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2020-12-27

★笠井亮(あきら)
かさ笠井亮
1952年10月15日 -。日本の元学生運動家で政治家。日本共産党所属の衆議院議員(5期)、日本共産党中央委員会政策委員会責任者(政策委員長)。元参議院議員(1期)。
祖父は金井千種、祖母は相川出身で 二人が吉井小学校の教員時代に知り合い 祖父の弟は妙宣寺の住職だった。今でも千種の従兄からコメが送られてくるそうだ。
ウイキペディアより

★笠井宇作
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎

★笠井宇作
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
かさ笠井宇作 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎

★笠井数馬
「加茂村誌」(昭和38年4月)
かさ笠井数馬 「加茂村誌」(昭和38年4月)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治六年生 加茂村羽吉 ・昭1、佐渡政友倶楽部の秋期総会[三年八月十八日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]

★笠井一正
「エスライフ」2010年4・5月号
かさ笠井一正 エスライフ2010年4・5月号 1 かさ笠井一正 エスライフ2010年4・5月号 2

★笠井和美 
佐渡高校時代の平成元、全国高校文化祭(岡山県)、美術部門、県代表として出品

★笠井寛治
かさ笠井寛治
かさ笠井寛治 「椿尾歴史街道」
新潟日報(h28年3月17日)
かさ笠井寛治 h28 3 17
「島の新聞」索引(人名別)

★葛西磯山(ぎざん)
かさ葛西磯山 羽茂の画家 「近現代の羽茂」
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
画家。明治七年二月十に佐渡郡羽茂町小泊の葛西(明治時代はクヅニシとよんでいたが大正末年からカツサイとよぷようになった)長五郎の二男として生まれた。遥称広吉、字は之有、磯山と号し、ほかに石臼子、遅々園といった。附近にある荒磯山にちなんだ号であろう。小学校卒業後、羽茂本郷字木戸の菊池耕岳(本名幸作)に絵を、羽茂本郷の葛西周禎、美濃部楨に詩文を学んだ。明治二十六年上京して浅草松清町の高森砕厳に人門、六年間修業、花鳥山水を得意とした。同三十二年帰郷、相川の松栄俊三家に滞在、作品を残した。このころ相川の佐藤ワカと結婚し再び上京した。南画の研究に支那へ渡る計画をたてたが肺結核のため断念、帰郷して養生をした。酒を愛し、放浪、貧乏と窮乏の生活で大正四年四月十七日、四十二才でなくなった。(佐渡の百年)
「島の新聞」27号(by 松本秀雄)
27葛西磯山
「酒と放浪の画家」(「佐渡の百年」)
「島の新聞」索引(人名別)

★笠井賢次
佐渡中学生時代、昭和10年の県下中等学校水上競技大会において、200mメドレーリレーの一員として優勝する。佐渡中学は総合優勝。 
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・10・8・2~3 第5回県中等学校水上競技選手権大会(県水上競技連盟)悠久山プール
(佐渡中学 総合1位)50自6位、200リレー1位(本間竹・山本・笠井・本間俊)2.01.8新

★葛西玄仙
『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より
・羽茂の葛西(田中)家七世。この家で始めて医を学んだ人。のち健順と改める。享保十三年十二月没。
・羽茂の葛西(田中)家八世。七世玄仙(健順) の第二子、別に医師とは書いてないが同名玄仙を継いでいる。享保十八年十二月没。
・羽茂の葛西(田中)家九世。八世玄仙の第二子、学を好み「庸医知退」四巻を著す。明和六年八月没。
連歌関係者→下記資料のp662
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』

「羽茂の幕末を生きた三人」(『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』)

★葛西幸太郎
かさ葛西幸太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
羽茂本郷 ・明4、第八回衆議院議員選挙[三十六年三月一日]

★笠井小作
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より
か笠井小作 か笠井小作 (2)
か笠井小作 (3)
金井大和田にある現在の笠井家
かさ笠井小作 (2) かさ笠井小作 (1)

★笠井里美
佐渡高校時代の平成3.5.31~6.2、陸上競技県高校結合体育大会(十日町市)男子総合2位、男子トラックの部1位、走幅跳3位
平成3.6.21-23、陸上競技北信越大会(金沢市)男子総合4位、走幅跳出場

★葛西三四郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡羽茂町寺田の菅原神社の祭礼におこなわれる大神楽、つぶろさしの祖といわれている。つぶろさしは瓢さすりのなまりで、子孫繁栄と五穀豊穣を祈って奉納される舞である。三四郎は茶坊主で、京から伝習して持ち帰ったという。なお村山部落のものは、榊原藤七が伝えたという。(概観佐渡)

★葛西周杏
『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より
羽茂の医師、葛西周徳の父ではないかと思われる人物である。文政四年三月羽茂本郷の市郎兵衛が、借用の一札を入
れているただ一度だけの文書で、借主市郎兵衛は元彦(十五歳)。周徳に通じる「周」の文字と医師に通じる「杏」の一字が、何となく医師で周徳の父親らしい人物像を浮かび上がらせる。元彦は五歳で父を、十一歳で祖父を失っている。
「羽茂の幕末を生きた三人」(『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』)

★葛西周経(秀卿)
『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より
羽茂の医師、葛西周徳の長男、文政五年(1822)出生、嘉永元年(1848)三月十八日没、十七歳。
最近になって周経の墓がみつかり、その墓誌によって周経は、すでに藤沢明卿について蘭方医学を学んでいたが、前年から病み十七歳で亡くなっていたことがわかった。十七歳といえばまさにこれからで、江戸遊学などを考えていた矢先ではなかったのだろうか。父周徳の墓誌には、ただ「早世す」とあって、幼くして世を去ったように思われていたが、墓誌が発見され嘉永元年、十七歳で没した蘭方医であったことが知られた。学業は佐渡最初の蘭方医藤沢明卿に就いたとある。なお、過去帳は弘仁寺にあって、戒名「帰山秀卿居士弘化五申年三月十八日、周徳倅」とある。風化して読めない文字もあるが、次に墓誌を書き留める。

「羽茂の幕末を生きた三人」(『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』)


★葛西重四郎(鶴松斎宗重一水・周五郎・・甚九郎) 

→佐々木元英(げんえい)の項

★葛󠄀西周禎(かさいしゅうてい) ※ 「葛󠄀」の漢字注意
かさ葛西田中家系図
【生没】一八四五ー一九○六 名は、質。子直・懐新、また柯則と号す。弘化二年六月羽茂本郷の漢法医師、葛西周徳の三男に生まれる。安政四年、相川の修教館で圓山溟北に漢学を学び、学友の美濃部 とは生涯深い関係を持った。父の奨めで、万延元年(一八六○)七月出府、蘭方医術の内科・外科・眼科を修め、明治元年四月帰郷。同年十一月、来島の新政府越後府参謀兼民政方の奥平謙輔に、郷学校開設の建白書を提出、翌二年三月、相川・羽茂・新穂の三郷学校開校の端緒を作った。明治九年、羽茂郷学校の「暇修庠舎」が羽茂小学校に移行すると、自らは医業の傍ら漢学塾、「懐新塾」を開き、塾生は二五○人に達したという。明治二十一年上京、衆議院事務局等に奉職。同二十六年に帰郷してみると、兄の一子が医業を開いていたので、赤泊村徳和で開業。長谷川清に嫁していた長女ゆき子が、ここに里帰りをして出産したのが、海太郎であった。同三十四年羽茂に帰って開業・開塾、明治三十九年六月二十一日没、六一歳。その不在の間及び没後の南佐渡の塾教育を充たしたのが、美濃部塾であった。(※渡辺駐) 『佐渡の百年』(「三つの筆名の小説家」)には長谷川海太郎の母は「由紀子」となっている。【関連】美濃部(みのべてい)・長谷川海太郎(はせがわかいたろう) 【参考文献】岩木拡『佐渡国誌』、『羽茂村誌』、『羽茂町誌』【執筆者】藤井三好 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
・苗字は地元では「かっさい」と呼ばれる。
葛西周禎 諸情報

★葛西周徳
『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より
俗に、「沢の先生」といわれる漢方医であった。家が酒川沢の入口にあったので屋号を「沢」といったのであろう。屋敷は今、水田になっているが、その上の山に墓地があり、付近には漢方薬に用いたアミガサユリが残っていた。墓碑に「代々医師」とあるので追ってみたが、後で述べる「周杏」の資料のほかは何もわからなかった。町の田中(葛西秀夫)家と同姓の医家で、その後の縁戚関係もあるので一族ではないかと思ったが、この関係もわからないままである。京都に出て宮廷医高階槐園(安芸守)に漢方医術を数年学んだので、帰郷開業後は流行医師であったという。
家業、代々医師。明治元年八月二十四日没。享年六十一歳。逆算すると文化五年生まれか。若年にして京都に出て、朝廷の医師高階槐園に漢方医学を学ぶ、長男周経早世。次男仲惇が家を継いだが、早世する。三男周禎は、しばらく家を見たが、亨叔死後の田中家を継ぐ。

