2021-01-11
★本間國蔵
『札幌紳士録』(鈴木源十郎, 戸石北陽 編 札幌紳士録編纂会 明治45年5月刊)


★本間国蔵
『両津市要覧(昭和33年)』より

★本間國太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★本間邦彦
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間邦彦 116 本間邦彦氏を悼む 山本修巳
★本間熊次郎
『小樽区外七郡案内』(山崎鉱蔵著 小樽区外七郡案内発行所 明42年9月刊)

★本間久美子
両津高校時代の1993年度(H5)2月、新潟県高等学校総合文化祭文芸部門(『高校文芸』第8号)短歌 奨励賞
1995年度(H7)2月、新潟県高等学校総合文化祭文芸部門(『高校文芸』第10号)短歌 奨励賞
★本間庫次

畑野村長
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p408
★本間家
本間家(年表・天正の変等)
https://sado-koi.ebb.jp/
本間家(河原田城)墓(本田寺)

本田寺

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間家
(山中観一著)
1 佐渡本間物語 (1) -源氏十六流と順徳天皇- 2 佐渡本間物語 (2)-東一条院立子と彦成親王の生涯- 3 佐渡本間物語 (3)-坂東平八郎と武蔵七党-山中観一 4 佐渡本間物語 (4) -宇多源氏の佐々木秀義と盛綱- 5 佐渡本間物語 (5) -天暦の治世と安和の変- 6 佐渡本間物語 (6) -始祖本間能忠と宗忠の入国- 7 佐渡本間物語 (7) -順徳上皇の御遷幸と頼綱の入国- 8 佐渡本間物語 (8) -後醍醐天皇と日野資朝並に本間山城入道- 9 佐渡本間物語 (9) -阿新丸の仇討と山伏大膳坊- 10 佐渡本間物語 (10) -新田義貞の挙兵と極楽寺坂切通し 11 佐渡本間物語 (11) -山城入道泰宣の奮戦と自刃並にその出生- 12 佐渡本間物語 (12) -赤坂城における資貞・資忠父子討死 13 佐渡本間物語 (13) -天下無双・孫四郎資氏のこと- 14 佐渡本間物語 (14) -越後長尾時代の幕開け- 15 佐渡本間物語 (15) -長尾為景と羽茂の本間高信との関係- 16 佐渡本間物語 (16) -「御館の乱」から「第一次佐渡合戦」への展開- 17 佐渡本間物語 (17) -時直の築城・その規模と城名- 18 佐渡本間物語 (18) -天正五年佐渡一揆と本間孫太郎の奮戦- 19 佐渡本間物語 (19)-羽茂高貞兄弟の奇禍と藤田の出陣 20 佐渡の民話考 (13) 雨乞の話(7) 杉池・乙羽池・山居の池 21 佐渡本間物語 (21) -偽名馬事件と上杉景勝の越後統一 22 佐渡本間物語 (22) -景勝の密使・越軍沢根入城の事- 23 佐渡本間物語 (23) -第二次佐渡合戦・上杉勢河原田城を囲む- 24 佐渡本間物語 (24) -鴨摺の合戦と河原田の落城- 25 佐渡本間物語 (25) -高応・徳兵衛の真光寺落ちと雑太の降伏- 26 佐渡本間物語 (26)-西方の合戦と羽茂の落城-山中観一 28 佐渡本間物語 (28)-会津の風土と群馬県赤堀村の本間- 29 佐渡本間物語 (29) -群馬県赤堀村探訪記- 30 佐渡本間物語 (30) -上州念流道道場本間練武館の明暗- 31 佐渡本間物語 (31)-赤堀に見る栄光の軌跡とその末路 32 佐渡本間物語 (32) -高滋の子孫と水戸本間の系譜- 33 佐渡本間物語 (最終回)-医師文人としての本間の一系と終稿に憶うこと- 62 「阿修羅」幻想 -酒井友二氏の歌集に寄せて-
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=24
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=15
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=20
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=28
★本間家(羽茂)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=23
★本間恵市
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p393
★本間慶雲(伊八郎)
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報 浅香寛編)

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★本間敬吉

畑野小7代目校長
★本間啓五
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「61号」(令和2年4月)・特別企画:亡きジェンキンスさんへの思い ※本間啓五・高野宏一郎
★本間慶光
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★本間啓幸
両津七夕祭りの唄の作詞者
http://sado2298.blog.fc2.com/blog-entry-757.html
★本間惠司
「エスライフ」2018年6・7月号

