2017-04-24
★飲食店
(山田)郵便局の前に「上九(かみく)」があった。昭和29年に両津郵便局が今の所に移ったんですがその後です。郵便局が出来てすぐじゃなかったからいつ頃かなあ。観光客が来るようになり新潟交通のあの辺が賑やかになってから出来たんでしょうね。名前の上九が九兵衛さん関係はわかっていましたが、上町九兵衛がピンときませんでした。
(渡辺)私が知ってる時代に出来てそんなに長くは営業してなかった気がします。10年はやってなかったかなあ。私は昭和22年生まれですが、小学校時代はすでに郵便局はありましたが上九はなかったです。私が高学年、即ち昭和34年頃かなあ。そして、上九ってのはどこに出てたかなあ、元々岩原九平さんは肉屋でなく書画骨董、例えば額縁とか絵具とか表装関係とか、他には観光土産とかを扱う店だったようです。大正昭和の始め頃の主人の方が民謡関係にも熱心な方だったそうで、今思えば民謡関係の資料のどこかに出てました。したがって郵便局前の上九さんは創業時代の上九と言う店名を、その後の肉を中心とした食堂の支店に使ったってことですね。
岩原さんは奥さんが跡継ぎですから、旦那さんは吉田タイヤさんから来た方ですかね。両津役場に勤めていたそうですが。タイヤの吉田博さんの兄ですかね。顔も似てると言えば似てるような。
(山田)九平さんのお父さんは詳しいことは知りませんが、神明町の小池さんから出た人と聞いたことがありますが。丸五さん(川越)の隣の小池さんです。そこの弟と聞いたことがあるんです。
上九さんのお店はそう長くはなくて、バブルが弾けた頃と言うか、観光が下火になったころ閉店したのかなあ。
(渡辺)小池さんは、私の両津高校の一年後輩で早稲田出て第四銀行に入った吉井の粕谷二三朝(ふみとも)?君が婿さんじゃなかったかな。隣の川越君の同じ年で昭和23年生まれです。
次の店と言うと、美吉屋(みよしや)?ですかね。
この店は私の遠縁で、親父さんがでっぷりした色白の人で吉之助と言う名前だったような。名前の吉が店の名に入ったと言うか。奥さんはきれいな人でした、子供さんが私のちょっと下に居て。
私の時は二階が中心の店でした。一階はあっても狭いスペースで、店ではあったかもしれません。あまり記憶にないですね。
(山田)店の名はどうかな、平仮名かなあ。親父の名字は小出です。二階もやってたか知らんけど、中心は一階でした。子供の頃、七夕なんかの時あそこへ入って飯食ったものです。
今の渡辺洋服屋さんのビルは火事になった後で、元々は角がみよしやさんで隣には税理士さんみたいな人が居ました。そして一般の人に簿記などを教えていました。正札屋さんに私の同級生がいるんですが、彼と一緒に、中学だったか高校だったか、何回か習いに行きました。渡辺洋服屋さんは火事後に来て、みよしやさんを買ってビルにしたのかな。みよしやさんは新潟に店を移したし。
私達が子供の頃、七夕かなんかで子供達が昼食をとる時には美吉屋さんの一階でしたね。
(渡辺)思い出しました、みよしやさんの親父さんは小出吉之助です。この吉を使って 美吉屋にしたのかな。私の知ってる時代は、税理士さんは居なくて、美吉屋さんの隣が渡辺洋服さんでした。すると、渡辺さんがどこかから来てそこに店を出す前には税理士さんが居たということですね。
すると美吉屋さんが角地にあり、自分の所から出火したので美吉屋さんは新潟に行き、その場所も含めて渡辺さんのビルになったんですかね。
渡辺さんのお嬢さんは一年先輩の渡辺洋子さんで、美人で頭のいい人でしたから良く覚えています。
渡辺洋服屋さんと言うと、社長さんは渡辺頼一さんでとてつもなく頭のいい人でしたねえ。
元は教員だったそうで、満蒙開拓団の佐渡村にあった学校の先生だったとか。
奥さんも教員だったと聞いています、でっぷりした頭のよさそうな方でした。
確か新穂潟上辺りの人で、その家に後に代議士となる小沢辰男さんの姉が嫁いでいると言ってました。
頼一さんはアイワ会や両津クレジット、両津商店会関係で大変お世話になりましたが、一度旅行で田中角栄さんの西山町の実家を訪ねた時にそこに居た人に「小沢辰男の(義理)の兄です」と名乗ってました。
まあそうも言えるんでしょうか。
ともかく、渡辺頼一さんは飛び抜けた実力を持ったリーダーでした。酒が強くて豪放磊落で口角泡を吹かせて議論するタイプでした。
必ず、相手の言うことをしっかり聞いて「確かにそうです」「素晴らしい意見です」などと相手を先ず誉めてからしっかり自分の意見を主張するタイプでした。
たくさんのことを学ばせていただきました。
斎藤甲子郎さんの市議選市長選の時などは地元長老として隠然たる実力を持っていました。
(渡辺)次に福来軒はどうですか。平成29年の今は昨年開店した「岩蔵蕎麦」(相川藤田さん経営)さんになってますが、それまでは長い間しな蕎麦と言うかラーメン屋の福来軒として有名でしたが。
(山田)その店は前はそこでなく新明町の今の市山さん辺りだった気がするなあ。福来軒は最後までいた女性は私のちょっと下の年齢ですが、そのお母さんが最初やってたと思う。その反対側辺りをちょっと下った辺りに喫茶店があったなあ。
(渡辺)その経営者は私らのちょっとし下で「ピノキオ」とか言う店をどこか海岸通りの坂床屋さん辺りで開店し繁盛しました。その後当時、佐渡の草分けみたいな形でビデオショップを福浦の相川に向かって左側の辺りで開店しはやってましたねえ。それが下火になってから、また喫茶店を始めたのかな、福来軒のはす向かいに。二階の小さなお店でした。
経営者は細身で長髪で無表情で、ちょっと当時人気のあった荒木一郎タイプでした。
次に行くと東京庵ですね。私の亡くなった親父が大正12年生まれなんですが、東京庵の金田君と同級生でものすごく優秀で京都帝大に入ったがその後どうしただろうかなあと晩年語ってました、家にも若き金田さんの写真がありますので本当に親しかったんでしょうね。そこで、私が東京庵さんの市役所に勤めている息子さんに聞いたことがあります。すると、なんとその方は19歳で病気で亡くなったとのことでした。
結核か何かだったんでしょうかね。
それで、跡継ぎが居なくなって妹さんが婿さんをもらって店を継いだんでしょうかね。
(小池)東京庵さんは今の市役所行ってる子の父は婿さんで市役所の車両部にいたけど、その上も婿さんだったかどうかは聞いたことないなあ。ただその人はともかく変わった人で人付き合いは出来ん人だった。
その妻はみんな知ってるようにそれは元気な人だった。
(渡辺)当時うちの親父は藤新さんの所に借家してたんですが、金田君の他に、家の前辺りに渡辺襄君と言うこれまた優秀な同級生が居たがどうしたものかと。
実はその後、延命寺さんだったと思うけど、法事かなんかの関係で高額寄付者の名前が出ててそこに渡辺襄さんがあったんです。偶然にもその後まもなく新潟県の英語関係の業界のトップにこの名前を見つけました。
実は興味があるのは私の母校同志社の校祖が新島襄なんで、息子に襄と言う名前を付けた親父か祖父は新島襄を敬愛してた気がするんです。英語に興味もあったでしょうし、その結果息子は英語遣いになった。
もしかしたら渡辺襄さんやその父、祖父辺りも同志社関係者だったかも知れないわけで。
(小池)和一郎さんは鈴木名字で隣が滝口呉服店です。そう言えば、和一郎さんの裏に渡辺?と言う家があって親父さんは第四銀行に勤めていたなあ。眼鏡かけてポチャッとした人だった。
その子供さんは英語の先生だった。当時英語をやれるってことでびっくりした記憶があります。
(山田)渡辺名字と言うと夷にもいろいろあるんだけど、渡辺四郎左衛門さんは安照寺檀家で桂屋さんなんかと一緒ですね、「安照寺史」に出てます。浜屋さんも渡辺ですしね。浜屋さんの娘さんは昭和18年生れ位なんですが、彼女は青森県で病院を経営してるそうです。浜屋さんが病院だったことは間違いないですが、私もその病院を見た記憶はありませんね。
(渡辺)浜屋さんは私の子供の頃は品のいいお婆ちゃんと言うかお母さんと言うか、一人で雑貨屋さんをしてましたが。元はお医者さんだったり旅館だったりしたんですよね。病院の先生は早く亡くなったんでしょうね。すると、その雑貨屋やってた上品な女の人の旦那さんが医者で早く亡くなったってことですね。浜屋と言う旅館はいろんな資料に出てきますから長く旅館業をやってたはずで、すると老舗旅館の息子さんが医者になったということでしょうね。経済的にも裕福だったでしょうし。
(山田)元に戻って東京庵ですが、元々はそば屋です。鴨湖庵の弟子だったって聞いたことがあります。
(渡辺)そうそう、話は変わりますが、夷郵便局は元々はどこにあったんでしょうね。
(山田)今の前は昔の電報電話局、即ち夷新の今の斎藤炭屋さんのとこで、大火の前は夷四の小島屋あたりです。
次は「上海亭」かな。
(小池)それは鈴木和一郎さんの夷側隣で、今は吉良さんがいる。上海亭と吉良さんは関係なくて吉良さんは加茂線のどこかから来ている。
(山田)上海亭は昔は太郎平さん裏の角を左折して右側二軒目あたりにあり夷に移った。前リヨンさんのとこで出てきた山本しょーちゃんからその店でおごってもらった記憶があるなあ。昭和25年くらいかな。何でも食えと言うんで「うま煮五目そば」ってのを注文した。
(小池)上海亭の最初の経営者は向こう系(韓国・中国系)だったと思う。顔も覚えとるけど、地元関係の誰それと言うのじゃなかった。夫婦でやってたけど、ママさんも何だか日本人と違った気がする。そして引退してからは原黒に移ったなあ、それは二代目になってからだけど。肉屋の1さん(Aさん?)と噂があったりして。それは目がクリっとした魅力的な女性だったよ、あかぬけした。しかし、創業者はチャイナ系の面長の女性だったけど、二代目はその人とは関係なかった気がする。
二代目の人は旦那さんはいなかった。
(渡辺)ラーメン屋さんで思い出したけど、石黒肉屋さんの裏に青柳さんが居て、次男は私と同年で兄は5,6年上で両津中学校で長距離走で鳴らしたと聞きますが、その方が東京でラーメン店で成功してテレビによく出ていました。
ところで、石黒さんと青柳さんはどんな関係なんですかね。
(小池)はっきりわからんけど、新潟製氷の理事長をやり石黒肉屋もやった青柳ななお(七男?)さんが奥さんを亡くしたとかで子供二人連れて石黒さんに入ったんじゃないかなあ。石黒さんも子供が二人いたし。奥さんを亡くした青柳さんと旦那さんを亡くした石黒さんが一緒に住んだというか。
青柳さんの二人はこっちで生まれたんじゃないと思う。石黒さんはこっちだったけど。子供はボーイスカートにいたんで知ってるけど。
(渡辺)青柳さんは大学出て帰郷して製氷の社長でしたよね。彼の佐渡中学時代のポン友に西谷能雄(よしお)と言う二見の人が居て、後に「未来社」と言う出版社を興すんです。今もある、手堅い有名な出版社です。だから青柳と言う苗字はひとまず佐渡にあったのは間違いないですね。考えてみれば小木の蓮華峰寺も青柳苗字ですね。
