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2017-02-20

■遊び

「未記載」

・昆虫採集

 ※佐渡や両津独特なものでなくてもローカル色豊かなものを記す。全国共通のものでも、変わった遊ばれ方をしたと思われるものは書いておきたい。

下記に大変参考になる既述あり。
筆者は両津夷出身の櫻井哲夫氏(昭和21年生)。
➡「佐渡広場」-歴史スポット76:1950年代両津子どもの遊び


(伊豆野)海水浴:夷は築港!?、廃船だん丸の傍の小砂浜、湊地区は城の内の砂浜、各番組の海端海岸・加茂湖畔、カキ棚、弁天さん。
・遊び場:湊は、旧小・中学校の木造校舎の体育館、グランド、勝広寺のお墓、八幡若宮社境内、湊の鮮魚市場(八幡若宮社の湊寄りとなり)でかくれんぼ、椎崎公園・原黒の農園地帯で果物・イモ狩り、海岸・加茂湖畔で釣りほか、冬は道路でスケート、竹下駄・スキー、そり遊び)涼み台で将棋

・「馬・跳び馬」

(うま・馬)一人が壁を背中にして立つ。次の人が立っている人の股間に頭を入れて中腰で立ち、次々と前の人の尻の下に頭を入れる。どう言うやり方だったか覚えて居ないが、どんどんと長くなった気がする。一方の人は跳び箱のようにその長い馬を飛び越え出きるだけ遠くの方、即ち立っている人の近くまで跳ぶ。出来るだけ多くの人が馬に乗ったチームが勝ちとなったと思う。馬になるチーム、跳んで次々と上に乗っていくチームが交互に立場を変えたと思うが詳しいやり方は想い出せない。馬をつぶすのも大事な戦法だった。今に思えば危険極まる行為だが、跳び箱のように馬の上に跳び乗り、そこで立ち上がってジャンプしてどしんと馬に圧力をかけたりした。そこで馬がつぶれれば馬のチームの負けである。特に上級生が下級生の馬に対して行った気がする。
名称は飛び馬とか馬とか言いましたが、皆さんの時代は?

(小池)私らはただ馬だったなあ。一人が立って最初の人が立ってる人の股間に頭を突っ込んで中腰になり、つぎつぎその中腰の人の後ろから両足の間に顔を突っ込んでいく。そして飛べえんもんが後ろにつながっていく。成功した人はそのまま馬の上に乗ってたと思うよ。乗る人も増えるし乗れない人は馬になって長くなるし。それからの、ともかく馬をつぶすようにドカンと力を入れて馬の所に乗ったりした。馬の上で立つみたいにしてドカンと座ると馬がつぶれたりして。つぶれたらどうなった・・と言われると覚えてないなあ。今なら怒られる。(笑)あの時代はみんな元気良かったんだなあ。

(渡辺)元気のいいのは思いっきり前の方の馬に乗るし、へたんのは最後の方にちょこんと乗るし。馬は馬で左右に揺れたり上下に揺れたりして乗りにくいようにしたんじゃないかなあ。今に思えばものすごく危険と言うか。首の骨でも折るような騒ぎだなあ今なら。しかし、事故が起きた記憶はないなあ。

(小池)俺たちは馬が動いてってのはなかったなあ。ともかくドカンと来るのを我慢したというか。そして次から次に飛んでくるんで元気のないのはがまん出来んでつぶれるというか。そして馬は7人くらいは続いたというか。

(山田)敵味方があったんじゃなくて、あれはどんな形で勝ち負け決めたんだかあなあ。いろいろ考えてみると、勝ち負けとかはなくて大勢が一つの遊びをそれぞれが楽しむような形だったんだかなあ。寒いから寒さ除けみたいなこともあって。

(渡辺)敵方があるなら、弱いのはできるだけ前の方におき、がっちりしたのを後ろにおいたんだろうがな。そして出きるだけ前の方に飛ぶのがすごいわけで、あいつは5人飛んだとか7人飛んだとかも競ったのかなあ。ともかく冬の遊びですわね。


・「かな(かね)下駄」(金下駄)