★本間慶四郎(ほんまけいしろう)
この辺に居住した


【生没】(生年不詳)ー一九二五 畑野の旧家・本間藤右衛門六代目の弟である。実際には、五代目の正妻にも後妻にも子供がなく、養子を迎えてあとを継がせたが、のちに妾腹で慶四郎が生れたので、後妻の子として引取り、分家させた。慶四郎の家は、畑本郷の「檀平屋敷」というところにあった。現Aコープ自動車修理工場裏手の、電報電話局の位置である。明治十六年(一八八三)に、金沢村本屋敷の僧本荘了寛が、不偏不党をたてまえとしてはじめた月刊誌「北溟雑誌」が、印刷所を金沢活版所から鍛冶町の斎藤出版所に移すに及んで、店主の斎藤長三の政治関与で、中立性が保てなくなり、了寛は同二十六年七月を最後に、本間慶四郎に譲渡した。慶四郎はその頃、聳雲堂の名で「金北山」という学術評論誌を、親戚の本間紋平と共同で開業した、畑野活版所から発行していた。慶四郎には商いの生業があったため、北溟雑誌は編集人として雇った高野周蔵に任せていたところ、その高野との間に問題が生じて、同二十九年三月で廃刊にしてしまった。翌三十年に、相川で森知幾が「佐渡新聞」の刊行を企てたとき、慶四郎はそれに共鳴し、所有していた印刷機を提供して自ら社長となり、同年九月三日に同紙は発刊した。慶四郎が佐渡新聞に傾倒したのは、北溟雑誌の継続延長の意味もあったが、政治的に森知幾の思想に近いものを感じ、革新系の改進党の機関紙とする意図があったためである。しかし、ここでも主筆の伊達喜太郎が自由党支持の立場をとるようになって、慶四郎との間に確執を生じ永続しなかった。『佐渡自治国』(森幾著)の森知幾年譜によると、明治三十五年六月二十四日の項に、「佐渡新聞は、本間慶四郎と知幾の共同所有であったが、知幾が買い取る。ただし、本間を無報酬の社長とする」とある。佐渡新聞は、大正期にはいると山本悌二郎の周旋で、山本策平が主筆となるなど、政友会の機関紙のようになっていったが、慶四郎も自ら政治活動に加わり、明治三十五年の畑野村会では、一級選出議員をつとめるなどした。しかし明治三十四年九月十九日に、同社が発行した『佐渡名勝』(岩木擴著)の広告では、佐渡新聞は「政党政社の提灯を持たず終始独立独歩なり」、「不偏不党にして─」などのスローガンを掲げていた。慶四郎は大正十四年三月二十日死去。妻ナミは終戦前に死に、子のないまま一代きりで家は絶えた。
【関連】佐渡新聞(さどしんぶん) 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※佐渡新聞(さどしんぶん)
明治三十年(一八九七)九月三日、森知幾によって創刊された佐渡で最初の本格的新聞。当初は隔日刊であったが、同三十五年から日刊となった。発行兼編輯人が友部周次郎、印刷人細野啓蔵、主筆には「新潟新聞」の記者をしていた大竹忠次郎を迎えて発足したが、実際には主幹の森知幾が編集と発行に当たった。発行所は当初羽田町にあったが、のち下戸炭屋浜町へ移転した。以前から島民による新聞の発行を企図していた知幾は、畑野町の本間慶四郎や「江差新聞」の記者をしていた伊達喜太郎らと相談して六月発刊の予定にしていたが、本間と伊達の間で支持政党の対立が起こって、三か月近く遅れた。知幾は、人民の自由・平等と独立をかかげて地方分権を主張し、官尊民卑の姿勢が強かった当時の吉屋雄一郡長と激しく対立、その姿勢を糾弾する論陣を張った。そのため官吏侮辱罪で六か月間の拘留(のち無罪判決)となったが、この間一時退社していた伊達喜太郎が新聞社を支えた。同紙はこうした弾圧に屈することなく、廃娼論や被差別部落の解放、佐渡鉱山のストライキ解決のための論陣を張り、佐渡の近代化と産業の振興に大きく貢献し、最盛期には発行部数が二○○○部にも達した。大正三年(一九一四)、社主の知幾が没すると、一時山本悌二郎に経営が託されたが、その後知幾の子供たちが受け継ぎ、昭和十五年(一九四○)九月に新聞の整理統合によって廃刊となった。
【関連】森知幾(もりちき)・伊達喜太郎(だてきたろう)・本間慶四郎(ほんまけいしろう) 【参考文献】岩木拡『相川町誌』、森 幾『森知幾ー地方自治・分権の先駆』 【執筆者】石瀬佳弘
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「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
畑本郷村の人。明治二十六年八月、聳雲堂の名義で「金北山」という学術評論誌を週刊で発行した。
これは同年七月一日に、畑野活版所が開業したことによるもので、同印刷所は同月二十五日以後、「北溟雑誌」の印刷を始めたのに平行してなされたものである。北溟雑誌は、その十年前に金沢村本屋敷の得勝寺住僧・本荘了寛先によって始められた月刊誌で、不偏不党をたてまえとし、無所属の医師で畑野の生田裕を編集人とし、金沢活版所で印刷していた。しかしこの活版所の斎藤長三は早くから政治活動に参加しており、やがて鍛冶町で斎藤活版印刷所を開いて、「佐渡史林」など郷土史関係の出版を重ねていたが、その後もいっそう政党色をつよくした。この斎藤長三にみるように、北溟雑誌も中立性を保てなくなり、本荘了寛はついに北溟社を手離すことにし、それを慶四郎が譲り受けたものである。そのときの週刊誌金北山は、当時印刷した現物が入手できないので、どのような内容と規模の雑誌であったのかを伝えることができない。本荘了寛が、明治二十六年七月号を最後に北溟社をそっくり慶四郎に譲り渡すについては、つぎのような事情があった。本間慶四郎は、畑野で比べもののない程の資産家、藤右衛門六代目の弟である。しかし母は水上善吉の娘おくにで妾腹であったので、檀平屋敷(現畑野電報電話局のところ)を兄から貰って分家した。そして親戚すじの本間紋平と仲間で、イヨ式活版機を購入して雑誌の刊行を企てた。この慶四郎らの動勢が、本荘了寛に伝わって、その時に政治的な問題を抱えて困っていた了寛に譲渡を決意させたものである。北溟雑誌は、明治二十六年八月の第六十九号から、畑本郷七十八番戸(現アポロ理容所のところ)で印刷された。編集人はひき続き生田医師であった。ところがまもなく、同二十八年に、生田が急死するという出来事に出会い雑誌は危機を迎えた。当座は慶四郎が発行に関することまで万事担当したが、慶四郎はこの仕事の他にも商いをやっており、専業できないので、真野村豊田の高野周蔵にその後の編集を任せた。しかしその高野と慶四郎との間に何かの不都合が起り、明治二十九年三月の第百二十号かぎりで、北溟雑誌は予告も弁明もなく、突如として打ち切り廃刊となった。慶四郎は、その直後に相川で森知幾が企画していた「佐渡新聞」の協力者となり、社主となって印刷機を提供した。日刊佐渡新聞が発刊したのは明治三十年九月三日である。慶四郎が佐渡新聞にこれほど傾倒したのは、北溟雑誌を延長することのほかに、そのころ自らも傾いていた政治的関心にあった。慶四郎はこの新聞を革新系の改進党の機関紙にすることをもくろんでいた。しかし主筆の伊達善太郎(羽茂町犬落の出身)は自由党支持者であり、創刊号に板垣退助の祝詞を掲載することで慶四郎と対立し、波乱の多いスタートとなった。慶四郎の思想的な意図は、社会主義着で堺利彦・幸徳秋水・内村鑑三らと親交のあった森知幾によって代弁され、実践される機会があったのにかかわらず、ここでも慶四郎は突如手を引いてしまった。その理由はわかっていない。またその後の慶四郎の行動も不明である。慶四郎の妻ナミは、榎田の本間長次郎家の次女であったが、慶四郎は大正十四年三月二十日に死去、ナミは太平洋戦争末期に死んで子のないま一代きりで家は絶えた。慶四郎と共同経営者であった本間紋平は、慶四郎が手を引いた後も活版印刷の事業は続けていた。畑野活版所は、明治二十八年一月に紋平宅に移されていた。大正四年の畑野村役場資料でも、紋平は印刷業と記されている。その後紋平は一時北海道に移住するが、そのときは以前から印刷の仕事を手伝っていた義弟の本間幸助がそれをひき継いだ。その頃印刷所は、中何代の山手側にあったが、やがて中町に近い西町に移り、幸助の転業で現経営者竹谷氏に譲られた。
「佐渡の日刊新聞創刊」(「佐渡の百年」)
「生きたお経をよんだ了寛」(「佐渡の百年」)
➡本間藤右衛門
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数54・62
★本間啓輔
佐渡高校時代の平成4.5.31-6、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)4×100mR(本間啓輔・志和正隆・戸田貴夫・高岡豊秀)6位
平成4.6.19~21、陸上競技北信越大会(福井市)4×400mR出場
★本間慶蔵
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
畑野中町の人。本間喜十郎家の先々代で写真を業としており、はじめ両津で開業し、のちに畑野で写真館を開いた。
★本間慶太郎
畑野西町に残る白壁の蔵屋敷
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
畑野村畑野、佐渡電灯社長 ・大1、第十三回衆議院議員選挙[六年四月二十日]
・幼児の時、資産家であった小樽本間家の門前に捨てられていたと言う。
➡本間藤右衛門
★本間啓太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★本間敬太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
石田村 ・明2、越佐同盟會の創立[二十二年三月二十一日]
★本間賢一
『両津市要覧(昭和33年)』より

★本間元一
住吉神社

★本間健吉
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
明治四十五年から畑野での学校医を委嘱された医師。
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

※新穂の眼科医本間芳太郎の弟。金井中興 の堀治部(芳太郎次男)は甥である。
★本間玄契

『北海道立志編. 第1巻~第3巻』(北海道図書出版 明36-37明治36年~37年6月刊)

『北海道人物誌. 第1編~第2編』(明治27年3月刊)


★本間健一郎
佐渡の植物学者、高校教諭。

・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p452
★本間源右衛門
『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)

★本間賢吉
『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年)より
北見角太郎(同窓会長、医博、佐和田町)山本成之助(県相川保健所長、同、真野町)らは大正十二年の卒業名簿にのっている。このクラスには医者が多く出た。本間賢吉(医博、両津市)、榎蓮(内科医、同)や北見は、島内でいまも開業している。後藤衛門(内科医、新穂村)本間為次(外科医、新穂病院長)も、死亡したが同級だった。ほかに伊藤栄一(内科医、医博、埼玉県)堀治部(耳鼻科医、同、東京都新宿区)武井悌(内科医、羽茂町)渡辺五郎(耳鼻科医、両津市)らがいる。たいてい、十一年に四年で修了して進学した人たちである。北見によると「医者だけで十二人出た。佐中の歴史で、あとにも先にも、例がなかった」という。
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p407・408
★本間源厚(げんこう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
本間詮忠の法名と思われる、永享九年(一四三七年)三月六日にその所領、真野町大字金丸保半分、畑野町三宮保四分の一、佐和田町長木保三分の一、金井村中興保八分の一、二見大浦郷、小木宿禰宜浦等を淳泰(源厚の子であろう)にゆずった。(新潟県史)
★本間源三郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国賀茂郡吉井の人で上杉時代の地頭久知の旗本である。季休といった。吉住、鷲崎の内、自瀬、北五十里、坊ケ浦、馬首、松ケ崎、小浦、見立、三拾弐貫の内、武井の内、黒姫、舟代、虫崎を領した。(佐島遺事)
★本間賢治
「 エスライフ」2018年4・5月号

