の展覧会を開き、人形作家に。古銭の収集家でもある。高名な古銭鑑定家と小判論争。現在は中川説が通用する。民謡・芸能研究家でもあった。
・種物:うどん・そばの上に具材を載せる。天ぷら、あんかけ等。
・大正十年の全国民謡大会に、夷町のおけさ踊りをつれて上京、初めて「佐渡おけさ」の名前で発表。夷子供鬼太鼓の生みの親で、民俗学にも造詣が深く、川上喚涛らと柳宗悦の足どりを元に木喰仏の調査。昭和11年柳田国男の指導で佐渡の昔話採集に来島の鈴木棠三を外海府に案内。
・大蔵省や日本銀行の古銭の鑑定家で高名な小川浩と、昭和38年頃小判論争、佐渡産小判といえば、○の中に「佐」の文字の刻印がある正徳小判しかないといわれたが「筋神」「高神」等の小判座の職人印のあるものも佐渡産と、鉱山跡から見つけた製鉄の同名の刻印をもとに主張。
・昭和8年(1933)作の角のない子供用の面、中川雀子作。
子ども鬼太鼓の先がけは、夷七ノ町で昭和8年に結成というからこの時に合わせて作られた。・長男が郷土史家で紙人形作家の中川紀元さん。
★橘法老(橘正隆)
1892-1964。出生は新発田と言われる。当人は過去を語らず。大正12年、関東大震災で妻子を失ない、昭和11年、日蓮の遺跡研究の目的で来島。島内で伝説や口碑を史実と誤認していることに落胆、自らの手で再調査を決意。緻密で鋭い洞察力を備え、若い世代をひきつけた。昭和39年死去の後は、氏を慕う者達より湊妙法寺で毎年法老忌が催された。
※橘鶴堂文庫(きっかくどうぶんこ)
橘法老蒐集の膨大な古文書、絵図・写真等を本人の意向もあり佐渡農業高校が保管し「橘鶴堂文庫」と名づけた。
・中大法科卒とも東大卒とも言われたが不明。若き田中圭一先生他、後の佐渡の郷土史に携わる学者達に大きな学恩を与えた。
・衣食住を地元が賄って、『金泉村村史』、『河崎村編年誌』『佐越航海史要』等多くの著作を成した。
h291110&17 『意外と知らない「佐渡おけさ」?!』(前編・後編)













★二つの「佐渡おけさ」
1.正調佐渡おけさ:松本丈一・菊地歌楽・杉山茂左衛門等に代表され、現在の一般的な歌い方。
2.文三節佐渡おけさ:村田文三の唄い方で、三節目が大きく異なる。文三の他に長尾峻、岩崎康一郎に引き継がれた。
・松本丈一:畑野小倉の人、日本を代表する民謡家で日本民謡功労賞受賞。
・菊地歌楽:相川小川の人、立浪会で村田文三と共に全国的に活躍した。
・杉山茂左衛門:赤泊川茂の人、全国民謡大会で準優勝、「新潟交通おけさキャラバン」で活躍。杉山民友会会主杉山重信氏はその子。
・村田文三:相川の人、立浪会に属し、日本一の民謡歌手と言われた。日本民謡技能賞受賞。
・長尾峻:羽茂の人、長尾閑楽名で文弥節の名人であり、力士高尾山としても著名。「砂金音頭」作詞作曲。
・岩崎康一郎:二見稲鯨の人、現在、佐渡民謡の代表的唄い手で、古調相川音頭も伝える。
・岩原芳太郎 佐渡民謡研究会、松波会他か多くの民謡団体を指導。
★「佐渡おけさ」の三つの形
1. 正調 佐渡おけさ
2.ぞめき(騒き)おけさ:唄い出しに「はあーーっ」が入らず、テンポが少し速い。
3.選鉱場おけさ:選鉱場で唄われたもので、テンポが大変速い作業唄。
★その他
・小木おけさ:佐渡おけさの原型と言われる。唄、踊り共に佐渡おけさと少し異なる。
・新おけさ :明治末に来島した演歌師添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)が大正9年に作った新民謡。
★佐渡おけさのルーツ
・一般的には、牛深港(熊本県)の船乗りが酒席で唄った「はいや節」が北前船を通じて日本海各地に変化しつつ伝えられた、とされる。佐渡では「はんや節」、津軽では「あいや節」となる。
・聞いた限りでは「佐渡おけさ」と「はいや節」に類似点はない。鎌倉時代から越後で唄われた「おけさ」と「はいや」が融合したのではないか?!
・赤泊山田地区では「山田はんや節」が現在も歌い継がれる。
★佐渡おけさの完成
(曲)東京音楽学校に在籍した曽我真一が音楽性の高いものに作り上げた。
(歌詞)金井の眼科医川辺時三が全国に歌詞を募集した。これには柳田国男の尽力もあったのではないか。川辺の眼科研修時代の後輩が柳田国男の兄井上通泰で、柳田は来島時一番に川辺を表敬訪問した。(大正9年、昭和11年来島)
(踊り)小木に住んだ大阪の歌舞伎役者浅尾森之介が小木の芸妓用に作った。
★佐渡おけさが日本一に!
「日本一になった佐渡おけさ!」
・昭和25年、「佐渡民謡研究会」が全国民謡大会で優勝。
・昭和29年、全国都道府県対抗民謡大会で両津「鴨湖会」が優勝。
・昭和30年、日本民謡協会主催の民謡戦で立浪会が優勝。
・昭和30年、NHK全国のど自慢コンクールで赤泊の杉山茂左衛門が準優勝。
・昭和37年、若波会が日本民謡協会「全国民謡舞踊まつり」で優勝
★おけさキャラバン(新潟交通・佐渡汽船)
・全国大会で優勝した「佐渡民謡研究会」(新潟交通)が全国へ観光キャラバンを打つ。
★山田耕作・藤原義江の「佐渡おけさ」
・昭和2年、立浪会の唄を聞き、山田耕筰が洋風に作曲し、藤原義江が世界公演で唄った。
・藤原は戦前から戦後にかけの世界的オペラ歌手、藤原歌劇団創設者。父がスコットランド人。
★佐渡へ佐渡へと草木もなびく・・は盗作?!
・江戸時代宝永頃(1704~)の狂言本「助六心中」に「伊予へ伊予へと草木もなびく…」。
・「江戸へ江戸へと草木もなびく」「木曾へ木曾へと…」などもある。
・「佐渡へ佐渡へと…」が「佐渡おけさ」の歌詞になったのは大正10年頃。
「佐渡日報10周年紀念号」に「他國の焼きなほしものを唄うことはやめた方がよい」。
・明治32 年に、直江津の古い「塩たれ唄」にあると尾崎紅葉が「煙霞療養」に記す。
h291027&1102 小林多喜二「不在地主」のモデル磯野進 (前・後編)













小林多喜二『不在地主』のモデル磯野進
-北一輝との接点-
★磯野進
・1872年、湊一丁目伊藤清右衛門家次男、夷の磯野家に入る。中央大学卒後、明治30小樽へ出て磯野商店を興し、佐渡の味噌、縄・莚などの藁細工・荒物事業、越後の米などで成功、小樽商工会議所会頭。小林多喜二『不在地主』のモデル。旧磯野商店倉庫の「海猫屋」は、小樽の観光スポット。
★海猫屋:多くの文化人に愛された北海道小樽市の老舗レストランバー。
★『海猫屋の客』:直木賞作家村松友視小説。
★伊藤清太郎
佐渡病院2代目院長。磯野進の甥で彼の葬儀に出席。東大卒、草創期の佐渡病院の医師は東大系であった。
★松永テル(輝)
伊藤家の向かいが松永家、娘のテルは北一輝の恋人。(『若き北一輝』)
磯野進は実家近所の旧知の松永テルを、自身が小樽で変世話になった実業家西垣啓次郎の長男良造に嫁がせる。松永テルが、その後終生、自らの名を「輝」と書いたのは北一輝の「輝次」を偲んだ故か。
★林儀作(濁川)
1883-1935、政治家・新聞記者。三十六郎・濁川と号す。相川町濁川生まれ。佐渡鉱山学校を卒業。「佐渡毎日新聞」記者、和歌革新運動に携わる一方、北一輝と恋愛論を戦わす。北一輝が名をあげると、追うように上京、幸徳秋水らとも交わり、「平民新聞」に執筆。北海道へ渡り、長谷川楽天(林不忘父)の興した「北海新聞」編集長、道議会議員を経て、昭和七年代議士に。
★富田朝彦(ともひこ)
林儀作の孫。1920年-2003年。昭和期の日本の官僚。宮内庁長官。
警察庁に入り警備局長等を歴任。当時の警察庁長官は後藤田正晴であさま山荘事件を担当。宮内庁長官。
※尚、前宮内庁長官風岡典之は父が相川の人。
・「富田メモ」
平成成18年富田が生前に昭和天皇や側近の発言を記録した日記が遺族によって一部が公表。いわゆる「富田メモ」。「昭和天皇が靖国神社が戦争責任者であるA級戦犯を合祀したことに不快感を抱いたために、1975年11月21日の参拝を最後に靖国神社へ行くことを止めた」との内容、解釈をめぐり議論を呼ぶ
h291023 「台湾と佐渡」 (後編)






★中川健蔵
昭和七年から同十二年まで、五年間にわたって台湾総督を勤めた。
1875-1944。大正から昭和初期にかけての高級官僚。畑野町三宮山本傳十郎より真野町新町中川清三郎の養子に。東京帝国大学法科を卒業、香川県知事、熊本県知事、北海道庁長官、東京府知事、文部次官を歴任。後日本航空社長。
六男融は、駐ソ大使・国連大使などを勤め、小和田雅子さんと皇太子殿下を繋いだ人物として知られる。
★相川の民謡団体「立浪会」
・昭和10年11月台湾訪問。当時の台湾総督は佐渡人の中川健蔵。ガランピに「おけさ塚」を建て、地元の人に佐渡おけさ指導。
・「おけさの碑」建てる。平成14年(2002)「台湾・日本文化交流団」(35名、村田文三関係者15人)
★山本悌二郎
明治33年、30歳にして台湾製糖株式会社の創立に関わり、翌年支配人。
1970-1937。昭和初期、農林大臣を二期務めた政治家・実業家・中国古書画研究家。真野町新町、漢方医師山本桂の二男。圓山溟北塾に学ぶ。ドイツでの勉学を志し、駐独公使に任命された品川弥二郎宅に日参し、認められて隋行する。24歳の時帰国、34歳で衆議院議員初当選、以来当選11回。一方、父桂の影響で漢詩を作る。漢詩集『遊燕詩草』『昼錦集』『梅花集』他を公刊、書においても一家の風格。
外務大臣有田八郎は悌二郎の弟。
★若林素子
・1955年台湾雲林県生れ、14歳から舞踏団で修業。79年、結婚を機に夫の故郷真野新町に移住。87年、「ジャズダンススタジオ・パル」設立。娘の美津枝さんが世界大会入賞、生徒が国内大会で毎年入賞を重ねる。台湾でも7回を超える公演、台湾からも日台親善への貢献を表彰される。
・台北駐日経済文化代表処の謝長廷代表は佐渡市を訪れ、台湾出身の若林素子さんが代表を務める「Jazz Dance Studio PAL」の創立30周年記念特別公演「わたしは踊る」に出席し、若林さんの台日文化交流への長きにわたる貢献に、感謝の意を表す。ta
h291013 「台湾と佐渡」 (前編)







視聴者の金井在住本間潤子さんから連絡を頂いた。
全国から募集された「台湾慰霊の旅」に参加、佐渡からは自分一人であった。
台湾総統府では歴代台湾総督の大きな写真が飾られ、そこに佐渡人中川健蔵さんもいた。
また、歓迎式典で歌われた歌は本間雅晴台湾軍司令官が作詞したものであった。
二人とも台湾では大変有名な方で今も慕われていた。
同じ佐渡人として心が熱くなり、是非佐渡の皆さんにこの事を知って頂きたかったので佐渡TVに出向いた。
★本間雅晴(ほんままさはる)
・昭和13年 陸軍中将、昭和15年-台湾軍司令官。地元民に慕われた。
・台湾の戦没慰霊塔に元台湾総統李登輝と揮毫があり、並んで本間雅晴の和歌がある。
「かくありて許さるべきや密林のかなたに消えし戦友(とも)を思えば」
・本間雅晴中将の出生(本間雅彦「越佐の生んだ日本的人物」)
・慰霊祭では本間中将作詞の「義勇隊の歌」も歌われる。他に『朝日に匂ふ桜花』『台湾軍の歌』などの歌を作詞した。
・佐渡中学時代、恋人の家を訪ねた。家族の人に「あなたは将来何になるのか」と尋ねられた。「小説家に・・」と言うと、「そんな弱弱しい男にうちの娘はやれません」と罵倒された。
本間が軍人を志したのはこれがきっかけだったようだ。
・澄田智(元日銀総裁 「私の履歴書」)
父が軍人、ある日家に多くの軍人が集い酒席。軍人の道でない普通中学に行ってると言うと、「不肖の息子だ!」と軍人達に罵られた。すると、最上席の人が、「軍人でなくとも学者でも外交官でもよい。一生懸命やれば国の為になる」と。それが後の本間雅晴中将だった。
・マニラ戦犯裁判で、バターン死の行進の責任者とされた。本間は人道主義者であり、部下の責任であった。しかし、結果的に責任をとる。有罪判決が下り、本間は死刑と決まった。
・妻富士子
先妻は自由奔放で、女優を真似て舞台に出たり、多くの男と浮名を流す。海外駐在中に破局を知り失意のあまり窓から飛び降りようとした際には親友の今村均(後の陸軍大将)に止められた。
後妻の富士子は戦犯裁判に証人として出廷した際、
「私は今なお本間の妻たることを誇りにしています。わたしは夫、本間に感謝しています。娘も本間のような男に嫁がせたいと思っています。息子には、日本の忠臣であるお父さんのような人になれと教えます。わたしが、本間に関して証言することは、ただそれだけです……。」
・角田房子 『いっさい夢にござ候―本間雅晴中将伝』
★中川健蔵
昭和七年から同十二年まで、五年間にわたって台湾総督を勤めた。
1875-1944。大正から昭和初期にかけての高級官僚。畑野町三宮山本傳十郎より真野町新町中川清三郎の養子に。東京帝国大学法科を卒業、香川県知事、熊本県知事、北海道庁長官、東京府知事、文部次官を歴任。後日本航空社長。
六男融は、駐ソ大使・国連大使などを務め、小和田雅子さんと皇太子殿下を繋いだ人物として知られる。
h290929 「北一輝をめぐる人びと」 (前・後編)












長谷川海太郎(林不忘)

長谷川海太郎生家(赤泊徳和)


★北一輝
1883-1937。湊町で酒造業を営む慶太郎・母リクの長男。佐渡中学1回生。飛び級するほどの成績であったが、文芸や社会問題に関心を持ち、眼病の悪化もあり同三十三年退学。三十六年「佐渡新聞」に「国民対皇室の歴史的観察」を掲載、不敬との理由で掲載中止。三十八年上京、早稲田大学の聴講生、図書館に通って翌三十九年に『国体論及び純正社会主義』を自費出版して注目、発売禁止。この間幸徳秋水や堺利彦ら社会主義者と交友、やがて中国革命同盟会に参加、四十四年に辛亥革命が起こると中国に渡って活動。大正二年帰国、『中国革命外史』を著し、大正五年再び中国に渡り、同八年『日本改造法案大綱』を書き上げた。同年末大川周明らの迎えで帰国、翌九年猶存社を結成して右翼運動に参加、政・財界から資金を集めて門下生を養い、西田税を通じ陸軍の青年将校に影響を持つ。昭和十一年の二・二六事件の際、背後の首謀者として逮捕され、翌年八月十九日に処刑。
「佐渡中学生諸君に与ふ」
「佐渡新聞」明治28年。二十三歳の北一輝が後輩の佐渡中学生に呼びかけた革命の撒文とも言える長詩。一輝の生涯にわたる行動をささえた思想を、すでにこの詩に見ることができる。「資本家も、地主も/ツァールも/カイゼルも/而して……(言ふぺからず′)。」とされる天皇も、一線上にあって地震のように覆えされると歌っている。これらの地上の権力を転覆し、国家社会主義者の自己に権威をおき、革命を志すのが男子として生を受けた使命であるとする。
「霊告日記」
昭和4年から昭和11年まで自分と妻すず子が体感した日々の霊感的予言や、見た夢の記録。法華経を読経して「神がかり状態」になって書いた部分と、自分や妻がどのような夢を見たかという記述がある。後者の実例を挙げると、「某妻女とうとう癩病になって顔倍大となり、汁だらだら流れ居る夢」(妻の夢) 「治療のために声が出ずなって、父さん電話もかけられず、人にも会えぬようになった。おいおい泣き居る夢」(妻) などである。政治史のうえで重要な人物がつけていた夢日記であるから、歴史学者たちが、夢や霊告の背後にある現実の世界との対応などを特定しようと夢中になるのは、もちろん正当な読み方の一つである。
・松永テル
一輝の恋人、磯野進の仲立ちで小樽の
★北昤吉
1885-1961。大正から昭和期の哲学者・政治家。明治十八年、両津湊に生まれる。酒造業慶太郎の二男。号は鴨湖。佐渡中学校から早稲田大学哲学科卒。大正七年アメリカ、大正九年ドイツに留学し同十一年帰国。その時のことを書いた『哲学行脚』がある。また『近世哲学史』『哲学より政治へ』、『哲学概論』等、多くの著書あり。昭和三年、思想雑誌「祖国」を発刊、昭和二十三年まで継続。この間、多摩美術学校を創設。政治方面では、昭和十一年、新潟県一区から衆議院議員に当選、晩年まで連続八回当選、自由民主党で活躍。昭和期にも多くの著書。『昭和維新』『戦争の哲学』『現代の危機』などがある。
★長谷川清(楽天・世民・淑夫)
1871-1941。新聞記者・評論家。のち淑夫と改名、楽天・世民と号す。相川町濁川生。父は代々の佐渡奉行所後藤座役人、鈴木重嶺奉行とも親交があり、歌道を能くした。清は新潟学校中学部・東京専門学校を経て、帝国大学法科大学政治学科入学。同三十一年から三年間、創立間もない佐渡中学校に英語の教員として奉職。この間「佐渡新聞」社友として政治・経済・法律・教育・婦人等社会問題全般について執筆、傍ら、柄沢寛・上月喬・山田殻城らと、和歌革新運動に加わり、短歌に関する評論や作品も発表、歌人としても活躍。明治三十四年、佐渡中学校を辞任し上京、政党誌「王道」の編集に携わり、翌年、犬養毅の意を受けて函館に移住し「北海新聞」を興す。
昭和七年東京杉並に転居、昭和十六年没。
★松本健一
1946年-2014年。評論家、思想家、作家、歴史家。麗澤大学教授、内閣官房参与などを歴任。『若き北一輝 恋と詩歌と革命と』現代評論社 1971年(25歳の時)群馬県生まれ。熊谷高等学校、東大経済学部を卒業、法政大学大学院で近代日本文学を専攻。1971年、評伝『若き北一輝』で注目される。在野の評論家、歴史家として執筆。菅内閣の内閣官房長官仙谷由人とは大学時代からの友人。
★丹波 哲郎
1922-2006。俳優・心霊研究家。俳優活動は50年以上で出演した映画は外国映画10本を含んだ300本以上。霊界の研究もし、『丹波哲郎の大霊界』はベストセラーとなる。北昤吉旧邸に住んだ。北一輝の「霊告日記」と不思議な符合。
★大蔵敏彦
北一輝の従妹の子。清水市の共産党系弁護士で島田えん罪事件を担当。死刑宣告を受けた冤罪を晴らし無罪判決を。無類の麻雀好きで丹波邸の常連であった。
★長谷川海太郎(谷譲次・牧逸馬・林不忘)(はせがわかいたろう)
【生没】一九○○ー三五 小説家。相川町濁川の長谷川清の長男。明治三十三年一月十七日、母由起子の父で漢学者でもあった羽茂町の葛西周禎が、医者を開業していた赤泊村徳和で生まれた。海太郎の名前について、父の清は、「日本海の海波渺々たる中に生を享けたと云う意味を托して海太郎と名付けた。そして“たをたをと波ただよへる只中に生れし男の子名は海太郎”という歌をよんだ」(我が子牧逸馬を語る)。明治三十五年(一九○二)両親にともなわれて函館に移った。函館中学卒業直前の大正六年(一九一七)、ストライキの首謀者となって、落第処分を受けて退学、翌年単身渡米し、苦学してオハイオ州オベリン大学等に通った。大正十三年帰国、滞米の経験に基くメリケン・ジャップものを、谷譲次の名で執筆。その後牧逸馬の名で、ミステリーや家庭恋愛もの、併行して「丹下左膳」などの時代小説を、林不忘の名で書いた。さらに戯曲・ラジオ小説・翻訳と手を広げ、応接室にはいつも原稿待ちの編集者が四、五人詰めていたというほど、超人的な活躍をしたが、その無理がたたったのか、鎌倉雪の下に新築した「からかね御殿」で急死した。昭和十年六月二十九日、三六歳であった。墓地は鎌倉妙本寺、戒名は慧昭院不忘日海居士。
★『丹下左膳』
林不忘の新聞連載小説、これを原作とする映画の題名、およびその作品内の主人公である架空の剣士。1927年(昭和2年)から新聞連載小説『新版大岡政談・鈴川源十郎の巻』の登場人物であった、隻眼隻手のニヒルな造型の左膳が人気となり、各社による映画化作品もヒットして、大衆文学、時代劇の代表的なヒーローとなった。
★大菩薩峠
中里介山作の長編時代小説。1913年~1941年に都新聞・毎日新聞・読売新聞などに連載された41巻にのぼる未完の一大巨編。
幕末が舞台で、虚無にとりつかれた剣士・机竜之助を主人公とし、甲州大菩薩峠に始まる彼の旅の遍歴と周囲の人々の様々な生き様を描く。連載は約30年にわたり、話は幕末から明治に入らずに架空の世界へと迷い込み、作者の死とともに未完に終わった。作者は「大乗小説」と呼び、仏教思想に基づいて人間の業を描こうとした。世界最長を目指して執筆された時代小説で、大衆小説の先駆けとされる不朽の傑作である。(ちなみに、現在の世界最長小説はヘンリー・ダーガー作の『非現実の王国で』で、最長時代小説は山岡荘八作の『徳川家康』である)
h290922 「両津港の150年」 (後編)









