2021-01-10
★高津勘四郎
『小木町史』より
小木称光寺寺域に石仏が多いことも特徴です。地蔵をみても、高津勘四郎家墓前にあるものは、正徳四年(1714)の銘があります。
★高津葆(しげる)
小木出身の挿絵画家

★高津柿風(嘉吉)
村川柿風(嘉吉)の間違いと思われる。家を継いだ村川健吉氏から指摘あり。
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
★高津終平(号は郿山 びざん)
※郿は篇と旁が反対のもの
『田中圭一講演集(第三集)「蘭学者 柴田収蔵」』より
柴田収蔵は少年時代、同じ村の回船業者、高津終平(号は郿山)から読み書きの手はどきを受けております。高津は若い頃は「権現丸」の船頭として働き、船を下りてからは子供たちの教育に情熱を注いだ人でした。高津の家には回船持ちや小木の問屋、商人などが出入りしておりまして、それぞれ自分の眼で他国を見た視野の広い人たちばかりでしたから、話題も豊音でさまざまなことが尽きることなく話されたのだろうと思います。そのような環境の中で学んだ収蔵が、オランダの医学や世界地理学に関心を持つようになってゆくのはごく自然のことで、その素地を作ったのが高津終平です。
「地理学者の百年祭」(「佐渡の百年」)
★高津正一
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高津昇之助
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治十七年生 小木町宿根木、農業、小木自動車合資会社代表社員 ・大2、第八回郡会議員選挙[八年九月三十日]・大2、佐渡郡会[九年十二月二十三日]・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日]・昭1、第二十回縣会議員選挙[二年九月二十五日]・昭3、第十八回総選挙[七年二月二十日]・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

「人力車から自動車へ」(「佐渡の百年」)
★高津庄兵衛(宿根木)
『小木町史』より
村の草分けといわれる旧家の人たちは、江戸時代に入っても名主をどの村役人を勤めた者が多くいました。こうした人びとは、戦国時代にはその地を支配した殿さまに仕えた地侍でした。これらの人たちの中には、江戸時代にも姓を名乗ったり、その名残を留めている者がいます。戦国時代末、天正年間に宿根木の彦兵衛が羽茂の殿さまの港代官をいいつけられている記録があります。慶長のころの中使与四郎も石塚氏と思われますし、寛永のころの中使は彦兵衛です。高津氏は、頚城の高津から釆てそれを姓としたのでしょう。
★高津次郎左衛門
『小木町史』より
小木称光寺にある近世の石塔の中で一番古いのは、高津次郎左衛門家の元和三年(一六一七)銘の五輪塔です。高津家は、宿根木廻船持のはじめといわれ、いまの称光寺屋敷をもっていた家です。かって称光寺は、民俗資料館のあたりにありました。
★高津信一
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高津征子(せいこ)

1939年新潟県佐和田町生まれ。1968年自然食品店開業、自然農法産物・天然海産物などの普及に携わる。1977年健康コンサルタント認定(日本綜合医学会)。1979年「ニルヴァーナスクール」(医療・美術・食農の合同講座)を医師らと開設。1980年調理師免許取得、高津料理教室開講。1997年中国衛生省主催国際薬膳交流大会広州大会薬膳料理コンクール出場国際賞受賞。1998年中国衛生省主催国際薬膳交流大会海南省大会薬膳料理コンクール出場国際賞受賞。1998年中国衛生省主催国際薬膳交流大会雲南省大会薬膳料理コンクール出場。1999年中国衛生省主催国際薬膳交流大会上海大会薬膳料理コンクール出場国際賞受賞。2000年中国衛生省主催国際薬膳交流大会重慶大会薬膳料理コンクール出場国際賞受賞。国際薬膳指導師(中華中医薬学会・国際薬膳協議会認定)、国際薬膳協議会会員、日本綜合医学会会員、薬膳食文化研究会会員、新潟国際薬膳研究会代表。海藻・自然食・薬膳料理教室主宰。『五季の薬膳 旬を生かして体をいたわる』、『海草の本』共著、薬膳惣菜・菓子の開発、新潟国際薬膳交流大会の開催など、薬膳の普及に努める。娘に国際薬膳食育士の高津もろみがいる。
★高津惣兵衛
『小木町史』より
越後府中にとって宿根木はどんを役割を果していたのでしょうか。そこですぐ気がつくことは、宿根木には石塚、高津という越後頚城地方の名族が居住している事実です。天明三年(一七八三)の年号の入る『古事伝聞記』には、称光寺の往古の寺地は、「惣兵衛諏訪の前の畑通りに七堂伽藍」があって、そこに諏訪の明神さまがあったとしています。この惣兵衛は、宿根木称光寺の過去帳に高津惣兵衛と載っていて、高津氏であることがわかります。寺の土地を管理する老が高津氏であるということは、高津氏が昔から称光寺と浅からぬ関係にあったことを物語るものでしょう。次に、宿根木の大家は石塚彦兵衛であるといわれています。村の大家がわかる場所というのは、中世のころに村が一つの族(名)によって形づくられていたことを物語るものです。国仲の村むらのように、いくつかの名によって村ができる場合には、村の大家というものがありません。石塚彦兵衛やその一族の持っている地所を調べてみますと、宿根木村の海岸に多いことがわかります。いまの宿根木の入江のところには石塚一族が住んでいて、優勢を誇っていたのでしょう。そう考えてくると、この宿根木という場所は、越後からの渡船場ではなかったかと考えられるのです。
★高津長太郎
「手わざ図鑑」

★高津俊和(としかず)

「エスライフ」2015年10・11月号


(高津俊和)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「62号」(令和2年7月)・竹刀作り一筋56年 高津俊和さん(藍原七穂)
★高津郿山(びざん)➡高津終平
★高津正明
「手わざ図鑑」

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
小木町長。大正元年十月二十二日、佐渡郡小木町宿根木で生まれた。相川中学校卒業、町議会議員二期、公民館長、第四銀行小木支店長代理を経て町長二期、佐渡観光協会副会長、全国離島振興協議会理事の職にあった。
昭和四十四年三月二日、町長在任中に五十六才でなくなった。(新潟県年鑑、昭和四四・三・四・新潟日報・朝日新聞)
★高津真樹
平成29年2月7日