★本間賢治
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
新興キネマ営業部長。明治二十二年二月二日、佐渡郡新穂村で生まれた。四十五年に早稲田大学法学部独法科を卒業した。天然色活動写真会社に入り、ついで国際活映写真会社営業部長となった。さらに日活に転じ、調査課勤務より営業部長、昭和七年に新興キネマ営業部長となった。(越佐傑人譜)
★本間憲司
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間憲司 115 温故知新 山本修之助先生と建学の精神-真野中学校の校歌を考える-
★本間健治
相川小校長

★本間碩丈
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★本間源四郎
→小黒ヨシ参照
★本間健治
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数103
★本間健太郎
佐渡高校時代の平成5.5.28~30、軟式庭球県高校結合体育大会(上越市)男子団体3位、男子個人本間哲・本間健太郎組6位
平成5.6.18~20、軟式庭球北信越大会(上越市)男子団体ベスト8、男子個人本間・本間組ベスト8
平成5.8.1~3、軟式庭球全国高校総合体育大会(黒磯市)本間・本間組出場 2回戦進出
★本間建太郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★本間健裕

佐渡市出身の裁判官(40期)。生年月日 S33.7.19、早稲田大卒。
H31.4.1 ~ 盛岡地裁所長 H30.7.4 ~ H31.3.31 東京簡裁司掌裁判官 H29.4.1 ~ H30.7.3 東京地裁25民部総括 H27.6.29 ~ H29.3.31 東京地裁7民部総括 H27.4.1 ~ H27.6.28 東京高裁8民判事 H23.4.1 ~ H27.3.31 札幌地裁2民部総括 H20.4.1 ~ H23.3.31 東京地裁2民判事 H17.3.22 ~ H20.3.31 司研民裁教官 H14.4.1 ~ H17.3.21 福島地家裁判事 H11.4.1 ~ H14.3.31 東京地裁判事
H10.4.12 ~ H11.3.31 山形地家裁判事 H8.4.1 ~ H10.4.11 山形家地裁判事補 H5.4.1 ~ H8.3.31 東京地裁判事補 H4.4.1 ~ H5.3.31 名古屋地家裁判事補 H2.4.1 ~ H4.3.31 名古屋家裁判事補 S63.4.12 ~ H2.3.31 千葉地裁判事補
★本間吾一郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★本間康一
県立佐渡女子高等学校24代目校長(平成6.4.1~8.3.31)。
(※校名は以下のように変遷している。旧県立金澤高等学校・旧佐渡中央高等学校・旧佐渡高等女学校・旧佐渡実科女学校)
★本間浩一

★本間弘学
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
小倉村の人。文化十二年に四国八八ケ所霊場の土砂を三宮村の中川如月、小比叡村の策善らと持帰り各村村へ配置して佐渡遍路をはじめた。
★本間孝才
令和5年(so23)5月没、90歳。真野金丸在。

★本間耕作
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より


松崎丸は耕作の長男耕一郎が継ぎ、その子節郎へと続いている。
★本間幸作
『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)

★本間鑛山
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡畑野の人で通称を藤平という。日尾荊山に学び、藤堂和泉守に仕え後帰国した。嘉永(一八四八年-五三年)ころのひとであろうか。(佐渡人名辞書)
★本間孝山
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★本間(旧姓 高橋)幸二
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
加茂の人、新潟師範時代の昭和13年、近県中等学校陸上競技大会で円盤投1位。昭和15年、全国中等学校陸上選手権大会でハンマー投1位(43m66)。その後、本間幸二は大会運営や陸上競技の指導を通じて県陸協の進展に寄与された。両津夷でおけさ人形を製作販売する「みさお」人形店を経営した。子供に私の先輩と後輩の女性がいたがとても上品な方だったことを覚えている。高橋ご夫妻もとても上品な方で、幸二氏が全国的に知られたスポーツマンであったとは当時は想像もできなかった、兄は版画家の高橋信一である。
高橋二郎について
★本間孝二
『両津市要覧(昭和33年)』より

★本間浩二
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
吉岡の鬼太鼓ほ昭和五一年四月一五日の祭りから始まった。鬼太鼓をやってみようといいだしたのもこの年になってからだから、あわただしい準備とけいこで始めたことになる。
鬼太鼓は祭りを賑かにするためのものとだけ考えられがちだが、吉岡の場合はそれだけではなかりた。若林幹夫・川野名庄五・本間浩二・高野周治等の若者たちが集まっての世間話の中で、この頃は同じ村の青年どうしでもお互に知らぬ顔で行き過ぎる者が多くなったと、連帯感の不足を嘆く話が出た。昔のような曖い心のつながりを作る道はあるまいか、といろいろな案が出て、鬼太鼓はどうだろうということになり、多勢の青年に呼びかけてみることになった。
そのためには青年層にも壮年層にも信用のある人からまとめ役になってもらう必要があるので、本間作に一切をお願いすることにした。本間からの呼びかけに応じて公民館へ集まった青年は二〇名を超えた。
いよいよ鬼太鼓組を作ることには決まったが、太鼓はお官から借るにしても面も衣裳もない。それで当分はよその村の使っていないものを借りることにした。鬼太鼓を見たことほ度々あっても、いざ始めるとなると見よう見まねだけではできるはずもなく、浜中の鬼太鼓の練習を見に行ったりした。その内に伊藤藤吉家の久が後山から来た者で鬼太鼓に詳しいことが分かり、伊藤を師匠にして、借り面借り着で吉岡の鬼太鼓は始まったのである。
やがて面を新町の島倉伊三武にほってもらうことにした。吉岡の小松の親戚でしかも器用で名人肌の人だと聞えていたからである。自・赤・黒・青の四つの鬼面ができ、それから二・三年して豆まき用のヒヨットコ面ができた。白っぽいのと肌色がかったのと二面である。獅子がなくてさびしいから豆まきをつけようということになったのだ。豆まきはたいてい黒面だが、それでは少し怖い感じがするのでこの色にしたのである。豆まきの黒面は三番曳の黒式(こくしき)の面をかたどったものであろうから、ここのは新しい解釈によって作られたことになる。結局、面はすべて島倉の寄贈となった。
借り物の鬼太鼓は二年ほど続いた。今は「書岡鬼太鼓有志会」のもので、練習はだいたい祭り前一か月、総社神社の拝殿がけいこ場になる。
★本間光順
真野金丸 種徳院住職

★本間鋼次郎
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報 浅香寛編)

★本間幸助
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
畑野の人。本間紋平の義弟で、紋平と共に畑野活版所を経営する。
※詳しくは→本間慶四郎
★本間航介
「エスライフ」2008年7・8月号

★本間高琢(精太郎)
→本間周敬
★本間幸太郎

『北海道立志編. 第1巻~第3巻』(北海道図書出版 明36-37明治36年~37年6月刊)


『北海人物評論. 第1編』(吉田南総 (重貞) 著 出版:北海人物評論社 明34年9月刊)

★本間幸太郎
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。
しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。
当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。
印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎
★本間呉雲
畑野御滝(松ヶ崎線入口付近)

★本間伍策
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★本間小三郎→犬落小三郎
★本間小十郎
明治期の料理屋「こうや」主人。
★本間五丈原
新穂村史 s51年

