2021-01-10
★渋沢栄一
「北斗星」(7月8日付)
2024年度から新1万円札の顔となる実業家の渋沢栄一は、新潟県産の「佐渡赤石」をこよなく愛した。透明感のある光沢と深い朱色が特徴の銘石だ。渋沢は1888(明治21)年に東京・日本橋兜町に居を構え、縁起担ぎで重さ450キロもある赤石を置いて経済繁栄を祈った。転居先にも運び、生涯手放さなかったという 一時は都内の料亭に引き取られたが、3年前に兜町の東京証券取引所ビルを所有する平和不動産(土本清幸社長)が譲り受けた。兜町に戻った石は同社のロビーで独特の存在感を放っている。人工的なロビー内に天然の石があるだけで、何とも言えない安らぎが感じられる 東証は2001年に株式会社化され、由利本荘市矢島町出身の故土田正顕(まさあき)さんが初代社長になった。その縁で矢島中学校の生徒はここ数年、修学旅行で兜町を訪れている 生徒はこの石に触れるのが恒例だ。「生徒には『渋沢のパワーを感じ、世界に羽ばたいて』とエールを送る」と土本社長。東証と矢島の縁を大切にするその心意気に胸を打たれた 平和不動産は天然素材の癒やし効果を生かして兜町の再開発を進める。先月は東証近くに矢島産秋田杉を使ったウッドデッキやベンチを設置。「木は香りも肌触りもいい。街に潤いをもたらす」(土本社長) コンクリート造りのビルが並ぶ大都市で杉製品は一服の清涼剤。秋田ブランドの発信につながる。癒やしの空間に「秋田」を売り込む余地はまだまだありそうだ。
★渋手村三右衛門
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))

★渋手村彦右衛門
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))

★渋谷秋守
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡小木の医家。通称を主計といい、本居太平に学んで和歌をよくした。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
★渋谷綾子
佐渡高校時代の平成4,全国高校生文章表現コンクール、意見・主張の部、課題「水」入選
★渋谷卯之吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★渋谷かえで
両津高校時代の1991年度(H3)12月、第6回全国高等学校文芸コンクール(全国高等学校文化連盟主催) 短歌部門 入選、 1993年度(H5)5月、第7回学生短歌・高校生の部(短歌新聞社『短歌現代』5月号)入選 2月、新潟県高等学校総合文化祭文芸部門(『高校文芸』第8号)短歌 奨励賞
★渋谷和子

★渋谷管蔵
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★渋谷佐吉
外海府村村長 五十浦

★渋谷真清(さねきよ)
「戦国佐渡国人名辞典」より
【しぶやさねきよ(15??~1589)】加茂郡加茂城主。通称十郎左衛門。夷、湊、加茂を領した。1589年、「加茂城の戦い」で長尾景勝勢の攻撃を受け滅亡した。
★渋谷真正(さねまさ)
「戦国佐渡国人名辞典」より
【しぶやさねまさ(15??~1589)】加茂郡歌代城主。通称四郎左衛門。歌代を領した。1589年、「歌代城の戦い」で長尾景勝勢と戦い滅亡した。
★渋谷三郎左衛門
羽黒大榮寺

「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
羽黒の人で、目黒町城主。「西光寺中興記」によると、渋谷は本間信濃守の旗下であったという。西光寺の西側にも館跡がある。これは渋谷の家老・金子弥七郎の居館で、弥七郎はのちに河原田に移って弥兵衛を名乗った。
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より



★渋谷修太

「ウイキペディア」より
実業家、株式会社「フラー」CEO。父が両津出身。
「2020-09-05 日経」
今年6月に東京から新潟にUターンしたフラー株式会社の渋谷修太代表取締役社長兼CEO
「23歳の若さで起業」
今年6月に東京から新潟にUターンしたフラー株式会社の渋谷修太代表取締役社長兼CEO。新潟県出身の起業家として、また、若きIT企業の経営者として、今最も注目される人物のひとりである。まず、新潟へ戻って来た理由を渋谷CEOに聞くと、「コロナが結果的に要因となった。非常事態宣言が出て以来、全社的にテレワークにした。そして、ズームなどでの電話会議が増えてアポイントが今まで1日4、5件だったのが、7,8件こなせるようになった」と話す。これまで東京にいた理由は取引先などの顧客が多く東京にいるからだった。しかし、コロナ禍で、どこにいてもアポイントがこなせるようになった今、東京にこだわる必然性がなくなったという。2017年に新潟支社を開設し、1か月に1回のペースで新潟に来ていたが、株式会社スノーピークの山井太会長や株式会社ハードオフコーポレーションの山本太郎社長からUターンを勧められたことも決め手となったという。もともと渋谷CEOの父親が佐渡出身で実家があり、幼少の頃は妙高市、小学生は南魚沼市、中学校は新潟市。中学を卒業して、ゲームを作りたかったという理由で、長岡高専に入学した。長岡高専では自分よりプログラミングが得意な人が周りにいた一方、渋谷CEOは寮生活の中で、みんなをまとめる役が多かった。18歳の頃、海外留学を考えていたこともあり、のちにライフネット生命保険株式会社を設立した岩瀬大輔氏の著書「ハーバードMBA留学記」を読み、感銘を受けたという。そこで、「高専の仲間を集めた会社を自分が作る」(渋谷CEO)と起業家になることを決意し、高専を卒業した後、経営を学べる筑波大学経営工学部に編入した。その後新卒で、ゲーム事業などを展開するグリー株式会社に入社。それまで自作のスマホアプリがヒットしたこともあり、2011年、23歳の若さで同社を起業した。渋谷CEOは「ある意味では、私は起業が一番リスクの低い選択だと思っている。自分で稼いでいける力があるのが一番強い。大企業が安心だとか、終身雇用もなくなっている今、誰が作ったかわからない会社に入るのは個人的には怖いと思う」と話す。
「起業家の育成にも注力」
新潟支社
新潟に帰ってきた理由の1つには、新潟の起業家の育成という面もある。新潟県では今、起業家を育てようとしているが、肝心の起業経験者がおらず、その意味で、渋谷社長は自分に何かできるのではないかと考えたという。「新潟は起業率が低いが、コロナ禍で地方回帰が進んでいる中、起業はどこでもできるので、ぜひ新潟で起業してもらいたい。起業はニッチな競争相手がいないところを狙えというのが教えなので、東京の渋谷で店をやるより、地方でやったほうがはるかにチャンスはあると思う」と渋谷CEOは話す。
例えば、「新発田モデル」と呼ばれるビジネスモデルがある。株式会社ハードオフコーポ―レーションが10万人ほどの新発田市で成功したモデルだからこそ、全国展開ができたということを言うものだが、その意味では地方は起業家にとってチャンスが大きいと言えるだろう。2018年には、同社初となる長岡花火を打ち上げた。長岡市は渋谷CEOが高専時代の5年間を過ごした地だ。最近では自らが代表理事となり、新潟ベンチャー協会を設立するなど新潟に拠点を移し、着々と足場を固めている。
「長岡花火公式アプリ」
その中で、新潟県のデジタル化のけん引役となりたいと話す渋谷CEO。そのためには、人材確保が課題だという。新潟県にはまだ、エンジニアやデザイナーが少ないため、新潟支社の社員のほとんどがUターン組だという。フォローワー約8500人のツイッターで新潟の魅力を発信するなど「新潟愛」が溢れる渋谷CEOは、30代前半で100人の社員を擁する会社の陣頭指揮をとる。新潟県在住の若手起業人として、今後も注目していきたい。
佐渡汽船と僕のエモい想い出
★渋谷十郎左衛門真清
『両津町史』(昭和44年刊)
「佐渡風土記」には、加茂には渋谷十郎左衛門真清という地頭が住んで、湊、夷、加茂を領知している、とある。
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より




★渋谷正太郎
草創期の佐渡中学英語教師。明治三十三年一月から同三十四年八月まで教鞭を執った。東京出身の渋谷は、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業したばかりで、流暢な発音で生徒を驚かせた。(「佐渡高等学校百年史」より)
★渋谷四郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大3、小作労働組合の會合[十三年二月七日]
★渋谷四郎左衛門直正
『加茂村誌』(昭和38年)

『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より



★渋谷四郎次
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、佐渡公政会の秋期総会[四年十月十六日]
★渋谷甚平
梅津の人。明治32年、馬首本間太郎八、和木石塚権平等と但馬牛加茂村内に導入し飼育した。
★渋谷助一
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」

・鷲崎の人、大正9年、内浦沿岸客船航路を開設。発動機船、栄徳丸
★渋谷政治
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
高田師範時代の大正14年、全国中等学校陸上競技大会(2部)で走高跳2位。同年、第2回明治神宮体育大会北陸予選会で三段跳3位。
★渋谷節子
両津高校時代のS37、17回岡山国体 ボート部女子ナックル7位 (奥野郁子、宮川テル子、菊池節子、
渋谷節子、杉山道子) 、 S38、山口国体 ボート部女子ナックル3位(渋谷節子、菊池節子、三田敏枝、杉山道子、伊東千寿)
★渋谷武基(川崎、秩父氏)
1142年(康治2年)佐渡に配流。
★渋谷忠右衛門
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★渋谷智彦
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大2、道路認定運動[九年四月一日]
★渋谷豊蔵
『加茂村誌』(昭和38年)


『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明4、進歩党の集会[四十一年四月二十日]
★渋谷直清(十郎左衛門直清)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡国賀茂那賀茂(両津市)の人で上杉時代の地頭である。十郎左衛門尉という。夷、賀茂を領していた。(佐島遺事)
・1290(正応年中)、加茂に住す。
★渋谷直茂
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡国賀茂郡梅津(両津市)の人で上杉時代の地頭である。半左衛門といった。梅津、玉川、和木、小松、歌見、平松を領した。(佐島遺事)
★渋谷直住
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡国賀茂郡羽黒の人で上杉時代の地頭である。三郎左衛門尉という。羽黒、目黒町、北五十里、小松の内、鷲崎の内、願、鵜島、真更川、玉川、椿の内を領した。(佐島遺事)
★渋谷直正
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡国賀茂郡歌代(両津市)の人で上杉時代の地頭である。四郎左衛門尉といった。歌代を領した。(佐島遺事)
★渋谷春菜

★渋谷半左衛門真茂
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より



★渋谷尚武(しぶやひさたけ)
(写真左より)
・Gene Shibuya ・2000年頃、メタリカのカーク・ハメットとMIに ・1990年、ローリングストーンズの日本での初ワールドツアー時に、ESPミュージカルアカデミーを訪問したギタリストのロン・ウッド氏と ・2011年1月、NAMM(the National Association of Music Merchant)から業界発展の功績を認められ表彰された ・ハリウッド・ブルバードにあるMIの校舎。緑の壁が特徴的だ