1金(かな)下駄 1金下駄
(渡辺)厚い下駄の土台に金具(スケートのブレード)を取りつけ、スケートとして使う。
 鼻緒があるので、靴下でなく足袋をはいたと思う。昭和30年代初期はまだ靴下を履く習慣はそれ程浸透していなかった。私達が小学校の頃にぼつぼつ出て来た

(山田・小池)あれは下駄でなく足駄(あしだ)だった。その横二本の両刃を外して、縦に金属の刃(ブレード)をつけた。刃には左右に薄い金属版がついており足駄の裏の両側面に釘かネジくぎで取りつけたんじゃないかなあ。石塚丈太郎さん辺りの鍛冶やさんで作って売ってたんと想う。結構売れたから作り置きしてたとか。その後の長靴に取り付けたスケートと違って全体が低いので安定していて滑るのは楽だった。靴下なんか当時はないから、裸足ではいたと思う。足袋はいたかなあ。滑った場所はつる屋の坂だなあ。結構傾斜があるんでみんなここで滑っていた。
(※もっと昔は見龍小路。つる屋の先祖は鈴木見龍と言う医者だった)


・「コマ(独楽)」


(渡辺)全国的にどこでもあったと思うが、特に覚えて居るのはこんな遊び方。
 回っているコマの中央部分をめがけて斜め上方からコマを勢いよく投げおろし、地面で回っているコマを地面に埋めてしまう。特に、小さい独楽が回っている上から大きい独楽を下せばその効果は大きい。時々は金属の心棒にピッタリ上からのコマの心棒が入りこむこともあった。また、地面のコマが割れることもあり、これがコマの醍醐味でもあった。相当に大きなコマもあった気がする。

(山田)「てっぺん」って言葉があった。真上の方から相手の駒をやつけるというか。複数や多数で同時にコマを回して、だれの駒が一番最後まで回っているかという遊び。これは「息が長い」って言った。みんなでやったり個人戦だったりしたのかなあ。コマの大小はまあ特に問題にしなかった気がするなあ。コマはツルヤの他に城の腰の小川屋に売っとったなあ。小川屋は宇佐美パーマでその大家さんは小川屋さんの関係者かなあ。宇佐美さんの夫は私の同級生で奥さんは権代茂樹さんの妹です。

・「ぐな」について(佐渡広場)
・「コマの息の長さを競う」:ぐなで駒の端っこをたたいて回転速度を維持する。
・投げコマ:コマはグナをまいて前方に投げつつ上手いタイミングで手前に引くことによって回転力を高めるものだ。このやり方で出来るだけ遠方にコマを投げて回すものがこれである。出来るだけ遠くで回っているものが勝ちとなる。
・ぶっつけゴマ:回転している相手の駒の向こう側に投げ、引っ張る時に相手の駒の側面に追突させるものである。相手の駒を弾き飛ばせが勝ちとなる。
また、相手の駒の手前部分にこちらの駒をぶつける戦法もあった。


<陸上競技>

(山田)皆で足作って棒立てて高跳びなんかやったなあ。誰がどれだけ跳んだとか。

(渡辺)いろんな年齢が交じるから下の子も先輩の見てるからどんどん技術が高まったり。ガキ大将を中心に上下関係をしっかり守りながら集団で遊んだんでしょうね。上級生は下級生を指導したりね。
kugi

・「くぎ立て・くぎ刺し・陣取り」 

(渡辺)「くぎ立て」と「陣取り」はどういう関係だったのだろう。「くぎ立て」そのものを「陣取り」と言ったのか、又は「くぎ立て」にはいろんなやり方があってその一つに「陣取り」と言うものがあったのか、と言うことである。
「くぎ立て」は粘り気のある地面の上で、クギ(釘)を投げて突き刺す。その穴を線で結び自分の陣地を広げる。相手と陣地のとり合いをするものだった。