★村雨の松
・樹齢250年以上古くは「宝暦の松」「御番所の松」「御旅所の松」「時雨の松」などと呼ばれた。
・クロマツ、樹高約19m、四方27m。夷御番所時代(宝暦期)に船の目標として植えられた。
・植樹したのは御番所役人の西川恒山で宝暦4年(1754)と記録に残る。
・明治32年当地を訪れた尾崎紅葉によって「村雨の松」と命名。
「松になりたや御番所の松に枯れて落ちても双葉連れ」(両津甚句)
★両津欄干橋
・高田慎蔵:明治の日本三大貿易商(益田孝の三井物産・大倉喜八郎の大倉組)。
この御番所で通弁見習いとして英語力をつけ、それが世界に雄飛するきっかけとなる。
彼の孫にピエール・カルダンのパートナー高田美(よし)、曽孫に女優の高田万由子が居る。
・吉田松陰:嘉永5年(1852 22歳)小木着、12日間在島し湊泊。「東北遊日記」。29歳没。
・ドロワール・ド・レゼー神父。明治10年来島、3年在。後年、日本現存最古の御殿場ハンセン氏病療養所、神山復生
(こうやまふくせい)病院5代目院長として尽力。
・尾崎紅葉:明治32年来島し、安藤宮司宅泊、「村雨の松」命名。
・太宰治:昭和15年来島、「佐渡」。満州かと間違い、魚くさい町と。
・川路聖謨(としあきら):天保11年佐渡奉行、「島根のすさみ」魚くさい町、佐渡魚(すけとう)も記される。
h290915 「両津港の150年」 (前編)






★両津港(NHK「新日本紀行」(山茶花の港-佐渡夷港-)
※山茶花港と言うのは、山茶花の咲く冬に賑わう港であった為。
・明治初年、新潟の補助港として開港(※日米修好通商条約(1858)で五港開港) 冬場、新潟港が波浪で使えない為、両津港とのセットで選ばれた。一時、敦賀港に持って行かれそうになった。
・その後、明治31年、新潟港から独立して国内7番目の開港場となる(函館・新潟・横浜・神戸・長崎+大阪・夷港)
・来年、開港150年
・軍港にすべき!と主張した人物
・幕末の山田方谷(ほうこく):文久元年 1861年「北海貿易策」で「・・海軍を備える要地は佐渡である」
・板垣退助:明治25年来島し軍港の適地として翌年県費で測量。
・明治5年の女子留学生 津田梅子・永井繁子・山川捨松・上田悌子・吉松亮子等とのかかわり。
※新潟・両津間の通訳には、津田梅子の父、上田悌子(上田敏の叔父)の父が居り、永井繁子は佐渡人(益田孝の妹)、山川捨松は佐渡でかくまわれていた山川健次郎(後東大総長)の妹である。
・新潟地震(昭和39年、新潟国体後、東京オリンピック前)の時、海底が露出した。
・姫崎灯台:日本最古の鉄製灯台、明治28年点灯。世界の灯台100選の一つ(日本で6基)、日本の灯台50選。
・日本初の鉄船:新潟丸(明治4年、夷の正覚寺裏加茂湖畔で建造された)
h290824・0907 「司馬凌海とその娘喜多文子」-語学の天才と女流棋士の母-(前・後編)







★喜多文子
1875-1950。大正~昭和初期に活躍した日本の女流棋士の草分け。日本棋院女流囲碁七段。凌海の次女。父死後、母は文子を凌海の囲碁仲間の林佐野の養女とし、長女綾子を伴い新町で生活。林家は江戸時代「棋所の四家」で幕府から扶持を得た家柄。日本棋院の前身「方円社」で囲碁を学ぶ。能楽喜多流家元喜多六平太と結婚。六段となり、後、名誉八段。日本棋院設立に貢献、女流棋士の養成に尽力。2013年、日本棋院囲碁殿堂入り。
★司馬享太郎(こうたろう)
司馬凌海の長男。ドイツ語学者・医学者。陸軍大教授、学習院大教授。
★司馬凌海
1939-1979。日本初の『独和辞典』を刊行した語学者・蘭法医。幼名は亥之助、11歳より江戸で学ぶ。友人、松本良順と共にオランダ医師ポンペに学ぶ。約3年間の長崎滞在中に、医学とオランダ語を学び、英・独・仏・中国語を習得、ロシア語・ラテン語・ギリシャ語も心得た。島倉姓を司馬と改め、諱は盈之(みつゆき)、通称が凌海。長崎滞在中に『七新薬』を書く。窒素、蛋白質、十二指腸は彼の造語。長崎から帰島、その後、医学校(東大医学部)教授となる。又私塾「春風社」開校、日本最初の独和辞典『和訳独逸辞典』を出版。明治12年、39歳で没。司馬遼太郎の長編小説『胡蝶の夢』は伊之助が副主人公。
『胡蝶の夢』(司馬遼太郎)
幕末・明治初期の近代医学の夜明けの群像を松本良願・島倉伊之助を中心に描く。真野公園に文学碑がある。
h290802 「三井物産を創った益田孝とその周辺」(後編)





★益田克徳(かつのりorこくとく)
一八五○ー一九○三 嘉永三年、佐渡奉行所の地役人益田鷹之助の次男として生まれ、幼名を荘作といった。益田孝は二歳上の兄である。安政元年(一八五四)、父が箱館奉行支配調役下役となったため、翌二年江戸に出て親戚の家に寄寓していたが、同五年父の任地函館に移った。安政六年、父が外国方支配目付役となったのに伴って再び江戸へ出て、慶応年間には海軍修業生となって、函館へ向かう榎本武揚の軍艦に乗ったが、途中難破して南部藩兵に捕えられ、江戸へ護送された。維新後は慶応義塾に学び、明治四年(一八七一)には山田顕義に随行して欧米各国を視察し、のち司法省に勤めて検事となった。明治七年、前島密のもとで初めて海上保険條例をつくり、創設された東京海上保険会社の支配人に就任、かたわら東京米穀取引所理事長、明治火災・明治生命・王子製紙・日本煉瓦・石川島造船所の重役などを歴任した。また、明治十年頃政治結社「嚶鳴社」に加わって「嚶鳴雑誌」で論陣をはり、明治十五年には大隈重信の立憲改進党結党に参加した。明治二十三年七月の第一回衆議院議員選挙では、相川町を中心とする改進党に推されて立候補したが、自由党系の鵜飼郁次郎に敗れた。明治三十六年没。
★永井繁子(瓜生繁子)
文久2年3月20日(1862年4月18日) - 昭和3年(1928年)11月3日)、教育者。繁子は佐渡奉行属役・益田孝義の四女として江戸本郷猿飴横町(現・東京都文京区本郷)に生まれる、益田孝・克徳の実妹。幕府軍医・永井久太郎の養女。夫は海軍大将の瓜生外吉男爵。1871年(明治4年)11月 - 新政府の第一回海外女子留学生として渡米、ヴァッサー大学音楽学校に入学。10年間をアメリカで過ごす。1882年(明治15年) - 海軍軍人・瓜生外吉と結婚。1886年(明治19年) - 女子高等師範学校兼東京音楽学校教員。
h290721 「三井物産を創った益田孝とその周辺」(前編)





★益田孝
一八四八ー一九三八 嘉永元年十月十七日、相川に生まれた。孝は佐渡奉行所役人・鷹之助の長男で、父が箱(凾)館に転勤した七歳まで相川で育った。箱館では、役所付通弁(通訳)から英語の手ほどきをうけ、二年後に江戸に出てアメリカ公使ハリスの家に雇われ、同家の通訳から本格的な英語を学んだ。こうして英語を身につけたことが、後に益田の生涯に大きな役割を果す力となる。まず一五歳で父の随員として渡欧したとき、英国軍隊に入りさらに語学の力を増した。帰国後、はじめは自ら外国相手の輸出業を営み、二年後に外国商館に勤めた。その頃、大蔵大輔井上馨と出会い大蔵省役人となったが、翌年井上の退官で益田も転出して、先収会社の事実上社長となり、三井組と吸収合併した。やがて、二八歳で三井物産社を起し社長となる。この年、英字新聞を自ら翻訳して記事とした中外物価新報(日本経済新聞の前身)を創刊。その後三池炭鉱を吸収、台湾製糖を設立。五九歳のとき四回目の渡欧のあと、益田の報告書に基いて三井コンツエルン(財閥)を形成。これらの功績により男爵を授けられた。益田は渋沢栄一・岩崎弥太郎などと共に、日本資本主義成立期の中心的存在のひとりであった。文化的にも、茶道や古美術蒐集などで著名である。平成十三年(二○○一)八月二十九日、生誕の地弥十郎町に、益田翁の記念碑が建立された。
h290714 「佐渡をルーツとする三浦綾子」(後半)







「ダン渡辺の佐渡四方山話」(「三浦綾子」後半)
北海道と佐渡、特に三浦綾子の祖父母が佐渡より渡道した苫前から始めました。
祖父母を描いた小説では「苫幌」と出てきます。
実は苫前からの分村が羽幌です。
この両者を合わせて苫幌と架空の地名を作ったのです。
事実を踏まえながらも創作部分も多いため関係者に配慮してこの地名を作ったそうです。
苫前には最近まで神社の祭礼に鬼太鼓が踊られていました。
佐渡から用具一式を求め、指導者を得て苫前の祭礼に舞われました。
苫前で力のあった佐渡衆の尽力です。
鬼太鼓の画像の後に「斎数商店」の看板が見えますね。
真野竹田出身で財を成した方です。
次いで、病に伏した三浦綾子の精神的な支えであったキリスト教について。
彼女の師は札幌協会の小野村林蔵。
日本を代表するキリスト者です。
小野村は何と牧師になって最初の赴任地が佐渡佐和田で、奥さんは畑野の方です。
佐和田出身で日本初の女性牧師高橋久野が彼を推薦したようです。
何と不思議な縁でしょうね。
最後に三浦綾子の愛唱歌。
「海は荒海向こうは佐渡よ・・」の「砂山」です。
希望しながらついに果たせなかった佐渡行き。
どんな思いでこの歌を歌ったんでしょうねえ。
★小野村林蔵
高名なキリスト者、受洗した三浦綾子の精神的支柱であった。
明治42年、伝道師としての初任地は佐渡河原田。日本初の女性牧師である高橋久野の故郷である。
妻となる渡辺ぜんは畑野町寺田の漢方医渡部道一の養女。
佐渡での伝道は『豊平物語』に詳しく描かれ、若き佐々木象堂も登場する。
★高橋久野(1871-1945年)
河原田の酒造業高橋家に生まれる。兄の元吉は県会議員をつとめる政治家。
日本での婦人牧師の第一号であった。文学に詳しく「佐渡の紫式部」と言われた。
郷里佐渡の伝道にも貢献し、有能な牧師の派遣などに尽力。
戦時中は昭和16年まで佐渡教会(河原田)に居た。
★三浦綾子(1922年4月25日-1999年10月12日)
著名な小説家で、祖父母が真野金丸出身。旧姓堀田。
祖父母は北海道苫前で雑貨屋を経営する。
綾子は結核の闘病中に洗礼を受けた後、創作に専念。
作品には『氷点』『ひつじが丘』『積木の箱』『塩狩峠』『道ありき』等がある。
また、佐渡から始まる祖父母の波乱万丈の人生を描いた小説に『嵐吹く時も』がある。
故郷である北海道旭川市に三浦綾子記念文学館がある。
h290707 「佐渡をルーツとする三浦綾子」(前半)




今までは隔週でしたが、今週より毎週となりました。
今回はルーツが真野金丸である三浦綾子(前編)について話しました。
★三浦綾子(1922-1999年)
著名な小説家で、祖父母が真野金丸出身。旧姓堀田。
祖父母は北海道苫前で雑貨屋を経営する。
綾子は結核の闘病中に洗礼を受けた後、創作に専念。
作品には『氷点』『ひつじが丘』『積木の箱』『塩狩峠』『道ありき』等がある。
また、佐渡から始まる祖父母の波乱万丈の人生を描いた小説に『嵐吹く時も』がある。
故郷である北海道旭川市に三浦綾子記念文学館がある。
苫前町は佐渡衆が重きをなし、長嶋(小倉 石川家 大富豪)・斎数(竹田 実業家)・志和(真野 実業家)・猪股(畑野 苫前町教育長)・計良(畑野)・名畑(二宮 苫前町町長)さん等が活躍した。
h290623 「佐渡とマンガ」




★『こちら葛飾区亀有公園前派出所』両津勘吉
作者の秋本治氏が入院中、元気づけてくれた看護婦さんの出身地両津より。看護婦さんの苗字は中川で、中川巡査はそこから来ている。漫画には「佐度ヶ島酒店」「島流し署」も登場。一シリーズ200巻は世界一としてギネスに、総販売数1億5000部以上。
★渡辺みちお
昭和29年生れ、実家は相川後尾の民宿「六郎」。『まるごし刑事』、『白竜』など多数。
小学3年生の頃に絵画コンクールで賞を貰った事をきっかけに絵を描く。離島で近くに本屋がなく、通信販売で『冒険王』や『少年』などを取り寄せ。小学校高学年の頃から友人と共に漫画を描き、中学生の頃に石ノ森章太郎の『マンガ家入門』が発売されると、渡辺はそれを教科書にして本格的な漫画の描き方を覚える。
高校時代に投稿するも落選、実力不足と判断し漫画家の道は諦めていた。当時の恩師、新聞販売店の所長に「本当は漫画家になりたい」と告げると、彼の知人であったかざま鋭二を紹介される。その後、かざまに「来年から毎日来い」と言われ、かざまプロに4年間通う。知り合いになった編集者との縁で、24歳で『コミックマガジン』に作品を隔週連載。現在、『週刊漫画ゴラク』(日本文芸社)で『白竜』の続編『白竜LEGEND』を連載中で、同誌の看板作品となっている。
★ノブヨシ侍
昭和56年、新町生れ。本名は鯨岡伸禎。10年ほど漫画家の手伝いをし、平成26年、新人発掘投票企画・登龍門で第1位。『とりきっさ!』連載。
(本人プロフィール)
・漫画 20歳からはじめる。・夢、高い塀のある城のような屋敷で犬・猫と暮らす。大金持ちになったら家建ててやる!好きなもの 動物全般 犬・ネコは大好き。
★魔夜峰央(まやみねお)
両親が赤泊出身。父は小山、母は本間(延命院)。昭和54年から連載した『パタリロ!』でブレーク、現在も連載中。舞台のマリネラ王国の形は佐渡ヶ島。
※「週刊文春」(家の履歴書 h28年10月)
「山の中腹の裕福なお姫様とその麓の貧乏檀家の息子が幼馴染の縁で結婚」「父は確か商社勤務で新潟市役所裏の社宅で住む」
・1978年、『パタリロ!』の連載開始。・1980年頃、バレエダンサーの山田芳実と出会い、後に結婚。・2008年時点で開始から30年を越えた『パタリロ!』は、その後も連載を継続中。『パタリロ!』シリーズは外伝も含めれば100冊を越え、少女漫画界では随一の長編作品である。・2015年、1986年出版の短編集に収録されていた『翔んで埼玉』がネットで話題となり、約30年ぶりに復刻出版され、2015年時点でamazonの本の売れ筋ランキングで1位となった。
★赤坂アカ
昭和63年、新穂生れ。大野保育所に通い、その後横浜在。現在も夏冬一月ほど帰省している。漫画作品執筆の他、イラストレーション、キャラクターデザインなどの多岐に活躍。
★つるま里子
赤泊腰細出身、昭和32年生れ。本名は鶴間里子。
★堂上まさ志(どのうえまさし)
佐渡市出身、昭和22年生れ。本名は小杉義昭。『プレイコミック』連載の代表作『銀玉マサやん』は単行本22巻に及ぶ長期連載となる。
★近藤佳文
佐渡市出身。2000年、『ヤングチャンピオン』で「鉄筋安坊」でデビュー。翌年から金城一紀 原作の「GO」を連載。
h29069 「佐渡の苗字について」