(山田)石黒名字は自分の知ってる限りは昔からあそこにあり、氷なども売ってました。
(小池)ともかく、上海亭に戻すと、初代ママは向こう系、二代ママは血がつながったない人ってことですね。苗字も聞いたことないなあ。
(渡辺)佐和田にも上海亭と言う名店がありましたが昨年閉店しました。ご夫婦ともに大学出た人でした。父の家業を継いだと聞いています。夷の上海亭と関係あるかないかはわかりませんね。向こうの名字は関口ですわ。
次にずっと上町に来ますが、九兵衛さんは元々は上九で書画骨董と言うかそんな美術品や書道用品、お土産を売ってた店ですね。勿論私が知ってる頃は完全な肉屋で、でっかい冷蔵庫だか冷凍庫だかがあって豚の皮をはいだのが何十とつり下げられていました。石田さんと言う筋骨隆々の人がそれらを運んだりしていましたね。この石田さんは河崎辺りの人で、勝原印刷の石田君の親父かなあ。九兵衛さんは両津高校だか両津中学だったかその辺に屠殺場がありましたが、それを経営する組合の中心の店だったと聞いています。
そして食堂が成功して郵便局のはす向かい辺りの上九と言う名の食堂の支店を出したわけですね。伊貝さんの隣ですかね。
(山田)三ノ町には「君の家」があったね。俺達が子供の頃じゃなくて大人になってからだなあ。私の子供の頃には君の家はありました。名字は猪羽です。この苗字はどこから来てますかね。
(小池)そうすると前の団子屋(猪羽衣料店)と親戚かなあ。元気のいいあんちゃんがおったなあ。キカン坊で相撲も強かった。松田鍛冶屋さんの年代だなあ。
(山田)その猪羽は艀(はしけ)持ちで栄えた家です。その家の先祖から新町の山本修巳先生の所に嫁いだという記録が山本家に残っているそうです。そして離縁したことまで出てるそうです。船を持っていたか艀で稼いだか。
猪羽さんの親父が数年前に店先で涼んでいたんで、何か古い記録があるか聞いたら、子供が北海道に行ってて、家のことを調べたいと全部持って行ったと言ってました。
福浦の伊勢工務店が猪羽ですね。
(渡辺)本田屋さんの隣に更科さんがありましたね。その後、後の「テリア」のマスターとなる石塚安一さんが電気店をやり、次にテーラー本間さんになりましたが。隣に「更科」さんがあり、その隣の角っこが保刈パン屋と言うか丸藤パン屋と言うか。名字は保刈です。
(山田)福浦には保刈と言うお菓子屋があって、その弟辺りが夷二で丸藤パン屋を始めたんじゃないかな。
(渡辺)そうすると更科さんはその後、夷新にあるし、ツルヤの裏にあったし、神明町の太田食堂あたりにもありましたが、この三軒は本店支店分店と言ってた気がしますがどういう関係になるんでしょう。
私の小学校の頃、猪股国夫さんは本田屋さんの隣にいて高校生くらいでともかく元気が良かった。雪合戦みたいな雪玉の中に石を入れて子供の私にも投げつけて頭に当たり死ぬかと思った記憶があります。
(山田)夷新が本店で、ツルヤ裏は弟で・・。
(小池)猪股国夫さんは私の一年下で、夷新の本店の兄貴です。その前にどうも猪股さんは夷七に居た気がするんだけどなあ。更科と言う名前じゃなかったけど。国夫さんは喧嘩も強かったなあ。ともかく乱暴だった。
(渡辺)猪股国夫さんは両津高校出た後、東京で両津企業と言う会社を興して正恋しましたよね、とっても羽振りが良かったと聞いています。東京両津の会なんかで活躍したとか。
君の家さんはお婆ちゃんが料理を作っていて旦那さんは配達専門でした。
もしかして、猪羽と言う苗字からして元々は旦那さんは大工さんだったんでしょうか。
後には息子さん夫婦が後を継ぎましたが。
私の一年先輩に長女が居ましたがとてもきれいな方で、モダンバレーでとても目立っていました。
火事を出して近所数軒が焼失し、その後どこに行ったんですかねえ。
今は空き地になってますね、内田家具さんの隣が松本金十郎さん、その次になりますかね。
伊勢工務店の猪羽さんと言えばお酒が大好きで、大昔ですが、酔っぱらって太陽堂の向かいの村岡さんのどぶの中で真っ裸で寝てたらしいです。頭にタオルかけてたとかで、どうも大酒飲んで風呂に入ったつもりだったんでしょうかね。当時のどぶは蓋してなかったんですね。
(山田)そう言えば郵便局の仕事で伊勢屋さんが入った時、職員を飲みに連れて行って大判振る舞いしたとか聞きましたね。
(小池)猪羽洋服の方には私より4つ位上で相撲の強いのが居た。磯野秀衛さんの一年上で、下級生をしゃつけたりしてそれはそれは元気良かった。ともかく喧嘩が強くて団子屋って言えば有名だった。同級生の湊のもちやさん(斎藤幸之助)も元気が良かった。
(渡辺)そう言えばそのせがれ勉君が神明町でやってる店は焼き鳥の「幸之助」で、佐渡汽船の方は「幸ちゃん」です、親父の名前をとったとか。
うちの町内の二ノ丁には「喜月」と言う店があったんです。食堂のような一杯飲み屋のような、夏はかき氷売ったり。名字は吉田で、お父さんは小柄で愉快な人でしたが、短期間でなくなり、親父さんは花月かどこかで番頭さんになってました。金波会の写真に載ってました。
(小池)居たなあ、はっきりした記憶はないけど、眼鏡かけて背が低くて唄でもうたったかなあ。印象はあるなあ。
(渡辺)そうそうこんな写真があるんです。(昭和20年代の金波会の写真を見せる)増家貞吉さんが19歳の頃で、代表者が田中湖山さんで中村嘉明や喜月さん磯野昭知さん達が映ってますね。
(小池)ほほーーっこれは皆若い時の写真だなあ。顔はみんなよく覚えとるわ。増家(そが)さんは金波会におったのんか、それは記憶にないなあ。自分の記憶では、増家さんは鴨湖会の時しか知らんなあ。
(渡辺)居たらしいですし、この写真が証拠ですよね。増家から聞いたんですが、鴨湖会は敷居が高くてとてもじゃないが入れないんでひとまず金波会に入って修行したそうです。また千鳥会にも入っていたそうです。
実は「佐渡の民謡」と言う本を書く時に増家さんを訪ねて、彼の一代記をまとめたんです。増家が元気な今のうちに書いておきたいと思って。同じく松本正勝さんからも聞き書きさせていただきました。両津の民謡は勿論、佐渡の民謡全体としても貴重な内容が一杯でしたねえ。(ここで私の編著『佐渡の民謡』にある松本さんの聞き書きを読む)
松本さんに詳しく聞いたのが今から6年前(平成23年)ですから、あの時はここまで詳しく覚えてくれてましたが、今聞いたら果たしてどこまで聞けたか疑問ですね。増家さんも会った時にこんなことお聞きしましたねえ、と話したらそうだったかな、ほとんど覚えてないなあ、と。そんなもんなんですね。
(山田)松本さんは父親については触れてませんが、確かに松本さんの家と言うか、あの業界はいろいろ公に出来ないことがあるんでしょうね。しかし、こうして記録しておくってことは大切なんです。
(渡辺)元の「喜月」と言う旅館に戻りますが、経営者の吉田さんは沢根から来たと言ってました。今に思えば、沢根に昔から今に至るまで続いている「喜月」と言う旅館がありますから、何か関係があるかもしれません。そこに働いていたとか、親戚であるとか。
(山田)沢根と言えば伊里さんがそっちの出ですね。まあ名門の家は家を保つために婿をとったり早いうちに養子をとってそれに嫁をもらったりして家をつないだんでしょうね。手っ取り早いのは兄弟の子供をもらうとかね。俺達みたいなのは子供おらんならそれでお終いでいいけどなあ。
(渡辺)そうですね、伊里家は沢根とか佐和田、八幡に多いんですが、春日の伊里正高先生が言うには、自分とこも含めてそっちの伊里は全部新穂の瓜生屋がルーツと言うことです。今も少ないですがありますね。ルーツの地では少なくなったが、佐和田地区で広がったということですかね。
そうすると、夷2辺りから春日にかけては食堂はないんですねえ・喫茶店もなかったし。
(小池)まあ、あったとすれば巴屋さんの「マリン」だけどあれは新しいしなあ。まあ考えてみれば俺たちの若い頃は喫茶店に行くという雰囲気はなかったし、勿論店もなかったし。
(渡辺)巴屋さんを海岸の方に下った数軒目に「美鈴」食堂がありましたね。夏の花火の時などはいっつもそこに行ってかき氷食べたもんですが。愉快なタイプの親父がいつも元気に愛想を振りまいていましたが。
(小池・山田)あれはそう昔じゃないけどなあ。
(渡辺)でも私の小さい時からはありましたね。皆さんの時にはなくて私らの時にはあったということで時代がわかります。
(小池)親父は本間義昭でね、この前亡くなったね、私らの二つ位上だった。元々は橋本座のとこにあった本間鉄工の人だ、直系だね。親父が本間鉄工社長だったけど、止めてから食堂をやったんです。親父は唄でも唄って面白いオヤジだったけど。
(渡辺)私の記憶が間違いなければ、本間鉄工さんは泉から来てるんです。本間林三さん達も元々は泉から来てるし、多少引っ掛かりがあるのかなあ。湊の本間医院もそうじゃなかったかなあ。本間林三さんの兄の金年さんも両津で歯医者さんをやってたそうです。大正3年の両津甚句保存会発起人名簿に名前があるんです。弟が来たら相川に行ったようですが。福島徹夫先生が言うには、自分が相川にいる時にはその兄さんが相川で歯医者だったと。
本間林三先生は明治34年生まれですね。奥さんの父が明治の佐渡三奇人の一人の羽田清次、長畝の人です。尾崎紅葉や長塚節と文通してたそうで、彼らが来島するのもその縁でしょうね。
紅葉の場合は新潟まで、羽田さんが斎藤八郎兵衛さんと一緒に迎えに行っている。また、この方の弟が軍人羽田次郎で、長畝観音院に大きな碑があります。加えて言えば、佐渡高校の舟崎文庫ですが、相川出身の東大教授萩野由之先生が蒐集した佐渡関係の貴重な本は、先生没後、一括して東大が買い取ることになっていた。しかし奥さんが何とか佐渡に残せないものかと考え、羽田清次さんに連絡をくれた。羽田さんが佐渡関係者に手を尽くしたが高額で無理となり、結局は実業家で代議士だった金丸出身の舟崎由之さんがまとめて買ってくれて佐渡高校に寄付したんですね。
(渡辺)さて海岸通りに入りたいと思います。
「おけさ食堂」は両津高校教頭だった土屋長松さんの弟ですよね。元々土屋家と言うのは何商売の家だったんでしょう。
(小池)元々はわからんけど、俺たちの知ってる限りは丸善と言う土産物屋だった。屋号は土屋善太郎です。長松さんの奥さんがやってた。
(渡辺)土屋長松先生は東京理科大出て、東京の都立西高校の先生で両津高校が出来た頃に佐渡に帰りました。昭和22年の夷大火の日に帰ったそうです。偶然ですが、青野屋さんの青野誠治さんも同じ船で帰り、両津が燃えているのを海上から見たそうです。そして、家が焼けたんで歩いて沢根の青野屋に帰ったとか。
土屋先生はともかく東京の高校教師を辞めて家を継ぎに夫婦で?帰り、奥さんは土産物屋を旦那さんはたまたま出来た両津高校に勤めたのかな。高校が出来るのに合わせて帰ってきたのかも知れません。
