2017-02-20
「重要資料」
➡『両津鬼太鼓組五十周年記念誌』(平成7年 山口巌著)(◆「参考資料(文献・書籍)」)
➡『太鼓人生六十年』(平成7年 山口巌著)(◆「参考資料(文献・書籍)」)
➡『両津町史』(「佐渡布教史」ドロワール氏遺稿 p626~)
➡『両津町史』(中川雀子氏の明治の話)
山田昭夫(s10年生)、小池荘一郎(s12年生)、伊豆野泰弘(s16年生 湊出身東京在住 )、出山正(s20年生 湊出身 東京在住)、渡辺和弘(s22年生)
「★山田昭夫」
両津神明町で昭和11年2月27日生生まれて80年です。純粋の夷っ子で両津小、両津中、両津高校卒です。その後郵便局に勤め、退職後好きなことをさせて頂いて今日に至っています。
うちは親父の代から下駄屋です。爺さんは赤玉から出ており、山田苗字です。父は若い頃は信州の紡績関係で働いていたそうです。祖父は北海道に出稼ぎしていた漁師です。赤玉の山田家については詳しくわかりませんが、赤玉部落誌に先祖の名前等は遡って出ているはずです。
家業の下駄屋ですが、うちは他所から仕入れて販売してました。同業の久保谷さんや計良さんは自分とこで製造して販売してました。今の時代と違って当時は下駄専門でした。
ただ子供が五人居たんで下駄屋だけでは生活が大変でしたので、沖の烏賊場と言うか、八郎兵衛の梅助さんなどの船に乗っていました。
こんな親父達のまじめな生き方を見てると、国や県に予算をよこせなどと言う今の風潮に首を傾げます。
母は外海府の矢柄の出です。その兄は文弥遣いで有名になりました浜田守太郎です。
したがって私は守太郎さんの甥っ子ですね。
何年か前、両津小の校長で浜田毅(たけし)が来ましたが彼は私の従兄弟です。
祖父の連れ添いである私のお婆さんは早く亡くなっていますが赤玉の人でした。
しかし、私の祖父が3歳頃に亡くなり、私の姉や妹が居たんですが父親の実家に預けられたそうです。
父親はその間北海道に出稼ぎに行ってたわけです。
私の妻は最近亡くなった河内の静間勝の姉となります。
「★小池荘一郎」
昭和12年2月5日生まれです。今度の誕生日で80歳です。生まれは両津夷12-1で夷7の町です。
父の代から印刷を始めました。場所は両津欄干橋の湊側の加茂湖側です。この並びの一番夷側の端に警察署があり、その隣が私の家でした。
当時の土屋六衛門町長は私の家である小池佐太郎から出た人だったんですが、この一番端に避難道を造りたいと言うことになり、夷に家を建てる敷地があるのでそこへ移ってくれと言うことになりわが屋は夷12-1に移転したわけです。
一番夷側に避難路が出来て、警察はその道路分、湊側に動いたことになります。
今も一番加茂湖側は道路ですよね。
■土屋六右衛門
(小池)土屋六右衛門は小池佐太郎(屋号)の次男坊で、夷3の俵屋に養子に入りました。
私の父は和義、祖父は佐市です。したがって、名前はわかりませんが佐市の父、即ち私の曽祖父の弟が土屋六右衛門となります。
俵屋さんは今の植田病院の所です。私の小さい頃は俵屋という家がそこにありましたね。
その家には男がなく、女の子は二人居て次女が東京の富永さんに嫁ぎました。
この次女はとても体格のいい人でした。
富永さんは東京から港湾関係の技師として佐渡に来ていた人で、今大川の津神神社の端を渡ったところにある説明版に富永さんの名前が残っています。
もしかして建設省あたりの役人だったかも知れません。
大川の石は質が良く両津の港湾建設に使われたようです。築港の石は大川から持ってきたものです。
(渡辺)夷諏方神社にある立派な手水鉢は富永さんが大川から掘り出したもので神社に寄付したとどこかに書いてありました。この手水鉢は昔は、安藤宮司家、保育所、延命寺、今のみなパーマの十字路の安藤宮司宅の所にありましたね。また、その加茂線側の藤村畳屋の横には大きな防火水槽がありました。
(小池)土屋六右衛門の長女は詳しいことは知りませんが早く亡くなったと聞いています。
大川から石を運んだ関係で両津の築港にはサザエやアワビが一杯とれたと言われます。
土屋家には養子で入った土屋哲二郎さんがいたが、若林家(玄益)の親戚辺りから養子に入ったと思う。
彼は東京から帰った時は必ず若林家に寄っていた。
帰省の時に「これから若林に行く」みたいなことをよく言っていた。
哲二郎さんはいつまで佐渡に居たか知らないが、大変気性の激しい人でいろいろとトラブルを起こしたと聞いている。
(渡辺)本間林三先生の回顧禄みたいなものに六右衛門さんの死後、土屋哲二郎さんが町長選挙出馬を勧められているようなことが書いてあった。
また哲二郎さんは若林化粧品屋さんの親戚である中村回漕店の人と聞いている。今のサンユウさんの所です。
(小池)その場所は中栄さんがあったとこじゃないかな。
(渡辺)その後、石見フードになったかな。
(山田)土屋六衛門が亡くなったのは昭和11年なんで小池さんの生まれる前の年だと思う。現役だった。その時に回りが哲二郎さんに町長選挙に出ろと言ったと思う。
(小池)私が聞いている話では、私(荘一郎)の名前を付けて、佐渡を離れて三条市で亡くなったと。
哲二郎さんはあまり親戚に歓迎されていなかった。
おそらく彼は佐渡が嫌で、早くから新潟か東京かどこかの学校に行ったと思う。
但し、六右衛門さんが東京に家があったような話は聞いていない。
(山田)土屋六衛門さんの奥さんと養子の哲二郎さんは肌が合わなかったと聞いている。
(小池)六右衛門さんの奥さんはこごめ(秋津)から来て居た。目が悪い人だった。最初の奥さんが亡くなって後妻さんかも知れない。
(渡辺)土屋仁六遺稿集だったと思うが、土屋六右衛門の長女は河崎出身で東京にいる白井判事に嫁がせたと書いてあった気がする。
(注)土屋六右衛門については➡ブログ「佐渡人名録」➡土屋六右衛門 に年譜等詳しく載っている。
(小池)長女の方は子供の記憶ではとてもスリムな人だった。妹とは同じ姉妹かなと思うほど違った体形だった。
和義は新潟の印刷屋(活字屋で「高庄」)に奉公に行った。印刷をやってたかどうかわからないが自分の知ってるのは活字を造る活字屋だった。
自分の代になっても活字はそこで買ったし、浅川と言う活字屋からも買った、そこは印刷をやってたかどうかはわからないが。
父和義は新潟で一人前になって帰り、前に書いた城の内で印刷屋を始めた。
祖父佐市は全く印刷は素人で父から習いながら印刷を手伝っていた。
佐市は元々何をやってた人かわからないが自分が知ってる時は祖父も印刷をやっていた。
佐和田鍛冶町にあった斎藤長三さんの斎藤印刷から印刷関係の器具などを譲り受けたのではないかと思う。創業時に何かとお世話になったと思う、父はよく斎藤印刷所の話をしていた。
祖父はほとんど紙切りだった。断裁機はないので大きな紙切り包丁を使っていた。
あの包丁は今はないが本当に懐かしい。自分で磨くというか包丁を研いで使っていた。四角い包丁だったが使っていると角がとれて来たものだ。
(渡辺)鍛冶町の斎藤印刷は佐渡の印刷業界のパイオニアで、経営者の斎藤長さんは政治家としても大物だった。
「佐渡政党史要」とか言う大著を出している。印刷所の写真などもある。
➡「佐渡人名録」➡写真(佐和田)&➡斎藤長三
・「斎藤八郎兵衛回顧録」
(山田)「斎藤八郎兵衛回顧録」って本があるんです。「両津市史」作成の時に資料となってそこからの情報がたくさん出て来ますし、梶井さんの「安照寺史」にも様々出てくるんです。ところがいろんな話があって、一つはこの本を土屋六右衛門が直していると言うんです。土屋は斎藤の政敵ですから、都合の悪い部分を何とか・・とか書き足すとか、ってことでしょうか。その関係でこの本は門外不出になってるんです。そこで甲子郎さんが亡くなった後だか前だったか、ある人を介して、両津のことを調べているんで見せて欲しいと頼んだんですが、門外不出と言うことで断られましたね。
私としては政治的な思惑は別にして、純粋に夷のことを知りたいと言うことだけなんですが。
(渡辺)政敵と言うと考え方もまるっきり違うんで、いろいろ事情があるんでしょうね。晩年はそれなりにお付き合いしたようですが。
(小池)へえ、そんなことがあったんだかなあ。二人の年はどうなんだやあ?
(渡辺)例の御番所の松の木の下で二人が写した写真がありますが、昭和11年撮影で、斎藤八郎兵衛83歳、土屋六右衛門69歳ですから、14歳年の差がありますね。「土屋二六回顧録」に載ってるんです。
(山田)この写真が役に立つんだっちゃ。今この松を何とかしんなんと湊の中川吉右衛門さん達が頑張っとるわの。この写真の根を見るとの、ものすごく露出しとる、しかし今はもっとずっと土で埋めてあるわの。それだけ松をいじめとることなんじゃないかな。この写真は松を保護したいと言う大学の先生達も見てくれ、参考にしてくれてるんです。大変感謝されました。
(小池)土屋六右衛門の長女は病弱だった。その人達との付き合いは全くないなあ。次女が嫁いだ富永さんとはずっとお付き合いしとった。富永さんの奥さんは佐渡に帰って来ても家はなかったから俺うちに来たりしとった。昔の築港のあたりを潜って見るとサザエなんか一杯とれたけど、あの岩は大川から持ってきたもんだから貝なんかが付いて来たんだと思う。
(渡辺)どこかに書いてあったけど、夷諏方神社の手水鉢の石は富永さんが寄付したらしいですわ。大川辺りの岩を築港に運ぶ時、いい岩を見つけたんでしょうね。この手水鉢は佐渡一じゃないかなあ、姿形は。
(山田)そう言うことを手水鉢に書いておくことが大事だわなあ。由緒を伝えることも大事だっちゃな。津上神社の標注にしてもあれがあることによって今でも昔のことが偲べるわけで。
(渡辺)確かに、そうすれば富永さん、土屋町長の名前ばかりでなく、石の来歴を通していろんなことがわかりますね。
(小池)私の母は大川出です。坂野と言う家で今直接の家はなく、同じ苗字の親戚の家があります。坂野家は満州で全滅したのです。
祖母は最初は野町の高井三右衛門(さんねむ 高井輝義先生の家)から来たが早く亡くなったので大川の坂野家から後妻が来ました。
それで、和義の妻はこの後妻の妹になる人でした。後妻の人は当然年が若いのでその妹が次の世代の妻となる年代だったのでしょう。
小学校は両津小です。今で言う野球少年で、自分の世代小学校、中学校、高校と全て優勝しました。
野球は小学5年から本格的に始めました。先生は川島泰蔵です。先生の指導があったればこそ全て優勝できたのです。
■野球(川島泰蔵先生他)
川島先生は旧制相川中学出身で長く朝鮮に行ってました。
夷2の町の銅屋さんの裏に住んでいたが、先生の兄が住んでいた家ではないかなあ。
両津小時代はその辺に居たと思う、夷に居たことは間違いないはず。先生は夷の後、湊に住んだと思う。
(渡辺)銅屋さんの表は今で言う消費者金融みたいな二幸商事で、その後、そこの奥さんになった小野(旧 帯刀)伊勢子さんがお花屋をやっていた。今も時々、川島先生の娘さんが帰ってきている。
川島先生は晩年はこの銅屋に住んでおられた。
(山田)川島先生は次男かなんかで、実家の近くに住んでいたような気がする。川島先生が私の弟を殴ったことがあり謝りに来た。その時父は、遠慮なくバンバン殴って下さいと言っていた。
弟は自分が悪いことをしていたことが分かっていたので、親父がそう言ってくれて救われたようだった。
(渡辺)川島先生は西山栃餅屋の深雪さん(s25年生?)の大工さんだったお婿さんを北海道から連れて来た。引っ掛かりのある人を連れて来たと言ってたが、あれはどんな縁だったのだろう。
先生は相川中で野球をやっており、友人に旅館の次男で谷口という男がおり、その息子がバスケで日本を代表する選手になった谷口正朋だと言ってましたね。
谷口正朋さんは私の一年上のS21年生まれですが、ミュンヘンオリンピックの得点王になった選手で、日本の歴代プレーヤーの中でも一番有名な人ですね。
彼の母は大瀬家の人で佐渡相撲の巨漢力士でした。私も見たことありますがものすごく大きい人でした。
(小池)大潮じゃないかな、相川の大潮は大きかった。川島先生は朝鮮師範出たんじゃなかったかなあ。先生は大正一桁生まれだと思う。
川島先生は湊の椎野剛一さんと親戚のはず。先生の奥さんが金沢屋出じゃなかったかなあ。
先生はずっと金沢屋に宿を借りて居た。金沢屋の裏辺りに家が今もある。奥さんは椎野熊吉さんの娘さんとか親戚とかだろうか。
ともかく先生は両津の人だとは思う、兄も夷に居たことだし。
そうすると夷の三ノ町にあった川島徳四郎(国府証券?)さん辺りが親戚かなあ。
川島先生は朝鮮に居た時野球を覚えたと言ってた気がする。
プレーヤーとしてはあまり覚えていないが試合には出て居た。かなり年を取っていたと思う。
剛球投手だった石川書店さんの10年位上だったと思う。
(山田)小池清吉さんも投手やったんでは?