[こんなことを話しました。]
・ニューヨークタイムズのクレイグさんから英文で長文メールを頂く。
自分の妻のルーツである佐渡島の「嵐城」について聞きたい。
お墓には「嵐鬼」ともある。
私の、やり取りには日本人を仲に入れて欲しいとの要望をうけ、彼の妻の母江崎眞佐子さんからメールを頂く。
即ち、クレイグさんの妻の父はノーベル賞受賞者の江崎玲於奈さん、母は佐渡の真野新町「菊波酒造」の旧姓「嵐城」さんであった。
・「嵐鬼について」
・荒木・荒貴・嵐城・嵐鬼
大荒木直(7世紀の国造:くにのみやっこ おおあらきのあたい)
➡荒貴神社(泉地区)
・畑野には、渡辺・渡部(わたなべ)があるが「畑野町史」によると明治時代は全て「渡辺」であった。
即ち苗字と言うものは、昔は当主の判断で漢字の変更がかなりあったようだ。
荒木・荒貴・嵐城・嵐鬼もその流れではないのか。
・佐渡の難読苗字の紹介
h290526 「尾崎紅葉とお糸さん」














『尾崎紅葉とお糸さん』ー両津・相川・小木・羽茂ー
「尾崎紅葉」
1868 年(慶応3)-1903 年(明治36年)。「金色夜叉」等で知られる作家で、明治32年7月8日来島。佐渡に29日間滞在した。「煙霞療養」「佐渡ぶり」「日記」等に当時の佐渡についての貴重な記述が満載。小木の芸妓お糸さんを詠った「来いちゃ来いちゃで二度だまされた又も来いちゃでだます気か」は「佐渡おけさ」の歌詞として知られる。紅葉によって佐渡が広く紹介され、次々と文人墨客が来島する。
「お糸さん」
明治8年生-昭和17年9月16日没。小木「ごんざや」で明治の文豪尾崎紅葉と浮名を流した。
紅葉は彼女との別れ際に「汗なんどふいてもろうて別れけり」と詠む。妙宣寺住職の妻となり、晩年は小木権座屋近くの質商と再縁し町の婦人会幹部などとして活躍。
・慶応3年生、明治維新前年。32歳来島、36歳没。
・「金色夜叉」執筆中に神経衰弱。転勤で新潟に住む叔母を訪ねる前に赤倉泊、そこから見た佐渡に感激し佐渡行を決める。
・50トンの度津丸で6時間。
・肥料にするイカの腸の悪臭に辟易。
・御番所の松(宝暦の松・時雨の松)の命名を頼まれ、佐渡は謡曲の盛んな土地なので、謡曲「松風」に因み「村雨の松」とする。
・7月8,9日両津夷滞在(宮司安藤幸彦宅)。
・暑さとネブトのため、河原田「江戸屋」泊。
・相川着、高田屋泊。翌日12日鉱山見学で「煙霞療養」は終了。
同年代の友人、江見水陰が来島し「続煙霞療養」を著す。
・相川には11日~19日まで滞在。
・沢根港からイカ釣り船で堂釜集落に着く。
・小木には19日から29日の10日間滞在。
宿は「かどや」(現、北村薬局)にとるが、「貸座敷 ごんざや」(後、旅館)に入り浸り、お抱え芸者「お糸」さんとロマンス。
・お糸さんは美人ではないが文学好きなハイカラ芸者(民法芸者)。
・「こいちゃこいちゃと二度だまされた またもこいちゃでだなすのか」と三味線に書いて渡した。
この歌は佐渡に古くから伝わると山本修之助先生は書くが出典は不明。
これは本命の美人芸者(河原田 中山呉服店に嫁ぐ予定)が来ない代わりにお糸が来たので頭にきて書いたと言われる。
・小木滞在中に羽茂川のアユ漁に行き川番の老人二人に殴られようとした。
・29日別れの日。羽茂村山の茶店「三階屋」まで見送りを受ける。
小木小学校長風間儀太郎が扇子を出し「先生一句なかるべからず」、「汗なんどふいてもろうて別れけり」。
h290512 「太宰治と『佐渡』」







1.太宰治
1909-1948 小説家。明治42年6月19日生。井伏鱒二に師事。左翼活動での挫折のあと「海豹」等に作品を発表,昭和10年「逆行」が芥川賞候補。戦後は無頼派とよばれ、「斜陽」「人間失格」などで流行作家となる。昭和23年、日玉川上水で入水自殺した。40歳。青森県出身。本名は津島修治。作品はほかに「走れメロス」「人間失格」など。
佐渡を訪れたのは昭和15年11月17日、翌年1月号の「公論」に紀行文「佐渡」を発表した。
2.『佐渡』(太宰治)より 新潟~両津へ
おけさ丸。総噸トン数、四百八十八噸。賃銀、一等、三円五十銭。二等、二円五十銭。三等、一円五十銭。新潟出帆、午後二時。佐渡夷さどえびす着、午後四時四十五分の予定。
乗客数:約400人
最大定員:1,500人 大型バス28台・乗用車8台(or乗用車168台)
総トン数: 5,380トン 最大速力:19.1ノット 全長:125m 最大幅:21.8m
佐渡は、淋さびしいところだと聞いている。死ぬほど淋しいところだと聞いている。
私には天国よりも、地獄のほうが気にかかる。・・・謂わば死に神の手招きに吸い寄せられるように、私は何の理由もなく、佐渡にひかれた。
3.船中
はるか前方に、幽かすかに蒼あおく、大陸の影が見える。私は、いやなものを見たような気がした。・・・けれども大陸の影は、たしかに水平線上に薄蒼く見えるのだ。満洲ではないかと思った。
私は、うんざりした。あの大陸が佐渡なのだ。大きすぎる。
4.両津夷の夜 ※「福田旅館」➡正式名「本間旅館」(現在「太陽堂」)
、「よしつね」➡正式名「弁慶」
私は番頭の持っている提燈ちょうちんを指さした。福田旅館と書かれてある。
やっと見つけた。軒燈には、「よしつね」と書かれてある。・・・私は、ただ、佐渡の人情を調べたいのである。そこへはいった。「お酒を、飲みに来たのです。」私は少し優しい声になっていた。この料亭の悪口は言うまい。はいった奴が、ばかなのである。佐渡の旅愁は、そこに無かった。
5.相川 ※「浜野屋」➡正式名「高田屋」(後に「佐州ホテル」→「おーやり館」)
相川行のバスに乗った。バスの乗客は、ほとんど此の土地の者ばかりであった。皮膚病の人が多かった。漁村には、どうしてだか、皮膚病が多いようである。
ここでは浜野屋という宿屋が、上等だと新潟の生徒から聞いて来た。
私は、三階の部屋に通された。障子をあけると、日本海が見える。少し水が濁っていた。
h290428 「佐渡の三つの文化」


「三つの佐渡」について
佐渡出身の高名な文芸評論家青野季吉の『佐渡』には佐渡は三つの文化を持つと書かれる。
「相川の武家文化・国仲の貴族文化・小木の町人文化」である。
いつしか青野季吉の説のようになっているが実は違う。
この説は青野の親友である塚原徹が語った言葉なのだ。
★青野季吉
1890-1961 文芸評論家、芸術院会員。沢根の廻船問屋兼酒造業の「青野屋」に生まれた。この年佐渡には大きな米騒動があり、青野屋は大阪通いの持船「万徳丸」は焼かれ、家も打ちこわし。旧制佐渡中学の先輩に北一輝がいて、社会主義思想に目をひらかされる。早大英文科を卒業後、読売新聞の記者になり、のち雑誌「無産階級」を発行し、堺利彦・山川均らとこのころ接触。昭和初期のプロレタリア文学運動の理論的指導者となり、戦後に日本文芸家協会の会長、日本芸術院会員となる。沢根の勵風館の傍らに「青野季吉ペンの碑」が建立され、碑文は「少年の日 わたしは この美しい入江の岸辺にぼんやり立っていた 何を待つともなしに」。
★塚原徹
1889-1947 小木町幸町生まれ。家業は信濃屋という味噌・醤油の醸造業。早稲田大哲学科に学んだあと家業をついだ。町会議員、町長となり、太平洋戦争末期の困難な時代に城山公園の造成、矢島経島の名所旧跡の紹介などに尽力。日刊紙「新佐渡」の刊行に参加、天南星の号で文人として活躍。青野季吉とは佐渡中学以来の親友であった。
h290414 『君の名は』

『君の名は』
昭和27年-29年、脚本家・菊田一夫の代表作でNHKラジオで放送、映画化(28年公開)、テレビドラマ化、舞台化された。、真知子と春樹との恋愛ドラマで「番組が始まると銭湯の女湯から人が消えた」。真知子のストールの巻き方は「真知子巻き」と呼ばれ流行。半年ごとの数寄屋橋での待ち合わせで真知子と春樹が再会しそうになるが、すれ違う。相川尖閣湾吊り橋での再会は有名なシーン。
原作:菊田一夫 音楽:古関裕而 歌:織井茂子
主演:佐田啓二 岸恵子 淡島千景 月丘夢路 淡路恵子 笠智衆 望月優子 北原三枝 野添ひとみ
主題歌:「君の名は」(織井茂子歌)「黒百合の歌」(〃)「忘れ得ぬ人」(伊藤久男歌)他
※全三部作で観客動員3000万人。
1部(佐渡・志摩) 2部(北海道) 3部(長崎島原雲仙)
1.NHKラジオ(昭和27年)ラジオ復刻版(平成12年)
2.テレビでは4度ドラマ化(NHK連続テレビ小説 鈴木京香・倉田てつを等)
「仲野金雄」
新穂出身、明治34年~昭和59年没(83歳)。佐渡中学-早稲田を出て帝国劇場入社、その後松竹重役となり浅草国際劇場社長も務めた。帝国劇場文芸部に籍を置いたこともある菊田一夫と昵懇で、戦後菊田は仲野のつてで「君の名は」取材に来島し、仲野氏に依頼された新穂関係者が菊田を佐渡案内。佐渡を舞台にした「君の名は」生みの親とも言える人物。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・最初半年間、菊田が「人々の戦争体験を主題に」シリアスタッチ、あまり人気はなかった。真知子と春樹との恋愛ドラマ、はじめて人気番組となった]。「番組が始まる時間になると、銭湯の女湯から人が消える」
・第一部の冒頭、佐渡で渡る船上でも真知子は「真知子巻き」に類したストールの巻き方をしている。
・真知子と春樹が再会しそうになる(半年ごとの数寄屋橋での待ち合わせなど)が、不都合が起きてなかなか会うことができない。この「会えそうで会えない」すれ違いが何度も繰り返された。これは後の恋愛ドラマでもよく見られる演出。
・第二次大戦、東京大空襲の夜。焼夷弾の中、一緒になった見知らぬ男女、氏家真知子と後宮春樹は助け合って戦火の中を逃げ、命からがら銀座の数寄屋橋にたどり着く。二人はお互いの無事を確認する。
お互いに生きていたら、半年後の11月24日、それがだめならまた半年後に、この橋で会おうと約束し、名も知らぬまま別れた。
2人は戦後の渦に巻き込まれ、お互いに数寄屋橋で相手を待つも再会が叶わず、1年半後の3度目にやっと会えた時は真知子は、既に明日嫁に行くという身であった。しかし、夫との生活に悩む真知子、そんな彼女を気にかける春樹、2人をめぐるさまざまな人々の間で、運命はさらなる展開を迎える。
h290403 「温泉問題(中川直美市議と語る)」(2)

h290331 「温泉問題(中川直美市議と語る)」 (1)

h290317 「佐渡の民謡」

「佐渡三大民謡」
「佐渡おけさ」
九州で流行したハイヤ節が、北前船などの船頭衆によって、越後の出雲崎や寺泊、佐渡の赤泊や小木港に上陸し、変化しておけさ節になったと言われる。民謡団体・立浪会の曽我眞一が小木で採録し、会員の名民謡歌手・村田文三に工夫させた「文三おけさ」も知られ、テンポの速い「選鉱場おけさ」もある。現在の十六足踊りは、小木芸者が座敷踊りとして振りつけしたもの。「佐渡おけさ」名称は、大正十年東京で開催された、第二回全国民謡大会の際、中川雀子が選名したもの。
「相川音頭」
踊りに用いる歌謡を、一般に音頭と呼ぶ。相川音頭はもともと盆踊りの歌謡として生まれた。内容を大きく分けると、[1]「謡曲百番くづし」や「源平軍談」のような、古典趣味的なもの[2]お上の掟(倹約令)や地震・地名など、時事に托したものや、「鼠口説」「徳利口説」といった滑稽なもの[3]現実にこの島で起った男女の相対死(あいたいじに)を扱った「兵十郎・花世心中妹背の虫づくし」「おさん・仙次郎心中濃茶染」などの、艶ものなどである。
「両津甚句」
両津市に伝わる盆踊り唄。両津甚句の呼称は、今の両津欄干橋を境に夷と湊の両集落が、明治三十四年に合併し、両津と改称して以来のこと。明治三十二年、佐渡に来遊した尾崎紅葉は「夷甚句、小木追分、相川音頭なんどと並び称せられ」と記す。現在の両津甚句は、大正初期「両津甚句会」が結成され、夷と湊の、やや節回しの違う二つの甚句を整理し、今日の節回しに作り替えたもの。この陽旋風の独特な節回しは、歌うにむずかしく、やや大衆性に欠けると評されている。
「佐渡民謡を全国に紹介した人」
1.曽我真一
相川の人、明治26年ー平成4年。東京音楽学校で学ぶ。大正13年、叔父の風岡藤作らと民謡団体「立浪会」を創立。日本民謡功労賞受賞、村田文三などに次いで4人目の相川名誉町民になる。
2.松本丈一
畑野小倉の人、明治34年ー昭和45年。島内は勿論、東京で10か所程の民謡教室で指導。日本民謡功労賞受賞。松本丈一師民謡碑が小倉に建つ。
3.村田文三
相川の人、明治15年ー昭和31年。日本民謡大会で優勝。昭和28年「佐渡おけさ」を広めた功績で相川町の名誉町民に選ばれ、日本民謡協会から「技能賞」を受賞。
4.菊地歌楽
相川小川出身の民謡歌手。
5.松村直吉
相川の人、相川音頭の名人。
「佐渡民謡を記した人」
6.羽田清次
新穂長畝の人、『佐渡歌謡集』著者。
7.中川雀子
両津夷の人、民謡著書多数。
8、山本修之助
真野の人、『佐渡の民謡』『相川音頭集成』他著書多数。
h290303 「中川健藏・中川融親子」

h290217 『溟北先生時代日記』を読む

永田俊一(ながたしゅんいち)
父は相川の永田馨、祖父は永田俊三郎、
曽祖父は・永田武兵衛
円山溟北の学古塾(修教館は役人や医者の子弟、学古塾は商家や農家の子弟)の初弟子の一人)。諸雑貨や用度品を鉱山に納める家業。壮年で没。
昭和19(1944)年、新潟県佐渡生まれ、高校教師であった父が新しいビジネスを興すため上京。小学校頃まで父の実家(近藤家 佐和田)に住み東京へ移住。
昭和42(1967)年、戸山高校―東京大学卒業後、大蔵省入省。主計局主計官、銀行課長、官房審議官、日本銀行政策委員会大蔵省代表委員などを歴任
平成9~10(1997~1998)年、社団法人信託協会専務理事
平成10~14(1998~2002)年、日本銀行理事
平成15~16(2003~2004)年、信託協会副会長・専務理事
平成16~22(2004~2010)年、預金保険機構理事長
平成24~(2012~)年、楽天銀行社長、会長(現在、楽天銀行・証券・保険各取締役)
既刊書に
『信託のすすめ なぜ今、そしてこれから信託なのか』『信託改革金融ビジネスはこう変わる』筆名永畑俊三で透明な墓標 信託の精神を理解するために』『遺志ありて 信託の本懐』2012年、文芸杜刊)などがある。
2.主人公 円山溟北
1818-1892、明治前期の佐渡の教育者。文政元年、両津夷小池長佐の長男として出征、後、夷の儒家丸山遜卿の養子に。18歳の時、江戸で出て亀田綾瀬の門に入り、塾頭になって大名や旗本屋敷で代講。帰島し、修教館教授、学古塾も再興し、一方医業に従事。相川町に永住した。74歳で死去。佐渡選出の国会議員は初代鵜飼郁次郎から七代まで全員が円山溟北の教え子。東大教授萩野由之、農林大臣山本悌二郎等を輩出。
3.登場する語句
★修教館:役人や医者の子弟の教育機関。
★学古塾:分が低い為、修教館に入れない商家や農家の子弟の教育機関。
h290202 「大相撲(魁渡・大錦)」

h290120 「臨時議会(温泉問題)」





















★生田秀(いくたひいず)
1856-1906。真野新町の医師生田三折の長男。東京に出て、新町出身の司馬凌海の塾「春風社」でドイツ語を学び、ビールの本場ドイツでビール醸造を学ぶ。アサヒビールの前身大阪ビールの支配人となる。日本・アサヒ・札幌ビール合同に尽力。
★生田三折
真野新町の漢方医。生田秀の父。生田家のルーツは畑野目黒町。当時江戸で学んだ医者は頭髪を剃り、京都で学んだ医者はチョソマゲで、山本桂はチョソマゲ、三折はロウソ(堂僧)とあだ名。
★生田耕一
秀の息子、万葉集や鼓の研究者。能楽関係資料の収集者。関西大に生田文庫あり。
★高橋龍太郎
1875年-1967年。生田秀の三女光子の夫。アサヒビール社長となる。「日本のビール王」と称される。プロ球団オーナー、日本サッカー協会会長。貴族院議員、参議院議員、日本商工会議所会頭から通産大臣に。
★高橋吉隆
龍太郎長男。東京帝大卒、住友銀行副頭取からアサヒビール入社、1971年-1976年まで社長。
★山本桂
当時江戸で学んだ医者は頭髪を剃り、京都で学んだ医者はチョソマゲを結った。山本桂はチョソマゲ、三折はロウソ(堂僧)とあだ名された。長男に貿易商山本一郎、次男に農林大臣山本悌二郎、6男に外務大臣有田八郎。
h300525&300601 「相川音頭について」 (前・後編)






