(小池)長松さんのもう一人の弟は足が悪くて竹細工やっとった。おけさ食堂さんとどっちが年上かはわからんけど。場所は丸善の裏だからおけさ食堂との間かなあ。独り者だったなあ。いつも着物を着てて。土屋家のおじいさんは白髪だった。
(渡辺)土屋長松先生の長男と言うのは、昭和20年生まれで両津南中学出て早稲田学院に行き、早稲田の理工学部を出て建築家となってパリで活躍し、最近向こうで亡くなったそうです。(→人名録ー土屋重信)。同年の出山正さんから聞きました。
また、両津高校の玄関前にブロンズ像がありますが、あの像の作者が土屋長松さんの長男と聞いていたんですが、それは甥っ子だそうです。おけさ食堂の子ですかね。私達の1年下にもいましたが、その人かその兄か。
(小池)長男は大人しい子だったなあ。丈のすらっとした女の子も居たけど、あれは長松さん長男だか裏の家だか。そう言えば長松さんの妹もいた。東屋(あずまや)と言う家でお茶の先生で、独身だった。いちしめ(北忠雄先生)の隣だったかな。おけさ食堂は一代で終わった。
(渡辺)次は「鴨湖庵」ですね。創業者は今の亭主坂口昭雄君(昭和23年生)の親父ですかね、でっぷりした独特の風貌でしたが。他の人から聞いたことがあるんですが、鍋焼きだかラーメンを注文した時、そこに飛んでた蠅を親父が捕まえて鍋の中に入れたと。これが良い出汁になるんだとかいって。
(小池)へえ、しかしそんなことするタイプじゃないけどなあ。ともかく寡黙で全くしゃべらん人だった。
(山田)この前、鴨湖庵の弟子が東京庵と言ったけど、反対で東京庵が親方だな。昔の写真に今の東京庵から横断幕で店の名前が書いてあったからかなり古い店の訳で。
(渡辺)東京庵さんは、まあ前言ったけど大正12年生まれの人が京都帝大は言ったくらいだから、それなりにしっかりした人が親父だったんでしょうね。無口だったという婿さんの奥さんの親父ですが。大正12年生まれの親ですから明治30年前後の生まれですかね。私のちょっと下に美人のお嬢さんが居ましたがお医者さんに嫁いだと言ってましたね、看護婦さんだったのかな。
(小池)東京庵さんは、よくしゃべるお婆さんは婿さんをとり、その人は変わった人だったと言ったけど子供がいなかったんで、お婆さんの妹がお婿さんをとり家を守った。婿さんは市役所の車両課の人だった。
(渡辺)鴨湖庵さんは味が評判でしたが、何がウリだったんでしょうね。
(小池)蕎麦だなあ。あの親父は大柄な人だったけど、いつの間にかよそから俺の裏に移って来てたなあ。
(山田)その前は樋口新聞屋の隣の飲み屋の「野菊」のとこだったと思う。俺が郵便局に入った昭和29年頃食べに行った記憶がある。樋口さんの鴨湖側隣で、反対の隣は喜楽旅館だった。鴨湖庵が移転した後は柴田祿郎さんの「響」になった。響はその後移転して丸屋さんの裏に来た。響が来る前は「再会」があって、再会は今のこの角地の場所に来た。丸屋さんの裏のその前は「なかよし」と言う芸者置屋だった。そこに前にも出た山本しょーちゃんのお母さんが勤めてた。その後は「ベル」の後藤清一君の一家が住んでたなあ、商売屋ではなくて。その後、あそこで煎餅屋が居た。その店は春日町に行ったけど。その次が再会だなあ。
(渡辺)響さんは、その後「ミスティ」と言う名前の店になりましたね。純喫茶からバーと言うかスナックと言うか。
(小池)鴨湖庵に戻るけど、あのもんは河崎から来たなあ、椎泊かも知らんけど。長男もいたなあ。豊次と言ったかな。昭和16年生まれくらいで。
(渡辺)長男は一時新潟の都市開発関係の時、今のダイエー辺りで立体式駐車場を経営したりして結構羽振りが良かったと聞いてます。
次に鴨湖庵の斜め前辺りに「美奈川」と言う飲み屋の看板を見た記憶がありますが。
(小池)それは今のハトヤの前の両津タクシー、その海岸通りの隣にあった。経営者は女性です。未亡人だった気がする。お母さんは知っとるけどお父さんの顔を見た記憶がない。子供は皆川兄弟で磯野秀衛さんと一緒だから昭和6年位の生まれかな。その上にも眼鏡かけた紳士で皆川さんが居た。
(山田)看板はそうだったかも知らんけど名字は皆川だった。居酒屋で二階に部屋があった。その前は神明町でやってた。皆川さんの一人は秋津の水井陶器と言うか水道工事などの、そこに勤めてた気がする。兄弟で走るのが早いって記憶がある。皆川さんは婿さんに行って斎藤になった。神明町の角の伊藤七蔵さんの家に宿借りとった幼稚園の斎藤先生の婿さんになった。高校の同級生だったかな。今は春日町に住んでる。奥さんは美人さんだったけど、最近は見ないんで死んだかなあ。
(小池)皆川さんの兄は秋津の水井陶器さんと親しかったのは知ってる。
(渡辺)ともあれ、美奈川は一代で終わったわけですね。
他に「平和屋」って一杯飲み屋がありましたが。太陽堂を下る通りと言うか、反対側の角のパールパーマ(村岡さん)を下った角地です。
(小池)それは元々は樋口新聞辺りの並びにあったなあ。三の町は後で。色白の女性が経営者だった。水商売の素人でない感じだった。
他にあった「平和グリル」ってのは頭のつるっとしたおっさんがやっていた。あの自分の洋食屋と言うか。
(渡辺)私の記憶ではその女性の子供が私達の1年先輩に居てなかなかあか抜けた人で高野と言う苗字だった気がします。
それじゃあ、今神明町にある高野食堂はどうなんですかね。
(山田)あれは平成になってからじゃないかな、白瀬の高野で兄貴は郵便局に居た。
(渡辺)そうですか。すると、その白瀬の高野さんの所に国立民俗博物館館長の須藤健一先生の姉?が嫁いでいるんですよね?須藤先生は埼玉大から神戸大教授になり国立民博の館長になったんですが、大学生の頃小池さんの所に鬼太鼓の面のことで調査に来たと言ってましたね。須藤先生の専門はニューギニヤ辺りの民族関係なんで、あの辺りの土人の面と鬼太鼓面の関係などを調べていたんじゃないでしょうか。
(小池)俺の知ってる須藤ってのはおとなしくて丈の小さい男で、色白の。この須藤だと思うけど、藤新と親戚じゃないかな。
(渡辺)須藤と言うのは椎泊に二軒あって一軒は願誓寺で、須藤先生はその分家です。何ですか、南北朝時代の難を避けて須藤兄弟が椎泊にやって来たとか。本家の長女は尚子ちゃんで梅川本店の高橋家に嫁に行ってますし、弟の信宏くんはケアアネージャーやって佐渡に居ると聞いてます。
(小池)高橋さんと言えば足の悪かった高橋秀世さんは亡くなったね。最近は会ったことなかったもの。
(渡辺)高橋秀世さんは確か30代で県議やった記憶がありますが。あの家の庭に大きな石碑がありますね。高橋幸吉さんだったかな、確か東大出てた気がしますが。
(山田)この高橋家が両津高校が出来た時土地を寄付した。平垣のある大きな家の人で。
(渡辺)この高橋ですかね?私の記憶では高橋礼作さんが寄付しましたが、この人は梅川家の人ですかね?
(山田)そりゃあ間違いないと思う。高橋礼作さんが亡くなった時生徒はあの家に行って並んだもの。
(渡辺)わかりました。こうですね、「佐渡人名録」によると、高橋礼作さんは佐渡を出て税務署等に勤務してなどとありますから、高橋幸吉さんの弟あたりで、自分名義の土地がありそれを両津高校に寄付したんじゃないでしょうか。
話を変えてすみませんが、例の社会学者の竹内洋さんが居たのはどこですか、その辺のはずなんですが。
(小池)それは今の仙台屋の場所。
(山田)神明町の寺尾さんと子にもいたよ。
(渡辺)仙台屋さんですか。私の知ってる時代はあの元気のいいおばあちゃんが居まして、体格のいい旦那さんは軍人で仙台に居たとかで仙台屋と付けたとか。お婆ちゃんは伊藤七蔵の長女で、次女が山玉さん、三女がアリサの高本君子さんですかね。年下の長男は渡辺甚九郎さんで。
(山田)仙台屋さんは向こうから帰って来て最初は伊藤七蔵の裏に店出しとった。呉服担いで行商していた。
(小池)仙台屋さんが夷三のあそこに行く前に竹内さんが居たと思う。
(渡辺)竹内さんのお父さんは、詳しく聞いたことはありませんが、和木かあっちから出てきて、山さき(林業、建材業)をしていたとか。
続いて、夷2の裏へ来て「美奈子」さんはどうでしょう。
今の色白で大柄なおばあちゃんが始めたんでしょうか。昔は色気があったんでしょうね。漁業関係者にお客が多くて、特に漁帰りの早朝なんかに繁盛したとか。
(小池)「一休館」と同じ場所だかや。
(渡辺)同じです。私の町内なんである程度分かるんですが、昭和22年の夷大火の後に一休館と言う旅館が出来たそうです。一休館は富樫苗字ですが、親父は富樫栄吉と言うたいした三味線弾きで、初期の鴨湖会の主要メンバーだったとか。
(渡辺)ところで、夷一の藤原弥治平さんは私の子供の頃ちょっとした食堂をやってた気がしますが。今は藤原製麺所だけど。製麺所は豊君と奥さん、彼の母と昭和22年生まれの姉さんとやってまます。二階は数年前まで「リッチ」と言うスナックをやってました。昔の親父はいつも着物着て腕組んで独特の雰囲気のある人だった。今の息子の豊君にも通じてるような侠客風の雰囲気と言うか。製麺所をやりながら食堂もやっていたのかなあ。私も小学生の頃だから昭和30年代初め頃、良一叔父さんに連れられてそこで氷水食べました、今思えば山田さんも一緒でした。
(小池)間違いない、俺も覚えてる。よくわからんけど食べ物屋だった。そば屋ではなかった。親父は何だかおそげーような遊び人のような人だった。
(渡辺)そうそう、「魚喜知」さんがありました。丸い太めんの鍋焼きは本当においしかった。この店は?小柄で太った人で野球好きな人でした。苗字は渡辺でしたね。
(山田)場所は吉田屋の湊側の前の角だった。この前火事になった前の家。
(小池)どこかの食堂で腕磨いて独立したと思う。名前は渡辺福蔵。野球連盟の会長だった。自分は野球はしないけど大好きだった。
(山田)面倒見がいい人で野球関係者を可愛がっていた。野球関係者はそこで、バスケット関係者は九兵衛さんだった。俺達が子供の頃は魚喜知は店でなかった。座敷があって、食堂と言うより料理屋と言うか。
(小池)二人は年はかなり違い、魚喜知さんがかなり上だった。昔は座敷に上がって一杯飲るような感じだった。俺達は野球部だったからよくごちそうになったもんだ、魚喜知のとうちゃんにはお世話になった。
(渡辺)お父さんが亡くなってから店はやめたけど、又「ビストロ魚喜知」と言う名前でお洒落な店で再開しました。何ですか、東京から福蔵さんの子供が帰って来て営業を再開したとか。結構年配の方でしたが。再会後、10年もやらなかったかなあ。
(山田)再開したお店は、娘の節子さんでなく、まり子さんがやり、旦那さんは湊の浜松さんだった。勝広寺の弟じゃないなあ。(小池:まり子さんは早く佐渡を離れたんじゃなかったっけ?)。いやいや、また佐渡に帰って来て店をやった。
(小池)その浜松さんはお寺の直接関係者かなあ。確か、仙宅さんの関係かで松竹映画関係だった気がする。それじゃあ長女の節ちゃんはどうなったんだやあ?