(小池)いや、あの人はピッチャーはやらなかった。当時の野球やっていた先輩大先輩について話してみます。
ずいぶん年上ですが、新潟交通に大山((渡辺)同年のなる子さん父)さんがいた。最後は関係会社の八幡館に行ったなあ。年齢的には川島先生くらいかなあ。長身でファーストだった。
投手は石川さん、今の石川書店やってる大きなお爺ちゃん。弟は空手で、明治大学へ行ってやってた。兄きも多少やってた気がする。
(山田)あそこは兄弟たくさんいて、はしけーのんばっかりだった。
(小池)兄きは相中で野球やっててオール両津に入った。川島先生も相中だけど接点はなかったと思うけど、オール両津では一緒にやってた。石川さんはオール両津のピッチャーでスタルヒン投法だった。
小池清吉さんが同時代で大光銀行にいた。今のお爺さんの弟だから今の親父の叔父さんだ。湊の美人さんだった佐々木さんからお嫁さんもらった。野球やってたのは独身だったどうか覚えてないけど。
清吉さんも一塁で、大山さんと一塁守ったり他を守ったりしていた。
(山田)あの頃は野球が強くて、河原田までバスで見にいったもんだ。
(小池)私の知ってる頃は川島先生が一番年上だった。その頃のオール両津は佐渡で優勝していた。野球人気が始まった頃だった。
(山田)赤バットの川上、青バットの青田の頃だなあ。「野球少年」って本を買っていた。
(小池)その下の世代になると湊の伊豆野祐輔さん達がいる。夷7の磯野秀衛さんもその年代だ。
川口はその下の世代だなあ。他には2年上に浅野薬局さんもいた。吉田タイやさんとか、秀衛さんの一年上で。小池清吉さんは1、2年上だし。秀衛さんは私の6つ上だから昭和7年生まれかな、斎藤甲子郎さんの1年下だから。秀衛さんも投手でうまかったなあ。両津中学校時代からうまかった。中学出て礎町の自転車屋で修行して帰ってきて両津でずっと野球をした。磯野善五郎さんはみんな運動選手だった。一年下のテツオはバスケットの選手で、同年のりょうえいさんは野球の選手でうまかったなあ。
(山田)りょうえい君はうまかったなあ。後年、両津の昔を書いた文章に河崎の宇佐美薫君が「両津の磯野君の華麗な守備には・・」と絶賛していた。高校になったら二人は同じクラスになった。
(小池)斎藤吉右衛門さんは選手として長かったなあ、年は6年くらい上だった。学校時代の接点はないけどオール両津では一緒だった。九兵衛のお父さんは選手じゃなかったけど。応援してくれた。その年代だと野本さんだけだなあ。
野本さんの野球はあか抜けしてた、洗練された野球というか。
この年代は他に大山さんとかで石川本屋さんも下の方でやってた。
(渡辺)野本さんは甲子園行ってるんですよね。確か金沢の今で言う金沢二水高校時代って言ってましたねえ。年はうちの親父の一年上だから大正11年生まれですね。
(渡辺)川口孝さんは鳥取の境港から来たと思うけど、境高校当時、同年代に後に阪急ブレーブスのエースになった米田哲也がいてエースになれんかったと言ってましたねえ。その後は新潟商で活躍したとも本人から聞きました。
(小池)当時の両津中学校は佐渡一だった。投手小池、投手太田義雄(魚屋)、一塁や外野は渡辺耕二郎で渡辺伝蔵って家でうちの町内にいた。今、福浦の電報電話局あたりにいる。当時は山五旅館の並びの東宝さんの隣にいた。今の伊貝さんの家。その姉が吉田タイやさんの奥さんです。渡辺さんは打力がよく三番四番だった。それと伊藤旅館の中川博光さん。高校の時は渡辺君がサードで中川君がショートだった。私の緩い球は内野ゴロに仕留めて彼らがさばいてくれた。打たせて取るピッチングで高校三年の秋の大会はノーヒットノーランだった。内野陣がよかった。平木実君もいた。
一年上には磯野良衛さんが居た。長男が鴻?衛(こうえい)、次男が秀衛、三男が良衛、四男が哲夫で長男以外はスポーツ選手で、お父さんも東北電力で野球の選手だった。お洒落な人だった。年齢的には佐渡の野球事始めって時代です。磯野秀衛さんは昭和22年の第一回佐渡中学野球大会の優勝投手です。
その後24年が鈴木和雄(屋号、和一郎)さんや竹内謙三(竹内床屋)さん達です。
1年上には磯野良衛さんや湊の北巌太(いわた)、北さんは投手だった。城の内の斎藤吉右衛門の弟で恭志(きょうし)も居た。
俺たちの時代は全員が川島先生の教え子だった。
小学校時代に川島先生から基礎をしっかり学んだので、中学校でも佐渡一、高校出も佐渡一になったんです。
先生はキャッチボールからしっかり教えた。
中学校と言っても両津小学校の隣にあったんで川島先生もすぐ側にいたわけで。
■中学校合併問題 磯野政次と豊田俊介など
(山田)小池さんよりちょっと下の年代に今の岡上に両津中が出き、机だか椅子だか持っていったりしていた。何だかいざこざがあったようです。
(小池)湊の連中は岡の上に行かないで元の場所に居りたいと言ったと思うし。当時は政治絡みの学校問題でもめとったのを覚えている。
(渡辺)私が小学校の低学年の頃、中学の一部が両小の所にあって中学生も結構いましたね。時々岡の上の学校にも行ってた記憶があります。私の中学入学が昭和35年ですから、昭和29年頃の話ですね。
氏田良隆市長の時に学校問題があったそうですね。氏田さんの身内で、後にに世界女子初のエベレスト登頂を果たす奈須文枝さんが言うには、「いろいろもめたので私は和木から両津中学校に通った」と言ってましたね。
奈須家は氏田さんの母の実家らしいです。奈須家は資産家で、今のヤマカクさんの所でキャバレーか何かも経営してたそうです。
私の中学に入学した昭和35年はその一番ひどい時で、湊の連中は河崎の人と一緒に両津東中に行け、夷のものは加茂のものと一緒に両津南中に行けと言うことでそれはひどくもめたものです。
ご存知の通り、東中に行くことを拒んだ湊の連中は親に護衛されて南中に通って来て、前列に机だか箱だかを親が設置してそこで授業を受けてましたね。後年調べてみると湊全員でなくて、氏田市長派の湊の人は最初から頭注に行ったそうです。7,8人くらいですが。それでも後で聞くと東中体育館を前倒しで建設するとかで、二学期からは湊の人も東中に通いましたね。
私の代は最初から南中ですが、一年上の、例えば今、奈良女子大学長の湊の野口誠之さんなんかは1年、2年は両津中、3年は両津南中で、南中卒業で南中2回生になるわけです、私は南中3回生ですが。
(小池)俺たちが高校の頃、加茂の役場(現在の加茂農協)の前で父兄がテント張って集まってた。この合併反対派のリーダーが磯野誠次さんだった。
(渡辺)聞いた話では、夷海岸通りの家(後、松本釣具屋)の二階に合併反対派の湊の父兄達が大勢集まってワイワイやってたら二階の床が抜けてみんなどすんと落ちたとか。
この合併騒動の中にあった素晴らしい話を是非書いておきたいんですわ。
春日町に毎日新聞の豊田俊介さんがいましたよね。私は娘の双葉さんと同年なんです。その豊田さん達はこの騒動の被害者は何たって子供達だ。特に英語を初めてやる中一の子供達には大変なマイナスだから、何とかしたいと。
私の記憶では。豊田さん達は吉井にいた青山学院OBの中川さんという人を先生に頼んで豊田さんの自宅で英語補習塾を始めたんです。多少の授業料は払ったかも知れないけどほとんどボランティアだったと思う。その後は先生が水井瀬戸物屋さんの両津高校英語教師だった斎藤修先生になった。デンスケってあだ名でしたね。
先生はこのことは皆に言うなよ、俺は高校の先生なんでちょっとまずいから、みたいなことを言ってました。
その後だったか、今度は今の離島センター辺りにあった役所の二回の一室で同じ英語教室を開いてました。これは場所柄もあって湊の人もたくさん勉強に来ていました。
今思うと、磯野誠次さんもわが子が中1でもあり、豊田さん達と集まって子供の教育について真剣に考えたんですからスゴイ人達だなあと今更ながらに思いますね。磯野さんが、大事な英語が始まる時に大人の都合でみんなに迷惑をかけて申し訳ない、みたいな挨拶をしたことをよく覚えています。磯野さんの娘さんも私と同年でした、磯野靖子さんです。
後年磯野さんといろいろ商店街の会議で一緒になったり酒飲んだりしましたが、所謂直情径行と言うか筋を通すというか、ある意味言いだしたら聞かない面がありましたね。私らガキみたいなもんにも真剣に議論し時々は私も怒鳴りつけられたのを覚えて居ます。しかし今思うと、素晴らしい人だったんですねえ。ああ言うタイプの年寄りが今はいなくなりましたね。
豊田さんは確か片腕の一部がなかった人で、上着の袖をポケットに突っ込んでいましたね。そして眼光鋭い人だったことを覚えて居ます。
娘さんの双葉さんは小中学校はずっと作文でいろんな賞をとってました。佐渡一みたいな文学少女でしたね。後に国会図書館に勤めて居たはずで現在は帰郷して春日町に住んでいますね。
ブルガリア語?の翻訳をしてると聞いたことがあります。
(小池)二人ともどっちかと言えば左派だった、左がかったと言うか。
(伊豆野泰弘)私たち(昭和16年生)は昭和29年に中学1年生になり、現在の両津中学校(H25.3月まで旧南中)と同じ場所に建設された木造2階建ての新校舎に新入生から通学しました。私たちより1、2年上級生は、現在の両津小学校隣(湊側)の古い両津中学校舎に入学時から通学しておられました。ですから1年先輩(2年生)と2年先輩(3年生)は、進級時に新校舎へ転向したことになります。
新校舎は体育館が建築中であったため、私たち1年生を含め、1、2年上級生も旧中学校(両小隣)の体育館で授業を受けました。
クラブ活動(籠球、排球、バトミントン、床体操などの体育部とブラスバンドの音楽部)も旧中学校舎で、野球や陸上などの野外スポーツは新校舎のグランドで行なっておりました。中学2年(S30年)に新体育館が完成、すべての授業、諸活動が移転されました。
二年前の夏、同級生の川上歯医者の和夫君の家(両中の傍)に同級生数人で訪れ、仏前に線香をあげて弔ってきたのですが、帰りに私たちが通った中学校の跡を遠くから眺めましたが、新校舎と新体育館は私たちの時代と同じ位置だナァと思ました。
また元のグランドには何も建物がなかったので、グランドとして使われているのか、体育館の向こう側に造成されたのか、分かりません。現時点では、私たちのグランド跡に、南中と東中統合により新校舎が建設されたかもしれません。
それにしても、川上君の家がある住宅地は、私たちの頃は、丘の上の見渡す限りの田圃でしたが、随分と様変わりしておりました。校門の近くの崖があり、崖をよじ登ったり、蔦で下ったりして遊んでおりました。
■そろばん学校
(山田)そろばん学校も一つの歴史だから書いておきたいなあ。
中村珠算塾は中村辰夫先生が始めた。
(小池)中村先生のそろばん塾は両津では二番目です。今の夷の本郁に中年の美人の女の先生がいて繁盛していた。本郁の関係者だと思うけど詳しくはわからない。
(山田)その頃か、両津小学校に夜そろばん習いに行ったけどその先生かなあ。その後に中村先生が始めたか並行してやっていたのかはわからない。
中村先生は最初、八郎平町でやってた。私はそこへ習いに行った記憶もある。中村先生の父は馬首辺りから出て来て八郎平町に住んだ。借家で、裏に住んでたが、前の部屋は中村さんの姉で、幅(はば)さんという人で和裁をやってた。
そうそう、八郎平町についてはいずれ小塩敦子さんから話を聞きたいと思う。小塩さんは幅さんの妹ですし、中村先生の妹でもあります。幅さんは現在高齢なんで小塩さんの所に住んでいます。