「ダン渡辺の佐渡四方山話」
先週は、宵乃舞近しと言うことで「相川音頭」について話してみました。
話に先立ち、5月に亡くなった佐渡民謡会の巨星お二人にその業績を紹介させていただきました。
★故岩崎康一郎先生
昭和17年生。立浪会で活躍し、後に七浦民謡研究会を立ち上げ、七浦甚句の保存発展に尽力。佐渡おけさ文三節、古調相川音頭の名人でもあった。
★故葛間覚先生
昭和23年生。羽茂民謡研究会の中心メンバーで活躍し、並行して羽茂高校郷土民謡部の地方(唄・三味線等)の指導に尽力し、全国優勝に導いた。
★相川音頭とは
・音頭、御前音頭、佐渡音頭などと呼ばれた。
・江戸初期から伝わる盆踊り唄で歌詞の多くは心中物であった。
天保年間に尚武の気風を重んじ「源平軍談」が出来た。
・源平軍談を初段~5段全てを唄うと2時間以上かかる。
作者は「平家物語」「義経記」その他多くの書物を参考にする。
音頭の歌詞は、山田良範・中川赤水、辻守遊(もりゆき)等が知られる。
・「どっと笑うて立つ浪風の・・」が有名だが、これは「源平軍談」五段目の五番の歌詞。
・相川「立浪会」はこれに由来する。
・山本修之助の「相川音頭集成」(昭和30年)「相川音頭全集」(昭和50年)の労作あり
★いろいろなジャンル
・「謡(うたい)百番くずし」※能曲の題名が百種入る
歌は家隆の流れを伝え 音語れば「山姥」たまの
恋と無常のいりわり聞くに人の命はげに「浮舟」の
・「心中物(おさん仙次郎 心中濃茶染)」
むかし異国の名高き君も色に溺れて身の禍(わざわい)と
なりしためしをさすがに今も 恋に命は惜しまぬならい
・「源平合戦」(初段歌詞)
嘉肴(かこう)あれども食らわずしては 酸いも甘いもその味知らず
武勇ありても治まる世には 忠も義心もその聞えなし
★古調相川音頭
・古い唄い方で、心中物や「謡(うたい)百番くずし」などで唄われる。
・松村直吉、杉山春雄、近年では岩崎康一郎等の名人を生んだ。
岩崎氏は今月死去。
・全国に「おけさの文三、音頭の直吉」として知られた。
★いろんな唄い方
・古調から正調への変化の過程で各種唄い方が出た。
・畑野の松本丈一、立浪会の加藤健三等である。
(CD)
・松村直吉(立浪会):40秒 昭和4年、39歳。3節目が独特
・杉山春雄(立浪会)古調:50秒 平成15年80歳 「謡百番くずし」2節目が下がり3節目上がる
・松本丈一(畑野):47秒 3節目上がる
・加藤健三(立浪会):55秒 2節目下がる
h300511&300518 「芥川賞作家 長島有のルーツ」 (前・後編)























★長島有
・新穂ゆかりの芥川賞作家、コラムニスト「ブルボン小林」、俳人「長嶋肩甲」でも活動。
『佐渡の三人』内容
・「佐渡の三人」:おばちゃんが亡くなった。儀礼嫌いの大叔父に代わり、私と弟、父の三人が佐渡にある一族の墓へお骨を納めに行く。
・「戒名」:ワンマンな祖母は生前に自分で戒名を決めた。問題は字数が足りないことだ、とひきこもりの弟が言う。
・「スリーナインで大往生;祖父が死んだ。99歳9ケ月。「惜しい!」「スリーナインだ」と家族は盛り上がる。
・「旅人」大叔父が死んだ。祖母との「ダブル納骨」で父の後妻を含め一族7人が佐渡に集まる。
・文學界新人賞「サイドカーに犬」
・芥川賞(平成13年)「猛スピードで母は」
・川端康成文学賞(平成15年)「タンノイのエジンバラ」
・第1回大江健三郎賞(平成19年)『夕子ちゃんの近道』
★長嶋康郎(やすお)
・長島有の父、新穂生。東京・国分寺の古道具「ニコニコ堂」店主で作家。
・つげ義春の漫画に出る「変な石ばかり集るオッサン」のモデル、著書多数。
・長嶋長節(東大医学部名誉教授)の三男。
★長嶋長節
・新穂長嶋医院の長男。東大医学部名誉教授、循環器が専門。
・昭和25年頃、父隆次死去後、一時新穂で病院を継いだ。
・長嶋有は祖父長節について、小説「スリーナインで大往生」で書く。
「長節には三人の息子がいて、長男のヨツオは言語学の、次男のムツオは医学部の大学教授になった。三男で私の父のヤツオだけが古道具屋になった。」
★長嶋善郎(よしお)
長嶋長節長男、新穂生。言語学者、東大卒、学習院大学教授、著書多数。
★長嶋和郎(かずお)
長嶋長節2男、新穂生。東大卒、北大医学部名誉教授。
★藤田赤二
・哲学者、早大教授。長島長節弟。父が赤泊で開業時に出生の為「赤二」。
・「ヤスパース選集」「レオナルドの幻想」等。ガ
・長島有は赤二を描写。
「大叔父は筋金入りの文学青年がそのまま老人になった人で、「道子さん、あなたはドストエフスキーを読みなさい」と肩を叩いてくる」
★長嶋隆次
・明治11年真野町新町生。赤泊、新穂に医院開業。子、孫、ひ孫が大成する。
長島家墓所は北方護村寺。俳人で長島城村と名乗る。
・長嶋長節の父。
h300422&300503「北海道と佐渡」―田辺九郎平と松沢伊八― (前・後編)













































「北海道と佐渡」―田辺九郎平と松沢伊八―
★田辺九郎平:1831-1902。赤泊の田辺九郎兵衛の長男。早くに父を失い、嘉永元年徳和村の羽豆太郎三郎家へ奉公に出た。嘉永2年(1849 松沢伊八と同船)19歳の時に北海道の江差へ渡り、同郷の武部喜八郎の店で4年間働き蓄えた金を元に、反物行商を始めた。その後店を開き、漁業者相手の貸金業も行い資産を残す。明治19年(56歳)帰島、この時出入漁業者に米3000俵と漁具一切を与え、貸付金も反故にした。帰島後は、公益事業に努め、明治20から、自費で赤泊港の修築工事を始めた。又、赤泊・寺泊間に定期航路を開き、占魁丸を就航、越佐航路の発展にも尽力した。68歳で押されて島内政治事情からやむを得ず自由党家から衆議院選立候補、進歩党現職市橋藤蔵に大差で敗退。
(追)・江差を引上げ佐渡へ。永年仕入れし者共へ貸付たる金円凡そ五・六万円(2億~2.5億)もあり、貸金を取下る事は素より出来ず、さりとて同氏手を引くときは漁民は差当り困難すべし。夫等を配慮され今度同氏引上るに就ゐては、彼抵当付の証書はことぐく反古となし、若し資本に差迫らばこの抵当を他へ入れて資本の融通に供されよ。差網建網類も持去るときは村々の迷惑なるべし。されば置土産とすべし、仕入地なる小砂子村より島牧郡の村々16ヶ所へ建網23投(とう)差網150投を進物とし、且つ今漁期の仕度に際し漁具のみありて食米に乏しきときは難渋ならんと4斗俵3千余俵(五千円=2000万)を之に添へて、この村々の兼て同氏の仕入れをせし者共へ進物にとなしたるにぞ。同氏はこの五・六万円の貸金のほかに、猶2万円はどの貸金証書あり、正金としては凡五千円余(2000万)を携帯し、功成りて来年一月佐渡へ帰国さるゝといふ。尤も本国の家も同氏が少年の頃見捨てたる貧しきとは違ひ、今は年に幾百俵とも収入米もある身代ゆへ、同氏はこれにて日常の家計にはさしつかへなき豊なる身代なりとぞ。
・九郎平のこうした篤志事業は佐渡へ帰ってからも続いた。明治22年、田辺九郎平は玄米25石代価142.5円分(30万)を、村で生活に困っている人たちに施与してほしいと寄付した。明治21年に赤泊に火事があり、その罷災者への援助であった。
・(港の改修と九郎平)
さて本工事に必要とする石材については赤泊の地先海岸にある分を拾い尽したため近村の海中より拾い取ることにしたところ、すでに許可された場所でもかれこれの故障を申し出、徳和村の如きは、昨年七月中はじめてさしむけた石拾い船に多人数で暴行加える仕末。また今年八月中相川の治安裁判所へ石材のひろいとりを拒否する出願をする、エ事は意の如くはかどらず、半ばにしては休止しているのが実情。そのため昨冬よりの大浪で、その都度修繕した場所も大破して損害はひとかたならず、止むを得ず工期の延期を願で出、目下もエ事中であるが、そのような事情なので材料もなく、私の力をもってしては竣工できないというのが実情である。若しこのままでいけばこれまでの苦心と消費した金額は水泡に帰すことになり甚だ当惑する次第である。
九郎平の港湾修築の考えは、このころまだ徳和など周辺の地域の人々にとって、港をもつ赤泊だけの問題としてしか映らなかったのが、こうしたトラブルを引き起したのであろう。
結局、県からの援助はなく、独力で工事を成し遂げたのである。
田辺九郎平の築堤工事は明治23年10月に完成。その工費は5300円(2200万)余りである。
★松沢伊八:1835-1893。赤泊の商人の子、嘉永2年(1849、田辺九郎平と同船)15歳で北海道江差に渡り、呉服商川端武右衛門に奉公、慶応2年(32歳)独立、幕府官米の精米業を始めるが、維新で挫折。江戸へ出て上野戦争後、物価が低落した江戸市中で古着を買い江差で売って巨利を得る。その後、呉服を扱い、江差を代表する商人になり明治19年(52歳)三井物産と提携してスルメの中国輸出を開始、漁油製造も行う。北海汽船会社を設立、初代江差郵便電信局長・田畑開墾・道路改修・江差灯台建設などに多大の功績。江差を見下す丘の上に、三井物産が発起建立した、巨大な伊八記念碑が残る。
(追)・その後、鰊漁業の終末期を迎えたが、それに代わる産物として清国貿易品に鯣(するめ)が有望であると判断、明治19年(52歳)に長男儀造と函館支配人杉村福造を上海及び香港に鯣現品を持参させて、輸出に成功。これは三井物産の市場開発で、これによって道南鯣の三井買付となる。竹葉スルメと言う。又、魚油製造も行う。明治22年、汽船会社江運社を興し、明治23年(1890)に創業した北海汽船会社は、7隻の汽船を所有する北海道随一の船会社に成長。また伊八は、初代江差郵便局長、田畑開墾、道路改修、江差灯台建設など公益事業に大きな功績を残し地域に大きく貢献した。明治24年(1891 57歳)同社所有の瓊江丸(タマエマル)が津軽海峡で船舶が321人を乗せて津軽海峡を航行中、他の船と衝突・沈没し、乗客321人中253人と乗員8人が溺死する大事故が発生。社長の松沢伊八は私財を投げ出し、死者の供養、損害補償や遺族の救済に臨んだ。彼はその心労が祟って二年後の明治26年(1893)、志半ばにして58歳で死去。同時に会社も消滅した。現在も「正覚院」に海難事故を悼む「瓊江丸記念碑」が残されている。江差港、日本海を眺望できる高台に設置されたこの記念碑(現、江差町指定文化財)は、松沢伊八の徳を記念するため三井物産が発起人となり、多くの人々の寄付により明治34年(1901)に建立。高さにして8mはあると思われる巨大な碑で、本碑を中心に右側に「遺芳」(明治32年5月)左側に「常夜燈」(明治32年12月3日)が建つ。この碑は伊八の徳を偲んで明治301897)年に貴族院議長近衛篤麿公爵の揮毫で建立。
h300406&300413 「佐渡を愛した作家達」-吉村昭と津村節子- (前・後編)






















「佐渡を愛した作家達-吉村昭と津村節子-」
★吉村昭
妻の津村節子と共に佐渡を愛し、何度も来島して佐渡に関した作品を発表した。「破船」「花渡る海」等。前者は小木堂の釜地区辺りをモデルにしたと言われる。後者は横谷出身の蘭方医長野周甫が登場。この医院は芳蘭館、昭和になって佐渡を訪れたブルーのタウトが書いた「日本美の再発見」に登場。吉村氏夫妻は郷土史家であり佐渡博物館館長であった本間寅雄氏とは昵懇。
『破船』:小木の一漁村をモデルにしたと言われた。住民の海賊行為が問題となった。
『花渡る海』:極寒のシベリアに漂着。日本に西洋式種痘法をもたらしたが、発痘の花を咲かせることはなかった。横谷出身の蘭方医長野周甫が登場。
『石の微笑』:佐渡へ石仏収集に出かけ、女と心中して自分だけ生き残る。
★長野秋甫
羽茂郡金井村横谷に生れ。江戸に出て医術をまなび、その後、オランダ医学の修業を志し、長崎に行って魯庵の門に入る。佐渡に種痘法を持ち帰るため、魯庵から痘苗をゆずりうける。
佐渡へ帰郷の途中、広島に滞在中、松軒の依頼により、二人の子に種痘し)見事な発痘をみた。
嘉永六年に故郷の佐渡に帰ったが、種痘を恐れてうける者は一人としてなく、安政二年(一八五五)正月二十一日、業の成らぬことをなげきながら三十四歳の著さで病歿した。
吉村昭『花渡る海』に登場する。
又彼が設立した洋風病院の芳欄館はブルーノタウト『日本美の再発見』に出る。
★津村節子
福井市出身で『玩具』で芥川賞。『海鳴』の舞台は佐渡相川、『紅梅』には佐渡関係の随筆が載る。「海鳴」等佐渡を描いた作品を多く残す。夫婦共に元佐渡博物館館長で郷土史家でもあった本間寅雄氏(ペンネーム磯部欣三)と昵懇。『
『海鳴』:作者が何回も佐渡へ足を運び、相川郷土博物館や郷土史家などから資料を得て書いた。無宿者であった相川金山の水替え人足直吉と相川の水金遊廓の遊女花衣との話。
『紅梅』には佐渡で本間寅雄さんの弔辞を読む話が出る。
『相川心中』:男と心中を図って、男が死に自分が救われた女は佐渡相川に泊まり、そこがかつて女郎と客が心中した女郎屋であったことから、百年以上も前のことをきく。
★文学碑(二基 金山の奧、第六駐車場付近の大立公園)
(1)華々しい繁栄を見せた金山
余光をとどめる相川を歩ていると
過去と現在を行き来しているような
不思議な気分に襲われ
望郷の念に駆られながら
若い命を相川に埋めた無宿たちの
かすかな声が石や草の蔭から
聞こえてくるような気がする
平成三年四月
津村節子
(2)慶長六年に三浦治兵衛ら
三人の山師に発見された鉱脈は
鮎川の警告をさかのぼり
鬱蒼とした茂みをぬけたところに
燦然と
その露頭を現わしていた
小説「海鳴」より
h300309&0300316 「本間泰蔵とその孫一夫」-豪商と点字図書館創設者- (前・後編)








































「本間泰蔵とその孫一夫」-豪商と点字図書館創設者-
★本間泰蔵
北海道を代表する実業家。嘉永2年(1849)、佐和田在の仕立屋3男に生れた。24歳で渡島、小樽で丸一松居呉服店に勤務、増毛で丸一本間を創業。呉服店、雑貨店、酒造、漁業鰊漁の網元、廻船業と事業を拡大。
明治31年(1902)丸一本間合名会社創立。事業分野には、呉服雑貨業、醸造業、漁業、海運業(汽船5隻所有)、不動産業、また増毛電気株式会社の初代社長と総合商社のような多角経営。天塩國随一の納税者で豪商。現在、國稀酒造が存在し、「旧商家丸一本間家」は国重要文化財で、地域の観光スポット。羽幌の本間藤右衛門とは親戚筋。
・「国稀」酒造
日本最北の酒造。『國稀』『鬼ころし』『北酔』『暑寒美人』『北じまん』他、創業者に因んだ『泰蔵』も醸造。高倉健主演の映画『駅 STATION』のロケ地ともなった。
・「丸一本間家」建造物群
増毛町は増毛町文化財に指定し「増毛町本間家保存修復事業」として推進。「レトロの街増毛」に多くの人が見学に訪れ、本間家は観光のシンボルとなった。
<旧商家丸一本間家‐国指定重要文化財>
100年前の明治時代の姿をそのまま現代に伝えている旧商家丸一本間家。屋根瓦の一枚一枚には屋号が彫り込まれ、壁面や門柱には洋風の装飾が施されるど当時の建築職人の心意気が感じられます。
★本間一夫
日本初の点字図書館開設、盲人文化発展の父である。本間一夫の孫にあたる。1915年(大正4年)増毛生まれ。5歳で失明、読み聞かせてもらい読書の喜びを知る。関西学院大卒業後、点字図書館づくりをライフワークにしようと決意、昭和15年「日本盲人図書館」を創立。「
1915年(大正4年)増毛生。5歳のころ脳膜炎で失明、13歳で函館盲唖院に入学まで学校に通わず在宅生活。この間、毎日のように読み聞かせてもらった『日本児童文庫』『少年倶楽部』によって読書の喜びを知る。函館盲唖院時代、本間は点字に出会うとともに、イギリス・ロンドンにある点字図書館の存在を知り、常日ごろ点字図書の不足を嘆いていた本間は、点字図書館づくりを自らのライフワークにしようと決意する。1936年(昭和11年)、本間は視覚障害者に門戸が開かれていた関西学院大学の専門部英文科に入学、盲哲学者・岩橋武夫や英文学者・寿岳文章らに師事。卒業後、本間は東京の視覚障害者施設・陽光会に迎えられ、そこで点字月刊誌の編集責任者を1年半務めた。
(日本盲人図書館の創立)
1940年(昭和15年)11月10日、本間一夫は東京市(当時)豊島区雑司ヶ谷の借家に「日本盲人図書館」を創立。今日の日本点字図書館で、点字図書700冊、書棚4本からのスタート。翌年、図書館は淀橋区諏訪町(現・新宿区高田馬場)の本間家宅地に移転する。
(日本点字図書館の発展)
昭和28年、本間の朝日社会奉仕賞受賞をきっかけとして、ようやく当館事業の公益性が広く社会に認められる。昭和30)、点字図書の製作と貸し出しが厚生省委託事業、当館は全国点字図書館の中央館的役割を担い、点字出版所をも兼ねる。昭和33年から録音図書(テープ図書)の製作、「声のライブラリー」が発足。
昭和39年、世界盲人福祉会議出席のため渡米その帰途ヨーロッパを回り、欧米の視覚障害者用具約150点を収集。これがきっかけで、昭和41年に視覚障害者用具の販売事業が発足。現在では約1000点を扱うまでに発展し、新商品の開発や全国各地での展示会、海外への輸出。
昭和58年からは情報提供サービス充実。図書検索にコンピュータを導入し、昭和60年に当館および東京都内の点字図書館・公共図書館にある点字図書・録音図書のデータベースを作成。その後は情報収集の範囲を都内から全国の図書館へ広げ、平成13年には全国の点字図書館・公共図書館・大学図書館・利用者・ボランティアがインターネットを介して自由に書誌情報や点字データの送受信を行える、「点字図書情報ネットワーク整備事業」を稼動。
(本間一夫の志)
本間一夫は平成15年に亡くなりましたが、その想いは今や国境を越え、アジアの視覚障害者にも届けられています。平成5年、当館はアジア盲人図書館協力事業を開始。アジア地域の視覚障害者に豊富な点字図書を供給するため、マレーシアを拠点に、毎年アジア各地で「コンピュータ点字製作技術指導講習会」を開催し、周辺の国々から図書館や盲学校、盲人協会などのスタッフを招いて、パソコンによる点訳技術や作図法などを指導。
「権利において、義務において、晴盲二つの世界があくまでも公平でなければならぬ」(本間の言葉)
・黒柳徹子の朗読奉仕・井深大さんの盲人用テレビ・松下電器の協力・高見順の『各駅停車』
・有吉佐和子『閉店時間』・式場隆三郎博士の温情(世界盲人会議出席と世界周遊)
・幼少時の北海道時代から関西学院在学中、東京での点字活動人生にほぼ一生涯そばに居て支えたばあやは明治5年佐渡島生まれ。文盲であった。ばあやの後は妻喜代子が身辺の面倒を見てくれた。
・昭和38年、ヘレンケラー賞を受賞。・昭和46年、藍綬褒章を受章。・昭和52年、吉川英治文化賞を受賞。・平成14年、井上靖文化賞を受賞。
h300223&0302 「両津甚句の話)」(前・後編)


