(山田)それは魚喜知の裏で仕出し屋をずっとやっていた。節ちゃんは亡くなったけど。その下には ななみ と言う女の子もいた。私の下の弟と同級生で。
(渡辺)そうすると、魚喜知さんが座敷もやり、仕出しもやりと言うことですね。仕出しの方は長女が引き継いだというか。店の方は福蔵さんが亡くなり閉店後にかなり経ってから次女夫が帰って来てお洒落な喫茶店のような店をやったということですね。
(小池)福蔵さんの親戚は知らんけど、うちの町内の山口八次郎と関係があったのかなあ。(渡辺:八次郎さんには新潟交通の専務やった人が居ましたよね)
(渡辺)次に「魚普」さんはどこの人ですか。渡辺名字ですよね。すると渡辺普一とか言う名前だったんでしょうかね。渡辺晋とか。
(山田)「花月」の料理人だったんじゃないかなあ。独立して最初は斎藤さんねむさん(現「TOM」)のとこで仕出し屋やってたと思う。私が子供の頃、そこで仕事しとったのをガラス越しで見ていた記憶がある。昭和10年代後半頃かな。そこからあの場所(今の島田医院を下って数軒左側)ですし屋になり大繁盛した。
ぎえむの紀一(神蔵紀一)が言ったのは、昔花月に納入業者が集まる会があり、魚はギエム、酒はイチヤマショウ(塚本輝雄)で、そこに魚晋も出てたと。
(小池)二階などは大繁盛で漁師の連中なんか大騒ぎしとった。
(渡辺)魚晋の後に一時「魚河岸」と言うすし屋になりましたね。私の同級生の石川晃君がやったんです。元々は八郎平町にあった「魚河岸」(「ベル」の隣辺り)の職人だったかなあ、そこで主人になって、魚晋後に引っ越した。一時は良かったけどもダメになりましたねえ。
(渡辺)そして魚晋の息子が画家になったと。水津燧(みなづひとる 昭和27年生)ですね。
他のすし屋ですが「助六」はどうですか。
(山田)すし屋はこの前亡くなった人が始めたすし屋で、元はお母さんが飲み屋やってた。名前は「助六」で。
(渡辺)今は店はやめて奥さんはどこかに手伝いに行ってるそうです。佐渡の人ではないそうですが。すし屋としては一代限りですか。
次に喫茶店はどうですかね? 「木の実(このみ)」さんが始めだそうですが。柴田祿郎(昭和13年生)さんの兄ですかね。
(山田)その奥さんがやり、旦那が手伝ったというか。亡くなった柴田四郎左衛門さんの弟が「木の実」さんで。祿郎さんは新発田の奥さんのとこへ行ってるそうです。
(渡辺)柴田四郎左衛門さんは大柄ででっぷりしてましたが、弟さんは細身でしたね。その六番目辺りに祿郎さんが居たと。六さんは野球がうまくてピッチャーでしたね。球が遅くても打たれんかッた。遅くても打たれんのはそっちゃんと六さんだって有名でした。(笑)
(小池)六さんが遅いと言っても俺よりは早かった。俺達はともかく内野ゴロ打たせるピッチングだった。だから内野がうまいからもった。昭和29年の秋の大会の決勝は相川とやって1:0のノーヒットノーランで勝った。内野がよく、三遊間のレフト前は伊藤旅館の中川博光君が取ってくれた。サードには渡辺浩二郎くんが居た。
相手は焦ってカッカ来るから益々打てんかった。
★飲み屋
(渡辺)「ミロ」って店がありました。昭和41年頃です。磯野恭二さんがその後二階で「京」を経営しましたが、その一階で磯野さんの兄の文明堂さんと高橋信一先生、兄の本間幸二さん、中学の美術の先生だった福浦の斎藤清さん達が出資した店のはずです。「ミロ」って名前が如何にも芸術家が経営した店らしいですね。本間幸二さんはハンマー投げでなんかの大会で日本一か二位かになってましたね。
(渡辺)当時の飲み屋と言うかバーなどについてお聞きします。確かリヨンなどが高級だった気がしますが。
(小池・山田)リヨンの場所は今の「天の川荘」です。経営者だったかどうか知らんけど、180㎝位もあって、やくざっぽいような、色白の美男子がいた。この店は相川が本家です。相川が昭和20年代後半にすたれ始めて、それと関係があると思う。勿論、最初は相川と両津と両方やってたかも知れない。(渡辺:昭和27年の鉱山大縮小で相川の街が一気に疲弊した)
経営者だかなあ、山本しょーちゃんがいた。山本しょうじで俺(山田)の二級上だった。母は芸者さんだった。バーテンやってたけど経営者でなかったと思う。その人は経営者でなかったとしても、何かリヨンとつながりがあった人だと思う。佐渡高校へ行ってて高校二年の時、両津高校に入ってきた。丸屋さんの裏に芸者置屋があって、お母さんはそこに所属してる芸者さんだった気がする。後藤正幸先生と同じくらいの年かな。私(山田)はそのショーちゃんから勉強を習いに行った者です。ショーちゃんはその後、東京にでも行ってて佐渡に帰りリヨンに勤めたんかなあ。
(渡辺)リヨンは昭和40年代にもありましたが、他にはどんな飲み屋がありましたかね。「夢路」が豊屋さんのはす向かい辺りにあったのを覚えています。その後、「藤ちゃん」(大塚富士夫と奥さんのふじ子さん経営)になったかな、二階に上がって行く店で。「夢路」には私の同級生の確か木下富士夫君っていう吉井のモダンな子が勤めてましたんで、昭和40年代初めかなあ。
(小池)「夢路」ねえ。夢路のオーナーは水津の方の人で相田と言った。その後新潟に行って店をやった。両津にあった時の場所は確か「梅園」辺りで、その後の「紫」あたりかなあ。相田さんの妹は俺と両津高校で同級生だった。なかなか美人さんだった。
(渡辺)「紫苑」( しえん)がありましたね。佐渡を出た後は新潟佐渡汽船内で同名の喫茶店をやってましたが。かねやまさんなんかの親戚だった鳴子屋さんが経営者でしたかね。どこかの二階、今の「銀太郎」辺りの二階ですね。昭和41,42年頃、私は大学生でしたが大変はやっていて、当時、殺人事件だか傷害事件だかありました。酔っぱらって喧嘩して私の1年下のS君が人を刺したとか。
(小池)「紫苑」は何かあって名前が変わって紫苑になったと思う。元は喫茶店じゃなかったかなあ。新潟では鳴子屋の女の子がやってるね。俺達の二年下の子。鳴子屋は喜楽の関係だった。
(渡辺)私の同級生に鈴木範夫君(鈴木ミシン店)がいて、お母さんが「楽園」と言うバーをやってました。神明町にあって、お母さんと言うか店のママさんはぽっちゃりしたやり手の感じでした。その後絨毯バー「テリア」になった辺りの店です。テリアは太田食堂の隣かなあ。経営者は石塚安一さんで奥さんは春日町の後藤さんでしたか、おばあちゃん(小池・山田:いとさんと言う名前だった)が新聞配達してた。奥さんも旦那さんが亡くなった後、佐長さんの前あたりの八郎平町でバーをやってましたね、名前は何だったかなあ、細長い三階建てのビルで。そう昔のことではないですが。安一さんの弟さんはスーパーキング両津店の店長やってましたね。原黒に住んでます。安一さんは最初、うちの近くの今の本田屋さんと保刈パン屋さんの間で電気屋さんやってました。その後テーラー本間さんになりました。私の子供の頃は更科ソバ屋でした。安一さんは豪快でキップのいい人でした。「テリア」ははやってましたねえ。昭和45年頃かなあ。大変犬好きの人で今で言うブリーダー、即ち動物の子を販売するようなことで儲けたと聞いています。店名の「テリア」もヨークシャーテリアが元で、その関係で付けたんでしょうね。
(山田)昔の飲み屋のことを調べたいと思って飲食店組合に名簿欲しいと言ってあるんだけどまだもらえなくてねえ。私自身が飲まないもんで、飲み屋のことは本当にわからんなあ。しっかり書いとくといい資料になるんだけどなあ。
(渡辺)住宅地図とかである程度はわかりますかね。でも、五年もたんで閉店するのも多いし。
(山田)山口写真館は知っとるかやあ。(渡辺:知ってますし、相川が本店だと思うんですが詳しくは知りません)ヤマカクさんの裏で平田さん(銘石堂)が居たとこかな。結婚式の写真はそこでした。本家は相川の山口写真館で。
(渡辺)ヤマカクさんが写真やったのはその関係じゃないでしょうかね。自分の一角に写真屋が来たので、先代の本間治郎さんが写真やるようになったとか。ヤマカクさんは戦前からたくさん写真を撮り加茂湖での豚だか牛が泳いでる写真や映像も撮ってますが。
(山田)そうかもしれんなあ。最初は新潟交通のバスに乗って観光写真などを撮って販売してたから。私の子供の頃は呉服屋だったけど写真を趣味で初めて、観光写真に乗り出したというか。本間次郎さんは八幡出でその弟が正札屋さんの先代です。本間忠男さんと本間節郎さんは従弟と言うか。(渡辺:節郎さんは婿さんで元は加茂の方の安藤名字です)正札屋さんのお父さんは確か新潟交通に勤めてました。(渡辺:そう言えば正札屋さんが一時、お店の裏で土産物卸をやってましたがその関係かなあ)お父さんは芸人で、戦後の橋本座で楽団(明星楽団)や演芸があった時、あの人は女の人と漫才やってたなあ。女の人で歯医者さんだった。音楽も好きだったと思う。
(山田)郵便局の前に「上九(かみく)」があった。昭和29年に両津郵便局が今の所に移ったんですがその後です。郵便局が出来てすぐじゃなかったからいつ頃かなあ。観光客が来るようになり新潟交通のあの辺が賑やかになってから出来たんでしょうね。名前の上九が九兵衛さん関係はわかっていましたが、上町九兵衛がピンときませんでした。
(渡辺)私が知ってる時代に出来てそんなに長くは営業してなかった気がします。10年はやってなかったかなあ。私は昭和22年生まれですが、小学校時代はすでに郵便局はありましたが上九はなかったです。私が高学年、即ち昭和34年頃かなあ。そして、上九ってのはどこに出てたかなあ、元々岩原九平さんは肉屋でなく書画骨董、例えば額縁とか絵具とか表装関係とか、他には観光土産とかを扱う店だったようです。大正昭和の始め頃の主人の方が民謡関係にも熱心な方だったそうで、今思えば民謡関係の資料のどこかに出てました。したがって郵便局前の上九さんは創業時代の上九と言う店名を、その後の肉を中心とした食堂の支店に使ったってことですね。
岩原さんは奥さんが跡継ぎですから、旦那さんは吉田タイヤさんから来た方ですかね。両津役場に勤めていたそうですが。タイヤの吉田博さんの兄ですかね。顔も似てると言えば似てるような。
(山田)九平さんのお父さんは詳しいことは知りませんが、神明町の小池さんから出た人と聞いたことがありますが。丸五さん(川越)の隣の小池さんです。そこの弟と聞いたことがあるんです。