幅さんの倅さんが新大出てコロナに勤め、ストーブの着火システムを発明したんです。
ところが、幅さんは旦那さんを早く亡くしてその子供さんも亡くなってしまって。
(渡辺)発明と言えば、両津高校校長などを歴任した掃部利久先生の弟義幸さんは立教からソニーに入り、あのウオークマンを発明したチームの代表らしいですわ。
また、幅さん変わった名前の由来も知りたいですが、春日の赤泊鋸屋さんの赤泊はお婆ちゃんが赤泊出身で、難波と言う姓は金物の関係で三条から来た人らしいですね。
■いろんな塾
(渡辺)小学低学年頃に中村珠算塾に通ったが数年で辞めた気がする。特別上手くはないが劣等生ではなかったし中村先生も大好きだったのに何故長く続かなかったのか覚えて居ない。
早く塾に着いてみんなで相撲をとるのが楽しみだった。加茂からも生徒が通っていた。
本間鉄工所(現在のホテル東宝さん辺り)さん二階で書道教室があった。鉄工所の奥さんが教えて居た。
学習塾では、私は最初は高橋屋さんに通っていた。夷1の藤原弥次兵衛(製麺)さんの、海に向かう道路を挟んで反対側である。今は更地で一部車庫になっている。
先生は優しく上品なお婆ちゃんで、元は加茂小学校の先生だったそうだ。旦那さんは亡くなったのかどうか居なかった。息子さんが高校の先生で、後年、佐渡高校の校長先生で赴任してきた。高橋芳夫と言う名前だったと思う。
斎藤甲子郎さんが市長選に出た時、佐渡高校同級生として仲間を募って応援していたので昭和6年頃の生まれか。すると高橋屋の先生は明治40年頃の生まれか。そうすると私の小学校時代は50歳過ぎであったろうか。もしかして教員退職後だったのかも知れない。
その後、風間塾にも行った。私は高橋先生が大好きだったが、小学5年生の頃だったか、通知表に「通っている塾を吟味下さい・・」と書かれていたのが原因である。「吟味」と言う初めての感じが新鮮でよく覚えて居る。
後でわかったことだが、同級の友人が担任の木村与三次先生に高橋塾の問題点を告げたと言うことで両親はそれを信じたようだった。今に思えば高橋先生には本当に濡れ衣で、何よりのそれを軽々に信じた私の両親や木村先生に問題があった気がする。その後よく高橋先生に会ったし、社会人となってもよく会って立ち話したが本当に素晴らしい人物であったと思っている。
風間塾は神明町にあった風間酒店の息子さんである風間孝先生が教えてくれた。大柄な人でとってもいい先生だった。家の酒店を経営しながら、夕方以降に二階の一室で塾をやっていた。算数に関しては夷二の渡辺清さんもサブのような形で教えてくれた。まだ高卒後間もない頃だったと思う。算数は全て渡辺先生だったかも知れない。風間先生はお洒落な人でいつも当時珍しかったコーヒーを沸かして飲んでいた。あの何とも言えないコーヒーの匂いとそれにも増して先生の文化的生活が素敵だった。風間先生も渡辺先生も野球が好きでうまかった。生徒たちを交えて野球チームを作り、日曜日などは両津高校のグランドでよく試合をしたものだ。先輩達には河内の大蔵(後藤?)さん、古城さんなどがいた。彼等は高校生だった気がするのでもしかしたら風間塾OBで野球チームを作っていたのかもしれない。風間先生はコントロールがよくスピードボールも投げ変化球もすぐれたいい投手だった。
渡辺先生は内野手で華麗な守備を誇った。チームとしても結構強かった気がする。私は中学校に入ってもこの塾に通っていたのかどうか覚えて居ないが、先生たちと同じチームで野球をしたことを想えば、少なくとも小学生ではなかったと思う。
(小池)この前そろばん学校の話の時出たけど、本郁(布団店)の裏と言うか細い通路を通って奥の所で女の先生が習字も教えていた記憶があるなあ。
(山田)俺は全然知らんなあ。書道塾と決まったものはなかった気がする。個人的にやってるとこはあったかもしれんけど。あれば親父は教育熱心だったら行かされた気がするなあ。
(渡辺)本間鉄工所で書道塾があった。小池東一さんが大先輩でいて、字がうまく書けん時は二ば筆と言ってこっそり後で付け加えて書けばうまく書けると教えてくれた。 ところがすぐばれた。電気に透かして見るとすぐにばれた。小池東一さんもかなり前に亡くなりましたが、生きてれば70代半ばですかねえ。鉄工所の二階でした、広いスペースで生徒も一杯いましたね。
(山田・小池)俺たちはその書道塾は聞いたことないなあ。それから学習塾なんてのは俺達の頃にはなかったと思うしそれに似通ったものもなかったと思う。
(山田)風間塾の孝さんは私の1年上だった。
■保科義夫他
(小池)本間組が夷上町の角にあり、足の悪い所長が居たが、若い頃からそこに勤めて居た。
彼の部下に大川の林さん(寛治さんの兄)がいたのでよく知っている。ある時、爆発があって林さんが片手を失った。事故の時は大騒ぎし、救急車もなかった時代なのでトラックで運ばれた。
彼は私の従兄弟なのでよく覚えて居る。
石と採る為の現場だったのか、道路建設のための工事だったかはわからないが、私の記憶では道路建設だったと思う。
保科さんは後に有名な作詞家となったことも聞いていた。
(渡辺)保科義夫さんですね。泉淳三という名前で八代亜紀の歌った「恋あざみ」を作曲したし、私の子供の頃は「おけさの島から来た便り」を作って、私は店の人達から教えてもらって歌ってました。
私の1年上のお嬢さんが居たと思う。
保科さんは私の小学校頃の記憶では足が悪くて背が高く細身の上品な人だった。よく父が「あの人は偉い人なんだよ・・」と言ってたが意味は分からなかった。そして当時、私の家は洋服屋で女性の縫子さんが何人もいて仕事をしながら当時の流行歌を歌って居た。その中に「おけさの島から来た便り」と言うのがあった。実は私は今でもその歌を歌えるのです。それ程、わが家ではみんなが歌っていたのです。後年、この歌のテープが手に入り調べて見ると保科義夫作曲でした。父が言った「偉い人」と言うのは佐渡に居ながら作詞家として全国的に活躍していたことを言っていたのだなと今頃わかった気がする。
(歌は鈴木三重子:「愛ちゃんは太郎の嫁になる」)
この「大川小唄」は昭和30年頃に、東栄館の井東浩太郎さん達が大川の観光宣伝のために作ったと聞いています。
作詞は本間組に勤めていた保科義夫さんにお願いし、作曲はつてをたどって、沢根出身で三橋美智也「哀愁列車」で知られる鎌田俊與さんにお願いしたそうです。
当時、畑野出身の歌手今井明(本名今井睦雄)でレコーディングしたのですが、現在レコード盤はあるものの音が出ない状態です。
そこで、当時を知る老人たちが集まって記憶をもとに歌を復活し、両津の市役所に勤めていた野口禮吉さん達が中心となり、地元入桑出身の民謡歌手小林よしえ(旧姓 佐近)さんに歌ってもらってCDにしました。
平成に入ってからです。その際、小林先生が三味線もつけたそうです。
現在、大川集落を見下ろす「見返り峠」に「大川小唄の碑」が建っています。
(注)「大川小唄」については
・➡ブログ『佐渡人名録』中の➡★「佐渡雑楽」(「島の新聞」連載32号に詳細あり)
・歌詞については➡ブログ『佐渡の民謡』➡★歌詞 5000種以上➡┣大川小唄・鴨湖小唄・両津小唄に載る
歌と言えば、この時の現場人夫で歌のうまい人が居たらしいですよね。
そうそう、北五十里の岡野久治です、新潟県大会で二年連続優勝しました。現場でよく大声で歌って居たそうです。
民謡と言えば、篠沢卯一とか床屋の大阪軒が有名だったなあ。浪花節もやっていた。
(山田)確か花月の前辺りにもいたことがある。
仙次郎床屋の渡辺忠一さんと大阪軒さんは同時期だなあ、仙次郎さんんの三味線で大阪軒が歌って居た。
(渡辺)大坂軒(米沢湖月)が夷二の今の光電社辺りにあって、他所に引っ越し、その後に仙次郎床屋がそのままそこに入ったらしい。私は仙次郎床屋さんしかわかりませんが。長男の忠志さんは絵がうまくて七夕におなると小学生の提灯の絵を書いてくれた。ほとんど全部書いてくれてんじゃなかったかな。
当時あった「かねせパーマ」(今の山田時計店)の二階が広い場所でそこで書いてくれた。
忠志さんは学校を出て紅屋看板屋に入り、その後誘われて東京の日活映画かどこかの美術部で活躍した。その後帰郷して現在の渡辺デザイン工房を経営している。妹の智恵さんが同級生でよく覚えて居る。
岡野久治さんはよく覚えている。鴨湖会にも居たと思う。新潟交通の上で民謡や鬼太鼓を観光客に見せて居た時はよく一緒になった。
(渡辺)岡野さんは八十過ぎても民謡歌い、最後は杖ついて歌って居たそうですね。娘さんが言うには、そんなになっても民謡大会に出たがって困り、みんなでみっともないからやめてくれ、と頼んだものです、と。
(注)民謡関係者各自については➡ブログ『佐渡の民謡』➡人名録に詳しく載る
■雑
・蘭丸船(だんまる船)
(山田)前の魚市場辺りかな。そこに造船所があった。その横辺りから「ヘタの築港」が出ていた。ヘタのと言うのは石だけの築港のこと。そこは船の通るとこだけ空けてあって。
そこに蘭丸(らんまる)船が沈んでいた。みんなはダン丸船って言っとるけど正式には蘭丸船だよ。造船所は道路に並行してあって、湊に向かって口が開いていた。そこで作った船が、ヘタの築港とほんとの築港の出っ張ってる部分との間のスペースを通って外に出た。
ちょっと調べた限りでは和船が駄目になった時に国の政策かなんかで新造船を作らせ、その時に第一蘭丸、第二蘭丸各造船所で建造されたみたい。あそこで作られて進水式があり、その後台風か何かで沈没したんじゃないかな。まだ外海に動く前に沈んだみたい。
あそこへ行ってみんな泳いだもんだ。田中湖山さんは当時の先進的な事業家だったんじゃないかな。
(渡辺)両津の民謡に千鳥会から分派した金波会ってのがあってその代表が田中湖山なんです、そしてこの造船所の事務所前で撮った写真があります。(→ブログ「佐渡の民謡」)
・牛乳
(小池)本間牛乳は牛乳の配達はしとったかどうか分からんな。牛乳はうちの裏に聞く菊池牛乳ってのがあって牛乳を売ってた。配達しとったかどうか覚えてないけど。吉田タイヤさんの前。どこか潟上あたりの人だった。あっちで牛飼っとって牛乳は夷で配達しとったんだかな。牛乳の瓶詰めなんかもやっとった気がする。
(山田)菊池牛乳は全く知らんなあ。
・旅館
(小池)丸金旅館があって、それは菊池組の隣で、旅館を閉めてから、今はそこも一緒に菊池組になっとる。そこの奥さんはきれいな人だった。その夫は両津小学校の先生やっとって、俺は昼食運びの役だった。四時間目になると弁当取りに行けや! ハイ!って調子で。先生はおそげえ先生で小学校の子供を軍靴で蹴っ飛ばしたりしたもんだ。
(山田)丸金旅館は斎藤薬局さんの親戚だって聞いたことがあるなあ。斎藤電機さんから聞いたんだけど、自分のおじさんだかかと言ってたねえ。
(渡辺)丸金旅館には私の同級生の佐藤ひろみって小柄で可愛い女の子がいました。小学校の5年頃かなあ。途中で新潟かどっかへ転校しました、旅館をやめたんで。
それから、斎藤薬局さんですけど、実は斎藤八郎兵衛ー斎藤喜八郎ー斎藤甲子郎でなくて、八郎兵衛さんの息子に肇さんがいるんです、政治はやりないで薬局主でしたが。肇さんの子供に斎藤喜八郎さんや斎藤電機のお父さんがいるんです。
★遊郭
(山田)「吉田屋」がありました。旅館の方は「吉田家」だからそれとは字が違う。今の新明町の結婚衣装の「藍」さんとこ。中田さんと言う家で昔は吉田屋と言う遊郭だった。