『両津甚句の話』
1小林よしえ
両津入桑出身の民謡家、昭和16年生。県内外(東京・大阪)に民謡教室を主宰。佐渡で開催される各種民謡大会には多くの生徒達を引率参加、佐渡民謡の発展普及に貢献。
★両津甚句
久地八幡宮の「久知甚句」から派生した「夷甚句」「湊甚句」が夷町、湊町の合併後「両津甚句」となる。現在の両津甚句は大正初期「両津甚句会」によって完成した。
※昭和42年国立劇場が初めて民謡に解放された時、日本の代表的民謡数曲の一つに選ばれた。
★代表的歌詞
・両津欄干橋は真ん中から折りょうと船で通うてもやめりゃせぬ
・松になりたや御番所の松に枯れて落ちても離りゃせぬ
・前は漁火うしろは加茂湖中は色街恋の町
・行こか湊町もどろか夷ここが思案の両津橋
・しんと更けたる夜はこわござる烏賊が啼きます船底で(中川雀子作)
※囃子言葉の「りゃんとーうりゃんとーりゃんとー」は「両(りゃん)とー」で「二つ、繰り返す」の意。即ち、一節は終わったが、次に続いて唄ってくれ、との意味。
★両津甚句一節の長さ(歌のみ)
1朝日亭八重子40秒 2中川千代(本間ふさ)40秒 3田中幸月60秒 4佐藤みやこ60秒 5松本丈一 8小林よしえ65秒 9村田守60秒
★両津甚句を支えた人々
1小林よしえ 両津入桑出身の民謡家、昭和16年生。県内外(東京・大阪)に民謡教室を主宰。佐渡で開催される各種民謡大会には多くの生徒達を引率参加、佐渡民謡の発展普及に貢献。
2朝日亭八重子
大正末に両津甚句を初めてレコードに吹き込む。昭和2年。両津甚句がNHKで放送された時の唄い手。「朝日亭」は昭和22年頃まで八郎平町にあった料亭。
3中川(山田)千代
明治39年生、両津の料亭吉田屋に勤めた。昭和27年第2全国民謡大会に「両津甚句」で優勝。
42年、国立劇場が初めて民謡に開放された時、一般民謡人として初出演。
4田中甚平(紅月・幸月)
新穂舟下の人、明治37年生。独特の節回しで両津甚句を唄った。
5佐藤ミヤ子
大正10年生。昭和30年代、「両津甚句」で全国優勝。レコードも多く吹き込む。2男が有名な津軽三味線奏者木田林松次。
6村田守
小木の人、昭和19年生。中川千代から古い形の両津甚句を習得し唄った。「さざ波会」会長、佐渡民謡協会会長を務めた。
7浦本政三郎
日本民謡協会初代理事長。両津甚句を愛し昭和3年初来島以来、昭和34年まで20回程来島。
8松本丈一
畑野小倉出身の大民謡家。日本民謡功労賞受賞。現在の両津甚句の形を作ったと言われる。
「松本丈一師民謡碑」が小倉に建つ。
9渡辺忠一
両津夷の人、明治40年生。三味線の名人で鴨湖会会長を務め、昭和29年の日本民謡大会で日本一。
h300209&0216
「プライバシーを広めた佐渡人(久保田きぬ子と有田八郎)」(前・後編)>
































★「宴のあと」裁判
昭和36年、三島由紀夫『宴のあと』が有田と元妻畔上輝井(あぜがみてるい)との結婚生活をモデルとし、プライバシー侵害に当たるとして訴えた。日本初のプライバシーと表現の自由が争われた。『宴のあと』はプライバシー侵害に該当ー三島側は控訴、翌年の昭和40年有田死去ー有田の遺族と三島・新潮社が和解、無修正で出版。
★有田八郎
外交官・政治家。明治17年、真野町新町山本桂の六男に生まれ2歳で、獄死した父の友人、有田真平未亡人の養子に。農林大臣を務めた山本悌二郎は兄。一高-東大から外務省、昭和11年外相、以後4度外務大臣。その間、日独伊三国同盟には、一貫して反対。第二次大戦の戦況が悪化した昭和20年天皇に上奏文を提出して、戦争の早期終結を訴えた。戦後は社会党に属し、昭和28年衆議院議員に当選、革新推選の候補として出馬した東京都知事選では2度敗北。相川町名誉町民(第二号)。
・有田八郎記念館(相川郷土博物館)
・五男に有田啓輔外務次官
・昭和27年相川鉱山大縮小時、相川代表として三菱代表田中完三と会談
・妻は小木の佐藤嘉十郎家の出
★三島由紀夫
戦後の日本文学界を代表する作家、ノーベル文学賞候補、代表作は『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』等。晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、「楯の会」結成。昭和45年、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地で東部方面総監を監禁。バルコニーでクーデターを促す演説後、割腹自殺。
★久保田きぬ子
憲法学者。大正2年相川町生。父久保田金五郎は醤油醸造業など営み相川町長。きぬ子の回想だと「父は私が一二歳のとき他界したが、蔵にあった大判小判などを神田の地金商で換金し、水平社運動などにつぎこんだりした」。東大初の女子学生。国連総会に日本政府代表代理として女性初の出席。同郷の有田八郎が、三島由起夫の『宴のあと』を告訴、米国通の彼女は「名誉棄損でなくプライバシーでやったら」と提言。プライバシーの権威として知られた。
・祖父久保田金五郎は沢根青野屋の出で、青野季吉の伯父。祖父と季吉は従兄弟。
h300126&0202
「オリンピックと佐渡人(体操と水泳のパイオニア」(本間茂雄と斎藤兼吉)(前・後編)>







































★斉藤兼吉
1894(明治27)-1960。新潟県初のオリンピック選手、日本初の水泳オリンピック選手。両親は相川小六町で旅館「えびすや」を経営。佐渡中学に入学、相川から片道三里を歩いて通学。大正五年の極東大会(現アジア大会)で水泳の三種目と陸上の円盤投げ・やり投げ・五種競技で優勝、「水陸両棲動物」と言われた。アントワープの第七回オリンピックに出場。日本の水泳技術の遅れを痛感し、米国などの先進的なクロール泳法を学び、日本で普及させ水泳日本の基礎を築く。欧州と英国に遊学、晩年は満州医科大・新潟大・金沢大学の教授。中京大体育学部創設。
★本間茂雄
畑野坊ケ浦出身、日本初の体操オリンピック選手。日本の体操競技を世界一に押し上げた功労者。明治37年出生、東京高師卒。後年、東京教育大名誉教授。昭和7年、第10回ロサンジェルスオリンピック体操競技に初出場、主将。以後、オリンピック体操競技コーチや競技団長を歴任、世界を制した日本体操競技の礎を築く。指導者としての教育大後輩達に小野喬、遠藤幸雄、加藤沢男等のオリンピック金メダリストが並ぶ。
★渡辺利雄
新穂潟上出身の東大名誉教授、日本を代表する英米文学者。本間茂雄の甥。
★伊藤勝二
昭和20年、相川町生。1500m自由形日本チャンピオン、メキシコオリンピック日本代表。実家は相川下戸の山與鮮魚店。昭和38年の相川高校時代は全国高校大会五位。名門日大入学後頭角を現し、1500m自由形で日本新記録を樹立。
伊藤は当時の長距離泳では使われなかったクイックターンを1500メール泳では世界で初めて使用。
h300112 「ウイスキーとチーズ-二人のカリスマ-」(前編)


















★土屋守
ウイスキー評論家、作家、ジャーナリスト、スコッチ文化研究所代表。1954年生まれ、両津市夷出身。実家は源助屋履物店で、母は商店会婦人部会長等で活躍された。佐渡高校時代は山岳部、学習院大学時代は探検部に籍を置いた。学習院大学文学部卒後、週刊誌記者(「フォーカス」)を経てロンドンで日本語雑誌の編集に携わる。帰国後、ウイスキー、釣り、紅茶、英国関連の著述で活躍中。1988年、ハイランドディスティラーズ社より「世界のウイスキーライター5人」に選ばれる。主な著書に『モルトウイスキー大全』『ブレンデッドスコッチ大全』(小学館)など多数。
・従兄弟に『北一輝のための終わりなき戯曲』著者の伊藤正福氏が居る。
・主な著作
「イギリス・カントリー紀行」(1995年5月) 「モルトウィスキー大全」(1995年12月) 「ブレンデッドスコッチ大全」(1999年3月) 「スコッチ三昧」(2000年5月) 「スコットランド旅の物語」(2000年7月) 「改訂版モルトウィスキー大全」(2002年4月) 「シングルモルトを愉しむ」(2002年11月)
★本間るみ子
佐渡新穂長畝に昭和29年生。父は長く佐渡農協・組合長を務めた本間一雄。・佐渡高校ー桜美林大卒後、アメリカ留学。・1977年、チーズ輸入専門商社に入社しチーズと出会い、1986年に日本で初めての本格的チーズショップである株式会社フェルミエを設立。 店名のフェルミエは「農家製」という意味のフランス語。
(チーズ研究家)講演活動や、チーズスクールの講師を務めるなど、日本のチーズ第一人者として、チーズ普及に情熱を傾けている。
(著書)『チーズ図鑑』『いま、チーズがおいしい』『チーうを楽しむ生活』『チーズで巡るイタリアの旅』、『POPのチーズ達』『AOCのチーズ達増補版』『チーズの悦楽十二カ月』『チーズの選び方・楽しみ方』『パルミジャーノ・レッジャーノのすべて』『チーズ』」等)。
(称号)・1999年、フランス農水省より農事功労賞 ・2002年フランスチーズ鑑評騎士の会よりグランオフィシエの称号 ・同上チーズ熟成士の称号(フランスで30人、史上、女性では2番目) 他多数
・佐渡高校山岳部に所属、1年先輩にスコッチウイスキー研究所所長土屋守氏が居る。
h300119 「ウイスキーとチーズ-二人のカリスマ-」(後編)















今回はチーズのカリスマ本間るみ子さんについて話しました。
6年位前でしょうか、北海道帯広在の友人(「十勝毎日新聞」)から電話。
「帯広で世界のチーズフェアを開催したい、その冠にチーズのカリスマ本間るみ子さんをお願いしたいと電話した。すると、父の葬儀で佐渡島に帰ってると聞いた。そこで、佐渡のあなたに本間さんについて教えてもらいたい」と。
彼女の父本間一雄さんのことなどを話しました。
この北海道の友人とはその後二つの機縁もありました。
帯広畜産大の何十周年記念があるので、校歌を石碑に刻んだ。
何とその校歌作詞者は畜産大第一回卒業生の佐渡人名畑武男氏であった。
この奇縁を私が新潟日報に書いたら、早速、その記事が畜産大記念祭に紹介されたと。
もう一つ。
帯広の友人と親しい帯広近辺の獣医さんが故郷に帰ると言う。
聞いてみると佐渡ヶ島だと言う。
現在、新穂在の葉梨獣医さんで、何と私のまた従兄弟であった。
★本間るみ子
佐渡新穂長畝に昭和29年生。父は長く佐渡農協・組合長を務めた本間一雄。・佐渡高校ー桜美林大卒後、アメリカ留学。・1977年、チーズ輸入専門商社に入社しチーズと出会い、1986年に日本で初めての本格的チーズショップである株式会社フェルミエを設立。 店名のフェルミエは「農家製」という意味のフランス語。
(チーズ研究家)講演活動や、チーズスクールの講師を務めるなど、日本のチーズ第一人者として、チーズ普及に情熱を傾けている。
(著書)『チーズ図鑑』『いま、チーズがおいしい』『チーうを楽しむ生活』『チーズで巡るイタリアの旅』、『POPのチーズ達』『AOCのチーズ達増補版』『チーズの悦楽十二カ月』『チーズの選び方・楽しみ方』『パルミジャーノ・レッジャーノのすべて』『チーズ』」等)。
(称号)・1999年、フランス農水省より農事功労賞 ・2002年フランスチーズ鑑評騎士の会よりグランオフィシエの称号 ・同上チーズ熟成士の称号(フランスで30人、史上、女性では2番目) 他多数
・佐渡高校山岳部に所属、二年先輩にスコッチウイスキー研究所所長土屋守氏が居る。
★土屋守
ウイスキー評論家、作家、ジャーナリスト、スコッチ文化研究所代表。1954年生まれ、両津市夷出身。実家は源助屋履物店で、母は商店会婦人部会長等で活躍された。佐渡高校時代は山岳部、学習院大学時代は探検部に籍を置いた。学習院大学文学部卒後、週刊誌記者(「フォーカス」)を経てロンドンで日本語雑誌の編集に携わる。帰国後、ウイスキー、釣り、紅茶、英国関連の著述で活躍中。1988年、ハイランドディスティラーズ社より「世界のウイスキーライター5人」に選ばれる。主な著書に『モルトウイスキー大全』『ブレンデッドスコッチ大全』(小学館)など多数。
・従兄弟に『北一輝のための終わりなき戯曲』著者の伊藤正福氏が居る。
・主な著作
「イギリス・カントリー紀行」(1995年5月) 「モルトウィスキー大全」(1995年12月) 「ブレンデッドスコッチ大全」(1999年3月) 「スコッチ三昧」(2000年5月) 「スコットランド旅の物語」(2000年7月) 「改訂版モルトウィスキー大全」(2002年4月) 「シングルモルトを愉しむ」(2002年11月)
h291222 「歌舞伎尾上松也のルーツ佐渡」(前編・後編)















佐渡TV「ダン渡辺の佐渡四方山話」
こんなことを話しました。
今を時めく歌舞伎界のスター尾上松也。
母は新派を代表する女優だった河合盛恵。
この母のルーツが佐渡両津なんです。
松也の父は尾上松助、子役時代にはあの「赤胴鈴の助」役でデビュー!
相手役がテレビ初出演の吉永小百合。
この作品の脚本を書いたのは有名な穂積純太郎。
相川出身で本名は宮本佐三雄。
「佐」渡で生まれた「三」男のよし。
「歌舞伎尾上松也のルーツ佐渡」
★尾上松也
1985年日生-。歌舞伎俳優。屋号は音羽屋。五歳で初舞台。父尾上松助は松也20歳の時没。松竹エンタテインメント所属。舞台やTVで大活躍。母方祖母 磯野初枝が両津湊の磯野嘉右衛門家の人。祖母は燕の鍔師(つばし)河合一舟に嫁ぎ、移住した鎌倉で盛恵(松也母)を出産。
尾上松也が父と母の借金まみれの壮絶な過去を告白! 父・松助の死去後一門を背負う立場に。
尾上松也は、歌舞伎界の若手ホープの1人。現在32歳の尾上松也は、歌舞伎の舞台の他、バラエティ番組、ミュージカル舞台でも活躍中。歌舞伎役者の父・六代目尾上松助と、新派の女優だった母・河合盛恵の長男に生まれ、5歳で初お目見得。2005年に父・尾上松助が他界、若干20歳にして、家族や弟子を抱え、一門を継ぐ立場に。25歳で自主公演「挑む」を始めるも、集客に失敗、多額の借金。その後1年1回公演開催、今年で9年目。尾上松也の名が世に知られ観客数も大きく伸びた。2012年、蜷川幸雄の「ボクの四谷怪談」でお岩役を好演した尾上松也。2013年「ロミオ&ジュリエット」のベンヴォーリオ役をオーディションで見事射止める。舞台やミュージカルに出演中も、歌舞伎役者として舞台をこなし、私生活では前田敦子との熱愛で世間を賑わせる尾上松也。同時にテレビやCM、雑誌、映画やドラマ等メディアに露出。ここ数年で一気に駆け上がる。年末には「忠臣蔵」、年始には「新春歌舞伎」とハードスケジュール。これだけテレビに出演し、スポンサーもつけば、借金のかなりの部分は返済できたのではないでしょうか。尾上松也が熱愛中の彼女はAKB48の元メンバー前田敦子!前田敦子が「梨園の嫁」になるのではないかと、一時はかなり盛り上がった2人の結婚話。
★尾上松助
松也の父、1946年生-2005年没、59歳。尾上松緑に師事、菊五郎劇団で松緑や尾上菊五郎を支えた。子役時代はTV『赤胴鈴之助』の主役で活躍した。
※ラジオ東京(現・TBSテレビ):1957年1-1959年、主演(尾上緑也、後尾上松助)、吉永小百合(テレビ初出演)等。赤胴鈴之助の脚本は相川出身の穂積純太郎。
★河合盛恵
新派の役者や女優として活躍、歌舞伎役者尾上松助に嫁ぐ。新派では水谷八重子の最後の弟子。母の実家、磯野嘉右衛門家の先祖は夷4丁目で、湊5丁目に移住、蒲鉾製造を行っていた。磯野家の菩提寺は安照寺で墓は盛恵さんが守る。磯野家は田中湖山家と親戚で、盛恵さんは学生時代そこでお手伝もした。
★春本由香
松也の妹。新派の女優。二代目水谷八重子に師事。テレビドラマ『雲霧仁左衛門』に初出演。人気上昇中。
★音羽屋
音羽屋は歌舞伎役者の屋号。ゆかりの清水寺境内「音羽の滝」にちなむ。尾上松也の一門である「音羽屋」は初代から続く尾上菊五郎家と分家筋の尾上松緑家の系統にわかれる。菊五郎家は、歌舞伎界に多大な貢献をしたとして、現七代目菊五郎が人間国宝に指定され名門中の名門。この現・七代目菊五郎は寺島秀幸。女優・寺島しのぶの父親。
★音羽屋の代表的な名跡。
音羽屋は尾上菊五郎家と分家筋の尾上松緑家の系統がある。
菊五郎家は現七代目菊五郎が人間国宝。女優・寺島しのぶの父。
「宗家」・尾上菊五郎・尾上菊之助・尾上丑之助・尾上梅幸・尾上九朗右衛門・尾上右近・尾上榮三郎
「分家」・尾上松緑・尾上辰之助・尾上松助・尾上松也等
h291124&1201 「佐渡の三奇人」(昭和編) 前編・後編




