周徳が佐渡最初の蘭方医藤沢明卿によって、西洋医学の啓発を受けたことほさきに触れた。その年齢が何歳の時であったかは正確にはわからないが、自ら学ぶにはもう遅かった。そこで子弟の蘭方医教育に情熱を燃やしたと、今まではごく平易に考えられていた。ところがつい最近になって長男の周経の墓がみつかり、その墓誌によって周経は、すでに藤沢明卿について蘭方医学を学んでいたが、前年から病み十七歳で亡くなっていたことがわかった。十七歳といえばまさにこれからで、江戸遊学などを考えていた矢先ではなかったのだろうか。嘉永元年のことだから海老名秀輔の就塾三年、二男仲惇と葛西亨叔の就塾六年前のことになる。また、墓碑面には「文慧殤伯居士墓」とあって、「学に秀で若死にした長男の墓」と解され、碑文には「愛惜」 の文字もみえる。以上を総合すると、周徳の蘭方医学への傾斜は早くからあったがこの長男周経の急死が決定的な打数となったのではないかと考えさせられるのである。なお、秀卿の字を用いるのは藤沢明卿によるもので、死後のことのようである。

明治二年に創設された羽茂小学校の前の身郷学所「暇修庠舎」は、これまで葛西周禎が独自の発想によって建白書を出し、設立したものとされていて、周徳の発想をいう者はいなかった。ただ、一部で明治新政府の奥平謙輔の来島・着任が明治元年十一月、建白書の提出・開設が翌年正月と、余りにも短期間であることを一種の謎とし、また、反対に周禎の切れのよさとする向きが強かった。                                               
この謎を解いたのが、さきに掲げた周徳の墓碑で「没後数年、質(周禎の名)よくその令(父の教え)を紹(つ)ぐなり」という円山溟北の碑文であった。溟北は、相川での周禎の師で、墓碑は明治九年の建設だから周禎もよく内容を知っていたわけである。

「近現代の羽茂」
かさ葛西周徳

「羽茂の幕末を生きた三人」(『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』)


★笠井淳子 

「エスライフ」2012年6・7月号
かさ笠井淳子 エスライフ2012年6・7月号 1 かさ笠井淳子 エスライフ2012年6・7月号 2
昭和21年、佐渡市生まれ。音楽学科のある大学に進学し、昭和44年から教育現場に従事。その間にも結婚に出産、家事をこなし、仕事や家庭を両立しながらも順風満帆な生活を送っていた著者。ところが42歳になり突然「乳癌」が彼女を襲う。平均寿命さえも生きられぬと深沈するも、体を貪る悪魔と闘い、苦しみ、耐えた9ヶ月にわたる闘病生活。そしていつ再発するかもわからぬ恐怖と闘いながら、奇蹟的な復職を遂げるまで、著者が生きている証を綴った自伝的一冊『跳べ未来へ そして生きよ-二つの誕生日を』(文芸社 2009年)を出版。他に『えがお』

★葛西信太郎(千松斎宗林一枝) 
→佐々木元英(げんえい)の項

★葛西宗仙

『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より
羽茂の葛西(田中)家十世。九世玄仙の第三子、宗仙、胤秀、一得斎と号す。
藤沢子山について漢学を学び、また、里村玄川につき連歌を習う。「羽茂村誌」は医師としている。宝暦十年生まれ、天保三年十一月没。
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
か葛西宗仙
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡羽茂の人で、字は胤秀、一得斎と号し、晩年龍寿翁と号した。
藤沢子山に歴史を、里村玄川に連歌を学び、宗匠となった。
天保三年(一八三二年)十一月に七十三才でなくなった。(佐渡人名辞書)
「羽茂の幕末を生きた三人」(『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』)

★葛西宗伯
『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より
羽茂の葛西(田中)家十一世。十世宗仙の長子、宗伯・胤親という。父について連歌をよく詠み、広く文学に長じた。寛政二年生まれ、天保十一年七月没、三十九歳の若さで惜しまれた。
「羽茂の幕末を生きた三人」(『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』)

★葛󠄀西千秋※ 「葛󠄀」の漢字注意
かさ葛西千秋 かさ葛西田中家系図
「近現代の羽茂」
かさ葛西千秋
羽茂にあった葛西周禎の漢学塾(兼漢方医所)跡地 ※現在の商工会前
かさ葛西周禎漢学塾 かさ葛西周禎漢学塾 (2) かさ葛西周禎漢学塾 (3)%
・羽茂農学校初代校長、漢学者・漢方医であった葛西周禎の長男。父周禎により10歳(12歳とも)から東京に出て、開成中学・高校.、東京高商(現一橋大)で学び教員となって、熊本等全国各地で教えた。後、文部大臣荒木貞夫に認められ文部省に入り、高官となる。そして羽茂農学校創立の方に接するや退官して1941年羽茂農学校校長として赴任。当時の新潟県知事(官選)は自分より高位の文部官僚が県内高校長に就任することに難色を示したという。葛西千秋は、「国の伝統芸能を学び、精魂を練磨しべし」として、校友会活動に能を取り入れることにしたが、その年に急死してしまった。翌年その志が受け継がれ、謡・仕舞の講師に昭諷会二代目会長も任命された。こうして学校に謡・仕舞も講座ができた。(参照「佐渡広場」)
・旧制高校で教鞭を執り、専門は経済学であった。
長男秀夫、長女章(あや)、次男順夫(のぶお)、二女華(はな)、三男敏夫(戦死)、四男毅夫(たけお)、三女静子。但し、一部順序が違うかもしれない。秀夫は明治35年、東京生まれで、満州から帰国後、東京造園大学(現在の東京農大)を出て、羽茂高校の教師となった。生物を中心に他の科目も教えた。退職後は自宅でお菓子や雑貨店を経営したり、赤泊の人に店を貸したりした。
・苗字は地元では「かっさい」と呼ばれる。
(藤井美好先生談 -平成26年8月8日-)
葛西周禎は江戸で学び羽茂本郷で漢学塾・漢方医を始める。その後江戸に出て居る時に甥がその場所で漢学塾・漢方医を始めたので、再度帰郷した時には赤泊徳和で漢学塾・漢方医を開業。周禎の娘が長谷川海太郎(林不忘)の母である。その後、羽茂本郷で営業していた周禎の従兄弟が亡くなった為、葛西周禎は以前のようにその場所で営業する。
周禎の子千秋は荒木貞夫陸相の推挽もあって文部省教学局長となった。その頃羽茂に農学校建設の話がおこり、千秋は文部省を辞し志願して校長となる(1941年)。当時の新潟県知事は、自分より位階の高い人が自分より地位の低い校長になることに難色を示したと言う。千秋の長男は漢文の先生で羽茂高校にも勤務していた。
現在は奥さんが羽茂葛西家(屋号 田中)を守り、三人娘の内一人が近年地元に戻り母の介護傍ら家を守る。両津真木の松木さんに千秋の娘(昭和20年生)が嫁している。JR東海会長で安部首相の懐刀である葛西敬之氏の父は葛西千秋の二男か三男と想われる。余談だが、長谷川海太郎が生れた時、父清は早々「海太郎」と命名すべく歌にまで読んでいたのだが、祖父の周禎は「りんじろう」とつけたかったようだ。
その名前は海太郎の弟「潾二郎」の名前となった。潾二郎は画家である。

※『私の履歴書』(葛西敬之 日本経済新聞)より
「葛西家は代々、新潟・佐渡の医者であり、漢学者である。私塾を開き、子どもたちに学問を教えてもいた。順夫の父である祖父の千秋は10歳のとき、学問を学ぶためにひとり東京へ出されたという。
「我が子、千秋を東京へ送る。あなたはもう幼くはない。学ばねばならないのだ。天は広く、前途は遠い」――。私が子どものころ家の床の間には、旅立つ息子のはなむけに詠んだ、こんな曽祖父の漢詩がかかっていた。
東京に出た千秋は、いまの開成中学・高校で学んだ。10歳かそこらで、漢文は開成の先生に教えていたという。」

・死亡の原因についてこのようにも語り伝えられている。度津神社の大切な例祭があった時、葛西千秋を快く思ってなかった当時の関係者の一人が彼に違った開始時刻を知らせた。
催促があった時にきずいた葛西は取るものもとりあえず走って会場に向かった。元々、心臓に疾患?があった彼は途中で倒れそのまま息を引き取ったと言う。
・羽茂高校の初代校長になる時、当時の県知事が大反対した。これは、県知事が文部省では葛西より下位であったからだと言う。県知事は結局承認の印を押さなかったと言う。
しかし、葛西は初代校長として実際の業務を果たしている。

「羽茂の幕末を生きた三人」(『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』)


★葛西仲惇

『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より
羽茂の医師、葛西周徳の二男。天保六年(1835)生れ、安政四年(1857)没、二十三歳。一子羊太郎家を継ぐ。
兄に周経があったが嘉永元年、十七歳で没している。就学先は大阪の緒方洪庵の適塾、嘉永七年四月二十六日入門と「姓名録」にある(資料参照)。没年等について墓碑に次のように刻まれている「峨山道険峻居士安政四年六月八日 行年二十三歳寂」。また、父周徳の墓誌によれば「梅田氏、二男一女を生む。先ず長男周経早世し、次子仲惇家を継ぐも亦夭折す」とあって、先妻の梅田氏(梅田藤右衛門家からきた人であろう)に長男周経と二男仲惇があり、長男が早く世を去ったので二男が家を継いだが、また若死にした、というのである。
仲惇についての言い伝えでは、妻は村山の伊賀屋敷(伊賀寿八郎)家から嫁いだ。一子羊太郎があって後述するように蘭方医に育った。養育にあたっては三男(羊太郎の叔父にあたる)周禎も助力はするが、羊太郎の母親が大変な苦労をするが、学資が滞り勝ちで卒業が遅れたという。仲惇は、墓誌にはないが適塾から帰って、しばらく羽茂で開業していて世を去ったようである。周徳の二男仲惇が適塾へ入った同じ嘉永七年、町の田中(葛西秀夫)家の亨叔は江戸の象先堂へ入門する。亨叔に
ついての詳細は次に述べるが、この二人が東西の一流塾を別々に選んだことは、単なる偶然ではなく、親交のあった明卿と周徳の間に周到な打ち合わせがあってのことであろう。