1937年(昭和12年)4月8日生まれ。両津市羽吉(羽黒神社近く)出身。加茂中ー両津高校(7回生 生物部部長)ー1961年同志社大学商学部卒業後、河合楽器製作所に入社。1967年に日本楽器製造(現ヤマハ)に転職。楽器販売会社フェルナンデスを経て、1975年に高級エレキギターの製造およびリペアのESPを設立。1983年に日本ギター製作学院を開校し、学校経営に参入。その後、日本創作音楽院、日本ピアノ調律師養成学院を開校。1987年に3つの学校を統合してESPミュージカルアカデミーと改称し、学校法人となる。1995年に渡米。特殊メイクの専門学校やダンス学校、日本語放送局UTBなどを次々と買収し、ハリウッドを拠点にエンターテインメントビジネスを展開中。
※弟の芳夫も同志社で学び、ESP社長を継ぐ。
(株式会社イー・エス・ピー(ESP Co.,Ltd.))
<会社概要>
業務内容:楽器製造・卸・小売・貿易、音楽・映像関連教育事業、出版、音楽ソフト制作・販売
代表取締役:渋谷尚武
従業員:300人(ESPグループ総社員数720人)
資本金:7500万円
年商:47億円(ESPグループ17社、総計171億円)
取引銀行:みずほ銀行高田馬場支店、三菱東京UFJ銀行高田馬場支店、りそな銀行早稲田支店、三井住友銀行高田馬場支店
本社所在地 101-0054 東京都千代田区神田錦町1-14-2
本部事務所 171-0033 東京都豊島区高田2-10-11
TEL (03)3982-0699(代)
東京営業本部 354-0046 埼玉県入間郡三芳町竹間沢東3-9
TEL (049)274-3810 / FAX (049)274-3811
大阪営業所 530-0016 大阪府大阪市北区中崎3-1-2 ESP梅田東ビル7F
TEL (06)6359-0455 / FAX (06)6359-5233
<代表取締役プロフィール>
大学卒業後、河合楽器製作所、日本楽器製造(現ヤマハ)、フェルナンデスに勤務し、そこで得た知識をもとに1975年に20代の若者3人と共にギターメーカーのESPを創業。その後教育事業、エンタテインメント事業と多角的に事業展開をする。
<社歴>
1975年 2月: 最高級エレクトリック・ギターの製造並びにギター・リペアマンの養成を目的に設立。
1977年 4月: 販売会社(株)エーアンドエスの設立。 並びに製造会社(株)クラフトマンを設立、 貿易業務も開始。
1978年 10月: 東京・神田錦町に本社ビルを購入し、同所にアンテナショップ「ESPテクニカルハウス」を開設。
1979年 3月: ギター用のボディ材、ネック材などの単体販売開始、並びに国内初のエレキ・ギターのフル・オーダーメイド・システムを開始。
1981年 3月: 米国ニューヨークにESP-USAを設立。販売会社の(株)エーアンドエスを(株)マッド・カンパニーに、 製造会社の(株)クラフトマンを(株)ファクトリー21に社名変更。
6月: 東京・豊島区高田1丁目に東京工場を開設。
1982年 3月: 名古屋に製造工場を開設。
12月: 東京・渋谷道玄坂2丁目にショップ購入。「ESPクラフトハウス」開業。
1983年 4月: ギター製作技術者養成及び修理技術者養成を目的とする「日本ギター製作学院」を開校。
5月: 米国の大手ギター・ピックアップ・メーカー、セイモアダンカン社のエージェント、(株)優美サウンドを買収。
1984年 4月: 東京・渋谷区道玄坂1丁目にビル購入。ショップ及びリハーサルスタジオを開設。
10月: ミュージシャン育成を目的とする音楽学校「日本創作音楽院」を開校。
1985年 4月: ピアノ技術者養成及び管楽器技術者養成を目的とする「日本ピアノ調律師養成学院」を開校。
大阪にショップ「シェルドンギターズ」開設。
10月: バイオリン製造会社(有)木曽鈴木バイオリンを買収し、(有)木曽バイオリンに社名変更。名古屋工場を長野県木曽に移設。
1986年 4月: 新潟県佐渡・両津市に敷地約6,600平方メートルの工場を開設。
8月: 仙台に「モンギービジネス」開設。
9月: 米国ニューヨークにギター・ショップ「48th st. Cusutom Guitars」を開設。
1987年 2月: 「日本ギター製作学院」と「日本創作音楽院」と「日本ピアノ調律師養成学院」とを統合して「ESPミュージカル・アカデミー」と改称し、学校法人 / 専門学校認可校となる。
また、「日本ギター製作学院」の一部を「ESPギタークラフトアカデミー」と改称し、併設する。
6月: 金沢にショップ「ギターショップ ザ カスタム」開設。
8月: 名古屋にショップ「クラフトカン」開設。
1988年 9月: 東京・豊島区高田2丁目に総合管理ビル完成。広告代理業務を行う(株)オフィス・アトーを設立。
10月: 東京・渋谷にオールド・ギター・ショップ「オールド・ギター・ガレージ」、バイオリン・ショップ「マリオルッチを開業。
1990年 6月: 米国ロスアンゼルスのギター・メーカー、シェクターUSAを買収。
10月: 東京 神田駿河台にショップ「BIGBOSS東京」開設。
1992年 3月: 中国・黒竜江省鶏西にESP-CHINAを設立。
7月: 京都にショップ「BIGBOSS京都」開設。「シェルドンギターズ」「クラフトカン」「モンキービジネス」「ギターショップ ザ カスタム」がそれぞれ、「BIGBOSS大阪」「BIGBOSS名古屋」「BIGBOSS仙台」「BIGBOSS金沢」に名称変更。
1993年 10月: 出版社(株)アリノス出版、アーティスト・マネージメント会社(株)アリノスマネージメント、音楽ソフト制作会社(株)アリノス企画を設立。
1995年 1月: 米国の音楽学校MI( ミュージシャンズ・インスティチュート)を買収。MI日本校、「MIジャパン東京校」、「MIジャパン大阪校」、「MIジャパン名古屋校」、「MIジャパン仙台校」を開校。
1996年 3月: 札幌にショップ「BIGBOSS札幌」開設。
8月: 広島にショップ「BIGBOSS広島」開設。
1997年 4月: 「MIジャパン札幌校」、「MIジャパン福岡校」を開校。
6月: 米国の日本語放送局UTB(ユナイテッド・テレビジョン・ブロードキャスティング)を傘下に収める。
12月: 米国において90年の歴史を誇る高名俳優養成学校「シアター・オブ・アーツ」(TOA)、ハリウッド映画で数々の卒業生が活躍する特殊メイクの専門学校「エレガンス・インターナショナル」を傘下に収める。
1998年 4月: 放送・ビデオ制作・映画制作スタッフ等の養成校「UTBアカデミー・ジャパン」を開校。
2000年 7月: 東京・渋谷にビル購入。MIジャパン東京校新校舎完成。
11月: 東京 神田駿河台にショップ「BIGBOSSフリークスマーケット」開設。
2001年 10月: (株)アリノス企画、(株)アリノス出版、(株)アリノスマネージメントを(株)トライスクルエンタテインメント、(株)トライスクル ミュージック、(株)トライスクル マネージメントに社名変更。
2002年 8月: 13店舗目の直営店ショップ「BIG BOSS福岡」 開設。
2003年 4月: 「ESPギタークラフトアカデミー仙台校」を開校。
2005年 4月: 総合エンタテインメント専門学校「ESPエンタテインメント」を大阪に開校。ダンスと声優の専門学校「原宿パフォーマンスビレッジ」を東京原宿に開校。
子供からお年寄りまでを対象とした新しいスタイルの音楽教室「ESPミュージックスクール」の全国展開を開始。
9月: 東京 神田駿河台にショップ「BIGBOSSサウンドライナー」開設。
2007年 4月: 「原宿パフォーマンスビレッジ」を「ESPパフォーマンスビレッジ」に名称変更。
2008年 6月: 東京工場を埼玉に移転し新東京工場とする。
2009年 11月: 「ESPミュージックスクール大阪校」を開校。
12月: 東京 神田駿河台にショップ「ESPギターワークショップ」開設。
2010年 5月: 東京 神田駿河台にショップ「VIPギターズ」開設。
2012年 4月: 東京 神田駿河台にショップ「BIGBOSSお茶の水駅前」開設。
5月: 東京 神田駿河台に「ESPミュージックスクール東京校」開校。
9月: 佐渡工場を埼玉に移転し新東京第二工場とする。
(株)トライスクルエンタテインメント、(株)トライスクル ミュージック、(株)トライスクル マネージメントを株式会社トライスクルに統合。
2013年 4月: 「ESPパフォーマンスビレッジ」を「ESPアニメーション声優専門学校」に名称変更。
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「武器は不屈の精神力。ハリウッドに新風を巻き起こす」
(QOLA Quality of Life in Los Angeles クオラ: アメリカから発信する世界中の日本人を応援するサイト 2015年6月号掲載)
すべては与太者の音楽から始まった
すべては与太者の音楽から始まった
24歳の時に京都から上京し、新聞の求人広告を見て河合楽器製作所に応募して入社しました。一見、不良のような風貌だったので、当時、与太者の音楽と言われていたエレキギターの担当になったのがこの業界に入った始まり。実は、大学生の頃はギターとはほど遠く混声合唱団に所属しており、賛美歌を歌っていたので、求人広告を目にした時に「音楽が傍にあれば、少しはまともな人生が歩めるかもしれない」という気持ちになったことを憶えています。でも、もしピアノ担当になっていたら違う人生だったかもしれません(笑)。結局、上司と衝突して入社4年で辞めてしまいました。その後、仕事がなくて困っていた時に、知り合いだった業界紙の社長とばったり会いました。「どうしてる?」と聴かれたので、食えずに困っていると答えたら、ヤマハが人材を募集しているからということで、コネで中途採用してもらいました。
ここでも4年間働きましたが、同じ業界の競合2社で働いてみると、お互いの隙や弱さが明確に見えてきます。そこで退職を決意し、その退職金80万円を元手にフェルナンデスという楽器メーカーの株を30%購入しました。そのままフェルナンデスに入社し、設立して間もない会社の売上げを10倍に跳ね上げました。フェルナンデスでは常務取締役まで務めましたね。その後、独立して渋谷の裏通りに楽器店をオープン。でも、ギター30本を仕入れるのがやっとで、店舗の半分しか埋まらなかったため、工作機械をタダでもらってきて空いているスペースに飾り、あたかもそこでギターを作っているように見せたんです。しばらくしてから、そこで国内初の修理と高級ギターのオーダーメイドを始めました。
従業員を募集すると40名の応募があり、そこから1人だけ採用した社員が出社2日目に自転車泥棒で捕まってしまいまして…(笑)。面接なんて当てにならないと思いましたね。その時に「彼らの親たちが資金を出せるなら、こういう子を預かってあげられるな」と思ったのが、音楽専門学校創設のきっかけです。そして、同時に職人を養成する日本ギター製作学院を開校しました。最初はどのくらい生徒が集まるかなんて皆目検討もつきませんでしたが、蓋を開けたら73人の生徒が140万円という高い授業料を振り込んで入学してきたのです。それから、ミュージシャン養成学校の「日本創作音楽院」、管楽器の修理学校の「日本ピアノ調律師養成学院」も1985年に開校し、それを統合して「ESPミュージカルアカデミー」と総称しました。もし、あの時雇った子が自転車泥棒をしなければ今はなかったかもしれません。
57歳でアメリカに単身乗り込む
57歳でアメリカに単身乗り込む
2000年頃、メタリカのカーク・ハメットとMIにて
アメリカに渡ってきたのは1995年。ちょうど20年前、57歳の時です。その頃には日本のエレキギター業界ではやりたいことをやり尽くしたし、このまま自分がいなくなったら会社はどうなるかと考えた時に、社員が自分たちで判断して運営する会社にしていかなければ先行きはないと思いました。また、買収したハリウッドの音楽学校Musicians Institute(MI)が赤字経営だったことに加え、その5年前に買収したギター製造・販売会社のシェクターも毎年慢性的な赤字を抱える経営状態だったので、「これは自分が前に出て行かないと軌道に乗らないだろうな」という内情もありました。
当初、シェクターは7人の従業員で月間7本しか売れていなかったんです。膨大な赤字を垂れ流していても、売れないミュージシャンを囲ってリムジンを借り、フランス料理店を貸し切って派手にパーティとかしているわけですよ。それでも夢だけは立派に語る。この今までの悪しき慣習を断ち切らなければと思い立ち、赤字脱却の一案として「利益を出したら、最初の半年間は80%、その後は50%を分与する」と言ったら、なんと4カ月後に2万ドルの利益をもたらしました。この時に、アメリカ人は目標をはっきりと与えてあげないとダメなんだと悟りましたね。
プロフィット・シェアを導入してからは、嘘みたいに利益を生み続けました。ところが、利益を半分も還元すると会社の取り分がほとんど残らないので、途中から3割に減らしたら、従業員から弁護士を立てて即訴えられました。「もうええわ。会社を売る。全員クビだ」と半ば投げやりになって言ったら、その訴えは嘘だったかのように、さらに利益が上がるようになりました。それからは、自分たちの利益が少なくなるからと、パーティも開かなくなるんですから。アメリカ人は危機感を与えないと本気で働かないんですよ。今では年間3万6000本は売り上げる優良メーカーです。
一方MIは、なぜ赤字なのか理由ははっきりしていました。元来スタジオミュージシャンを養成する学校でしたが、コンピューターの発達でスタジオミュージシャンの仕事が激減する中、アーティストミュージシャン養成に舵取りを変えなければいけなかったはずなのに、それをしなかった。20年間かけて作り上げた古いカリキュラムを使っていたのです。私が日本から赴任すると聞き付けた従業員が、パールハーバーの日(12月7日)に労働組合を結成し、赤字経営なのに賃上げ要求をしてくる。だけど、「潰れそうな学校を買ってあなたたちの仕事を守っているのは俺だろう」と、一歩も譲りませんでした。しかし、あらゆる手段で脅されたり、ネガティブ・キャンペーンをLA Times含め他7紙に掲載され、気が気ではありませんでした。結果、軌道に乗せるまでに16年もかかりました。そのせいか、ハリウッドで“極悪人”、また楽器業界では“ミスター・コブラ”と言われていることは勲章だと思っています。
アメリカでは、主張することはきちんと主張する。仕事をする上で、良い子になろうと思うのは大間違いです。その発想はこの国では自ら捨てなければいけません。そんな私ですが、赴任してすぐの頃はストレスから潰瘍性大腸炎を患いました。だけど、私の場合、日本でやってきたことを中途半端に修正しなかったことが良かった。日本ではワンマン経営で、口数が多く、すぐに従業員を殴っていました。今で言うとブラック企業(笑)ですが、だからこそ伸びていったんです。お金がない人が独立してビジネスを軌道に乗せるのは並大抵のことではないので、殴られても辞めないような社員を育てないといけないんです。アメリカに来てからも、日本の頃と変わらず毎週怒鳴っていましたね。「クビだ!」と副社長相手に机を叩いたこともあります。でも、ここまで闘えたのは私が単身でアメリカに渡ってきたからだと思います。もし、日本から家族を伴って来ていたらこんな風にはとことん闘えなかったでしょうね。
英語を話せるようになる必要はない
英語を話せるようになる必要はない
ビジネスにおいて英語を話せないことが不利になることはありません。私も来た当初は英語を勉強しましたが、頭の中に英単語を入れて理解できたとしてもそれは幼稚園レベル。逆に英語を使うことでビジネスの勘が狂ってしまいます。これは絶対にまずい。ビジネスの勘を優先するため、中途半端に英語を話すことを止め、常に5人の通訳を置くことにしました。①日本語を英語にする人②その英語をチェックする人③英語を日本語にする人④それをチェックする人⑤全体の流れをチェックする人。これだけいれば、ほとんどの場面で同時進行できます。私は従業員を怒鳴る時も終始一貫して日本語です。
アメリカでビジネスをする上でもう一つ大切なことは、「良い日本人と悪い日本人」を見分けること。今は日本政府の「クールジャパン」政策などもあってバブル期のような感覚で、甘い考えでやって来る日本人がたくさんいます。でも、残念ながらアメリカには良い日本人、悪い日本人、良い弁護士、悪い弁護士もたくさんいます。日本人だからと安心していると、近寄ってきた悪い日本人に騙されてしまうこともあるので、注意喚起が必要です。噂を聞けば大体わかりますが、渡米してすぐの頃は人脈がないので、その見極めは難しいですが、とても大切なことです。
ハリウッドから世界に発信していく
ハリウッドから世界に発信していく
この20年間で日本語放送局の「UTB」、俳優養成学校の「シアター・オブ・アーツ」、特殊メイク専門学校の「エレガンス・インターナショナル」などを買収して傘下に入れてきました。でも、一番やりたかった夢は「フィルムアカデミー」の買収でした。まだインターネットがない時代にフィルムと音楽を合わせ、UTBでスチューデントムービーを流す構想を持っていました。ハリウッドに若い子たちを送り込みたかったんです。そうすれば、いずれハリウッドも変わってくるはずだと。当時、若者を育ててハリウッドに送り込むなんてことを本気でやっている人は誰もいなかった。MIを買収した当初は、周りから無謀だと言われましたが、この構想を話した業界人から「これは化けるな」と言われ、自信を持ちました。日本のESPアカデミーは卒業生がかなり力を持っていますが、それをここでも実現したかったんです。でも、労働組合の規制が厳しく、そのチャンスを一度は見失ってしまいました。
MIは4年前にようやく軌道に乗りましたが、今度はアメリカ政府に予算がないので学校経営そのものに締め付けが厳しくなり、プロフィット・シェア制度が有効でなくなり、今はまた経営状態は少し落ち込んでいる状況です。そのため、これからは対象となる学生をアメリカ人から留学生に切り替えようとしているところです。留学生を受け入れるための寮なども整いつつあるので、これから学校自体も変わっていくと思いますよ。
今、ハリウッドのハイランド・アベニュー周辺一帯の土地を買収し、一大エンターテインメント・タウン構想を進めています。ハリウッドに憧れている子たちがお金がなくても気軽に出演できるライブハウスを2つ、それにダンス学校や手狭になった特殊メイクの学校の新校舎も作る予定です。それに加えて、新しく幼児から15歳くらいの子供を対象にしたタレント養成コースの学校もスタートさせる計画です。今後、3年程の間にこの辺り一帯は私が持つグリーンの建物でいっぱいになるはずです。アメリカでは劇場やライブハウスの出演者控室をグリーンルームと呼んでいますよね。だから、私が所有する建物もグリーンに揃えたかったのです。
人生も終わりに近づいてきているので、今後は夢だったフィルムアカデミーをやるつもりです。子供のタレント養成コースも、本気でプロを目指す子供たちを養成したいと、今から楽しみにしています。幼児の頃から手塩にかけ、高校を卒業したらそのままMIに入ってもらう。またはその前にデビューさせても良いですし。ライバルのバークリー音楽大学もそこまではやっていませんから、彼らと差別化する意味では幼児から大人まで一貫した養成コースがあることに意味があります。
これら今やっていることすべては、20年前に思い描いていたことです。それが実現できたのは、ここがアメリカであっても、自分のやり方を曲げずに貫いてきたから。あとは、やはり社員のモチベーションを上げるために、プロフィット・シェア制度を導入したことも成功の秘訣だったと言えます。
こんな私ですが、子供時代はとても大人しかったんですよ(笑)。イジメっ子にびくびくしている子供でした。でもある時、いざとなったら命も惜しくないと開き直ったんですね。それからずっと今まで好き放題してきましたが、よくぞここまでやってこれたと思います。今日まで本当にたくさんの方々に助けてもらいました。ものすごく運が良かったとしか言いようがありません。これまでに受けた恩義は後生大切にし、絶対に裏切らないと決めています。20代で無邪気にこの業界に足を踏み入れてから50年以上が経ちました。振り返ると闘いの歴史と武勇伝の数々。まともじゃない、ちょっとずれている業界だから自分には合っていたんでしょう。あとはこの仕事が私には天職だったのでしょうね。
~信条~
~信条~
ベスト・ウェイ
ビジネスには、アメリカ式、日本式は関係ない。常に自分にとってベストな方法を取ることです。「日本のやり方で通じる」と自信を持っていても、それを貫くことに抵抗を感じた時、それを打ち消すにはこの言葉しかありません。
・Musicians Institute President & CEO 渋谷尚武氏
■1937年4月8日生まれ。新潟県出身。1961年同志社大学商学部卒業後、河合楽器製作所に入社。1967年に日本楽器製造(現ヤマハ)に転職。楽器販売会社フェルナンデスを経て、1975年に高級エレキギターの製造およびリペアのESPを設立。1983年に日本ギター製作学院を開校し、学校経営に参入。その後、日本創作音楽院、日本ピアノ調律師養成学院を開校。1987年に3つの学校を統合してESPミュージカルアカデミーと改称し、学校法人となる。1995年に渡米。特殊メイクの専門学校やダンス学校、日本語放送局UTBなどを次々と買収し、ハリウッドを拠点にエンターテインメントビジネスを展開中
会社概要
社名: Musicians Institute
本社所在地: 6752 Hollywood Blvd., Hollywood, CA 90028
事業内容:●楽器製造・販売
●各種学校の経営
●日系テレビ局の経営
売上: 80億円
従業員数: 約600名
生徒数:約1,300名
創立: 1977年
「ウイキペディア」より
★渋谷平三
1383年(永徳元年)、渋谷平三の地頭職を本間太郎左衛門に渡付した。
★渋谷真清→渋谷真清(さねきよ)
★渋谷真住(まさずみ)
「戦国佐渡国人名辞典」より
【しぶやまさずみ(15??~1589)】渋谷真経の男。通称三郎左衛門。1589年、「箕山城の戦い」で長尾景勝勢の攻撃を受け自刃した。
★渋谷真経(まさつね)
「戦国佐渡国人名辞典」より
【しぶやまさつね(15??~15??)】加茂郡羽黒城主。通称三郎左衛門。羽黒、五十里、鷲崎、願、鵜島、真更川、椿、小松、目黒、玉川を領して渋谷四家の中では最大勢力を誇った。
★渋谷真茂(まさもり)
「戦国佐渡国人名辞典」より
【しぶやまさもり(15??~1561)】
加茂郡梅津城主。通称半右衛門。梅津、玉川、和木、小松、歌見、平松を領した。1561年、「梅津城の戦い」で久知泰時勢の攻撃を受け自刃した。
★渋谷真正→★渋谷真正(さねまさ)
★渋谷勝
両津高校時代の1960年度(S35)8月、北信越大会相撲の県代表に選出 10月、第15回国体 相撲の県代表
★渋谷真由美

★渋谷弥一
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
両津市夷の人、弥-人形の創始者。
★渋谷彌吉
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★渋谷弥藤兵衛
『両津町史』(昭和44年)
夷上町に住んだ船大工で、夷延命寺の有力檀家。延宝年間没。
★渋谷芳夫
両津羽黒の人、昭和17年生。エレキギターの世界的メーカーESP創業者の兄尚武と共に同社を経営する。
佐渡高校ー同志社大卒。
★渋谷義雄

昭和8年生、令和1年6月没。佐和田中校歌作曲。母は畑野の医師風間準平の子(木下田鶴枝)。父の風間医院の隣で進駐軍御用達の高級キャバレー「黒猫」を経営。(風間医院はその後渡部医院となり、医師の妻が道を挟んで向かいの「黒猫」の場所で「芙蓉」をいうバーを経営した。「黒猫」はその後、現「扇寿司」に移転した。)芥川賞最終候補になった中川芳郎『島の光』はこの店で起きた事件を題材としている。義雄は両津渋谷家へ婿入り。
★渋谷利一
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」

★渋谷良折
『加茂村誌』(昭和38年)

「獅子が城址に「S中」誕生」(「佐渡の百年」)
明治22年、秋津の人神尾玄益の死体解剖。明治28年、県会議員に当選。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
加茂歌代村 ・明2、大同派の当選祝賀会[二十三年九月一日]・明3、第四回衆議院議員の選挙[二十七年九月一日]・明3、第十一回選挙[二十八年三月]
★紫文軒波山
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★志保井重要
「成功した士族の商法」(「佐渡の百年」)
★島晃子
佐渡にゆかりの歌人。
島晃子歌集 『月光丘』
悲しみがあらたになりて暗みゆく海の白波夜叉のごと立つ
飲みさしの夫の焼酎「百年の孤独」胃に沁む夜半の厨に
射して来る春陽に光る嵬集品いづれもはかな割れ易きもの
君は数十億年の愛を語り吾は白馬の王子失ふ
「六条御息所」 は言うまでもなく 『源氏物語』 の一節である。
『源氏物語』 の優れた文学性が読む者を引き込み、歌わせる力となっていると思うが、背景に長年の研究があるから作品が強い。 以上は師 鶴岡美代子先生 ・ 跋より 帯の部分をご紹介させていただきました。
島晃子様は現在 「軽雪」 編集委員 ・ 選者、「みなのせ会」 会員、「日本歌人クラブ会員」としてご活躍のお方で、大切な先輩です。 我が師鶴岡先生の跋より一部を転載してご紹介させていただきます。
大学時代からの親友の島晃子さんが、いよいよ第一歌集 『月光丘』 を上梓することになった。
(2011年8月9日発行)
今は亡き土屋正夫先生の下でおよそ20年、そして今日、なお共に歩んでいることを思うと、この度の上梓はわがことのように、とても嬉しい。 大学時代の島晃子さんはペンクラブに入っていて小説家を夢見ていた。何を書いてもペンの滞ることがなく、私はいつも感心していた。 夫君の転勤先のニューヨークでも新聞社主催のエッセイストコンテストに入賞した事があった。
物を書くのが好きなのは、ご両親が、教育者という環境も影響していたのだろう。
(中略) 『月光丘』 の作品はおおよそ3つに分けられる。
1つは文学に関しての作品、2つ目は自然や旅先に題材にしたもの、3つ目は家族や周囲の人、自身の人事詠である。
先ず、文学関係の作品であるが、小説家志望だった作者であるから文学への関心は深く、しばしばその舞台となった地を訪問している。
二本松智恵子の生家に佇みて夫に隠れて涙をぬぐふ 「智恵子の生家」
本当に裁ち切りたかりし物は何 狂ひし智恵子の紙絵の鋏
童女となりたる智恵子を目に追ひて光太郎佇みし磯松林 「九十九里の智恵子」
(他4首ご紹介あり)
高村光太郎 ・ 智恵子を取材したものである。
文学の知識があって作歌するのであるが、あたかも自分が光太郎や智恵子と同じ立場にいるごとく悲しみを共有している。
次は 「紫式部」 に関する作品である。島さんは平成18年5月から 「軽雪」 誌上に 「紫式部」を連載していて、現在30回を数えている。それと併行しての作品である。
中宮の出産間近き緊迫の描写に吾も息を詰めたり 「紫式部日記」
出産を見守るあまたの女房ら犇(ひしめ)き合ひて泣くものもあり
断ち切れぬ想ひに攻むるまなざしを身に受け黙す御息所は 「六条御息所」
皇后の道閉ざされし身にあれどその魂の終に捨てえず
(他6首ご紹介あり)
2つ目の特徴は、自然や旅を題材にしたものである。
土屋先生が生前、「よく観察し、よく描写しているのに、深く感じ入った」 と褒めた 「丹頂」 の一連を挙げる。
声を吐く丹頂の嘴 (はし) は天を衝き頂 (いただき) のあか陽に極まれり
雪原に翼大きく打ち合ひて番 (つがひ) の丹頂の華麗なる舞
親丹頂と身の丈同じになりしかど薄茶の羽の心許無し (他6首ご紹介あり)
六集落三百六十戸を飲みしダム涙の湖(うみ)の深みどりの色
沈みたる村の証と残りしはこの日本 (ふたもと) の桜と仰ぐ
五十年経し今もなほ息子 (こ) の戦死認めぬ如く坐す 「母の像」
慌しく戦地に発ちて還らねば恋人の像 「裸婦」 噫 (あい) 未完
岐阜県の 「御母衣ダム」 と長野県の 「無言館」 の作品である。土屋先生は 「読め、歩け」 と訓えていたから、島さんもそれを実践した。心眼で観ていることはこれらの作品にも言える。
次は人事詠を見てみよう。
誉めらるることの少なき生徒らの塾教師吾に求めやまぬもの
学校にも家にも落ち着く場のあらぬ生徒らの愚痴憩ふ時聞く
求めゐるもの何ならむくしゃくしゃに丸めし答案投げつけてくる
「だんだんと自分が嫌ひになってゆく」生徒の声の耳を離れず
学習塾を営んでいたときの作品である。現代の児童の持つ精神の渇きが詠まれている。
これらの作品からは、単に試験の点数を上げるための教育ではないものを目指している教師像が見えてくる。 (中 略)
こういう島さんの姿勢には次のことが関係しているのではないだろうか。
彼の人を嫌ひと嘘でも言へと責むる娘に悲鳴上ぐ裡なるわが子
胸底を凝視したれば裡なる子真白き繭に息詰めてゐる
父の夢を健気に生きし十二歳の吾と思へば涙零るる (他3首ご紹介あり)
島さんの体内にはもうひとりの子 「インナーチャイルド」 がいて、言ってはならないことや間違った事をしないように常に糺していたと言う。佐渡の旧家で生まれた著者は、周囲に対して恥ずかしくない行動を自らに課すことを、無言のうちに期待されていたのだろう。 (中 略)
夫の声電話にやさしく響く夜は3万キロの隔たり悲し
受話器の中より乾燥機の音聞こえ一人居の夫の休日偲ぶ
「マイナスイオン出す」 と書き添へ母の日に息子が送り来し観葉植物 (他5首ご紹介あり)
夫の留守を守る緊張と責任は重く寂しかったと思う。手中の子が巣立ったのも人生の過程だ。
それらを経て自分がたくましくなり、充実したものを得たことも事実であろう。
島さんの人生を正直に語っているこの 『月光丘』 が、さらなる飛躍の契機となるべく、心より期待したい。
そして 『月光丘』 が多くの方に読んでいただけますことを希って筆を擱く。
以上、鶴岡先生のお言葉を拝読しながら、島様の作品を鑑賞させていただきました。
島様は 「本歌集はまだお元気だった平成18年に、土屋正夫先生の選を経た歌に最近作の中から自選したものを加えて四百三十六首を収録しました。歌集名の 『月光丘』 は、現在の私が佇んでいるに相応しいところと感じたことから選びました。」
と書き添えられておりました。HPには 「ながらみ書房」 を初め、多くの書店が 『月光丘』 のご紹介をされておりますことにと幸せを頂きました。作品の一首一首がとても丁寧に品格のある作品と感銘致しました。
又、「小野田少尉自らを語る」
潜伏し二十九年の軍人には居場所居場所なかりしと嘆く小野田さん
ブラジルに渡りて三十年馬上にて牛追ふ姿光の如し
以上他4首を心して拝読させていただきました。
戦後66年、戦争を知らない国民が多くなりました今日ですが、事実は事実として戦争の悲惨さは語り継がねばならないと考えております。何時も優しくご指導いただいております島様のますますのご活躍をお祈り申し上げますと共にご多忙の折りにお風邪など召しませんようにご健勝をお祈り申し上げましてお祝いの気持ちを綴らせて頂きました。
大切な歌集の を頂きまして誠に有難うございました。