上九さんのお店はそう長くはなくて、バブルが弾けた頃と言うか、観光が下火になったころ閉店したのかなあ。
(渡辺)小池さんは、私の両津高校の一年後輩で早稲田出て第四銀行に入った吉井の粕谷二三朝(ふみとも)?君が婿さんじゃなかったかな。隣の川越君の同じ年で昭和23年生まれです。
次の店と言うと、美吉屋(みよしや)?ですかね。
この店は私の遠縁で、親父さんがでっぷりした色白の人で吉之助と言う名前だったような。名前の吉が店の名に入ったと言うか。奥さんはきれいな人でした、子供さんが私のちょっと下に居て。
私の時は二階が中心の店でした。一階はあっても狭いスペースで、店ではあったかもしれません。あまり記憶にないですね。
(山田)店の名はどうかな、平仮名かなあ。親父の名字は小出です。二階もやってたか知らんけど、中心は一階でした。子供の頃、七夕なんかの時あそこへ入って飯食ったものです。
今の渡辺洋服屋さんのビルは火事になった後で、元々は角がみよしやさんで隣には税理士さんみたいな人が居ました。そして一般の人に簿記などを教えていました。正札屋さんに私の同級生がいるんですが、彼と一緒に、中学だったか高校だったか、何回か習いに行きました。渡辺洋服屋さんは火事後に来て、みよしやさんを買ってビルにしたのかな。みよしやさんは新潟に店を移したし。
私達が子供の頃、七夕かなんかで子供達が昼食をとる時には美吉屋さんの一階でしたね。
(渡辺)思い出しました、みよしやさんの親父さんは小出吉之助です。この吉を使って 美吉屋にしたのかな。私の知ってる時代は、税理士さんは居なくて、美吉屋さんの隣が渡辺洋服さんでした。すると、渡辺さんがどこかから来てそこに店を出す前には税理士さんが居たということですね。
すると美吉屋さんが角地にあり、自分の所から出火したので美吉屋さんは新潟に行き、その場所も含めて渡辺さんのビルになったんですかね。
渡辺さんのお嬢さんは一年先輩の渡辺洋子さんで、美人で頭のいい人でしたから良く覚えています。
渡辺洋服屋さんと言うと、社長さんは渡辺頼一さんでとてつもなく頭のいい人でしたねえ。
元は教員だったそうで、満蒙開拓団の佐渡村にあった学校の先生だったとか。
奥さんも教員だったと聞いています、でっぷりした頭のよさそうな方でした。
確か新穂潟上辺りの人で、その家に後に代議士となる小沢辰男さんの姉が嫁いでいると言ってました。
頼一さんはアイワ会や両津クレジット、両津商店会関係で大変お世話になりましたが、一度旅行で田中角栄さんの西山町の実家を訪ねた時にそこに居た人に「小沢辰男の(義理)の兄です」と名乗ってました。
まあそうも言えるんでしょうか。
ともかく、渡辺頼一さんは飛び抜けた実力を持ったリーダーでした。酒が強くて豪放磊落で口角泡を吹かせて議論するタイプでした。
必ず、相手の言うことをしっかり聞いて「確かにそうです」「素晴らしい意見です」などと相手を先ず誉めてからしっかり自分の意見を主張するタイプでした。
たくさんのことを学ばせていただきました。
斎藤甲子郎さんの市議選市長選の時などは地元長老として隠然たる実力を持っていました。
(渡辺)次に福来軒はどうですか。平成29年の今は昨年開店した「岩蔵蕎麦」(相川藤田さん経営)さんになってますが、それまでは長い間しな蕎麦と言うかラーメン屋の福来軒として有名でしたが。
(山田)その店は前はそこでなく新明町の今の市山さん辺りだった気がするなあ。福来軒は最後までいた女性は私のちょっと下の年齢ですが、そのお母さんが最初やってたと思う。その反対側辺りをちょっと下った辺りに喫茶店があったなあ。
(渡辺)その経営者は私らのちょっとし下で「ピノキオ」とか言う店をどこか海岸通りの坂床屋さん辺りで開店し繁盛しました。その後当時、佐渡の草分けみたいな形でビデオショップを福浦の相川に向かって左側の辺りで開店しはやってましたねえ。それが下火になってから、また喫茶店を始めたのかな、福来軒のはす向かいに。二階の小さなお店でした。
経営者は細身で長髪で無表情で、ちょっと当時人気のあった荒木一郎タイプでした。
次に行くと東京庵ですね。私の亡くなった親父が大正12年生まれなんですが、東京庵の金田君と同級生でものすごく優秀で京都帝大に入ったがその後どうしただろうかなあと晩年語ってました、家にも若き金田さんの写真がありますので本当に親しかったんでしょうね。そこで、私が東京庵さんの市役所に勤めている息子さんに聞いたことがあります。すると、なんとその方は19歳で病気で亡くなったとのことでした。
結核か何かだったんでしょうかね。
それで、跡継ぎが居なくなって妹さんが婿さんをもらって店を継いだんでしょうかね。
(小池)東京庵さんは今の市役所行ってる子の父は婿さんで市役所の車両部にいたけど、その上も婿さんだったかどうかは聞いたことないなあ。ただその人はともかく変わった人で人付き合いは出来ん人だった。
その妻はみんな知ってるようにそれは元気な人だった。
(渡辺)当時うちの親父は藤新さんの所に借家してたんですが、金田君の他に、家の前辺りに渡辺襄君と言うこれまた優秀な同級生が居たがどうしたものかと。
実はその後、延命寺さんだったと思うけど、法事かなんかの関係で高額寄付者の名前が出ててそこに渡辺襄さんがあったんです。偶然にもその後まもなく新潟県の英語関係の業界のトップにこの名前を見つけました。
実は興味があるのは私の母校同志社の校祖が新島襄なんで、息子に襄と言う名前を付けた親父か祖父は新島襄を敬愛してた気がするんです。英語に興味もあったでしょうし、その結果息子は英語遣いになった。
もしかしたら渡辺襄さんやその父、祖父辺りも同志社関係者だったかも知れないわけで。
(小池)和一郎さんは鈴木名字で隣が滝口呉服店です。そう言えば、和一郎さんの裏に渡辺?と言う家があって親父さんは第四銀行に勤めていたなあ。眼鏡かけてポチャッとした人だった。
その子供さんは英語の先生だった。当時英語をやれるってことでびっくりした記憶があります。
(山田)渡辺名字と言うと夷にもいろいろあるんだけど、渡辺四郎左衛門さんは安照寺檀家で桂屋さんなんかと一緒ですね、「安照寺史」に出てます。浜屋さんも渡辺ですしね。浜屋さんの娘さんは昭和18年生れ位なんですが、彼女は青森県で病院を経営してるそうです。浜屋さんが病院だったことは間違いないですが、私もその病院を見た記憶はありませんね。
(渡辺)浜屋さんは私の子供の頃は品のいいお婆ちゃんと言うかお母さんと言うか、一人で雑貨屋さんをしてましたが。元はお医者さんだったり旅館だったりしたんですよね。病院の先生は早く亡くなったんでしょうね。すると、その雑貨屋やってた上品な女の人の旦那さんが医者で早く亡くなったってことですね。浜屋と言う旅館はいろんな資料に出てきますから長く旅館業をやってたはずで、すると老舗旅館の息子さんが医者になったということでしょうね。経済的にも裕福だったでしょうし。
(山田)元に戻って東京庵ですが、元々はそば屋です。鴨湖庵の弟子だったって聞いたことがあります。
(渡辺)そうそう、話は変わりますが、夷郵便局は元々はどこにあったんでしょうね。
(山田)今の前は昔の電報電話局、即ち夷新の今の斎藤炭屋さんのとこで、大火の前は夷四の小島屋あたりです。
次は「上海亭」かな。
(小池)それは鈴木和一郎さんの夷側隣で、今は吉良さんがいる。上海亭と吉良さんは関係なくて吉良さんは加茂線のどこかから来ている。
(山田)上海亭は昔は太郎平さん裏の角を左折して右側二軒目あたりにあり夷に移った。前リヨンさんのとこで出てきた山本しょーちゃんからその店でおごってもらった記憶があるなあ。昭和25年くらいかな。何でも食えと言うんで「うま煮五目そば」ってのを注文した。
(小池)上海亭の最初の経営者は向こう系(韓国・中国系)だったと思う。顔も覚えとるけど、地元関係の誰それと言うのじゃなかった。夫婦でやってたけど、ママさんも何だか日本人と違った気がする。そして引退してからは原黒に移ったなあ、それは二代目になってからだけど。肉屋の1さん(Aさん?)と噂があったりして。それは目がクリっとした魅力的な女性だったよ、あかぬけした。しかし、創業者はチャイナ系の面長の女性だったけど、二代目はその人とは関係なかった気がする。
二代目の人は旦那さんはいなかった。
(渡辺)ラーメン屋さんで思い出したけど、石黒肉屋さんの裏に青柳さんが居て、次男は私と同年で兄は5,6年上で両津中学校で長距離走で鳴らしたと聞きますが、その方が東京でラーメン店で成功してテレビによく出ていました。
ところで、石黒さんと青柳さんはどんな関係なんですかね。
(小池)はっきりわからんけど、新潟製氷の理事長をやり石黒肉屋もやった青柳ななお(七男?)さんが奥さんを亡くしたとかで子供二人連れて石黒さんに入ったんじゃないかなあ。石黒さんも子供が二人いたし。奥さんを亡くした青柳さんと旦那さんを亡くした石黒さんが一緒に住んだというか。
青柳さんの二人はこっちで生まれたんじゃないと思う。石黒さんはこっちだったけど。子供はボーイスカートにいたんで知ってるけど。
(渡辺)青柳さんは大学出て帰郷して製氷の社長でしたよね。彼の佐渡中学時代のポン友に西谷能雄(よしお)と言う二見の人が居て、後に「未来社」と言う出版社を興すんです。今もある、手堅い有名な出版社です。だから青柳と言う苗字はひとまず佐渡にあったのは間違いないですね。考えてみれば小木の蓮華峰寺も青柳苗字ですね。
(山田)石黒名字は自分の知ってる限りは昔からあそこにあり、氷なども売ってました。
(小池)ともかく、上海亭に戻すと、初代ママは向こう系、二代ママは血がつながったない人ってことですね。苗字も聞いたことないなあ。
(渡辺)佐和田にも上海亭と言う名店がありましたが昨年閉店しました。ご夫婦ともに大学出た人でした。父の家業を継いだと聞いています。夷の上海亭と関係あるかないかはわかりませんね。向こうの名字は関口ですわ。
次にずっと上町に来ますが、九兵衛さんは元々は上九で書画骨董と言うかそんな美術品や書道用品、お土産を売ってた店ですね。勿論私が知ってる頃は完全な肉屋で、でっかい冷蔵庫だか冷凍庫だかがあって豚の皮をはいだのが何十とつり下げられていました。石田さんと言う筋骨隆々の人がそれらを運んだりしていましたね。この石田さんは河崎辺りの人で、勝原印刷の石田君の親父かなあ。九兵衛さんは両津高校だか両津中学だったかその辺に屠殺場がありましたが、それを経営する組合の中心の店だったと聞いています。