「羽茂の幕末を生きた三人」(『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』)


★笠井長吉(大山)

『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎・大和両座合流以来約二十年、その間に村田豊三郎(明治三十五年歿)、八尋渕甚太郎(明治四十二年歿)ら相次いで没し、中川甚太郎もまた眼をわずらい、大崎における文弥人形も、漸く衰退のきざしが見えるようになった。こうした情勢に葛原三郎はこれを憂え、村山の笠井長吉太夫(大山)を迎え、鹿蔵を指導者として、青年渡辺伝蔵・石渕由太郎・葛原五兵衛らを入門させて、その育成をはかり、また、頼母子講をおこして、資金を集めて人形を購入するなど力を尽し、大正五年(一九一六)頃、座名も里見座と改めた。

★笠井長吉 

『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
羽茂の大谷人形(大和座)は明治十八年、大谷の中川今吉のはじめたもの。今吉は文弥節を仲平琴清(池阿波ノーの弟子)に習い、琴清の死後は渡辺忠蔵の弟子となった。彼はまた人形のカシラも刻み、傑作は「持統天皇」のカシラだという。一座は今吉が太夫で、役者は弟の高野待太郎、藤井金蔵と息子の鉄五郎という一族で組織していた。時おり隣家の茶園三蔵も加わった。明治三十年大崎座の人形や小道具の一部が洗出した時合併した。(大正五、六年までつづいた)今吉は、昭和五年七十四歳で死んだので、息子の鉄五郎が継いで座元になった。太夫は村山の笠井長吉(今吉と同じく渡辺忠蔵の弟子)であった。役者は、その後昭和二年に待太郎が死に、昭和七年に金蔵が死んだので、新たに北島初太郎、半田幸太郎が加わった。戦後、「新大和座」が生れ、太夫に長尾俊、藤井軾蔵(しょくぞう)、役者に早川治作、関口一郎、中川栄一が加わった。

「山里の人びと」(文弥人形)


★笠井定一

 →野村蘭作「宝生二派の統一」参照


★笠井藤右衛門

「戦国佐渡国人名辞典」より
羽茂高貞家臣。1589年、「河原田城の戦い」では、河原田高統を支援するが、樋口兼続勢の反撃を受け討死した。

★笠井直樹
かさ笠井直樹
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030367.html

★笠井直守
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・13・8・5~6 第8回県中等学校水上競技選手権(県中体連・県水上競技連盟)長岡・高鳥プール
(佐渡中・総合1位。3年ぶり2度目の優勝)
100自⑤、200リレー①佐中(山本・笠井・土屋・本間)2・00・9新、800リレー②佐中
昭・14・7・23 第9回県中等学校水上競技選手権(県中体聯・県水上競技聯盟)
(佐渡中・二年連)100自④、200リレー①笠井・土屋・斉藤・本間2.02.0
昭・15・7・26 第10回県中等学校水上選手権(県中体連・県水上競技連盟)佐中競泳地
(佐渡中 総合3位34点)100自⑤、200リレー②佐中2.05.7、800リレー④佐中


★葛西肇(はじめ)

かさ葛西肇
「佐渡名勝史」(昭和11年 山本幸作 山本商会出版部)
かさ葛西肇 佐渡名勝史 昭和11年 山本幸作 山本商会出版部
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
かさ葛西肇 (2) かさ葛西肇

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
名望家。佐渡郡羽茂の人である。公共のために私財を投じた。明治三十八年より大正九年までの間に、日露戦争平和克復奉告祭、対独宣戦奉告祭、日独平和克服祭、即位大嘗祭勅使正庁等への費用、消防団へ七百円、小学校へ書籍二百部及び奉安庫、明治神宮外苑事業へ二百円、妹背橋工費五百円、度津神社参道工費二千円、羽茂校ヘビアノ一台、県農事試験場佐渡分室へ萄葡は玻瑠璃室十坪一棟、育英費一万数千円、大石湾築港運動費数千円等を寄附した。大正三年に緑綬章を受け、県知事の表彰も受けた。(佐渡名鑑)

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
羽茂本郷 ・明4、新潟県会議員補欠選挙[四十三年六月]・大2、第十八回新潟縣会議員選挙[八年九月二十五日]・大2、政友会の公正會入党披露会[八年十月十四日]・大2、大石港[八年十二月]・大2、第十四回衆議院議員選挙[九年五月十日]・大3、佐渡政友倶楽部の會合[十一年九月十七日・二十三日・十月二十一日]・大3、高等女学校の移転問題[十一年十二月二日]・大3、佐渡政友倶楽部秋期大会[十二年八月二日]・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日]・大3、葛西肇の除名[十二年九月二十九日]・大3、小作聯合會[十二年十月十日]・大3、塚本派の演説会[十三年四月三十日]・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・大3、尾崎行雄 来郡[十三年九月十日~十五日]・大3、政友本党の遊説[十三年十月二日]・大3、佐渡実農倶楽部の秋期総會[十三年十月四日]
・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋期大会[五年十月二十三日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]
・昭3、佐渡政友倶楽部秋季大会[七年九月六日]・昭3、本郡政友倶楽部秋季大会[八年十月八日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[九年九月九日]・昭4、山本悌二郎の慰霊祭[十三年十二月十日]・昭4、政友倶楽部の委員会[十四年五月十四日]

「小波と水蔭」(「佐渡の百年」)

「両津港の歴史」 (『両津町史』(昭和44年)より)

葛西肇
「島の新聞」索引(人名別)


★葛西浩

「躍進日本」
かさ葛西浩「躍進日本」
保険協会会長。
→嶺直貫(「佐渡高等学校百年史」-嶺直貫の〝日の丸事件″と柏倉校長の休職-)

『佐渡プロテスタント小史』(本間雅彦 「佐渡郷土文化」30・32・33号)


★葛西副公(宗仙) 

羽茂下町、田中家の人。連歌関係者。→下記資料のp697
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』


★葛西副幸 

連歌関係者 →下記資料のp673 
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』


★葛西文庵

『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より
羽茂の葛西(田中)家十二世。十世宗仙の第二子、長子宗伯若死のため後を継いだが、天保十三年五月没。

「羽茂の幕末を生きた三人」(『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』)


★葛西丈平

『佐渡酒誌』(平成14年)
かさ葛西丈平 『佐渡酒誌』(平成14年)


★笠井正信

新潟日報(h28年4月12日) 金井町町議3期、市議1期 笠井木材経営
せん選挙 h28 4 11 (4) せん選挙 h28 4 11 (5)

平成28年4月10日執行 佐渡市議会議員選挙公報
かさ笠井正信


★笠井瑞恵

 両津高校時代の1992年度(H4)11月、第38回青少年読書懸想文全国コンクール(全国学校図書館協議会・毎日新聞社主催) 佳作   

★笠井光次郎
「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数114

★笠井盛蔵
「躍進日本」
かさ笠井盛蔵「躍進日本」

★笠井幸則
佐渡高校時代の35.8.27~28、水泳県高校結合体育大会(柏崎市)総合6位、入賞
36.7.22~23、水泳県高校選手権(柏崎市)総合57点2位、(平泳)100m・200m入賞
36.9.14-17、水泳国民体育大会(会津若松市)出場
37.7.21~22、水泳県高校選手権(柏崎市)総合64点3位、上位入賞


★葛西羊太郎  

『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より
周徳の二男仲惇の一子で、やはり江戸に出て蘭方医となり、郷里に帰って開業、火傷の治療に長じていたという。明治三十八年(1905)五月二十九日没。享年四十九歳とあり、生年は安政四年(1857)となる。
帰郷開業の時期は、はっきりしないが、周禎が三度目の上京から明治二十六年に帰ったとき、羽茂に羊太郎が開業していたので、自分は赤泊村の徳和に行って開業したというが、周禎は同三十四年に羽茂へ帰ってくる。それまでの間に長女のゆき(由起子)が里帰りをしていて出産したのが後の長谷川海太郎であった。
         
「羽茂の幕末を生きた三人」(『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』)