『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊 「さかんな文芸熱」)より
大正時代になって、新町には文芸熱がさかんになった。文芸雑誌「白壁」「響」「潮光」「純芸術」など、つぎつぎと発行された。「白壁」の創刊されたのは、大正五年一一月十五日となっている。発行人ほ松井夕葉(源三)であるが、発行所の白壁社は夕町京吉(山本登か)の宅になっている。同人は朝比奈萩葉(義太郎)、本郷涙果(保雄)、山本陵村(堅太郎)のほかは匿名ばかりである。「海蒼ニ」とか「丘暮ニ」などの変った名前である。この仲間に、当時佐渡中学校の在学生も加わっていて、風紀問題をおこしたといわれる。そのころ自然主義文学がさかんで「赤裸々な人生」を表現する、悪い半面を体験する若い人たちであったのであろう。三号で廃刊になった。「響」は、大正九年十二月二〇日創刊。同人は真野郵便局貞の立花京二、本間芳水(鉄治)、佐々木酒水(高瀬)、野口萍花であるが、金子不泣、本間五丈原・後藤奥衛・山本修之助なども寄稿している。この雑誌は、活版刷でなく、石版刷である。そのころ仙台から小川一という人が新町へ来て石版業をやっていた。文字は立花が原紙に書いていた。これも第三号で廃刊。この第三号の表紙は、山本半之助の筆になるものであった。「潮光」は、大正十年年九月一五日創刊で、山本修之助が独力で発行した。これは、山本修之助を中心とした全国各地の文芸仲間から寄稿された。もちろん、旧制新潟高校にいた藤川忠治・長井一男、佐渡では近藤俊作・渡部秋雄・熊木啓作などがいた。つぎに出る「純芸術」の前身のようなもので、二号で廃刊となった。 大正十三年五月一日「純芸術」が山本修之助を中心に集ったグループにより創刊された。同人には金子不泣(畑野町)・本間林三(両津市)・藤川忠治(羽茂町)・庵原健(同)・石川弥一(旧吉井村)・駒形多郎(相川町)・近藤俊作(佐和田町)等であった。これは、文学だけでなく音楽会や絵の展覧会も催すという芸術運動であった。第五号(大正一四年八月一日)までつづき、のち「向日葵」と改題して第七号までつづいた。大正一五年七月二〇日であった。この「純芸術」の運動は、佐渡の文芸復興ともいわれ、かつてないはなやかな時代であった。昭和時代に入ると、プロレタリア文学がさかんになり、暗い時代となって、戦争突入の前触れを感じさせた。
『本間五丈原詩集』(詩・短歌・俳句 昭和34・本間五丈原詩集刊行会)
昭和16年に没した著者の詩歌を、十八年後に遺稿集としてまとめたもの。詩を主とし(三三七編)、短歌・俳句を併載する。明治41年から大正初年にかけて「秀才文壇」「文章世界」など、当時の投稿雑誌に発表されたものを含む。三木露風が序文を寄せており、「五丈原は、私の遺した投書家の中で、すぐれた詩を書いてゐた。(略)その詩は、真面目な、考へぶかいところから、書かれてゐた。(略)五丈原は、地方詩人の中で、出色の人である。詩の出来ばえがよいことゝ、箇性が、はっきり出ている」と書いている。ほとんど全部の詩が佐渡に取材されている。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
※中川杏果「変人で母の作ったもの以外は食べず、外に一切出ず中学にも行かなかった。「文章世界」と「秀才文壇」に投稿しいつも五番以内で有名だった」
「土田杏村とその時代」(編著者・上木敏郎)より
「杏村」号の由来
杏村は三人兄弟の末弟であ り、長兄は英治、次兄 (麦僊) の実名は金二、杏村のそれは茂と書いてつとむと読む。「何れも簡単の字である。父が政客であったから、政界へ立つ時には、むずかしい字の名前では選挙に不利だと思ってそうした簡単な字にしたとよく話 したのを記憶している。」 と杏村は書いている。杏村という号について は「佐渡の実家には母屋の傍に杏の木が五、六本あって、その木陰は幼い頃の毎日の遊び場所で あった。郷里を思うと、いつも藁葺きの我が家とともに、この杏の梢が目に浮かぶ。その陰に濯ぎ物をしている母と、本を持ち出して木の根元に尻をおろしている小さい自分の姿が、なによりもなつかしい。そんな感傷的な気持ちから杏村と名付けた」と語ったそうであ る。晩年、死の病床に、 この杏の木陰の物語をして、夫人を泣かせたとい われる。杏村の小学校以来の親友、中川杏果(実名は覚治) 氏の語るところによると、 本間徳太郎、中川覚治、 土田茂の三人は、学年は一年ずつちがっていたが、ともに文学を愛好する仲良しで、最年長は本間徳太郎で五丈原と号し、高等小学二年の頃、「秀才文壇」の秀逸科に入選した。 このことは、一年下の中川覚治や、さらにその二級下の土田茂にも大きな 刺戟となったという。「土 田杏村その他二、三名が 五丈原の処へ集まって、「号をこしらえようではないか」、ということにな り、杏村が先ず、杏という字が良いから杏村とすると言い出した。すると五丈原は、「中川、お前は 杏果とせよ」といった。 大正四年、九州大学病院で、長塚節の死に水をとった文学愛好の医学士 (のち北京医科大学総長) 河原治作氏も、新穂村の出身で、雅号を 杏子と称した。杏村、杏果、杏子の三人をさして「新穂村の三杏」というそう である。
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)







『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
詩人。明治二十二年二月二十九日、佐渡郡新穂村新穂の徳平の長男として生まれた。本名は徳太郎、父に早く死別、母と弟の三人暮しであった。弟清も文学を愛し白葩または鳥海亘の号ですぐれた短歌を残したが大正十一年五月十三日、三十才でなくなった。五丈原は明治四十二年、二十才のころ「黙の花」という佐渡ではじめての短歌の同人雑誌を発行した。文章世界の詩壇、三木霹風選に毎号、天、地、人の上位に選ばれた。はじめ短歌を、晩年は俳句を作っている。小学校を出ただけで長く新穂郵便局に働き、晩年は新穂村役場に勤めた。昭和十六年三月二十三日に五十二才でなくなった。同三十四年九月十五日、後藤奥衛らによって「本間五文原詩集」が出版された。(佐渡の百年)
『新穂村史』(昭和51年刊)より
短歌、俳句の外に「長詩」が登場して明治、大正初めの文壇を賑わした。新穂の本間五丈原(一八八九-一九四一)は詩壇の雄として全国的に有名で、その作品は当時の「文章世界」「秀才文壇」等権威ある文芸月刊誌に、常に優秀作として当選していた。昭和三十四年(一九五九)に「本間五丈原詩集」が同刊行会から出版されているが、前記文芸誌に登載された優秀作品の少ないのは残念である。短歌、俳句も得意とした。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間五丈原 11 鑑賞 佐渡のうた (11) 本間五丈原・高野喜久雄・安水稔和 山本修巳
「投書詩人・五丈原」(「佐渡の百年」)
「大正の文芸運動」(「佐渡の百年」)
「惣之助と鬼太鼓」(「佐渡の百年」)
★本間吾三
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)
★本間琴美
両津高校時代の2000年度(H12)、全国競書大会 準特選
★本間権一
元新穂役場

新穂村

「新穂村歴代村長」
・初-2池野最平・3 河野勝蔵・4-5鳥井嘉蔵・6本間一松・7河原作一・8河野治一・9臼杵伊之吉・10河原作一再選・11荷上與六・12河原作一再々選・13藍原小一郎・14和田松五郎・15佐藤徹次郎・16藍原小一郎再選・17堀口四良次・18斉藤豊・19後藤億衛・20-22本間市郎左衛門・23-24竹中錬英・25河原治一 ・26-27山本三郎・28-30菊池一春・31-32本間權市
★本間権左衛門
本間権左衛門(沢根本間家)墓 金井中興 興源院

★本間権吉→本間可民(大州)
★本間権太
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間権太 76 本間権太翁と御詠歌の普及 中塚宗一
★本間権平

明治37年10月30日死亡。河原田町諏訪町の初代戸長(明治5年)、河原田町長。
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
★本間権平
『新穂村史』(昭和51年)より
新穂大野の野方盛亟の本間権平はフジミ(藤箕)をつくっていた。この人は真野町の白木喜太郎家の生れで、実家すじからの技術を生かしたものである。
★本間権兵衛
河原田専念寺