★島きよし


★志摩比呂志
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「24号」(平成23年1月)「王手飛車」2題(志摩比呂志)
★島川勘作
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★嶋川弘
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「20号」(平成22年1月)作家の嶋川弘氏が講師ー人間の絆を確かめよう「21号」(平成22年4月)絆―母からの礼状―(嶋川弘)「22号」(平成22年7月)旅路の果てに(嶋川弘著)
「24号」(平成23年1月)「佐度讃歌」(嶋川弘)「25号」(平成23年4月)朱鷺たちと7人の侍(作家 嶋川弘)
★島川實

★島倉晃
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
新潟師範時代の昭和9年、第4回県下男子中等学校体育大会(柏崎陸上競技場)で走高跳3位。
同年、明治神官体育大会北陸予選会で走高跳3位。
昭和10年、第5回県下男子中等学校競技大会(三条陸上競技場)で走高跳1位(1m58)、棒高跳1位(3m51)。
同年、第8回明治神宮競技大会兼全日本陸上競技選手権北陸予選会で走高跳3位(1m65)。
同年、全国中等学校陸上競技選手権大会(明治神宮外苑競技場)2部走高跳で1位(1m80)。
昭和11年、第6回県下男子中等学校競技大会で走高跳1位(1m70)、棒高跳1位(3m50)。
同年、昭・11全国中等学校陸上競技選手権大会(甲子園)2部で、走高跳2位、棒高跳3位。
昭和12年、第7回県下男子中等学校競技大会で走高跳1位(1m80)、棒高跳1位(3m70)。
同年、全国中等学校陸上競技選手権大会2部で走高跳1位(1m82)。
同年、全日本陸上競技選手権大会北陸予選で、棒高跳1位(3m80)。
同年、東京オリンピック候補となる。
(昭・12 東西対抗島倉晃新記録の新聞記事)
棒高跳 1島倉晃(東・新潟師)3㍍鮨(日本中等並本大会新配録)2和田(東・庵原中)3m60、3樋田(東・岡崎師)3㍍50、4杉山(西・岡山師)5井上(西・小野中)6北野(西・兵庫師)3米40で井上、北野が失格したのち3米50は四者それぞれ飛躍、3米60で樋田、杉山ならんで落ち3米70では和田また落とされた。かくて3米20で一席落しただけで各回とも一発をねらつて成功した島倉は悠々3米77の日本中等記飾を成るためバーを確78に上げれば1回目に余裕を見せつ征服、ついで3米85は第二回目に見事飛躍、余勢をもつて3m90に引上げたが1回目は腹で落し二回目は胸まで越えて駄目、いよいよ第三回目に入り慎重に助走を開始、棒を突っ込んだものの上体そつたため遂に成らなかつた、しかし島倉の超中等級の技術は称賛に博するものであつた。
★島倉伊右衛門
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
司馬凌海の甥で後山小学校長。昭和四年十二月に出来た三宮地区婦人会結成に法幢寺住職の斎藤穆栄と共に参加し指導した。
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★島倉伊右衛門
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
寺小屋の年中行事として新年の書初め、新町では毎月二五日天満宮へ奉納の清書をした。また、正月二五日には天神講と称し、少しずつお金を出しあって菅公祭を催した。
そのころ、寺小屋師匠として、新町には山本半右衛門・生田三折・山本桂・島倉伊右衛門など、吉岡には若林玄真、竹田には森玄達・小田与三兵衛、金丸に計良尚賢・若林文平、豊田に豊原快慶などがいた。寺小屋師匠の師弟の関係が深かったことは明治四年死亡した山本半右衛門の葬儀に、弟子として一三名の参列者があったという記録が残されていることからもわかる。
明治維新を経て、二年三月人民教育のため小学校の設置を奨励するという太政官布告にょり相川・新穂・羽茂に郷学校が設立され、三年には大中小学校規則にょり新町・五十里に郷学校が設けられた。
★島倉伊三武
「島の新聞」21号


『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
新町でタカミ獅子を舞わせたのが、近世のいつ頃からだったのかほ不明である。古い獅子頭のほかに長さ五間余りのほろが残っていた。古老のいい伝えでは明治の半ば頃までは使われたというが、それを実際に見た者はいない。残っているのは一頭だった。復活したのは昭和五二年一〇月一六日の祭りからであった。佐々木芳博・中川敏彦・本間安子等一二、三人の人たちがけいこを始めた。古い頭は幅六五センチメートルほどの大きさ、ホロは何十人も入るもので、町を練り歩くだけだりたと見当がつく。しかし新しい獅子には多少の芸をさせたいというので、三〇センチメートル程の小型な頭を二つ作り、ホロは商工会にあった小さい物を借り、適当な太鼓のリズムにあわせて門ごとに舞わせて歩いた。新町相撲がなくなって、それにかわる程の人気のある余興をもとめることのできなかった新町ではかなり好評だった。しかし一〇人余りの小人数で五〇〇戸を廻るのは重労働だった。二年続いて来年はあぶないといわれたころ、芸はできなくても旧に復して大獅子にしたらどうかということになった。金子克巳や高野宏一等数名が呼びかけて始まりたのである。フジミは渡部裕次郎が作り、赤・黒二頭の色は島倉伊三武が塗り、島倉勘十郎や島倉七兵衛が組み立てた。昭和五四年、氏子の家から古蚊張を寄附してもらい、男女数一〇人の青年がいく晩もお宮へ集まって獅子のホロに仕立てた。寄附金で揃いのハッピを作った。
吉岡の鬼太鼓ほ昭和五一年四月一五日の祭りから始まった。鬼太鼓をやってみようといいだしたのもこの年になってからだから、あわただしい準備とけいこで始めたことになる。鬼太鼓は祭りを賑かにするためのものとだけ考えられがちだが、吉岡の場合はそれだけではなかりた。若林幹夫・川野名庄五・本間浩二・高野周治等の若者たちが集まっての世間話の中で、この頃は同じ村の青年どうしでもお互に知らぬ顔で行き過ぎる者が多くなったと、連帯感の不足を嘆く話が出た。昔のような曖い心のつながりを作る道はあるまいか、といろいろな案が出て、鬼太鼓はどうだろうということになり、多勢の青年に呼びかけてみることになった。そのためには青年層にも壮年層にも信用のある人からまとめ役になってもらう必要があるので、本間作に一切をお願いすることにした。本間からの呼びかけに応じて公民館へ集まった青年は二〇名を超えた。 いよいよ鬼太鼓組を作ることには決まったが、太鼓はお官から借るにしても面も衣裳もない。それで当分はよその村の使っていないものを借りることにした。鬼太鼓を見たことほ度々あっても、いざ始めるとなると見よう見まねだけではできるはずもなく、浜中の鬼太鼓の練習を見に行ったりした。その内に伊藤藤吉家の久が後山から来た者で鬼太鼓に詳しいことが分かり、伊藤を師匠にして、借り面借り着で吉岡の鬼太鼓は始まったのである。やがて面を新町の島倉伊三武にほってもらうことにした。吉岡の小松の親戚でしかも器用で名人肌の人だと聞えていたからである。自・赤・黒・青の四つの鬼面ができ、それから二・三年して豆まき用のヒヨットコ面ができた。白っぽいのと肌色がかったのと二面である。獅子がなくてさびしいから豆まきをつけようということになったのだ。豆まきはたいてい黒面だが、それでは少し怖い感じがするのでこの色にしたのである。豆まきの黒面は三番曳の黒式(こくしき)の面をかたどったものであろうから、ここのは新しい解釈によって作られたことになる。結局、面はすべて島倉の寄贈となった。借り物の鬼太鼓は二年ほど続いた。今は「書岡鬼太鼓有志会」のもので、練習はだいたい祭り前一か月、総社神社の拝殿がけいこ場になる。
「島の新聞」索引(人名別)
★島倉伊平
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
明治三年に山本半蔵・山本五平・山本藤八郎・島倉伊平・中川清三郎の五人が費用を出しあって「学問所」を開設し、のち、明治五年、この「学問所」が政府の許可を得て「新町郷校」と名称を改めた。先生として佐々木俊蔵(辰之助)を雇い、場所は司馬盈之(司馬凌海)旧宅であった。これが、現在の真野小学校のはじめである。この五人の有志たちが「学問所」の先生を迎えるについて、エピソードがある。心当たりを捜していると、たまたま北海道から釆て西三川村大倉谷の佐々木才三郎方に身を寄せていた佐々木俊蔵という人物が学才にたけているということを聞き、評判だけでは真価がわからないというので、新町の漢方医山本桂に大倉谷まで行かせ、人物試験をさせた。先生を迎えるのに人物試験をして迎えるところに、有志たちの意気が感じられる。
「逃亡藩士の郵便局長」(「佐渡の百年」)
★島倉欧佑


真野小-鳥屋野中-帝京長岡高校。大会ベスト5。帝京長岡(新潟)の悲願は達成できなかった。福岡大大濠に56-59の僅差で敗退。高校日本一は来年以降に持ち越しとなった。1ゴールを争う接戦を続けたが、インターハイに続き、夏冬連続の準優勝に終わった。激しいディフェンスの応酬でロースコアの展開。Cコネ・ボウゴウジィ・ディット・ハメード(2年)が19得点、20リバウンド、9ブロックショットでトリプルダブルに迫る奮闘も実らなかった。大会ベスト5にはコネとSF島倉欧佑(3年)が選出された。島倉の魅力は決してオフェンスだけではない。フィジカルと跳躍力にも優れ、それを生かしてディフェンスにおいても帝京長岡の需要なピースを担う。身長181センチながら、インターハイの計5試合で18個ものオフェンスリバウンドをもぎ取り、高さを1つの武器とする仙台大明成相手にも4本のオフェンスリバウンドを奪取。
★島倉勘十郎
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
新町でタカミ獅子を舞わせたのが、近世のいつ頃からだったのかほ不明である。古い獅子頭のほかに長さ五間余りのほろが残っていた。古老のいい伝えでは明治の半ば頃までは使われたというが、それを実際に見た者はいない。残っているのは一頭だった。復活したのは昭和五二年一〇月一六日の祭りからであった。佐々木芳博・中川敏彦・本間安子等一二、三人の人たちがけいこを始めた。古い頭は幅六五センチメートルほどの大きさ、ホロは何十人も入るもので、町を練り歩くだけだりたと見当がつく。しかし新しい獅子には多少の芸をさせたいというので、三〇センチメートル程の小型な頭を二つ作り、ホロは商工会にあった小さい物を借り、適当な太鼓のリズムにあわせて門ごとに舞わせて歩いた。新町相撲がなくなって、それにかわる程の人気のある余
興をもとめることのできなかった新町ではかなり好評だった。しかし一〇人余りの小人数で五〇〇戸を廻るのは重労働だった。二年続いて来年はあぶないといわれたころ、芸はできなくても旧に復して大獅子にしたらどうかということになった。金子克巳や高野宏一等数名が呼びかけて始まりたのである。フジミは渡部裕次郎が作り、赤・黒二頭の色は島倉伊三武が塗り、島倉勘十郎や島倉七兵衛が組み立てた。昭和五四年、氏子の家から古蚊張を寄附してもらい、男女数一〇人の青年がいく晩もお宮へ集まって獅子のホロに仕立てた。寄附金で揃いのハッピを作った。
★島倉久次郎

「北海道立志編」(明治36年刊)より

★島倉七兵衛
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
新町でタカミ獅子を舞わせたのが、近世のいつ頃からだったのかほ不明である。古い獅子頭のほかに長さ五間余りのほろが残っていた。古老のいい伝えでは明治の半ば頃までは使われたというが、それを実際に見た者はいない。残っているのは一頭だった。復活したのは昭和五二年一〇月一六日の祭りからであった。佐々木芳博・中川敏彦・本間安子等一二、三人の人たちがけいこを始めた。古い頭は幅六五センチメートルほどの大きさ、ホロは何十人も入るもので、町を練り歩くだけだりたと見当がつく。しかし新しい獅子には多少の芸をさせたいというので、三〇センチメートル程の小型な頭を二つ作り、ホロは商工会にあった小さい物を借り、適当な太鼓のリズムにあわせて門ごとに舞わせて歩いた。新町相撲がなくなって、それにかわる程の人気のある余興をもとめることのできなかった新町ではかなり好評だった。しかし一〇人余りの小人数で五〇〇戸を廻るのは重労働だった。二年続いて来年はあぶないといわれたころ、芸はできなくても旧に復して大獅子にしたらどうかということになった。金子克巳や高野宏一等数名が呼びかけて始まりたのである。フジミは渡部裕次郎が作り、赤・黒二頭の色は島倉伊三武が塗り、島倉勘十郎や島倉七兵衛が組み立てた。昭和五四年、氏子の家から古蚊張を寄附してもらい、男女数一〇人の青年がいく晩もお宮へ集まって獅子のホロに仕立てた。寄附金で揃いのハッピを作った。
★島倉孝
前列左より:島倉孝、山本一郎、山本半蔵(静古)、山本悌二郎
後列左より:山本成之助、山餅修之助、山本宙蔵。※写真撮影は昭和10年

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
医師。明治二十二年一月五日、西三川で生まれた。千葉医学専門学校を卒業した。東京都新宿区下落合で開業、新宿区学校医会会長、日本医師会常任理事等になった。(新潟県年鑑) 真野新町の島倉家を継いだ。本間周敬は実兄。
★嶋倉強
「島の新聞」索引(人名別)
★島倉盈(みつる)
真野の人、島内を代表する俳人で新潟日報(佐渡版 俳句)選者を長く務めた。司馬凌海の子孫である。
『佐渡のスポーツ 賛歌』(平成9年刊)より
佐渡中時代の昭和12年、第7回県下男子中等学校総合体育大会4部において、100m1位(12秒4)、800mR4位(佐渡中学)、砲丸投1位(10m78)。昭和14年、第9回県下男子中等学校総合体育大会において、砲丸投1位。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)島倉盈(みつる)
21 金子のぼる 角川俳句賞の受賞について
72 悼 山本修之助先生 -真野町町民葬- 弔句・弔歌 島倉盈 奉詠
78 島倉みつる氏に「欅」賞 山本修巳
98 島倉みつる句集『波の花』 山本修巳
★島倉峰雄
「株式会社プロフェッショナル・ネットワークス」(略称:プロネッツ)代表取締役
(本社)東京都新宿区西新宿2-4-1 新宿NSビル28F
(拠点) NS情報センター 横浜オフィス 福岡支社
・設立 1990(平成2)年4月26日
・資本金 5,000万円
・役員 ・常務取締役 島倉農 ・取締役 原田正昭 ・取締役 平山代士 ・監査役 伊豆野泰弘
・従業員数 129名 ※2014年4月1日現在
・売上高 2013(平成25)年度 15億7,000万円 ※グループ連結
「株式会社シナジーパルス」代表者
・住所 東京都新宿区西新宿2-4-1 新宿NSビル28F
・設立年月日 2003年12月
・資本金 3000万
・事業内容 ・システムインテグレーションサービス ・システム投資プランをサポートするコンサルティングから設計、開発 ・テクニカルサポートサービス ・システムマネジメントサービス
★島倉祐次郎
旧新町(真野)村長、明治20年代。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
真野村新町 ・明3、佐渡義会の成立[二十六年七月一日]・明3、警備隊設置の請願[二十七年四月]・明3、松本八十八の祝賀会[二十七年四月□日]・明3、佐渡憲政党の分離[三十一年十二月二十六日]・昭4、山本悌二郎 薨去[十二年十二月十四日]
★島倉竜治
新町 光照寺跡墓地




明治三年真野町新町の貧しい家の二男に生れたが、小学校を卒業すると上京して苦学力行、東京法学院を卒業。三十三歳でようやく判検事試験に合格して司法官となる。後、那覇地方裁判所検事正となり、在勤中「沖縄一千年史」を出版した。昭和四年大審院判事で亡くなったが、学あり徳あり、郷土の文化事業にもつくした。立志伝中の偉材である。
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
検事正。明治三年五月二日に佐渡郡真野町新町で生まれた。小学校卒業後上京して多くの職業を転々とした後、働きながら東京法学院(中央大学の前身)に入学、明治二六年、二十四才で卒業した。同三十三年判検事試験に合格、司法官試補となった。若松、徳島各裁判所勤務を経て三十五年判事となり大阪に転任した。三十八年司法官嘱託となってアメリカの訴訟、執行、監獄視察に渡米した。四十一年検事となり宇都宮へ赴任、さらに東京控訴院検事、千葉、浜松各裁判所検事、大正十年に沖縄の那覇裁判所検事正となつた。昭和四年大審院判事となりこの年の二月十日に六十才でなくなった。沖縄一千年史の著書があり、順徳天皇第三皇子寒巌尹ゼン禅師の事跡を調査して皇統に確立した。昭和七年遺児義雄により漢詩集「大拙詩稿」が出版された。(佐渡の百年)
1870年5月2日~1929年2月10日。島倉伊平次、千代の二男として佐渡郡真野町新町で生まれる。小学校を卒業するとすぐ上京。あらゆる職業を転々としたのち働きながら東京法学院(中央大学の前身)に通う。1893年に卒業。94年、神奈川県人石渡かよと結婚。このころ島倉は東京向島言間付近に住んでいた。妻かよは東京女子職業学校を卒業していて毛糸の編み物、針仕事で生計を助けていた。島倉が勉学に必要な書物を上野図書館から借りだし人通りの少ない夜道を往復した。1900年、島倉は判検事試験に合格。司法官試補として若松、徳島などの裁判所勤務。05年、司法省嘱託となってアメリカの訴訟、執行、監獄の制度を視察するため渡米。
1908年、検事として宇都宮、東京控訴院、千葉、浜松勤務。1921年、那覇裁判所検事正。29年、大審院判事。
「大正の皇太子御来島」(「佐渡の百年」)
「苦学力行の検事正」(「佐渡の百年」)
★島崎榮一
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)島崎榮一 118 佐渡 俳句
★島薗順次郎(しまぞのじゅんじろう)
創立時の佐渡病院への医師派遣で尽力した東京帝大病院長。
内科学者で脚気(かっけ)の権威である、1877–1937)の旧蔵書である。内科学およびその関連領域の洋書900冊からなる。島薗順次郎は、1904年東京帝国大学医科大学を卒業し、陸軍軍医として日露戦争に従軍。東京帝国大学の内科学医局に入局後、1911~1913年ドイツに留学して神経病理学を研究した。帰国後、京都帝国大学教授を経て、1924年東京帝国大学教授に就任し、島薗内科を主宰。東京帝国大学附属病院長も務めた。1926年、緒方知三郎(おがた ともさぶろう、1883–1973)との共同研究「ビタミンB欠乏症についての実験的研究」で学士院賞を受賞。脚気の原因がビタミンB1欠乏によることを解明し、食事による予防法を打ち出した。1929年日本初の日独交換教授としてベルリン大学で1年間講義を行った。
「総合病院の誕生」(「佐渡の百年」)
★島村了
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★島崎脩省(しゅうせい)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で通称を玄的と言う。
詩をよくし小倉実起が佐渡に流された時、その門に出入りした。(佐渡人名辞書)
★烏田佐京
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
ここで、どうしても引っ掛かるのが鴉田大工と烏田佐京の関係である。烏田佐京は天文元年(一五三二)の新穂村「計良七郎左衛門(村上屋)家文書」に出る者で、同文書には次のような主旨が書いてある。
佐渡の三郡に、一郡一社の牛頭天王を祀り「羽茂知郡では島田佐京にその第一切を取り行わせる。廻船の役(税金)、塩釜の役、その他一切の役を取らせる。」とあるものである。これを書いたのは佐渡の中央を支配する雑太の本間大運。一郡一社の牛頭天王は、羽茂郡の八王子牛頭天王(草苅神社)、雑太郡の長石神社、加茂郡は潟上の牛尾神社(潟上の天王さん)であった。この島田佐京にかかわるかと思われる鴉田家が、元禄検地帳に二軒ある。どちらも、草苅神社西側の小さな丘陵南面に次のように屋敷を持っていた。
・・・・・・・・・
このうち久五郎が、今の屋号「鴉田」の藤井五郎右衛門番匠。勘四郎が今の屋号「四郎平」で姓は鴉田である。鴉田番匠の藤井家の方は、今、山の上の方へ上がっているが、その時期は元の住家新築の棟札の残る天明期(一七八〇年ころ)であろう。以上見てきたところでは烏田佐京につながるとすれば、その定着は中世であろうが、大工との関連は明らかにはされない。何代目か、いつの時代かに、大工とのかかわりが出来たのかもしれない。
羽茂に宮大工の一族が明らかに見え始めるのは、小比叡山蓮華峰寺が再建された近世初頭からと考えられる。弘法堂の墨書には次のように、羽茂大工の祖と思われる老の名が見える。(「小木町史史料編」より)
・・・・・・
→index「番匠」
★島田甚五郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、寛保二年(一七四二年)三月二十八日から延享二年(一七四五年)二月十五日御留居番へ転任するまでの間、在任した。名は盛貞、知行は五百石、うち三百石加増、御役料千百俵百人扶持であった。(佐島通事)
★嶋田哲夫