★近藤福雄
1900-1957。金沢村種の裕福な農家の長男。福雄は父の死去で高等小学校後、家業。18歳で写真機を持ち、自然や風俗を撮る。大正9年、柳田国男来島、伯父の茅原鉄蔵を通して接触。大正13年、大町桂月の案内役。昭和8年、牧野富太郎を案内し、山や植物への関心。考古学や歴史に関する知識は、親戚の川上喚涛や茅原鉄蔵の影響による。後に関係者により写真集『佐渡万華鏡』『佐渡写真帖』が出版。
・1983年(s58)12月号の「アサヒカメラ」で近藤福雄大特集があり、一気にブレーク。
・著名人の専業ガイドを兼ねた写真家。蛇腹の大型ガラス乾板写真機。乾板の現像後の処理は自宅の暗室で行う。・牧野富太郎を案内後、山や植物への関心が強まる。旅行雑誌『旅』の編集長戸塚文子の誌上の紹介が彼を著名人紹介に役立つ。
・平成6年、写真家富山治夫らにより写真集『佐渡万華鏡』出版。
★中川雀子
1889-1966。郷土史家。父は外山、母は竹田の人で母方の苗字を名のる。明治27年、両津で父のそば屋「くわがら屋」を継ぐ。そばの研究に上京、江戸風の種物そばを持ちこむ。相川で土産物屋を開業、夷で土製「のろま人形」を売り出す。東京や九州で人形の展覧会を開き、人形作家に。古銭の収集家でもある。高名な古銭鑑定家と小判論争。現在は中川説が通用する。民謡・芸能研究家でもあった。
・種物:うどん・そばの上に具材を載せる。天ぷら、あんかけ等。
・大正十年の全国民謡大会に、夷町のおけさ踊りをつれて上京、初めて「佐渡おけさ」の名前で発表。夷子供鬼太鼓の生みの親で、民俗学にも造詣が深く、川上喚涛らと柳宗悦の足どりを元に木喰仏の調査。昭和11年柳田国男の指導で佐渡の昔話採集に来島の鈴木棠三を外海府に案内。
・大蔵省や日本銀行の古銭の鑑定家で高名な小川浩と、昭和38年頃小判論争、佐渡産小判といえば、○の中に「佐」の文字の刻印がある正徳小判しかないといわれたが「筋神」「高神」等の小判座の職人印のあるものも佐渡産と、鉱山跡から見つけた製鉄の同名の刻印をもとに主張。
・昭和8年(1933)作の角のない子供用の面、中川雀子作。
子ども鬼太鼓の先がけは、夷七ノ町で昭和8年に結成というからこの時に合わせて作られた。・長男が郷土史家で紙人形作家の中川紀元さん。
★橘法老(橘正隆)
1892-1964。出生は新発田と言われる。当人は過去を語らず。大正12年、関東大震災で妻子を失ない、昭和11年、日蓮の遺跡研究の目的で来島。島内で伝説や口碑を史実と誤認していることに落胆、自らの手で再調査を決意。緻密で鋭い洞察力を備え、若い世代をひきつけた。昭和39年死去の後は、氏を慕う者達より湊妙法寺で毎年法老忌が催された。
※橘鶴堂文庫(きっかくどうぶんこ)
橘法老蒐集の膨大な古文書、絵図・写真等を本人の意向もあり佐渡農業高校が保管し「橘鶴堂文庫」と名づけた。
・中大法科卒とも東大卒とも言われたが不明。若き田中圭一先生他、後の佐渡の郷土史に携わる学者達に大きな学恩を与えた。
・衣食住を地元が賄って、『金泉村村史』、『河崎村編年誌』『佐越航海史要』等多くの著作を成した。
h291110&17 『意外と知らない「佐渡おけさ」?!』(前編・後編)

























★二つの「佐渡おけさ」
1.正調佐渡おけさ:松本丈一・菊地歌楽・杉山茂左衛門等に代表され、現在の一般的な歌い方。
2.文三節佐渡おけさ:村田文三の唄い方で、三節目が大きく異なる。文三の他に長尾峻、岩崎康一郎に引き継がれた。
・松本丈一:畑野小倉の人、日本を代表する民謡家で日本民謡功労賞受賞。
・菊地歌楽:相川小川の人、立浪会で村田文三と共に全国的に活躍した。
・杉山茂左衛門:赤泊川茂の人、全国民謡大会で準優勝、「新潟交通おけさキャラバン」で活躍。杉山民友会会主杉山重信氏はその子。
・村田文三:相川の人、立浪会に属し、日本一の民謡歌手と言われた。日本民謡技能賞受賞。
・長尾峻:羽茂の人、長尾閑楽名で文弥節の名人であり、力士高尾山としても著名。「砂金音頭」作詞作曲。
・岩崎康一郎:二見稲鯨の人、現在、佐渡民謡の代表的唄い手で、古調相川音頭も伝える。
・岩原芳太郎 佐渡民謡研究会、松波会他か多くの民謡団体を指導。
★「佐渡おけさ」の三つの形
1. 正調 佐渡おけさ
2.ぞめき(騒き)おけさ:唄い出しに「はあーーっ」が入らず、テンポが少し速い。
3.選鉱場おけさ:選鉱場で唄われたもので、テンポが大変速い作業唄。
★その他
・小木おけさ:佐渡おけさの原型と言われる。唄、踊り共に佐渡おけさと少し異なる。
・新おけさ :明治末に来島した演歌師添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)が大正9年に作った新民謡。
★佐渡おけさのルーツ
・一般的には、牛深港(熊本県)の船乗りが酒席で唄った「はいや節」が北前船を通じて日本海各地に変化しつつ伝えられた、とされる。佐渡では「はんや節」、津軽では「あいや節」となる。
・聞いた限りでは「佐渡おけさ」と「はいや節」に類似点はない。鎌倉時代から越後で唄われた「おけさ」と「はいや」が融合したのではないか?!
・赤泊山田地区では「山田はんや節」が現在も歌い継がれる。
★佐渡おけさの完成
(曲)東京音楽学校に在籍した曽我真一が音楽性の高いものに作り上げた。
(歌詞)金井の眼科医川辺時三が全国に歌詞を募集した。これには柳田国男の尽力もあったのではないか。川辺の眼科研修時代の後輩が柳田国男の兄井上通泰で、柳田は来島時一番に川辺を表敬訪問した。(大正9年、昭和11年来島)
(踊り)小木に住んだ大阪の歌舞伎役者浅尾森之介が小木の芸妓用に作った。
★佐渡おけさが日本一に!
「日本一になった佐渡おけさ!」
・昭和25年、「佐渡民謡研究会」が全国民謡大会で優勝。
・昭和29年、全国都道府県対抗民謡大会で両津「鴨湖会」が優勝。
・昭和30年、日本民謡協会主催の民謡戦で立浪会が優勝。
・昭和30年、NHK全国のど自慢コンクールで赤泊の杉山茂左衛門が準優勝。
・昭和37年、若波会が日本民謡協会「全国民謡舞踊まつり」で優勝
★おけさキャラバン(新潟交通・佐渡汽船)
・全国大会で優勝した「佐渡民謡研究会」(新潟交通)が全国へ観光キャラバンを打つ。
★山田耕作・藤原義江の「佐渡おけさ」
・昭和2年、立浪会の唄を聞き、山田耕筰が洋風に作曲し、藤原義江が世界公演で唄った。
・藤原は戦前から戦後にかけの世界的オペラ歌手、藤原歌劇団創設者。父がスコットランド人。
★佐渡へ佐渡へと草木もなびく・・は盗作?!
・江戸時代宝永頃(1704~)の狂言本「助六心中」に「伊予へ伊予へと草木もなびく…」。
・「江戸へ江戸へと草木もなびく」「木曾へ木曾へと…」などもある。
・「佐渡へ佐渡へと…」が「佐渡おけさ」の歌詞になったのは大正10年頃。
「佐渡日報10周年紀念号」に「他國の焼きなほしものを唄うことはやめた方がよい」。
・明治32 年に、直江津の古い「塩たれ唄」にあると尾崎紅葉が「煙霞療養」に記す。
h291027&1102 小林多喜二「不在地主」のモデル磯野進 (前・後編)


























小林多喜二『不在地主』のモデル磯野進
-北一輝との接点-
★磯野進
・1872年、湊一丁目伊藤清右衛門家次男、夷の磯野家に入る。中央大学卒後、明治30小樽へ出て磯野商店を興し、佐渡の味噌、縄・莚などの藁細工・荒物事業、越後の米などで成功、小樽商工会議所会頭。小林多喜二『不在地主』のモデル。旧磯野商店倉庫の「海猫屋」は、小樽の観光スポット。
★海猫屋:多くの文化人に愛された北海道小樽市の老舗レストランバー。
★『海猫屋の客』:直木賞作家村松友視小説。
★伊藤清太郎
佐渡病院2代目院長。磯野進の甥で彼の葬儀に出席。東大卒、草創期の佐渡病院の医師は東大系であった。
★松永テル(輝)
伊藤家の向かいが松永家、娘のテルは北一輝の恋人。(『若き北一輝』)
磯野進は実家近所の旧知の松永テルを、自身が小樽で変世話になった実業家西垣啓次郎の長男良造に嫁がせる。松永テルが、その後終生、自らの名を「輝」と書いたのは北一輝の「輝次」を偲んだ故か。
★林儀作(濁川)
1883-1935、政治家・新聞記者。三十六郎・濁川と号す。相川町濁川生まれ。佐渡鉱山学校を卒業。「佐渡毎日新聞」記者、和歌革新運動に携わる一方、北一輝と恋愛論を戦わす。北一輝が名をあげると、追うように上京、幸徳秋水らとも交わり、「平民新聞」に執筆。北海道へ渡り、長谷川楽天(林不忘父)の興した「北海新聞」編集長、道議会議員を経て、昭和七年代議士に。
★富田朝彦(ともひこ)
林儀作の孫。1920年-2003年。昭和期の日本の官僚。宮内庁長官。
警察庁に入り警備局長等を歴任。当時の警察庁長官は後藤田正晴であさま山荘事件を担当。宮内庁長官。
※尚、前宮内庁長官風岡典之は父が相川の人。
・「富田メモ」
平成成18年富田が生前に昭和天皇や側近の発言を記録した日記が遺族によって一部が公表。いわゆる「富田メモ」。「昭和天皇が靖国神社が戦争責任者であるA級戦犯を合祀したことに不快感を抱いたために、1975年11月21日の参拝を最後に靖国神社へ行くことを止めた」との内容、解釈をめぐり議論を呼ぶ
h291023 「台湾と佐渡」 (後編)













★中川健蔵
昭和七年から同十二年まで、五年間にわたって台湾総督を勤めた。
1875-1944。大正から昭和初期にかけての高級官僚。畑野町三宮山本傳十郎より真野町新町中川清三郎の養子に。東京帝国大学法科を卒業、香川県知事、熊本県知事、北海道庁長官、東京府知事、文部次官を歴任。後日本航空社長。
六男融は、駐ソ大使・国連大使などを勤め、小和田雅子さんと皇太子殿下を繋いだ人物として知られる。
★相川の民謡団体「立浪会」
・昭和10年11月台湾訪問。当時の台湾総督は佐渡人の中川健蔵。ガランピに「おけさ塚」を建て、地元の人に佐渡おけさ指導。
・「おけさの碑」建てる。平成14年(2002)「台湾・日本文化交流団」(35名、村田文三関係者15人)
★山本悌二郎
明治33年、30歳にして台湾製糖株式会社の創立に関わり、翌年支配人。
1970-1937。昭和初期、農林大臣を二期務めた政治家・実業家・中国古書画研究家。真野町新町、漢方医師山本桂の二男。圓山溟北塾に学ぶ。ドイツでの勉学を志し、駐独公使に任命された品川弥二郎宅に日参し、認められて隋行する。24歳の時帰国、34歳で衆議院議員初当選、以来当選11回。一方、父桂の影響で漢詩を作る。漢詩集『遊燕詩草』『昼錦集』『梅花集』他を公刊、書においても一家の風格。
外務大臣有田八郎は悌二郎の弟。
★若林素子
・1955年台湾雲林県生れ、14歳から舞踏団で修業。79年、結婚を機に夫の故郷真野新町に移住。87年、「ジャズダンススタジオ・パル」設立。娘の美津枝さんが世界大会入賞、生徒が国内大会で毎年入賞を重ねる。台湾でも7回を超える公演、台湾からも日台親善への貢献を表彰される。
・台北駐日経済文化代表処の謝長廷代表は佐渡市を訪れ、台湾出身の若林素子さんが代表を務める「Jazz Dance Studio PAL」の創立30周年記念特別公演「わたしは踊る」に出席し、若林さんの台日文化交流への長きにわたる貢献に、感謝の意を表す。ta
h291013 「台湾と佐渡」 (前編)














視聴者の金井在住本間潤子さんから連絡を頂いた。
全国から募集された「台湾慰霊の旅」に参加、佐渡からは自分一人であった。
台湾総統府では歴代台湾総督の大きな写真が飾られ、そこに佐渡人中川健蔵さんもいた。
また、歓迎式典で歌われた歌は本間雅晴台湾軍司令官が作詞したものであった。
二人とも台湾では大変有名な方で今も慕われていた。
同じ佐渡人として心が熱くなり、是非佐渡の皆さんにこの事を知って頂きたかったので佐渡TVに出向いた。
★本間雅晴(ほんままさはる)
・昭和13年 陸軍中将、昭和15年-台湾軍司令官。地元民に慕われた。
・台湾の戦没慰霊塔に元台湾総統李登輝と揮毫があり、並んで本間雅晴の和歌がある。
「かくありて許さるべきや密林のかなたに消えし戦友(とも)を思えば」
・本間雅晴中将の出生(本間雅彦「越佐の生んだ日本的人物」)
・慰霊祭では本間中将作詞の「義勇隊の歌」も歌われる。他に『朝日に匂ふ桜花』『台湾軍の歌』などの歌を作詞した。
・佐渡中学時代、恋人の家を訪ねた。家族の人に「あなたは将来何になるのか」と尋ねられた。「小説家に・・」と言うと、「そんな弱弱しい男にうちの娘はやれません」と罵倒された。
本間が軍人を志したのはこれがきっかけだったようだ。
・澄田智(元日銀総裁 「私の履歴書」)
父が軍人、ある日家に多くの軍人が集い酒席。軍人の道でない普通中学に行ってると言うと、「不肖の息子だ!」と軍人達に罵られた。すると、最上席の人が、「軍人でなくとも学者でも外交官でもよい。一生懸命やれば国の為になる」と。それが後の本間雅晴中将だった。
・マニラ戦犯裁判で、バターン死の行進の責任者とされた。本間は人道主義者であり、部下の責任であった。しかし、結果的に責任をとる。有罪判決が下り、本間は死刑と決まった。
・妻富士子
先妻は自由奔放で、女優を真似て舞台に出たり、多くの男と浮名を流す。海外駐在中に破局を知り失意のあまり窓から飛び降りようとした際には親友の今村均(後の陸軍大将)に止められた。
後妻の富士子は戦犯裁判に証人として出廷した際、
「私は今なお本間の妻たることを誇りにしています。わたしは夫、本間に感謝しています。娘も本間のような男に嫁がせたいと思っています。息子には、日本の忠臣であるお父さんのような人になれと教えます。わたしが、本間に関して証言することは、ただそれだけです……。」
・角田房子 『いっさい夢にござ候―本間雅晴中将伝』
★中川健蔵
昭和七年から同十二年まで、五年間にわたって台湾総督を勤めた。
1875-1944。大正から昭和初期にかけての高級官僚。畑野町三宮山本傳十郎より真野町新町中川清三郎の養子に。東京帝国大学法科を卒業、香川県知事、熊本県知事、北海道庁長官、東京府知事、文部次官を歴任。後日本航空社長。
六男融は、駐ソ大使・国連大使などを務め、小和田雅子さんと皇太子殿下を繋いだ人物として知られる。
h290929 「北一輝をめぐる人びと」 (前・後編)























長谷川海太郎(林不忘)


長谷川海太郎生家(赤泊徳和)