(小池)紅梅楼と沖口。紅梅楼は甲斐さんが経営、その後、遊郭やめてから常盤旅館になった。
(渡辺)私の小さいころは沖口旅館がありましたから、遊郭の後は旅館になったんでしょうね。沖口さんのお父さんは各学校を指導する武術の先生だったようですね。福島徹夫戦士の同級生に沖口光臣さんが居て、教育者で長岡高校の校長になったんですが、その孫に北京五輪の体操で銀メダル取った沖口誠選手が居るんです。私が「島の新聞」にそのことを書いたんですが、福島先生を通じてその記事を読んだらしく、たいそう喜ばれ、佐渡に来られた時に福島先生も含めてお会いしました。その時に沖口誠選手が高校時代やその後に活躍した記事や写真を見せてもらい一部は頂きました。おじいさんの光臣さん自身も運動神経抜群で、倒立してかなり長く歩いたと福島先生が話してました。
(小池)そう言えば私の先輩に野球をやった沖口さんがいた。
(渡辺)名前をよく聞く「小黒館」は何ですかね。
(小池)それは「蓬莱」と同じで芸者さんを置いといて。芸者置屋と言うか。
(山田)小黒館はその前は「小黒館」と言う西洋料理店だった。この「再会」の場所で。下が西洋料理、二階がビリヤード場だった。当時の写真もある。そして大火の後に八郎平町に行ったと思う。八郎平町に行った後、私は郵便局に勤めましたが、カツを食いに小黒館に行ったものです。
カツライスだったか、当時は珍しかった。場所は今の小舟のとこかな。高級だから1年に一回位行ったかなあ。
(小池)俺はそんなのは縁がなかったなあ。遊郭だけど、当時は紅梅楼、吉田屋、沖口の三軒だった。
(山田)もう一軒若松屋があった。天の川の向こうの向こう。自分の一年上の人がそこで下宿してたから、その前に終わったんだろう。遊郭廃止の前に営業は止めてたと思う。松本正勝さんの家は私の家の真ん前で「ふじもと」と言った。芸者置屋だと思うけど、子供心になんか家庭が複雑な感じだった。
夏休みになると、沖口にも行ったし若松屋にも行って、昼間あそこは仕事がないから、そこの広間のとこで遊んだり宿題したりしとった。地域の集会場になってた。「地域の茶の間」(笑)だった。常盤は覚えてないけど。
(小池)へえーーつ、親がそういうとこはダメって言わんかったかなあ。
(山田)そっちゃん考えてみーちゃ。俺たちは戦後教育受けて潔癖だったけど、昔はそんなとこへの出入りは当たり前だったわけで。巫女さんやってた森谷(もりや)さんが新明町で飲み屋やってた。彼女は手伝ってたんで親が経営してたと思う。新明町のある遊郭の経営者は神主さんだったと話してた。吉井の神社の神主さんで、昼間は正装して箱だか持って吉井に行き、夜は遊郭の主だったと。
(小池)森谷さんの旦那は漁業だったかで佐長水産と関係しとった。婿さんだったと思う。
(渡辺)松本さんから聞いたんですが、新津からやって来て自分はおばあちゃんに育てられたと。おばあちゃんは鴨湖会の人達に三味線も教えていたと。それで自分も自然に鴨湖会に入った。鴨湖会や新潟交通の長登さん(岡三屋)達に教えていたそうです。ところで、長登と言う苗字は岩屋口なんですわ。浜登、船登、山登などもあるんです。私の同級生の長登君は中学時代は柔道と砲丸投げで新潟地区で優勝し、高校は佐渡高校で柔道新潟県一、大学でも活躍したはず。その後当時はやっていたキックボクシングで東日本チャンピオンになった。その後、ブラジルに行って異種格闘技で活躍し、今は道場をもって何とか言う武術の指南をやってます。 「島の新聞」に大きく取り上げたこともありますね。
(小池)その「ふじもと」の場所は知ってるけど前に何やってたか自分は知らんかった。
(山田)他にも明治維新で寺院が減らされた時、潟上の栄法寺の石野(源栄)さんは両津で遊郭やった。当時は僧侶の遊郭経営などは特におかしいことではなかった時代だったと思う。これは『新穂村仏法史』に出てる。
(渡辺)まあ確かに、その時に同じく新穂の僧侶だった真後さんは夷で料亭「朝日亭」をやるし、新穂の宇土(うど)さんは白山屋旅館をやるし、この石野さんも含めて花柳界が賑わった夷に向かったんでしょうね。
真後家も新穂の僧侶で両津に出て料亭旭亭を創業して佐渡を代表する店になったんですが、そのお孫さんが両津羽吉に住んでいるんです。退職後、終の棲家(すみか)は女房の故郷であり、眞後家のルーツの地である両津に住みたいと思ったそうです。真後智一さんと言い、羽吉の家は昔の網元の御器(ごき)さんの家です。古い豪壮な建築ですばらしい家ですが、天井が高いため冬は寒くてどうしようもなく、冬場は東京に住んでいます。彼は東京生まれの東京育ちで、父は朝日亭主眞後東一郎の弟で眞後数馬さんです。彼は水産大を出て居ましたがある戦時中かなんかの機雷事故で海で亡くなり、死体が上がらなかったそうです。その伝手で息子さんは水産大学から水産庁に入社出来、海外を回っていたそうです。嫁は佐渡から欲しいと言う家族の勧めで両津の方と見合い結婚しました。この真後さんの奥さんは北光堂の娘さんで、真後和子と言う歌人で、東京にある新潟県歌人クラブの会長です。因みに顧問はあの湊の斎藤(久保田)ふみえさんです。会は昨年(平成18年)解散しました。和子さんの姉妹が江西院(こうそういん)矢部さんの奥さんです。真後名字は珍しいですが、沢根には何軒か今もありますね。智一さんは子供の頃佐渡にしょっちゅう来ていましたが、伯父の経営する「朝日亭」は格式が高く、自分にはひどく敷居が高く感じられたので母の実家である大塩自転車屋に泊まってたそうです。今の夷新のマルニ畳屋さんがある角地の家だそうです。新潟から来て自転車屋さんを始めた家のようです。(小池:そこの奥さんは面長な美人さんだった)
そうそう、眞後智一さんから、何か眞後家について書いたものがないかと言われたんで、中川雀子さんの書いた「佐渡おけさ関係の文章」のコピーを差し上げました。そこに彼の父である眞後数馬さんの名前がありました。大正十年に両津の富樫栄吉、石野琢磨等が東京で行われた第二回日本民謡大会に出場し、それを見た両津出身の学生達が感動して、夏休みに夷諏方神社境内で盆踊り大会を開いて輪になって踊ったというものです。東京高師の伊藤伝兵衛、慶応の野村亀太郎等の中に眞後数馬さんの名前もありました。
ついでに言いますと、先程の御器さんは富山から来てブリ漁等で財を成した豪邸を建てた訳ですが、『君の名は』や岩下志麻の『離れごぜおりん』等のロケにロケに使用されたそうです。そう言えば白瀬浜でロケをしたという話を映画興行師の家で育った仙宅千恵子さんから聞いたことがありました。離れごぜが佐渡に来たかどうかは知りませんが、佐渡なら山も川も何でもあるってことでロケ現場にはよかったんでしょうね。
(山田)私もそう思うなあ。渡辺産商さんの奥さんが確か子供の頃、父が教員だった関係で金井の堀家(今の能楽堂)の所に住んでいて、映画のロケがあったと聞いています。それで、東京神田の古本屋街を歩く度に古い映画雑誌にそんな写真がないか探しているんです。なかなか簡単には出てこないですねえ。
(渡辺)渡辺美智子さん(旧姓遠藤、相川の人、父は校長退職後相川町教育長等歴任)は当時の写真を一杯持ってましたねえ。『佐渡ヶ島エレジー』(根上淳 三宅艶子等出演、菅原都々子歌)のことを詳しく聞いたことがあります。主題歌のCDも持ってました。
(渡辺)大正2年に佐渡では民間で初めて電気が夷に灯ったんですが、それをやった石野さんですよね。その事務所の場所は正覚寺裏の、今の矢田パーマの隣ですね。東北電力の事務所がありましたよね。石野さんの作った電灯会社が後に東北電力に吸収されて、事務所はそのまま東北電力になったんでしょうね。
源栄さんの息子に石野琢磨って唄のうまい人がいて、三味線の富樫栄吉(夷二の旅館「一休館」主)さん達と大正10年の第二回日本民謡大会に出場し、「佐渡おけさ」と言う名前を初めて使ったんです。中川雀子さんの所に仙台の後藤桃水(日本民謡の父)さんがやって来て出場を依頼したそうで、その時雀子さんが「佐渡おけさ」としたそうです。立波会などの資料に大正15年に愛宕山(今のNHK)で録音した時に町田佳声さんが「佐渡おけさ」としたとありますが、その五年も前の話ですね。
(山田)先ほど出てきた築地にあった電灯会社だけど、それは日本初の鉄船「新潟丸」が出来た時の事務所じゃなかったかなあと思う。即ち船製造となれば多少とも事務所みたいなものは必要だっただろうし、その後にその建物が電灯会社に使われた気がする。
(小池)なるほど。ところで、船は作ったけれど、加茂湖からどうして両津橋を出られたんだかなあ。俺が聞いたとこでは、煙突など長い部分は取り外しておいて、加茂湖を出たところで組み立てたと。
(渡辺)もう一つ言うと、昔の船は今と違って船底が平たかったので案外全体が低かったと。吉井のど真ん中に船津なんて地名があって、そこまで国府川を通って船が来ていたと、これは船底が平たくないと無理な話で。瀉端、福浦、潟上なども港だったわけで、そこまで船が来るには今の船とは違っていたはず。
(山田)両タクのあの場所はその前は遊郭だった。都屋です。大正14年の例の地図に載ってますね。長谷川さんはその後、遊郭部分を売って自分たちはその裏に住んでました。長谷川家は加茂から出た人で長谷川利平次さんなんかの親戚筋じゃないかな。遊郭関係の組合長や町会議員もやったかなあ。その後のタクシー会社は本間さんだから、馬首だか向こうから来て経営したというか。自分が子供の頃はタクシーでなく塀があって立派な建物だった気がする。その一番八郎平町側に飲み屋があった。(渡辺注:太宰治『佐渡』に「よしつね」名で登場する、実際は「弁慶」で新潟からの人が経営していた。)
そして、都屋さんと丸好さんの間の道は今でこそそこそこ広いですが、昭和3年の夷大火までは大八車が通れる程度の狭い道だったそうです。大火後に広げてというか。
★両津港の水津からの艀(はしけ)
水津港より、艀でやって来て縄梯子で乗船する。当時は大川までしかバスが行かなかった。船が水津沖で一時停泊する時に揺れて困ったという証言も。
➡『両津鬼太鼓組五十周年記念誌』(平成7年 山口巌著)(◆「参考資料(文献・書籍)」)
➡『太鼓人生六十年』(平成7年 山口巌著)(◆「参考資料(文献・書籍)」)
➡『両津町史』(「佐渡布教史」ドロワール氏遺稿 p626~)
➡『両津町史』(中川雀子氏の明治の話)
山田昭夫(s10年生)、小池荘一郎(s12年生)、伊豆野泰弘(s16年生 湊出身東京在住 )、出山正(s20年生 湊出身 東京在住)、渡辺和弘(s22年生)
「★山田昭夫」
両津神明町で昭和11年2月27日生生まれて80年です。純粋の夷っ子で両津小、両津中、両津高校卒です。その後郵便局に勤め、退職後好きなことをさせて頂いて今日に至っています。
うちは親父の代から下駄屋です。爺さんは赤玉から出ており、山田苗字です。父は若い頃は信州の紡績関係で働いていたそうです。祖父は北海道に出稼ぎしていた漁師です。赤玉の山田家については詳しくわかりませんが、赤玉部落誌に先祖の名前等は遡って出ているはずです。
家業の下駄屋ですが、うちは他所から仕入れて販売してました。同業の久保谷さんや計良さんは自分とこで製造して販売してました。今の時代と違って当時は下駄専門でした。
ただ子供が五人居たんで下駄屋だけでは生活が大変でしたので、沖の烏賊場と言うか、八郎兵衛の梅助さんなどの船に乗っていました。