佐和田の人、「嶋田工芸」代表で、映画看板その他写実的な絵は島内至る所で見られる。 「島の新聞」創刊時より、「佐渡八十八番霊場」の絵を担当した。 昭和13年、満州生まれ。昭和18年、5歳の時帰国し、母の実家天草に落ち着き、父の死後羽茂の祖父の元で育つ。中原の看板屋「一光社」、新潟交通を経て独立し嶋田工芸を興す。
「島の新聞」索引(人名別)
★島田治男

東京相川会7代会長。昭和8年生まれ。相川高校、明治大学卒。日本橋の繊維メーカーに勤め常務取締役。
(島田治男)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「6号」(平成18年7月)第七代東京相川会 会長に島田治男氏(副会長 本間壮平)「8号」(平成19年1月)先輩 三浦小平二先生「生家の思い出」(島田治男 東京相川会会長)「18号」(平成21年7月)第56回東京相川会大会です(島田治男 会長)
★嶋田冨美男(ふみお)
畑野の人、昭和9 年生、平成27年10月没。若い頃は流行歌手を目指し、三橋美智也とも共演。畑野みどり会の唄い手として活躍しその美声はよく知られ、特に両津甚句が得意だった。新潟交通発売のテープ「佐渡めぐり」に「国仲音頭」「七浦甚句」、キングレコード「正調佐渡の民謡」等多くのレコードを吹き込む。三味線や踊りも堪能で「砂金音頭」の振付も行う。
★島田磨佐記

「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より


→鶴間笛畝(てきほ)参照
★島津光夫


※「佐渡ジャーナル」関係記事:「39号」(平成26年10月)佐渡最古の「石臼」新たに複数見つかる ※小菅徹也・島津光夫・神蔵勝明
「島の新聞」索引(人名別)
★島根千絵
本名チエ、大正六年生れ。羽茂本郷大谷、金十郎家の人。「歌と評論」同人。(歌碑:平成二十年三月建碑 樟石丈一、一八㍍)
○若きまま胸裏(うち)ふかく住む君ありて今に遥けき戦を恨む
ささやかながら幸せな青春の日々を一転、悲痛のどん底に突き落とした大東亜戦争。生涯を共に過ごすを疑わなかった夫の招集、そして、一時は茫然自失となるも幼い二人の娘、老いゆく両親、特に萎えそうな時には夫の面影を心の支えに農を守り、どうにか平穏に老年を迎え、拙い短歌をまずまずの幸せとありがたく思っています。(自註)
『佐渡・羽茂 文学碑めぐり』(平成21年10月刊)より
★島野ノラ
「島の新聞」索引(人名別)
★島元忠太郎
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より

『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)

★島元矩
「郷土史壇の人々」(「佐渡の百年」)
★清水彰直
昭和28年佐渡高校卒。NPO法人放射線線量解析ネットワーク理事長。
★清水勇

金井千草の人、島内を代表する川柳家で昭和初期の生れ。新潟日報県版や佐渡版に度々作品が掲載される。平成2年 新潟日報に初投句。平成3年「ウイークエンド佐渡」(後の「島の文芸」)に初投句。平成12年「すみさか川柳社」入会。平成18年 句集「ひとり旅」刊。平成23年「川柳にいがた」入会。句集「走馬灯」刊。平成25年「ふあすと社」誌友。平成26年 句集「万華鏡」刊。
★清水巌
・相川羽田町の人、「文平窯」を興す。次男の清水謙が文平窯を継ぐが、平成末頃没。
・長男の清水伸はパリで活躍する画家。夫人美和子さんの実家はスーパーコダマ。
★清水円平
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河原田 ・明3、第四回衆議院議員の選挙[二十七年九月一日]
★清水薫
令和2年お盆前に高下の自宅(農協前)没90歳。


1930年高千村生れ-令和2年(2020)8月没。島内での新潟日報記者を経て静岡第一テレビ報道局長。退職後、佐渡の実家に戻り、ハヤブサの写真展他多方面で活躍する。映画「飛べ!ダコタ」制作にあたっては中心的な役割を担い、自ら見聞した出来事を掘り下げ、周辺取材を行って関係書を出版した。日本写真作家協会会員。著書:『静岡レジャー歳時記』(明文堂出版社)、『昭和の佐渡綴り』(若葉出版社)、『実録 ダコタ物語り』(2012年 佐渡ジャーナル出版局)※当ブログ所収の近藤元次氏とは竹馬の友であった。(➡近藤元次に清水氏の回顧文あり)
・長男は京大卒、Z会創立者の一人。
フェイスブック「ようこそ、旅の人!佐渡を千倍愉しむっちゃ」2013年4月30日 ·
「実録 ダコタ物語」
著者の清水 薫氏に先日お目に掛かる機会があり、先に佐渡で公開され、東京等で10月5日から公開される映画「飛べ!ダコタ」の元になる書を記されたことを知った。 氏は当時16歳で、高千の青年学校にいた。その後、地元にこの事件関係の資料が一切保存されてないことを知った。体験者で、かつ記者出身として、当時の関係者を取材し、この書を残すことにした。先に記した「飛べ!ダコタ」上映記を以下訂正、補足します。なおこの映画は、是非全国で見て頂きたい。驚愕するような史実と共に、当時の国民思想、そして現代に続く反戦の理念が貫徹されています。・ダコタが不時着した時には、香港の英国軍、大使館関係者6人(内タイピストの女性1人)及び機体のクルー5人が搭乗していて、皆無事だった。クルー以外の人間は翌日高千を離れている。
・機長達も直ぐ高千を離れることが出来たが、クルーとして残る選択をした。・救援がスムーズにいったのは、高千の人々の個々にはわだかまりがあったものの、戦争はもう終わったという気持ちと、兵隊さんを助けてやろうという矜恃があった。さらに事故後の英国兵士の紳士的な態度にも負うことが大きい。
・事故後2日目には新潟の米軍基地と連絡が取れ、新潟日報に小さなベタ版で掲載されている。決して秘密ではなかった。
・当時の高千はまさに秘境、貧困極まれる地で、相川からも容易には近づけず、週に数便新潟との船があった。しかしここに北大へ行っていた学生が休暇で帰省しており、通訳として意思疎通が出来たし、小学校の当時20歳の女性教員が英国の歌を知っていて、蛍の光、埴生の宿、庭の千草などを演奏することで、小中学生と兵士達との交流が深まることが出来た。
・6日後に東京から英国の整備士が駆けつけて来た。彼が佐渡、高千と英国を結び付けるキーパーソンになる。彼は率先して宴会で佐渡おけさを踊り、彼の子息が将来高千を訪れることになる。
・当時の高千には玉じゃりのような石の海岸が1800mあったことが、ダコタの不時着を可能にした。
・懸命な修復作業により、40日間で長さ500m、幅50mの滑走路が完成する。最後は機体を軽くするためにクルー3人が搭乗し、他は新潟基地で到着を待った。ダコタは200m走って離陸に成功。別れを惜しみつつ新潟へ向かった。
・高千の有志により、2001年に記念碑が建てられ、英国大使館の書記官を招待した。
・そして2010年に先の整備士の子息が高千を訪問し、当時のお礼を述べた。これがメディアに伝わることになり、映画化に結びつくことになった。
最後に。当時村長として救援を決断し、自分の旅館に泊めてそのため軍靴で傷だらけになった床を、その後に兵役からようよう戻った長男は、父親の決定に反抗することもなく、自分の代になって床を全て修繕した。彼は鬼畜米英の精神で部下を指揮してきたもので、関係者の中で唯一、高千での史実を一切語らなかったと言われている。
「今は昔、懐かしい昭和の風物」(清水薫「島の新聞」)
(清水薫)
「佐渡ジャーナル」関係記事:「29号」(平成24年4月)この一冊「昭和の佐渡綴り」-報道記者が写した記録集(清水薫著)(岩田雅)「37号」(平成26年4月)ダコタは浜松へ嫁にやった TVでの市長発言に疑義(清水薫)「38号」(平成26年7月)・映画”飛べ!ダコタ” 制作-完成-顛末(清水薫)・飛べダコタ波及効果不調 映画は「一過性」に終わる(清水薫)・ちょっと気になったこと(清水薫)「40号」(平成27年1月)”トキ”の佐藤先生を偲ぶ(清水薫)「42号」(平成27年7月)・悲劇の将軍 本間中将を偲ぶ(清水薫)「43号」(平成27年10月)・佐渡金銀山登録へ再挑戦(清水薫)「45号」(平成28年4月)・牛の多頭飼育で佐渡和牛の増産拡大(清水薫)「46号」(平成28年7月)・轍を踏んだ大野亀のカンゾウまつり(清水薫)「54号」(平成30年7月)・石田邦蔵氏生誕130年-僻地高千港開港100年功労者-(清水薫)「56号」(平成31年1月)天皇陛下 皇太子時代の佐渡行啓の足跡(清水薫)「57号」(平成31年4月)・佐藤春雄先生「生誕100年」(清水薫)
「島の新聞」索引(人名別)
・高下の竹内仁一さんの父や浜辺直美さん夫が従弟。竹内さん父の妹が清水さんの母。
清水家墓は高下農協裏にある。
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 9相川海岸にハヤブサ、生息 二週間の生態記録・奮戦記 9カメラマン清水薫様のこと 高野チエ 10「田舎料理と伝統芸能」を味わう 写真:清水薫 10 モリアオガエル佐渡各地に生息/文 写真:清水薫 10歴史の佐渡金銀山 世界遺産の登録運動 文・写真:清水薫 10猛きん ハヤブサ 生態記録2弾 文・写真:清水薫 10佐渡のアマチュア演劇グループ 朱鷺の舞う空 熱演 文・写真 清水薫
「出山正さんより」
清水さんは小中学校の頃に学校周辺や両津の街でよく見かけていた人で、新聞記者なのかなとの思いで見ていました。30歳前に静岡支局に赴任すると、事件現場で遭遇したのでびっくり。そこで佐渡出身者として初めて会話を交わしたのですが、日報の後、読売に務め、私と会った時は読売(日テレ)テレビのカメラマンでした。昭和54年頃、静岡第一テレビが開局すると移り、最後は報道局長を務められたようです。定年後は佐渡高千に帰り、映画「飛べ!ダコタ」が製作されたころから、電話でやり取りすることが数回ありました。それにしても、かけがいのない両津の貴重な写真を多く残されました。懐かしくも、偉大な先輩でした。
清水薫自伝他
★清水勝昭
「島の新聞」索引(人名別)
★清水啓蔵
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★清水兼造(北狄の鳴神)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
大正14年、海軍軍人清水兼造(金泉)が靖国神社奉納第1回陸海軍人対関東学生相撲大会で個人優勝し、明治大学の佐藤秀次(両津)は関東相撲大会に優勝する。
明治30年生まれ、昭和43年没。年71歳。(1897年~1968年)清水兼造は、大正期前期に佐渡相撲に活躍した形跡がありますが、彼の真価を発揮したのは、海軍へ入団後である。遺族によれば詳しい資料は残っていないが、賞状と賞品が残っていると、送付された写真が後記掲載のものである。それによれば、大正14年4月靖国神社例大祭奉納の相撲大会で、陸軍・海軍・関東学生連盟対抗の競技の中で、海軍随一・三者対抗の個人優勝の栄誉を得ている。帰郷後も、北秋の大名乗りである鳴神を名乗って、佐渡相撲で活躍した。生存している古老の話でも、鳴神は大関相撲だったと記憶している人が数人いる。彼は講道館柔道も四段であったので、後年県立相川中学校の柔道教師の職を勤めた。もちろん同校の相撲部監督でもあった。これには愉快な話が残っていて、真野官奉納の三校対抗相撲(佐渡中学、相川中学、佐渡農学校)大会に集合した生徒の前で、試合方法について、佐渡中学尾崎柔道教師と、討論をするのを例としたという、生徒達はまた始まったぞと、前座試合を楽しんで聞いたものだと語り継いでいる。晩年子息の働いていた札幌市に移り住んで、昭和43年10月13日に胃癌で病没した。
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
(相撲部門参照)昭・14、講道館柔道5段に列せられる。昭・43 北海道札幌で逝去。
「島の新聞」索引(人名別)
★ 清水幸吉
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
相川町二丁目に、通称「はぐちや」清水幸吉がいた。筆者は昭和の初め、わざわざたずねて、製作の
福助を買ったことがある。「はぐち」というのは「素焼物」のことで、いつもはこの「はぐち」を焼いていた。そして、有卦の時だけ、福助をこしらえた。ほかに縁起物の恵比須・大黒の土製の面などもこしらえるということであつた。店頭には、日用品の素焼物のほか箱庭の時に使う家とか、橋とか、鳥居などがならべてあつた。
この「はぐちや」でつくった福助も、昔のものはよかった。八cmくらいのものを一個入手したが、眉や目が、太く大きい。そして、振ると音がするようになつていた。この時、買つたものは、緑と赤のエナメルを塗ってあつて土人形の本来の味が、さっぱりなく閉口した。二十㍉くらいの小さいものは珍し
い。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
★清水儀平
『佐渡酒誌』(平成14年)

★清水京子
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 8<短歌>外海府紀行
★清水伍作
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎
★清水幸雄
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
八幡の人、佐渡中時代の昭和12年、第7回県下男子中等学校総合体育大会4部において、800m5位(2分25秒4)。
新潟師範時代の昭和17年、第12回県下男子中等学校競技大会1500mで1位。
同年、全国中等学校陸上選手権大会800m、1500mで1位。
その後、清水幸雄(新記録証受賞)は加茂農林高校体育指導の充実を通じて県陸協の進展に寄与された。
★清水シュン
「大力の女と百六歳の老婆」(「佐渡の百年」)
★清水湘斎(しみずしょうさい)
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

【生没】一八八七ー一九三九 銅器作家。昭和十四年二月、五二歳で没した。住まいは相川町三丁目で、若くして沢根の本間琢斎に師事、斑紫銅および斑黄銅などに、美しい作品を製作して一家をなし、とりわけ神仏像の彫刻ですぐれた技を持ち、「相川の銅器作家中随一」と評判が高かった。大正の初期から昭和の初めころ、全国物産品博覧会や内国勧業博覧会などに、花器・香炉などを出品し、受賞すること十数回におよんだという。大正五年(一九一六)七月、皇太子裕仁(昭和天皇)が来島されたおりに、御観賞を得た「斑紫銅芝屋香炉」が同殿下の御買上げになったほか、翌大正六年に出品した「斑紫銅無地花瓶」が、高松宮殿下のお買上げになったことも記録されていて、三丁目の自宅の裏に工房を持っていた。出品作に対する感謝状や賞状など、生前の作歴を示す三○点余が、屏風にして保存されている。本名は丈作。もう一つの雅号が孤松軒。夫人のミツイさんは元安田部屋の坂尻家の出で、長年産婆さんとして令名が高かった。陶芸作家の清水文平さん方が、湘斎家の本家に当たるという。
【参考文献】高屋次郎『佐渡名鑑』(佐渡毎日新聞社)・原 泉『佐渡郡肖像録』(博友社) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
銅器鋳造作家。明治二十六年、佐渡郡相川町三丁目で生まれた。同郡沢根の二代本間琢斎の門下である。紫班銅、黄紫銅に一家の風をなした。各種博覧会に出品して賞状褒状を受けた。
神仏像にすぐれた作品がある。(佐渡名鑑)
★清水丈作
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]
★清水伸





新潟日報(平成26年12月20日)

※「佐渡ジャーナル」関係記事:「5号」(平成18年4月)清水伸展(相川出身・パリ在住)
「島の新聞」索引(人名別)
★清水眞司
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)清水眞司
山本静古 99 扁額「静古樓」の印のことなど 六穂
篆刻 121 山本植蔵氏の篆刻 六穂
★清水一
「躍進日本」

★清水治慶(はるのぶ)

★ 清水半平
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より

佐渡の創作玩具も、つぎつぎに廃絶の運命をたどっていったが、昭和初年から人形師として現在もなお創作玩具の製作をつづけている人がいる。この人は、佐和田町沢根、清水半平である。小学校を卒業すると、同じ町に住む仏師二代山田与八の弟子となつて木彫家をこころざした。木彫家としては「日展」に、昭和三十二年「波紋」が、同四十年には「果樹」が入選した。また、昭和三十五年には、全日本人形作家連盟と朝日新聞社主催の「人形展」には「ぼたん雪」を出品、特選になった。これは、雪蓑をつけた三人のこどもが一団となって、ぼたん雪の降るのをながめている姿である。わらべ唄の「天井見りや 煤だ 下見りや 雪だーというのを思い出す。彼の制作する木彫りの作品もいつもこどもを題材にしている。ここにも人形師らしい彼を見ることができる。
彼の初期の創作玩具は「半平人形」のレッテルで売り出した。土製で、三個一組の編笠に浴衣姿のおけさ人形」であつた。これと同じ九cmくらいの土製で「盆踊人形」と「春駒人形」もあつた。 この「盆踊人形」は、普通「おけさ人形」ともいっているが、このごろのようにきれいに、着飾ったおけさ踊とは、まったく異にして、農村や漁村の老若男女が踊っている姿で、まず盆踊風景というところであろう。これこそ、佐渡の庶民の姿で野趣横溢している。人形は、頬かむりで踊る人と、太鼓たたきと、笛吹きの三人である。清水半平が、長い間つくつた人形の種類は多い。「おけさ人形」につづいで、三人一組の「春駒人形」をつくつた。「おけさ人形」と同じく高さ九cmで、春駒そのものは人形のモデルとしては難しい。鳥打ち帽をかむった太鼓たたきと、大きな福袋(もらった米など入れるもの)を肩にした付き添い人は、稚拙味があつて面白い。今なお製作をつづけているのは「のろま人形」と「のろま土鈴」である。
「のろま人形」は、小型四個の首人形で、竹を横に切ったものの中に藁をつめ、そこにさしてある。小型で、値段も安いので観光客から歓迎されている。しかし、エナメル塗りはなんとかならないものであろうか。小売店の注文かもしれないが、改良してほしいと思う。
「のろま土鈴」は四個一組であるが、小売店の注文で二個一組として箱入りである。これなども、もっと小さくして四個一組にしてほしい。人形芝居の「のろま人形」が四個で一座を組織しているからである。最近は製作をやめているが、「流人首人形」というものもあつて、小倉大納言、世阿弥、切られ与三郎、女人の四個組であった。このほか、張子の春駒面〔釣〕などもこしらえたが、これもなかなかよく出来ている。
こういうものを、もっとつくつてもらいたいと思うが、土産物屋などの注文であつて、作者の思うようにならないところに悩みがあるのであろう。一日、彼の工房をたずねたが、注文に応じられないほどだと、うれしい悲鳴をあげていた。若い次女悦子が、この人形づくりの後継者になるといっていたが、心づよいかぎりである。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
★清水敬允(ひろちか)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「23号」(平成22年10月)佐渡旅行-”佐渡の能楽堂を見たい”(清水敬允 ひろちか)
★清水基吉
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)清水基吉
26 特集 句集「海見ゆる坂」しづかな姿勢
54 特集 詩華集「佐渡のうた」 ひとむかし
59 清水基吉先生の俳句 山崎房子
★清水祐治
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★清水与四平
『佐渡酒誌』(平成14年)