★髙津もろみ

新潟市在住の. 国際薬膳食育師。「髙津薬膳料理教室」主宰 「食守の店 髙津」代表。新潟日報カルチャースクール講師。「にいがた薬膳」を提唱し,自然栽培農産物,天然醸造調味料などの良質な食材と身体に合わせた食べ方の普及に努める。健康維持に貢献できる新潟ならではの薬膳,亀田の梅実薬膳をはじめとする新潟市内8区それぞれの「新潟薬膳」の創造にも取り組んでいる。両親は佐渡出身。同志社女子大卒。小木の高津昇之助は曾祖父。
★高野明子
佐渡高校時代の昭和40、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会奨励賞
昭和40,全国学生選書会展推薦
★高野明彦
父は新穂長畝出身の高野喜久雄。神奈川県出身、東京大学数学科を卒業後、日立製作所に20年勤務。その後、国立情報学研究所のセンター長を務め、現在、「WebcatPlus」「新書マップ」「想?IMAGINE」「BOOK TOWN じんぼう」「文化遺産オンライン」「闘病記ライブラリ」などの公開サービスを展開している。2002年から東京大学大学院コンピュータ科学専攻教授も務めている。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高野明彦 115 詩人 高野喜久雄(旧新穂村出身)死去に際して
「想?IMAGINE」http://imagine.bookmap.info/ 「新書マップ」http://shinshomap.info/
★高野あさぎ
佐渡高校時代の平成元.6.2-4、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)110mH3位
平成元.6.23-25、陸上競技北信越大会(長岡市)110mH出場
★高野一以
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高野運平
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治七年 二宮村山田、農業 ・明4、第六回佐渡郡会議員選挙[四十四年九月三十日]
・大1、第十二回衆議院議員選挙[四年三月二十五日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高野英一
首都圏佐渡金井会3代会長
★高野栄蔵
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
越佐汽船社長、県内航海運組合副理事長。佐渡小木町の人で機帆船業の経営と業界の発展に尽力した。
昭和四十二年四月二十九日、七十七才の時、生存叙勲者として勲五等双光旭日章を受けた。(昭和四二・四・ニ九・新潟日報)
★高野かおり
両津高校時代の1982年度(S57)10月、第16回新潟県高等学校美術展絵画部門 奨励賞
★高野間蔵(真野湾太郎)
「洋学校と英字鋳造」(「佐渡の百年」)
★高野勧太郎→高野柳翠
★高野規一
『新穂村史』(昭和51年刊)より
自転車は明治三十四年(1901)両津町の佐野呉服店主が佐渡で始めて自転車をのり廻した。新穂では明治三十五年本間芳太郎や、その後高野規一(まちの喜八)らがのり廻した。
★高野儀市
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高野喜久雄
新穂長畝の島地区出身の世界的詩人で、佐渡総合高校の校歌を作詞する。
高野の新穂小同級生には高名なシナリオライター兼作家の松田昭三(潟上)、英文学の泰斗藍原乾一(瓜生屋)、日野自動車重役池田洋一(馬場)がおり、佐渡農学校同級生には社会党副代表志苫裕が居る。
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「ウィキペディア」より
1927年(昭和2年)11月20日 - 2006年(平成18年)5月1日)。
日本の詩人、数学者。新潟県佐渡出身。宇都宮農専卒。神奈川県立高等学校教諭(数学)を勤めていた。2006年5月1日、神奈川県鎌倉市の自宅にて死去。長男高野明彦は国立情報学研究所教授。
荒地同人に参加。詩集はイタリア語にも訳され、高い評価を得ている。現代日本の代表的な合唱曲の一つ「水のいのち」(高田三郎作曲)などの作詞でも知られる。
数学関連では「πのarctangent relationsを求めて」(bit、1983年4月号、83-91ページ)を著している。高野喜久雄の公式と言い、2002年金田康正が日立のスーパーコンピュータを用いてπを1兆2411億桁まで計算した時に用いた。
・著書
独楽(中村書店、1957年) 存在(思潮社、1961年)
闇を闇として(思潮社、1964年) 高野喜久雄詩集(思潮社、1966年)
高野喜久雄詩集〈現代詩文庫〉(思潮社、1971年) 出会うため(思潮社、1995年)
鮎川信夫と知り合い詩・評論誌「荒地」に参加。詩集「独楽」「闇を闇として」などを発表、晩年はイタリア語訳された詩集が現地で高く評価された。新潟県と神奈川県で高校教師をしながら詩人として活動。合唱曲「水のいのち」や賛美歌などの作詞でも知られる。
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第二次大戦の敗戦翌日から作詩を始める。
詩集「存在」
その中に『水たまり』という詩がある。
人の、いや、全てのものの「存在」そのものを問う。
そして
その問いは私に向かってくる。
もしかして わたしたち
くぼみにたまる 水たまり
という言葉で始まるその詩は、下記のところで見ることができる。
http://www.asahi-net.or.jp/~yp5k-tkn/jpoemidx.html
けれども、この『水たまり』という詩、高田三郎作曲の「水のいのち」の中の1曲と、同じ題名、内容もそっくりなのに歌の歌詞とは違っている。
わだちの くぼみ
そこの ここの
くぼみにたまる
水たまり
それは下記の高田三郎氏のコメントのページで見られるように
「読む詩」を「聞いてわかる詩」に直してもらうように
高野氏にお願いをしたからなのだ。
高野氏と高田氏とのつながりは深く、
他にも合唱曲、賛美歌、典礼聖歌などの作詩を手がけている。
http://www.corosono.jp/sono/obog/50thrc/takata.html
また、佐渡生まれの高野氏は「朱鷺」(学名ニッポニア・ニッポン)を子供のころにたった一度だけ空を飛んでいく朱鷺を見たことがある。それが絶滅に近いたった6羽になった、と知った時、居たたまれなくなって書いたのが詩劇「朱鷺」である。
その後たった1羽だけになったとき、組詩「朱鷺」を書き、作曲家鈴木輝昭によって曲がつけられた。
もしかして
もしかして
・・・・・・・
もしかして
出会えるか
出会うため
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滅びてならぬものは滅びない
と、締めくくっている。
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高野喜久雄
・1927年(昭和2年)11月20日 - 2006年(平成18年)
・日本の詩人、数学者。
・新潟県佐渡新穂長畝(島)出身、佐渡農学校、宇都宮農専卒?(盛岡農専?)。
・新潟(高田農で14年間教鞭)、その後神奈川県立高等学校教諭(数学)勤務。
・作詞活動を第二次大戦の敗戦翌日からスタート。
・昭和24年(22歳)処女詩集「乖離」を3000円かけて自費出版。
・鮎川信夫と知り合い詩・評論誌「荒地」に参加、荒地派の詩人として活躍。
詩集「独楽」「存在」「闇を闇として」などを発表5冊の詩集上梓後30年間沈黙。
・この間、「水のいのち」「わたしの願い」「ひたすらな道」等合唱曲に詩を提供。これらの合唱曲が芸術祭賞などを受賞。
特に「水のいのち」は日本語の合唱曲中の最もポピュラーなスタンダード曲となり、楽譜は通算200刷りを越える。
・1995年イタリア語訳された詩集が現地で高く評価され、イタリア各地の芸術祭から招聘を受け、5冊がイタリア語訳で刊行される。
・イタリアの大出版社モンダドーリの世界詩人叢書の60巻目としてアジア人初の出版。
・イタリア文学界で評価され、2005年、ラクイラ国際文学賞特別賞とベルトルッチ国際詩人賞を受賞。そして、イタリア訪問のきっかけを作ったペスココスタンツォ市から名誉市民の称号を受け、日伊文化交流に貢献。
・2005年、ヨーロッパを代表する詩の雑誌「POESLA」が「20世紀の世界の詩人400人」を特集。
日本人9人の内に選出、他は島崎藤村、高村光太郎、萩原朔太郎、八木重吉、宮沢賢治、黒田三郎、鮎川信夫、谷川俊太郎。
・30年ぶりに試作への情熱、新詩集「出会うため」と英訳の選集を刊行。
□数学関連では
円周率の公式探しにも没頭、1982年新しい公式発見、「πのarctangent relationsを求めて」を著している。
それは高野喜久雄の公式と言い、2002年東大金田康正教授グループの円周率最長桁計算世界記録更新(1兆2411億桁)に採用され、本人は大変誇りに思っていたそうだ。
□・高野は「朱鷺」を子供のころにたった一度だけ空を飛んでいく朱鷺を見、それが絶滅に近いたった6羽になった、と知った時、居たたまれなくなって書いたのが組詩「朱鷺」である。その後たった1羽だけになったとき、「朱鷺連祷」、組詩「朱鷺」を書き、作曲家鈴木輝昭によって曲がつけられた。
・この高野、鈴木のコンビで佐渡総合高校校歌を作る。
□著書
『乖離』(1949年)『独楽』(中村書店、1957年)』 『存在』(思潮社、1961年)
『闇を闇として』 (思潮社、1964年)『高野喜久雄詩集』(思潮社、1966年)
『高野喜久雄詩集』〈現代詩文庫〉(思潮社、1971年)
『出会うため』(思潮社、1995年)他
□高野家
・島地区は下郷(しもごう)、胴丸、硲(はざま)、北に分かれ、高野家は下郷の名士。
昭和初期発行『島郷土史』に公職者で人格優れた高野市太郎の名前。
・高野家の二男達が江戸初期に生椿を開拓(高治・毅氏の先祖)
・現在は猪股直次郎が7,8年前に依田(よだ)氏より購入、(猪股氏は東京人、奥様が島の高野家隣の野崎与三左衛門)
・その前は「島窯」の依田(よだ)氏所有、依田氏は長浜和右衛門娘の夫。
□佐渡総合高校校歌
高野喜久雄作詞・鈴木輝昭作曲
1
金北の峰遥かに聳え舞う朱鷺をなおも待つ空
国仲にあふれる恵みしなやかな心と身体
ひたむきに真理を求め響きあい共に歌えば
いのち燃え立つああここにわれらの佐渡総合高等学校
2
こころざしの灯高くかざして行く道はあくまで遠い
夢と夢つなぎ合わせて問い糺す共存の意味
くり返し応える窓に思いやり日々に目覚める
深めあう愛ああここにわれらの佐渡総合高等学校
3
よき師よき友出会いきらめき誇らかにこの丘に立ち
共に見る世界の明日ちちははの願いを超えて
深いものわれら引き継ぐなお高く打ち鳴らす鐘
羽ばたく英知ああここにわれらの佐渡総合高等学校
『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高野喜久雄
9 佐渡のむじな 高野喜久雄
11 鑑賞 佐渡のうた (11) 本間五丈原・高野喜久雄・安水稔和 山本修巳
18 <詩> 海 高野喜久雄
26 特集 句集「海見ゆる坂」 詩魂四十年 高野喜久雄
38 詩劇 朱鷺(とき) 高野喜久雄
54 特集 詩華集「佐渡のうた」 凝視し続けたものの重さ「佐渡のうた」を読んで
66 崖くずれ 高野喜久雄
74 先生と私 高野喜久雄
77 イタリアの「現代詩の集い」と合唱曲「朱鷺」 高野喜久雄
78 朱鷺連祷 高野喜久雄
79 望郷詩篇 高野喜久雄
79 高野喜久雄『出会うため』寸感 本間眞珠
79 楽譜「佐渡のむじな」 高野喜久雄・詩/水沢ひさし・曲
82 『青柿』管見 高野喜久雄
83 寒蝉庵雑記 高野喜久雄
88 詩人の書簡 高野喜久雄
90 春 高野喜久雄
93 質場川 高野喜久雄
95 なお待っている一羽 -キンを思う日- 高野喜久雄
97 新潟県立佐渡総合高校校歌 高野喜久雄 作詞/鈴木輝昭 作曲
108 詩人・高野喜久雄 本間眞珠
111 朱鷺の詩人高野喜久雄氏逝く 山本修巳
113 追悼 高野喜久雄 松田 昭三
115 詩人 高野喜久雄(旧新穂村出身)死去に際して 高野 明彦
118 朱鷺の詩人 高野喜久雄 「蓮の花コンサート」 -上越文化会館大ホール- 山本修巳
139 「高野喜久雄 故郷への思い」展のこと 若杉宗男
145 高野喜久雄と山本修之助 山本修已
145 佐渡紀行 高野喜久雄の足跡を訪ねて 新保啓
145 高野喜久雄詩碑 佐渡市新穂長畝 山田邸の庭
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「43号」(平成27年10月)・高野喜久雄展(新穂歴史民俗資料館)
「佐渡ジャーナル」関係記事:「6号」(平成18年7月)高野喜久雄さんのこと(土屋寛治 新穂)「6号」(平成18年7月)佐渡総合高校の校歌作詞者(羽二生良夫 前三条商工会議所会頭)「15号」(平成20年10月)朱鷺の詩人 高野喜久雄-「蓮の花コンサート」上越文化会館-(山本修巳)

「島の新聞」(51号)

高ん喜久雄展(平成27年7月~8月)「新穂歴史民俗資料館」
「島の新聞」索引(人名別)
★高野喜八郎
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
明治三十年、東京で一台一千円で輸入された自動車が、佐渡では大正二年両津相川間を運行し、新穂町では高野喜八郎、石井喜三治氏等が中心になって新穂自動車会社を設立し、事務所を高茂旅館の一室においてハイヤー新六〇号を運行したのが大正七年で、初めは相川出身の加藤運転手のちに光谷運転手に代ったのであるが、大正十年頃から個人ハイヤー業者も出来て、青年達が両津方面の花街へ並びに行くのが増加したという。
★高野金七
「小菅徹也先生facebook記事」(平成27年2月20日)
最近鬼籍に入った高野金七老人(86歳)に対する献杯から新年会に入らなければならないとは切ない話だ。
佐渡の銘石に関しては、生き字引のような人であった。それのみならず、彼の人生そのものが波乱万丈で、物語性が豊富で聞きて居ても面白かった。 池田勇人の箱根の別荘へ単身赤玉石を売り込んだり、山口組の大親分に頼まれて赤玉石を遠距離トラック輸送したり、銘石をやる前は3年間築地から新橋まで毎晩 石焼きいもを売って借金(畜産をやれやれと農協に勧められて騙された巨額な借金)を返した話など、愉快痛快の連続人生であったようだ。 高野金七さんと同じ年の銘石老人の大森景山さんは、すでに記憶力も衰え外出も出来ない状態であるから、高野金七さんの逝去で初期の佐渡銘石協会の昔を語れる者は1人も居ないことになってしまった。 足かけ3年前の4月、「過去に利益第一主義であったことを心から反省して、地質学の基礎を習いながら佐渡の銘石の素晴らしさを次世代にきちんと伝えたい。是非共佐渡銘石協会再発足に助力下さい」との懇請を受けた。 この年4回に分けて、①猿ハ・小倉地区、②野浦、赤玉、大杉、小木半島、③岩谷口、真更川、北鵜島、願、鷲崎、④真更川で、それぞれの銘石出土地点を高野さんと大森さんの2人が、当日参加した佐渡銘石協会の次世代に現地でしっかり教えて下さった。 さて、これらの成果と佐渡に現存して居る代表的な銘石の数々を本にして出版しようと言っている最中、最長老が逝ってしまった。
★高野宏一
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
新町でタカミ獅子を舞わせたのが、近世のいつ頃からだったのかほ不明である。古い獅子頭のほかに長さ五間余りのほろが残っていた。古老のいい伝えでは明治の半ば頃までは使われたというが、それを実際に見た者はいない。残っているのは一頭だった。復活したのは昭和五二年一〇月一六日の祭りからであった。佐々木芳博・中川敏彦・本間安子等一二、三人の人たちがけいこを始めた。古い頭は幅六五センチメートルほどの大きさ、ホロは何十人も入るもので、町を練り歩くだけだりたと見当がつく。しかし新しい獅子には多少の芸をさせたいというので、三〇センチメートル程の小型な頭を二つ作り、ホロは商工会にあった小さい物を借り、適当な太鼓のリズムにあわせて門ごとに舞わせて歩いた。新町相撲がなくなって、それにかわる程の人気のある余
興をもとめることのできなかった新町ではかなり好評だった。しかし一〇人余りの小人数で五〇〇戸を廻るのは重労働だった。二年続いて来年はあぶないといわれたころ、芸はできなくても旧に復して大獅子にしたらどうかということになった。金子克巳や高野宏一等数名が呼びかけて始まりたのである。フジミは渡部裕次郎が作り、赤・黒二頭の色は島倉伊三武が塗り、島倉勘十郎や島倉七兵衛が組み立てた。昭和五四年、氏子の家から古蚊張を寄附してもらい、男女数一〇人の青年がいく晩もお宮へ集まって獅子のホロに仕立てた。寄附金で揃いのハッピを作った。
★高野宏一郎

真野生れ、佐渡高校、慶応大卒後、9年間サラリーマン生活。佐渡に帰って家業であるマルゴ酒販等を経営し、真野町長、初代佐渡市長となる。市長当時は全国離島協議会会長を務める。環境の島佐渡を標榜して数々の事業を実践する。趣味は飛行機操縦。2013年11月、「離島振興60周年記念功労者表彰」を受賞。
諸情報
★高野庚次
「手わざ図鑑」

★高野幸吉
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

『新穂村史』(昭和51年刊)より
潟上(吾潟)の本間梅ヶ沢家は代々能太夫の家で十二代左京由春、十四代令桑は殊に堪能で、村内外に弟子が多かった。かつて長畝の山田仁平、つづみ打の太田貞之亟、瓜生屋石井喜平治、田野沢の岩田浅治、下新穂の影山新右エ門、長畝の羽田清治、北方の菊池栄太郎、武井の高野幸吉、青木の斎藤儀太郎、川上福松等これをよくし現在は北方の菊池汎、青木の如月会の川上三吉、井内の昭諷会の後藤政治等が活躍している。
★高野宏策
佐渡名勝史(昭和11年 山本幸作 山本商会出版部)

『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)