こんな親父達のまじめな生き方を見てると、国や県に予算をよこせなどと言う今の風潮に首を傾げます。
母は外海府の矢柄の出です。その兄は文弥遣いで有名になりました浜田守太郎です。
したがって私は守太郎さんの甥っ子ですね。
何年か前、両津小の校長で浜田毅(たけし)が来ましたが彼は私の従兄弟です。
祖父の連れ添いである私のお婆さんは早く亡くなっていますが赤玉の人でした。
しかし、私の祖父が3歳頃に亡くなり、私の姉や妹が居たんですが父親の実家に預けられたそうです。
父親はその間北海道に出稼ぎに行ってたわけです。
私の妻は最近亡くなった河内の静間勝の姉となります。
「★小池荘一郎」
昭和12年2月5日生まれです。今度の誕生日で80歳です。生まれは両津夷12-1で夷7の町です。
父の代から印刷を始めました。場所は両津欄干橋の湊側の加茂湖側です。この並びの一番夷側の端に警察署があり、その隣が私の家でした。
当時の土屋六衛門町長は私の家である小池佐太郎から出た人だったんですが、この一番端に避難道を造りたいと言うことになり、夷に家を建てる敷地があるのでそこへ移ってくれと言うことになりわが屋は夷12-1に移転したわけです。
一番夷側に避難路が出来て、警察はその道路分、湊側に動いたことになります。
今も一番加茂湖側は道路ですよね。
■土屋六右衛門
(小池)土屋六右衛門は小池佐太郎(屋号)の次男坊で、夷3の俵屋に養子に入りました。
私の父は和義、祖父は佐市です。したがって、名前はわかりませんが佐市の父、即ち私の曽祖父の弟が土屋六右衛門となります。
俵屋さんは今の植田病院の所です。私の小さい頃は俵屋という家がそこにありましたね。
その家には男がなく、女の子は二人居て次女が東京の富永さんに嫁ぎました。
この次女はとても体格のいい人でした。
富永さんは東京から港湾関係の技師として佐渡に来ていた人で、今大川の津神神社の端を渡ったところにある説明版に富永さんの名前が残っています。
もしかして建設省あたりの役人だったかも知れません。
大川の石は質が良く両津の港湾建設に使われたようです。築港の石は大川から持ってきたものです。
(渡辺)夷諏方神社にある立派な手水鉢は富永さんが大川から掘り出したもので神社に寄付したとどこかに書いてありました。この手水鉢は昔は、安藤宮司家、保育所、延命寺、今のみなパーマの十字路の安藤宮司宅の所にありましたね。また、その加茂線側の藤村畳屋の横には大きな防火水槽がありました。
(小池)土屋六右衛門の長女は詳しいことは知りませんが早く亡くなったと聞いています。
大川から石を運んだ関係で両津の築港にはサザエやアワビが一杯とれたと言われます。
土屋家には養子で入った土屋哲二郎さんがいたが、若林家(玄益)の親戚辺りから養子に入ったと思う。
彼は東京から帰った時は必ず若林家に寄っていた。
帰省の時に「これから若林に行く」みたいなことをよく言っていた。
哲二郎さんはいつまで佐渡に居たか知らないが、大変気性の激しい人でいろいろとトラブルを起こしたと聞いている。
(渡辺)本間林三先生の回顧禄みたいなものに六右衛門さんの死後、土屋哲二郎さんが町長選挙出馬を勧められているようなことが書いてあった。
また哲二郎さんは若林化粧品屋さんの親戚である中村回漕店の人と聞いている。今のサンユウさんの所です。
(小池)その場所は中栄さんがあったとこじゃないかな。
(渡辺)その後、石見フードになったかな。
(山田)土屋六衛門が亡くなったのは昭和11年なんで小池さんの生まれる前の年だと思う。現役だった。その時に回りが哲二郎さんに町長選挙に出ろと言ったと思う。
(小池)私が聞いている話では、私(荘一郎)の名前を付けて、佐渡を離れて三条市で亡くなったと。
哲二郎さんはあまり親戚に歓迎されていなかった。
おそらく彼は佐渡が嫌で、早くから新潟か東京かどこかの学校に行ったと思う。
但し、六右衛門さんが東京に家があったような話は聞いていない。
(山田)土屋六衛門さんの奥さんと養子の哲二郎さんは肌が合わなかったと聞いている。
(小池)六右衛門さんの奥さんはこごめ(秋津)から来て居た。目が悪い人だった。最初の奥さんが亡くなって後妻さんかも知れない。
(渡辺)土屋仁六遺稿集だったと思うが、土屋六右衛門の長女は河崎出身で東京にいる白井判事に嫁がせたと書いてあった気がする。
(注)土屋六右衛門については➡ブログ「佐渡人名録」➡土屋六右衛門 に年譜等詳しく載っている。
(小池)長女の方は子供の記憶ではとてもスリムな人だった。妹とは同じ姉妹かなと思うほど違った体形だった。
和義は新潟の印刷屋(活字屋で「高庄」)に奉公に行った。印刷をやってたかどうかわからないが自分の知ってるのは活字を造る活字屋だった。
自分の代になっても活字はそこで買ったし、浅川と言う活字屋からも買った、そこは印刷をやってたかどうかはわからないが。
父和義は新潟で一人前になって帰り、前に書いた城の内で印刷屋を始めた。
祖父佐市は全く印刷は素人で父から習いながら印刷を手伝っていた。
佐市は元々何をやってた人かわからないが自分が知ってる時は祖父も印刷をやっていた。
佐和田鍛冶町にあった斎藤長三さんの斎藤印刷から印刷関係の器具などを譲り受けたのではないかと思う。創業時に何かとお世話になったと思う、父はよく斎藤印刷所の話をしていた。
祖父はほとんど紙切りだった。断裁機はないので大きな紙切り包丁を使っていた。
あの包丁は今はないが本当に懐かしい。自分で磨くというか包丁を研いで使っていた。四角い包丁だったが使っていると角がとれて来たものだ。
(渡辺)鍛冶町の斎藤印刷は佐渡の印刷業界のパイオニアで、経営者の斎藤長さんは政治家としても大物だった。
「佐渡政党史要」とか言う大著を出している。印刷所の写真などもある。
➡「佐渡人名録」➡写真(佐和田)&➡斎藤長三
・「斎藤八郎兵衛回顧録」
(山田)「斎藤八郎兵衛回顧録」って本があるんです。「両津市史」作成の時に資料となってそこからの情報がたくさん出て来ますし、梶井さんの「安照寺史」にも様々出てくるんです。ところがいろんな話があって、一つはこの本を土屋六右衛門が直していると言うんです。土屋は斎藤の政敵ですから、都合の悪い部分を何とか・・とか書き足すとか、ってことでしょうか。その関係でこの本は門外不出になってるんです。そこで甲子郎さんが亡くなった後だか前だったか、ある人を介して、両津のことを調べているんで見せて欲しいと頼んだんですが、門外不出と言うことで断られましたね。
私としては政治的な思惑は別にして、純粋に夷のことを知りたいと言うことだけなんですが。
(渡辺)政敵と言うと考え方もまるっきり違うんで、いろいろ事情があるんでしょうね。晩年はそれなりにお付き合いしたようですが。
(小池)へえ、そんなことがあったんだかなあ。二人の年はどうなんだやあ?
(渡辺)例の御番所の松の木の下で二人が写した写真がありますが、昭和11年撮影で、斎藤八郎兵衛83歳、土屋六右衛門69歳ですから、14歳年の差がありますね。「土屋二六回顧録」に載ってるんです。
(山田)この写真が役に立つんだっちゃ。今この松を何とかしんなんと湊の中川吉右衛門さん達が頑張っとるわの。この写真の根を見るとの、ものすごく露出しとる、しかし今はもっとずっと土で埋めてあるわの。それだけ松をいじめとることなんじゃないかな。この写真は松を保護したいと言う大学の先生達も見てくれ、参考にしてくれてるんです。大変感謝されました。
(小池)土屋六右衛門の長女は病弱だった。その人達との付き合いは全くないなあ。次女が嫁いだ富永さんとはずっとお付き合いしとった。富永さんの奥さんは佐渡に帰って来ても家はなかったから俺うちに来たりしとった。昔の築港のあたりを潜って見るとサザエなんか一杯とれたけど、あの岩は大川から持ってきたもんだから貝なんかが付いて来たんだと思う。
(渡辺)どこかに書いてあったけど、夷諏方神社の手水鉢の石は富永さんが寄付したらしいですわ。大川辺りの岩を築港に運ぶ時、いい岩を見つけたんでしょうね。この手水鉢は佐渡一じゃないかなあ、姿形は。
(山田)そう言うことを手水鉢に書いておくことが大事だわなあ。由緒を伝えることも大事だっちゃな。津上神社の標注にしてもあれがあることによって今でも昔のことが偲べるわけで。
(渡辺)確かに、そうすれば富永さん、土屋町長の名前ばかりでなく、石の来歴を通していろんなことがわかりますね。
(小池)私の母は大川出です。坂野と言う家で今直接の家はなく、同じ苗字の親戚の家があります。坂野家は満州で全滅したのです。
祖母は最初は野町の高井三右衛門(さんねむ 高井輝義先生の家)から来たが早く亡くなったので大川の坂野家から後妻が来ました。
それで、和義の妻はこの後妻の妹になる人でした。後妻の人は当然年が若いのでその妹が次の世代の妻となる年代だったのでしょう。
小学校は両津小です。今で言う野球少年で、自分の世代小学校、中学校、高校と全て優勝しました。
野球は小学5年から本格的に始めました。先生は川島泰蔵です。先生の指導があったればこそ全て優勝できたのです。
■野球(川島泰蔵先生他)
川島先生は旧制相川中学出身で長く朝鮮に行ってました。
夷2の町の銅屋さんの裏に住んでいたが、先生の兄が住んでいた家ではないかなあ。
両津小時代はその辺に居たと思う、夷に居たことは間違いないはず。先生は夷の後、湊に住んだと思う。
(渡辺)銅屋さんの表は今で言う消費者金融みたいな二幸商事で、その後、そこの奥さんになった小野(旧 帯刀)伊勢子さんがお花屋をやっていた。今も時々、川島先生の娘さんが帰ってきている。
川島先生は晩年はこの銅屋に住んでおられた。
(山田)川島先生は次男かなんかで、実家の近くに住んでいたような気がする。川島先生が私の弟を殴ったことがあり謝りに来た。その時父は、遠慮なくバンバン殴って下さいと言っていた。
弟は自分が悪いことをしていたことが分かっていたので、親父がそう言ってくれて救われたようだった。
(渡辺)川島先生は西山栃餅屋の深雪さん(s25年生?)の大工さんだったお婿さんを北海道から連れて来た。引っ掛かりのある人を連れて来たと言ってたが、あれはどんな縁だったのだろう。
先生は相川中で野球をやっており、友人に旅館の次男で谷口という男がおり、その息子がバスケで日本を代表する選手になった谷口正朋だと言ってましたね。
谷口正朋さんは私の一年上のS21年生まれですが、ミュンヘンオリンピックの得点王になった選手で、日本の歴代プレーヤーの中でも一番有名な人ですね。
彼の母は大瀬家の人で佐渡相撲の巨漢力士でした。私も見たことありますがものすごく大きい人でした。
(小池)大潮じゃないかな、相川の大潮は大きかった。川島先生は朝鮮師範出たんじゃなかったかなあ。先生は大正一桁生まれだと思う。
川島先生は湊の椎野剛一さんと親戚のはず。先生の奥さんが金沢屋出じゃなかったかなあ。
先生はずっと金沢屋に宿を借りて居た。金沢屋の裏辺りに家が今もある。奥さんは椎野熊吉さんの娘さんとか親戚とかだろうか。
ともかく先生は両津の人だとは思う、兄も夷に居たことだし。
そうすると夷の三ノ町にあった川島徳四郎(国府証券?)さん辺りが親戚かなあ。
川島先生は朝鮮に居た時野球を覚えたと言ってた気がする。
プレーヤーとしてはあまり覚えていないが試合には出て居た。かなり年を取っていたと思う。
剛球投手だった石川書店さんの10年位上だったと思う。
(山田)小池清吉さんも投手やったんでは?