★葛西嘉資(かさいよしすけ)
「躍進日本」
かさ葛西嘉資「躍進日本」
羽茂大橋の岡上にある葛西家の別荘(令和1年)、葛西家は小木日和山にも別荘があり文人墨客等を招いた。
かさ葛西嘉資 かさ葛西嘉資 かさ葛西嘉資 (1) かさ葛西嘉資 (2) かさ葛西嘉資 (3) かさ葛西嘉資 (4) かさ葛西嘉資 (5) かさ葛西嘉資 (6)
かさ葛西嘉資 (7) かさ葛西嘉資 (8) かさ葛西嘉資 (9) かさ葛西嘉資 (10) かさ葛西嘉資 (11) かさ葛西嘉資 (12) かさ葛西嘉資 (13) かさ葛西嘉資 (14) かさ葛西嘉資 (15) かさ葛西嘉資 (16) かさ葛西嘉資 (17) かさ葛西嘉資 (18) かさ葛西嘉資 (19)
羽茂町「やまか味噌」の葛西肇の長男として生まる。一高、東大卒。厚生次官、日赤副社長に八年在職し、海外引揚げや北鮮帰還の立役者として尽した功績は大きい。日本社会福祉振興会長としても活躍する。
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「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説.
1906-2001 昭和時代の官僚。
明治39年4月17日生まれ。昭和4年内務省にはいり,13年新設の厚生省にうつる。社会局長をへて23年事務次官となる。生活保護法,児童福祉法などの制定に従事。28年日本赤十字社副社長,37年社会福祉事業振
興会会長。39年パラリンピック運営委員会会長。のち日本児童福祉給食会理事長。医薬品副作用被害救済基金理事長。平成13年4月29日死去。95歳。新潟県出身。東京帝大卒。
・『佐渡郷土文化』97号 山カのボンボンの死を悼む 稲辺小二郎
「島の新聞」索引(人名別)

★葛󠄀西敬之(かさいよしゆき) ※ 「葛󠄀」の漢字注意
かさ葛西田中家系図
                             上段2枚目(生後間もなく祖母と)             〃3枚目(父と)
かさ葛西敬之1 (2) かさ葛西敬之2 祖母と  かさ葛西敬之4 父と

下段1枚目(荻窪小で 立っている少年)        〃2枚目(大学時代に帰省した佐渡で 後段左で立っている)
かさ葛西敬之5 荻窪小で(立っている) かさ葛西敬之3 後列左
安倍晋三首相と歓談
かさ葛西敬之
羽茂にあった葛西周禎の漢学塾(兼漢方医所)跡地 ※現在の商工会前
かさ葛西周禎漢学塾 かさ葛西周禎漢学塾 (2) かさ葛西周禎漢学塾 (3)%
国鉄改革三人衆の一人で、現在はJR東海会長であり、安倍晋三首相を支える中心的な人物である。首相の信頼も厚い。1940年、兵庫県明石生まれ。(父順夫が一時期、明石中学の漢文・国語の教師) 父は漢文の教師で、羽茂本郷「たなか」(屋号)家の人。敬之の祖父は羽茂農学校初代校長の葛西千秋。千秋は文部省の教学課長であったが、その要職をなげうって故郷の教育に専念した。当時の新潟県知事は。、自分より文部省では高位の人物が校長になることを渋ったと言う。また、荒木貞夫陸相の信任が厚かった人物と言う。敬之の曾祖父は羽茂本郷の漢方医であり漢学塾も開いていた葛西周禎である。『丹下左膳』の作者林不忘は周禎の娘が相川の長谷川清に嫁いで生まれた子供である。敬之少年も中学時代までは頻繁に羽茂を訪れていたという。(羽茂 中川哲昌氏談)
・葛西敬之『明日のリーダーのために』より
父は漢文の教師であり、私が子供の頃から、まず口伝えに俳句を暗唱させられるところから教育が始まった。私が三歳のとき、親類の家へ遊びに行ったとき、「葱買て枯木の中を帰りけり  蕪村」といきなり唱えたので、親戚が驚いた。万葉集の短歌や長歌、源実朝の和歌なども父が選んで暗唱させられた。また日本の現代詩や漢詩、森鴎外や芥川龍之介の短編も音読の対象に加わった。古事記の中の物語も大方話してくれた。やはり多少なりとも特殊な教育だったと思う。小学校5年生のとき、突然父から『論語』をやるといわれ、暗唱し、父が解説するというのを繰りかえした。小学校を終えると父も母も学校の勉強には一切口を出さなくなった。
(藤井美好先生談 -平成26年8月8日-)
葛西周禎は江戸で学び羽茂本郷で漢学塾・漢方医を始める。その後江戸に出て居る時に甥がその場所で漢学塾・漢方医を始めたので、再度帰郷した時には赤泊徳和で漢学塾・漢方医を開業。周禎の娘が長谷川海太郎(林不忘)の母である。その後、羽茂本郷で営業していた周禎の従兄弟が亡くなった為、葛西周禎は以前のようにその場所で営業する。周禎の父千秋は荒木貞夫陸相の推挽もあって文部省教学局長となった。その頃羽茂に農学校建設の話がおこり、千秋は文部省を辞し志願して校長となる(1941年)。当時の新潟県知事は、自分より位階の高い人が自分より地位の低い校長になることに難色を示したと言う。千秋の長男は漢文の先生で羽茂高校にも勤務していた。現在は奥さんが羽茂葛西家(屋号 田中)を守り、二人娘の内一人が近年地元に戻り母の介護傍ら家を守る。両津真木の松木さんに千秋の娘が嫁している。JR東海会長で安部首相の懐刀である葛西敬之氏の父は葛西千秋の二男か三男と想われる。余談だが、長谷川海太郎が生れた時、父清は早々「海太郎」と命名すべく歌にまで読んでいたのだが、祖父の周禎は「りんじろう」とつけたかったようだ。その名前は海太郎の弟「潾二郎」の名前となった。潾二郎は画家である。
(下記情報は平成27年2月21日、葛西秀夫長女から葛西家にてお聞きする。)
その際、顔は見なかったが隣室にいた秀夫の妻ハツ(百歳)と次女から茂情報を得た。葛西周禎の長男が葛西千秋。千秋には子供が7人。年齢順に上から言うと。長男秀夫、長女章(あや)、次男順夫(のぶお)、二女華(はな)、三男敏夫(戦死)、四男毅夫(たけお)、三女静子。但し、一部順序が違うかもしれない。秀夫は明治35年、東京生まれで、満州から帰国後、東京造園大学(現在の東京農大)を出て、羽茂高校の教師となった。生物を中心に他の科目も教えた。退職後は自宅でお菓子や雑貨店を経営したり、赤泊の人に店を貸したりした。秀夫の妻ハツは大正3年生まれで、(平成27年2月21日現在)寝たきりではあるが元気である。
次男順夫(のぶお)は東京の高校の教師。その息子が現在JR東海会長の葛西敬之(よしゆき)であるが、敬之は中学、高校、大学時代に羽茂の実家に度々来ていた。敬之が新潟県生まれと言うことだが、順夫の妻は九州の人なので、新潟県の心当たりと言えば羽茂の家しか考えられない。他の情報としては、葛西周禎は婿養子として屋号サワという家から入った。元の苗字も葛西であった。他には潜(ひそむ)という人がいたが、千秋の弟か。また、葛西洋太郎(銀座の写真館で撮った写真有)という人も居たが誰かよくわからない。一時、周禎の代わりに漢学塾を開いていた人かもしれない。千秋の妻はおりゅうさんと言い、羽茂木戸の羽生家の人である。※羽生家は羽茂から進んで木戸停留所を過ぎて左手最初の家(停留所から左に上がる近道ではなく、元々の県道)。平成27年10月現在、空き家である。
※葛西敬之の祖父千秋と林不忘の母ゆきは兄と妹なので、敬之の父順夫と林不忘は従兄弟。従って、敬之からすれば、父の従兄弟が林不忘となります。
「葛西敬之氏が死去 JR東海名誉会長」(2022/5/27)
 旧国鉄の分割民営化で中心的役割を果たし「改革3人組」の一人と呼ばれたJR東海名誉会長の葛西敬之氏が死去したことが27日、分かった。81歳。東京都出身。 葛西氏は東大卒業後の昭和38年に旧国鉄に入社。旧国鉄末期には職員局次長などを務め、雇用対策や合理化を担当した。中堅幹部だったJR東日本元社長の松田昌士氏(故人)、JR西日本元社長の井手正敬氏とともに、28兆円にものぼる膨大な赤字を抱えていた旧国鉄の分割民営化に尽力した。 62年のJR発足に伴い、JR東海取締役総合企画本部長に就き、常務、副社長社長を経て平成16年に会長に就任。旅客減で低迷していた収益源の東海道新幹線を、「のぞみ」増発による時間短縮などの利便性向上策で活性化させた。15年10月にはJR東海の品川駅開業を実現、東京-名古屋間を40分で結ぶ「リニア中央新幹線」の具体化を推し進めるなど、安定的な経営基盤の確立に努めた。社外でも国家公安委員など政府の要職を歴任。安倍晋三元首相の政策的なブレーンを務め、安倍氏肝いりの教育再生会議委員に就任し、教育問題の論客としても知られた。
・苗字は地元では「かっさい」と呼ばれる。
諸情報
葛西家のルーツに関しては下記↓
「羽茂の幕末を生きた三人」(『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』)
『私の履歴書』(日本経済新聞 平成27年10月)
『私の履歴書』(葛西敬之 2015年 日本経済新聞)
「ウィキペディア」より
「アンサイクロペディア」より


★笠井理策
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭1、農政革新会の惣會[二年一月五日]