★清水六穗
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)清水六穗 131 西川春洞四言二句書の周辺〈山本修巳家所蔵 六曲屏風〉
「北斗星」(7月8日付)
2024年度から新1万円札の顔となる実業家の渋沢栄一は、新潟県産の「佐渡赤石」をこよなく愛した。透明感のある光沢と深い朱色が特徴の銘石だ。渋沢は1888(明治21)年に東京・日本橋兜町に居を構え、縁起担ぎで重さ450キロもある赤石を置いて経済繁栄を祈った。転居先にも運び、生涯手放さなかったという 一時は都内の料亭に引き取られたが、3年前に兜町の東京証券取引所ビルを所有する平和不動産(土本清幸社長)が譲り受けた。兜町に戻った石は同社のロビーで独特の存在感を放っている。人工的なロビー内に天然の石があるだけで、何とも言えない安らぎが感じられる 東証は2001年に株式会社化され、由利本荘市矢島町出身の故土田正顕(まさあき)さんが初代社長になった。その縁で矢島中学校の生徒はここ数年、修学旅行で兜町を訪れている 生徒はこの石に触れるのが恒例だ。「生徒には『渋沢のパワーを感じ、世界に羽ばたいて』とエールを送る」と土本社長。東証と矢島の縁を大切にするその心意気に胸を打たれた 平和不動産は天然素材の癒やし効果を生かして兜町の再開発を進める。先月は東証近くに矢島産秋田杉を使ったウッドデッキやベンチを設置。「木は香りも肌触りもいい。街に潤いをもたらす」(土本社長) コンクリート造りのビルが並ぶ大都市で杉製品は一服の清涼剤。秋田ブランドの発信につながる。癒やしの空間に「秋田」を売り込む余地はまだまだありそうだ。
★渋手村三右衛門
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))

★渋手村彦右衛門
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))

★渋谷秋守
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡小木の医家。通称を主計といい、本居太平に学んで和歌をよくした。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
★渋谷綾子
佐渡高校時代の平成4,全国高校生文章表現コンクール、意見・主張の部、課題「水」入選
★渋谷卯之吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★渋谷かえで
両津高校時代の1991年度(H3)12月、第6回全国高等学校文芸コンクール(全国高等学校文化連盟主催) 短歌部門 入選、 1993年度(H5)5月、第7回学生短歌・高校生の部(短歌新聞社『短歌現代』5月号)入選 2月、新潟県高等学校総合文化祭文芸部門(『高校文芸』第8号)短歌 奨励賞
★渋谷和子

★渋谷管蔵
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★渋谷佐吉
外海府村村長 五十浦

★渋谷真清(さねきよ)
「戦国佐渡国人名辞典」より
【しぶやさねきよ(15??~1589)】加茂郡加茂城主。通称十郎左衛門。夷、湊、加茂を領した。1589年、「加茂城の戦い」で長尾景勝勢の攻撃を受け滅亡した。
★渋谷真正(さねまさ)
「戦国佐渡国人名辞典」より
【しぶやさねまさ(15??~1589)】加茂郡歌代城主。通称四郎左衛門。歌代を領した。1589年、「歌代城の戦い」で長尾景勝勢と戦い滅亡した。
★渋谷三郎左衛門
羽黒大榮寺




「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)
羽黒の人で、目黒町城主。「西光寺中興記」によると、渋谷は本間信濃守の旗下であったという。西光寺の西側にも館跡がある。これは渋谷の家老・金子弥七郎の居館で、弥七郎はのちに河原田に移って弥兵衛を名乗った。
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より



★渋谷修太




「ウイキペディア」より
実業家、株式会社「フラー」CEO。父が両津出身。
「2020-09-05 日経」
今年6月に東京から新潟にUターンしたフラー株式会社の渋谷修太代表取締役社長兼CEO
「23歳の若さで起業」
今年6月に東京から新潟にUターンしたフラー株式会社の渋谷修太代表取締役社長兼CEO。新潟県出身の起業家として、また、若きIT企業の経営者として、今最も注目される人物のひとりである。まず、新潟へ戻って来た理由を渋谷CEOに聞くと、「コロナが結果的に要因となった。非常事態宣言が出て以来、全社的にテレワークにした。そして、ズームなどでの電話会議が増えてアポイントが今まで1日4、5件だったのが、7,8件こなせるようになった」と話す。これまで東京にいた理由は取引先などの顧客が多く東京にいるからだった。しかし、コロナ禍で、どこにいてもアポイントがこなせるようになった今、東京にこだわる必然性がなくなったという。2017年に新潟支社を開設し、1か月に1回のペースで新潟に来ていたが、株式会社スノーピークの山井太会長や株式会社ハードオフコーポレーションの山本太郎社長からUターンを勧められたことも決め手となったという。もともと渋谷CEOの父親が佐渡出身で実家があり、幼少の頃は妙高市、小学生は南魚沼市、中学校は新潟市。中学を卒業して、ゲームを作りたかったという理由で、長岡高専に入学した。長岡高専では自分よりプログラミングが得意な人が周りにいた一方、渋谷CEOは寮生活の中で、みんなをまとめる役が多かった。18歳の頃、海外留学を考えていたこともあり、のちにライフネット生命保険株式会社を設立した岩瀬大輔氏の著書「ハーバードMBA留学記」を読み、感銘を受けたという。そこで、「高専の仲間を集めた会社を自分が作る」(渋谷CEO)と起業家になることを決意し、高専を卒業した後、経営を学べる筑波大学経営工学部に編入した。その後新卒で、ゲーム事業などを展開するグリー株式会社に入社。それまで自作のスマホアプリがヒットしたこともあり、2011年、23歳の若さで同社を起業した。渋谷CEOは「ある意味では、私は起業が一番リスクの低い選択だと思っている。自分で稼いでいける力があるのが一番強い。大企業が安心だとか、終身雇用もなくなっている今、誰が作ったかわからない会社に入るのは個人的には怖いと思う」と話す。
「起業家の育成にも注力」
新潟支社
新潟に帰ってきた理由の1つには、新潟の起業家の育成という面もある。新潟県では今、起業家を育てようとしているが、肝心の起業経験者がおらず、その意味で、渋谷社長は自分に何かできるのではないかと考えたという。「新潟は起業率が低いが、コロナ禍で地方回帰が進んでいる中、起業はどこでもできるので、ぜひ新潟で起業してもらいたい。起業はニッチな競争相手がいないところを狙えというのが教えなので、東京の渋谷で店をやるより、地方でやったほうがはるかにチャンスはあると思う」と渋谷CEOは話す。
例えば、「新発田モデル」と呼ばれるビジネスモデルがある。株式会社ハードオフコーポ―レーションが10万人ほどの新発田市で成功したモデルだからこそ、全国展開ができたということを言うものだが、その意味では地方は起業家にとってチャンスが大きいと言えるだろう。2018年には、同社初となる長岡花火を打ち上げた。長岡市は渋谷CEOが高専時代の5年間を過ごした地だ。最近では自らが代表理事となり、新潟ベンチャー協会を設立するなど新潟に拠点を移し、着々と足場を固めている。
「長岡花火公式アプリ」
その中で、新潟県のデジタル化のけん引役となりたいと話す渋谷CEO。そのためには、人材確保が課題だという。新潟県にはまだ、エンジニアやデザイナーが少ないため、新潟支社の社員のほとんどがUターン組だという。フォローワー約8500人のツイッターで新潟の魅力を発信するなど「新潟愛」が溢れる渋谷CEOは、30代前半で100人の社員を擁する会社の陣頭指揮をとる。新潟県在住の若手起業人として、今後も注目していきたい。
佐渡汽船と僕のエモい想い出
★渋谷十郎左衛門真清
『両津町史』(昭和44年刊)
「佐渡風土記」には、加茂には渋谷十郎左衛門真清という地頭が住んで、湊、夷、加茂を領知している、とある。
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より




★渋谷正太郎
草創期の佐渡中学英語教師。明治三十三年一月から同三十四年八月まで教鞭を執った。東京出身の渋谷は、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業したばかりで、流暢な発音で生徒を驚かせた。(「佐渡高等学校百年史」より)
★渋谷四郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大3、小作労働組合の會合[十三年二月七日]
★渋谷四郎左衛門直正
『加茂村誌』(昭和38年)

『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より



★渋谷四郎次
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、佐渡公政会の秋期総会[四年十月十六日]
★渋谷甚平
梅津の人。明治32年、馬首本間太郎八、和木石塚権平等と但馬牛加茂村内に導入し飼育した。
★渋谷助一
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」

・鷲崎の人、大正9年、内浦沿岸客船航路を開設。発動機船、栄徳丸
★渋谷政治
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
高田師範時代の大正14年、全国中等学校陸上競技大会(2部)で走高跳2位。同年、第2回明治神宮体育大会北陸予選会で三段跳3位。
★渋谷節子
両津高校時代のS37、17回岡山国体 ボート部女子ナックル7位 (奥野郁子、宮川テル子、菊池節子、
渋谷節子、杉山道子) 、 S38、山口国体 ボート部女子ナックル3位(渋谷節子、菊池節子、三田敏枝、杉山道子、伊東千寿)
★渋谷武基(川崎、秩父氏)
1142年(康治2年)佐渡に配流。
★渋谷忠右衛門
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★渋谷智彦
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大2、道路認定運動[九年四月一日]
★渋谷豊蔵
『加茂村誌』(昭和38年)


『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明4、進歩党の集会[四十一年四月二十日]
★渋谷直清(十郎左衛門直清)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡国賀茂那賀茂(両津市)の人で上杉時代の地頭である。十郎左衛門尉という。夷、賀茂を領していた。(佐島遺事)
・1290(正応年中)、加茂に住す。
★渋谷直茂
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡国賀茂郡梅津(両津市)の人で上杉時代の地頭である。半左衛門といった。梅津、玉川、和木、小松、歌見、平松を領した。(佐島遺事)
★渋谷直住
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡国賀茂郡羽黒の人で上杉時代の地頭である。三郎左衛門尉という。羽黒、目黒町、北五十里、小松の内、鷲崎の内、願、鵜島、真更川、玉川、椿の内を領した。(佐島遺事)
★渋谷直正
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡国賀茂郡歌代(両津市)の人で上杉時代の地頭である。四郎左衛門尉といった。歌代を領した。(佐島遺事)
★渋谷春菜

★渋谷半左衛門真茂
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より



★渋谷尚武(しぶやひさたけ)
(写真左より)
・Gene Shibuya ・2000年頃、メタリカのカーク・ハメットとMIに ・1990年、ローリングストーンズの日本での初ワールドツアー時に、ESPミュージカルアカデミーを訪問したギタリストのロン・ウッド氏と ・2011年1月、NAMM(the National Association of Music Merchant)から業界発展の功績を認められ表彰された ・ハリウッド・ブルバードにあるMIの校舎。緑の壁が特徴的だ