(山田)相手のくぎを倒すのもあった気がする。斜めから投げつけて。俺たちは陣取りと言うのがイメージにないんだよねえ。

・「すぐばん」
 名前は思い出せるがどんな遊びであったか覚えて居ない。

・「スケート」
3スケート
(渡辺)長靴の上からブレードのついた器具を装着し、太いゴムを二か所で左右から絞めつけて安定させて。しかし、すぐに外れて長靴の横に来てしまったりしたうまくいかなかったが、中にはうまく調整してすいすい滑る人もいてうらやましかった。
 夜など、バスが来る時間帯になると沢山の子供がバス停の近くに集まってきて、バスが停まるや否やバスの後方バンバーに縄を巻きつけ、二、三人がつかまってバスについて滑った。一度は原黒辺りまでついて行き帰りが困ったことを覚えて居る。
 私の場合、普通はわが家の前の上町十字路からつかまって本町通りの夷5町目あまりまで行ったと思う。
 今に思えばバスの運転手さんに怒られた記憶はない。わからなかったこともないだろうから、いちいちそんなことは気にしなかったのだろう。古き良き時代であった。

(小池)このスケートはかな下駄と違って高さがあったんで左右に揺れて、上手く滑るのに技術がいったなあ。立つというか、歩くのさえ大変だったぞ。
(山田)北光堂(印刷屋)さんの弟藤井さんが開業した太陽堂さんが夷四丁目にあったんでその辺りで売ってたかな。まさにスポーツ用品の先駆者です。
スケートと言えば、新潟の親戚が本格的なスケート場に連れて行ってくれた。佐渡から来たんで滑れるとは思ってなかったようだが、こちらは佐渡のスケートで慣れとるのですいすい滑って皆を驚かせたものです。
(小池)経営者の藤井さんは北光堂(印刷屋)さんの弟でなかなか弁の立つ人だった。
(渡辺)太陽堂さんはソニー商品も売ってました。藤井さんは確かソニーに勤めて居たとか聞いてますので、ソニーの夷出張所も兼ねていたのでは。背の高い知的な雰囲気の方で、息子さんも背が高く、私の一年下だったと思います。藤井さん達は早く佐渡を離れ、今の後藤さん達が経営していた時も経営権は藤井家だったと聞いてます。今は違いますが。

・ローラースケート

私が小学校の頃でしたが、1,2年間位の短い期間、安照寺さんの今の車庫になってる広い敷地にローラースケート場がありましたね。確か新潟の業者が経営してた気がします。あか抜けた人達が何人もいましたねえ。きれいなお嬢さんがすいすい滑ってたのを覚えて居ます。経営者のお嬢さんあたりじゃなかったかなあ。セメントをはって周囲を柵で囲ったなかなか本格的なスケート場だったからかなり資本を投下したんでしょうがねえ。全国的にローラースケートブームがあった気がします。

・「そり(橇)」
5そり (2) 5そり
(渡辺)元々は雪の上で荷物を運搬用するためにあったと思う。小さなものでは一人二人乗り、大きなものは4,5人乗ったと想う。私の身近な場所では「本間さんの坂」である。両津病院の福浦側に今もある坂で、当時は本間牛乳屋さんの牧場が上にあったから「本間さんの坂」と言われたのだろう。後に知ったことだが、本間さんと言うのは馬首村村長もした本間太郎八さんの「ことのようだ。この名前は世襲だったようで、私の同級生も本間太郎八で、本人はひどく嫌がっていた。可哀想でもあった。この場所には夷地区の子供達が大勢集まり、5,6組待ちで後ろに並んだものだ。他には両津中学の坂や両津高校の坂もソリには打ってつけであったが、小学生の私達には遠過ぎたし、それ以上に長くて急峻のため怖かったので余り行くことはなかった。両津高校の坂は勢いをつけて滑降すると加茂線の道路を横断して海の方にまで滑った。当時は車も少なかったので事故があったことは聞いていない。車の方で、一時ストップしてソリが来るかどうか確認していたのかも知れない。

(山田)ソリでも金具のついたソリは珍しんだ、これは滑りがよくって。金具がなかなかなかった。
大きいのもあったし小さいのもあった。どっちも荷物運ぶものだった。

(小池)わが屋のソリは完全な手作りだった。竹がついてた。主に荷物運びだった。

(渡辺)ものすごく大きいのもあったし、小ぶりのもありましたよね。載せるものに依って大きさがいろいろあったんでしょうね。元々は荷物運搬用だったのを、子供がかってに遊び用に使ったんでしょうね。