(小池)いや、あの人はピッチャーはやらなかった。当時の野球やっていた先輩大先輩について話してみます。
ずいぶん年上ですが、新潟交通に大山((渡辺)同年のなる子さん父)さんがいた。最後は関係会社の八幡館に行ったなあ。年齢的には川島先生くらいかなあ。長身でファーストだった。
投手は石川さん、今の石川書店やってる大きなお爺ちゃん。弟は空手で、明治大学へ行ってやってた。兄きも多少やってた気がする。
(山田)あそこは兄弟たくさんいて、はしけーのんばっかりだった。
(小池)兄きは相中で野球やっててオール両津に入った。川島先生も相中だけど接点はなかったと思うけど、オール両津では一緒にやってた。石川さんはオール両津のピッチャーでスタルヒン投法だった。
小池清吉さんが同時代で大光銀行にいた。今のお爺さんの弟だから今の親父の叔父さんだ。湊の美人さんだった佐々木さんからお嫁さんもらった。野球やってたのは独身だったどうか覚えてないけど。
清吉さんも一塁で、大山さんと一塁守ったり他を守ったりしていた。
(山田)あの頃は野球が強くて、河原田までバスで見にいったもんだ。
(小池)私の知ってる頃は川島先生が一番年上だった。その頃のオール両津は佐渡で優勝していた。野球人気が始まった頃だった。
(山田)赤バットの川上、青バットの青田の頃だなあ。「野球少年」って本を買っていた。
(小池)その下の世代になると湊の伊豆野祐輔さん達がいる。夷7の磯野秀衛さんもその年代だ。
川口はその下の世代だなあ。他には2年上に浅野薬局さんもいた。吉田タイやさんとか、秀衛さんの一年上で。小池清吉さんは1、2年上だし。秀衛さんは私の6つ上だから昭和7年生まれかな、斎藤甲子郎さんの1年下だから。秀衛さんも投手でうまかったなあ。両津中学校時代からうまかった。中学出て礎町の自転車屋で修行して帰ってきて両津でずっと野球をした。磯野善五郎さんはみんな運動選手だった。一年下のテツオはバスケットの選手で、同年のりょうえいさんは野球の選手でうまかったなあ。
(山田)りょうえい君はうまかったなあ。後年、両津の昔を書いた文章に河崎の宇佐美薫君が「両津の磯野君の華麗な守備には・・」と絶賛していた。高校になったら二人は同じクラスになった。
(小池)斎藤吉右衛門さんは選手として長かったなあ、年は6年くらい上だった。学校時代の接点はないけどオール両津では一緒だった。九兵衛のお父さんは選手じゃなかったけど。応援してくれた。その年代だと野本さんだけだなあ。
野本さんの野球はあか抜けしてた、洗練された野球というか。
この年代は他に大山さんとかで石川本屋さんも下の方でやってた。
(渡辺)野本さんは甲子園行ってるんですよね。確か金沢の今で言う金沢二水高校時代って言ってましたねえ。年はうちの親父の一年上だから大正11年生まれですね。
(渡辺)川口孝さんは鳥取の境港から来たと思うけど、境高校当時、同年代に後に阪急ブレーブスのエースになった米田哲也がいてエースになれんかったと言ってましたねえ。その後は新潟商で活躍したとも本人から聞きました。
(小池)当時の両津中学校は佐渡一だった。投手小池、投手太田義雄(魚屋)、一塁や外野は渡辺耕二郎で渡辺伝蔵って家でうちの町内にいた。今、福浦の電報電話局あたりにいる。当時は山五旅館の並びの東宝さんの隣にいた。今の伊貝さんの家。その姉が吉田タイやさんの奥さんです。渡辺さんは打力がよく三番四番だった。それと伊藤旅館の中川博光さん。高校の時は渡辺君がサードで中川君がショートだった。私の緩い球は内野ゴロに仕留めて彼らがさばいてくれた。打たせて取るピッチングで高校三年の秋の大会はノーヒットノーランだった。内野陣がよかった。平木実君もいた。
一年上には磯野良衛さんが居た。長男が鴻?衛(こうえい)、次男が秀衛、三男が良衛、四男が哲夫で長男以外はスポーツ選手で、お父さんも東北電力で野球の選手だった。お洒落な人だった。年齢的には佐渡の野球事始めって時代です。磯野秀衛さんは昭和22年の第一回佐渡中学野球大会の優勝投手です。
その後24年が鈴木和雄(屋号、和一郎)さんや竹内謙三(竹内床屋)さん達です。
1年上には磯野良衛さんや湊の北巌太(いわた)、北さんは投手だった。城の内の斎藤吉右衛門の弟で恭志(きょうし)も居た。
俺たちの時代は全員が川島先生の教え子だった。
小学校時代に川島先生から基礎をしっかり学んだので、中学校でも佐渡一、高校出も佐渡一になったんです。
先生はキャッチボールからしっかり教えた。
中学校と言っても両津小学校の隣にあったんで川島先生もすぐ側にいたわけで。
■中学校合併問題 磯野政次と豊田俊介など
(山田)小池さんよりちょっと下の年代に今の岡上に両津中が出き、机だか椅子だか持っていったりしていた。何だかいざこざがあったようです。
(小池)湊の連中は岡の上に行かないで元の場所に居りたいと言ったと思うし。当時は政治絡みの学校問題でもめとったのを覚えている。
(渡辺)私が小学校の低学年の頃、中学の一部が両小の所にあって中学生も結構いましたね。時々岡の上の学校にも行ってた記憶があります。私の中学入学が昭和35年ですから、昭和29年頃の話ですね。
氏田良隆市長の時に学校問題があったそうですね。氏田さんの身内で、後にに世界女子初のエベレスト登頂を果たす奈須文枝さんが言うには、「いろいろもめたので私は和木から両津中学校に通った」と言ってましたね。
奈須家は氏田さんの母の実家らしいです。奈須家は資産家で、今のヤマカクさんの所でキャバレーか何かも経営してたそうです。
私の中学に入学した昭和35年はその一番ひどい時で、湊の連中は河崎の人と一緒に両津東中に行け、夷のものは加茂のものと一緒に両津南中に行けと言うことでそれはひどくもめたものです。
ご存知の通り、東中に行くことを拒んだ湊の連中は親に護衛されて南中に通って来て、前列に机だか箱だかを親が設置してそこで授業を受けてましたね。後年調べてみると湊全員でなくて、氏田市長派の湊の人は最初から頭注に行ったそうです。7,8人くらいですが。それでも後で聞くと東中体育館を前倒しで建設するとかで、二学期からは湊の人も東中に通いましたね。
私の代は最初から南中ですが、一年上の、例えば今、奈良女子大学長の湊の野口誠之さんなんかは1年、2年は両津中、3年は両津南中で、南中卒業で南中2回生になるわけです、私は南中3回生ですが。
(小池)俺たちが高校の頃、加茂の役場(現在の加茂農協)の前で父兄がテント張って集まってた。この合併反対派のリーダーが磯野誠次さんだった。
(渡辺)聞いた話では、夷海岸通りの家(後、松本釣具屋)の二階に合併反対派の湊の父兄達が大勢集まってワイワイやってたら二階の床が抜けてみんなどすんと落ちたとか。
この合併騒動の中にあった素晴らしい話を是非書いておきたいんですわ。
春日町に毎日新聞の豊田俊介さんがいましたよね。私は娘の双葉さんと同年なんです。その豊田さん達はこの騒動の被害者は何たって子供達だ。特に英語を初めてやる中一の子供達には大変なマイナスだから、何とかしたいと。
私の記憶では。豊田さん達は吉井にいた青山学院OBの中川さんという人を先生に頼んで豊田さんの自宅で英語補習塾を始めたんです。多少の授業料は払ったかも知れないけどほとんどボランティアだったと思う。その後は先生が水井瀬戸物屋さんの両津高校英語教師だった斎藤修先生になった。デンスケってあだ名でしたね。
先生はこのことは皆に言うなよ、俺は高校の先生なんでちょっとまずいから、みたいなことを言ってました。
その後だったか、今度は今の離島センター辺りにあった役所の二回の一室で同じ英語教室を開いてました。これは場所柄もあって湊の人もたくさん勉強に来ていました。
今思うと、磯野誠次さんもわが子が中1でもあり、豊田さん達と集まって子供の教育について真剣に考えたんですからスゴイ人達だなあと今更ながらに思いますね。磯野さんが、大事な英語が始まる時に大人の都合でみんなに迷惑をかけて申し訳ない、みたいな挨拶をしたことをよく覚えています。磯野さんの娘さんも私と同年でした、磯野靖子さんです。
後年磯野さんといろいろ商店街の会議で一緒になったり酒飲んだりしましたが、所謂直情径行と言うか筋を通すというか、ある意味言いだしたら聞かない面がありましたね。私らガキみたいなもんにも真剣に議論し時々は私も怒鳴りつけられたのを覚えて居ます。しかし今思うと、素晴らしい人だったんですねえ。ああ言うタイプの年寄りが今はいなくなりましたね。
豊田さんは確か片腕の一部がなかった人で、上着の袖をポケットに突っ込んでいましたね。そして眼光鋭い人だったことを覚えて居ます。
娘さんの双葉さんは小中学校はずっと作文でいろんな賞をとってました。佐渡一みたいな文学少女でしたね。後に国会図書館に勤めて居たはずで現在は帰郷して春日町に住んでいますね。
ブルガリア語?の翻訳をしてると聞いたことがあります。
(小池)二人ともどっちかと言えば左派だった、左がかったと言うか。
(伊豆野泰弘)私たち(昭和16年生)は昭和29年に中学1年生になり、現在の両津中学校(H25.3月まで旧南中)と同じ場所に建設された木造2階建ての新校舎に新入生から通学しました。私たちより1、2年上級生は、現在の両津小学校隣(湊側)の古い両津中学校舎に入学時から通学しておられました。ですから1年先輩(2年生)と2年先輩(3年生)は、進級時に新校舎へ転向したことになります。
新校舎は体育館が建築中であったため、私たち1年生を含め、1、2年上級生も旧中学校(両小隣)の体育館で授業を受けました。
クラブ活動(籠球、排球、バトミントン、床体操などの体育部とブラスバンドの音楽部)も旧中学校舎で、野球や陸上などの野外スポーツは新校舎のグランドで行なっておりました。中学2年(S30年)に新体育館が完成、すべての授業、諸活動が移転されました。
二年前の夏、同級生の川上歯医者の和夫君の家(両中の傍)に同級生数人で訪れ、仏前に線香をあげて弔ってきたのですが、帰りに私たちが通った中学校の跡を遠くから眺めましたが、新校舎と新体育館は私たちの時代と同じ位置だナァと思ました。
また元のグランドには何も建物がなかったので、グランドとして使われているのか、体育館の向こう側に造成されたのか、分かりません。現時点では、私たちのグランド跡に、南中と東中統合により新校舎が建設されたかもしれません。
それにしても、川上君の家がある住宅地は、私たちの頃は、丘の上の見渡す限りの田圃でしたが、随分と様変わりしておりました。校門の近くの崖があり、崖をよじ登ったり、蔦で下ったりして遊んでおりました。
■そろばん学校
(山田)そろばん学校も一つの歴史だから書いておきたいなあ。
中村珠算塾は中村辰夫先生が始めた。
(小池)中村先生のそろばん塾は両津では二番目です。今の夷の本郁に中年の美人の女の先生がいて繁盛していた。本郁の関係者だと思うけど詳しくはわからない。
(山田)その頃か、両津小学校に夜そろばん習いに行ったけどその先生かなあ。その後に中村先生が始めたか並行してやっていたのかはわからない。