1937年(昭和12年)4月8日生まれ。両津市羽吉(羽黒神社近く)出身。加茂中ー両津高校(7回生 生物部部長)ー1961年同志社大学商学部卒業後、河合楽器製作所に入社。1967年に日本楽器製造(現ヤマハ)に転職。楽器販売会社フェルナンデスを経て、1975年に高級エレキギターの製造およびリペアのESPを設立。1983年に日本ギター製作学院を開校し、学校経営に参入。その後、日本創作音楽院、日本ピアノ調律師養成学院を開校。1987年に3つの学校を統合してESPミュージカルアカデミーと改称し、学校法人となる。1995年に渡米。特殊メイクの専門学校やダンス学校、日本語放送局UTBなどを次々と買収し、ハリウッドを拠点にエンターテインメントビジネスを展開中。
※弟の芳夫も同志社で学び、ESP社長を継ぐ。
(株式会社イー・エス・ピー(ESP Co.,Ltd.))
<会社概要>
業務内容:楽器製造・卸・小売・貿易、音楽・映像関連教育事業、出版、音楽ソフト制作・販売
代表取締役:渋谷尚武
従業員:300人(ESPグループ総社員数720人)
資本金:7500万円
年商:47億円(ESPグループ17社、総計171億円)
取引銀行:みずほ銀行高田馬場支店、三菱東京UFJ銀行高田馬場支店、りそな銀行早稲田支店、三井住友銀行高田馬場支店
本社所在地 101-0054 東京都千代田区神田錦町1-14-2
本部事務所 171-0033 東京都豊島区高田2-10-11
TEL (03)3982-0699(代)
東京営業本部 354-0046 埼玉県入間郡三芳町竹間沢東3-9
TEL (049)274-3810 / FAX (049)274-3811
大阪営業所 530-0016 大阪府大阪市北区中崎3-1-2 ESP梅田東ビル7F
TEL (06)6359-0455 / FAX (06)6359-5233
<代表取締役プロフィール>
大学卒業後、河合楽器製作所、日本楽器製造(現ヤマハ)、フェルナンデスに勤務し、そこで得た知識をもとに1975年に20代の若者3人と共にギターメーカーのESPを創業。その後教育事業、エンタテインメント事業と多角的に事業展開をする。
<社歴>
1975年 2月: 最高級エレクトリック・ギターの製造並びにギター・リペアマンの養成を目的に設立。
1977年 4月: 販売会社(株)エーアンドエスの設立。 並びに製造会社(株)クラフトマンを設立、 貿易業務も開始。
1978年 10月: 東京・神田錦町に本社ビルを購入し、同所にアンテナショップ「ESPテクニカルハウス」を開設。
1979年 3月: ギター用のボディ材、ネック材などの単体販売開始、並びに国内初のエレキ・ギターのフル・オーダーメイド・システムを開始。
1981年 3月: 米国ニューヨークにESP-USAを設立。販売会社の(株)エーアンドエスを(株)マッド・カンパニーに、 製造会社の(株)クラフトマンを(株)ファクトリー21に社名変更。
6月: 東京・豊島区高田1丁目に東京工場を開設。
1982年 3月: 名古屋に製造工場を開設。
12月: 東京・渋谷道玄坂2丁目にショップ購入。「ESPクラフトハウス」開業。
1983年 4月: ギター製作技術者養成及び修理技術者養成を目的とする「日本ギター製作学院」を開校。
5月: 米国の大手ギター・ピックアップ・メーカー、セイモアダンカン社のエージェント、(株)優美サウンドを買収。
1984年 4月: 東京・渋谷区道玄坂1丁目にビル購入。ショップ及びリハーサルスタジオを開設。
10月: ミュージシャン育成を目的とする音楽学校「日本創作音楽院」を開校。
1985年 4月: ピアノ技術者養成及び管楽器技術者養成を目的とする「日本ピアノ調律師養成学院」を開校。
大阪にショップ「シェルドンギターズ」開設。
10月: バイオリン製造会社(有)木曽鈴木バイオリンを買収し、(有)木曽バイオリンに社名変更。名古屋工場を長野県木曽に移設。
1986年 4月: 新潟県佐渡・両津市に敷地約6,600平方メートルの工場を開設。
8月: 仙台に「モンギービジネス」開設。
9月: 米国ニューヨークにギター・ショップ「48th st. Cusutom Guitars」を開設。
1987年 2月: 「日本ギター製作学院」と「日本創作音楽院」と「日本ピアノ調律師養成学院」とを統合して「ESPミュージカル・アカデミー」と改称し、学校法人 / 専門学校認可校となる。
また、「日本ギター製作学院」の一部を「ESPギタークラフトアカデミー」と改称し、併設する。
6月: 金沢にショップ「ギターショップ ザ カスタム」開設。
8月: 名古屋にショップ「クラフトカン」開設。
1988年 9月: 東京・豊島区高田2丁目に総合管理ビル完成。広告代理業務を行う(株)オフィス・アトーを設立。
10月: 東京・渋谷にオールド・ギター・ショップ「オールド・ギター・ガレージ」、バイオリン・ショップ「マリオルッチを開業。
1990年 6月: 米国ロスアンゼルスのギター・メーカー、シェクターUSAを買収。
10月: 東京 神田駿河台にショップ「BIGBOSS東京」開設。
1992年 3月: 中国・黒竜江省鶏西にESP-CHINAを設立。
7月: 京都にショップ「BIGBOSS京都」開設。「シェルドンギターズ」「クラフトカン」「モンキービジネス」「ギターショップ ザ カスタム」がそれぞれ、「BIGBOSS大阪」「BIGBOSS名古屋」「BIGBOSS仙台」「BIGBOSS金沢」に名称変更。
1993年 10月: 出版社(株)アリノス出版、アーティスト・マネージメント会社(株)アリノスマネージメント、音楽ソフト制作会社(株)アリノス企画を設立。
1995年 1月: 米国の音楽学校MI( ミュージシャンズ・インスティチュート)を買収。MI日本校、「MIジャパン東京校」、「MIジャパン大阪校」、「MIジャパン名古屋校」、「MIジャパン仙台校」を開校。
1996年 3月: 札幌にショップ「BIGBOSS札幌」開設。
8月: 広島にショップ「BIGBOSS広島」開設。
1997年 4月: 「MIジャパン札幌校」、「MIジャパン福岡校」を開校。
6月: 米国の日本語放送局UTB(ユナイテッド・テレビジョン・ブロードキャスティング)を傘下に収める。
12月: 米国において90年の歴史を誇る高名俳優養成学校「シアター・オブ・アーツ」(TOA)、ハリウッド映画で数々の卒業生が活躍する特殊メイクの専門学校「エレガンス・インターナショナル」を傘下に収める。
1998年 4月: 放送・ビデオ制作・映画制作スタッフ等の養成校「UTBアカデミー・ジャパン」を開校。
2000年 7月: 東京・渋谷にビル購入。MIジャパン東京校新校舎完成。
11月: 東京 神田駿河台にショップ「BIGBOSSフリークスマーケット」開設。
2001年 10月: (株)アリノス企画、(株)アリノス出版、(株)アリノスマネージメントを(株)トライスクルエンタテインメント、(株)トライスクル ミュージック、(株)トライスクル マネージメントに社名変更。
2002年 8月: 13店舗目の直営店ショップ「BIG BOSS福岡」 開設。
2003年 4月: 「ESPギタークラフトアカデミー仙台校」を開校。
2005年 4月: 総合エンタテインメント専門学校「ESPエンタテインメント」を大阪に開校。ダンスと声優の専門学校「原宿パフォーマンスビレッジ」を東京原宿に開校。
子供からお年寄りまでを対象とした新しいスタイルの音楽教室「ESPミュージックスクール」の全国展開を開始。
9月: 東京 神田駿河台にショップ「BIGBOSSサウンドライナー」開設。
2007年 4月: 「原宿パフォーマンスビレッジ」を「ESPパフォーマンスビレッジ」に名称変更。
2008年 6月: 東京工場を埼玉に移転し新東京工場とする。
2009年 11月: 「ESPミュージックスクール大阪校」を開校。
12月: 東京 神田駿河台にショップ「ESPギターワークショップ」開設。
2010年 5月: 東京 神田駿河台にショップ「VIPギターズ」開設。
2012年 4月: 東京 神田駿河台にショップ「BIGBOSSお茶の水駅前」開設。
5月: 東京 神田駿河台に「ESPミュージックスクール東京校」開校。
9月: 佐渡工場を埼玉に移転し新東京第二工場とする。
(株)トライスクルエンタテインメント、(株)トライスクル ミュージック、(株)トライスクル マネージメントを株式会社トライスクルに統合。
2013年 4月: 「ESPパフォーマンスビレッジ」を「ESPアニメーション声優専門学校」に名称変更。
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「武器は不屈の精神力。ハリウッドに新風を巻き起こす」
(QOLA Quality of Life in Los Angeles クオラ: アメリカから発信する世界中の日本人を応援するサイト 2015年6月号掲載)
すべては与太者の音楽から始まった
すべては与太者の音楽から始まった
24歳の時に京都から上京し、新聞の求人広告を見て河合楽器製作所に応募して入社しました。一見、不良のような風貌だったので、当時、与太者の音楽と言われていたエレキギターの担当になったのがこの業界に入った始まり。実は、大学生の頃はギターとはほど遠く混声合唱団に所属しており、賛美歌を歌っていたので、求人広告を目にした時に「音楽が傍にあれば、少しはまともな人生が歩めるかもしれない」という気持ちになったことを憶えています。でも、もしピアノ担当になっていたら違う人生だったかもしれません(笑)。結局、上司と衝突して入社4年で辞めてしまいました。その後、仕事がなくて困っていた時に、知り合いだった業界紙の社長とばったり会いました。「どうしてる?」と聴かれたので、食えずに困っていると答えたら、ヤマハが人材を募集しているからということで、コネで中途採用してもらいました。
ここでも4年間働きましたが、同じ業界の競合2社で働いてみると、お互いの隙や弱さが明確に見えてきます。そこで退職を決意し、その退職金80万円を元手にフェルナンデスという楽器メーカーの株を30%購入しました。そのままフェルナンデスに入社し、設立して間もない会社の売上げを10倍に跳ね上げました。フェルナンデスでは常務取締役まで務めましたね。その後、独立して渋谷の裏通りに楽器店をオープン。でも、ギター30本を仕入れるのがやっとで、店舗の半分しか埋まらなかったため、工作機械をタダでもらってきて空いているスペースに飾り、あたかもそこでギターを作っているように見せたんです。しばらくしてから、そこで国内初の修理と高級ギターのオーダーメイドを始めました。
従業員を募集すると40名の応募があり、そこから1人だけ採用した社員が出社2日目に自転車泥棒で捕まってしまいまして…(笑)。面接なんて当てにならないと思いましたね。その時に「彼らの親たちが資金を出せるなら、こういう子を預かってあげられるな」と思ったのが、音楽専門学校創設のきっかけです。そして、同時に職人を養成する日本ギター製作学院を開校しました。最初はどのくらい生徒が集まるかなんて皆目検討もつきませんでしたが、蓋を開けたら73人の生徒が140万円という高い授業料を振り込んで入学してきたのです。それから、ミュージシャン養成学校の「日本創作音楽院」、管楽器の修理学校の「日本ピアノ調律師養成学院」も1985年に開校し、それを統合して「ESPミュージカルアカデミー」と総称しました。もし、あの時雇った子が自転車泥棒をしなければ今はなかったかもしれません。
57歳でアメリカに単身乗り込む
57歳でアメリカに単身乗り込む
2000年頃、メタリカのカーク・ハメットとMIにて
アメリカに渡ってきたのは1995年。ちょうど20年前、57歳の時です。その頃には日本のエレキギター業界ではやりたいことをやり尽くしたし、このまま自分がいなくなったら会社はどうなるかと考えた時に、社員が自分たちで判断して運営する会社にしていかなければ先行きはないと思いました。また、買収したハリウッドの音楽学校Musicians Institute(MI)が赤字経営だったことに加え、その5年前に買収したギター製造・販売会社のシェクターも毎年慢性的な赤字を抱える経営状態だったので、「これは自分が前に出て行かないと軌道に乗らないだろうな」という内情もありました。
当初、シェクターは7人の従業員で月間7本しか売れていなかったんです。膨大な赤字を垂れ流していても、売れないミュージシャンを囲ってリムジンを借り、フランス料理店を貸し切って派手にパーティとかしているわけですよ。それでも夢だけは立派に語る。この今までの悪しき慣習を断ち切らなければと思い立ち、赤字脱却の一案として「利益を出したら、最初の半年間は80%、その後は50%を分与する」と言ったら、なんと4カ月後に2万ドルの利益をもたらしました。この時に、アメリカ人は目標をはっきりと与えてあげないとダメなんだと悟りましたね。
プロフィット・シェアを導入してからは、嘘みたいに利益を生み続けました。ところが、利益を半分も還元すると会社の取り分がほとんど残らないので、途中から3割に減らしたら、従業員から弁護士を立てて即訴えられました。「もうええわ。会社を売る。全員クビだ」と半ば投げやりになって言ったら、その訴えは嘘だったかのように、さらに利益が上がるようになりました。それからは、自分たちの利益が少なくなるからと、パーティも開かなくなるんですから。アメリカ人は危機感を与えないと本気で働かないんですよ。今では年間3万6000本は売り上げる優良メーカーです。
一方MIは、なぜ赤字なのか理由ははっきりしていました。元来スタジオミュージシャンを養成する学校でしたが、コンピューターの発達でスタジオミュージシャンの仕事が激減する中、アーティストミュージシャン養成に舵取りを変えなければいけなかったはずなのに、それをしなかった。20年間かけて作り上げた古いカリキュラムを使っていたのです。私が日本から赴任すると聞き付けた従業員が、パールハーバーの日(12月7日)に労働組合を結成し、赤字経営なのに賃上げ要求をしてくる。だけど、「潰れそうな学校を買ってあなたたちの仕事を守っているのは俺だろう」と、一歩も譲りませんでした。しかし、あらゆる手段で脅されたり、ネガティブ・キャンペーンをLA Times含め他7紙に掲載され、気が気ではありませんでした。結果、軌道に乗せるまでに16年もかかりました。そのせいか、ハリウッドで“極悪人”、また楽器業界では“ミスター・コブラ”と言われていることは勲章だと思っています。
アメリカでは、主張することはきちんと主張する。仕事をする上で、良い子になろうと思うのは大間違いです。その発想はこの国では自ら捨てなければいけません。そんな私ですが、赴任してすぐの頃はストレスから潰瘍性大腸炎を患いました。だけど、私の場合、日本でやってきたことを中途半端に修正しなかったことが良かった。日本ではワンマン経営で、口数が多く、すぐに従業員を殴っていました。今で言うとブラック企業(笑)ですが、だからこそ伸びていったんです。お金がない人が独立してビジネスを軌道に乗せるのは並大抵のことではないので、殴られても辞めないような社員を育てないといけないんです。アメリカに来てからも、日本の頃と変わらず毎週怒鳴っていましたね。「クビだ!」と副社長相手に机を叩いたこともあります。でも、ここまで闘えたのは私が単身でアメリカに渡ってきたからだと思います。もし、日本から家族を伴って来ていたらこんな風にはとことん闘えなかったでしょうね。
英語を話せるようになる必要はない
英語を話せるようになる必要はない
ビジネスにおいて英語を話せないことが不利になることはありません。私も来た当初は英語を勉強しましたが、頭の中に英単語を入れて理解できたとしてもそれは幼稚園レベル。逆に英語を使うことでビジネスの勘が狂ってしまいます。これは絶対にまずい。ビジネスの勘を優先するため、中途半端に英語を話すことを止め、常に5人の通訳を置くことにしました。①日本語を英語にする人②その英語をチェックする人③英語を日本語にする人④それをチェックする人⑤全体の流れをチェックする人。これだけいれば、ほとんどの場面で同時進行できます。私は従業員を怒鳴る時も終始一貫して日本語です。
アメリカでビジネスをする上でもう一つ大切なことは、「良い日本人と悪い日本人」を見分けること。今は日本政府の「クールジャパン」政策などもあってバブル期のような感覚で、甘い考えでやって来る日本人がたくさんいます。でも、残念ながらアメリカには良い日本人、悪い日本人、良い弁護士、悪い弁護士もたくさんいます。日本人だからと安心していると、近寄ってきた悪い日本人に騙されてしまうこともあるので、注意喚起が必要です。噂を聞けば大体わかりますが、渡米してすぐの頃は人脈がないので、その見極めは難しいですが、とても大切なことです。
ハリウッドから世界に発信していく
ハリウッドから世界に発信していく
この20年間で日本語放送局の「UTB」、俳優養成学校の「シアター・オブ・アーツ」、特殊メイク専門学校の「エレガンス・インターナショナル」などを買収して傘下に入れてきました。でも、一番やりたかった夢は「フィルムアカデミー」の買収でした。まだインターネットがない時代にフィルムと音楽を合わせ、UTBでスチューデントムービーを流す構想を持っていました。ハリウッドに若い子たちを送り込みたかったんです。そうすれば、いずれハリウッドも変わってくるはずだと。当時、若者を育ててハリウッドに送り込むなんてことを本気でやっている人は誰もいなかった。MIを買収した当初は、周りから無謀だと言われましたが、この構想を話した業界人から「これは化けるな」と言われ、自信を持ちました。日本のESPアカデミーは卒業生がかなり力を持っていますが、それをここでも実現したかったんです。でも、労働組合の規制が厳しく、そのチャンスを一度は見失ってしまいました。
MIは4年前にようやく軌道に乗りましたが、今度はアメリカ政府に予算がないので学校経営そのものに締め付けが厳しくなり、プロフィット・シェア制度が有効でなくなり、今はまた経営状態は少し落ち込んでいる状況です。そのため、これからは対象となる学生をアメリカ人から留学生に切り替えようとしているところです。留学生を受け入れるための寮なども整いつつあるので、これから学校自体も変わっていくと思いますよ。
今、ハリウッドのハイランド・アベニュー周辺一帯の土地を買収し、一大エンターテインメント・タウン構想を進めています。ハリウッドに憧れている子たちがお金がなくても気軽に出演できるライブハウスを2つ、それにダンス学校や手狭になった特殊メイクの学校の新校舎も作る予定です。それに加えて、新しく幼児から15歳くらいの子供を対象にしたタレント養成コースの学校もスタートさせる計画です。今後、3年程の間にこの辺り一帯は私が持つグリーンの建物でいっぱいになるはずです。アメリカでは劇場やライブハウスの出演者控室をグリーンルームと呼んでいますよね。だから、私が所有する建物もグリーンに揃えたかったのです。
人生も終わりに近づいてきているので、今後は夢だったフィルムアカデミーをやるつもりです。子供のタレント養成コースも、本気でプロを目指す子供たちを養成したいと、今から楽しみにしています。幼児の頃から手塩にかけ、高校を卒業したらそのままMIに入ってもらう。またはその前にデビューさせても良いですし。ライバルのバークリー音楽大学もそこまではやっていませんから、彼らと差別化する意味では幼児から大人まで一貫した養成コースがあることに意味があります。
これら今やっていることすべては、20年前に思い描いていたことです。それが実現できたのは、ここがアメリカであっても、自分のやり方を曲げずに貫いてきたから。あとは、やはり社員のモチベーションを上げるために、プロフィット・シェア制度を導入したことも成功の秘訣だったと言えます。
こんな私ですが、子供時代はとても大人しかったんですよ(笑)。イジメっ子にびくびくしている子供でした。でもある時、いざとなったら命も惜しくないと開き直ったんですね。それからずっと今まで好き放題してきましたが、よくぞここまでやってこれたと思います。今日まで本当にたくさんの方々に助けてもらいました。ものすごく運が良かったとしか言いようがありません。これまでに受けた恩義は後生大切にし、絶対に裏切らないと決めています。20代で無邪気にこの業界に足を踏み入れてから50年以上が経ちました。振り返ると闘いの歴史と武勇伝の数々。まともじゃない、ちょっとずれている業界だから自分には合っていたんでしょう。あとはこの仕事が私には天職だったのでしょうね。
~信条~
~信条~
ベスト・ウェイ
ビジネスには、アメリカ式、日本式は関係ない。常に自分にとってベストな方法を取ることです。「日本のやり方で通じる」と自信を持っていても、それを貫くことに抵抗を感じた時、それを打ち消すにはこの言葉しかありません。
・Musicians Institute President & CEO 渋谷尚武氏
■1937年4月8日生まれ。新潟県出身。1961年同志社大学商学部卒業後、河合楽器製作所に入社。1967年に日本楽器製造(現ヤマハ)に転職。楽器販売会社フェルナンデスを経て、1975年に高級エレキギターの製造およびリペアのESPを設立。1983年に日本ギター製作学院を開校し、学校経営に参入。その後、日本創作音楽院、日本ピアノ調律師養成学院を開校。1987年に3つの学校を統合してESPミュージカルアカデミーと改称し、学校法人となる。1995年に渡米。特殊メイクの専門学校やダンス学校、日本語放送局UTBなどを次々と買収し、ハリウッドを拠点にエンターテインメントビジネスを展開中
会社概要
社名: Musicians Institute
本社所在地: 6752 Hollywood Blvd., Hollywood, CA 90028
事業内容:●楽器製造・販売
●各種学校の経営
●日系テレビ局の経営
売上: 80億円
従業員数: 約600名
生徒数:約1,300名
創立: 1977年
「ウイキペディア」より
★渋谷平三
1383年(永徳元年)、渋谷平三の地頭職を本間太郎左衛門に渡付した。
★渋谷真清→渋谷真清(さねきよ)
★渋谷真住(まさずみ)
「戦国佐渡国人名辞典」より
【しぶやまさずみ(15??~1589)】渋谷真経の男。通称三郎左衛門。1589年、「箕山城の戦い」で長尾景勝勢の攻撃を受け自刃した。
★渋谷真経(まさつね)
「戦国佐渡国人名辞典」より
【しぶやまさつね(15??~15??)】加茂郡羽黒城主。通称三郎左衛門。羽黒、五十里、鷲崎、願、鵜島、真更川、椿、小松、目黒、玉川を領して渋谷四家の中では最大勢力を誇った。
★渋谷真茂(まさもり)
「戦国佐渡国人名辞典」より
【しぶやまさもり(15??~1561)】
加茂郡梅津城主。通称半右衛門。梅津、玉川、和木、小松、歌見、平松を領した。1561年、「梅津城の戦い」で久知泰時勢の攻撃を受け自刃した。
★渋谷真正→★渋谷真正(さねまさ)
★渋谷勝
両津高校時代の1960年度(S35)8月、北信越大会相撲の県代表に選出 10月、第15回国体 相撲の県代表
★渋谷真由美

★渋谷弥一
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
両津市夷の人、弥-人形の創始者。
★渋谷彌吉
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

★渋谷弥藤兵衛
『両津町史』(昭和44年)
夷上町に住んだ船大工で、夷延命寺の有力檀家。延宝年間没。
★渋谷芳夫
両津羽黒の人、昭和17年生。エレキギターの世界的メーカーESP創業者の兄尚武と共に同社を経営する。
佐渡高校ー同志社大卒。
★渋谷義雄

昭和8年生、令和1年6月没。佐和田中校歌作曲。母は畑野の医師風間準平の子(木下田鶴枝)。父の風間医院の隣で進駐軍御用達の高級キャバレー「黒猫」を経営。(風間医院はその後渡部医院となり、医師の妻が道を挟んで向かいの「黒猫」の場所で「芙蓉」をいうバーを経営した。「黒猫」はその後、現「扇寿司」に移転した。)芥川賞最終候補になった中川芳郎『島の光』はこの店で起きた事件を題材としている。義雄は両津渋谷家へ婿入り。
★渋谷利一
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」

★渋谷良折
『加茂村誌』(昭和38年)

「獅子が城址に「S中」誕生」(「佐渡の百年」)
明治22年、秋津の人神尾玄益の死体解剖。明治28年、県会議員に当選。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
加茂歌代村 ・明2、大同派の当選祝賀会[二十三年九月一日]・明3、第四回衆議院議員の選挙[二十七年九月一日]・明3、第十一回選挙[二十八年三月]
★紫文軒波山
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★志保井重要
「成功した士族の商法」(「佐渡の百年」)
★島晃子
佐渡にゆかりの歌人。
島晃子歌集 『月光丘』
悲しみがあらたになりて暗みゆく海の白波夜叉のごと立つ
飲みさしの夫の焼酎「百年の孤独」胃に沁む夜半の厨に
射して来る春陽に光る嵬集品いづれもはかな割れ易きもの
君は数十億年の愛を語り吾は白馬の王子失ふ
「六条御息所」 は言うまでもなく 『源氏物語』 の一節である。
『源氏物語』 の優れた文学性が読む者を引き込み、歌わせる力となっていると思うが、背景に長年の研究があるから作品が強い。 以上は師 鶴岡美代子先生 ・ 跋より 帯の部分をご紹介させていただきました。
島晃子様は現在 「軽雪」 編集委員 ・ 選者、「みなのせ会」 会員、「日本歌人クラブ会員」としてご活躍のお方で、大切な先輩です。 我が師鶴岡先生の跋より一部を転載してご紹介させていただきます。
大学時代からの親友の島晃子さんが、いよいよ第一歌集 『月光丘』 を上梓することになった。
(2011年8月9日発行)
今は亡き土屋正夫先生の下でおよそ20年、そして今日、なお共に歩んでいることを思うと、この度の上梓はわがことのように、とても嬉しい。 大学時代の島晃子さんはペンクラブに入っていて小説家を夢見ていた。何を書いてもペンの滞ることがなく、私はいつも感心していた。 夫君の転勤先のニューヨークでも新聞社主催のエッセイストコンテストに入賞した事があった。
物を書くのが好きなのは、ご両親が、教育者という環境も影響していたのだろう。
(中略) 『月光丘』 の作品はおおよそ3つに分けられる。
1つは文学に関しての作品、2つ目は自然や旅先に題材にしたもの、3つ目は家族や周囲の人、自身の人事詠である。
先ず、文学関係の作品であるが、小説家志望だった作者であるから文学への関心は深く、しばしばその舞台となった地を訪問している。
二本松智恵子の生家に佇みて夫に隠れて涙をぬぐふ 「智恵子の生家」
本当に裁ち切りたかりし物は何 狂ひし智恵子の紙絵の鋏
童女となりたる智恵子を目に追ひて光太郎佇みし磯松林 「九十九里の智恵子」
(他4首ご紹介あり)
高村光太郎 ・ 智恵子を取材したものである。
文学の知識があって作歌するのであるが、あたかも自分が光太郎や智恵子と同じ立場にいるごとく悲しみを共有している。
次は 「紫式部」 に関する作品である。島さんは平成18年5月から 「軽雪」 誌上に 「紫式部」を連載していて、現在30回を数えている。それと併行しての作品である。
中宮の出産間近き緊迫の描写に吾も息を詰めたり 「紫式部日記」
出産を見守るあまたの女房ら犇(ひしめ)き合ひて泣くものもあり
断ち切れぬ想ひに攻むるまなざしを身に受け黙す御息所は 「六条御息所」
皇后の道閉ざされし身にあれどその魂の終に捨てえず
(他6首ご紹介あり)
2つ目の特徴は、自然や旅を題材にしたものである。
土屋先生が生前、「よく観察し、よく描写しているのに、深く感じ入った」 と褒めた 「丹頂」 の一連を挙げる。
声を吐く丹頂の嘴 (はし) は天を衝き頂 (いただき) のあか陽に極まれり
雪原に翼大きく打ち合ひて番 (つがひ) の丹頂の華麗なる舞
親丹頂と身の丈同じになりしかど薄茶の羽の心許無し (他6首ご紹介あり)
六集落三百六十戸を飲みしダム涙の湖(うみ)の深みどりの色
沈みたる村の証と残りしはこの日本 (ふたもと) の桜と仰ぐ
五十年経し今もなほ息子 (こ) の戦死認めぬ如く坐す 「母の像」
慌しく戦地に発ちて還らねば恋人の像 「裸婦」 噫 (あい) 未完
岐阜県の 「御母衣ダム」 と長野県の 「無言館」 の作品である。土屋先生は 「読め、歩け」 と訓えていたから、島さんもそれを実践した。心眼で観ていることはこれらの作品にも言える。
次は人事詠を見てみよう。
誉めらるることの少なき生徒らの塾教師吾に求めやまぬもの
学校にも家にも落ち着く場のあらぬ生徒らの愚痴憩ふ時聞く
求めゐるもの何ならむくしゃくしゃに丸めし答案投げつけてくる
「だんだんと自分が嫌ひになってゆく」生徒の声の耳を離れず
学習塾を営んでいたときの作品である。現代の児童の持つ精神の渇きが詠まれている。
これらの作品からは、単に試験の点数を上げるための教育ではないものを目指している教師像が見えてくる。 (中 略)
こういう島さんの姿勢には次のことが関係しているのではないだろうか。
彼の人を嫌ひと嘘でも言へと責むる娘に悲鳴上ぐ裡なるわが子
胸底を凝視したれば裡なる子真白き繭に息詰めてゐる
父の夢を健気に生きし十二歳の吾と思へば涙零るる (他3首ご紹介あり)
島さんの体内にはもうひとりの子 「インナーチャイルド」 がいて、言ってはならないことや間違った事をしないように常に糺していたと言う。佐渡の旧家で生まれた著者は、周囲に対して恥ずかしくない行動を自らに課すことを、無言のうちに期待されていたのだろう。 (中 略)
夫の声電話にやさしく響く夜は3万キロの隔たり悲し
受話器の中より乾燥機の音聞こえ一人居の夫の休日偲ぶ
「マイナスイオン出す」 と書き添へ母の日に息子が送り来し観葉植物 (他5首ご紹介あり)
夫の留守を守る緊張と責任は重く寂しかったと思う。手中の子が巣立ったのも人生の過程だ。
それらを経て自分がたくましくなり、充実したものを得たことも事実であろう。
島さんの人生を正直に語っているこの 『月光丘』 が、さらなる飛躍の契機となるべく、心より期待したい。
そして 『月光丘』 が多くの方に読んでいただけますことを希って筆を擱く。
以上、鶴岡先生のお言葉を拝読しながら、島様の作品を鑑賞させていただきました。
島様は 「本歌集はまだお元気だった平成18年に、土屋正夫先生の選を経た歌に最近作の中から自選したものを加えて四百三十六首を収録しました。歌集名の 『月光丘』 は、現在の私が佇んでいるに相応しいところと感じたことから選びました。」
と書き添えられておりました。HPには 「ながらみ書房」 を初め、多くの書店が 『月光丘』 のご紹介をされておりますことにと幸せを頂きました。作品の一首一首がとても丁寧に品格のある作品と感銘致しました。
又、「小野田少尉自らを語る」
潜伏し二十九年の軍人には居場所居場所なかりしと嘆く小野田さん
ブラジルに渡りて三十年馬上にて牛追ふ姿光の如し
以上他4首を心して拝読させていただきました。
戦後66年、戦争を知らない国民が多くなりました今日ですが、事実は事実として戦争の悲惨さは語り継がねばならないと考えております。何時も優しくご指導いただいております島様のますますのご活躍をお祈り申し上げますと共にご多忙の折りにお風邪など召しませんようにご健勝をお祈り申し上げましてお祝いの気持ちを綴らせて頂きました。
大切な歌集の を頂きまして誠に有難うございました。