(小池)俺の記憶では、坂のとこで自分で押して勢い付けてポンと飛び乗ったなあ。あのソリは仕事用だったんだか覚えてないけど、ともかく手作りだった。

(山田)ソリで遊ぶとこは、つるやの坂とか、本間牛乳の坂とかも行ったなあ。あの時は大きい坂だったけど、今見ると小さなもんだ。他には中野の坂とか、電話局のすぐ向こうの。登ると三辻さんの家のある。あそこから滑ってくるんだけど、車なんかなかったし、たまにはタクシーが通るくらいで時々トラックも来たかなあ。まあ、中野の坂は本線まで出ないというか、その手前で平らになるんでソリは止まりました。その向こうの新町の坂も行ったけど、そこはたいした坂でなく面白くなかった。俺達は急な坂を欲しがったものです。

(渡辺)私達は「本間さんの坂」って言いました。私の同級生にそこの息子の本間太郎八君が居て世襲の名前だったそうです。普通世襲って言うと、本名は別に持ってるもんですが、彼は本名も同じでした。元々は馬首村の村長やった人が両津に出て牧場をやり牛乳製造をしたようです。太郎八君はこの名前を嫌がってましたねえ。私も可愛そうだなあと思ったものです。
 私は中野の坂は行ったことないけど、小学校の後半頃かなあ、両津高校の坂で滑ったこともあります。県道を横切って海の近くまで滑ったかなあ、勿論大きなソリです。ただ、車にぶつかる心配でなくスピードが出るんでひっくり返ったり、どこかに衝突すると怖いって気持ちがあったのを覚えて居ます。

(小池)俺達は牧場とか本間牧場とか言ったなあ。俺は中野の坂や両津高校へ行ってやった気憶はないなあ。自分の滑ったのはつるやの坂専門だなあ。
 本間牧場は当時あったし牛乳もやってたなあ。そしてあの広い場所で野球をやったもんだ。

(山田)いや、それは下だなあ、今の栄町の所、栄町が出来る前。加茂湖埋める為に岡を崩して、その広い場所が石があってでこぼこだったけど俺達もあそこで野球なんかやっとった。
 本間牛乳だけど、牛はおったなあ、だけど牛乳の販売はよくわからん。

(小池)俺もうちから遠いんでよくわからんけど牛はおった。

・「竹下駄」

 あまり詳しく覚えて居ないが、竹を下駄の長さに二つに割り、鼻緒をつけた、前方は船のような形に削ったと思う。
 スケートと言うより竹スキーのようにして遊んだと思う。

・「竹スキー」
2竹スキー 2竹スキー
(渡辺)竹を横5cm、縦40cm位に切って、前方を火に近づけて曲げて一本足スキーとして使う。長靴の下につけ、片方の足で走って勢いをつけ滑る。家で作った人も居たのだろうが、私は春日町の、今の(h29年)桧田整骨院辺りにあった竹細工関係の家に行って買っていた。火であぶって竹スキーを作る工程を、おじさんと話しながら見るのは本当に楽しかった。

(山田・小池)自分達でつくったなあ。竹を伐って来て、スキーの大きさ(縦30cm、横5cm位)に割ってロウソクで熱を加えて先の方を曲げた。材料の竹は自分で伐ってきたんだか、親が伐ってきたんだか覚えてないが。

(小池)当時は竹細工やってる家が結構あったから、そこ辺りで作って売ってたんだろうなあ。

(祝純子 すみこ 昭和20年生 現大黒屋さん談)夷6の「かごや」さんで竹スキーを製造販売してた。

(渡辺)夷一の岩谷栄治さん辺りが最後まで竹細工やってましたねえ。藤原弥次兵衛さんの道路を挟んで前辺りの家で鴨湖会で唄ってましたねえ。本人が亡くなった後ですが、20年くらい前ですか、火事を出してその家は亡くなりましたね。今なら60過ぎの男と70近い女性が二人で居ましたがねえ。