『札幌紳士録』(鈴木源十郎, 戸石北陽 編 札幌紳士録編纂会 明治45年5月刊)


★本間国蔵
『両津市要覧(昭和33年)』より

★本間國太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★本間邦彦
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間邦彦 116 本間邦彦氏を悼む 山本修巳
★本間熊次郎
『小樽区外七郡案内』(山崎鉱蔵著 小樽区外七郡案内発行所 明42年9月刊)

★本間久美子
両津高校時代の1993年度(H5)2月、新潟県高等学校総合文化祭文芸部門(『高校文芸』第8号)短歌 奨励賞
1995年度(H7)2月、新潟県高等学校総合文化祭文芸部門(『高校文芸』第10号)短歌 奨励賞
★本間庫次

畑野村長
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p408
★本間家
本間家(年表・天正の変等)
https://sado-koi.ebb.jp/
本間家(河原田城)墓(本田寺)





本田寺


※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間家
(山中観一著)
1 佐渡本間物語 (1) -源氏十六流と順徳天皇- 2 佐渡本間物語 (2)-東一条院立子と彦成親王の生涯- 3 佐渡本間物語 (3)-坂東平八郎と武蔵七党-山中観一 4 佐渡本間物語 (4) -宇多源氏の佐々木秀義と盛綱- 5 佐渡本間物語 (5) -天暦の治世と安和の変- 6 佐渡本間物語 (6) -始祖本間能忠と宗忠の入国- 7 佐渡本間物語 (7) -順徳上皇の御遷幸と頼綱の入国- 8 佐渡本間物語 (8) -後醍醐天皇と日野資朝並に本間山城入道- 9 佐渡本間物語 (9) -阿新丸の仇討と山伏大膳坊- 10 佐渡本間物語 (10) -新田義貞の挙兵と極楽寺坂切通し 11 佐渡本間物語 (11) -山城入道泰宣の奮戦と自刃並にその出生- 12 佐渡本間物語 (12) -赤坂城における資貞・資忠父子討死 13 佐渡本間物語 (13) -天下無双・孫四郎資氏のこと- 14 佐渡本間物語 (14) -越後長尾時代の幕開け- 15 佐渡本間物語 (15) -長尾為景と羽茂の本間高信との関係- 16 佐渡本間物語 (16) -「御館の乱」から「第一次佐渡合戦」への展開- 17 佐渡本間物語 (17) -時直の築城・その規模と城名- 18 佐渡本間物語 (18) -天正五年佐渡一揆と本間孫太郎の奮戦- 19 佐渡本間物語 (19)-羽茂高貞兄弟の奇禍と藤田の出陣 20 佐渡の民話考 (13) 雨乞の話(7) 杉池・乙羽池・山居の池 21 佐渡本間物語 (21) -偽名馬事件と上杉景勝の越後統一 22 佐渡本間物語 (22) -景勝の密使・越軍沢根入城の事- 23 佐渡本間物語 (23) -第二次佐渡合戦・上杉勢河原田城を囲む- 24 佐渡本間物語 (24) -鴨摺の合戦と河原田の落城- 25 佐渡本間物語 (25) -高応・徳兵衛の真光寺落ちと雑太の降伏- 26 佐渡本間物語 (26)-西方の合戦と羽茂の落城-山中観一 28 佐渡本間物語 (28)-会津の風土と群馬県赤堀村の本間- 29 佐渡本間物語 (29) -群馬県赤堀村探訪記- 30 佐渡本間物語 (30) -上州念流道道場本間練武館の明暗- 31 佐渡本間物語 (31)-赤堀に見る栄光の軌跡とその末路 32 佐渡本間物語 (32) -高滋の子孫と水戸本間の系譜- 33 佐渡本間物語 (最終回)-医師文人としての本間の一系と終稿に憶うこと- 62 「阿修羅」幻想 -酒井友二氏の歌集に寄せて-
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=24
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=15
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=20
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=28
★本間家(羽茂)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=23
★本間恵市
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p393
★本間慶雲(伊八郎)
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報 浅香寛編)

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)

★本間敬吉

畑野小7代目校長
★本間啓五
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「61号」(令和2年4月)・特別企画:亡きジェンキンスさんへの思い ※本間啓五・高野宏一郎
★本間慶光
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★本間啓幸
両津七夕祭りの唄の作詞者
http://sado2298.blog.fc2.com/blog-entry-757.html
★本間惠司
「エスライフ」2018年6・7月号