★島きよし





★志摩比呂志
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「24号」(平成23年1月)「王手飛車」2題(志摩比呂志)
★島川勘作
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★嶋川弘
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「20号」(平成22年1月)作家の嶋川弘氏が講師ー人間の絆を確かめよう「21号」(平成22年4月)絆―母からの礼状―(嶋川弘)「22号」(平成22年7月)旅路の果てに(嶋川弘著)
「24号」(平成23年1月)「佐度讃歌」(嶋川弘)「25号」(平成23年4月)朱鷺たちと7人の侍(作家 嶋川弘)
★島川實


★島倉晃
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
新潟師範時代の昭和9年、第4回県下男子中等学校体育大会(柏崎陸上競技場)で走高跳3位。
同年、明治神官体育大会北陸予選会で走高跳3位。
昭和10年、第5回県下男子中等学校競技大会(三条陸上競技場)で走高跳1位(1m58)、棒高跳1位(3m51)。
同年、第8回明治神宮競技大会兼全日本陸上競技選手権北陸予選会で走高跳3位(1m65)。
同年、全国中等学校陸上競技選手権大会(明治神宮外苑競技場)2部走高跳で1位(1m80)。
昭和11年、第6回県下男子中等学校競技大会で走高跳1位(1m70)、棒高跳1位(3m50)。
同年、昭・11全国中等学校陸上競技選手権大会(甲子園)2部で、走高跳2位、棒高跳3位。
昭和12年、第7回県下男子中等学校競技大会で走高跳1位(1m80)、棒高跳1位(3m70)。
同年、全国中等学校陸上競技選手権大会2部で走高跳1位(1m82)。
同年、全日本陸上競技選手権大会北陸予選で、棒高跳1位(3m80)。
同年、東京オリンピック候補となる。
(昭・12 東西対抗島倉晃新記録の新聞記事)
棒高跳 1島倉晃(東・新潟師)3㍍鮨(日本中等並本大会新配録)2和田(東・庵原中)3m60、3樋田(東・岡崎師)3㍍50、4杉山(西・岡山師)5井上(西・小野中)6北野(西・兵庫師)3米40で井上、北野が失格したのち3米50は四者それぞれ飛躍、3米60で樋田、杉山ならんで落ち3米70では和田また落とされた。かくて3米20で一席落しただけで各回とも一発をねらつて成功した島倉は悠々3米77の日本中等記飾を成るためバーを確78に上げれば1回目に余裕を見せつ征服、ついで3米85は第二回目に見事飛躍、余勢をもつて3m90に引上げたが1回目は腹で落し二回目は胸まで越えて駄目、いよいよ第三回目に入り慎重に助走を開始、棒を突っ込んだものの上体そつたため遂に成らなかつた、しかし島倉の超中等級の技術は称賛に博するものであつた。
★島倉伊右衛門
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
司馬凌海の甥で後山小学校長。昭和四年十二月に出来た三宮地区婦人会結成に法幢寺住職の斎藤穆栄と共に参加し指導した。
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★島倉伊右衛門
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
寺小屋の年中行事として新年の書初め、新町では毎月二五日天満宮へ奉納の清書をした。また、正月二五日には天神講と称し、少しずつお金を出しあって菅公祭を催した。
そのころ、寺小屋師匠として、新町には山本半右衛門・生田三折・山本桂・島倉伊右衛門など、吉岡には若林玄真、竹田には森玄達・小田与三兵衛、金丸に計良尚賢・若林文平、豊田に豊原快慶などがいた。寺小屋師匠の師弟の関係が深かったことは明治四年死亡した山本半右衛門の葬儀に、弟子として一三名の参列者があったという記録が残されていることからもわかる。
明治維新を経て、二年三月人民教育のため小学校の設置を奨励するという太政官布告にょり相川・新穂・羽茂に郷学校が設立され、三年には大中小学校規則にょり新町・五十里に郷学校が設けられた。
★島倉伊三武
「島の新聞」21号


『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
新町でタカミ獅子を舞わせたのが、近世のいつ頃からだったのかほ不明である。古い獅子頭のほかに長さ五間余りのほろが残っていた。古老のいい伝えでは明治の半ば頃までは使われたというが、それを実際に見た者はいない。残っているのは一頭だった。復活したのは昭和五二年一〇月一六日の祭りからであった。佐々木芳博・中川敏彦・本間安子等一二、三人の人たちがけいこを始めた。古い頭は幅六五センチメートルほどの大きさ、ホロは何十人も入るもので、町を練り歩くだけだりたと見当がつく。しかし新しい獅子には多少の芸をさせたいというので、三〇センチメートル程の小型な頭を二つ作り、ホロは商工会にあった小さい物を借り、適当な太鼓のリズムにあわせて門ごとに舞わせて歩いた。新町相撲がなくなって、それにかわる程の人気のある余興をもとめることのできなかった新町ではかなり好評だった。しかし一〇人余りの小人数で五〇〇戸を廻るのは重労働だった。二年続いて来年はあぶないといわれたころ、芸はできなくても旧に復して大獅子にしたらどうかということになった。金子克巳や高野宏一等数名が呼びかけて始まりたのである。フジミは渡部裕次郎が作り、赤・黒二頭の色は島倉伊三武が塗り、島倉勘十郎や島倉七兵衛が組み立てた。昭和五四年、氏子の家から古蚊張を寄附してもらい、男女数一〇人の青年がいく晩もお宮へ集まって獅子のホロに仕立てた。寄附金で揃いのハッピを作った。
吉岡の鬼太鼓ほ昭和五一年四月一五日の祭りから始まった。鬼太鼓をやってみようといいだしたのもこの年になってからだから、あわただしい準備とけいこで始めたことになる。鬼太鼓は祭りを賑かにするためのものとだけ考えられがちだが、吉岡の場合はそれだけではなかりた。若林幹夫・川野名庄五・本間浩二・高野周治等の若者たちが集まっての世間話の中で、この頃は同じ村の青年どうしでもお互に知らぬ顔で行き過ぎる者が多くなったと、連帯感の不足を嘆く話が出た。昔のような曖い心のつながりを作る道はあるまいか、といろいろな案が出て、鬼太鼓はどうだろうということになり、多勢の青年に呼びかけてみることになった。そのためには青年層にも壮年層にも信用のある人からまとめ役になってもらう必要があるので、本間作に一切をお願いすることにした。本間からの呼びかけに応じて公民館へ集まった青年は二〇名を超えた。 いよいよ鬼太鼓組を作ることには決まったが、太鼓はお官から借るにしても面も衣裳もない。それで当分はよその村の使っていないものを借りることにした。鬼太鼓を見たことほ度々あっても、いざ始めるとなると見よう見まねだけではできるはずもなく、浜中の鬼太鼓の練習を見に行ったりした。その内に伊藤藤吉家の久が後山から来た者で鬼太鼓に詳しいことが分かり、伊藤を師匠にして、借り面借り着で吉岡の鬼太鼓は始まったのである。やがて面を新町の島倉伊三武にほってもらうことにした。吉岡の小松の親戚でしかも器用で名人肌の人だと聞えていたからである。自・赤・黒・青の四つの鬼面ができ、それから二・三年して豆まき用のヒヨットコ面ができた。白っぽいのと肌色がかったのと二面である。獅子がなくてさびしいから豆まきをつけようということになったのだ。豆まきはたいてい黒面だが、それでは少し怖い感じがするのでこの色にしたのである。豆まきの黒面は三番曳の黒式(こくしき)の面をかたどったものであろうから、ここのは新しい解釈によって作られたことになる。結局、面はすべて島倉の寄贈となった。借り物の鬼太鼓は二年ほど続いた。今は「書岡鬼太鼓有志会」のもので、練習はだいたい祭り前一か月、総社神社の拝殿がけいこ場になる。
「島の新聞」索引(人名別)
★島倉伊平
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
明治三年に山本半蔵・山本五平・山本藤八郎・島倉伊平・中川清三郎の五人が費用を出しあって「学問所」を開設し、のち、明治五年、この「学問所」が政府の許可を得て「新町郷校」と名称を改めた。先生として佐々木俊蔵(辰之助)を雇い、場所は司馬盈之(司馬凌海)旧宅であった。これが、現在の真野小学校のはじめである。この五人の有志たちが「学問所」の先生を迎えるについて、エピソードがある。心当たりを捜していると、たまたま北海道から釆て西三川村大倉谷の佐々木才三郎方に身を寄せていた佐々木俊蔵という人物が学才にたけているということを聞き、評判だけでは真価がわからないというので、新町の漢方医山本桂に大倉谷まで行かせ、人物試験をさせた。先生を迎えるのに人物試験をして迎えるところに、有志たちの意気が感じられる。
「逃亡藩士の郵便局長」(「佐渡の百年」)
★島倉欧佑




真野小-鳥屋野中-帝京長岡高校。大会ベスト5。帝京長岡(新潟)の悲願は達成できなかった。福岡大大濠に56-59の僅差で敗退。高校日本一は来年以降に持ち越しとなった。1ゴールを争う接戦を続けたが、インターハイに続き、夏冬連続の準優勝に終わった。激しいディフェンスの応酬でロースコアの展開。Cコネ・ボウゴウジィ・ディット・ハメード(2年)が19得点、20リバウンド、9ブロックショットでトリプルダブルに迫る奮闘も実らなかった。大会ベスト5にはコネとSF島倉欧佑(3年)が選出された。島倉の魅力は決してオフェンスだけではない。フィジカルと跳躍力にも優れ、それを生かしてディフェンスにおいても帝京長岡の需要なピースを担う。身長181センチながら、インターハイの計5試合で18個ものオフェンスリバウンドをもぎ取り、高さを1つの武器とする仙台大明成相手にも4本のオフェンスリバウンドを奪取。
★島倉勘十郎
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
新町でタカミ獅子を舞わせたのが、近世のいつ頃からだったのかほ不明である。古い獅子頭のほかに長さ五間余りのほろが残っていた。古老のいい伝えでは明治の半ば頃までは使われたというが、それを実際に見た者はいない。残っているのは一頭だった。復活したのは昭和五二年一〇月一六日の祭りからであった。佐々木芳博・中川敏彦・本間安子等一二、三人の人たちがけいこを始めた。古い頭は幅六五センチメートルほどの大きさ、ホロは何十人も入るもので、町を練り歩くだけだりたと見当がつく。しかし新しい獅子には多少の芸をさせたいというので、三〇センチメートル程の小型な頭を二つ作り、ホロは商工会にあった小さい物を借り、適当な太鼓のリズムにあわせて門ごとに舞わせて歩いた。新町相撲がなくなって、それにかわる程の人気のある余
興をもとめることのできなかった新町ではかなり好評だった。しかし一〇人余りの小人数で五〇〇戸を廻るのは重労働だった。二年続いて来年はあぶないといわれたころ、芸はできなくても旧に復して大獅子にしたらどうかということになった。金子克巳や高野宏一等数名が呼びかけて始まりたのである。フジミは渡部裕次郎が作り、赤・黒二頭の色は島倉伊三武が塗り、島倉勘十郎や島倉七兵衛が組み立てた。昭和五四年、氏子の家から古蚊張を寄附してもらい、男女数一〇人の青年がいく晩もお宮へ集まって獅子のホロに仕立てた。寄附金で揃いのハッピを作った。
★島倉久次郎

「北海道立志編」(明治36年刊)より

★島倉七兵衛
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
新町でタカミ獅子を舞わせたのが、近世のいつ頃からだったのかほ不明である。古い獅子頭のほかに長さ五間余りのほろが残っていた。古老のいい伝えでは明治の半ば頃までは使われたというが、それを実際に見た者はいない。残っているのは一頭だった。復活したのは昭和五二年一〇月一六日の祭りからであった。佐々木芳博・中川敏彦・本間安子等一二、三人の人たちがけいこを始めた。古い頭は幅六五センチメートルほどの大きさ、ホロは何十人も入るもので、町を練り歩くだけだりたと見当がつく。しかし新しい獅子には多少の芸をさせたいというので、三〇センチメートル程の小型な頭を二つ作り、ホロは商工会にあった小さい物を借り、適当な太鼓のリズムにあわせて門ごとに舞わせて歩いた。新町相撲がなくなって、それにかわる程の人気のある余興をもとめることのできなかった新町ではかなり好評だった。しかし一〇人余りの小人数で五〇〇戸を廻るのは重労働だった。二年続いて来年はあぶないといわれたころ、芸はできなくても旧に復して大獅子にしたらどうかということになった。金子克巳や高野宏一等数名が呼びかけて始まりたのである。フジミは渡部裕次郎が作り、赤・黒二頭の色は島倉伊三武が塗り、島倉勘十郎や島倉七兵衛が組み立てた。昭和五四年、氏子の家から古蚊張を寄附してもらい、男女数一〇人の青年がいく晩もお宮へ集まって獅子のホロに仕立てた。寄附金で揃いのハッピを作った。
★島倉孝
前列左より:島倉孝、山本一郎、山本半蔵(静古)、山本悌二郎
後列左より:山本成之助、山餅修之助、山本宙蔵。※写真撮影は昭和10年

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
医師。明治二十二年一月五日、西三川で生まれた。千葉医学専門学校を卒業した。東京都新宿区下落合で開業、新宿区学校医会会長、日本医師会常任理事等になった。(新潟県年鑑) 真野新町の島倉家を継いだ。本間周敬は実兄。
★嶋倉強
「島の新聞」索引(人名別)
★島倉盈(みつる)
真野の人、島内を代表する俳人で新潟日報(佐渡版 俳句)選者を長く務めた。司馬凌海の子孫である。
『佐渡のスポーツ 賛歌』(平成9年刊)より
佐渡中時代の昭和12年、第7回県下男子中等学校総合体育大会4部において、100m1位(12秒4)、800mR4位(佐渡中学)、砲丸投1位(10m78)。昭和14年、第9回県下男子中等学校総合体育大会において、砲丸投1位。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)島倉盈(みつる)
21 金子のぼる 角川俳句賞の受賞について
72 悼 山本修之助先生 -真野町町民葬- 弔句・弔歌 島倉盈 奉詠
78 島倉みつる氏に「欅」賞 山本修巳
98 島倉みつる句集『波の花』 山本修巳
★島倉峰雄
「株式会社プロフェッショナル・ネットワークス」(略称:プロネッツ)代表取締役
(本社)東京都新宿区西新宿2-4-1 新宿NSビル28F
(拠点) NS情報センター 横浜オフィス 福岡支社
・設立 1990(平成2)年4月26日
・資本金 5,000万円
・役員 ・常務取締役 島倉農 ・取締役 原田正昭 ・取締役 平山代士 ・監査役 伊豆野泰弘
・従業員数 129名 ※2014年4月1日現在
・売上高 2013(平成25)年度 15億7,000万円 ※グループ連結
「株式会社シナジーパルス」代表者
・住所 東京都新宿区西新宿2-4-1 新宿NSビル28F
・設立年月日 2003年12月
・資本金 3000万
・事業内容 ・システムインテグレーションサービス ・システム投資プランをサポートするコンサルティングから設計、開発 ・テクニカルサポートサービス ・システムマネジメントサービス
★島倉祐次郎
旧新町(真野)村長、明治20年代。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
真野村新町 ・明3、佐渡義会の成立[二十六年七月一日]・明3、警備隊設置の請願[二十七年四月]・明3、松本八十八の祝賀会[二十七年四月□日]・明3、佐渡憲政党の分離[三十一年十二月二十六日]・昭4、山本悌二郎 薨去[十二年十二月十四日]
★島倉竜治
新町 光照寺跡墓地






明治三年真野町新町の貧しい家の二男に生れたが、小学校を卒業すると上京して苦学力行、東京法学院を卒業。三十三歳でようやく判検事試験に合格して司法官となる。後、那覇地方裁判所検事正となり、在勤中「沖縄一千年史」を出版した。昭和四年大審院判事で亡くなったが、学あり徳あり、郷土の文化事業にもつくした。立志伝中の偉材である。
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
検事正。明治三年五月二日に佐渡郡真野町新町で生まれた。小学校卒業後上京して多くの職業を転々とした後、働きながら東京法学院(中央大学の前身)に入学、明治二六年、二十四才で卒業した。同三十三年判検事試験に合格、司法官試補となった。若松、徳島各裁判所勤務を経て三十五年判事となり大阪に転任した。三十八年司法官嘱託となってアメリカの訴訟、執行、監獄視察に渡米した。四十一年検事となり宇都宮へ赴任、さらに東京控訴院検事、千葉、浜松各裁判所検事、大正十年に沖縄の那覇裁判所検事正となつた。昭和四年大審院判事となりこの年の二月十日に六十才でなくなった。沖縄一千年史の著書があり、順徳天皇第三皇子寒巌尹ゼン禅師の事跡を調査して皇統に確立した。昭和七年遺児義雄により漢詩集「大拙詩稿」が出版された。(佐渡の百年)
1870年5月2日~1929年2月10日。島倉伊平次、千代の二男として佐渡郡真野町新町で生まれる。小学校を卒業するとすぐ上京。あらゆる職業を転々としたのち働きながら東京法学院(中央大学の前身)に通う。1893年に卒業。94年、神奈川県人石渡かよと結婚。このころ島倉は東京向島言間付近に住んでいた。妻かよは東京女子職業学校を卒業していて毛糸の編み物、針仕事で生計を助けていた。島倉が勉学に必要な書物を上野図書館から借りだし人通りの少ない夜道を往復した。1900年、島倉は判検事試験に合格。司法官試補として若松、徳島などの裁判所勤務。05年、司法省嘱託となってアメリカの訴訟、執行、監獄の制度を視察するため渡米。
1908年、検事として宇都宮、東京控訴院、千葉、浜松勤務。1921年、那覇裁判所検事正。29年、大審院判事。
「大正の皇太子御来島」(「佐渡の百年」)
「苦学力行の検事正」(「佐渡の百年」)
★島崎榮一
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)島崎榮一 118 佐渡 俳句
★島薗順次郎(しまぞのじゅんじろう)
創立時の佐渡病院への医師派遣で尽力した東京帝大病院長。
内科学者で脚気(かっけ)の権威である、1877–1937)の旧蔵書である。内科学およびその関連領域の洋書900冊からなる。島薗順次郎は、1904年東京帝国大学医科大学を卒業し、陸軍軍医として日露戦争に従軍。東京帝国大学の内科学医局に入局後、1911~1913年ドイツに留学して神経病理学を研究した。帰国後、京都帝国大学教授を経て、1924年東京帝国大学教授に就任し、島薗内科を主宰。東京帝国大学附属病院長も務めた。1926年、緒方知三郎(おがた ともさぶろう、1883–1973)との共同研究「ビタミンB欠乏症についての実験的研究」で学士院賞を受賞。脚気の原因がビタミンB1欠乏によることを解明し、食事による予防法を打ち出した。1929年日本初の日独交換教授としてベルリン大学で1年間講義を行った。
「総合病院の誕生」(「佐渡の百年」)
★島村了
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★島崎脩省(しゅうせい)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で通称を玄的と言う。
詩をよくし小倉実起が佐渡に流された時、その門に出入りした。(佐渡人名辞書)
★烏田佐京
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
ここで、どうしても引っ掛かるのが鴉田大工と烏田佐京の関係である。烏田佐京は天文元年(一五三二)の新穂村「計良七郎左衛門(村上屋)家文書」に出る者で、同文書には次のような主旨が書いてある。
佐渡の三郡に、一郡一社の牛頭天王を祀り「羽茂知郡では島田佐京にその第一切を取り行わせる。廻船の役(税金)、塩釜の役、その他一切の役を取らせる。」とあるものである。これを書いたのは佐渡の中央を支配する雑太の本間大運。一郡一社の牛頭天王は、羽茂郡の八王子牛頭天王(草苅神社)、雑太郡の長石神社、加茂郡は潟上の牛尾神社(潟上の天王さん)であった。この島田佐京にかかわるかと思われる鴉田家が、元禄検地帳に二軒ある。どちらも、草苅神社西側の小さな丘陵南面に次のように屋敷を持っていた。
・・・・・・・・・
このうち久五郎が、今の屋号「鴉田」の藤井五郎右衛門番匠。勘四郎が今の屋号「四郎平」で姓は鴉田である。鴉田番匠の藤井家の方は、今、山の上の方へ上がっているが、その時期は元の住家新築の棟札の残る天明期(一七八〇年ころ)であろう。以上見てきたところでは烏田佐京につながるとすれば、その定着は中世であろうが、大工との関連は明らかにはされない。何代目か、いつの時代かに、大工とのかかわりが出来たのかもしれない。
羽茂に宮大工の一族が明らかに見え始めるのは、小比叡山蓮華峰寺が再建された近世初頭からと考えられる。弘法堂の墨書には次のように、羽茂大工の祖と思われる老の名が見える。(「小木町史史料編」より)
・・・・・・
→index「番匠」
★島田甚五郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、寛保二年(一七四二年)三月二十八日から延享二年(一七四五年)二月十五日御留居番へ転任するまでの間、在任した。名は盛貞、知行は五百石、うち三百石加増、御役料千百俵百人扶持であった。(佐島通事)
★嶋田哲夫