★笠井亨
真野出身、「(株)常創設計」(一級建築士事務所)代表
・所在地 東京都江東区東陽三丁目27番32号 玉河ビル9階
・創業 昭和48年9月26日
・資本金 20,000,000円
・営業品目 建築企画・設計監理・建物調査・耐震診断

★笠井亮→笠井亮(あきら)  

★葛西亨叔   
『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より
天保六年(1835)生れ、慶応三年(1867)没。
羽茂の葛西(田中)家十三世。十一世宗伯の第二子、幼名松三。両津市湊町の藤沢明卿の養子となったが、長兄の九十九がゆえあって家を継がず、十二世文庵も若死したため、後継者がなく「親族相謀り、明卿先生に乞うて還り、家を継ぐ」とあり。なお、江戸において伊東玄朴について和蘭の学を修め、歩兵操練の法を訳し、これを旗本赤松左衛門尉某に講じた。亨平と名を改め、帰って母を養っていたが慶応三年五月十四日没す。天保六年生まれ、享年三十三歳。「一要院亨叔日円居士」。
嘉永七年に伊東玄朴の象先堂へ入門した葛西亨叔は、当時藤沢明卿の養子として藤沢亨叔または亨斎を名乗っていた。田中家九世宗仙(前掲) の継室(後妻) の二子で、母は海老名忠三家の出、幼名を松三といった。家を継ぐべき兄たちがみな若死にをしたため子がなく、家系が断絶することになるので明卿先生に頼んで家に帰してもらったという。その時期は不明であるが、伊東玄朴の 「門人録」 には「嘉永七年七月入塾藤沢亨斎」とあり、帰ってからは名を亨平と改めていたとある。亨叔は安政五年(一八五八)江戸にあって「歩兵操法」を翻訳し、旗本赤松左衛門慰に洋学を講義したとある。天保六年(一八三五)生まれ、慶応三年五月十四日没、三十三歳であった(葛西氏家系略誌)。羽茂にいつ帰って何年間開業していたかはわからない。妻はあったが子供はなく、同姓で同じ医師一家であった「沢」家の周徳の三男、周禎が葛西家に入って後を継いだ。

「羽茂の幕末を生きた三人」(『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』)

★笠木正雄
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)笠木正雄 29 句集「海見ゆる坂」私の好きな秀句

★笠木正信
令和4年7月没、73歳。金井町町議、佐渡市議。

★風間正介
「躍進日本」
かざ風間正介「躍進日本」

★風岡藤作(かざおかとうさく)
かざ風岡藤作 立浪会35年のあゆみ 昭和34年
【生没】一八六九ー一九三四 「立浪会」初代会長。下戸馬町に生れたとされる。松栄俊三(佐渡汽船社長など歴任)の回想だと、「坪内逍遙門下の島村垉月に似ていて、温容の風格に胸打たれた」という。大正三、四年ごろ東京から帰り、佐渡電灯会社相川出張所主任となる。親しかった椎野広吉(『佐渡の能謡』の著者、当時佐渡鉱山工作課長)が、佐渡電灯設立の渡辺湖畔に推せんしたためとされている。一丁目の風岡一角堂の初代で、大正十四年(一九二五)に「学用品・小間物・宝玉類・佐渡みやげ各種」と店業をしるした広告記事が残る。相川に初めて「弓術」を広めた人で、本田虎次郎(立浪会員)の回想では、「東京にいたころ窪田藤信・浦上栄・北村明太郎ら弓道範士とともに名人格であった」とある。二丁目辺で指南所を設立していて、のちに本田がこれをひき継いだ。「立浪会」の初代会長(大正十三年)になったのは、もともと音楽好きでもあったが、二丁目で印刷所を開いていた丸岡藤作が、「相川音頭の保存会を作ったら」と、親しかった風岡にすすめたのに始まるという。このとき風岡から、「芸術部長をやれ」と命じられたのが曽我真一(のちの立浪会長)で、真一の母親が風岡の姉であった。昭和九年二月になくなるまで会長をしていて、児玉龍太郎(元県会議長)は「私の最も尊敬する人物」(『立浪会史』)と藤作を回想している。【関連】立浪会(たつなみかい) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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相川下戸馬町生、明治2 年~昭和9 年。「立浪会」初代会長。佐渡電灯会社相川出張所主任、一丁目風岡一角堂の初代。丸岡藤作、児玉龍太郎等と相川音頭の保存を目的に立浪会を創立する。尚、曽我眞一は姉の息子、即ち甥に当たる。松栄俊三は「村田文三をを見い出したのも、「立浪会」と言う名称を作ったのも風岡であると聞いている」と語ったそうだ。
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※立浪会(たつなみかい)
大正十三年(一九二四)六月十日に創立された「相川音頭」の保存を主とした、同好者の集りである。第一回めの音頭会は、羽田浜の鉱山倉庫跡の広場で、集った同好の士は約五○名。会長は風岡藤作、副会長は丸岡藤作、演芸部長曽我真一・庶務本田虎次郎だった。旧盆の十五・六日は、「音頭流し」をして全町を歩いた。その創立当時の会員の顔ぶれは、印刷業・家具商・鉱山勤務・金融業・郵便局勤務・傘製造・木挽・呉服商、その他さまざまな職種の人たちで、音頭やおけさを根っから好きな人たちの集りであった。相川音頭と佐渡おけさが、愛宕山のNHKラジオの電波に初めてのったのは、大正十五年四月二十一日。最初の放送が本間市蔵の「金掘節、やはらぎ」、次が村田文三の「相川音頭」。鼓は千歳、三味線はみよしと沢吉だった。続いて村田文三と松本丈一の「佐渡おけさ」が流れた。その後、なん回かの放送やステージを重ねるが、大正十五年、曽我真一演芸部長引率の村田文三一行たちの、満州・朝鮮方面の演奏旅行をはじめ、樺太・台湾など全国への、おけさ・音頭等の宣伝行脚が精力的に続けられた。【関連】佐渡おけさ(さどおけさ)・立浪会史(たつなみかいし)・村田文三(むらたぶんぞう) 【参考文献】『立浪会史ー三十五年のあゆみー』(立浪会)、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代) 【執筆者】浜口一夫 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

★風岡仁平次
かざ風岡仁平次 立浪会35年のあゆみ 昭和34年
立浪会35年のあゆみ 昭和34年
かざ風岡仁平次 立浪会35年のあゆみ 昭和34年 (1)
かざ風岡仁平次 立浪会35年のあゆみ 昭和34年 (2)
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
かざ風岡仁平次 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社) か風岡仁兵次 相川町歴代町長
相川町長(昭和29年9月~39年10月)

★風岡典之(かざおかのりゆき・すけゆき)
かざ風岡典之 かざ風岡典之 (1) かざ風岡典之 (2) かざ風岡典之 (3) かざ風岡典之 (4)
かざ風岡典之 (6) かざ風岡典之 (7) かざ風岡典之 (8) かざ風岡典之 (9)
昭和44年東京教育大学卒業後、建設省入省。平成13年官房長、平成15年国交省事務次官、同16年退官。その後、宮内庁次長ー宮内庁長官。父は相川、母は両津市住吉出身。

ウイキペディアより
1968年(昭和43年)9月12日 - 国家公務員採用上級甲種試験(区分:法律)合格
1969年(昭和44年)
3月 - 東京教育大学(現:筑波大学)文学部卒業[2]
4月 - 建設省入省[3]
1985年(昭和60年)7月10日 - 建設大臣官房会計課企画官
1986年(昭和61年)6月17日 - 国土庁長官官房総務課広報室長
1987年(昭和62年)7月15日 - 建設大臣官房地方厚生課長
1989年(平成元年)6月16日 - 建設大臣官房調査官
1991年(平成3年)6月14日 - 建設省建設経済局建設業課長
1993年(平成5年)7月2日 - 建設省道路局道路総務課長
1994年(平成6年)
7月1日 - 建設大臣官房政策課長
10月1日 - 建設大臣官房福祉環境推進室長兼務
1995年(平成7年)6月21日 - 建設大臣官房会計課長
1996年(平成8年)7月2日 - 建設大臣官房審議官
1998年(平成10年)
6月23日 - 建設省住宅局住宅整備課長兼務
7月1日 - 同兼務解除
1999年(平成11年)7月13日 - 建設省建設経済局長
2001年(平成13年)
1月6日 - 国土交通省総合政策局長
7月6日 - 国土交通省大臣官房長
2002年(平成14年)7月16日 - 国土交通審議官
2003年(平成15年)7月18日 - 国土交通事務次官
2004年(平成16年)7月1日 - 辞職
2005年(平成17年)4月1日 - 宮内庁次長[4]
2012年(平成24年)6月1日 - 宮内庁長官[5]
2016年(平成28年)9月26日 - 退官[6]

★笠木嘉一
「躍進日本」
かさ笠木嘉一「躍進日本」
か笠木嘉一
東京相川会2代目会長

★笠木治部 
『小木町史』より
慶長九年、小木に十分一役所がつくられました。十分一役所というのは、この港に陸揚げされる物資から十分一税をとるための役所をいいます。この役所の置かれた場所が、いまの幸町から相生町にかけての通路の西側です。その役所の近くに役人の住む役宅がつくられ、物資を買い入れる問屋衆が住むことにをりました。伝えによると、屋五人衆は次のようになります。笠木屋、虫谷住。