★北一輝
1883-1937。湊町で酒造業を営む慶太郎・母リクの長男。佐渡中学1回生。飛び級するほどの成績であったが、文芸や社会問題に関心を持ち、眼病の悪化もあり同三十三年退学。三十六年「佐渡新聞」に「国民対皇室の歴史的観察」を掲載、不敬との理由で掲載中止。三十八年上京、早稲田大学の聴講生、図書館に通って翌三十九年に『国体論及び純正社会主義』を自費出版して注目、発売禁止。この間幸徳秋水や堺利彦ら社会主義者と交友、やがて中国革命同盟会に参加、四十四年に辛亥革命が起こると中国に渡って活動。大正二年帰国、『中国革命外史』を著し、大正五年再び中国に渡り、同八年『日本改造法案大綱』を書き上げた。同年末大川周明らの迎えで帰国、翌九年猶存社を結成して右翼運動に参加、政・財界から資金を集めて門下生を養い、西田税を通じ陸軍の青年将校に影響を持つ。昭和十一年の二・二六事件の際、背後の首謀者として逮捕され、翌年八月十九日に処刑。
「佐渡中学生諸君に与ふ」
「佐渡新聞」明治28年。二十三歳の北一輝が後輩の佐渡中学生に呼びかけた革命の撒文とも言える長詩。一輝の生涯にわたる行動をささえた思想を、すでにこの詩に見ることができる。「資本家も、地主も/ツァールも/カイゼルも/而して……(言ふぺからず′)。」とされる天皇も、一線上にあって地震のように覆えされると歌っている。これらの地上の権力を転覆し、国家社会主義者の自己に権威をおき、革命を志すのが男子として生を受けた使命であるとする。
「霊告日記」
昭和4年から昭和11年まで自分と妻すず子が体感した日々の霊感的予言や、見た夢の記録。法華経を読経して「神がかり状態」になって書いた部分と、自分や妻がどのような夢を見たかという記述がある。後者の実例を挙げると、「某妻女とうとう癩病になって顔倍大となり、汁だらだら流れ居る夢」(妻の夢) 「治療のために声が出ずなって、父さん電話もかけられず、人にも会えぬようになった。おいおい泣き居る夢」(妻) などである。政治史のうえで重要な人物がつけていた夢日記であるから、歴史学者たちが、夢や霊告の背後にある現実の世界との対応などを特定しようと夢中になるのは、もちろん正当な読み方の一つである。
・松永テル
一輝の恋人、磯野進の仲立ちで小樽の
★北昤吉
1885-1961。大正から昭和期の哲学者・政治家。明治十八年、両津湊に生まれる。酒造業慶太郎の二男。号は鴨湖。佐渡中学校から早稲田大学哲学科卒。大正七年アメリカ、大正九年ドイツに留学し同十一年帰国。その時のことを書いた『哲学行脚』がある。また『近世哲学史』『哲学より政治へ』、『哲学概論』等、多くの著書あり。昭和三年、思想雑誌「祖国」を発刊、昭和二十三年まで継続。この間、多摩美術学校を創設。政治方面では、昭和十一年、新潟県一区から衆議院議員に当選、晩年まで連続八回当選、自由民主党で活躍。昭和期にも多くの著書。『昭和維新』『戦争の哲学』『現代の危機』などがある。
★長谷川清(楽天・世民・淑夫)
1871-1941。新聞記者・評論家。のち淑夫と改名、楽天・世民と号す。相川町濁川生。父は代々の佐渡奉行所後藤座役人、鈴木重嶺奉行とも親交があり、歌道を能くした。清は新潟学校中学部・東京専門学校を経て、帝国大学法科大学政治学科入学。同三十一年から三年間、創立間もない佐渡中学校に英語の教員として奉職。この間「佐渡新聞」社友として政治・経済・法律・教育・婦人等社会問題全般について執筆、傍ら、柄沢寛・上月喬・山田殻城らと、和歌革新運動に加わり、短歌に関する評論や作品も発表、歌人としても活躍。明治三十四年、佐渡中学校を辞任し上京、政党誌「王道」の編集に携わり、翌年、犬養毅の意を受けて函館に移住し「北海新聞」を興す。
昭和七年東京杉並に転居、昭和十六年没。
★松本健一
1946年-2014年。評論家、思想家、作家、歴史家。麗澤大学教授、内閣官房参与などを歴任。『若き北一輝 恋と詩歌と革命と』現代評論社 1971年(25歳の時)群馬県生まれ。熊谷高等学校、東大経済学部を卒業、法政大学大学院で近代日本文学を専攻。1971年、評伝『若き北一輝』で注目される。在野の評論家、歴史家として執筆。菅内閣の内閣官房長官仙谷由人とは大学時代からの友人。
★丹波 哲郎
1922-2006。俳優・心霊研究家。俳優活動は50年以上で出演した映画は外国映画10本を含んだ300本以上。霊界の研究もし、『丹波哲郎の大霊界』はベストセラーとなる。北昤吉旧邸に住んだ。北一輝の「霊告日記」と不思議な符合。
★大蔵敏彦
北一輝の従妹の子。清水市の共産党系弁護士で島田えん罪事件を担当。死刑宣告を受けた冤罪を晴らし無罪判決を。無類の麻雀好きで丹波邸の常連であった。
★長谷川海太郎(谷譲次・牧逸馬・林不忘)(はせがわかいたろう)
【生没】一九○○ー三五 小説家。相川町濁川の長谷川清の長男。明治三十三年一月十七日、母由起子の父で漢学者でもあった羽茂町の葛西周禎が、医者を開業していた赤泊村徳和で生まれた。海太郎の名前について、父の清は、「日本海の海波渺々たる中に生を享けたと云う意味を托して海太郎と名付けた。そして“たをたをと波ただよへる只中に生れし男の子名は海太郎”という歌をよんだ」(我が子牧逸馬を語る)。明治三十五年(一九○二)両親にともなわれて函館に移った。函館中学卒業直前の大正六年(一九一七)、ストライキの首謀者となって、落第処分を受けて退学、翌年単身渡米し、苦学してオハイオ州オベリン大学等に通った。大正十三年帰国、滞米の経験に基くメリケン・ジャップものを、谷譲次の名で執筆。その後牧逸馬の名で、ミステリーや家庭恋愛もの、併行して「丹下左膳」などの時代小説を、林不忘の名で書いた。さらに戯曲・ラジオ小説・翻訳と手を広げ、応接室にはいつも原稿待ちの編集者が四、五人詰めていたというほど、超人的な活躍をしたが、その無理がたたったのか、鎌倉雪の下に新築した「からかね御殿」で急死した。昭和十年六月二十九日、三六歳であった。墓地は鎌倉妙本寺、戒名は慧昭院不忘日海居士。
★『丹下左膳』
林不忘の新聞連載小説、これを原作とする映画の題名、およびその作品内の主人公である架空の剣士。1927年(昭和2年)から新聞連載小説『新版大岡政談・鈴川源十郎の巻』の登場人物であった、隻眼隻手のニヒルな造型の左膳が人気となり、各社による映画化作品もヒットして、大衆文学、時代劇の代表的なヒーローとなった。
★大菩薩峠
中里介山作の長編時代小説。1913年~1941年に都新聞・毎日新聞・読売新聞などに連載された41巻にのぼる未完の一大巨編。
幕末が舞台で、虚無にとりつかれた剣士・机竜之助を主人公とし、甲州大菩薩峠に始まる彼の旅の遍歴と周囲の人々の様々な生き様を描く。連載は約30年にわたり、話は幕末から明治に入らずに架空の世界へと迷い込み、作者の死とともに未完に終わった。作者は「大乗小説」と呼び、仏教思想に基づいて人間の業を描こうとした。世界最長を目指して執筆された時代小説で、大衆小説の先駆けとされる不朽の傑作である。(ちなみに、現在の世界最長小説はヘンリー・ダーガー作の『非現実の王国で』で、最長時代小説は山岡荘八作の『徳川家康』である)
h290922 「両津港の150年」 (後編)


















★村雨の松
・樹齢250年以上古くは「宝暦の松」「御番所の松」「御旅所の松」「時雨の松」などと呼ばれた。
・クロマツ、樹高約19m、四方27m。夷御番所時代(宝暦期)に船の目標として植えられた。
・植樹したのは御番所役人の西川恒山で宝暦4年(1754)と記録に残る。
・明治32年当地を訪れた尾崎紅葉によって「村雨の松」と命名。
「松になりたや御番所の松に枯れて落ちても双葉連れ」(両津甚句)
★両津欄干橋
・高田慎蔵:明治の日本三大貿易商(益田孝の三井物産・大倉喜八郎の大倉組)。
この御番所で通弁見習いとして英語力をつけ、それが世界に雄飛するきっかけとなる。
彼の孫にピエール・カルダンのパートナー高田美(よし)、曽孫に女優の高田万由子が居る。
・吉田松陰:嘉永5年(1852 22歳)小木着、12日間在島し湊泊。「東北遊日記」。29歳没。
・ドロワール・ド・レゼー神父。明治10年来島、3年在。後年、日本現存最古の御殿場ハンセン氏病療養所、神山復生
(こうやまふくせい)病院5代目院長として尽力。
・尾崎紅葉:明治32年来島し、安藤宮司宅泊、「村雨の松」命名。
・太宰治:昭和15年来島、「佐渡」。満州かと間違い、魚くさい町と。
・川路聖謨(としあきら):天保11年佐渡奉行、「島根のすさみ」魚くさい町、佐渡魚(すけとう)も記される。
h290915 「両津港の150年」 (前編)












★両津港(NHK「新日本紀行」(山茶花の港-佐渡夷港-)
※山茶花港と言うのは、山茶花の咲く冬に賑わう港であった為。
・明治初年、新潟の補助港として開港(※日米修好通商条約(1858)で五港開港) 冬場、新潟港が波浪で使えない為、両津港とのセットで選ばれた。一時、敦賀港に持って行かれそうになった。
・その後、明治31年、新潟港から独立して国内7番目の開港場となる(函館・新潟・横浜・神戸・長崎+大阪・夷港)
・来年、開港150年
・軍港にすべき!と主張した人物
・幕末の山田方谷(ほうこく):文久元年 1861年「北海貿易策」で「・・海軍を備える要地は佐渡である」
・板垣退助:明治25年来島し軍港の適地として翌年県費で測量。
・明治5年の女子留学生 津田梅子・永井繁子・山川捨松・上田悌子・吉松亮子等とのかかわり。
※新潟・両津間の通訳には、津田梅子の父、上田悌子(上田敏の叔父)の父が居り、永井繁子は佐渡人(益田孝の妹)、山川捨松は佐渡でかくまわれていた山川健次郎(後東大総長)の妹である。
・新潟地震(昭和39年、新潟国体後、東京オリンピック前)の時、海底が露出した。
・姫崎灯台:日本最古の鉄製灯台、明治28年点灯。世界の灯台100選の一つ(日本で6基)、日本の灯台50選。
・日本初の鉄船:新潟丸(明治4年、夷の正覚寺裏加茂湖畔で建造された)
h290824・0907 「司馬凌海とその娘喜多文子」-語学の天才と女流棋士の母-(前・後編)













★喜多文子
1875-1950。大正~昭和初期に活躍した日本の女流棋士の草分け。日本棋院女流囲碁七段。凌海の次女。父死後、母は文子を凌海の囲碁仲間の林佐野の養女とし、長女綾子を伴い新町で生活。林家は江戸時代「棋所の四家」で幕府から扶持を得た家柄。日本棋院の前身「方円社」で囲碁を学ぶ。能楽喜多流家元喜多六平太と結婚。六段となり、後、名誉八段。日本棋院設立に貢献、女流棋士の養成に尽力。2013年、日本棋院囲碁殿堂入り。
★司馬享太郎(こうたろう)
司馬凌海の長男。ドイツ語学者・医学者。陸軍大教授、学習院大教授。
★司馬凌海
1939-1979。日本初の『独和辞典』を刊行した語学者・蘭法医。幼名は亥之助、11歳より江戸で学ぶ。友人、松本良順と共にオランダ医師ポンペに学ぶ。約3年間の長崎滞在中に、医学とオランダ語を学び、英・独・仏・中国語を習得、ロシア語・ラテン語・ギリシャ語も心得た。島倉姓を司馬と改め、諱は盈之(みつゆき)、通称が凌海。長崎滞在中に『七新薬』を書く。窒素、蛋白質、十二指腸は彼の造語。長崎から帰島、その後、医学校(東大医学部)教授となる。又私塾「春風社」開校、日本最初の独和辞典『和訳独逸辞典』を出版。明治12年、39歳で没。司馬遼太郎の長編小説『胡蝶の夢』は伊之助が副主人公。
『胡蝶の夢』(司馬遼太郎)
幕末・明治初期の近代医学の夜明けの群像を松本良願・島倉伊之助を中心に描く。真野公園に文学碑がある。
h290802 「三井物産を創った益田孝とその周辺」(後編)










★益田克徳(かつのりorこくとく)
一八五○ー一九○三 嘉永三年、佐渡奉行所の地役人益田鷹之助の次男として生まれ、幼名を荘作といった。益田孝は二歳上の兄である。安政元年(一八五四)、父が箱館奉行支配調役下役となったため、翌二年江戸に出て親戚の家に寄寓していたが、同五年父の任地函館に移った。安政六年、父が外国方支配目付役となったのに伴って再び江戸へ出て、慶応年間には海軍修業生となって、函館へ向かう榎本武揚の軍艦に乗ったが、途中難破して南部藩兵に捕えられ、江戸へ護送された。維新後は慶応義塾に学び、明治四年(一八七一)には山田顕義に随行して欧米各国を視察し、のち司法省に勤めて検事となった。明治七年、前島密のもとで初めて海上保険條例をつくり、創設された東京海上保険会社の支配人に就任、かたわら東京米穀取引所理事長、明治火災・明治生命・王子製紙・日本煉瓦・石川島造船所の重役などを歴任した。また、明治十年頃政治結社「嚶鳴社」に加わって「嚶鳴雑誌」で論陣をはり、明治十五年には大隈重信の立憲改進党結党に参加した。明治二十三年七月の第一回衆議院議員選挙では、相川町を中心とする改進党に推されて立候補したが、自由党系の鵜飼郁次郎に敗れた。明治三十六年没。
★永井繁子(瓜生繁子)
文久2年3月20日(1862年4月18日) - 昭和3年(1928年)11月3日)、教育者。繁子は佐渡奉行属役・益田孝義の四女として江戸本郷猿飴横町(現・東京都文京区本郷)に生まれる、益田孝・克徳の実妹。幕府軍医・永井久太郎の養女。夫は海軍大将の瓜生外吉男爵。1871年(明治4年)11月 - 新政府の第一回海外女子留学生として渡米、ヴァッサー大学音楽学校に入学。10年間をアメリカで過ごす。1882年(明治15年) - 海軍軍人・瓜生外吉と結婚。1886年(明治19年) - 女子高等師範学校兼東京音楽学校教員。
h290721 「三井物産を創った益田孝とその周辺」(前編)









★益田孝
一八四八ー一九三八 嘉永元年十月十七日、相川に生まれた。孝は佐渡奉行所役人・鷹之助の長男で、父が箱(凾)館に転勤した七歳まで相川で育った。箱館では、役所付通弁(通訳)から英語の手ほどきをうけ、二年後に江戸に出てアメリカ公使ハリスの家に雇われ、同家の通訳から本格的な英語を学んだ。こうして英語を身につけたことが、後に益田の生涯に大きな役割を果す力となる。まず一五歳で父の随員として渡欧したとき、英国軍隊に入りさらに語学の力を増した。帰国後、はじめは自ら外国相手の輸出業を営み、二年後に外国商館に勤めた。その頃、大蔵大輔井上馨と出会い大蔵省役人となったが、翌年井上の退官で益田も転出して、先収会社の事実上社長となり、三井組と吸収合併した。やがて、二八歳で三井物産社を起し社長となる。この年、英字新聞を自ら翻訳して記事とした中外物価新報(日本経済新聞の前身)を創刊。その後三池炭鉱を吸収、台湾製糖を設立。五九歳のとき四回目の渡欧のあと、益田の報告書に基いて三井コンツエルン(財閥)を形成。これらの功績により男爵を授けられた。益田は渋沢栄一・岩崎弥太郎などと共に、日本資本主義成立期の中心的存在のひとりであった。文化的にも、茶道や古美術蒐集などで著名である。平成十三年(二○○一)八月二十九日、生誕の地弥十郎町に、益田翁の記念碑が建立された。
h290714 「佐渡をルーツとする三浦綾子」(後半)













「ダン渡辺の佐渡四方山話」(「三浦綾子」後半)
北海道と佐渡、特に三浦綾子の祖父母が佐渡より渡道した苫前から始めました。
祖父母を描いた小説では「苫幌」と出てきます。
実は苫前からの分村が羽幌です。
この両者を合わせて苫幌と架空の地名を作ったのです。
事実を踏まえながらも創作部分も多いため関係者に配慮してこの地名を作ったそうです。
苫前には最近まで神社の祭礼に鬼太鼓が踊られていました。
佐渡から用具一式を求め、指導者を得て苫前の祭礼に舞われました。
苫前で力のあった佐渡衆の尽力です。
鬼太鼓の画像の後に「斎数商店」の看板が見えますね。
真野竹田出身で財を成した方です。
次いで、病に伏した三浦綾子の精神的な支えであったキリスト教について。
彼女の師は札幌協会の小野村林蔵。
日本を代表するキリスト者です。
小野村は何と牧師になって最初の赴任地が佐渡佐和田で、奥さんは畑野の方です。
佐和田出身で日本初の女性牧師高橋久野が彼を推薦したようです。
何と不思議な縁でしょうね。
最後に三浦綾子の愛唱歌。
「海は荒海向こうは佐渡よ・・」の「砂山」です。
希望しながらついに果たせなかった佐渡行き。
どんな思いでこの歌を歌ったんでしょうねえ。
★小野村林蔵
高名なキリスト者、受洗した三浦綾子の精神的支柱であった。
明治42年、伝道師としての初任地は佐渡河原田。日本初の女性牧師である高橋久野の故郷である。
妻となる渡辺ぜんは畑野町寺田の漢方医渡部道一の養女。
佐渡での伝道は『豊平物語』に詳しく描かれ、若き佐々木象堂も登場する。
★高橋久野(1871-1945年)
河原田の酒造業高橋家に生まれる。兄の元吉は県会議員をつとめる政治家。
日本での婦人牧師の第一号であった。文学に詳しく「佐渡の紫式部」と言われた。
郷里佐渡の伝道にも貢献し、有能な牧師の派遣などに尽力。
戦時中は昭和16年まで佐渡教会(河原田)に居た。
★三浦綾子(1922年4月25日-1999年10月12日)
著名な小説家で、祖父母が真野金丸出身。旧姓堀田。
祖父母は北海道苫前で雑貨屋を経営する。
綾子は結核の闘病中に洗礼を受けた後、創作に専念。
作品には『氷点』『ひつじが丘』『積木の箱』『塩狩峠』『道ありき』等がある。
また、佐渡から始まる祖父母の波乱万丈の人生を描いた小説に『嵐吹く時も』がある。
故郷である北海道旭川市に三浦綾子記念文学館がある。
h290707 「佐渡をルーツとする三浦綾子」(前半)








今までは隔週でしたが、今週より毎週となりました。
今回はルーツが真野金丸である三浦綾子(前編)について話しました。
★三浦綾子(1922-1999年)
著名な小説家で、祖父母が真野金丸出身。旧姓堀田。
祖父母は北海道苫前で雑貨屋を経営する。
綾子は結核の闘病中に洗礼を受けた後、創作に専念。
作品には『氷点』『ひつじが丘』『積木の箱』『塩狩峠』『道ありき』等がある。
また、佐渡から始まる祖父母の波乱万丈の人生を描いた小説に『嵐吹く時も』がある。
故郷である北海道旭川市に三浦綾子記念文学館がある。
苫前町は佐渡衆が重きをなし、長嶋(小倉 石川家 大富豪)・斎数(竹田 実業家)・志和(真野 実業家)・猪股(畑野 苫前町教育長)・計良(畑野)・名畑(二宮 苫前町町長)さん等が活躍した。
h290623 「佐渡とマンガ」
