(小池)そうそう居たなあ、 桧田写真屋の手前辺りの家だなあ。俺達は鬼太鼓と鴨湖会の関係でよく覚えとる。歌は大坂軒(米沢湖月)が何といっても一番うまかったけどなあ。大坂軒は声が高かったし、岩谷さんは低い声だった。

(山田)あの頃の親は忙しくて子供にかもとる暇がないから、竹伐るのは手伝ったかも知らんけど、後は子供が全部やった。竹細工屋があったから、そこで丸太みたいにした竹を売ってたかもしらんあ。
竹をロウソクで曲げるのは、俺達は丸屋の裏の土間で一生懸命やった記憶がある。


・「追跡」

 行先の方向が分かるように矢印を書き、それを目当てに追いかける。
 地面に書いたり、家にチョークで書いたりした。

・「パン」(めんこのこと)
4ぱん 4ぱん・ちーぱん
※住吉ではパスと言った。(昭和22年生、木村隆談)、高千ではパッチン(藤下さん、昭和40年頃か)。

(渡辺)全国的に行われていたと思う。大きさもいろいろあったと思う。絵柄は当時の人気スポーツ選手や漫画のヒーロー達。
 大別して二つの方法があった。 
(1)平台の上で行う。みかん箱等の上にベニヤ板などを乗せたと思う。
   板の上にある相手のパンを下に突き落とす、又はひっくり返すと勝ち。
   パンの端を少し折り曲げたり、唾をつけて固めたりした。
   インチキな方法に手スリと言う技があり、自分のパンを斜めから打ち付けながら相手のパンをわからないようにはねのけるやり方で実に職人的な手さばきだった。
 (2)地面の上で行い、自分のパンを打ち付ける時に起こす風の力で相手のパンをひっくり返す。  
湊辺りから遠征して来る猛者もいて、そんな人をショーベーなどと言った。商売人、プロ級の人と言う意味だったろう。勝つだけ勝って短時間に帰る人を勝ち逃げなどと言った。
このパンはツルや辺りで売ってたんでしょうね。太陽堂はどうですかね?

(小池)ツルやでは買ったけど、俺の子供の頃は太陽堂はなかったなあ。これと関係ないけど三舟商事もあって、今の佐渡整備さんがやってるタクシー会社の場所にあったなあ。

(山田)パンを油につけた記憶がある。エンジン油みたいなのを付けると重くなって有利と言うか。おあがれても簡単にひっくり返らないし、それであおぐとものすごい風を出せるというか。これも許される範囲あというか。
 ※s21年生、桜井哲夫氏より「油パン」との証言あり。

(渡辺)大きいパンもあったし小さいのもありいろいろの大きさがあったけど。

(山田)そのあたり、どういう風に遊んだのじゃなあ。当時はお互い紳士的なルールがあったんだと思う。はっきりしないけどここまではいいけど、それはもうだめだという風な。そうしんと、金持ででっかいの持ってるのは有利となってしまう。

(山田)太陽堂は第四銀行の前辺りで小島さんの隣でちょっと引っ込んだとこだ。ツルヤの他のおもちゃ屋は城の腰に小川屋があった。今の宇佐美パーマのとこでふくのりとか売ってて、50銭で飴買った記憶がある。ツルヤみたいに手広くやってなくて、婆ちゃんが一人おって、何か行事があった時に露店みたいなところで売ってたんじゃないあかなあ。そのうちが小川苗字だったかは知らんけど店は小川家だった。
浜田の小川菓子屋あたりと関係があるかも知らんぞ。

(渡辺)浜田の小川菓子屋の息子さんの真一郎君が県内の高校先生やめて起業して「グッドフォーチュン」って会社作って成功してますね。マスコミに時々出ます。

(山田)小川やさんは両親とも頭が良かったもの、奥さんは電報電話局におって。小川真一郎君は小学校の時、理科研究で文部大臣賞もらったなあ。次の年にはうちの娘がもらってさあ。土屋先生って理科の先生がいて指導が良かったんだろうなあ。二年続いてはすごいことだ。この前小学校へ行きトロフィーを見たけど、うちの娘のあとはなかったなあ。
小川菓子屋さんは弟の方が、空気銃で間違って前の宮下さんの眼を撃ってしまってなあ。その奥さんが裏でパーマ屋やってる。