佐和田の人、「嶋田工芸」代表で、映画看板その他写実的な絵は島内至る所で見られる。 「島の新聞」創刊時より、「佐渡八十八番霊場」の絵を担当した。 昭和13年、満州生まれ。昭和18年、5歳の時帰国し、母の実家天草に落ち着き、父の死後羽茂の祖父の元で育つ。中原の看板屋「一光社」、新潟交通を経て独立し嶋田工芸を興す。
「島の新聞」索引(人名別)
★島田治男

東京相川会7代会長。昭和8年生まれ。相川高校、明治大学卒。日本橋の繊維メーカーに勤め常務取締役。
(島田治男)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「6号」(平成18年7月)第七代東京相川会 会長に島田治男氏(副会長 本間壮平)「8号」(平成19年1月)先輩 三浦小平二先生「生家の思い出」(島田治男 東京相川会会長)「18号」(平成21年7月)第56回東京相川会大会です(島田治男 会長)
★嶋田冨美男(ふみお)
畑野の人、昭和9 年生、平成27年10月没。若い頃は流行歌手を目指し、三橋美智也とも共演。畑野みどり会の唄い手として活躍しその美声はよく知られ、特に両津甚句が得意だった。新潟交通発売のテープ「佐渡めぐり」に「国仲音頭」「七浦甚句」、キングレコード「正調佐渡の民謡」等多くのレコードを吹き込む。三味線や踊りも堪能で「砂金音頭」の振付も行う。
★島田磨佐記





「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より


→鶴間笛畝(てきほ)参照
★島津光夫


※「佐渡ジャーナル」関係記事:「39号」(平成26年10月)佐渡最古の「石臼」新たに複数見つかる ※小菅徹也・島津光夫・神蔵勝明
「島の新聞」索引(人名別)
★島根千絵
本名チエ、大正六年生れ。羽茂本郷大谷、金十郎家の人。「歌と評論」同人。(歌碑:平成二十年三月建碑 樟石丈一、一八㍍)
○若きまま胸裏(うち)ふかく住む君ありて今に遥けき戦を恨む
ささやかながら幸せな青春の日々を一転、悲痛のどん底に突き落とした大東亜戦争。生涯を共に過ごすを疑わなかった夫の招集、そして、一時は茫然自失となるも幼い二人の娘、老いゆく両親、特に萎えそうな時には夫の面影を心の支えに農を守り、どうにか平穏に老年を迎え、拙い短歌をまずまずの幸せとありがたく思っています。(自註)
『佐渡・羽茂 文学碑めぐり』(平成21年10月刊)より
★島野ノラ
「島の新聞」索引(人名別)
★島元忠太郎
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」

『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より



『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)


★島元矩
「郷土史壇の人々」(「佐渡の百年」)
★清水彰直
昭和28年佐渡高校卒。NPO法人放射線線量解析ネットワーク理事長。
★清水勇

金井千草の人、島内を代表する川柳家で昭和初期の生れ。新潟日報県版や佐渡版に度々作品が掲載される。平成2年 新潟日報に初投句。平成3年「ウイークエンド佐渡」(後の「島の文芸」)に初投句。平成12年「すみさか川柳社」入会。平成18年 句集「ひとり旅」刊。平成23年「川柳にいがた」入会。句集「走馬灯」刊。平成25年「ふあすと社」誌友。平成26年 句集「万華鏡」刊。
★清水巌
・相川羽田町の人、「文平窯」を興す。次男の清水謙が文平窯を継ぐが、平成末頃没。
・長男の清水伸はパリで活躍する画家。夫人美和子さんの実家はスーパーコダマ。
★清水円平
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河原田 ・明3、第四回衆議院議員の選挙[二十七年九月一日]
★清水薫
令和2年お盆前に高下の自宅(農協前)没90歳。




1930年高千村生れ-令和2年(2020)8月没。島内での新潟日報記者を経て静岡第一テレビ報道局長。退職後、佐渡の実家に戻り、ハヤブサの写真展他多方面で活躍する。映画「飛べ!ダコタ」制作にあたっては中心的な役割を担い、自ら見聞した出来事を掘り下げ、周辺取材を行って関係書を出版した。日本写真作家協会会員。著書:『静岡レジャー歳時記』(明文堂出版社)、『昭和の佐渡綴り』(若葉出版社)、『実録 ダコタ物語り』(2012年 佐渡ジャーナル出版局)※当ブログ所収の近藤元次氏とは竹馬の友であった。(➡近藤元次に清水氏の回顧文あり)
・長男は京大卒、Z会創立者の一人。
フェイスブック「ようこそ、旅の人!佐渡を千倍愉しむっちゃ」2013年4月30日 ·
「実録 ダコタ物語」
著者の清水 薫氏に先日お目に掛かる機会があり、先に佐渡で公開され、東京等で10月5日から公開される映画「飛べ!ダコタ」の元になる書を記されたことを知った。 氏は当時16歳で、高千の青年学校にいた。その後、地元にこの事件関係の資料が一切保存されてないことを知った。体験者で、かつ記者出身として、当時の関係者を取材し、この書を残すことにした。先に記した「飛べ!ダコタ」上映記を以下訂正、補足します。なおこの映画は、是非全国で見て頂きたい。驚愕するような史実と共に、当時の国民思想、そして現代に続く反戦の理念が貫徹されています。・ダコタが不時着した時には、香港の英国軍、大使館関係者6人(内タイピストの女性1人)及び機体のクルー5人が搭乗していて、皆無事だった。クルー以外の人間は翌日高千を離れている。
・機長達も直ぐ高千を離れることが出来たが、クルーとして残る選択をした。・救援がスムーズにいったのは、高千の人々の個々にはわだかまりがあったものの、戦争はもう終わったという気持ちと、兵隊さんを助けてやろうという矜恃があった。さらに事故後の英国兵士の紳士的な態度にも負うことが大きい。
・事故後2日目には新潟の米軍基地と連絡が取れ、新潟日報に小さなベタ版で掲載されている。決して秘密ではなかった。
・当時の高千はまさに秘境、貧困極まれる地で、相川からも容易には近づけず、週に数便新潟との船があった。しかしここに北大へ行っていた学生が休暇で帰省しており、通訳として意思疎通が出来たし、小学校の当時20歳の女性教員が英国の歌を知っていて、蛍の光、埴生の宿、庭の千草などを演奏することで、小中学生と兵士達との交流が深まることが出来た。
・6日後に東京から英国の整備士が駆けつけて来た。彼が佐渡、高千と英国を結び付けるキーパーソンになる。彼は率先して宴会で佐渡おけさを踊り、彼の子息が将来高千を訪れることになる。
・当時の高千には玉じゃりのような石の海岸が1800mあったことが、ダコタの不時着を可能にした。
・懸命な修復作業により、40日間で長さ500m、幅50mの滑走路が完成する。最後は機体を軽くするためにクルー3人が搭乗し、他は新潟基地で到着を待った。ダコタは200m走って離陸に成功。別れを惜しみつつ新潟へ向かった。
・高千の有志により、2001年に記念碑が建てられ、英国大使館の書記官を招待した。
・そして2010年に先の整備士の子息が高千を訪問し、当時のお礼を述べた。これがメディアに伝わることになり、映画化に結びつくことになった。
最後に。当時村長として救援を決断し、自分の旅館に泊めてそのため軍靴で傷だらけになった床を、その後に兵役からようよう戻った長男は、父親の決定に反抗することもなく、自分の代になって床を全て修繕した。彼は鬼畜米英の精神で部下を指揮してきたもので、関係者の中で唯一、高千での史実を一切語らなかったと言われている。
「今は昔、懐かしい昭和の風物」(清水薫「島の新聞」)
(清水薫)
「佐渡ジャーナル」関係記事:「29号」(平成24年4月)この一冊「昭和の佐渡綴り」-報道記者が写した記録集(清水薫著)(岩田雅)「37号」(平成26年4月)ダコタは浜松へ嫁にやった TVでの市長発言に疑義(清水薫)「38号」(平成26年7月)・映画”飛べ!ダコタ” 制作-完成-顛末(清水薫)・飛べダコタ波及効果不調 映画は「一過性」に終わる(清水薫)・ちょっと気になったこと(清水薫)「40号」(平成27年1月)”トキ”の佐藤先生を偲ぶ(清水薫)「42号」(平成27年7月)・悲劇の将軍 本間中将を偲ぶ(清水薫)「43号」(平成27年10月)・佐渡金銀山登録へ再挑戦(清水薫)「45号」(平成28年4月)・牛の多頭飼育で佐渡和牛の増産拡大(清水薫)「46号」(平成28年7月)・轍を踏んだ大野亀のカンゾウまつり(清水薫)「54号」(平成30年7月)・石田邦蔵氏生誕130年-僻地高千港開港100年功労者-(清水薫)「56号」(平成31年1月)天皇陛下 皇太子時代の佐渡行啓の足跡(清水薫)「57号」(平成31年4月)・佐藤春雄先生「生誕100年」(清水薫)
「島の新聞」索引(人名別)
・高下の竹内仁一さんの父や浜辺直美さん夫が従弟。竹内さん父の妹が清水さんの母。
清水家墓は高下農協裏にある。
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 9相川海岸にハヤブサ、生息 二週間の生態記録・奮戦記 9カメラマン清水薫様のこと 高野チエ 10「田舎料理と伝統芸能」を味わう 写真:清水薫 10 モリアオガエル佐渡各地に生息/文 写真:清水薫 10歴史の佐渡金銀山 世界遺産の登録運動 文・写真:清水薫 10猛きん ハヤブサ 生態記録2弾 文・写真:清水薫 10佐渡のアマチュア演劇グループ 朱鷺の舞う空 熱演 文・写真 清水薫
「出山正さんより」
清水さんは小中学校の頃に学校周辺や両津の街でよく見かけていた人で、新聞記者なのかなとの思いで見ていました。30歳前に静岡支局に赴任すると、事件現場で遭遇したのでびっくり。そこで佐渡出身者として初めて会話を交わしたのですが、日報の後、読売に務め、私と会った時は読売(日テレ)テレビのカメラマンでした。昭和54年頃、静岡第一テレビが開局すると移り、最後は報道局長を務められたようです。定年後は佐渡高千に帰り、映画「飛べ!ダコタ」が製作されたころから、電話でやり取りすることが数回ありました。それにしても、かけがいのない両津の貴重な写真を多く残されました。懐かしくも、偉大な先輩でした。
清水薫自伝他
★清水勝昭
「島の新聞」索引(人名別)
★清水啓蔵
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★清水兼造(北狄の鳴神)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
大正14年、海軍軍人清水兼造(金泉)が靖国神社奉納第1回陸海軍人対関東学生相撲大会で個人優勝し、明治大学の佐藤秀次(両津)は関東相撲大会に優勝する。
明治30年生まれ、昭和43年没。年71歳。(1897年~1968年)清水兼造は、大正期前期に佐渡相撲に活躍した形跡がありますが、彼の真価を発揮したのは、海軍へ入団後である。遺族によれば詳しい資料は残っていないが、賞状と賞品が残っていると、送付された写真が後記掲載のものである。それによれば、大正14年4月靖国神社例大祭奉納の相撲大会で、陸軍・海軍・関東学生連盟対抗の競技の中で、海軍随一・三者対抗の個人優勝の栄誉を得ている。帰郷後も、北秋の大名乗りである鳴神を名乗って、佐渡相撲で活躍した。生存している古老の話でも、鳴神は大関相撲だったと記憶している人が数人いる。彼は講道館柔道も四段であったので、後年県立相川中学校の柔道教師の職を勤めた。もちろん同校の相撲部監督でもあった。これには愉快な話が残っていて、真野官奉納の三校対抗相撲(佐渡中学、相川中学、佐渡農学校)大会に集合した生徒の前で、試合方法について、佐渡中学尾崎柔道教師と、討論をするのを例としたという、生徒達はまた始まったぞと、前座試合を楽しんで聞いたものだと語り継いでいる。晩年子息の働いていた札幌市に移り住んで、昭和43年10月13日に胃癌で病没した。
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
(相撲部門参照)昭・14、講道館柔道5段に列せられる。昭・43 北海道札幌で逝去。
「島の新聞」索引(人名別)
★ 清水幸吉
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
相川町二丁目に、通称「はぐちや」清水幸吉がいた。筆者は昭和の初め、わざわざたずねて、製作の
福助を買ったことがある。「はぐち」というのは「素焼物」のことで、いつもはこの「はぐち」を焼いていた。そして、有卦の時だけ、福助をこしらえた。ほかに縁起物の恵比須・大黒の土製の面などもこしらえるということであつた。店頭には、日用品の素焼物のほか箱庭の時に使う家とか、橋とか、鳥居などがならべてあつた。
この「はぐちや」でつくった福助も、昔のものはよかった。八cmくらいのものを一個入手したが、眉や目が、太く大きい。そして、振ると音がするようになつていた。この時、買つたものは、緑と赤のエナメルを塗ってあつて土人形の本来の味が、さっぱりなく閉口した。二十㍉くらいの小さいものは珍し
い。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
★清水儀平
『佐渡酒誌』(平成14年)

★清水京子
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 8<短歌>外海府紀行
★清水伍作
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎
★清水幸雄
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
八幡の人、佐渡中時代の昭和12年、第7回県下男子中等学校総合体育大会4部において、800m5位(2分25秒4)。
新潟師範時代の昭和17年、第12回県下男子中等学校競技大会1500mで1位。
同年、全国中等学校陸上選手権大会800m、1500mで1位。
その後、清水幸雄(新記録証受賞)は加茂農林高校体育指導の充実を通じて県陸協の進展に寄与された。
★清水シュン
「大力の女と百六歳の老婆」(「佐渡の百年」)
★清水湘斎(しみずしょうさい)
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)

【生没】一八八七ー一九三九 銅器作家。昭和十四年二月、五二歳で没した。住まいは相川町三丁目で、若くして沢根の本間琢斎に師事、斑紫銅および斑黄銅などに、美しい作品を製作して一家をなし、とりわけ神仏像の彫刻ですぐれた技を持ち、「相川の銅器作家中随一」と評判が高かった。大正の初期から昭和の初めころ、全国物産品博覧会や内国勧業博覧会などに、花器・香炉などを出品し、受賞すること十数回におよんだという。大正五年(一九一六)七月、皇太子裕仁(昭和天皇)が来島されたおりに、御観賞を得た「斑紫銅芝屋香炉」が同殿下の御買上げになったほか、翌大正六年に出品した「斑紫銅無地花瓶」が、高松宮殿下のお買上げになったことも記録されていて、三丁目の自宅の裏に工房を持っていた。出品作に対する感謝状や賞状など、生前の作歴を示す三○点余が、屏風にして保存されている。本名は丈作。もう一つの雅号が孤松軒。夫人のミツイさんは元安田部屋の坂尻家の出で、長年産婆さんとして令名が高かった。陶芸作家の清水文平さん方が、湘斎家の本家に当たるという。
【参考文献】高屋次郎『佐渡名鑑』(佐渡毎日新聞社)・原 泉『佐渡郡肖像録』(博友社) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
銅器鋳造作家。明治二十六年、佐渡郡相川町三丁目で生まれた。同郡沢根の二代本間琢斎の門下である。紫班銅、黄紫銅に一家の風をなした。各種博覧会に出品して賞状褒状を受けた。
神仏像にすぐれた作品がある。(佐渡名鑑)
★清水丈作
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]
★清水伸





新潟日報(平成26年12月20日)

※「佐渡ジャーナル」関係記事:「5号」(平成18年4月)清水伸展(相川出身・パリ在住)
「島の新聞」索引(人名別)
★清水眞司
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)清水眞司
山本静古 99 扁額「静古樓」の印のことなど 六穂
篆刻 121 山本植蔵氏の篆刻 六穂
★清水一
「躍進日本」

★清水治慶(はるのぶ)

★ 清水半平
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より

佐渡の創作玩具も、つぎつぎに廃絶の運命をたどっていったが、昭和初年から人形師として現在もなお創作玩具の製作をつづけている人がいる。この人は、佐和田町沢根、清水半平である。小学校を卒業すると、同じ町に住む仏師二代山田与八の弟子となつて木彫家をこころざした。木彫家としては「日展」に、昭和三十二年「波紋」が、同四十年には「果樹」が入選した。また、昭和三十五年には、全日本人形作家連盟と朝日新聞社主催の「人形展」には「ぼたん雪」を出品、特選になった。これは、雪蓑をつけた三人のこどもが一団となって、ぼたん雪の降るのをながめている姿である。わらべ唄の「天井見りや 煤だ 下見りや 雪だーというのを思い出す。彼の制作する木彫りの作品もいつもこどもを題材にしている。ここにも人形師らしい彼を見ることができる。
彼の初期の創作玩具は「半平人形」のレッテルで売り出した。土製で、三個一組の編笠に浴衣姿のおけさ人形」であつた。これと同じ九cmくらいの土製で「盆踊人形」と「春駒人形」もあつた。 この「盆踊人形」は、普通「おけさ人形」ともいっているが、このごろのようにきれいに、着飾ったおけさ踊とは、まったく異にして、農村や漁村の老若男女が踊っている姿で、まず盆踊風景というところであろう。これこそ、佐渡の庶民の姿で野趣横溢している。人形は、頬かむりで踊る人と、太鼓たたきと、笛吹きの三人である。清水半平が、長い間つくつた人形の種類は多い。「おけさ人形」につづいで、三人一組の「春駒人形」をつくつた。「おけさ人形」と同じく高さ九cmで、春駒そのものは人形のモデルとしては難しい。鳥打ち帽をかむった太鼓たたきと、大きな福袋(もらった米など入れるもの)を肩にした付き添い人は、稚拙味があつて面白い。今なお製作をつづけているのは「のろま人形」と「のろま土鈴」である。
「のろま人形」は、小型四個の首人形で、竹を横に切ったものの中に藁をつめ、そこにさしてある。小型で、値段も安いので観光客から歓迎されている。しかし、エナメル塗りはなんとかならないものであろうか。小売店の注文かもしれないが、改良してほしいと思う。
「のろま土鈴」は四個一組であるが、小売店の注文で二個一組として箱入りである。これなども、もっと小さくして四個一組にしてほしい。人形芝居の「のろま人形」が四個で一座を組織しているからである。最近は製作をやめているが、「流人首人形」というものもあつて、小倉大納言、世阿弥、切られ与三郎、女人の四個組であった。このほか、張子の春駒面〔釣〕などもこしらえたが、これもなかなかよく出来ている。
こういうものを、もっとつくつてもらいたいと思うが、土産物屋などの注文であつて、作者の思うようにならないところに悩みがあるのであろう。一日、彼の工房をたずねたが、注文に応じられないほどだと、うれしい悲鳴をあげていた。若い次女悦子が、この人形づくりの後継者になるといっていたが、心づよいかぎりである。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
★清水敬允(ひろちか)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「23号」(平成22年10月)佐渡旅行-”佐渡の能楽堂を見たい”(清水敬允 ひろちか)
★清水基吉
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)清水基吉
26 特集 句集「海見ゆる坂」しづかな姿勢
54 特集 詩華集「佐渡のうた」 ひとむかし
59 清水基吉先生の俳句 山崎房子
★清水祐治
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)

★清水与四平
『佐渡酒誌』(平成14年)

★清水六穗
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)清水六穗 131 西川春洞四言二句書の周辺〈山本修巳家所蔵 六曲屏風〉
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