(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)より
吉岡の人、マルゴ味噌として、味噌製造業をはじめたのは、明治三二一八九九)年二月からのことである。当時、年額三〇万貫を移出したという。北海道への移民が増加するにつれ、郷里の味噌を噂好するところから北海道方面への積出しが多くなり、船に積みこみの便利な新町海岸のマルゴ味噌や、羽茂大石海岸のヤマカ味噌マルダイ(明治七年)などの工場ができてきたのである。
マルゴが豊田に2000坪の工場を新築し、大規模に経営をはじめたのほ大正一五(一九二六)年で、年産一〇〇万貫を数えた。また、明治四二(一九〇九)年三月には「佐渡味噌同業組合」が設立され、組合長には吉岡高野宏策がなり、事務所が新町に置かれた。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
(明治)明治七年生 真野村吉岡、味噌醸造業 ・明4、代議士大竹貫一の来郡[四十年七月二十七日]・明4、第六回佐渡郡会議員選挙[四十四年九月三十日]・明4、第十一回衆議院議員選挙[四十五年五月十五日]・明4、第十一回衆議院議員選挙[四十五年五月十五日]
(大正1)・大1、佐渡国民党の臨時大会[二年二月二十五日]・大1、第十二回衆議院議員選挙[四年三月二十五日]・大1、青木永太郎等同志会を脱党す[四年九月]・大1、渡部七十郎縣会議員を争はんとす[四年九月二十五日]・大1、野澤卯市中蒲原郡より選出さる[四年九月二十五日]・大1、第七回佐渡郡会議員選挙[四年九月三十日]・大1、第十三回衆議院議員選挙[六年四月二十日]・大1、相川町立女学校の郡立決議[六年十二月]
(大正2)・大2、政友、公正の聯合懇親会[八年三月八日]・大2、第十八回新潟縣会議員選挙[八年九月二十五日]・大2、第十四回衆議院議員選挙[九年五月十日]・大2、佐渡経営会の速成運動[十年一月十五日]・大2、秦逓信次官来郡[十年七月十八日]・大2、政友派の幹部会[十年十二月二十六日]
(大正3/4)・大3、佐渡政友倶楽部の会合[十一年一月六日]・大3、佐渡政友倶楽部の會合[十一年九月十七日・二十三日・十月二十一日]・大3、高等女学校の移転問題[十一年十二月二日]・大3、佐渡政友倶楽部秋期大会[十二年八月二日]・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日]・大3、政友会新潟縣支部大会[十二年十月十七日]・大3、佐渡政友倶楽部臨時大会[十三年二月八日]・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・大3、佐渡護憲派の會合[十三年七月二日]・大3、政友倶楽部の大会[十三年九月九日]・大4、政友倶楽部秋季総會[十四年十一月二十一日]・大4、政友倶楽部秋季総會[十四年十一月二十一日]・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]
(昭和)・昭1、立憲政友会新潟支部の総会[二年五月二十二日]・昭1、佐渡政友倶楽部の秋期大会[二年八月十八日]・昭1、第二十回縣会議員選挙[二年九月二十五日]・昭1、佐渡政友倶楽部の秋期総会[三年八月十八日]・昭2、縣会議員の補欠選挙[五年七月五日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋期大会[五年十月二十三日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]・昭3、政友会新潟支部の会議[六年八月二十七日]・昭3、佐渡政友倶楽部秋季大会[七年九月六日]・昭3、本郡政友倶楽部秋季大会[八年十月八日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[九年九月九日]・昭4、政友倶楽部の委員会[十四年五月十四日]
★高野宏二郎
佐渡高校新潟支部長


★高野幸太郎
『新穂村史』(昭和51年刊)より
佐渡に始めて自動車があらわれたのは大正二年(一九一三)で、某家の同年六月二十八日の日記に「本郡最初の自動車快走、先月末頃新穂方面に来り目下北新道運転中」とある。両津の秀明館主が相川・両津間をタクシーとも乗合ともいえぬものを走らせたのだという。大正七年(一九一八)新穂自動車会社がまちの高野幸太郎、大野の石井喜三治の手で作られ、これを大正十一年本間芳太郎が引継いだ。又この新穂の土の上を始めて自家用自動車が走ったのは、大正八年土屋玄蕃のハイヤーである。
※下記高野幸太郎と同一人物かもしれない。
★高野幸太郎
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
土建業、高野幸太郎(喜八)が、長畝字島の裏を流れる洞丸川を水の流れをよくするため、新穂川に平行して、吉井本郷方面から流れ出る地持院川の下を潜って、新穂川へ合流せしめる謂所サイホン(筒)工事を始めたのが、大正四年四月であった。島内で初めての難工事であったが、翌五年八月漸く竣工したが、この工事費は約五万円であった。今は、農業構造改善事業や河川改良工事が進んで、その櫓式工法の跡は残っていない。
※上記高野幸太郎と同一人物かもしれない。
★高野吾三
昭和6年4月1日、東京高等師範学校付属中学校(現在の東京教育大学付属高校)が大佐渡山脈妙見山付近で遭難し、生徒2名案内人1人が死亡した。その案内人で、当時61歳の相川の人。
「妙見山麓の遭難」(「佐渡の百年」)
★高野(旧 神谷)志乃
「島の新聞」索引(人名別)
★高野重幾
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
・二宮の人、佐渡中学生時代、昭和2年の第9回県立学校陸上運動競技大会の投擲の部に出場し、その後明治大学に進学し、昭和11年のベルリンオリンピック大会に役員(会計担当)として参加し重責を果たした。
・佐渡中学時代の大正15年、第8回県下中等学校体育大会に出場し、砲丸投で4位、記録は10m63。
NHK甲府放送局長。
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年)p417
★高野治三郎→余湖治三郎
★高野周治
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
吉岡の鬼太鼓ほ昭和五一年四月一五日の祭りから始まった。鬼太鼓をやってみようといいだしたのもこの年になってからだから、あわただしい準備とけいこで始めたことになる。
鬼太鼓は祭りを賑かにするためのものとだけ考えられがちだが、吉岡の場合はそれだけではなかりた。若林幹夫・川野名庄五・本間浩二・高野周治等の若者たちが集まっての世間話の中で、この頃は同じ村の青年どうしでもお互に知らぬ顔で行き過ぎる者が多くなったと、連帯感の不足を嘆く話が出た。昔のような曖い心のつながりを作る道はあるまいか、といろいろな案が出て、鬼太鼓はどうだろうということになり、多勢の青年に呼びかけてみることになった。そのためには青年層にも壮年層にも信用のある人からまとめ役になってもらう必要があるので、本間作に一切をお願いすることにした。本間からの呼びかけに応じて公民館へ集まった青年は二〇名を超えた。 いよいよ鬼太鼓組を作ることには決まったが、太鼓はお官から借るにしても面も衣裳もない。それで当分はよその村の使っていないものを借りることにした。鬼太鼓を見たことほ度々あっても、いざ始めるとなると見よう見まねだけではできるはずもなく、浜中の鬼太鼓の練習を見に行ったりした。その内に伊藤藤吉家の久が後山から来た者で鬼太鼓に詳しいことが分かり、伊藤を師匠にして、借り面借り着で吉岡の鬼太鼓は始まったのである。やがて面を新町の島倉伊三武にほってもらうことにした。吉岡の小松の親戚でしかも器用で名人肌の人だと聞えていたからである。自・赤・黒・青の四つの鬼面ができ、それから二・三年して豆まき用のヒヨットコ面ができた。白っぽいのと肌色がかったのと二面である。獅子がなくてさびしいから豆まきをつけようということになったのだ。豆まきはたいてい黒面だが、それでは少し怖い感じがするのでこの色にしたのである。豆まきの黒面は三番曳の黒式(こくしき)の面をかたどったものであろうから、ここのは新しい解釈によって作られたことになる。結局、面はすべて島倉の寄贈となった。
借り物の鬼太鼓は二年ほど続いた。今は「書岡鬼太鼓有志会」のもので、練習はだいたい祭り前一か月、総社神社の拝殿がけいこ場になる。
★高野周蔵
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
明治二十二年に町村制が施行された時の畑野村〔畑方〕(畑本郷・寺田・安国寺・河内)の初代村長。(〔 〕は役場所在)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
畑野村畑方 ・明2、第六回選挙[二十一年一月]
★高野庄嗣
新潟日報(h28年4月12日) 市議

平成28年4月10日執行 佐渡市議会議員選挙公報

★ 高野庄次郎
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
新穂潟上で、大正の初期まで高野庄次郎が土人形をつくっていたということも聞いている。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
★高野甚左衛門
「島の新聞」8号(by 松本秀雄)

★高野甚平
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
明治二十七年の北溟雑誌に、三宮村後山の医師高野甚平は痔の治療が巧みだから勧めると云う広告がある。
★高野翠斎
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の俳諧。本間斧刪(明治二九没)、中川収之(明治三二役)の流れがつゞき、明治十二年(一八七九)にほ東京教材監社の新穂分会というものがあり、その奉献額が大日堂の拝殿内に
掲げられている。正岡子規等の改革により俳句といわれるようになり、瑞穂会(旧派)、沙鳥会(旧派)、みどり会(新派)等の団体が、大正頃まであった。瑞穂会に渡辺巴郷、高野翠斎、沙鳥会に中川月桂、河原春木、本間最古等の名が「新穂村案内」に見える。
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★高野素十(すじゅう)
昭和二七年、高浜虚子、星野立子、中田瑞穂等と来島する。
佐渡を詠ったものに下記があり、特に「旅人に・・」は、野菊と佐渡の人情を詠んだ歌としてよく知られている。
・旅人に 佐渡は野菊の濃きところ
・金風華御陵の前すぐ田なり
・女手のこの苗代に幸(さち)あれと
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高野素十
88 高野素十先生靴を盗まれしこと 蒲原ひろし 109 高野素十先生の思い出 山本修巳
「虚子ときんぽうげ」(「佐渡の百年」)
「佐渡座談会」(「白樺」7号 昭和13年)
「ウィキペディア」より
★髙野進
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)髙野進
110 <紀行>多田の村祭りと諧謔の妙 113 佐渡のたたずまい -泉、中興、本屋敷そして相川- 116 盆の提灯が語る風土 -水津- 128 〈紀行〉お盆に羽茂と真野の茅葺き能舞台を訪れて 137 〈紀行〉中山旧道のキリシタン塚を目ざして 143 [紀行]千種の「ロシア水兵の墓」と『北溟雑誌』―得勝寺・本荘了寛が遺したものー 144 私考 「北一輝」の見方に諸説あり 146 [紀行]トキだけではない佐渡の旅 148 [紀行] 佐渡の内海府、外海府を巡る旅―民俗学、歴史学の泰斗に誘われてー 151 書簡
151 〈紀行〉佐渡風土記もどき-佐渡讃歌 153 [紀行] 順徳上皇を追った若宮の生涯と歌人としての上皇ー佐渡と新潟・小口を結ぶ糸ー 155 佐渡を襲った天保の飢饉のことー金井町の岩木文庫の資料からー高野進
★高野清治
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭1、佐渡農事協会の創立[三年八月二十五日]
★高野清八郎
前段右より・高野清八郎・瀬下清通・塩嶋仁吉 後段右より・柄沢四郎左衛門・柄沢寛・舟崎仁一

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡真野町の出身で明治十九年九月十五日に生まれた。早稲田大学卒業、香川新報主筆兼編集長、憲政会報編集長、新使命社々長、財政研究所理事長、東京政治大学々長となった。昭和三十九年六月十三日に七十七才でなくなった。(新潟県年鑑)
★高野清八郎

「風間進君の佐渡」より
高野清八郎は、佐渡椿尾に生まれたが、政治をこころざし、明治45年に早稲田大学を出ると、尾崎行雄の門下となり、中国青島に渡り、大正8年に帰国すると香川新報の主筆となっている。以後、東京で雑誌「新使命」を発行している。新使命は、尾崎行雄の論説を中心とした政治雑誌である。高野清八郎は尾崎行雄や永井柳太郎などを背景に,軍備縮小・普通選挙・社会政策の実現などを旗印に全国の青年党といった政治グループを結集し,既成政党に対抗する政治勢力を作ろうと試みたが、後には陸軍統制派の理論家となっていく。
彼の著作には
産業立国の根本策/新使命社
財政改革論 虐殺と破滅を救う根本策/ 新使命社
軍費大整理論/春秋社刊
財政半減論 官僚亡国の実状 などがある。
東京にあっても、佐渡の民政党系の政治家達との交流を持ち続け、佐渡日報にも寄稿している。
「風間進君の佐渡」より
高野清八郎と「新使命」 -1
高野清八郎と「新使命」 -2 "
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大3、塚本派の演説会[十三年四月三十日]
★高野莊太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明4、新潟に於ける鵜飼の仮葬[三十四年九月二十八日]
★高野高治
平成30年10月 TV「新潟県のぽつんと一軒家」