(渡辺)うちの従妹がNHKにおるんだけど、彼と久々に会ったらなかなか成功してるんでびっくりしたと。

(小池)兄さんの奥さんは俺の同級生で原黒の藤井さんで頭よかった。

(渡辺)ところで、パンとは違ってずっと小さい丸い厚紙でつくったやつで、親指と人差し指で挟んで飛ばすのがあったけど名前は何でしたかねえ。

(山田・小池)俺たちはおぼえてないなあ、そんなのはなかったと思う。


・「かちんこ(かっちん?)・ちーぱん」

4ちーぱん 4ぱん・ちーぱん
 パン(めんこ)の小さいもの(直径2,5CM位)を使って遊ぶ。
 これは10枚、20枚位のものがくっついて一個として売られていた。
 遊び方は二種あったと思う。共に親指と人差し指の間に挟んで、両指を強く閉じることによる反発力で突き飛ばすもの。

(1)線を引いて、その内側から遠くに弾き飛ばして距離を競うもの。
(2)壁に向かって突き飛ばし、その跳ね返り位置の遠いものが勝ちとなる。数人で行い順位をつけたと思う。壁からの距離は自由で、その選択も大事だった。

・「ふくのり」

細長い海藻を膨らませ、空気を入れる端を手で押せえて、歯で弾いて音を出して遊んだ。「ふくのり」はつるや等のおもちゃ屋で子供のこぶし大を一山にして売られていた。二年先輩の大黒屋さんが言うには、他に角のような「つのまた」と言う海藻も同じようにして遊んだと。どちらも主に女の子の遊びだった気がする。

・「ゴム跳び」

(渡辺)これは女の子だけでしたね。


・「陸上競技」

(山田)皆で足作って棒立てて高跳びなんかやったなあ。誰がどれだけ跳んだとか。

(渡辺)いろんな年齢が交じるから下の子も先輩の見てるからどんどん技術が高まったり。ガキ大将を中心に上下関係をしっかり守りながら集団で遊んだんでしょうね。上級生は下級生を指導したりね。

<子供の世界の紳士的ルール>

(山田)子供の世界にもあった紳士テクルールと言うのは例えば、子供達が大勢で泳ぎに行った時、低学年や高学年が交じってアワビとかサザエをとるんだけど、そりゃ上級生の方がうまいから一杯採る。
採ったものを大きいのから小さい方に順に並べて、上級生下級生関係なくだれが採ったか関係なくみんなでじゃんけんして勝ったものが左回りかなんかで順にもらっていく。
採れない低学年も平等にもらえる。たくさん採ったもんがみんな持って帰るなんて気持ちは全くなくて、皆で採ったからみんなの物って感じかなあ。

(山田)
城の内の小川屋さんでふくのりを売っていた。小川屋さんはお祭りなどの時、そこに出店していた。福浦の今のNTT前辺りの河内屋さんも駄菓子屋さんだったけど、祭りなどに出店していた。縁日証人と言うか、例えば住吉祭りとか、まあそれだけ縁日が賑わっていたということかな。佐渡中の神社仏閣やお堂などでも祭りをやってた。町村史などを読むと佐渡中で盛んだったことが書かれいる。自分の学校時代でも、情報聞きつけて夷や湊以外の祭りにでも行ったもんです。子供の小遣いの範囲で何か買ったんだろうね。

(小池)両津劇場は覚えているなあ。小学校の頃、蓬莱に行ってケイ子さんって言う一流の芸者さんと話したもんだ。(山田)私は両津劇場は全然覚えてないなあ。結局、子供でも行動範囲の違いがあって、そっちゃんなんかは範囲が広かったんじゃないかな。


・「将棋」

※各駒には点数が着いていた。
 王将10点・飛車(ひしゃ)9、角将(かく)8、金将(きん)8、銀将(ぎん)7、桂馬(けいまorうま)5、香車(やり)3、歩兵(ふ)1点。