★笠木治郎平
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
小木町 ・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]

★笠木正雄
かさ笠木正雄
「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)
『海峡』(歌集 平成2 短歌新聞社)
「蒼生」「創生」ほか、昭和16年~平成2年。中国大陸での戦場詠、復員後農作業に従事しながら、筏井嘉一の選を受け統け、その没後「創生」創刊に参画し、選者として離島の文化向上に、柿団地育成振興に尽くすとともに、村議会に四期在任ののち議長に就任する等の体験を積み重ねた五十年間の作品から自選した唯一の歌集。鬱勃とした思いを抱き、厳しい現実を超克したいとする孤高の志を吐露した一巻である。刊行後間もなく病を得て死没した。

★笠野楝斎(とうさい)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
か笠野楝斎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で、名は典蔵、字は謙亭といった。若くして京畿に出て仏学を修め、篠崎小竹に詩を学んだ。
維新の時、参謀奥平謙輔の令により、孟子一章を役所で講じた。鈴木愨堂とともに夷港(両津市)に学校を設けて、子弟を教授した。明治二十八年二月に六十九才でなくなった。(佐渡人名辞書)

★笠原軔(じん)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)笠原軔(じん) 45 笠原軔(じん)の父 渡辺漁村のこと

★笠原中庸
県立佐渡女子高等学校23代目校長(平成4.4.1~6.3.31)。
(※校名は以下のように変遷している。旧県立金澤高等学校・旧佐渡中央高等学校・旧佐渡高等女学校・旧佐渡実科女学校)

★風間カウ
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
かざ風間カウ 佐渡国泉の人物誌 h29年11月 (1) かざ風間カウ 佐渡国泉の人物誌 h29年11月 (2)

★風間一雄
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
かざ風間一雄 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
※風間医院 :河原田で中山医院(徳太郎医師)の後に開業した。畑野でも開業していたがその前後は不明。弟の義雄も医師となり東京の医家林家を継いだ。息子に高名な音楽家林光が居り、佐渡高校校歌を作曲した。ちなみに作詞は親戚の藤川忠治である。佐渡高校同窓会が寄付のお願いに行くと大変懐かしんで多額の寄付をいただいたと言う。
風間・藤川・林 ・柴田家系図(完成版)

★風間勝次・風間清恵
「島の新聞」索引(人名別)

★風間勝博
・『真野町史(下巻)』より
四日町の人、ピー、シー、エヌ(真野町四日町)の初代会長。ピー、シー、エヌ(真野町四日町)は昭和五〇年創立の若い会社である。創立当初は神奈川県川崎市に本拠を置く抵抗器メーカーの佐渡進出工場としてスタートしたが、その後独立、真野町吉岡に工場を建設した。コンピューター、航空機の計器などに使われる工業計器用の精密巻線抵抗器(PC)では、国内シェアの過半数を占めるトップメーカーという。生産も順調に伸び.、成長企業のうちに数えられている。横浜市鶴見区に横浜支店を置き、従業員は六〇人。横河電機・富士通・東芝などといった大手メーカーを主要取引先としている独立会社である。

★風間喜太夫 
『小木町史』(下)より
生涯を竹細工にかけた小木町の桃井寅次さんは、いろいろと記録を見せてくれました。それには、大正初期に〝笊購買販売組合″が発足し、組合長に登町の福島屋・福島峯二さんが選ばれたこと。発起人は片山某、高木由太郎さんと風間喜太夫さんで、生産者は二百五十名ほどいたこと。昭和のはじめからは、小木町生産者組合とをり、小木町信用組合に統合されたこと。そのころ荒物組合もあり、荒物の検査員に諏訪町の福井福次さんが選ばれ、大正末期から昭和二十一年ころまで町部村部と熱心にまわり、製品向上に努力されたことをどが書かれています。

★風間儀太郎(槐蔭 かいいん)
かざ風間儀太郎 (1) かざ風間儀太郎 (2)
「ショートプロフ」小木出身(真野生)の教育者、小木小学校校長、佐渡高女校長等を歴任。小木小学校校長の時に小木滞在の尾崎紅葉の歓迎会を主催。羽茂村山で紅葉を送る時、「先生一句なかるべからず」と申し出、紅葉は「袖なんぞ拭いてもろうて別れけり」と詠む。

小木出身(真野生れ)の教育者で、小木小学校校長、佐渡高女校長等を歴任する.
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡小木の人で、名は儀太郎、字は子儀、槐蔭は号である。渡辺漁村と同門であった。新潟師撃校を卒業して郷校に教授し、和漢の群書を読破した。新潟師範学校で漢文を請じ、新潟中学校教員にあげられ、佐渡金沢村実科高等女学校長となった。大正六年七月になくなった。(北越詩話)
・県立佐渡女子高等学校2代目校長(明治45.3.6~大正3.9.29 )。
(※校名は以下のように変遷している。旧県立金澤高等学校・旧佐渡中央高等学校・旧佐渡高等女学校・旧佐渡実科女学校)小木小学校校長の時には、小木滞在の尾崎紅葉の歓迎会を主催する(明治32年)。羽茂村山で紅葉を送る時に、「先生一句なかるべからず」と申し出、紅葉は「袖なんぞ拭いてもろうて別れけり」と詠んだ。
諸情報

★風間清恵
「エスライフ」2008年1・2月号
かざ風間清恵 エスライフ2008年1・2月号 (1) かざ風間清恵 エスライフ2008年1・2月号 (2)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=17
→風間勝次

★風間恵子
両津高校時代の1989年度(H元)2月、新潟県高等学校総合文化祭文芸部門(『高校文芸』第4号) 短歌 奨励賞 

★風間見宮
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
かざ風間見宮 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
かざ風間見宮


★風間権兵衛

『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より
「羽茂村誌」(村の伝承の項)は次のように記載している。
「驕る源左衛門久しからず
 羽茂本郷の名主、半ケ久保源左衛門は豪農であった。本郷共有田は大抵がこの源左衛門の所有であったものだ。しかも永代名主の形だったから、其権勢当るべからずで、上役人にも歯が利いた。が村民を視ること籾殻の如く、又虐使すること牛馬に等しかった。村民は権勢に恐れたから表面にこそ出さぬが、蛇蠍の様に嫌った。或年己の家屋の新築工事を始めるに当って、奉行所から野田山官林の立木を賜うたが、それも幾本と定数で貰うたのだ。この木の運搬は勿論、己れが山林の伐木の運搬にも、皆村人足(公用性の)の格で手伝わせ乍ら酒の一たれも、握り飯一つだに呉れぬのみか、出勤の時間が少し遅れてさえ大目玉を食らわせた。この飯岡に風間権兵衛と言う老があった。奉行所用に相川へ使して、いつになく一泊して帰って見ると、村人は其日も源左衛門へ招集されて運材をしていた。権兵衛は急いで支度をして遅くかけつけた理由を述べて手伝おうとしたが、大不機嫌の源左衛門(嬶迄ロを添えて)に貴様のような当にならぬ人足は来るに及ばぬと刎ねつけられた。かねがね源左衛門が、定数の倍以上も宮林を伐採した事を知っていても、村民皆威光を恐れて口外する者が無かったのだが、この時男気の強い権兵衛は、日頃高慢にして横暴許し難い源左衛門に憤慨し、彼の官林盗伐を奉行所へ訴え出た。役人が来て取調べた処正しく権兵衛の訴えの通り故、源左衛門夫婦ほ法縄にかかり相川へ引出されて極刑に処せられた。
風間家は本郷飯岡にある。南北朝期に越後安塚の風間の一族がこの地に移ったものともいう。宅地内に熊野権現をもち、近くの風間姦の中心の家である。宅地は字経塚にあり近くの経塚という山も同家の所有地である。また「ぐんじ山」官林の山守もしていた。中世からの名主的な立場にあった家と考えてよい。


★風間茂樹

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
かざ風間茂樹


★風間茂子

かざ風間茂子 (1) かざ風間茂子 (1) かざ風間茂子 (2)
かざ風間茂子 (3) かざ風間茂子 (4) かざ風間茂子 (5)
空地の部分に母の実家山田呉服店があった
かざ風間茂子 空地の部分に母の実家山田呉服店があった
エッセイスト。本名・妹尾茂子。1932年(昭和7)、新潟県佐渡生まれ。61年、グラフィックデザイナー・舞台美術家・エッセイスト・小説家である妹尾河童 さんと結婚。一年毎に結婚契約を更新するので話題になった。『なるほど家事の面白ブック』(1987年、三笠書房刊)、『まま子、実の子、河童ン家』(1999年、文藝春秋刊)などの著書がある。
実家は佐和田にあった風間医院(耳鼻科)で、父風間一雄。祖父は羽茂出身の医師風間準平で畑野で開業していた。畑野にあった高級バー「黒猫」の女性経営者は準平の身内であった。父の弟が東京の林家を継いだ林義雄医師で、その息子に高名な音楽家(佐渡高校校歌等を作曲)林光が居る。林光の従兄弟には林りり子、また、林家には「頭のよくなる本」等の著作で知られた林髞(たかし)もいる。
父の妹は高名な歌人藤川忠治の妻である。
母は新町にあった呉服店山田六衛門家(尾畑酒造隣)の人。私事ながら、私の義理の叔父(山田晴男)は彼女の従兄弟。即ち、晴男の父普吾の妹が茂子の母である。