★『こちら葛飾区亀有公園前派出所』両津勘吉
作者の秋本治氏が入院中、元気づけてくれた看護婦さんの出身地両津より。看護婦さんの苗字は中川で、中川巡査はそこから来ている。漫画には「佐度ヶ島酒店」「島流し署」も登場。一シリーズ200巻は世界一としてギネスに、総販売数1億5000部以上。
★渡辺みちお
昭和29年生れ、実家は相川後尾の民宿「六郎」。『まるごし刑事』、『白竜』など多数。
小学3年生の頃に絵画コンクールで賞を貰った事をきっかけに絵を描く。離島で近くに本屋がなく、通信販売で『冒険王』や『少年』などを取り寄せ。小学校高学年の頃から友人と共に漫画を描き、中学生の頃に石ノ森章太郎の『マンガ家入門』が発売されると、渡辺はそれを教科書にして本格的な漫画の描き方を覚える。
高校時代に投稿するも落選、実力不足と判断し漫画家の道は諦めていた。当時の恩師、新聞販売店の所長に「本当は漫画家になりたい」と告げると、彼の知人であったかざま鋭二を紹介される。その後、かざまに「来年から毎日来い」と言われ、かざまプロに4年間通う。知り合いになった編集者との縁で、24歳で『コミックマガジン』に作品を隔週連載。現在、『週刊漫画ゴラク』(日本文芸社)で『白竜』の続編『白竜LEGEND』を連載中で、同誌の看板作品となっている。
★ノブヨシ侍
昭和56年、新町生れ。本名は鯨岡伸禎。10年ほど漫画家の手伝いをし、平成26年、新人発掘投票企画・登龍門で第1位。『とりきっさ!』連載。
(本人プロフィール)
・漫画 20歳からはじめる。・夢、高い塀のある城のような屋敷で犬・猫と暮らす。大金持ちになったら家建ててやる!好きなもの 動物全般 犬・ネコは大好き。
★魔夜峰央(まやみねお)
両親が赤泊出身。父は小山、母は本間(延命院)。昭和54年から連載した『パタリロ!』でブレーク、現在も連載中。舞台のマリネラ王国の形は佐渡ヶ島。
※「週刊文春」(家の履歴書 h28年10月)
「山の中腹の裕福なお姫様とその麓の貧乏檀家の息子が幼馴染の縁で結婚」「父は確か商社勤務で新潟市役所裏の社宅で住む」
・1978年、『パタリロ!』の連載開始。・1980年頃、バレエダンサーの山田芳実と出会い、後に結婚。・2008年時点で開始から30年を越えた『パタリロ!』は、その後も連載を継続中。『パタリロ!』シリーズは外伝も含めれば100冊を越え、少女漫画界では随一の長編作品である。・2015年、1986年出版の短編集に収録されていた『翔んで埼玉』がネットで話題となり、約30年ぶりに復刻出版され、2015年時点でamazonの本の売れ筋ランキングで1位となった。
★赤坂アカ
昭和63年、新穂生れ。大野保育所に通い、その後横浜在。現在も夏冬一月ほど帰省している。漫画作品執筆の他、イラストレーション、キャラクターデザインなどの多岐に活躍。
★つるま里子
赤泊腰細出身、昭和32年生れ。本名は鶴間里子。
★堂上まさ志(どのうえまさし)
佐渡市出身、昭和22年生れ。本名は小杉義昭。『プレイコミック』連載の代表作『銀玉マサやん』は単行本22巻に及ぶ長期連載となる。
★近藤佳文
佐渡市出身。2000年、『ヤングチャンピオン』で「鉄筋安坊」でデビュー。翌年から金城一紀 原作の「GO」を連載。
h29069 「佐渡の苗字について」












[こんなことを話しました。]
・ニューヨークタイムズのクレイグさんから英文で長文メールを頂く。
自分の妻のルーツである佐渡島の「嵐城」について聞きたい。
お墓には「嵐鬼」ともある。
私の、やり取りには日本人を仲に入れて欲しいとの要望をうけ、彼の妻の母江崎眞佐子さんからメールを頂く。
即ち、クレイグさんの妻の父はノーベル賞受賞者の江崎玲於奈さん、母は佐渡の真野新町「菊波酒造」の旧姓「嵐城」さんであった。
・「嵐鬼について」
・荒木・荒貴・嵐城・嵐鬼
大荒木直(7世紀の国造:くにのみやっこ おおあらきのあたい)
➡荒貴神社(泉地区)
・畑野には、渡辺・渡部(わたなべ)があるが「畑野町史」によると明治時代は全て「渡辺」であった。
即ち苗字と言うものは、昔は当主の判断で漢字の変更がかなりあったようだ。
荒木・荒貴・嵐城・嵐鬼もその流れではないのか。
・佐渡の難読苗字の紹介
h290526 「尾崎紅葉とお糸さん」




























『尾崎紅葉とお糸さん』ー両津・相川・小木・羽茂ー
「尾崎紅葉」
1868 年(慶応3)-1903 年(明治36年)。「金色夜叉」等で知られる作家で、明治32年7月8日来島。佐渡に29日間滞在した。「煙霞療養」「佐渡ぶり」「日記」等に当時の佐渡についての貴重な記述が満載。小木の芸妓お糸さんを詠った「来いちゃ来いちゃで二度だまされた又も来いちゃでだます気か」は「佐渡おけさ」の歌詞として知られる。紅葉によって佐渡が広く紹介され、次々と文人墨客が来島する。
「お糸さん」
明治8年生-昭和17年9月16日没。小木「ごんざや」で明治の文豪尾崎紅葉と浮名を流した。
紅葉は彼女との別れ際に「汗なんどふいてもろうて別れけり」と詠む。妙宣寺住職の妻となり、晩年は小木権座屋近くの質商と再縁し町の婦人会幹部などとして活躍。
・慶応3年生、明治維新前年。32歳来島、36歳没。
・「金色夜叉」執筆中に神経衰弱。転勤で新潟に住む叔母を訪ねる前に赤倉泊、そこから見た佐渡に感激し佐渡行を決める。
・50トンの度津丸で6時間。
・肥料にするイカの腸の悪臭に辟易。
・御番所の松(宝暦の松・時雨の松)の命名を頼まれ、佐渡は謡曲の盛んな土地なので、謡曲「松風」に因み「村雨の松」とする。
・7月8,9日両津夷滞在(宮司安藤幸彦宅)。
・暑さとネブトのため、河原田「江戸屋」泊。
・相川着、高田屋泊。翌日12日鉱山見学で「煙霞療養」は終了。
同年代の友人、江見水陰が来島し「続煙霞療養」を著す。
・相川には11日~19日まで滞在。
・沢根港からイカ釣り船で堂釜集落に着く。
・小木には19日から29日の10日間滞在。
宿は「かどや」(現、北村薬局)にとるが、「貸座敷 ごんざや」(後、旅館)に入り浸り、お抱え芸者「お糸」さんとロマンス。
・お糸さんは美人ではないが文学好きなハイカラ芸者(民法芸者)。
・「こいちゃこいちゃと二度だまされた またもこいちゃでだなすのか」と三味線に書いて渡した。
この歌は佐渡に古くから伝わると山本修之助先生は書くが出典は不明。
これは本命の美人芸者(河原田 中山呉服店に嫁ぐ予定)が来ない代わりにお糸が来たので頭にきて書いたと言われる。
・小木滞在中に羽茂川のアユ漁に行き川番の老人二人に殴られようとした。
・29日別れの日。羽茂村山の茶店「三階屋」まで見送りを受ける。
小木小学校長風間儀太郎が扇子を出し「先生一句なかるべからず」、「汗なんどふいてもろうて別れけり」。
h290512 「太宰治と『佐渡』」













1.太宰治
1909-1948 小説家。明治42年6月19日生。井伏鱒二に師事。左翼活動での挫折のあと「海豹」等に作品を発表,昭和10年「逆行」が芥川賞候補。戦後は無頼派とよばれ、「斜陽」「人間失格」などで流行作家となる。昭和23年、日玉川上水で入水自殺した。40歳。青森県出身。本名は津島修治。作品はほかに「走れメロス」「人間失格」など。
佐渡を訪れたのは昭和15年11月17日、翌年1月号の「公論」に紀行文「佐渡」を発表した。
2.『佐渡』(太宰治)より 新潟~両津へ
おけさ丸。総噸トン数、四百八十八噸。賃銀、一等、三円五十銭。二等、二円五十銭。三等、一円五十銭。新潟出帆、午後二時。佐渡夷さどえびす着、午後四時四十五分の予定。
乗客数:約400人
最大定員:1,500人 大型バス28台・乗用車8台(or乗用車168台)
総トン数: 5,380トン 最大速力:19.1ノット 全長:125m 最大幅:21.8m
佐渡は、淋さびしいところだと聞いている。死ぬほど淋しいところだと聞いている。
私には天国よりも、地獄のほうが気にかかる。・・・謂わば死に神の手招きに吸い寄せられるように、私は何の理由もなく、佐渡にひかれた。
3.船中
はるか前方に、幽かすかに蒼あおく、大陸の影が見える。私は、いやなものを見たような気がした。・・・けれども大陸の影は、たしかに水平線上に薄蒼く見えるのだ。満洲ではないかと思った。
私は、うんざりした。あの大陸が佐渡なのだ。大きすぎる。
4.両津夷の夜 ※「福田旅館」➡正式名「本間旅館」(現在「太陽堂」)
、「よしつね」➡正式名「弁慶」
私は番頭の持っている提燈ちょうちんを指さした。福田旅館と書かれてある。
やっと見つけた。軒燈には、「よしつね」と書かれてある。・・・私は、ただ、佐渡の人情を調べたいのである。そこへはいった。「お酒を、飲みに来たのです。」私は少し優しい声になっていた。この料亭の悪口は言うまい。はいった奴が、ばかなのである。佐渡の旅愁は、そこに無かった。
5.相川 ※「浜野屋」➡正式名「高田屋」(後に「佐州ホテル」→「おーやり館」)
相川行のバスに乗った。バスの乗客は、ほとんど此の土地の者ばかりであった。皮膚病の人が多かった。漁村には、どうしてだか、皮膚病が多いようである。
ここでは浜野屋という宿屋が、上等だと新潟の生徒から聞いて来た。
私は、三階の部屋に通された。障子をあけると、日本海が見える。少し水が濁っていた。
h290428 「佐渡の三つの文化」

















「三つの佐渡」について
佐渡出身の高名な文芸評論家青野季吉の『佐渡』には佐渡は三つの文化を持つと書かれる。
「相川の武家文化・国仲の貴族文化・小木の町人文化」である。
いつしか青野季吉の説のようになっているが実は違う。
この説は青野の親友である塚原徹が語った言葉なのだ。
★青野季吉
1890-1961 文芸評論家、芸術院会員。沢根の廻船問屋兼酒造業の「青野屋」に生まれた。この年佐渡には大きな米騒動があり、青野屋は大阪通いの持船「万徳丸」は焼かれ、家も打ちこわし。旧制佐渡中学の先輩に北一輝がいて、社会主義思想に目をひらかされる。早大英文科を卒業後、読売新聞の記者になり、のち雑誌「無産階級」を発行し、堺利彦・山川均らとこのころ接触。昭和初期のプロレタリア文学運動の理論的指導者となり、戦後に日本文芸家協会の会長、日本芸術院会員となる。沢根の勵風館の傍らに「青野季吉ペンの碑」が建立され、碑文は「少年の日 わたしは この美しい入江の岸辺にぼんやり立っていた 何を待つともなしに」。
★塚原徹
1889-1947 小木町幸町生まれ。家業は信濃屋という味噌・醤油の醸造業。早稲田大哲学科に学んだあと家業をついだ。町会議員、町長となり、太平洋戦争末期の困難な時代に城山公園の造成、矢島経島の名所旧跡の紹介などに尽力。日刊紙「新佐渡」の刊行に参加、天南星の号で文人として活躍。青野季吉とは佐渡中学以来の親友であった。
h290414 『君の名は』






















『君の名は』
昭和27年-29年、脚本家・菊田一夫の代表作でNHKラジオで放送、映画化(28年公開)、テレビドラマ化、舞台化された。、真知子と春樹との恋愛ドラマで「番組が始まると銭湯の女湯から人が消えた」。真知子のストールの巻き方は「真知子巻き」と呼ばれ流行。半年ごとの数寄屋橋での待ち合わせで真知子と春樹が再会しそうになるが、すれ違う。相川尖閣湾吊り橋での再会は有名なシーン。
原作:菊田一夫 音楽:古関裕而 歌:織井茂子
主演:佐田啓二 岸恵子 淡島千景 月丘夢路 淡路恵子 笠智衆 望月優子 北原三枝 野添ひとみ
主題歌:「君の名は」(織井茂子歌)「黒百合の歌」(〃)「忘れ得ぬ人」(伊藤久男歌)他
※全三部作で観客動員3000万人。
1部(佐渡・志摩) 2部(北海道) 3部(長崎島原雲仙)
1.NHKラジオ(昭和27年)ラジオ復刻版(平成12年)
2.テレビでは4度ドラマ化(NHK連続テレビ小説 鈴木京香・倉田てつを等)
「仲野金雄」
新穂出身、明治34年~昭和59年没(83歳)。佐渡中学-早稲田を出て帝国劇場入社、その後松竹重役となり浅草国際劇場社長も務めた。帝国劇場文芸部に籍を置いたこともある菊田一夫と昵懇で、戦後菊田は仲野のつてで「君の名は」取材に来島し、仲野氏に依頼された新穂関係者が菊田を佐渡案内。佐渡を舞台にした「君の名は」生みの親とも言える人物。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・最初半年間、菊田が「人々の戦争体験を主題に」シリアスタッチ、あまり人気はなかった。真知子と春樹との恋愛ドラマ、はじめて人気番組となった]。「番組が始まる時間になると、銭湯の女湯から人が消える」
・第一部の冒頭、佐渡で渡る船上でも真知子は「真知子巻き」に類したストールの巻き方をしている。
・真知子と春樹が再会しそうになる(半年ごとの数寄屋橋での待ち合わせなど)が、不都合が起きてなかなか会うことができない。この「会えそうで会えない」すれ違いが何度も繰り返された。これは後の恋愛ドラマでもよく見られる演出。
・第二次大戦、東京大空襲の夜。焼夷弾の中、一緒になった見知らぬ男女、氏家真知子と後宮春樹は助け合って戦火の中を逃げ、命からがら銀座の数寄屋橋にたどり着く。二人はお互いの無事を確認する。
お互いに生きていたら、半年後の11月24日、それがだめならまた半年後に、この橋で会おうと約束し、名も知らぬまま別れた。
2人は戦後の渦に巻き込まれ、お互いに数寄屋橋で相手を待つも再会が叶わず、1年半後の3度目にやっと会えた時は真知子は、既に明日嫁に行くという身であった。しかし、夫との生活に悩む真知子、そんな彼女を気にかける春樹、2人をめぐるさまざまな人々の間で、運命はさらなる展開を迎える。
h290403 「温泉問題(中川直美市議と語る)」(2)












h290331 「温泉問題(中川直美市議と語る)」 (1)






















h290317 「佐渡の民謡」



















「佐渡三大民謡」
「佐渡おけさ」
九州で流行したハイヤ節が、北前船などの船頭衆によって、越後の出雲崎や寺泊、佐渡の赤泊や小木港に上陸し、変化しておけさ節になったと言われる。民謡団体・立浪会の曽我眞一が小木で採録し、会員の名民謡歌手・村田文三に工夫させた「文三おけさ」も知られ、テンポの速い「選鉱場おけさ」もある。現在の十六足踊りは、小木芸者が座敷踊りとして振りつけしたもの。「佐渡おけさ」名称は、大正十年東京で開催された、第二回全国民謡大会の際、中川雀子が選名したもの。
「相川音頭」
踊りに用いる歌謡を、一般に音頭と呼ぶ。相川音頭はもともと盆踊りの歌謡として生まれた。内容を大きく分けると、[1]「謡曲百番くづし」や「源平軍談」のような、古典趣味的なもの[2]お上の掟(倹約令)や地震・地名など、時事に托したものや、「鼠口説」「徳利口説」といった滑稽なもの[3]現実にこの島で起った男女の相対死(あいたいじに)を扱った「兵十郎・花世心中妹背の虫づくし」「おさん・仙次郎心中濃茶染」などの、艶ものなどである。
「両津甚句」
両津市に伝わる盆踊り唄。両津甚句の呼称は、今の両津欄干橋を境に夷と湊の両集落が、明治三十四年に合併し、両津と改称して以来のこと。明治三十二年、佐渡に来遊した尾崎紅葉は「夷甚句、小木追分、相川音頭なんどと並び称せられ」と記す。現在の両津甚句は、大正初期「両津甚句会」が結成され、夷と湊の、やや節回しの違う二つの甚句を整理し、今日の節回しに作り替えたもの。この陽旋風の独特な節回しは、歌うにむずかしく、やや大衆性に欠けると評されている。
「佐渡民謡を全国に紹介した人」
1.曽我真一
相川の人、明治26年ー平成4年。東京音楽学校で学ぶ。大正13年、叔父の風岡藤作らと民謡団体「立浪会」を創立。日本民謡功労賞受賞、村田文三などに次いで4人目の相川名誉町民になる。
2.松本丈一
畑野小倉の人、明治34年ー昭和45年。島内は勿論、東京で10か所程の民謡教室で指導。日本民謡功労賞受賞。松本丈一師民謡碑が小倉に建つ。
3.村田文三
相川の人、明治15年ー昭和31年。日本民謡大会で優勝。昭和28年「佐渡おけさ」を広めた功績で相川町の名誉町民に選ばれ、日本民謡協会から「技能賞」を受賞。
4.菊地歌楽
相川小川出身の民謡歌手。
5.松村直吉
相川の人、相川音頭の名人。
「佐渡民謡を記した人」
6.羽田清次
新穂長畝の人、『佐渡歌謡集』著者。
7.中川雀子
両津夷の人、民謡著書多数。
8、山本修之助
真野の人、『佐渡の民謡』『相川音頭集成』他著書多数。
h290303 「中川健藏・中川融親子」



















h290217 『溟北先生時代日記』を読む
















永田俊一(ながたしゅんいち)
父は相川の永田馨、祖父は永田俊三郎、
曽祖父は・永田武兵衛
円山溟北の学古塾(修教館は役人や医者の子弟、学古塾は商家や農家の子弟)の初弟子の一人)。諸雑貨や用度品を鉱山に納める家業。壮年で没。
昭和19(1944)年、新潟県佐渡生まれ、高校教師であった父が新しいビジネスを興すため上京。小学校頃まで父の実家(近藤家 佐和田)に住み東京へ移住。
昭和42(1967)年、戸山高校―東京大学卒業後、大蔵省入省。主計局主計官、銀行課長、官房審議官、日本銀行政策委員会大蔵省代表委員などを歴任
平成9~10(1997~1998)年、社団法人信託協会専務理事
平成10~14(1998~2002)年、日本銀行理事
平成15~16(2003~2004)年、信託協会副会長・専務理事
平成16~22(2004~2010)年、預金保険機構理事長
平成24~(2012~)年、楽天銀行社長、会長(現在、楽天銀行・証券・保険各取締役)
既刊書に
『信託のすすめ なぜ今、そしてこれから信託なのか』『信託改革金融ビジネスはこう変わる』筆名永畑俊三で透明な墓標 信託の精神を理解するために』『遺志ありて 信託の本懐』2012年、文芸杜刊)などがある。
2.主人公 円山溟北
1818-1892、明治前期の佐渡の教育者。文政元年、両津夷小池長佐の長男として出征、後、夷の儒家丸山遜卿の養子に。18歳の時、江戸で出て亀田綾瀬の門に入り、塾頭になって大名や旗本屋敷で代講。帰島し、修教館教授、学古塾も再興し、一方医業に従事。相川町に永住した。74歳で死去。佐渡選出の国会議員は初代鵜飼郁次郎から七代まで全員が円山溟北の教え子。東大教授萩野由之、農林大臣山本悌二郎等を輩出。
3.登場する語句
★修教館:役人や医者の子弟の教育機関。
★学古塾:分が低い為、修教館に入れない商家や農家の子弟の教育機関。
h290202 「大相撲(魁渡・大錦)」









h290120 「臨時議会(温泉問題)」





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