「将棋倒し・将棋落とし?」
・箱に入った将棋の駒をそのまま塊として将棋盤の真ん中あたりの置く。各駒が他の駒ともたれ合っていない場合は、重ねたり寄りかからせたりする。一個の将棋の駒(歩兵だったり金将だったり、競技者の合意で決める)を一定の高さから落として、塊から外
れたものを自分の持ち分として計算し勝ち負けを競う。

「将棋立て?」
・数個の駒を手にもって転がす。駒が立ったらその数を計算して勝ち負けを決める。
底面で立つ、側面で立つ、最高何度は先端の尖がった部分の左右で立たせること。時々これができた時の喜びは格別だった。勿論、上級生などは上手にインチキをした。将棋の駒は7面あるので、それぞれに点数がついていたはずであるが覚えていない。

「将棋抜き?」
・駒を箱に入った塊のまま盤上に置き、他の駒を動かさない等にして一つ一つ抜き出していく。他の駒が崩れるまで一人の人が何回も続けられた。最後に各駒についた点数で競った。

「回り将棋」
・王将だったかその他の駒だったか、又は複数の駒だったか判然としないが、駒を転がして出た点数で自分の駒で将棋盤の外周を回る。どう言う風にして勝敗を競ったか覚えていない。
 
「将棋倒し」
・いわゆるドミノのことで、将棋の駒をいろんな形式で並べてドミノ倒しで遊んだ。

「はさみ将棋」
・相手の駒を挟むと、そのコマが取れる。

・「ようのみ鉄砲」

「ようのみ」とは「榎の実」であろうか。榎を「よう」との呼ぶ例がかなりある。榎の枝を切り、中を空洞にして「榎の実」を詰めて、別の細い棒で突き出すものだ。独特の音がしてかなり遠くまで飛んだ。これも遠く飛ばせる「鉄砲」を製造するにはかなり技術と経験を要したものだ。各地に名人が居たものだ。
榎雅晴さん(昭和21年生、加茂地区出身)情報↓
file:///C:/Users/渡辺和弘/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/Content.Outlook/YTYFXXE6/よのみでっぽう.pdf

・縄跳び

主に女の子の遊びで全国共通の形だったと思う。ただ、こんなことを思いだす。跳ぶ時にスカートがめくれるので、彼女たちはパンツのゴムの所にスカートの端を入れて飛んでいた。男の子を意識していたのだろう。

・まりつき

全国的に行われた女の子の遊びだったと思うが、今思うとこんなことも懐かしい。両足を開いて、その間にボールを通して尻の所で捕まえる。その時、スカートの中でキャッチしていた。

・紙飛行機

・大別して二種類あったと思う。一つはスリムなジェット機型で先の方は尖ったままにした。滞空時間は短いが飛行距離が出た。
・もう一つは滞空時間の長いもので、遠くには飛んで行かず、近くを旋回したものでかなりの滞空時間があった。飛行機の先は折り曲げて居た。
・後者の中で左右の翼の下に車輪(車はない)がついたものも作った。これは空中に跳ばせると言うより単なる折り紙細工だったと思う。

・プロペラ飛行機

・ツルヤ等の玩具店に飛行機キットとして売られていた。竹を細く裂いたもの(竹ひご)、翼用の紙、プロペラ、プロペラを回すゴムその他である。翼用の紙は普通の書道用もあれば、当時ブーブー紙などと言った透明や半透明に丈夫な紙も使われた。
・製作作業は特に難しくはなかったが、長く飛ぶようにするにはそれなりに技術を要した。特に翼用の紙の貼り方に注意を払った。霧吹きで水をまき、紙の表面をピーンと張るのも大切な作業だった。
・両津小学校の体育館で滞空時間を競う大会があった。何度もあったのか記憶して居ないが、一回は経験がある。天井の高い体育館のかなり上方でぐるぐる回りなかなか下に下りてこない飛行機を見て感動したのを覚えて居る。

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Author:渡辺和弘
・佐渡市両津夷在住
・両津高校-同志社大
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