大正2年、新穂生椿で生まれ、1997年没、84歳。生涯を朱鷺保護活動にささげる。長男の高野毅も父の後を継いで朱鷺保護活動の中心人物となり、朱鷺連絡協議会の会長を務める。「佐渡人間巡礼」(工藤宜)に高野の活動が詳しく描かれている。高野毅は長男である。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高野高治 102 高野高治さんを憶う-朱鷺とともに 松田實
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「63号」(令和2年10月)・高野高治・毅 二代で繋ぎ守った棚田とビオトープ
「島の新聞」索引(人名別)
・「生椿の歴史」「生椿の上人」(高野高治・高野毅)
★高野毅(たけし)

平成30年10月 TV「新潟県のぽつんと一軒家」


昭和18年、新穂生椿生まれ。現在は瓜生屋に居住し、朱鷺保護活動に長く尽力し、朱鷺連絡協議会の会長を務めた。高野高治は父である。
新潟日報(h28年4月23日)


※「佐渡ジャーナル」関係記事:「1号」(平成17年4月) トキの野生復帰・潤いの島づくりと都市と農村を結ぶ弾みに「63号」(令和2年10月)・高野高治・毅 二代で繋ぎ守った棚田とビオトープ
「島の新聞」索引(人名別)
・「生椿の歴史」「生椿の上人」(高野高治・高野毅)
★高野辰之
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高野辰之 68 「佐渡の民謡」序文執筆の高野辰之博士の生家と墓所を訪ねて-長野県下水内郡豊田村・野沢温泉村-山本修之助
★高野チエ
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「7号」(平成18年10月)首都と佐度を「あまほっこり」と(高野チエ・山貝芳枝)「25号」(平成23年4月)両津の思い出(高野チエ 両津出身)
「28号」(平成24年1月)祝健一郎氏の五言絶句を読んで(高野チエ)
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 6短歌首 7カチューシャのうた 7あとがき 8〈短歌〉クラス会 9カメラマン清水薫様のこと 9朱鷺 9人物点描、画家・山貝芳枝 9機縁の人 10近藤馨『花ありき』を読んで 10十四ちゃんを憶う 10不泣さん
★高野忠左衛門
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★高野長三郎
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡小木町沢崎の人である。安政初年(一八五四年)江戸に出て浅草海苔壊草準菅の製造を習い、茅簀を用いて乾燥する方法を発明し、品質香味ともに佳良となり郡外に移出するよう貰った。村民はその徳をたゝえた。(佐渡人名辞書)
『小木町史』より
沢崎の村に江戸時代の終りのころ高野長三郎という人がいました。沢崎の村は天保のころ(一八三〇年代)に家の数が三十一軒、水田が九畝二十六歩(約一〇アール)、畑が八町四反(八ヘクタール余)の村でした。小木半島でもっとも水田の少ない村でした。村は畑と漁業で食べていたのです。さて、高野長三郎は、この海岸に冬に育つノリを何とかよい商品にすることばできをいかと考えました。江戸時代にももちろんノリは人びとにもてはやされておりました。しかし、ノリといえば人びとは海府と答えるほど海府のノリが有名でした。それは、相川という大都市をもっているために、海府のノリはその相川や河原田でとぶように売れたからでした。そこで高野長三郎は、別の加工法がないかと考えたのです。とうとう彼は、他国へ行ってノリの製法を学んでくることを決意しました。安政のころ(1854-60)のことでした。青年高野長三郎はとうとう江戸で浅草ノリの製法を研究して郷里に帰ってきたのです。佐渡のノリを判ノリにしたら、こうして工夫に工夫を重ね、取れたノリを萱(かや)のすのこで干して沢崎の判ノリが作られていくことにをるのです。その後、新保村の児玉技師がノリの養殖を指導したことば、別のところでも記しました。このように沢崎は、幕末以来、佐渡ノリの生産、加工ではいつも先進的を役割りを果してきたのです。昭和四年度の調査によると、小木町のノリの産額は五、四〇〇円で、その主産地は沢崎、白木、江積の六十五軒によるものです。高野長三郎は、明治八年五月、四十七歳で没しました。村人は高野長三郎を偉大を指導者としてその記念碑をたてることにしました。村人がお金を出しあって建てた碑が、いまも沢崎の薬師寺の境内に残っています。それは円山瞑北の撰文でおおよそ次のように書かれています。
「高野長三郎記功碑」
長三郎は、わが羽茂郡沢崎村の人で、姓は高野氏、代々農家なり。明治八年五月八日病をもって没す。享年四十七歳。高津氏を娶り二男四女を生む。長子久太郎は家を継ぐ。沢崎はわが南辺の一村である。此の間おおむね皆白田、民食にくるしむ。さいわい海産の利あり、以って之を補う。海産一ならず、紫菜(のり)を最とをす。但だ紫菜の産人皆海府を推して、三崎は之に次ぐ。故を以て声価甚だ微なり。然れどもその製方を解せざるは一なり、長三郎深く之をなげく、安政中独り江戸に適(ゆ)く。いわゆる浅草製方、帰りて村人と之を共にす。ここに於て三崎の紫莱の声価とみに長じ、広く近隣の諸州に及ぶ。三崎の人その沢にあずかりこうむらぎる者なし。長三郎の功ここに於てか大なり。村人口石を建てて以てその墓を表さんと欲し、来りて予に言を請う。予、長三郎のその利を利とせず、而して村人のその徳を遣(わす)れざるを嘉(よみ)す。是に於てか書す。明治十四年九月 溟北 円山 葆
★高野鶴蔵
『続佐渡酒誌』(平成14年)

★高野貞治郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高野貞二郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]
★高野諦本
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★高野藤右衛門(不二)

平成30年2月没、87歳。亡くなる直前まで新潟日報「島の文芸」選者として活躍され、「今回をもって選者を・・」と書かれた直後の死であった。私的な思い出としては、私の両津高校時代は同校事務室職員であった。その後も何度もお会いした。大柄な方であったが物静かな知識人と言う感じだった。
「島の新聞」索引(人名別)
★高野敏雄
「佐渡の文弥節」(『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊))
★高野敏夫
「島の新聞」索引(人名別)
★高野智哉

★高野延清(のぶきよ)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
位渡の入で士道といった。文学に通じ、田中美清、渡靖ととも三清といわれた。
文化元年(一八〇四年)に、孝子与三兵衛伝一巻を著した。(佐渡人名辞書)
★高野昇
(ラ・ラ・ネット指導者名簿より)
生涯学習指導、シルバー人材センター指導。 公民館生涯学習(昭和57年 佐和田・相川)
★高野番匠
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
村山の高野大工は、春日(大工)と同じ慶長14年蓮華峰寺と木崎神社の工事から見え始める。「小木町史」によれば、蓮華峰寺弘法堂墨書きには「佐州羽茂之郡□野甚六」となっていて、はっきりしないが、同じ年の木崎神社の棟札には高野甚六とあって、同一人物であることがわかる。以後、高野家には「甚」の頭文字が付くようになる。さらに、寛永十一年(一六三四)の弘法堂覆屋には村山村高野源蔵則次とあって、定着を見せ、以後、折々にその名を散見するようになる。なお、高野大工との関係の有無はわからないが、同じ寛永十一年の弘法堂墨書に、「大工西方村河野九右衛門政久、小工西方村河野覚右衛門、河野長松」とあり、「勧進西方村河野三左衛門則長」など、河野一族の名前が見える。ここでは大工であることの確認はできるが、どちらも『コウノ』と発音でき、村山と西方の隣り合った所でもあるので、多分に関連のあることが考えられる。河野大工はその後、棟札等には見えなくなる。高野大工が次に見えるのは明和九年(一七七二)、小木町海潮寺本堂棟札で・・・蓮華嘩寺密厳堂金堂には高野番匠の建てた精緻な彫のある、江戸期の建造物として知られる。高野家の古い墓は、この前にたくさんあったという。
昭和五十八年十一月、明治四十四年生まれの当主、高野太郎さんにお聞きした書き留めがあるので次にあげる。「家は代々甚右衛門で、私の祖父が十五代目だという。祖父は、一人前の大工にならずに止めたらしい。父は入婿で大工ではなかった。墓は蓮華蜂寺の密厳堂の前に古いものが二十五体ほどあり、家にも二十体位古いものがある。菩提寺は蓮華峰寺ではなく宝蔵寺である。屋敷の地名が『高野』で、墓地内に小田原神社があったが今は村山の白山姫神社に合祀されている。例祭は九月十五日で、氏子は私のところと、周円(有田昇一)家、上川内(本間英郎)家、下川内(河内久雄)家、坂(廃家)の五軒だった。俗に、うちの大工が建てたといわれるものは密厳堂、八祖堂、灯籠堂で、蓮華峰寺お抱えの大工だったと一般にいわれる。民家では西方の矢ケ沢(海老名久二)家、源座(藤井シュウ)家、三浦(三浦敏晴)家、与兵衛(本間与平か)家を建てたという。今、家には恵比寿・大黒・布袋の彫刻が残っているが、何代目の作かはわからない」
→index「番匠」
★高野フミエ
「島の新聞」4号


「島の新聞」索引(人名別)
★高野文礼(信吉)
幕末の佐幕派迅雷隊の小隊長、隊長は中山修輔で小隊長は他に松原小藤太、早川源次郎がいた。
「佐幕派・迅雷隊」(「佐渡の百年」)
★高野平作
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
畑野の人、新潟師範時代の大正6年、全国庭球大会で準優勝し名声を挙げる。
★高野平次郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
真野村吉岡 ・明4、第十一回衆議院議員選挙[四十五年五月十五日]
★高野平太郎
旧真野村村長、明治20年代。
★高野正敏
佐渡高校時代の42.10.7-8、陸上競技県高校新人大会(柏崎市)(五種競技)入賞
佐渡高校時代の昭和43.6.8~10、陸上競技県高校総合体育大会(新潟市) 5種競技3位
★高野雅彦
画家、北嶋吾二平に学ぶ。
★高野正也

真野吉岡の人。令和3年1月没、84歳。佐渡高校時代の28.6.27、信越高校陸上選手権大会(松本市)、走高跳3位 28.8.15~16、全国高校陸上競技大会(横浜市)出場 28.10.22、陸上競技国民体育大会(高松市)走高跳出場
★高野待太郎
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
羽茂の大谷人形(大和座)は明治十八年、大谷の中川今吉のはじめたもの。今吉は文弥節を仲平琴清(池阿波ノーの弟子)に習い、琴清の死後は渡辺忠蔵の弟子となった。彼はまた人形のカシラも刻み、傑作は「持統天皇」のカシラだという。一座は今吉が太夫で、役者は弟の高野待太郎、藤井金蔵と息子の鉄五郎という一族で組織していた。時おり隣家の茶園三蔵も加わった。明治三十年大崎座の人形や小道具の一部が洗出した時合併した。(大正五、六年までつづいた)今吉は、昭和五年七十四歳で死んだので、息子の鉄五郎が継いで座元になった。太夫は村山の笠井長吉(今吉と同じく渡辺忠蔵の弟子)であった。役者は、その後昭和二年に待太郎が死に、昭和七年に金蔵が死んだので、新たに北島初太郎、半田幸太郎が加わった。戦後、「新大和座」が生れ、太夫に長尾俊、藤井軾蔵(しょくぞう)、役者に早川治作、関口一郎、中川栄一が加わった。
★高野美穂

★高野最作
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★高野問蔵
真野豊田出身で新潟新聞記者。「北溟雑誌」の論客であった。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
真野村豊田 ・明3、辛卯倶楽部の設立[二十四年八月十二日]
「生きたお経をよんだ了寛」(「佐渡の百年」)
★高野美智子
両津高校時代のs44年、総体ヨット女子A級ディンギー級3位(柴田マスミ、本間ミサ子、高野美智子)
★高野豊
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・15・6・23 第3回近県中等学校水上(新潟市水上競技連盟)
(佐渡中・30点4位)300mメドレー②佐中4・02・9、200リレー③佐中、800リレー④佐中
100自⑤
★高野陽一
佐渡高校(真野分校)時代の昭和48.7.22~23、県高校定時制・通信制結合体育大会(新潟市)男子個人3位
★高野與八
新穂武井 熊野神社