★本間慶四郎(ほんまけいしろう)
この辺に居住した



【生没】(生年不詳)ー一九二五 畑野の旧家・本間藤右衛門六代目の弟である。実際には、五代目の正妻にも後妻にも子供がなく、養子を迎えてあとを継がせたが、のちに妾腹で慶四郎が生れたので、後妻の子として引取り、分家させた。慶四郎の家は、畑本郷の「檀平屋敷」というところにあった。現Aコープ自動車修理工場裏手の、電報電話局の位置である。明治十六年(一八八三)に、金沢村本屋敷の僧本荘了寛が、不偏不党をたてまえとしてはじめた月刊誌「北溟雑誌」が、印刷所を金沢活版所から鍛冶町の斎藤出版所に移すに及んで、店主の斎藤長三の政治関与で、中立性が保てなくなり、了寛は同二十六年七月を最後に、本間慶四郎に譲渡した。慶四郎はその頃、聳雲堂の名で「金北山」という学術評論誌を、親戚の本間紋平と共同で開業した、畑野活版所から発行していた。慶四郎には商いの生業があったため、北溟雑誌は編集人として雇った高野周蔵に任せていたところ、その高野との間に問題が生じて、同二十九年三月で廃刊にしてしまった。翌三十年に、相川で森知幾が「佐渡新聞」の刊行を企てたとき、慶四郎はそれに共鳴し、所有していた印刷機を提供して自ら社長となり、同年九月三日に同紙は発刊した。慶四郎が佐渡新聞に傾倒したのは、北溟雑誌の継続延長の意味もあったが、政治的に森知幾の思想に近いものを感じ、革新系の改進党の機関紙とする意図があったためである。しかし、ここでも主筆の伊達喜太郎が自由党支持の立場をとるようになって、慶四郎との間に確執を生じ永続しなかった。『佐渡自治国』(森幾著)の森知幾年譜によると、明治三十五年六月二十四日の項に、「佐渡新聞は、本間慶四郎と知幾の共同所有であったが、知幾が買い取る。ただし、本間を無報酬の社長とする」とある。佐渡新聞は、大正期にはいると山本悌二郎の周旋で、山本策平が主筆となるなど、政友会の機関紙のようになっていったが、慶四郎も自ら政治活動に加わり、明治三十五年の畑野村会では、一級選出議員をつとめるなどした。しかし明治三十四年九月十九日に、同社が発行した『佐渡名勝』(岩木擴著)の広告では、佐渡新聞は「政党政社の提灯を持たず終始独立独歩なり」、「不偏不党にして─」などのスローガンを掲げていた。慶四郎は大正十四年三月二十日死去。妻ナミは終戦前に死に、子のないまま一代きりで家は絶えた。
【関連】佐渡新聞(さどしんぶん) 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※佐渡新聞(さどしんぶん)
明治三十年(一八九七)九月三日、森知幾によって創刊された佐渡で最初の本格的新聞。当初は隔日刊であったが、同三十五年から日刊となった。発行兼編輯人が友部周次郎、印刷人細野啓蔵、主筆には「新潟新聞」の記者をしていた大竹忠次郎を迎えて発足したが、実際には主幹の森知幾が編集と発行に当たった。発行所は当初羽田町にあったが、のち下戸炭屋浜町へ移転した。以前から島民による新聞の発行を企図していた知幾は、畑野町の本間慶四郎や「江差新聞」の記者をしていた伊達喜太郎らと相談して六月発刊の予定にしていたが、本間と伊達の間で支持政党の対立が起こって、三か月近く遅れた。知幾は、人民の自由・平等と独立をかかげて地方分権を主張し、官尊民卑の姿勢が強かった当時の吉屋雄一郡長と激しく対立、その姿勢を糾弾する論陣を張った。そのため官吏侮辱罪で六か月間の拘留(のち無罪判決)となったが、この間一時退社していた伊達喜太郎が新聞社を支えた。同紙はこうした弾圧に屈することなく、廃娼論や被差別部落の解放、佐渡鉱山のストライキ解決のための論陣を張り、佐渡の近代化と産業の振興に大きく貢献し、最盛期には発行部数が二○○○部にも達した。大正三年(一九一四)、社主の知幾が没すると、一時山本悌二郎に経営が託されたが、その後知幾の子供たちが受け継ぎ、昭和十五年(一九四○)九月に新聞の整理統合によって廃刊となった。
【関連】森知幾(もりちき)・伊達喜太郎(だてきたろう)・本間慶四郎(ほんまけいしろう) 【参考文献】岩木拡『相川町誌』、森 幾『森知幾ー地方自治・分権の先駆』 【執筆者】石瀬佳弘
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「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
畑本郷村の人。明治二十六年八月、聳雲堂の名義で「金北山」という学術評論誌を週刊で発行した。
これは同年七月一日に、畑野活版所が開業したことによるもので、同印刷所は同月二十五日以後、「北溟雑誌」の印刷を始めたのに平行してなされたものである。北溟雑誌は、その十年前に金沢村本屋敷の得勝寺住僧・本荘了寛先によって始められた月刊誌で、不偏不党をたてまえとし、無所属の医師で畑野の生田裕を編集人とし、金沢活版所で印刷していた。しかしこの活版所の斎藤長三は早くから政治活動に参加しており、やがて鍛冶町で斎藤活版印刷所を開いて、「佐渡史林」など郷土史関係の出版を重ねていたが、その後もいっそう政党色をつよくした。この斎藤長三にみるように、北溟雑誌も中立性を保てなくなり、本荘了寛はついに北溟社を手離すことにし、それを慶四郎が譲り受けたものである。そのときの週刊誌金北山は、当時印刷した現物が入手できないので、どのような内容と規模の雑誌であったのかを伝えることができない。本荘了寛が、明治二十六年七月号を最後に北溟社をそっくり慶四郎に譲り渡すについては、つぎのような事情があった。本間慶四郎は、畑野で比べもののない程の資産家、藤右衛門六代目の弟である。しかし母は水上善吉の娘おくにで妾腹であったので、檀平屋敷(現畑野電報電話局のところ)を兄から貰って分家した。そして親戚すじの本間紋平と仲間で、イヨ式活版機を購入して雑誌の刊行を企てた。この慶四郎らの動勢が、本荘了寛に伝わって、その時に政治的な問題を抱えて困っていた了寛に譲渡を決意させたものである。北溟雑誌は、明治二十六年八月の第六十九号から、畑本郷七十八番戸(現アポロ理容所のところ)で印刷された。編集人はひき続き生田医師であった。ところがまもなく、同二十八年に、生田が急死するという出来事に出会い雑誌は危機を迎えた。当座は慶四郎が発行に関することまで万事担当したが、慶四郎はこの仕事の他にも商いをやっており、専業できないので、真野村豊田の高野周蔵にその後の編集を任せた。しかしその高野と慶四郎との間に何かの不都合が起り、明治二十九年三月の第百二十号かぎりで、北溟雑誌は予告も弁明もなく、突如として打ち切り廃刊となった。慶四郎は、その直後に相川で森知幾が企画していた「佐渡新聞」の協力者となり、社主となって印刷機を提供した。日刊佐渡新聞が発刊したのは明治三十年九月三日である。慶四郎が佐渡新聞にこれほど傾倒したのは、北溟雑誌を延長することのほかに、そのころ自らも傾いていた政治的関心にあった。慶四郎はこの新聞を革新系の改進党の機関紙にすることをもくろんでいた。しかし主筆の伊達善太郎(羽茂町犬落の出身)は自由党支持者であり、創刊号に板垣退助の祝詞を掲載することで慶四郎と対立し、波乱の多いスタートとなった。慶四郎の思想的な意図は、社会主義着で堺利彦・幸徳秋水・内村鑑三らと親交のあった森知幾によって代弁され、実践される機会があったのにかかわらず、ここでも慶四郎は突如手を引いてしまった。その理由はわかっていない。またその後の慶四郎の行動も不明である。慶四郎の妻ナミは、榎田の本間長次郎家の次女であったが、慶四郎は大正十四年三月二十日に死去、ナミは太平洋戦争末期に死んで子のないま一代きりで家は絶えた。慶四郎と共同経営者であった本間紋平は、慶四郎が手を引いた後も活版印刷の事業は続けていた。畑野活版所は、明治二十八年一月に紋平宅に移されていた。大正四年の畑野村役場資料でも、紋平は印刷業と記されている。その後紋平は一時北海道に移住するが、そのときは以前から印刷の仕事を手伝っていた義弟の本間幸助がそれをひき継いだ。その頃印刷所は、中何代の山手側にあったが、やがて中町に近い西町に移り、幸助の転業で現経営者竹谷氏に譲られた。
「佐渡の日刊新聞創刊」(「佐渡の百年」)
「生きたお経をよんだ了寛」(「佐渡の百年」)
➡本間藤右衛門
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数54・62
★本間啓輔
佐渡高校時代の平成4.5.31-6、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)4×100mR(本間啓輔・志和正隆・戸田貴夫・高岡豊秀)6位
平成4.6.19~21、陸上競技北信越大会(福井市)4×400mR出場
★本間慶蔵
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
畑野中町の人。本間喜十郎家の先々代で写真を業としており、はじめ両津で開業し、のちに畑野で写真館を開いた。
★本間慶太郎
畑野西町に残る白壁の蔵屋敷


『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
畑野村畑野、佐渡電灯社長 ・大1、第十三回衆議院議員選挙[六年四月二十日]
・幼児の時、資産家であった小樽本間家の門前に捨てられていたと言う。
➡本間藤右衛門
★本間啓太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★本間敬太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
石田村 ・明2、越佐同盟會の創立[二十二年三月二十一日]
★本間賢一
『両津市要覧(昭和33年)』より

★本間元一
住吉神社

★本間健吉
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
明治四十五年から畑野での学校医を委嘱された医師。
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

※新穂の眼科医本間芳太郎の弟。金井中興 の堀治部(芳太郎次男)は甥である。
★本間玄契

『北海道立志編. 第1巻~第3巻』(北海道図書出版 明36-37明治36年~37年6月刊)

『北海道人物誌. 第1編~第2編』(明治27年3月刊)


★本間健一郎
佐渡の植物学者、高校教諭。

・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p452
★本間源右衛門
『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)

★本間賢吉
『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年)より
北見角太郎(同窓会長、医博、佐和田町)山本成之助(県相川保健所長、同、真野町)らは大正十二年の卒業名簿にのっている。このクラスには医者が多く出た。本間賢吉(医博、両津市)、榎蓮(内科医、同)や北見は、島内でいまも開業している。後藤衛門(内科医、新穂村)本間為次(外科医、新穂病院長)も、死亡したが同級だった。ほかに伊藤栄一(内科医、医博、埼玉県)堀治部(耳鼻科医、同、東京都新宿区)武井悌(内科医、羽茂町)渡辺五郎(耳鼻科医、両津市)らがいる。たいてい、十一年に四年で修了して進学した人たちである。北見によると「医者だけで十二人出た。佐中の歴史で、あとにも先にも、例がなかった」という。
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p407・408
★本間源厚(げんこう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
本間詮忠の法名と思われる、永享九年(一四三七年)三月六日にその所領、真野町大字金丸保半分、畑野町三宮保四分の一、佐和田町長木保三分の一、金井村中興保八分の一、二見大浦郷、小木宿禰宜浦等を淳泰(源厚の子であろう)にゆずった。(新潟県史)
★本間源三郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国賀茂郡吉井の人で上杉時代の地頭久知の旗本である。季休といった。吉住、鷲崎の内、自瀬、北五十里、坊ケ浦、馬首、松ケ崎、小浦、見立、三拾弐貫の内、武井の内、黒姫、舟代、虫崎を領した。(佐島遺事)
★本間賢治
「 エスライフ」2018年4・5月号