そして食堂が成功して郵便局のはす向かい辺りの上九と言う名の食堂の支店を出したわけですね。伊貝さんの隣ですかね。
(山田)三ノ町には「君の家」があったね。俺達が子供の頃じゃなくて大人になってからだなあ。私の子供の頃には君の家はありました。名字は猪羽です。この苗字はどこから来てますかね。
(小池)そうすると前の団子屋(猪羽衣料店)と親戚かなあ。元気のいいあんちゃんがおったなあ。キカン坊で相撲も強かった。松田鍛冶屋さんの年代だなあ。
(山田)その猪羽は艀(はしけ)持ちで栄えた家です。その家の先祖から新町の山本修巳先生の所に嫁いだという記録が山本家に残っているそうです。そして離縁したことまで出てるそうです。船を持っていたか艀で稼いだか。
猪羽さんの親父が数年前に店先で涼んでいたんで、何か古い記録があるか聞いたら、子供が北海道に行ってて、家のことを調べたいと全部持って行ったと言ってました。
福浦の伊勢工務店が猪羽ですね。
(渡辺)本田屋さんの隣に更科さんがありましたね。その後、後の「テリア」のマスターとなる石塚安一さんが電気店をやり、次にテーラー本間さんになりましたが。隣に「更科」さんがあり、その隣の角っこが保刈パン屋と言うか丸藤パン屋と言うか。名字は保刈です。
(山田)福浦には保刈と言うお菓子屋があって、その弟辺りが夷二で丸藤パン屋を始めたんじゃないかな。
(渡辺)そうすると更科さんはその後、夷新にあるし、ツルヤの裏にあったし、神明町の太田食堂あたりにもありましたが、この三軒は本店支店分店と言ってた気がしますがどういう関係になるんでしょう。
私の小学校の頃、猪股国夫さんは本田屋さんの隣にいて高校生くらいでともかく元気が良かった。雪合戦みたいな雪玉の中に石を入れて子供の私にも投げつけて頭に当たり死ぬかと思った記憶があります。
(山田)夷新が本店で、ツルヤ裏は弟で・・。
(小池)猪股国夫さんは私の一年下で、夷新の本店の兄貴です。その前にどうも猪股さんは夷七に居た気がするんだけどなあ。更科と言う名前じゃなかったけど。国夫さんは喧嘩も強かったなあ。ともかく乱暴だった。
(渡辺)猪股国夫さんは両津高校出た後、東京で両津企業と言う会社を興して正恋しましたよね、とっても羽振りが良かったと聞いています。東京両津の会なんかで活躍したとか。
君の家さんはお婆ちゃんが料理を作っていて旦那さんは配達専門でした。
もしかして、猪羽と言う苗字からして元々は旦那さんは大工さんだったんでしょうか。
後には息子さん夫婦が後を継ぎましたが。
私の一年先輩に長女が居ましたがとてもきれいな方で、モダンバレーでとても目立っていました。
火事を出して近所数軒が焼失し、その後どこに行ったんですかねえ。
今は空き地になってますね、内田家具さんの隣が松本金十郎さん、その次になりますかね。
伊勢工務店の猪羽さんと言えばお酒が大好きで、大昔ですが、酔っぱらって太陽堂の向かいの村岡さんのどぶの中で真っ裸で寝てたらしいです。頭にタオルかけてたとかで、どうも大酒飲んで風呂に入ったつもりだったんでしょうかね。当時のどぶは蓋してなかったんですね。
(山田)そう言えば郵便局の仕事で伊勢屋さんが入った時、職員を飲みに連れて行って大判振る舞いしたとか聞きましたね。
(小池)猪羽洋服の方には私より4つ位上で相撲の強いのが居た。磯野秀衛さんの一年上で、下級生をしゃつけたりしてそれはそれは元気良かった。ともかく喧嘩が強くて団子屋って言えば有名だった。同級生の湊のもちやさん(斎藤幸之助)も元気が良かった。
(渡辺)そう言えばそのせがれ勉君が神明町でやってる店は焼き鳥の「幸之助」で、佐渡汽船の方は「幸ちゃん」です、親父の名前をとったとか。
うちの町内の二ノ丁には「喜月」と言う店があったんです。食堂のような一杯飲み屋のような、夏はかき氷売ったり。名字は吉田で、お父さんは小柄で愉快な人でしたが、短期間でなくなり、親父さんは花月かどこかで番頭さんになってました。金波会の写真に載ってました。
(小池)居たなあ、はっきりした記憶はないけど、眼鏡かけて背が低くて唄でもうたったかなあ。印象はあるなあ。
(渡辺)そうそうこんな写真があるんです。(昭和20年代の金波会の写真を見せる)増家貞吉さんが19歳の頃で、代表者が田中湖山さんで中村嘉明や喜月さん磯野昭知さん達が映ってますね。
(小池)ほほーーっこれは皆若い時の写真だなあ。顔はみんなよく覚えとるわ。増家(そが)さんは金波会におったのんか、それは記憶にないなあ。自分の記憶では、増家さんは鴨湖会の時しか知らんなあ。
(渡辺)居たらしいですし、この写真が証拠ですよね。増家から聞いたんですが、鴨湖会は敷居が高くてとてもじゃないが入れないんでひとまず金波会に入って修行したそうです。また千鳥会にも入っていたそうです。
実は「佐渡の民謡」と言う本を書く時に増家さんを訪ねて、彼の一代記をまとめたんです。増家が元気な今のうちに書いておきたいと思って。同じく松本正勝さんからも聞き書きさせていただきました。両津の民謡は勿論、佐渡の民謡全体としても貴重な内容が一杯でしたねえ。(ここで私の編著『佐渡の民謡』にある松本さんの聞き書きを読む)
松本さんに詳しく聞いたのが今から6年前(平成23年)ですから、あの時はここまで詳しく覚えてくれてましたが、今聞いたら果たしてどこまで聞けたか疑問ですね。増家さんも会った時にこんなことお聞きしましたねえ、と話したらそうだったかな、ほとんど覚えてないなあ、と。そんなもんなんですね。
(山田)松本さんは父親については触れてませんが、確かに松本さんの家と言うか、あの業界はいろいろ公に出来ないことがあるんでしょうね。しかし、こうして記録しておくってことは大切なんです。
(渡辺)元の「喜月」と言う旅館に戻りますが、経営者の吉田さんは沢根から来たと言ってました。今に思えば、沢根に昔から今に至るまで続いている「喜月」と言う旅館がありますから、何か関係があるかもしれません。そこに働いていたとか、親戚であるとか。
(山田)沢根と言えば伊里さんがそっちの出ですね。まあ名門の家は家を保つために婿をとったり早いうちに養子をとってそれに嫁をもらったりして家をつないだんでしょうね。手っ取り早いのは兄弟の子供をもらうとかね。俺達みたいなのは子供おらんならそれでお終いでいいけどなあ。
(渡辺)そうですね、伊里家は沢根とか佐和田、八幡に多いんですが、春日の伊里正高先生が言うには、自分とこも含めてそっちの伊里は全部新穂の瓜生屋がルーツと言うことです。今も少ないですがありますね。ルーツの地では少なくなったが、佐和田地区で広がったということですかね。
そうすると、夷2辺りから春日にかけては食堂はないんですねえ・喫茶店もなかったし。
(小池)まあ、あったとすれば巴屋さんの「マリン」だけどあれは新しいしなあ。まあ考えてみれば俺たちの若い頃は喫茶店に行くという雰囲気はなかったし、勿論店もなかったし。
(渡辺)巴屋さんを海岸の方に下った数軒目に「美鈴」食堂がありましたね。夏の花火の時などはいっつもそこに行ってかき氷食べたもんですが。愉快なタイプの親父がいつも元気に愛想を振りまいていましたが。
(小池・山田)あれはそう昔じゃないけどなあ。
(渡辺)でも私の小さい時からはありましたね。皆さんの時にはなくて私らの時にはあったということで時代がわかります。
(小池)親父は本間義昭でね、この前亡くなったね、私らの二つ位上だった。元々は橋本座のとこにあった本間鉄工の人だ、直系だね。親父が本間鉄工社長だったけど、止めてから食堂をやったんです。親父は唄でも唄って面白いオヤジだったけど。
(渡辺)私の記憶が間違いなければ、本間鉄工さんは泉から来てるんです。本間林三さん達も元々は泉から来てるし、多少引っ掛かりがあるのかなあ。湊の本間医院もそうじゃなかったかなあ。本間林三さんの兄の金年さんも両津で歯医者さんをやってたそうです。大正3年の両津甚句保存会発起人名簿に名前があるんです。弟が来たら相川に行ったようですが。福島徹夫先生が言うには、自分が相川にいる時にはその兄さんが相川で歯医者だったと。
本間林三先生は明治34年生まれですね。奥さんの父が明治の佐渡三奇人の一人の羽田清次、長畝の人です。尾崎紅葉や長塚節と文通してたそうで、彼らが来島するのもその縁でしょうね。
紅葉の場合は新潟まで、羽田さんが斎藤八郎兵衛さんと一緒に迎えに行っている。また、この方の弟が軍人羽田次郎で、長畝観音院に大きな碑があります。加えて言えば、佐渡高校の舟崎文庫ですが、相川出身の東大教授萩野由之先生が蒐集した佐渡関係の貴重な本は、先生没後、一括して東大が買い取ることになっていた。しかし奥さんが何とか佐渡に残せないものかと考え、羽田清次さんに連絡をくれた。羽田さんが佐渡関係者に手を尽くしたが高額で無理となり、結局は実業家で代議士だった金丸出身の舟崎由之さんがまとめて買ってくれて佐渡高校に寄付したんですね。
(渡辺)さて海岸通りに入りたいと思います。
「おけさ食堂」は両津高校教頭だった土屋長松さんの弟ですよね。元々土屋家と言うのは何商売の家だったんでしょう。
(小池)元々はわからんけど、俺たちの知ってる限りは丸善と言う土産物屋だった。屋号は土屋善太郎です。長松さんの奥さんがやってた。
(渡辺)土屋長松先生は東京理科大出て、東京の都立西高校の先生で両津高校が出来た頃に佐渡に帰りました。昭和22年の夷大火の日に帰ったそうです。偶然ですが、青野屋さんの青野誠治さんも同じ船で帰り、両津が燃えているのを海上から見たそうです。そして、家が焼けたんで歩いて沢根の青野屋に帰ったとか。
土屋先生はともかく東京の高校教師を辞めて家を継ぎに夫婦で?帰り、奥さんは土産物屋を旦那さんはたまたま出来た両津高校に勤めたのかな。高校が出来るのに合わせて帰ってきたのかも知れません。
(小池)長松さんのもう一人の弟は足が悪くて竹細工やっとった。おけさ食堂さんとどっちが年上かはわからんけど。場所は丸善の裏だからおけさ食堂との間かなあ。独り者だったなあ。いつも着物を着てて。土屋家のおじいさんは白髪だった。
(渡辺)土屋長松先生の長男と言うのは、昭和20年生まれで両津南中学出て早稲田学院に行き、早稲田の理工学部を出て建築家となってパリで活躍し、最近向こうで亡くなったそうです。(→人名録ー土屋重信)。同年の出山正さんから聞きました。