★高野與八郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高野莉香

★高野柳翠(勧太郎)
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
★高野隆蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『小木町史』より
小木称光寺寺域に石仏が多いことも特徴です。地蔵をみても、高津勘四郎家墓前にあるものは、正徳四年(1714)の銘があります。
★高津葆(しげる)
小木出身の挿絵画家

★高津柿風(嘉吉)
村川柿風(嘉吉)の間違いと思われる。家を継いだ村川健吉氏から指摘あり。
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
★高津終平(号は郿山 びざん)
※郿は篇と旁が反対のもの
『田中圭一講演集(第三集)「蘭学者 柴田収蔵」』より
柴田収蔵は少年時代、同じ村の回船業者、高津終平(号は郿山)から読み書きの手はどきを受けております。高津は若い頃は「権現丸」の船頭として働き、船を下りてからは子供たちの教育に情熱を注いだ人でした。高津の家には回船持ちや小木の問屋、商人などが出入りしておりまして、それぞれ自分の眼で他国を見た視野の広い人たちばかりでしたから、話題も豊音でさまざまなことが尽きることなく話されたのだろうと思います。そのような環境の中で学んだ収蔵が、オランダの医学や世界地理学に関心を持つようになってゆくのはごく自然のことで、その素地を作ったのが高津終平です。
「地理学者の百年祭」(「佐渡の百年」)
★高津正一
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高津昇之助
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治十七年生 小木町宿根木、農業、小木自動車合資会社代表社員 ・大2、第八回郡会議員選挙[八年九月三十日]・大2、佐渡郡会[九年十二月二十三日]・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日]・昭1、第二十回縣会議員選挙[二年九月二十五日]・昭3、第十八回総選挙[七年二月二十日]・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

「人力車から自動車へ」(「佐渡の百年」)
★高津庄兵衛(宿根木)
『小木町史』より
村の草分けといわれる旧家の人たちは、江戸時代に入っても名主をどの村役人を勤めた者が多くいました。こうした人びとは、戦国時代にはその地を支配した殿さまに仕えた地侍でした。これらの人たちの中には、江戸時代にも姓を名乗ったり、その名残を留めている者がいます。戦国時代末、天正年間に宿根木の彦兵衛が羽茂の殿さまの港代官をいいつけられている記録があります。慶長のころの中使与四郎も石塚氏と思われますし、寛永のころの中使は彦兵衛です。高津氏は、頚城の高津から釆てそれを姓としたのでしょう。
★高津次郎左衛門
『小木町史』より
小木称光寺にある近世の石塔の中で一番古いのは、高津次郎左衛門家の元和三年(一六一七)銘の五輪塔です。高津家は、宿根木廻船持のはじめといわれ、いまの称光寺屋敷をもっていた家です。かって称光寺は、民俗資料館のあたりにありました。
★高津信一
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高津征子(せいこ)

1939年新潟県佐和田町生まれ。1968年自然食品店開業、自然農法産物・天然海産物などの普及に携わる。1977年健康コンサルタント認定(日本綜合医学会)。1979年「ニルヴァーナスクール」(医療・美術・食農の合同講座)を医師らと開設。1980年調理師免許取得、高津料理教室開講。1997年中国衛生省主催国際薬膳交流大会広州大会薬膳料理コンクール出場国際賞受賞。1998年中国衛生省主催国際薬膳交流大会海南省大会薬膳料理コンクール出場国際賞受賞。1998年中国衛生省主催国際薬膳交流大会雲南省大会薬膳料理コンクール出場。1999年中国衛生省主催国際薬膳交流大会上海大会薬膳料理コンクール出場国際賞受賞。2000年中国衛生省主催国際薬膳交流大会重慶大会薬膳料理コンクール出場国際賞受賞。国際薬膳指導師(中華中医薬学会・国際薬膳協議会認定)、国際薬膳協議会会員、日本綜合医学会会員、薬膳食文化研究会会員、新潟国際薬膳研究会代表。海藻・自然食・薬膳料理教室主宰。『五季の薬膳 旬を生かして体をいたわる』、『海草の本』共著、薬膳惣菜・菓子の開発、新潟国際薬膳交流大会の開催など、薬膳の普及に努める。娘に国際薬膳食育士の高津もろみがいる。
★高津惣兵衛
『小木町史』より
越後府中にとって宿根木はどんを役割を果していたのでしょうか。そこですぐ気がつくことは、宿根木には石塚、高津という越後頚城地方の名族が居住している事実です。天明三年(一七八三)の年号の入る『古事伝聞記』には、称光寺の往古の寺地は、「惣兵衛諏訪の前の畑通りに七堂伽藍」があって、そこに諏訪の明神さまがあったとしています。この惣兵衛は、宿根木称光寺の過去帳に高津惣兵衛と載っていて、高津氏であることがわかります。寺の土地を管理する老が高津氏であるということは、高津氏が昔から称光寺と浅からぬ関係にあったことを物語るものでしょう。次に、宿根木の大家は石塚彦兵衛であるといわれています。村の大家がわかる場所というのは、中世のころに村が一つの族(名)によって形づくられていたことを物語るものです。国仲の村むらのように、いくつかの名によって村ができる場合には、村の大家というものがありません。石塚彦兵衛やその一族の持っている地所を調べてみますと、宿根木村の海岸に多いことがわかります。いまの宿根木の入江のところには石塚一族が住んでいて、優勢を誇っていたのでしょう。そう考えてくると、この宿根木という場所は、越後からの渡船場ではなかったかと考えられるのです。
★高津長太郎
「手わざ図鑑」

★高津俊和(としかず)

「エスライフ」2015年10・11月号



(高津俊和)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「62号」(令和2年7月)・竹刀作り一筋56年 高津俊和さん(藍原七穂)
★高津郿山(びざん)➡高津終平
★高津正明
「手わざ図鑑」

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
小木町長。大正元年十月二十二日、佐渡郡小木町宿根木で生まれた。相川中学校卒業、町議会議員二期、公民館長、第四銀行小木支店長代理を経て町長二期、佐渡観光協会副会長、全国離島振興協議会理事の職にあった。
昭和四十四年三月二日、町長在任中に五十六才でなくなった。(新潟県年鑑、昭和四四・三・四・新潟日報・朝日新聞)
★高津真樹
平成29年2月7日