★本間賢治
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
新興キネマ営業部長。明治二十二年二月二日、佐渡郡新穂村で生まれた。四十五年に早稲田大学法学部独法科を卒業した。天然色活動写真会社に入り、ついで国際活映写真会社営業部長となった。さらに日活に転じ、調査課勤務より営業部長、昭和七年に新興キネマ営業部長となった。(越佐傑人譜)
★本間憲司
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間憲司 115 温故知新 山本修之助先生と建学の精神-真野中学校の校歌を考える-
★本間健治
相川小校長

★本間碩丈
『新潟県官民肖像録』(明治41年)

★本間源四郎
→小黒ヨシ参照
★本間健治
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数103
★本間健太郎
佐渡高校時代の平成5.5.28~30、軟式庭球県高校結合体育大会(上越市)男子団体3位、男子個人本間哲・本間健太郎組6位
平成5.6.18~20、軟式庭球北信越大会(上越市)男子団体ベスト8、男子個人本間・本間組ベスト8
平成5.8.1~3、軟式庭球全国高校総合体育大会(黒磯市)本間・本間組出場 2回戦進出
★本間建太郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★本間健裕

佐渡市出身の裁判官(40期)。生年月日 S33.7.19、早稲田大卒。
H31.4.1 ~ 盛岡地裁所長 H30.7.4 ~ H31.3.31 東京簡裁司掌裁判官 H29.4.1 ~ H30.7.3 東京地裁25民部総括 H27.6.29 ~ H29.3.31 東京地裁7民部総括 H27.4.1 ~ H27.6.28 東京高裁8民判事 H23.4.1 ~ H27.3.31 札幌地裁2民部総括 H20.4.1 ~ H23.3.31 東京地裁2民判事 H17.3.22 ~ H20.3.31 司研民裁教官 H14.4.1 ~ H17.3.21 福島地家裁判事 H11.4.1 ~ H14.3.31 東京地裁判事
H10.4.12 ~ H11.3.31 山形地家裁判事 H8.4.1 ~ H10.4.11 山形家地裁判事補 H5.4.1 ~ H8.3.31 東京地裁判事補 H4.4.1 ~ H5.3.31 名古屋地家裁判事補 H2.4.1 ~ H4.3.31 名古屋家裁判事補 S63.4.12 ~ H2.3.31 千葉地裁判事補
★本間吾一郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)


★本間康一
県立佐渡女子高等学校24代目校長(平成6.4.1~8.3.31)。
(※校名は以下のように変遷している。旧県立金澤高等学校・旧佐渡中央高等学校・旧佐渡高等女学校・旧佐渡実科女学校)
★本間浩一

★本間弘学
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
小倉村の人。文化十二年に四国八八ケ所霊場の土砂を三宮村の中川如月、小比叡村の策善らと持帰り各村村へ配置して佐渡遍路をはじめた。
★本間孝才
令和5年(so23)5月没、90歳。真野金丸在。

★本間耕作
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より


松崎丸は耕作の長男耕一郎が継ぎ、その子節郎へと続いている。
★本間幸作
『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)

★本間鑛山
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡畑野の人で通称を藤平という。日尾荊山に学び、藤堂和泉守に仕え後帰国した。嘉永(一八四八年-五三年)ころのひとであろうか。(佐渡人名辞書)
★本間孝山
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★本間(旧姓 高橋)幸二
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
加茂の人、新潟師範時代の昭和13年、近県中等学校陸上競技大会で円盤投1位。昭和15年、全国中等学校陸上選手権大会でハンマー投1位(43m66)。その後、本間幸二は大会運営や陸上競技の指導を通じて県陸協の進展に寄与された。両津夷でおけさ人形を製作販売する「みさお」人形店を経営した。子供に私の先輩と後輩の女性がいたがとても上品な方だったことを覚えている。高橋ご夫妻もとても上品な方で、幸二氏が全国的に知られたスポーツマンであったとは当時は想像もできなかった、兄は版画家の高橋信一である。
高橋二郎について
★本間孝二
『両津市要覧(昭和33年)』より

★本間浩二
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
吉岡の鬼太鼓ほ昭和五一年四月一五日の祭りから始まった。鬼太鼓をやってみようといいだしたのもこの年になってからだから、あわただしい準備とけいこで始めたことになる。
鬼太鼓は祭りを賑かにするためのものとだけ考えられがちだが、吉岡の場合はそれだけではなかりた。若林幹夫・川野名庄五・本間浩二・高野周治等の若者たちが集まっての世間話の中で、この頃は同じ村の青年どうしでもお互に知らぬ顔で行き過ぎる者が多くなったと、連帯感の不足を嘆く話が出た。昔のような曖い心のつながりを作る道はあるまいか、といろいろな案が出て、鬼太鼓はどうだろうということになり、多勢の青年に呼びかけてみることになった。
そのためには青年層にも壮年層にも信用のある人からまとめ役になってもらう必要があるので、本間作に一切をお願いすることにした。本間からの呼びかけに応じて公民館へ集まった青年は二〇名を超えた。
いよいよ鬼太鼓組を作ることには決まったが、太鼓はお官から借るにしても面も衣裳もない。それで当分はよその村の使っていないものを借りることにした。鬼太鼓を見たことほ度々あっても、いざ始めるとなると見よう見まねだけではできるはずもなく、浜中の鬼太鼓の練習を見に行ったりした。その内に伊藤藤吉家の久が後山から来た者で鬼太鼓に詳しいことが分かり、伊藤を師匠にして、借り面借り着で吉岡の鬼太鼓は始まったのである。
やがて面を新町の島倉伊三武にほってもらうことにした。吉岡の小松の親戚でしかも器用で名人肌の人だと聞えていたからである。自・赤・黒・青の四つの鬼面ができ、それから二・三年して豆まき用のヒヨットコ面ができた。白っぽいのと肌色がかったのと二面である。獅子がなくてさびしいから豆まきをつけようということになったのだ。豆まきはたいてい黒面だが、それでは少し怖い感じがするのでこの色にしたのである。豆まきの黒面は三番曳の黒式(こくしき)の面をかたどったものであろうから、ここのは新しい解釈によって作られたことになる。結局、面はすべて島倉の寄贈となった。
借り物の鬼太鼓は二年ほど続いた。今は「書岡鬼太鼓有志会」のもので、練習はだいたい祭り前一か月、総社神社の拝殿がけいこ場になる。
★本間光順
真野金丸 種徳院住職


★本間鋼次郎
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報 浅香寛編)

★本間幸助
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
畑野の人。本間紋平の義弟で、紋平と共に畑野活版所を経営する。
※詳しくは→本間慶四郎
★本間航介
「エスライフ」2008年7・8月号


★本間高琢(精太郎)
→本間周敬
★本間幸太郎

『北海道立志編. 第1巻~第3巻』(北海道図書出版 明36-37明治36年~37年6月刊)


『北海人物評論. 第1編』(吉田南総 (重貞) 著 出版:北海人物評論社 明34年9月刊)

★本間幸太郎
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。
しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。
当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。
印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎
★本間呉雲
畑野御滝(松ヶ崎線入口付近)

★本間伍策
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★本間小三郎→犬落小三郎
★本間小十郎
明治期の料理屋「こうや」主人。
★本間五丈原
新穂村史 s51年