中村先生は最初、八郎平町でやってた。私はそこへ習いに行った記憶もある。中村先生の父は馬首辺りから出て来て八郎平町に住んだ。借家で、裏に住んでたが、前の部屋は中村さんの姉で、幅(はば)さんという人で和裁をやってた。
そうそう、八郎平町についてはいずれ小塩敦子さんから話を聞きたいと思う。小塩さんは幅さんの妹ですし、中村先生の妹でもあります。幅さんは現在高齢なんで小塩さんの所に住んでいます。
幅さんの倅さんが新大出てコロナに勤め、ストーブの着火システムを発明したんです。
ところが、幅さんは旦那さんを早く亡くしてその子供さんも亡くなってしまって。
(渡辺)発明と言えば、両津高校校長などを歴任した掃部利久先生の弟義幸さんは立教からソニーに入り、あのウオークマンを発明したチームの代表らしいですわ。
また、幅さん変わった名前の由来も知りたいですが、春日の赤泊鋸屋さんの赤泊はお婆ちゃんが赤泊出身で、難波と言う姓は金物の関係で三条から来た人らしいですね。
■いろんな塾
(渡辺)小学低学年頃に中村珠算塾に通ったが数年で辞めた気がする。特別上手くはないが劣等生ではなかったし中村先生も大好きだったのに何故長く続かなかったのか覚えて居ない。
早く塾に着いてみんなで相撲をとるのが楽しみだった。加茂からも生徒が通っていた。
本間鉄工所(現在のホテル東宝さん辺り)さん二階で書道教室があった。鉄工所の奥さんが教えて居た。
学習塾では、私は最初は高橋屋さんに通っていた。夷1の藤原弥次兵衛(製麺)さんの、海に向かう道路を挟んで反対側である。今は更地で一部車庫になっている。
先生は優しく上品なお婆ちゃんで、元は加茂小学校の先生だったそうだ。旦那さんは亡くなったのかどうか居なかった。息子さんが高校の先生で、後年、佐渡高校の校長先生で赴任してきた。高橋芳夫と言う名前だったと思う。
斎藤甲子郎さんが市長選に出た時、佐渡高校同級生として仲間を募って応援していたので昭和6年頃の生まれか。すると高橋屋の先生は明治40年頃の生まれか。そうすると私の小学校時代は50歳過ぎであったろうか。もしかして教員退職後だったのかも知れない。
その後、風間塾にも行った。私は高橋先生が大好きだったが、小学5年生の頃だったか、通知表に「通っている塾を吟味下さい・・」と書かれていたのが原因である。「吟味」と言う初めての感じが新鮮でよく覚えて居る。
後でわかったことだが、同級の友人が担任の木村与三次先生に高橋塾の問題点を告げたと言うことで両親はそれを信じたようだった。今に思えば高橋先生には本当に濡れ衣で、何よりのそれを軽々に信じた私の両親や木村先生に問題があった気がする。その後よく高橋先生に会ったし、社会人となってもよく会って立ち話したが本当に素晴らしい人物であったと思っている。
風間塾は神明町にあった風間酒店の息子さんである風間孝先生が教えてくれた。大柄な人でとってもいい先生だった。家の酒店を経営しながら、夕方以降に二階の一室で塾をやっていた。算数に関しては夷二の渡辺清さんもサブのような形で教えてくれた。まだ高卒後間もない頃だったと思う。算数は全て渡辺先生だったかも知れない。風間先生はお洒落な人でいつも当時珍しかったコーヒーを沸かして飲んでいた。あの何とも言えないコーヒーの匂いとそれにも増して先生の文化的生活が素敵だった。風間先生も渡辺先生も野球が好きでうまかった。生徒たちを交えて野球チームを作り、日曜日などは両津高校のグランドでよく試合をしたものだ。先輩達には河内の大蔵(後藤?)さん、古城さんなどがいた。彼等は高校生だった気がするのでもしかしたら風間塾OBで野球チームを作っていたのかもしれない。風間先生はコントロールがよくスピードボールも投げ変化球もすぐれたいい投手だった。
渡辺先生は内野手で華麗な守備を誇った。チームとしても結構強かった気がする。私は中学校に入ってもこの塾に通っていたのかどうか覚えて居ないが、先生たちと同じチームで野球をしたことを想えば、少なくとも小学生ではなかったと思う。
(小池)この前そろばん学校の話の時出たけど、本郁(布団店)の裏と言うか細い通路を通って奥の所で女の先生が習字も教えていた記憶があるなあ。
(山田)俺は全然知らんなあ。書道塾と決まったものはなかった気がする。個人的にやってるとこはあったかもしれんけど。あれば親父は教育熱心だったら行かされた気がするなあ。
(渡辺)本間鉄工所で書道塾があった。小池東一さんが大先輩でいて、字がうまく書けん時は二ば筆と言ってこっそり後で付け加えて書けばうまく書けると教えてくれた。 ところがすぐばれた。電気に透かして見るとすぐにばれた。小池東一さんもかなり前に亡くなりましたが、生きてれば70代半ばですかねえ。鉄工所の二階でした、広いスペースで生徒も一杯いましたね。
(山田・小池)俺たちはその書道塾は聞いたことないなあ。それから学習塾なんてのは俺達の頃にはなかったと思うしそれに似通ったものもなかったと思う。
(山田)風間塾の孝さんは私の1年上だった。
■保科義夫他
(小池)本間組が夷上町の角にあり、足の悪い所長が居たが、若い頃からそこに勤めて居た。
彼の部下に大川の林さん(寛治さんの兄)がいたのでよく知っている。ある時、爆発があって林さんが片手を失った。事故の時は大騒ぎし、救急車もなかった時代なのでトラックで運ばれた。
彼は私の従兄弟なのでよく覚えて居る。
石と採る為の現場だったのか、道路建設のための工事だったかはわからないが、私の記憶では道路建設だったと思う。
保科さんは後に有名な作詞家となったことも聞いていた。
(渡辺)保科義夫さんですね。泉淳三という名前で八代亜紀の歌った「恋あざみ」を作曲したし、私の子供の頃は「おけさの島から来た便り」を作って、私は店の人達から教えてもらって歌ってました。
私の1年上のお嬢さんが居たと思う。
保科さんは私の小学校頃の記憶では足が悪くて背が高く細身の上品な人だった。よく父が「あの人は偉い人なんだよ・・」と言ってたが意味は分からなかった。そして当時、私の家は洋服屋で女性の縫子さんが何人もいて仕事をしながら当時の流行歌を歌って居た。その中に「おけさの島から来た便り」と言うのがあった。実は私は今でもその歌を歌えるのです。それ程、わが家ではみんなが歌っていたのです。後年、この歌のテープが手に入り調べて見ると保科義夫作曲でした。父が言った「偉い人」と言うのは佐渡に居ながら作詞家として全国的に活躍していたことを言っていたのだなと今頃わかった気がする。
(歌は鈴木三重子:「愛ちゃんは太郎の嫁になる」)
この「大川小唄」は昭和30年頃に、東栄館の井東浩太郎さん達が大川の観光宣伝のために作ったと聞いています。
作詞は本間組に勤めていた保科義夫さんにお願いし、作曲はつてをたどって、沢根出身で三橋美智也「哀愁列車」で知られる鎌田俊與さんにお願いしたそうです。
当時、畑野出身の歌手今井明(本名今井睦雄)でレコーディングしたのですが、現在レコード盤はあるものの音が出ない状態です。
そこで、当時を知る老人たちが集まって記憶をもとに歌を復活し、両津の市役所に勤めていた野口禮吉さん達が中心となり、地元入桑出身の民謡歌手小林よしえ(旧姓 佐近)さんに歌ってもらってCDにしました。
平成に入ってからです。その際、小林先生が三味線もつけたそうです。
現在、大川集落を見下ろす「見返り峠」に「大川小唄の碑」が建っています。
(注)「大川小唄」については
・➡ブログ『佐渡人名録』中の➡★「佐渡雑楽」(「島の新聞」連載32号に詳細あり)
・歌詞については➡ブログ『佐渡の民謡』➡★歌詞 5000種以上➡┣大川小唄・鴨湖小唄・両津小唄に載る
歌と言えば、この時の現場人夫で歌のうまい人が居たらしいですよね。
そうそう、北五十里の岡野久治です、新潟県大会で二年連続優勝しました。現場でよく大声で歌って居たそうです。
民謡と言えば、篠沢卯一とか床屋の大阪軒が有名だったなあ。浪花節もやっていた。
(山田)確か花月の前辺りにもいたことがある。
仙次郎床屋の渡辺忠一さんと大阪軒さんは同時期だなあ、仙次郎さんんの三味線で大阪軒が歌って居た。
(渡辺)大坂軒(米沢湖月)が夷二の今の光電社辺りにあって、他所に引っ越し、その後に仙次郎床屋がそのままそこに入ったらしい。私は仙次郎床屋さんしかわかりませんが。長男の忠志さんは絵がうまくて七夕におなると小学生の提灯の絵を書いてくれた。ほとんど全部書いてくれてんじゃなかったかな。
当時あった「かねせパーマ」(今の山田時計店)の二階が広い場所でそこで書いてくれた。
忠志さんは学校を出て紅屋看板屋に入り、その後誘われて東京の日活映画かどこかの美術部で活躍した。その後帰郷して現在の渡辺デザイン工房を経営している。妹の智恵さんが同級生でよく覚えて居る。
岡野久治さんはよく覚えている。鴨湖会にも居たと思う。新潟交通の上で民謡や鬼太鼓を観光客に見せて居た時はよく一緒になった。
(渡辺)岡野さんは八十過ぎても民謡歌い、最後は杖ついて歌って居たそうですね。娘さんが言うには、そんなになっても民謡大会に出たがって困り、みんなでみっともないからやめてくれ、と頼んだものです、と。
(注)民謡関係者各自については➡ブログ『佐渡の民謡』➡人名録に詳しく載る
■雑
・蘭丸船(だんまる船)
(山田)前の魚市場辺りかな。そこに造船所があった。その横辺りから「ヘタの築港」が出ていた。ヘタのと言うのは石だけの築港のこと。そこは船の通るとこだけ空けてあって。
そこに蘭丸(らんまる)船が沈んでいた。みんなはダン丸船って言っとるけど正式には蘭丸船だよ。造船所は道路に並行してあって、湊に向かって口が開いていた。そこで作った船が、ヘタの築港とほんとの築港の出っ張ってる部分との間のスペースを通って外に出た。
ちょっと調べた限りでは和船が駄目になった時に国の政策かなんかで新造船を作らせ、その時に第一蘭丸、第二蘭丸各造船所で建造されたみたい。あそこで作られて進水式があり、その後台風か何かで沈没したんじゃないかな。まだ外海に動く前に沈んだみたい。
あそこへ行ってみんな泳いだもんだ。田中湖山さんは当時の先進的な事業家だったんじゃないかな。
(渡辺)両津の民謡に千鳥会から分派した金波会ってのがあってその代表が田中湖山なんです、そしてこの造船所の事務所前で撮った写真があります。(→ブログ「佐渡の民謡」)
・牛乳
(小池)本間牛乳は牛乳の配達はしとったかどうか分からんな。牛乳はうちの裏に聞く菊池牛乳ってのがあって牛乳を売ってた。配達しとったかどうか覚えてないけど。吉田タイヤさんの前。どこか潟上あたりの人だった。あっちで牛飼っとって牛乳は夷で配達しとったんだかな。牛乳の瓶詰めなんかもやっとった気がする。
(山田)菊池牛乳は全く知らんなあ。
・旅館
(小池)丸金旅館があって、それは菊池組の隣で、旅館を閉めてから、今はそこも一緒に菊池組になっとる。そこの奥さんはきれいな人だった。その夫は両津小学校の先生やっとって、俺は昼食運びの役だった。四時間目になると弁当取りに行けや! ハイ!って調子で。先生はおそげえ先生で小学校の子供を軍靴で蹴っ飛ばしたりしたもんだ。