★髙津もろみ

新潟市在住の. 国際薬膳食育師。「髙津薬膳料理教室」主宰 「食守の店 髙津」代表。新潟日報カルチャースクール講師。「にいがた薬膳」を提唱し,自然栽培農産物,天然醸造調味料などの良質な食材と身体に合わせた食べ方の普及に努める。健康維持に貢献できる新潟ならではの薬膳,亀田の梅実薬膳をはじめとする新潟市内8区それぞれの「新潟薬膳」の創造にも取り組んでいる。両親は佐渡出身。同志社女子大卒。小木の高津昇之助は曾祖父。
★高野明子
佐渡高校時代の昭和40、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会奨励賞
昭和40,全国学生選書会展推薦
★高野明彦
父は新穂長畝出身の高野喜久雄。神奈川県出身、東京大学数学科を卒業後、日立製作所に20年勤務。その後、国立情報学研究所のセンター長を務め、現在、「WebcatPlus」「新書マップ」「想?IMAGINE」「BOOK TOWN じんぼう」「文化遺産オンライン」「闘病記ライブラリ」などの公開サービスを展開している。2002年から東京大学大学院コンピュータ科学専攻教授も務めている。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高野明彦 115 詩人 高野喜久雄(旧新穂村出身)死去に際して
「想?IMAGINE」http://imagine.bookmap.info/ 「新書マップ」http://shinshomap.info/
★高野あさぎ
佐渡高校時代の平成元.6.2-4、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)110mH3位
平成元.6.23-25、陸上競技北信越大会(長岡市)110mH出場
★高野一以
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高野運平
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治七年 二宮村山田、農業 ・明4、第六回佐渡郡会議員選挙[四十四年九月三十日]
・大1、第十二回衆議院議員選挙[四年三月二十五日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高野英一
首都圏佐渡金井会3代会長
★高野栄蔵
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
越佐汽船社長、県内航海運組合副理事長。佐渡小木町の人で機帆船業の経営と業界の発展に尽力した。
昭和四十二年四月二十九日、七十七才の時、生存叙勲者として勲五等双光旭日章を受けた。(昭和四二・四・ニ九・新潟日報)
★高野かおり
両津高校時代の1982年度(S57)10月、第16回新潟県高等学校美術展絵画部門 奨励賞
★高野間蔵(真野湾太郎)
「洋学校と英字鋳造」(「佐渡の百年」)
★高野勧太郎→高野柳翠
★高野規一
『新穂村史』(昭和51年刊)より
自転車は明治三十四年(1901)両津町の佐野呉服店主が佐渡で始めて自転車をのり廻した。新穂では明治三十五年本間芳太郎や、その後高野規一(まちの喜八)らがのり廻した。
★高野儀市
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高野喜久雄
新穂長畝の島地区出身の世界的詩人で、佐渡総合高校の校歌を作詞する。
高野の新穂小同級生には高名なシナリオライター兼作家の松田昭三(潟上)、英文学の泰斗藍原乾一(瓜生屋)、日野自動車重役池田洋一(馬場)がおり、佐渡農学校同級生には社会党副代表志苫裕が居る。
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「ウィキペディア」より
1927年(昭和2年)11月20日 - 2006年(平成18年)5月1日)。
日本の詩人、数学者。新潟県佐渡出身。宇都宮農専卒。神奈川県立高等学校教諭(数学)を勤めていた。2006年5月1日、神奈川県鎌倉市の自宅にて死去。長男高野明彦は国立情報学研究所教授。
荒地同人に参加。詩集はイタリア語にも訳され、高い評価を得ている。現代日本の代表的な合唱曲の一つ「水のいのち」(高田三郎作曲)などの作詞でも知られる。
数学関連では「πのarctangent relationsを求めて」(bit、1983年4月号、83-91ページ)を著している。高野喜久雄の公式と言い、2002年金田康正が日立のスーパーコンピュータを用いてπを1兆2411億桁まで計算した時に用いた。
・著書
独楽(中村書店、1957年) 存在(思潮社、1961年)
闇を闇として(思潮社、1964年) 高野喜久雄詩集(思潮社、1966年)
高野喜久雄詩集〈現代詩文庫〉(思潮社、1971年) 出会うため(思潮社、1995年)
鮎川信夫と知り合い詩・評論誌「荒地」に参加。詩集「独楽」「闇を闇として」などを発表、晩年はイタリア語訳された詩集が現地で高く評価された。新潟県と神奈川県で高校教師をしながら詩人として活動。合唱曲「水のいのち」や賛美歌などの作詞でも知られる。
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第二次大戦の敗戦翌日から作詩を始める。
詩集「存在」
その中に『水たまり』という詩がある。
人の、いや、全てのものの「存在」そのものを問う。
そして
その問いは私に向かってくる。
もしかして わたしたち
くぼみにたまる 水たまり
という言葉で始まるその詩は、下記のところで見ることができる。
http://www.asahi-net.or.jp/~yp5k-tkn/jpoemidx.html
けれども、この『水たまり』という詩、高田三郎作曲の「水のいのち」の中の1曲と、同じ題名、内容もそっくりなのに歌の歌詞とは違っている。
わだちの くぼみ
そこの ここの
くぼみにたまる
水たまり
それは下記の高田三郎氏のコメントのページで見られるように
「読む詩」を「聞いてわかる詩」に直してもらうように
高野氏にお願いをしたからなのだ。
高野氏と高田氏とのつながりは深く、
他にも合唱曲、賛美歌、典礼聖歌などの作詩を手がけている。
http://www.corosono.jp/sono/obog/50thrc/takata.html
また、佐渡生まれの高野氏は「朱鷺」(学名ニッポニア・ニッポン)を子供のころにたった一度だけ空を飛んでいく朱鷺を見たことがある。それが絶滅に近いたった6羽になった、と知った時、居たたまれなくなって書いたのが詩劇「朱鷺」である。
その後たった1羽だけになったとき、組詩「朱鷺」を書き、作曲家鈴木輝昭によって曲がつけられた。
もしかして
もしかして
・・・・・・・
もしかして
出会えるか
出会うため
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滅びてならぬものは滅びない
と、締めくくっている。
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高野喜久雄
・1927年(昭和2年)11月20日 - 2006年(平成18年)
・日本の詩人、数学者。
・新潟県佐渡新穂長畝(島)出身、佐渡農学校、宇都宮農専卒?(盛岡農専?)。
・新潟(高田農で14年間教鞭)、その後神奈川県立高等学校教諭(数学)勤務。
・作詞活動を第二次大戦の敗戦翌日からスタート。
・昭和24年(22歳)処女詩集「乖離」を3000円かけて自費出版。
・鮎川信夫と知り合い詩・評論誌「荒地」に参加、荒地派の詩人として活躍。
詩集「独楽」「存在」「闇を闇として」などを発表5冊の詩集上梓後30年間沈黙。
・この間、「水のいのち」「わたしの願い」「ひたすらな道」等合唱曲に詩を提供。これらの合唱曲が芸術祭賞などを受賞。
特に「水のいのち」は日本語の合唱曲中の最もポピュラーなスタンダード曲となり、楽譜は通算200刷りを越える。
・1995年イタリア語訳された詩集が現地で高く評価され、イタリア各地の芸術祭から招聘を受け、5冊がイタリア語訳で刊行される。
・イタリアの大出版社モンダドーリの世界詩人叢書の60巻目としてアジア人初の出版。
・イタリア文学界で評価され、2005年、ラクイラ国際文学賞特別賞とベルトルッチ国際詩人賞を受賞。そして、イタリア訪問のきっかけを作ったペスココスタンツォ市から名誉市民の称号を受け、日伊文化交流に貢献。
・2005年、ヨーロッパを代表する詩の雑誌「POESLA」が「20世紀の世界の詩人400人」を特集。
日本人9人の内に選出、他は島崎藤村、高村光太郎、萩原朔太郎、八木重吉、宮沢賢治、黒田三郎、鮎川信夫、谷川俊太郎。
・30年ぶりに試作への情熱、新詩集「出会うため」と英訳の選集を刊行。
□数学関連では
円周率の公式探しにも没頭、1982年新しい公式発見、「πのarctangent relationsを求めて」を著している。
それは高野喜久雄の公式と言い、2002年東大金田康正教授グループの円周率最長桁計算世界記録更新(1兆2411億桁)に採用され、本人は大変誇りに思っていたそうだ。
□・高野は「朱鷺」を子供のころにたった一度だけ空を飛んでいく朱鷺を見、それが絶滅に近いたった6羽になった、と知った時、居たたまれなくなって書いたのが組詩「朱鷺」である。その後たった1羽だけになったとき、「朱鷺連祷」、組詩「朱鷺」を書き、作曲家鈴木輝昭によって曲がつけられた。
・この高野、鈴木のコンビで佐渡総合高校校歌を作る。
□著書
『乖離』(1949年)『独楽』(中村書店、1957年)』 『存在』(思潮社、1961年)
『闇を闇として』 (思潮社、1964年)『高野喜久雄詩集』(思潮社、1966年)
『高野喜久雄詩集』〈現代詩文庫〉(思潮社、1971年)
『出会うため』(思潮社、1995年)他
□高野家
・島地区は下郷(しもごう)、胴丸、硲(はざま)、北に分かれ、高野家は下郷の名士。
昭和初期発行『島郷土史』に公職者で人格優れた高野市太郎の名前。
・高野家の二男達が江戸初期に生椿を開拓(高治・毅氏の先祖)
・現在は猪股直次郎が7,8年前に依田(よだ)氏より購入、(猪股氏は東京人、奥様が島の高野家隣の野崎与三左衛門)
・その前は「島窯」の依田(よだ)氏所有、依田氏は長浜和右衛門娘の夫。
□佐渡総合高校校歌
高野喜久雄作詞・鈴木輝昭作曲
1
金北の峰遥かに聳え舞う朱鷺をなおも待つ空
国仲にあふれる恵みしなやかな心と身体
ひたむきに真理を求め響きあい共に歌えば
いのち燃え立つああここにわれらの佐渡総合高等学校
2
こころざしの灯高くかざして行く道はあくまで遠い
夢と夢つなぎ合わせて問い糺す共存の意味
くり返し応える窓に思いやり日々に目覚める
深めあう愛ああここにわれらの佐渡総合高等学校
3
よき師よき友出会いきらめき誇らかにこの丘に立ち
共に見る世界の明日ちちははの願いを超えて
深いものわれら引き継ぐなお高く打ち鳴らす鐘
羽ばたく英知ああここにわれらの佐渡総合高等学校
『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高野喜久雄
9 佐渡のむじな 高野喜久雄
11 鑑賞 佐渡のうた (11) 本間五丈原・高野喜久雄・安水稔和 山本修巳
18 <詩> 海 高野喜久雄
26 特集 句集「海見ゆる坂」 詩魂四十年 高野喜久雄
38 詩劇 朱鷺(とき) 高野喜久雄
54 特集 詩華集「佐渡のうた」 凝視し続けたものの重さ「佐渡のうた」を読んで
66 崖くずれ 高野喜久雄
74 先生と私 高野喜久雄
77 イタリアの「現代詩の集い」と合唱曲「朱鷺」 高野喜久雄
78 朱鷺連祷 高野喜久雄
79 望郷詩篇 高野喜久雄
79 高野喜久雄『出会うため』寸感 本間眞珠
79 楽譜「佐渡のむじな」 高野喜久雄・詩/水沢ひさし・曲
82 『青柿』管見 高野喜久雄
83 寒蝉庵雑記 高野喜久雄
88 詩人の書簡 高野喜久雄
90 春 高野喜久雄
93 質場川 高野喜久雄
95 なお待っている一羽 -キンを思う日- 高野喜久雄
97 新潟県立佐渡総合高校校歌 高野喜久雄 作詞/鈴木輝昭 作曲
108 詩人・高野喜久雄 本間眞珠
111 朱鷺の詩人高野喜久雄氏逝く 山本修巳
113 追悼 高野喜久雄 松田 昭三
115 詩人 高野喜久雄(旧新穂村出身)死去に際して 高野 明彦
118 朱鷺の詩人 高野喜久雄 「蓮の花コンサート」 -上越文化会館大ホール- 山本修巳
139 「高野喜久雄 故郷への思い」展のこと 若杉宗男
145 高野喜久雄と山本修之助 山本修已
145 佐渡紀行 高野喜久雄の足跡を訪ねて 新保啓
145 高野喜久雄詩碑 佐渡市新穂長畝 山田邸の庭
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「43号」(平成27年10月)・高野喜久雄展(新穂歴史民俗資料館)
「佐渡ジャーナル」関係記事:「6号」(平成18年7月)高野喜久雄さんのこと(土屋寛治 新穂)「6号」(平成18年7月)佐渡総合高校の校歌作詞者(羽二生良夫 前三条商工会議所会頭)「15号」(平成20年10月)朱鷺の詩人 高野喜久雄-「蓮の花コンサート」上越文化会館-(山本修巳)

「島の新聞」(51号)

高ん喜久雄展(平成27年7月~8月)「新穂歴史民俗資料館」
「島の新聞」索引(人名別)
★高野喜八郎
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
明治三十年、東京で一台一千円で輸入された自動車が、佐渡では大正二年両津相川間を運行し、新穂町では高野喜八郎、石井喜三治氏等が中心になって新穂自動車会社を設立し、事務所を高茂旅館の一室においてハイヤー新六〇号を運行したのが大正七年で、初めは相川出身の加藤運転手のちに光谷運転手に代ったのであるが、大正十年頃から個人ハイヤー業者も出来て、青年達が両津方面の花街へ並びに行くのが増加したという。
★高野金七
「小菅徹也先生facebook記事」(平成27年2月20日)
最近鬼籍に入った高野金七老人(86歳)に対する献杯から新年会に入らなければならないとは切ない話だ。
佐渡の銘石に関しては、生き字引のような人であった。それのみならず、彼の人生そのものが波乱万丈で、物語性が豊富で聞きて居ても面白かった。 池田勇人の箱根の別荘へ単身赤玉石を売り込んだり、山口組の大親分に頼まれて赤玉石を遠距離トラック輸送したり、銘石をやる前は3年間築地から新橋まで毎晩 石焼きいもを売って借金(畜産をやれやれと農協に勧められて騙された巨額な借金)を返した話など、愉快痛快の連続人生であったようだ。 高野金七さんと同じ年の銘石老人の大森景山さんは、すでに記憶力も衰え外出も出来ない状態であるから、高野金七さんの逝去で初期の佐渡銘石協会の昔を語れる者は1人も居ないことになってしまった。 足かけ3年前の4月、「過去に利益第一主義であったことを心から反省して、地質学の基礎を習いながら佐渡の銘石の素晴らしさを次世代にきちんと伝えたい。是非共佐渡銘石協会再発足に助力下さい」との懇請を受けた。 この年4回に分けて、①猿ハ・小倉地区、②野浦、赤玉、大杉、小木半島、③岩谷口、真更川、北鵜島、願、鷲崎、④真更川で、それぞれの銘石出土地点を高野さんと大森さんの2人が、当日参加した佐渡銘石協会の次世代に現地でしっかり教えて下さった。 さて、これらの成果と佐渡に現存して居る代表的な銘石の数々を本にして出版しようと言っている最中、最長老が逝ってしまった。
★高野宏一
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
新町でタカミ獅子を舞わせたのが、近世のいつ頃からだったのかほ不明である。古い獅子頭のほかに長さ五間余りのほろが残っていた。古老のいい伝えでは明治の半ば頃までは使われたというが、それを実際に見た者はいない。残っているのは一頭だった。復活したのは昭和五二年一〇月一六日の祭りからであった。佐々木芳博・中川敏彦・本間安子等一二、三人の人たちがけいこを始めた。古い頭は幅六五センチメートルほどの大きさ、ホロは何十人も入るもので、町を練り歩くだけだりたと見当がつく。しかし新しい獅子には多少の芸をさせたいというので、三〇センチメートル程の小型な頭を二つ作り、ホロは商工会にあった小さい物を借り、適当な太鼓のリズムにあわせて門ごとに舞わせて歩いた。新町相撲がなくなって、それにかわる程の人気のある余
興をもとめることのできなかった新町ではかなり好評だった。しかし一〇人余りの小人数で五〇〇戸を廻るのは重労働だった。二年続いて来年はあぶないといわれたころ、芸はできなくても旧に復して大獅子にしたらどうかということになった。金子克巳や高野宏一等数名が呼びかけて始まりたのである。フジミは渡部裕次郎が作り、赤・黒二頭の色は島倉伊三武が塗り、島倉勘十郎や島倉七兵衛が組み立てた。昭和五四年、氏子の家から古蚊張を寄附してもらい、男女数一〇人の青年がいく晩もお宮へ集まって獅子のホロに仕立てた。寄附金で揃いのハッピを作った。
★高野宏一郎




真野生れ、佐渡高校、慶応大卒後、9年間サラリーマン生活。佐渡に帰って家業であるマルゴ酒販等を経営し、真野町長、初代佐渡市長となる。市長当時は全国離島協議会会長を務める。環境の島佐渡を標榜して数々の事業を実践する。趣味は飛行機操縦。2013年11月、「離島振興60周年記念功労者表彰」を受賞。
諸情報
★高野庚次
「手わざ図鑑」

★高野幸吉
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

『新穂村史』(昭和51年刊)より
潟上(吾潟)の本間梅ヶ沢家は代々能太夫の家で十二代左京由春、十四代令桑は殊に堪能で、村内外に弟子が多かった。かつて長畝の山田仁平、つづみ打の太田貞之亟、瓜生屋石井喜平治、田野沢の岩田浅治、下新穂の影山新右エ門、長畝の羽田清治、北方の菊池栄太郎、武井の高野幸吉、青木の斎藤儀太郎、川上福松等これをよくし現在は北方の菊池汎、青木の如月会の川上三吉、井内の昭諷会の後藤政治等が活躍している。
★高野宏策
佐渡名勝史(昭和11年 山本幸作 山本商会出版部)

『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)