また、両津高校の玄関前にブロンズ像がありますが、あの像の作者が土屋長松さんの長男と聞いていたんですが、それは甥っ子だそうです。おけさ食堂の子ですかね。私達の1年下にもいましたが、その人かその兄か。
(小池)長男は大人しい子だったなあ。丈のすらっとした女の子も居たけど、あれは長松さん長男だか裏の家だか。そう言えば長松さんの妹もいた。東屋(あずまや)と言う家でお茶の先生で、独身だった。いちしめ(北忠雄先生)の隣だったかな。おけさ食堂は一代で終わった。
(渡辺)次は「鴨湖庵」ですね。創業者は今の亭主坂口昭雄君(昭和23年生)の親父ですかね、でっぷりした独特の風貌でしたが。他の人から聞いたことがあるんですが、鍋焼きだかラーメンを注文した時、そこに飛んでた蠅を親父が捕まえて鍋の中に入れたと。これが良い出汁になるんだとかいって。
(小池)へえ、しかしそんなことするタイプじゃないけどなあ。ともかく寡黙で全くしゃべらん人だった。
(山田)この前、鴨湖庵の弟子が東京庵と言ったけど、反対で東京庵が親方だな。昔の写真に今の東京庵から横断幕で店の名前が書いてあったからかなり古い店の訳で。
(渡辺)東京庵さんは、まあ前言ったけど大正12年生まれの人が京都帝大は言ったくらいだから、それなりにしっかりした人が親父だったんでしょうね。無口だったという婿さんの奥さんの親父ですが。大正12年生まれの親ですから明治30年前後の生まれですかね。私のちょっと下に美人のお嬢さんが居ましたがお医者さんに嫁いだと言ってましたね、看護婦さんだったのかな。
(小池)東京庵さんは、よくしゃべるお婆さんは婿さんをとり、その人は変わった人だったと言ったけど子供がいなかったんで、お婆さんの妹がお婿さんをとり家を守った。婿さんは市役所の車両課の人だった。
(渡辺)鴨湖庵さんは味が評判でしたが、何がウリだったんでしょうね。
(小池)蕎麦だなあ。あの親父は大柄な人だったけど、いつの間にかよそから俺の裏に移って来てたなあ。
(山田)その前は樋口新聞屋の隣の飲み屋の「野菊」のとこだったと思う。俺が郵便局に入った昭和29年頃食べに行った記憶がある。樋口さんの鴨湖側隣で、反対の隣は喜楽旅館だった。鴨湖庵が移転した後は柴田祿郎さんの「響」になった。響はその後移転して丸屋さんの裏に来た。響が来る前は「再会」があって、再会は今のこの角地の場所に来た。丸屋さんの裏のその前は「なかよし」と言う芸者置屋だった。そこに前にも出た山本しょーちゃんのお母さんが勤めてた。その後は「ベル」の後藤清一君の一家が住んでたなあ、商売屋ではなくて。その後、あそこで煎餅屋が居た。その店は春日町に行ったけど。その次が再会だなあ。
(渡辺)響さんは、その後「ミスティ」と言う名前の店になりましたね。純喫茶からバーと言うかスナックと言うか。
(小池)鴨湖庵に戻るけど、あのもんは河崎から来たなあ、椎泊かも知らんけど。長男もいたなあ。豊次と言ったかな。昭和16年生まれくらいで。
(渡辺)長男は一時新潟の都市開発関係の時、今のダイエー辺りで立体式駐車場を経営したりして結構羽振りが良かったと聞いてます。
次に鴨湖庵の斜め前辺りに「美奈川」と言う飲み屋の看板を見た記憶がありますが。
(小池)それは今のハトヤの前の両津タクシー、その海岸通りの隣にあった。経営者は女性です。未亡人だった気がする。お母さんは知っとるけどお父さんの顔を見た記憶がない。子供は皆川兄弟で磯野秀衛さんと一緒だから昭和6年位の生まれかな。その上にも眼鏡かけた紳士で皆川さんが居た。
(山田)看板はそうだったかも知らんけど名字は皆川だった。居酒屋で二階に部屋があった。その前は神明町でやってた。皆川さんの一人は秋津の水井陶器と言うか水道工事などの、そこに勤めてた気がする。兄弟で走るのが早いって記憶がある。皆川さんは婿さんに行って斎藤になった。神明町の角の伊藤七蔵さんの家に宿借りとった幼稚園の斎藤先生の婿さんになった。高校の同級生だったかな。今は春日町に住んでる。奥さんは美人さんだったけど、最近は見ないんで死んだかなあ。
(小池)皆川さんの兄は秋津の水井陶器さんと親しかったのは知ってる。
(渡辺)ともあれ、美奈川は一代で終わったわけですね。
他に「平和屋」って一杯飲み屋がありましたが。太陽堂を下る通りと言うか、反対側の角のパールパーマ(村岡さん)を下った角地です。
(小池)それは元々は樋口新聞辺りの並びにあったなあ。三の町は後で。色白の女性が経営者だった。水商売の素人でない感じだった。
他にあった「平和グリル」ってのは頭のつるっとしたおっさんがやっていた。あの自分の洋食屋と言うか。
(渡辺)私の記憶ではその女性の子供が私達の1年先輩に居てなかなかあか抜けた人で高野と言う苗字だった気がします。
それじゃあ、今神明町にある高野食堂はどうなんですかね。
(山田)あれは平成になってからじゃないかな、白瀬の高野で兄貴は郵便局に居た。
(渡辺)そうですか。すると、その白瀬の高野さんの所に国立民俗博物館館長の須藤健一先生の姉?が嫁いでいるんですよね?須藤先生は埼玉大から神戸大教授になり国立民博の館長になったんですが、大学生の頃小池さんの所に鬼太鼓の面のことで調査に来たと言ってましたね。須藤先生の専門はニューギニヤ辺りの民族関係なんで、あの辺りの土人の面と鬼太鼓面の関係などを調べていたんじゃないでしょうか。
(小池)俺の知ってる須藤ってのはおとなしくて丈の小さい男で、色白の。この須藤だと思うけど、藤新と親戚じゃないかな。
(渡辺)須藤と言うのは椎泊に二軒あって一軒は願誓寺で、須藤先生はその分家です。何ですか、南北朝時代の難を避けて須藤兄弟が椎泊にやって来たとか。本家の長女は尚子ちゃんで梅川本店の高橋家に嫁に行ってますし、弟の信宏くんはケアアネージャーやって佐渡に居ると聞いてます。
(小池)高橋さんと言えば足の悪かった高橋秀世さんは亡くなったね。最近は会ったことなかったもの。
(渡辺)高橋秀世さんは確か30代で県議やった記憶がありますが。あの家の庭に大きな石碑がありますね。高橋幸吉さんだったかな、確か東大出てた気がしますが。
(山田)この高橋家が両津高校が出来た時土地を寄付した。平垣のある大きな家の人で。
(渡辺)この高橋ですかね?私の記憶では高橋礼作さんが寄付しましたが、この人は梅川家の人ですかね?
(山田)そりゃあ間違いないと思う。高橋礼作さんが亡くなった時生徒はあの家に行って並んだもの。
(渡辺)わかりました。こうですね、「佐渡人名録」によると、高橋礼作さんは佐渡を出て税務署等に勤務してなどとありますから、高橋幸吉さんの弟あたりで、自分名義の土地がありそれを両津高校に寄付したんじゃないでしょうか。
話を変えてすみませんが、例の社会学者の竹内洋さんが居たのはどこですか、その辺のはずなんですが。
(小池)それは今の仙台屋の場所。
(山田)神明町の寺尾さんと子にもいたよ。
(渡辺)仙台屋さんですか。私の知ってる時代はあの元気のいいおばあちゃんが居まして、体格のいい旦那さんは軍人で仙台に居たとかで仙台屋と付けたとか。お婆ちゃんは伊藤七蔵の長女で、次女が山玉さん、三女がアリサの高本君子さんですかね。年下の長男は渡辺甚九郎さんで。
(山田)仙台屋さんは向こうから帰って来て最初は伊藤七蔵の裏に店出しとった。呉服担いで行商していた。
(小池)仙台屋さんが夷三のあそこに行く前に竹内さんが居たと思う。
(渡辺)竹内さんのお父さんは、詳しく聞いたことはありませんが、和木かあっちから出てきて、山さき(林業、建材業)をしていたとか。
続いて、夷2の裏へ来て「美奈子」さんはどうでしょう。
今の色白で大柄なおばあちゃんが始めたんでしょうか。昔は色気があったんでしょうね。漁業関係者にお客が多くて、特に漁帰りの早朝なんかに繁盛したとか。
(小池)「一休館」と同じ場所だかや。
(渡辺)同じです。私の町内なんである程度分かるんですが、昭和22年の夷大火の後に一休館と言う旅館が出来たそうです。一休館は富樫苗字ですが、親父は富樫栄吉と言うたいした三味線弾きで、初期の鴨湖会の主要メンバーだったとか。
(渡辺)ところで、夷一の藤原弥治平さんは私の子供の頃ちょっとした食堂をやってた気がしますが。今は藤原製麺所だけど。製麺所は豊君と奥さん、彼の母と昭和22年生まれの姉さんとやってまます。二階は数年前まで「リッチ」と言うスナックをやってました。昔の親父はいつも着物着て腕組んで独特の雰囲気のある人だった。今の息子の豊君にも通じてるような侠客風の雰囲気と言うか。製麺所をやりながら食堂もやっていたのかなあ。私も小学生の頃だから昭和30年代初め頃、良一叔父さんに連れられてそこで氷水食べました、今思えば山田さんも一緒でした。
(小池)間違いない、俺も覚えてる。よくわからんけど食べ物屋だった。そば屋ではなかった。親父は何だかおそげーような遊び人のような人だった。
(渡辺)そうそう、「魚喜知」さんがありました。丸い太めんの鍋焼きは本当においしかった。この店は?小柄で太った人で野球好きな人でした。苗字は渡辺でしたね。
(山田)場所は吉田屋の湊側の前の角だった。この前火事になった前の家。
(小池)どこかの食堂で腕磨いて独立したと思う。名前は渡辺福蔵。野球連盟の会長だった。自分は野球はしないけど大好きだった。
(山田)面倒見がいい人で野球関係者を可愛がっていた。野球関係者はそこで、バスケット関係者は九兵衛さんだった。俺達が子供の頃は魚喜知は店でなかった。座敷があって、食堂と言うより料理屋と言うか。
(小池)二人は年はかなり違い、魚喜知さんがかなり上だった。昔は座敷に上がって一杯飲るような感じだった。俺達は野球部だったからよくごちそうになったもんだ、魚喜知のとうちゃんにはお世話になった。
(渡辺)お父さんが亡くなってから店はやめたけど、又「ビストロ魚喜知」と言う名前でお洒落な店で再開しました。何ですか、東京から福蔵さんの子供が帰って来て営業を再開したとか。結構年配の方でしたが。再会後、10年もやらなかったかなあ。
(山田)再開したお店は、娘の節子さんでなく、まり子さんがやり、旦那さんは湊の浜松さんだった。勝広寺の弟じゃないなあ。(小池:まり子さんは早く佐渡を離れたんじゃなかったっけ?)。いやいや、また佐渡に帰って来て店をやった。
(小池)その浜松さんはお寺の直接関係者かなあ。確か、仙宅さんの関係かで松竹映画関係だった気がする。それじゃあ長女の節ちゃんはどうなったんだやあ?