風間・藤川・林 ・柴田家系図(完成版)

→藤川忠治・林光・林りり子


★風間(柴田)準平

河原田妙経寺
かざ風間家 河原田妙経寺 (1) かざ風間家 河原田妙経寺 (2)
風間準平は小木町のここ(背中側が北村薬局)にあった柴田家で生まれた。
かざ風間準平 (2)
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
かざ風間一雄 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
畑野にあった風間医院(後渡部医院) 左にバー「黒猫」
かざ風間医院(後渡部医院) 左にバー「黒猫」
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より 
大正末年に、小木港で古くから医業を営んでいた柴田鼎斉の次男で、畑野西町の元渡部歯科医院のあったところで内科小児科医院を開業した。このとき準平は、小木町の風間家の養子となったので風間医院を名乗っていた。その長男も次男も共に耳鼻科医となったが、昭和のはじめ頃準平の死去とともに河原田に転居した。

・昭和50年代の地図に載る畑野渡部医院の所に以前に風間医院があった。
同地図でその隣の「芙蓉」は渡部医院の妻が経営していた。
「芙蓉」の前には風間準平医師の娘(木下姓)が「黒猫」と言う進駐軍御用達のキャバレーがあり、その後、現在(令和1年)「扇寿司」がある場所に移った。

※風間医院
長男の一雄は河原田で中山医院(徳太郎医師)の医院後に開業した。
弟の義雄も医師となり東京の医家林家を継いだ。息子に高名な音楽家林光が居り、佐渡高校校歌を作曲した。ちなみに作詞は親戚の藤川忠治である。佐渡高校同窓会が寄付のお願いに行くと大変懐かしんで多額の寄付をいただいたと言う。

『新潟県官民肖像録』(明治41年) 
かざ風間準平 新潟県官民肖像録 明治41年

風間・藤川・林 ・柴田家系図(完成版)


★風間清一郎

「島の新聞」索引(人名別)


★風間常次郎

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡新町の塗師。父ほ新町の医師風間玄舟で赤泊村川茂に生まれ、天明年間(一七八一~八八年)に新町に移った。常次郎は二代与右衛門の学んで塗師となり、子孫も業を継いだ。(佐渡人名辞書)

★風間濤平
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治五年 赤泊村下川茂、農業 ・明2、佐渡新聞の計画[十七年四月]
風間・藤川・林 ・柴田家系図(完成版)

★風間進
かざ風間進 斉藤長三 風間進
佐渡関係の貴重な新聞や文献を出版し、またネット上で多くの人が閲覧可能な形でupし、佐渡学に大きく貢献している。奥様は真野新町の方。『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)、ブログに「佐渡は刷りモノだらけ」 佐渡の書籍、刊行物、新聞の開架棚 がある。
※北見継彦氏:風間進様が2020年6月26日に、心不全で亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。
風間進様の著作に『佐渡政党史稿』が佐渡の近代史の解明には大きな役目を果たしています。これ以外の佐渡における近代史、また最近の研究では佐渡の修験道史が中心で・・
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)風間進 
 98 幻の佐渡鉄道と斎藤長三著「佐渡政党史稿」のことなど
 100 橘鶴堂文庫と斎藤長三著「佐渡政党史稿」のことなど
 101 佐渡博物館収蔵、近藤福雄の写真と斎藤長三編「佐渡志稿」のことなど
 109 井戸塀政治家本間一松の生涯
 110 野澤卯市、三十六歳の日記
 113 後藤奧衛、中国への渡海、鍛冶町の小父とのかかわり
 120 佐越航海史要・拾遺(1) 高田丸遭難
 122 佐越航海史要・拾遺(二) 占魁丸と沢根港
 123 佐越航海史要・拾遺(3)
 123 佐越航海史要・拾遺(3) 新潟丸の拝借人達
 124 佐越航海史要・拾遺(4) 佐渡商船
 126 佐越航海史要・拾遺(5) 本間金五郎の航路関与
 127 佐越航海史要・拾遺(6) 飛島行
 128 佐越航海史要・拾遺(七)佐渡銀行事件
 131 石瀬佳弘先生の思い出
 132 「■佐渡郷土文化」の電子化を試み 懐かしい人々に遭う
 137 佐渡の修験院を巡る(壱)
 138 佐渡のどんどこやに遭う 
 139 相川大工町の修験院と牛窪家 
 140 相川織田常学院と佐渡の修験古刹
 141 加茂村の修験院 
 142 佐渡の修験院をめぐる(弐) 
 143 相川、常学院旧蔵「熊野観心十界曼荼羅」 の裏文書 
 154 悼 風間進氏 山本修巳

★風間清太郎
左:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社) 
かざ風間清太郎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社) かざ風間清太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
赤泊村上川茂 ・明4、第十六回選挙[四十四年九月二十五日]・大2、第十八回新潟縣会議員選挙[八年九月二十五日]・大2、若槻憲政会顧問の来郡[十年七月二十二日]・大3、高等女学校の移転問題[十一年十二月二日]・大3、第十九回新潟縣會議員選挙[十二年九月二十五日]・大3、塚本派の演説会[十三年四月三十日]・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・昭1、第二十回縣会議員選挙[二年九月二十五日]・昭2、佐渡民政倶楽部の発会式[四年九月二日]

「山本伝十郎家」


★風間忠一
左:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社) 右:『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
かざ風間忠一 佐渡郡肖像録 大正15 かざ風間忠一
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。
しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。
当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。
印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎
→野村蘭作「宝生二派の統一」参照 

★風間長左衛門 
『赤泊村誌(上)』より
江戸時代の始め、相川金銀山の繁栄にわく頃、小木の沢崎にいた大廻船業者。
『小木町史』(下)より
小木で一番古い廻船持ちは、風間長左衛門だと思われます。風間長左衛門といえば、安隆寺を元小木から今の場所へ移した人物として知られています。そういう経過からみると、彼も昔は元小木の村に住んでいたのかも知れません。風間長左衛門の船に関してもっとも古い史料は、寛永二十年(一六四二)二月の水主彦兵衛の手形です。その年の春、彦兵衛は風間長左衛門の船の水主となり、廻船に乗って他国へ出かけたのです。年は三十五歳でした。そしてこの手形には五人組として嘉左衛門、清右衛門、弥兵衛、孫左衛門が署名しています。また、中使として九左衛門がのっています。同じ年、奉行所に出された船頭と水主の届け出をみますと、船頭長左衛門三十九歳、水主は、彦兵衛三十六歳、太郎右衛門二十七歳、喜四郎二十五歳、源太郎三十二歳、三五郎三十一歳、長十郎二十三歳、沢崎村治左衛門四十三歳、合わせて八人の者が長左衛門の廻船に乗り組んでいます。相当の大船であることが想像されます。さて、相川町に片山勘兵衛という山師がおりました。大変有力を商人で、山を経営するほかに、遊廓を経営したり、鉛座を請け負ったり、商人としての一面をもった山師でした。その片山勘兵衛から、風間長左衛門に宛てた手紙が残っています。「先日はお茶をどお送りいただいて有難う。ところで、銀を三十五匁送りますので、あまり良いものでなくともよいですから、マワタ二匁、残りで木綿を買ってくれませんか。また、小判一両は新潟で中の綿を一把、残りで木綿を上、中、下取り合わせて買って下さい。市太夫殿にあつらえましたところ、冬の間はなかなか参らをいということでしたが、霜月(十一月)までには頼むと申しておきました。お忙しいところまことに恐れ入りますが、
ほかに頼む人とてない有様をので是非ともよろしく。
  九月十八日   勘兵衛 (花押) 風間長左衛門様 西村善右衛門様           」
「新潟から船がやってきたということで善兵衛が参りました。さて、竹を運賃積みするということで、明日早々湊へ舟を廻し竹を積んで急いで相川でそれを下ろし、もし日和がよければ、ただちに能登へ出向いて塩を買い入れてきてくれませんか。また、越中の新米がもう売りに出されていると聞きましたならば、越中へ米を買いに行くように指示してくれませんか。
 八月三日 長左衛門様 勘兵衛 (花押)
次にかかげるのは、新潟から太左衛門の知らせた相場です。「新潟の米の相場は、一両で四石二斗三升です。大豆は一両で四石八斗五升です。それから塩は一両で二十俵です」
相川の大間の京屋次右衛門が出した書状には、「ここもと相場、古米上のものが一両に一石七斗、新米は二石四斗五升、大豆は四石五斗、小豆は二石八斗、水油は二十四匁、これが相川の今日の相場です」こうした書状類をみると、風間長左衛門の廻船は、相川で必要とする米、塩などの商品を新潟や能登から運び込む商人であることがわかります。
「 買い申す村上御上米のこと  一、百俵は 白山の嶋三郎兵衛の蔵より 一、三十俵もち米 関屋の多衛門の蔵より 」
未年十月二十四日、風間長左衛門は、小判二十両を新潟の商人坂本兵右衛門、田巻三郎に払って、村上藩の蔵米を買い入れたのです。年号は、未年とだけしかわかりませんが、おそらく、寛永のころのことだと思われます。長左衛門の廻船が、もっと遠く敦賀に行ったと思われる史料があります。
「 正保二年分 南与古塩売り渡すこと 合三百十六俵は 但し五斗入り  右の御塩佐州小木の彦兵衛に売り渡し申し候間、相改むべきものなり  正保三年七月十一日 毛利勝兵衛  (花押)  藤田彦右衛門 (花押) 御分国浦々御奉行中 幷肝煎中」
こうして栄華をきわめた風間長左衛門も、時代の波には勝てませんでした。江戸時代の後期に至っても細々と商業活動は続けていましたが、天保のころには没落したらしく、宿根木の佐藤伊左衛門が娘を同家に嫁に出したが、その貧苦は想像も及ばをいものだと記録しています。