(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)より
吉岡の人、マルゴ味噌として、味噌製造業をはじめたのは、明治三二一八九九)年二月からのことである。当時、年額三〇万貫を移出したという。北海道への移民が増加するにつれ、郷里の味噌を噂好するところから北海道方面への積出しが多くなり、船に積みこみの便利な新町海岸のマルゴ味噌や、羽茂大石海岸のヤマカ味噌マルダイ(明治七年)などの工場ができてきたのである。
マルゴが豊田に2000坪の工場を新築し、大規模に経営をはじめたのほ大正一五(一九二六)年で、年産一〇〇万貫を数えた。また、明治四二(一九〇九)年三月には「佐渡味噌同業組合」が設立され、組合長には吉岡高野宏策がなり、事務所が新町に置かれた。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
(明治)明治七年生 真野村吉岡、味噌醸造業 ・明4、代議士大竹貫一の来郡[四十年七月二十七日]・明4、第六回佐渡郡会議員選挙[四十四年九月三十日]・明4、第十一回衆議院議員選挙[四十五年五月十五日]・明4、第十一回衆議院議員選挙[四十五年五月十五日]
(大正1)・大1、佐渡国民党の臨時大会[二年二月二十五日]・大1、第十二回衆議院議員選挙[四年三月二十五日]・大1、青木永太郎等同志会を脱党す[四年九月]・大1、渡部七十郎縣会議員を争はんとす[四年九月二十五日]・大1、野澤卯市中蒲原郡より選出さる[四年九月二十五日]・大1、第七回佐渡郡会議員選挙[四年九月三十日]・大1、第十三回衆議院議員選挙[六年四月二十日]・大1、相川町立女学校の郡立決議[六年十二月]
(大正2)・大2、政友、公正の聯合懇親会[八年三月八日]・大2、第十八回新潟縣会議員選挙[八年九月二十五日]・大2、第十四回衆議院議員選挙[九年五月十日]・大2、佐渡経営会の速成運動[十年一月十五日]・大2、秦逓信次官来郡[十年七月十八日]・大2、政友派の幹部会[十年十二月二十六日]
(大正3/4)・大3、佐渡政友倶楽部の会合[十一年一月六日]・大3、佐渡政友倶楽部の會合[十一年九月十七日・二十三日・十月二十一日]・大3、高等女学校の移転問題[十一年十二月二日]・大3、佐渡政友倶楽部秋期大会[十二年八月二日]・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日]・大3、政友会新潟縣支部大会[十二年十月十七日]・大3、佐渡政友倶楽部臨時大会[十三年二月八日]・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・大3、佐渡護憲派の會合[十三年七月二日]・大3、政友倶楽部の大会[十三年九月九日]・大4、政友倶楽部秋季総會[十四年十一月二十一日]・大4、政友倶楽部秋季総會[十四年十一月二十一日]・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]
(昭和)・昭1、立憲政友会新潟支部の総会[二年五月二十二日]・昭1、佐渡政友倶楽部の秋期大会[二年八月十八日]・昭1、第二十回縣会議員選挙[二年九月二十五日]・昭1、佐渡政友倶楽部の秋期総会[三年八月十八日]・昭2、縣会議員の補欠選挙[五年七月五日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋期大会[五年十月二十三日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]・昭3、政友会新潟支部の会議[六年八月二十七日]・昭3、佐渡政友倶楽部秋季大会[七年九月六日]・昭3、本郡政友倶楽部秋季大会[八年十月八日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[九年九月九日]・昭4、政友倶楽部の委員会[十四年五月十四日]
★高野宏二郎
佐渡高校新潟支部長


★高野幸太郎
『新穂村史』(昭和51年刊)より
佐渡に始めて自動車があらわれたのは大正二年(一九一三)で、某家の同年六月二十八日の日記に「本郡最初の自動車快走、先月末頃新穂方面に来り目下北新道運転中」とある。両津の秀明館主が相川・両津間をタクシーとも乗合ともいえぬものを走らせたのだという。大正七年(一九一八)新穂自動車会社がまちの高野幸太郎、大野の石井喜三治の手で作られ、これを大正十一年本間芳太郎が引継いだ。又この新穂の土の上を始めて自家用自動車が走ったのは、大正八年土屋玄蕃のハイヤーである。
※下記高野幸太郎と同一人物かもしれない。
★高野幸太郎
「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
土建業、高野幸太郎(喜八)が、長畝字島の裏を流れる洞丸川を水の流れをよくするため、新穂川に平行して、吉井本郷方面から流れ出る地持院川の下を潜って、新穂川へ合流せしめる謂所サイホン(筒)工事を始めたのが、大正四年四月であった。島内で初めての難工事であったが、翌五年八月漸く竣工したが、この工事費は約五万円であった。今は、農業構造改善事業や河川改良工事が進んで、その櫓式工法の跡は残っていない。
※上記高野幸太郎と同一人物かもしれない。
★高野吾三
昭和6年4月1日、東京高等師範学校付属中学校(現在の東京教育大学付属高校)が大佐渡山脈妙見山付近で遭難し、生徒2名案内人1人が死亡した。その案内人で、当時61歳の相川の人。
「妙見山麓の遭難」(「佐渡の百年」)
★高野(旧 神谷)志乃
「島の新聞」索引(人名別)
★高野重幾
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
・二宮の人、佐渡中学生時代、昭和2年の第9回県立学校陸上運動競技大会の投擲の部に出場し、その後明治大学に進学し、昭和11年のベルリンオリンピック大会に役員(会計担当)として参加し重責を果たした。
・佐渡中学時代の大正15年、第8回県下中等学校体育大会に出場し、砲丸投で4位、記録は10m63。
NHK甲府放送局長。
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年)p417
★高野治三郎→余湖治三郎
★高野周治
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
吉岡の鬼太鼓ほ昭和五一年四月一五日の祭りから始まった。鬼太鼓をやってみようといいだしたのもこの年になってからだから、あわただしい準備とけいこで始めたことになる。
鬼太鼓は祭りを賑かにするためのものとだけ考えられがちだが、吉岡の場合はそれだけではなかりた。若林幹夫・川野名庄五・本間浩二・高野周治等の若者たちが集まっての世間話の中で、この頃は同じ村の青年どうしでもお互に知らぬ顔で行き過ぎる者が多くなったと、連帯感の不足を嘆く話が出た。昔のような曖い心のつながりを作る道はあるまいか、といろいろな案が出て、鬼太鼓はどうだろうということになり、多勢の青年に呼びかけてみることになった。そのためには青年層にも壮年層にも信用のある人からまとめ役になってもらう必要があるので、本間作に一切をお願いすることにした。本間からの呼びかけに応じて公民館へ集まった青年は二〇名を超えた。 いよいよ鬼太鼓組を作ることには決まったが、太鼓はお官から借るにしても面も衣裳もない。それで当分はよその村の使っていないものを借りることにした。鬼太鼓を見たことほ度々あっても、いざ始めるとなると見よう見まねだけではできるはずもなく、浜中の鬼太鼓の練習を見に行ったりした。その内に伊藤藤吉家の久が後山から来た者で鬼太鼓に詳しいことが分かり、伊藤を師匠にして、借り面借り着で吉岡の鬼太鼓は始まったのである。やがて面を新町の島倉伊三武にほってもらうことにした。吉岡の小松の親戚でしかも器用で名人肌の人だと聞えていたからである。自・赤・黒・青の四つの鬼面ができ、それから二・三年して豆まき用のヒヨットコ面ができた。白っぽいのと肌色がかったのと二面である。獅子がなくてさびしいから豆まきをつけようということになったのだ。豆まきはたいてい黒面だが、それでは少し怖い感じがするのでこの色にしたのである。豆まきの黒面は三番曳の黒式(こくしき)の面をかたどったものであろうから、ここのは新しい解釈によって作られたことになる。結局、面はすべて島倉の寄贈となった。
借り物の鬼太鼓は二年ほど続いた。今は「書岡鬼太鼓有志会」のもので、練習はだいたい祭り前一か月、総社神社の拝殿がけいこ場になる。
★高野周蔵
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
明治二十二年に町村制が施行された時の畑野村〔畑方〕(畑本郷・寺田・安国寺・河内)の初代村長。(〔 〕は役場所在)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
畑野村畑方 ・明2、第六回選挙[二十一年一月]
★高野庄嗣
新潟日報(h28年4月12日) 市議


平成28年4月10日執行 佐渡市議会議員選挙公報

★ 高野庄次郎
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
新穂潟上で、大正の初期まで高野庄次郎が土人形をつくっていたということも聞いている。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
★高野甚左衛門
「島の新聞」8号(by 松本秀雄)

★高野甚平
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
明治二十七年の北溟雑誌に、三宮村後山の医師高野甚平は痔の治療が巧みだから勧めると云う広告がある。
★高野翠斎
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の俳諧。本間斧刪(明治二九没)、中川収之(明治三二役)の流れがつゞき、明治十二年(一八七九)にほ東京教材監社の新穂分会というものがあり、その奉献額が大日堂の拝殿内に
掲げられている。正岡子規等の改革により俳句といわれるようになり、瑞穂会(旧派)、沙鳥会(旧派)、みどり会(新派)等の団体が、大正頃まであった。瑞穂会に渡辺巴郷、高野翠斎、沙鳥会に中川月桂、河原春木、本間最古等の名が「新穂村案内」に見える。
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★高野素十(すじゅう)
昭和二七年、高浜虚子、星野立子、中田瑞穂等と来島する。
佐渡を詠ったものに下記があり、特に「旅人に・・」は、野菊と佐渡の人情を詠んだ歌としてよく知られている。
・旅人に 佐渡は野菊の濃きところ
・金風華御陵の前すぐ田なり
・女手のこの苗代に幸(さち)あれと
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高野素十
88 高野素十先生靴を盗まれしこと 蒲原ひろし 109 高野素十先生の思い出 山本修巳
「虚子ときんぽうげ」(「佐渡の百年」)
「佐渡座談会」(「白樺」7号 昭和13年)
「ウィキペディア」より
★髙野進
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)髙野進
110 <紀行>多田の村祭りと諧謔の妙 113 佐渡のたたずまい -泉、中興、本屋敷そして相川- 116 盆の提灯が語る風土 -水津- 128 〈紀行〉お盆に羽茂と真野の茅葺き能舞台を訪れて 137 〈紀行〉中山旧道のキリシタン塚を目ざして 143 [紀行]千種の「ロシア水兵の墓」と『北溟雑誌』―得勝寺・本荘了寛が遺したものー 144 私考 「北一輝」の見方に諸説あり 146 [紀行]トキだけではない佐渡の旅 148 [紀行] 佐渡の内海府、外海府を巡る旅―民俗学、歴史学の泰斗に誘われてー 151 書簡
151 〈紀行〉佐渡風土記もどき-佐渡讃歌 153 [紀行] 順徳上皇を追った若宮の生涯と歌人としての上皇ー佐渡と新潟・小口を結ぶ糸ー 155 佐渡を襲った天保の飢饉のことー金井町の岩木文庫の資料からー高野進
★高野清治
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭1、佐渡農事協会の創立[三年八月二十五日]
★高野清八郎
前段右より・高野清八郎・瀬下清通・塩嶋仁吉 後段右より・柄沢四郎左衛門・柄沢寛・舟崎仁一

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡真野町の出身で明治十九年九月十五日に生まれた。早稲田大学卒業、香川新報主筆兼編集長、憲政会報編集長、新使命社々長、財政研究所理事長、東京政治大学々長となった。昭和三十九年六月十三日に七十七才でなくなった。(新潟県年鑑)
★高野清八郎

「風間進君の佐渡」より
高野清八郎は、佐渡椿尾に生まれたが、政治をこころざし、明治45年に早稲田大学を出ると、尾崎行雄の門下となり、中国青島に渡り、大正8年に帰国すると香川新報の主筆となっている。以後、東京で雑誌「新使命」を発行している。新使命は、尾崎行雄の論説を中心とした政治雑誌である。高野清八郎は尾崎行雄や永井柳太郎などを背景に,軍備縮小・普通選挙・社会政策の実現などを旗印に全国の青年党といった政治グループを結集し,既成政党に対抗する政治勢力を作ろうと試みたが、後には陸軍統制派の理論家となっていく。
彼の著作には
産業立国の根本策/新使命社
財政改革論 虐殺と破滅を救う根本策/ 新使命社
軍費大整理論/春秋社刊
財政半減論 官僚亡国の実状 などがある。
東京にあっても、佐渡の民政党系の政治家達との交流を持ち続け、佐渡日報にも寄稿している。
「風間進君の佐渡」より
高野清八郎と「新使命」 -1
高野清八郎と「新使命」 -2 "
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大3、塚本派の演説会[十三年四月三十日]
★高野莊太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明4、新潟に於ける鵜飼の仮葬[三十四年九月二十八日]
★高野高治
平成30年10月 TV「新潟県のぽつんと一軒家」