(山田)それは魚喜知の裏で仕出し屋をずっとやっていた。節ちゃんは亡くなったけど。その下には ななみ と言う女の子もいた。私の下の弟と同級生で。
(渡辺)そうすると、魚喜知さんが座敷もやり、仕出しもやりと言うことですね。仕出しの方は長女が引き継いだというか。店の方は福蔵さんが亡くなり閉店後にかなり経ってから次女夫が帰って来てお洒落な喫茶店のような店をやったということですね。
(小池)福蔵さんの親戚は知らんけど、うちの町内の山口八次郎と関係があったのかなあ。(渡辺:八次郎さんには新潟交通の専務やった人が居ましたよね)
(渡辺)次に「魚普」さんはどこの人ですか。渡辺名字ですよね。すると渡辺普一とか言う名前だったんでしょうかね。渡辺晋とか。
(山田)「花月」の料理人だったんじゃないかなあ。独立して最初は斎藤さんねむさん(現「TOM」)のとこで仕出し屋やってたと思う。私が子供の頃、そこで仕事しとったのをガラス越しで見ていた記憶がある。昭和10年代後半頃かな。そこからあの場所(今の島田医院を下って数軒左側)ですし屋になり大繁盛した。
ぎえむの紀一(神蔵紀一)が言ったのは、昔花月に納入業者が集まる会があり、魚はギエム、酒はイチヤマショウ(塚本輝雄)で、そこに魚晋も出てたと。
(小池)二階などは大繁盛で漁師の連中なんか大騒ぎしとった。
(渡辺)魚晋の後に一時「魚河岸」と言うすし屋になりましたね。私の同級生の石川晃君がやったんです。元々は八郎平町にあった「魚河岸」(「ベル」の隣辺り)の職人だったかなあ、そこで主人になって、魚晋後に引っ越した。一時は良かったけどもダメになりましたねえ。
(渡辺)そして魚晋の息子が画家になったと。水津燧(みなづひとる 昭和27年生)ですね。
他のすし屋ですが「助六」はどうですか。
(山田)すし屋はこの前亡くなった人が始めたすし屋で、元はお母さんが飲み屋やってた。名前は「助六」で。
(渡辺)今は店はやめて奥さんはどこかに手伝いに行ってるそうです。佐渡の人ではないそうですが。すし屋としては一代限りですか。
次に喫茶店はどうですかね? 「木の実(このみ)」さんが始めだそうですが。柴田祿郎(昭和13年生)さんの兄ですかね。
(山田)その奥さんがやり、旦那が手伝ったというか。亡くなった柴田四郎左衛門さんの弟が「木の実」さんで。祿郎さんは新発田の奥さんのとこへ行ってるそうです。
(渡辺)柴田四郎左衛門さんは大柄ででっぷりしてましたが、弟さんは細身でしたね。その六番目辺りに祿郎さんが居たと。六さんは野球がうまくてピッチャーでしたね。球が遅くても打たれんかッた。遅くても打たれんのはそっちゃんと六さんだって有名でした。(笑)
(小池)六さんが遅いと言っても俺よりは早かった。俺達はともかく内野ゴロ打たせるピッチングだった。だから内野がうまいからもった。昭和29年の秋の大会の決勝は相川とやって1:0のノーヒットノーランで勝った。内野がよく、三遊間のレフト前は伊藤旅館の中川博光君が取ってくれた。サードには渡辺浩二郎くんが居た。
相手は焦ってカッカ来るから益々打てんかった。
★飲み屋
(渡辺)「ミロ」って店がありました。昭和41年頃です。磯野恭二さんがその後二階で「京」を経営しましたが、その一階で磯野さんの兄の文明堂さんと高橋信一先生、兄の本間幸二さん、中学の美術の先生だった福浦の斎藤清さん達が出資した店のはずです。「ミロ」って名前が如何にも芸術家が経営した店らしいですね。本間幸二さんはハンマー投げでなんかの大会で日本一か二位かになってましたね。
(渡辺)当時の飲み屋と言うかバーなどについてお聞きします。確かリヨンなどが高級だった気がしますが。
(小池・山田)リヨンの場所は今の「天の川荘」です。経営者だったかどうか知らんけど、180㎝位もあって、やくざっぽいような、色白の美男子がいた。この店は相川が本家です。相川が昭和20年代後半にすたれ始めて、それと関係があると思う。勿論、最初は相川と両津と両方やってたかも知れない。(渡辺:昭和27年の鉱山大縮小で相川の街が一気に疲弊した)
経営者だかなあ、山本しょーちゃんがいた。山本しょうじで俺(山田)の二級上だった。母は芸者さんだった。バーテンやってたけど経営者でなかったと思う。その人は経営者でなかったとしても、何かリヨンとつながりがあった人だと思う。佐渡高校へ行ってて高校二年の時、両津高校に入ってきた。丸屋さんの裏に芸者置屋があって、お母さんはそこに所属してる芸者さんだった気がする。後藤正幸先生と同じくらいの年かな。私(山田)はそのショーちゃんから勉強を習いに行った者です。ショーちゃんはその後、東京にでも行ってて佐渡に帰りリヨンに勤めたんかなあ。
(渡辺)リヨンは昭和40年代にもありましたが、他にはどんな飲み屋がありましたかね。「夢路」が豊屋さんのはす向かい辺りにあったのを覚えています。その後、「藤ちゃん」(大塚富士夫と奥さんのふじ子さん経営)になったかな、二階に上がって行く店で。「夢路」には私の同級生の確か木下富士夫君っていう吉井のモダンな子が勤めてましたんで、昭和40年代初めかなあ。
(小池)「夢路」ねえ。夢路のオーナーは水津の方の人で相田と言った。その後新潟に行って店をやった。両津にあった時の場所は確か「梅園」辺りで、その後の「紫」あたりかなあ。相田さんの妹は俺と両津高校で同級生だった。なかなか美人さんだった。
(渡辺)「紫苑」( しえん)がありましたね。佐渡を出た後は新潟佐渡汽船内で同名の喫茶店をやってましたが。かねやまさんなんかの親戚だった鳴子屋さんが経営者でしたかね。どこかの二階、今の「銀太郎」辺りの二階ですね。昭和41,42年頃、私は大学生でしたが大変はやっていて、当時、殺人事件だか傷害事件だかありました。酔っぱらって喧嘩して私の1年下のS君が人を刺したとか。
(小池)「紫苑」は何かあって名前が変わって紫苑になったと思う。元は喫茶店じゃなかったかなあ。新潟では鳴子屋の女の子がやってるね。俺達の二年下の子。鳴子屋は喜楽の関係だった。
(渡辺)私の同級生に鈴木範夫君(鈴木ミシン店)がいて、お母さんが「楽園」と言うバーをやってました。神明町にあって、お母さんと言うか店のママさんはぽっちゃりしたやり手の感じでした。その後絨毯バー「テリア」になった辺りの店です。テリアは太田食堂の隣かなあ。経営者は石塚安一さんで奥さんは春日町の後藤さんでしたか、おばあちゃん(小池・山田:いとさんと言う名前だった)が新聞配達してた。奥さんも旦那さんが亡くなった後、佐長さんの前あたりの八郎平町でバーをやってましたね、名前は何だったかなあ、細長い三階建てのビルで。そう昔のことではないですが。安一さんの弟さんはスーパーキング両津店の店長やってましたね。原黒に住んでます。安一さんは最初、うちの近くの今の本田屋さんと保刈パン屋さんの間で電気屋さんやってました。その後テーラー本間さんになりました。私の子供の頃は更科ソバ屋でした。安一さんは豪快でキップのいい人でした。「テリア」ははやってましたねえ。昭和45年頃かなあ。大変犬好きの人で今で言うブリーダー、即ち動物の子を販売するようなことで儲けたと聞いています。店名の「テリア」もヨークシャーテリアが元で、その関係で付けたんでしょうね。
(山田)昔の飲み屋のことを調べたいと思って飲食店組合に名簿欲しいと言ってあるんだけどまだもらえなくてねえ。私自身が飲まないもんで、飲み屋のことは本当にわからんなあ。しっかり書いとくといい資料になるんだけどなあ。
(渡辺)住宅地図とかである程度はわかりますかね。でも、五年もたんで閉店するのも多いし。
(山田)山口写真館は知っとるかやあ。(渡辺:知ってますし、相川が本店だと思うんですが詳しくは知りません)ヤマカクさんの裏で平田さん(銘石堂)が居たとこかな。結婚式の写真はそこでした。本家は相川の山口写真館で。
(渡辺)ヤマカクさんが写真やったのはその関係じゃないでしょうかね。自分の一角に写真屋が来たので、先代の本間治郎さんが写真やるようになったとか。ヤマカクさんは戦前からたくさん写真を撮り加茂湖での豚だか牛が泳いでる写真や映像も撮ってますが。
(山田)そうかもしれんなあ。最初は新潟交通のバスに乗って観光写真などを撮って販売してたから。私の子供の頃は呉服屋だったけど写真を趣味で初めて、観光写真に乗り出したというか。本間次郎さんは八幡出でその弟が正札屋さんの先代です。本間忠男さんと本間節郎さんは従弟と言うか。(渡辺:節郎さんは婿さんで元は加茂の方の安藤名字です)正札屋さんのお父さんは確か新潟交通に勤めてました。(渡辺:そう言えば正札屋さんが一時、お店の裏で土産物卸をやってましたがその関係かなあ)お父さんは芸人で、戦後の橋本座で楽団(明星楽団)や演芸があった時、あの人は女の人と漫才やってたなあ。女の人で歯医者さんだった。音楽も好きだったと思う。
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