(山田)丸金旅館は斎藤薬局さんの親戚だって聞いたことがあるなあ。斎藤電機さんから聞いたんだけど、自分のおじさんだかかと言ってたねえ。
(渡辺)丸金旅館には私の同級生の佐藤ひろみって小柄で可愛い女の子がいました。小学校の5年頃かなあ。途中で新潟かどっかへ転校しました、旅館をやめたんで。
それから、斎藤薬局さんですけど、実は斎藤八郎兵衛ー斎藤喜八郎ー斎藤甲子郎でなくて、八郎兵衛さんの息子に肇さんがいるんです、政治はやりないで薬局主でしたが。肇さんの子供に斎藤喜八郎さんや斎藤電機のお父さんがいるんです。
★遊郭
(山田)「吉田屋」がありました。旅館の方は「吉田家」だからそれとは字が違う。今の新明町の結婚衣装の「藍」さんとこ。中田さんと言う家で昔は吉田屋と言う遊郭だった。
(小池)紅梅楼と沖口。紅梅楼は甲斐さんが経営、その後、遊郭やめてから常盤旅館になった。
(渡辺)私の小さいころは沖口旅館がありましたから、遊郭の後は旅館になったんでしょうね。沖口さんのお父さんは各学校を指導する武術の先生だったようですね。福島徹夫戦士の同級生に沖口光臣さんが居て、教育者で長岡高校の校長になったんですが、その孫に北京五輪の体操で銀メダル取った沖口誠選手が居るんです。私が「島の新聞」にそのことを書いたんですが、福島先生を通じてその記事を読んだらしく、たいそう喜ばれ、佐渡に来られた時に福島先生も含めてお会いしました。その時に沖口誠選手が高校時代やその後に活躍した記事や写真を見せてもらい一部は頂きました。おじいさんの光臣さん自身も運動神経抜群で、倒立してかなり長く歩いたと福島先生が話してました。
(小池)そう言えば私の先輩に野球をやった沖口さんがいた。
(渡辺)名前をよく聞く「小黒館」は何ですかね。
(小池)それは「蓬莱」と同じで芸者さんを置いといて。芸者置屋と言うか。
(山田)小黒館はその前は「小黒館」と言う西洋料理店だった。この「再会」の場所で。下が西洋料理、二階がビリヤード場だった。当時の写真もある。そして大火の後に八郎平町に行ったと思う。八郎平町に行った後、私は郵便局に勤めましたが、カツを食いに小黒館に行ったものです。
カツライスだったか、当時は珍しかった。場所は今の小舟のとこかな。高級だから1年に一回位行ったかなあ。
(小池)俺はそんなのは縁がなかったなあ。遊郭だけど、当時は紅梅楼、吉田屋、沖口の三軒だった。
(山田)もう一軒若松屋があった。天の川の向こうの向こう。自分の一年上の人がそこで下宿してたから、その前に終わったんだろう。遊郭廃止の前に営業は止めてたと思う。松本正勝さんの家は私の家の真ん前で「ふじもと」と言った。芸者置屋だと思うけど、子供心になんか家庭が複雑な感じだった。
夏休みになると、沖口にも行ったし若松屋にも行って、昼間あそこは仕事がないから、そこの広間のとこで遊んだり宿題したりしとった。地域の集会場になってた。「地域の茶の間」(笑)だった。常盤は覚えてないけど。
(小池)へえーーつ、親がそういうとこはダメって言わんかったかなあ。
(山田)そっちゃん考えてみーちゃ。俺たちは戦後教育受けて潔癖だったけど、昔はそんなとこへの出入りは当たり前だったわけで。巫女さんやってた森谷(もりや)さんが新明町で飲み屋やってた。彼女は手伝ってたんで親が経営してたと思う。新明町のある遊郭の経営者は神主さんだったと話してた。吉井の神社の神主さんで、昼間は正装して箱だか持って吉井に行き、夜は遊郭の主だったと。
(小池)森谷さんの旦那は漁業だったかで佐長水産と関係しとった。婿さんだったと思う。
(渡辺)松本さんから聞いたんですが、新津からやって来て自分はおばあちゃんに育てられたと。おばあちゃんは鴨湖会の人達に三味線も教えていたと。それで自分も自然に鴨湖会に入った。鴨湖会や新潟交通の長登さん(岡三屋)達に教えていたそうです。ところで、長登と言う苗字は岩屋口なんですわ。浜登、船登、山登などもあるんです。私の同級生の長登君は中学時代は柔道と砲丸投げで新潟地区で優勝し、高校は佐渡高校で柔道新潟県一、大学でも活躍したはず。その後当時はやっていたキックボクシングで東日本チャンピオンになった。その後、ブラジルに行って異種格闘技で活躍し、今は道場をもって何とか言う武術の指南をやってます。 「島の新聞」に大きく取り上げたこともありますね。
(小池)その「ふじもと」の場所は知ってるけど前に何やってたか自分は知らんかった。
(山田)他にも明治維新で寺院が減らされた時、潟上の栄法寺の石野(源栄)さんは両津で遊郭やった。当時は僧侶の遊郭経営などは特におかしいことではなかった時代だったと思う。これは『新穂村仏法史』に出てる。
(渡辺)まあ確かに、その時に同じく新穂の僧侶だった真後さんは夷で料亭「朝日亭」をやるし、新穂の宇土(うど)さんは白山屋旅館をやるし、この石野さんも含めて花柳界が賑わった夷に向かったんでしょうね。
真後家も新穂の僧侶で両津に出て料亭旭亭を創業して佐渡を代表する店になったんですが、そのお孫さんが両津羽吉に住んでいるんです。退職後、終の棲家(すみか)は女房の故郷であり、眞後家のルーツの地である両津に住みたいと思ったそうです。真後智一さんと言い、羽吉の家は昔の網元の御器(ごき)さんの家です。古い豪壮な建築ですばらしい家ですが、天井が高いため冬は寒くてどうしようもなく、冬場は東京に住んでいます。彼は東京生まれの東京育ちで、父は朝日亭主眞後東一郎の弟で眞後数馬さんです。彼は水産大を出て居ましたがある戦時中かなんかの機雷事故で海で亡くなり、死体が上がらなかったそうです。その伝手で息子さんは水産大学から水産庁に入社出来、海外を回っていたそうです。嫁は佐渡から欲しいと言う家族の勧めで両津の方と見合い結婚しました。この真後さんの奥さんは北光堂の娘さんで、真後和子と言う歌人で、東京にある新潟県歌人クラブの会長です。因みに顧問はあの湊の斎藤(久保田)ふみえさんです。会は昨年(平成18年)解散しました。和子さんの姉妹が江西院(こうそういん)矢部さんの奥さんです。真後名字は珍しいですが、沢根には何軒か今もありますね。智一さんは子供の頃佐渡にしょっちゅう来ていましたが、伯父の経営する「朝日亭」は格式が高く、自分にはひどく敷居が高く感じられたので母の実家である大塩自転車屋に泊まってたそうです。今の夷新のマルニ畳屋さんがある角地の家だそうです。新潟から来て自転車屋さんを始めた家のようです。(小池:そこの奥さんは面長な美人さんだった)
そうそう、眞後智一さんから、何か眞後家について書いたものがないかと言われたんで、中川雀子さんの書いた「佐渡おけさ関係の文章」のコピーを差し上げました。そこに彼の父である眞後数馬さんの名前がありました。大正十年に両津の富樫栄吉、石野琢磨等が東京で行われた第二回日本民謡大会に出場し、それを見た両津出身の学生達が感動して、夏休みに夷諏方神社境内で盆踊り大会を開いて輪になって踊ったというものです。東京高師の伊藤伝兵衛、慶応の野村亀太郎等の中に眞後数馬さんの名前もありました。
ついでに言いますと、先程の御器さんは富山から来てブリ漁等で財を成した豪邸を建てた訳ですが、『君の名は』や岩下志麻の『離れごぜおりん』等のロケにロケに使用されたそうです。そう言えば白瀬浜でロケをしたという話を映画興行師の家で育った仙宅千恵子さんから聞いたことがありました。離れごぜが佐渡に来たかどうかは知りませんが、佐渡なら山も川も何でもあるってことでロケ現場にはよかったんでしょうね。
(山田)私もそう思うなあ。渡辺産商さんの奥さんが確か子供の頃、父が教員だった関係で金井の堀家(今の能楽堂)の所に住んでいて、映画のロケがあったと聞いています。それで、東京神田の古本屋街を歩く度に古い映画雑誌にそんな写真がないか探しているんです。なかなか簡単には出てこないですねえ。
(渡辺)渡辺美智子さん(旧姓遠藤、相川の人、父は校長退職後相川町教育長等歴任)は当時の写真を一杯持ってましたねえ。『佐渡ヶ島エレジー』(根上淳 三宅艶子等出演、菅原都々子歌)のことを詳しく聞いたことがあります。主題歌のCDも持ってました。
(渡辺)大正2年に佐渡では民間で初めて電気が夷に灯ったんですが、それをやった石野さんですよね。その事務所の場所は正覚寺裏の、今の矢田パーマの隣ですね。東北電力の事務所がありましたよね。石野さんの作った電灯会社が後に東北電力に吸収されて、事務所はそのまま東北電力になったんでしょうね。
源栄さんの息子に石野琢磨って唄のうまい人がいて、三味線の富樫栄吉(夷二の旅館「一休館」主)さん達と大正10年の第二回日本民謡大会に出場し、「佐渡おけさ」と言う名前を初めて使ったんです。中川雀子さんの所に仙台の後藤桃水(日本民謡の父)さんがやって来て出場を依頼したそうで、その時雀子さんが「佐渡おけさ」としたそうです。立波会などの資料に大正15年に愛宕山(今のNHK)で録音した時に町田佳声さんが「佐渡おけさ」としたとありますが、その五年も前の話ですね。
(山田)先ほど出てきた築地にあった電灯会社だけど、それは日本初の鉄船「新潟丸」が出来た時の事務所じゃなかったかなあと思う。即ち船製造となれば多少とも事務所みたいなものは必要だっただろうし、その後にその建物が電灯会社に使われた気がする。
(小池)なるほど。ところで、船は作ったけれど、加茂湖からどうして両津橋を出られたんだかなあ。俺が聞いたとこでは、煙突など長い部分は取り外しておいて、加茂湖を出たところで組み立てたと。
(渡辺)もう一つ言うと、昔の船は今と違って船底が平たかったので案外全体が低かったと。吉井のど真ん中に船津なんて地名があって、そこまで国府川を通って船が来ていたと、これは船底が平たくないと無理な話で。瀉端、福浦、潟上なども港だったわけで、そこまで船が来るには今の船とは違っていたはず。
(山田)両タクのあの場所はその前は遊郭だった。都屋です。大正14年の例の地図に載ってますね。長谷川さんはその後、遊郭部分を売って自分たちはその裏に住んでました。長谷川家は加茂から出た人で長谷川利平次さんなんかの親戚筋じゃないかな。遊郭関係の組合長や町会議員もやったかなあ。その後のタクシー会社は本間さんだから、馬首だか向こうから来て経営したというか。自分が子供の頃はタクシーでなく塀があって立派な建物だった気がする。その一番八郎平町側に飲み屋があった。(渡辺注:太宰治『佐渡』に「よしつね」名で登場する、実際は「弁慶」で新潟からの人が経営していた。)
そして、都屋さんと丸好さんの間の道は今でこそそこそこ広いですが、昭和3年の夷大火までは大八車が通れる程度の狭い道だったそうです。大火後に広げてというか。
★両津港の水津からの艀(はしけ)
水津港より、艀でやって来て縄梯子で乗船する。当時は大川までしかバスが行かなかった。船が水津沖で一時停泊する時に揺れて困ったという証言も。
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