大正2年、新穂生椿で生まれ、1997年没、84歳。生涯を朱鷺保護活動にささげる。長男の高野毅も父の後を継いで朱鷺保護活動の中心人物となり、朱鷺連絡協議会の会長を務める。「佐渡人間巡礼」(工藤宜)に高野の活動が詳しく描かれている。高野毅は長男である。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高野高治 102 高野高治さんを憶う-朱鷺とともに 松田實
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「63号」(令和2年10月)・高野高治・毅 二代で繋ぎ守った棚田とビオトープ
「島の新聞」索引(人名別)
・「生椿の歴史」「生椿の上人」(高野高治・高野毅)
★高野毅(たけし)

平成30年10月 TV「新潟県のぽつんと一軒家」




















昭和18年、新穂生椿生まれ。現在は瓜生屋に居住し、朱鷺保護活動に長く尽力し、朱鷺連絡協議会の会長を務めた。高野高治は父である。
新潟日報(h28年4月23日)


※「佐渡ジャーナル」関係記事:「1号」(平成17年4月) トキの野生復帰・潤いの島づくりと都市と農村を結ぶ弾みに「63号」(令和2年10月)・高野高治・毅 二代で繋ぎ守った棚田とビオトープ
「島の新聞」索引(人名別)
・「生椿の歴史」「生椿の上人」(高野高治・高野毅)
★高野辰之
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)高野辰之 68 「佐渡の民謡」序文執筆の高野辰之博士の生家と墓所を訪ねて-長野県下水内郡豊田村・野沢温泉村-山本修之助
★高野チエ
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「7号」(平成18年10月)首都と佐度を「あまほっこり」と(高野チエ・山貝芳枝)「25号」(平成23年4月)両津の思い出(高野チエ 両津出身)
「28号」(平成24年1月)祝健一郎氏の五言絶句を読んで(高野チエ)
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 6短歌首 7カチューシャのうた 7あとがき 8〈短歌〉クラス会 9カメラマン清水薫様のこと 9朱鷺 9人物点描、画家・山貝芳枝 9機縁の人 10近藤馨『花ありき』を読んで 10十四ちゃんを憶う 10不泣さん
★高野忠左衛門
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

★高野長三郎
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡小木町沢崎の人である。安政初年(一八五四年)江戸に出て浅草海苔壊草準菅の製造を習い、茅簀を用いて乾燥する方法を発明し、品質香味ともに佳良となり郡外に移出するよう貰った。村民はその徳をたゝえた。(佐渡人名辞書)
『小木町史』より
沢崎の村に江戸時代の終りのころ高野長三郎という人がいました。沢崎の村は天保のころ(一八三〇年代)に家の数が三十一軒、水田が九畝二十六歩(約一〇アール)、畑が八町四反(八ヘクタール余)の村でした。小木半島でもっとも水田の少ない村でした。村は畑と漁業で食べていたのです。さて、高野長三郎は、この海岸に冬に育つノリを何とかよい商品にすることばできをいかと考えました。江戸時代にももちろんノリは人びとにもてはやされておりました。しかし、ノリといえば人びとは海府と答えるほど海府のノリが有名でした。それは、相川という大都市をもっているために、海府のノリはその相川や河原田でとぶように売れたからでした。そこで高野長三郎は、別の加工法がないかと考えたのです。とうとう彼は、他国へ行ってノリの製法を学んでくることを決意しました。安政のころ(1854-60)のことでした。青年高野長三郎はとうとう江戸で浅草ノリの製法を研究して郷里に帰ってきたのです。佐渡のノリを判ノリにしたら、こうして工夫に工夫を重ね、取れたノリを萱(かや)のすのこで干して沢崎の判ノリが作られていくことにをるのです。その後、新保村の児玉技師がノリの養殖を指導したことば、別のところでも記しました。このように沢崎は、幕末以来、佐渡ノリの生産、加工ではいつも先進的を役割りを果してきたのです。昭和四年度の調査によると、小木町のノリの産額は五、四〇〇円で、その主産地は沢崎、白木、江積の六十五軒によるものです。高野長三郎は、明治八年五月、四十七歳で没しました。村人は高野長三郎を偉大を指導者としてその記念碑をたてることにしました。村人がお金を出しあって建てた碑が、いまも沢崎の薬師寺の境内に残っています。それは円山瞑北の撰文でおおよそ次のように書かれています。
「高野長三郎記功碑」
長三郎は、わが羽茂郡沢崎村の人で、姓は高野氏、代々農家なり。明治八年五月八日病をもって没す。享年四十七歳。高津氏を娶り二男四女を生む。長子久太郎は家を継ぐ。沢崎はわが南辺の一村である。此の間おおむね皆白田、民食にくるしむ。さいわい海産の利あり、以って之を補う。海産一ならず、紫菜(のり)を最とをす。但だ紫菜の産人皆海府を推して、三崎は之に次ぐ。故を以て声価甚だ微なり。然れどもその製方を解せざるは一なり、長三郎深く之をなげく、安政中独り江戸に適(ゆ)く。いわゆる浅草製方、帰りて村人と之を共にす。ここに於て三崎の紫莱の声価とみに長じ、広く近隣の諸州に及ぶ。三崎の人その沢にあずかりこうむらぎる者なし。長三郎の功ここに於てか大なり。村人口石を建てて以てその墓を表さんと欲し、来りて予に言を請う。予、長三郎のその利を利とせず、而して村人のその徳を遣(わす)れざるを嘉(よみ)す。是に於てか書す。明治十四年九月 溟北 円山 葆
★高野鶴蔵
『続佐渡酒誌』(平成14年)

★高野貞治郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高野貞二郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]
★高野諦本
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★高野藤右衛門(不二)

平成30年2月没、87歳。亡くなる直前まで新潟日報「島の文芸」選者として活躍され、「今回をもって選者を・・」と書かれた直後の死であった。私的な思い出としては、私の両津高校時代は同校事務室職員であった。その後も何度もお会いした。大柄な方であったが物静かな知識人と言う感じだった。
「島の新聞」索引(人名別)
★高野敏雄
「佐渡の文弥節」(『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊))
★高野敏夫
「島の新聞」索引(人名別)
★高野智哉

★高野延清(のぶきよ)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
位渡の入で士道といった。文学に通じ、田中美清、渡靖ととも三清といわれた。
文化元年(一八〇四年)に、孝子与三兵衛伝一巻を著した。(佐渡人名辞書)
★高野昇
(ラ・ラ・ネット指導者名簿より)
生涯学習指導、シルバー人材センター指導。 公民館生涯学習(昭和57年 佐和田・相川)
★高野番匠
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
村山の高野大工は、春日(大工)と同じ慶長14年蓮華峰寺と木崎神社の工事から見え始める。「小木町史」によれば、蓮華峰寺弘法堂墨書きには「佐州羽茂之郡□野甚六」となっていて、はっきりしないが、同じ年の木崎神社の棟札には高野甚六とあって、同一人物であることがわかる。以後、高野家には「甚」の頭文字が付くようになる。さらに、寛永十一年(一六三四)の弘法堂覆屋には村山村高野源蔵則次とあって、定着を見せ、以後、折々にその名を散見するようになる。なお、高野大工との関係の有無はわからないが、同じ寛永十一年の弘法堂墨書に、「大工西方村河野九右衛門政久、小工西方村河野覚右衛門、河野長松」とあり、「勧進西方村河野三左衛門則長」など、河野一族の名前が見える。ここでは大工であることの確認はできるが、どちらも『コウノ』と発音でき、村山と西方の隣り合った所でもあるので、多分に関連のあることが考えられる。河野大工はその後、棟札等には見えなくなる。高野大工が次に見えるのは明和九年(一七七二)、小木町海潮寺本堂棟札で・・・蓮華嘩寺密厳堂金堂には高野番匠の建てた精緻な彫のある、江戸期の建造物として知られる。高野家の古い墓は、この前にたくさんあったという。
昭和五十八年十一月、明治四十四年生まれの当主、高野太郎さんにお聞きした書き留めがあるので次にあげる。「家は代々甚右衛門で、私の祖父が十五代目だという。祖父は、一人前の大工にならずに止めたらしい。父は入婿で大工ではなかった。墓は蓮華蜂寺の密厳堂の前に古いものが二十五体ほどあり、家にも二十体位古いものがある。菩提寺は蓮華峰寺ではなく宝蔵寺である。屋敷の地名が『高野』で、墓地内に小田原神社があったが今は村山の白山姫神社に合祀されている。例祭は九月十五日で、氏子は私のところと、周円(有田昇一)家、上川内(本間英郎)家、下川内(河内久雄)家、坂(廃家)の五軒だった。俗に、うちの大工が建てたといわれるものは密厳堂、八祖堂、灯籠堂で、蓮華峰寺お抱えの大工だったと一般にいわれる。民家では西方の矢ケ沢(海老名久二)家、源座(藤井シュウ)家、三浦(三浦敏晴)家、与兵衛(本間与平か)家を建てたという。今、家には恵比寿・大黒・布袋の彫刻が残っているが、何代目の作かはわからない」
→index「番匠」
★高野フミエ
「島の新聞」4号


「島の新聞」索引(人名別)
★高野文礼(信吉)
幕末の佐幕派迅雷隊の小隊長、隊長は中山修輔で小隊長は他に松原小藤太、早川源次郎がいた。
「佐幕派・迅雷隊」(「佐渡の百年」)
★高野平作
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
畑野の人、新潟師範時代の大正6年、全国庭球大会で準優勝し名声を挙げる。
★高野平次郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
真野村吉岡 ・明4、第十一回衆議院議員選挙[四十五年五月十五日]
★高野平太郎
旧真野村村長、明治20年代。
★高野正敏
佐渡高校時代の42.10.7-8、陸上競技県高校新人大会(柏崎市)(五種競技)入賞
佐渡高校時代の昭和43.6.8~10、陸上競技県高校総合体育大会(新潟市) 5種競技3位
★高野雅彦
画家、北嶋吾二平に学ぶ。
★高野正也

真野吉岡の人。令和3年1月没、84歳。佐渡高校時代の28.6.27、信越高校陸上選手権大会(松本市)、走高跳3位 28.8.15~16、全国高校陸上競技大会(横浜市)出場 28.10.22、陸上競技国民体育大会(高松市)走高跳出場
★高野待太郎
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
羽茂の大谷人形(大和座)は明治十八年、大谷の中川今吉のはじめたもの。今吉は文弥節を仲平琴清(池阿波ノーの弟子)に習い、琴清の死後は渡辺忠蔵の弟子となった。彼はまた人形のカシラも刻み、傑作は「持統天皇」のカシラだという。一座は今吉が太夫で、役者は弟の高野待太郎、藤井金蔵と息子の鉄五郎という一族で組織していた。時おり隣家の茶園三蔵も加わった。明治三十年大崎座の人形や小道具の一部が洗出した時合併した。(大正五、六年までつづいた)今吉は、昭和五年七十四歳で死んだので、息子の鉄五郎が継いで座元になった。太夫は村山の笠井長吉(今吉と同じく渡辺忠蔵の弟子)であった。役者は、その後昭和二年に待太郎が死に、昭和七年に金蔵が死んだので、新たに北島初太郎、半田幸太郎が加わった。戦後、「新大和座」が生れ、太夫に長尾俊、藤井軾蔵(しょくぞう)、役者に早川治作、関口一郎、中川栄一が加わった。
★高野美穂

★高野最作
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★高野問蔵
真野豊田出身で新潟新聞記者。「北溟雑誌」の論客であった。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
真野村豊田 ・明3、辛卯倶楽部の設立[二十四年八月十二日]
「生きたお経をよんだ了寛」(「佐渡の百年」)
★高野美智子
両津高校時代のs44年、総体ヨット女子A級ディンギー級3位(柴田マスミ、本間ミサ子、高野美智子)
★高野豊
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・15・6・23 第3回近県中等学校水上(新潟市水上競技連盟)
(佐渡中・30点4位)300mメドレー②佐中4・02・9、200リレー③佐中、800リレー④佐中
100自⑤
★高野陽一
佐渡高校(真野分校)時代の昭和48.7.22~23、県高校定時制・通信制結合体育大会(新潟市)男子個人3位
★高野與八
新穂武井 熊野神社

★高野與八郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★高野莉香

★高野柳翠(勧太郎)
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
★高野隆蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

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