『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊 「さかんな文芸熱」)より
大正時代になって、新町には文芸熱がさかんになった。文芸雑誌「白壁」「響」「潮光」「純芸術」など、つぎつぎと発行された。「白壁」の創刊されたのは、大正五年一一月十五日となっている。発行人ほ松井夕葉(源三)であるが、発行所の白壁社は夕町京吉(山本登か)の宅になっている。同人は朝比奈萩葉(義太郎)、本郷涙果(保雄)、山本陵村(堅太郎)のほかは匿名ばかりである。「海蒼ニ」とか「丘暮ニ」などの変った名前である。この仲間に、当時佐渡中学校の在学生も加わっていて、風紀問題をおこしたといわれる。そのころ自然主義文学がさかんで「赤裸々な人生」を表現する、悪い半面を体験する若い人たちであったのであろう。三号で廃刊になった。「響」は、大正九年十二月二〇日創刊。同人は真野郵便局貞の立花京二、本間芳水(鉄治)、佐々木酒水(高瀬)、野口萍花であるが、金子不泣、本間五丈原・後藤奥衛・山本修之助なども寄稿している。この雑誌は、活版刷でなく、石版刷である。そのころ仙台から小川一という人が新町へ来て石版業をやっていた。文字は立花が原紙に書いていた。これも第三号で廃刊。この第三号の表紙は、山本半之助の筆になるものであった。「潮光」は、大正十年年九月一五日創刊で、山本修之助が独力で発行した。これは、山本修之助を中心とした全国各地の文芸仲間から寄稿された。もちろん、旧制新潟高校にいた藤川忠治・長井一男、佐渡では近藤俊作・渡部秋雄・熊木啓作などがいた。つぎに出る「純芸術」の前身のようなもので、二号で廃刊となった。 大正十三年五月一日「純芸術」が山本修之助を中心に集ったグループにより創刊された。同人には金子不泣(畑野町)・本間林三(両津市)・藤川忠治(羽茂町)・庵原健(同)・石川弥一(旧吉井村)・駒形多郎(相川町)・近藤俊作(佐和田町)等であった。これは、文学だけでなく音楽会や絵の展覧会も催すという芸術運動であった。第五号(大正一四年八月一日)までつづき、のち「向日葵」と改題して第七号までつづいた。大正一五年七月二〇日であった。この「純芸術」の運動は、佐渡の文芸復興ともいわれ、かつてないはなやかな時代であった。昭和時代に入ると、プロレタリア文学がさかんになり、暗い時代となって、戦争突入の前触れを感じさせた。
『本間五丈原詩集』(詩・短歌・俳句 昭和34・本間五丈原詩集刊行会)
昭和16年に没した著者の詩歌を、十八年後に遺稿集としてまとめたもの。詩を主とし(三三七編)、短歌・俳句を併載する。明治41年から大正初年にかけて「秀才文壇」「文章世界」など、当時の投稿雑誌に発表されたものを含む。三木露風が序文を寄せており、「五丈原は、私の遺した投書家の中で、すぐれた詩を書いてゐた。(略)その詩は、真面目な、考へぶかいところから、書かれてゐた。(略)五丈原は、地方詩人の中で、出色の人である。詩の出来ばえがよいことゝ、箇性が、はっきり出ている」と書いている。ほとんど全部の詩が佐渡に取材されている。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
※中川杏果「変人で母の作ったもの以外は食べず、外に一切出ず中学にも行かなかった。「文章世界」と「秀才文壇」に投稿しいつも五番以内で有名だった」
「土田杏村とその時代」(編著者・上木敏郎)より
「杏村」号の由来
杏村は三人兄弟の末弟であ り、長兄は英治、次兄 (麦僊) の実名は金二、杏村のそれは茂と書いてつとむと読む。「何れも簡単の字である。父が政客であったから、政界へ立つ時には、むずかしい字の名前では選挙に不利だと思ってそうした簡単な字にしたとよく話 したのを記憶している。」 と杏村は書いている。杏村という号について は「佐渡の実家には母屋の傍に杏の木が五、六本あって、その木陰は幼い頃の毎日の遊び場所で あった。郷里を思うと、いつも藁葺きの我が家とともに、この杏の梢が目に浮かぶ。その陰に濯ぎ物をしている母と、本を持ち出して木の根元に尻をおろしている小さい自分の姿が、なによりもなつかしい。そんな感傷的な気持ちから杏村と名付けた」と語ったそうであ る。晩年、死の病床に、 この杏の木陰の物語をして、夫人を泣かせたとい われる。杏村の小学校以来の親友、中川杏果(実名は覚治) 氏の語るところによると、 本間徳太郎、中川覚治、 土田茂の三人は、学年は一年ずつちがっていたが、ともに文学を愛好する仲良しで、最年長は本間徳太郎で五丈原と号し、高等小学二年の頃、「秀才文壇」の秀逸科に入選した。 このことは、一年下の中川覚治や、さらにその二級下の土田茂にも大きな 刺戟となったという。「土 田杏村その他二、三名が 五丈原の処へ集まって、「号をこしらえようではないか」、ということにな り、杏村が先ず、杏という字が良いから杏村とすると言い出した。すると五丈原は、「中川、お前は 杏果とせよ」といった。 大正四年、九州大学病院で、長塚節の死に水をとった文学愛好の医学士 (のち北京医科大学総長) 河原治作氏も、新穂村の出身で、雅号を 杏子と称した。杏村、杏果、杏子の三人をさして「新穂村の三杏」というそう である。
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)







『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
詩人。明治二十二年二月二十九日、佐渡郡新穂村新穂の徳平の長男として生まれた。本名は徳太郎、父に早く死別、母と弟の三人暮しであった。弟清も文学を愛し白葩または鳥海亘の号ですぐれた短歌を残したが大正十一年五月十三日、三十才でなくなった。五丈原は明治四十二年、二十才のころ「黙の花」という佐渡ではじめての短歌の同人雑誌を発行した。文章世界の詩壇、三木霹風選に毎号、天、地、人の上位に選ばれた。はじめ短歌を、晩年は俳句を作っている。小学校を出ただけで長く新穂郵便局に働き、晩年は新穂村役場に勤めた。昭和十六年三月二十三日に五十二才でなくなった。同三十四年九月十五日、後藤奥衛らによって「本間五文原詩集」が出版された。(佐渡の百年)
『新穂村史』(昭和51年刊)より
短歌、俳句の外に「長詩」が登場して明治、大正初めの文壇を賑わした。新穂の本間五丈原(一八八九-一九四一)は詩壇の雄として全国的に有名で、その作品は当時の「文章世界」「秀才文壇」等権威ある文芸月刊誌に、常に優秀作として当選していた。昭和三十四年(一九五九)に「本間五丈原詩集」が同刊行会から出版されているが、前記文芸誌に登載された優秀作品の少ないのは残念である。短歌、俳句も得意とした。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間五丈原 11 鑑賞 佐渡のうた (11) 本間五丈原・高野喜久雄・安水稔和 山本修巳
「投書詩人・五丈原」(「佐渡の百年」)
「大正の文芸運動」(「佐渡の百年」)
「惣之助と鬼太鼓」(「佐渡の百年」)
★本間吾三
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)
★本間琴美
両津高校時代の2000年度(H12)、全国競書大会 準特選
★本間権一
元新穂役場


新穂村

「新穂村歴代村長」
・初-2池野最平・3 河野勝蔵・4-5鳥井嘉蔵・6本間一松・7河原作一・8河野治一・9臼杵伊之吉・10河原作一再選・11荷上與六・12河原作一再々選・13藍原小一郎・14和田松五郎・15佐藤徹次郎・16藍原小一郎再選・17堀口四良次・18斉藤豊・19後藤億衛・20-22本間市郎左衛門・23-24竹中錬英・25河原治一 ・26-27山本三郎・28-30菊池一春・31-32本間權市
★本間権左衛門
本間権左衛門(沢根本間家)墓 金井中興 興源院


★本間権吉→本間可民(大州)
★本間権太
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)本間権太 76 本間権太翁と御詠歌の普及 中塚宗一
★本間権平

明治37年10月30日死亡。河原田町諏訪町の初代戸長(明治5年)、河原田町長。
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
★本間権平
『新穂村史』(昭和51年)より
新穂大野の野方盛亟の本間権平はフジミ(藤箕)をつくっていた。この人は真野町の白木喜太郎家の生れで、実家すじからの技術を生かしたものである。
★本間権兵衛
河原田専念寺

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