★風間長太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
かざ風間長太郎

★風間悌二
「島の新聞」索引(人名別)

★風間八右衛門
『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より
享保年間(一七一六~一七三五)、殖産興業政策がはじまったころ、下川茂村に「植立物世話煎」となって、南部の村々を指導した人。この人は下川茂風間弥三右衛門と同じ家の出身で、親族関係は良くわからないが、金山に依存する佐渡の社会経済的体質を、米を中心として新しい畑作物、林産物の導入も含め、その商品化を目指していこうとはたらきかけた人物であった。このころ、佐渡の米生産の適地はほとんど開発されつくし、米の土地生産性を高めることで年貢負担を切り抜けていこうとした。

★風間安右衛門
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
天保二年生 赤泊村上川茂 ・明2、第六回選挙[二十一年一月]・明2、第八回選挙[二十三年七月七日]・明3、第九回選挙[二十五年三月]・明3、稲堀事件[二十五年十一月]・明3、第拾回選挙[二十六年二月八日]・明3、第十一回選挙[二十八年三月]・明3、第五回衆議院議員の選挙[三十一年三月十五日]・明3、佐渡の自由派倶楽部設置の協議[三十三年四月十一日]・明4、自由党員の新年宴会[三十四年一月六日]・明4、田辺九郎平死亡[三十五年八月十二日]・明4、第五回佐渡郡会議員選挙[四十年九月三十日]・明4、第十六回選挙[四十四年九月二十五日]


★風間弥三右衛門(弥曾右衛門 下川茂村)

『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より
羽茂川上流の下川茂(赤泊村)にいた。祖父は元禄時代に佐渡奉行となった荻原重秀の三男で、帰農し川茂に永住して、殖産興業に尽くした人であると伝えている。弥三右衛門は寛延一揆の一国惣代の一人でもある。この一揆の前年、寛延二年(一七四九)に「家風農事」という佐渡唯一の稲作技術書を、景範と号してまとめている。この農事に先立って「会津農書」が会津の佐瀬与次右衛門によって出されており、また、木版本として出版された宮崎安貞の「農業全書」もあったが、「家風農事」と題したところなど、その影響を受けたのではないかとも思われる。家風とある限り、風間家(松坂家) の農業技術書とみるべきで、同書の序に「自家の農業のよりどころにせん」と記しているところから、そのことがわかる。また、「家風農書」 の記述のなかに「木綿作法の書、別にあり。農業全書の内なり」とあるから、「農業全書」に準じて記したのかも知れない。とにかく、佐渡唯一の農業書で、それが羽茂川上流の川茂で記されていたのである。「家風農書」は当時の耕作規模の大きい、上層農家の農業生産の手控え書としてまとめられたものと思われる。年貢の負担に苦しみながら、その活路を米生産の増大に向けていった。

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
か風間彌三右衛門

『佐渡の義民』(小松辰蔵著 小田末吉写真 昭和42年7月「佐渡観光社」刊 )より
寛延の代表的義民の一人、赤泊川茂の人。名は信安、川茂の名主である。元文中本間太郎右衛門を助け国府川畔を開墾して辰巳村を起し、その功にょって世々諸向肝煎役を命ぜられた。寛延三年太郎右衛門の江戸強訴計画については喜んで参加し、相川に出て各村名主と実行方法を謀議し、訴状には一国惣代として署名した。そのため逮捕されて宝暦二年七月重追放に処せられ越後に移ったが、その終りは知ることが出来ない。墓は現存する同家の裏山に在る。一説には、江戸に出て旗本長野伝十郎の一族忠太なる者に仕え、後伝十郎の後を継ぎ、孫の篠山番兵衛景義は文化十三年佐渡奉行となり、その子景徳は天保一揆の時の佐渡奉行十兵衛であるともいわれている。享和二年(一八〇二)八月十日投、法名は浄光院慧覚関心居士である。

2img662(右上段)本間太郎右衛門の生家-佐和田町山田
(右下段右)義民供養塔ー佐和田町山田、宗念堂境内
(左上)風間弥三右衛門の墓-赤泊村川茂
(左下)風間弥三右衛門生家

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
か川茂村彌曾右衛門

か川茂村彌曾右衛門 (2)

か川茂村彌曾右衛門 (3)

「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡赤泊村川茂の名主で、名を信安といった。元文元年(一七三六年)本間太郎右衝門を助けて辰巳村の開墾をした功により、在々向肝煎役を命じられた。寛延三年(一七五十年)五月太郎右衛門が書を江戸におくって強訴した時喜んでこれに応じ、相川に出て密談し、各名主に謀り、その実行方法をきめて帰村した。その後訴状を添削し、奉行への訴状にも→国惣代として署名した。宝暦二年(一七五二年)七月重追放となり、越後へ放たれた。姓名を変えて江戸に入り、旗本諸家の従者となること数年、士人の廃跡を買って再興し、長野太忠といった。次子重兵衛は文化(一八〇四~一七年)、佐渡奉行の任にあってなくなった。天保(一八三〇~四三年)佐渡奉行所組頭をつとめた高山又蔵も、その子孫である。(佐渡人名辞書、佐渡人物志)

「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))

寛延の百姓一揆(『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より)

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)風間弥曾右衛門 152 義民 弥曾右衛門について 佐々木伸彦


★風間安右衛門

かざ風間安右衛門

「獅子が城址に「S中」誕生」(「佐渡の百年」)


★風間弥平

「相川暴動」(「佐渡の百年」)


★風間与作(小島屋)

『小木町史』より
明治以後、小木港の衰えとはうらはらに、小木の竹細工は興隆に向かうことになります。明治二十三年の北溟雑誌に、『小木笊(ざる)のはじまり』と題して次のようをことが書かれています。
「小木港は昔から船舶の出入りが多く、一かく千金の浮利を目的とする風俗でした。しかしそれにもかかわらず、風間与作(小島屋)という人は、雄太郡四日町菊地弥八という人の二男でしたが、幼いころ小木港にきて下男奉公を務め、風間氏へ婿に入りました。ある浮利のために意外に苦しみを受け、思いおこすことがあって、かって故郷にいたころ習い覚えた旅作りに従事しました。今より五十九年前、天保二年のことでした。当時小木港は、もっとも繁華をきわめたときであったので、親族や朋輩は今どきそんな仕事をしてとあざけりました。しかし風間氏は、そんをことは意にもかいせず、もっぱら励み、今より八年前、七十歳でなくなりました。世が移り、時が変わった今、浮利の頼むに足らぎるを悟り、はじめて風間翁の活眼先見に敬服する老が多くなりました。そして、この仕事に従事する老百戸に近く、歳入は三千円ほどになります。わけても桃井常蔵、古城徳四郎の両人は、風間翁についてはやくより習い、笊造りをしている老錬家です。なかには、手早さを主として粗悪の製品を造る人もままありますが、松葉屋笊、常新笊は第一との評判です。
明治のはじめ小木校が開校されたとき、初代の校長として赴任された岩木拡先生は、小木の竹細工について次のように書いています。
「予がいたころ(明治十一~十六年)には、笊篭を造る老は小島屋一軒であって、小木港及び船舶の需要を充たしていたのであって、今(大正五年)はこれを製造する者が七十戸もあって、その産額は二、三万円もあるそうであるから、一廉(ひとかど)の産物である。この種の産物は何程多くなっても仕向先きには困らぬそうであり、また、専業でなくとも副業にも適しているから誠によい産業である。新町あたりは俥屋(くるまや)が客待ちする間にこれを編んでいる者をよく見ることがある。それでこれを伝えた老は小島屋の老人であるから、今年は同老人の追遠会を開いて帰厚したいといった人もあった。」
小木のぎると小島屋は、切ってもきれない関係をもっていたことがわかります。


★風間与八郎

羽茂の商工業
かざ風間与八郎 羽茂の商工業


★風牧ひとみ

 両津高校時代の1992年度(H4)12月、高校生の税の作文(関東信越国税局主催) 関東信越国税局長賞  
 1994年度(H6)8月、第14回全国珠算学校珠算競技大会(全国珠算学校連盟主催・文部省後援)出場
 1994年度(H6)11月、第47回新潟県珠算競技大会 総合3位


★花山院能氏(かざんいんよしうじ)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
少将、承久三年(一二二一年)順徳上皇佐渡御遷幸の供奉のひとりであるが、病気といって途中から引きかえした。(承久記、承久軍物語、吾妻鑑、真野山皇陵記)
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渡辺和弘

Author:渡辺和弘
・佐渡市両津夷在住
・両津高校-同志社大
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(※これはあくまで途中経過のものです。)
①是非載せたい人物とその内容。
②訂正及び加筆情報。
   
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