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2020-12-27

★太田明

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)太田明 110 全国に広がる「おけさ節」


★太田貞之亟

『新穂村史』(昭和51年刊)より
潟上(吾潟)の本間梅ヶ沢家は代々能太夫の家で十二代左京由春、十四代令桑は殊に堪能で、村内外に弟子が多かった。かつて長畝の山田仁平、つづみ打の太田貞之亟、瓜生屋石井喜平治、田野沢の岩田浅治、下新穂の影山新右エ門、長畝の羽田清治、北方の菊池栄太郎、武井の高野幸吉、青木の斎藤儀太郎、川上福松等これをよくし現在は北方の菊池汎、青木の如月会の川上三吉、井内の昭諷会の後藤政治等が活躍している。

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
おお <br>太田貞之丞


★多田茂実(おおたしげみ)

(ラ・ラ・ネット指導者名簿より)
生年:1956年、レクリェーションコーディネーター。社会福祉主事。
東北福祉大学卒、有明児童センター勤務5年。佐渡総合病院MSW勤務26年。佐渡レクリエーション協会副会長。保育園・幼稚園・小学校・中学校・高齢者・障害者のレク多数。


★太田蜀山人

「地理学者の百年祭」(「佐渡の百年」)


★太田秀(おおたすぐる)

おお太田秀(すぐる)
おお太田秀1 おお太田秀2 おお太田秀3

昭和19年(1944年)佐和田町生れ。「ヒロセヤ」社長で市議等を歴任した広瀬擁(まもる)氏の実弟である。佐和田中~佐渡高校、1年時に新潟高校へ転校。新潟大社会学部の太田ひろし教授(歴史学者)の家に養子縁組。これには河原田高女教諭であった打越美恵先生が尽力された。
1969年東京大学理学部生物学科卒業、71年同大学大学院理学系研究科動物学課程修了。東京大学海洋研究所助手を経て、同所教授に。著書に『海のはなし』(共著・84年、技報堂出版)、『海と地球環境』(共著・91年、東大出版会)、『海洋のしくみ』(共著・97年、日本実業出版社)など。
当時、日本では深海学についての研究者も少なく、助教授から教授に昇格すると、フランスやインドの権威と共に仕事をしており、世界で5本の指に入る研究者と言われる。東大の海洋学研究所所長を長く務め、海洋学に精通していた昭和天皇以下皇室の方とも深い交流があった。
この学年の佐渡高校は錚々たる人材を輩出する。東大副学長となった浅島誠氏、東大から愛媛大学教授になった遠藤克彦氏(ドイツ現代史)等であるが、広瀬秀氏がトップで入学したと言われる。

「教授対談シリーズ」


★太田貴明

佐渡高校時代の昭和53.6.2~4、陸上競技県高校総合体育大会(新潟市)棒高跳3位


★太田武治郎

『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
金光教新町教会のはじまったいきさつは、太田修(金光さん)の話によると次のようである。「四日町の菊地長吉が新潟に行って金光教信者となり、新町にぜひ教会がほしいということであった。このころ京都八坂教会長杉田金治の親、政治郎が布教拡張中で佐渡に渡り、佐渡教会をつくっていた。この政治郎に菊地は相談し、八坂教会長に手紙を送り、京都から太田武治郎を新町へ呼ぶことになる。この太田が新町教会長の初代である。太田が京都を発ったのが大正五年六月二六日、二七日に佐渡に渡り、佐渡教会で杉田と面談、七月一日から新町で布教にはいった。このころは現在の教会の場所とは道をはさんだ反対側の借家(永柑マキ宅)が教会とされた」という。
当時は信者の数は一五〇名くらいであったが、徐々に増加していった。大正末ころの総代は新町の中川三蔵、金丸の石畑庄蔵、真野の佐々木政治郎等であった。最盛期ほ昭和七、八年ころであった。信者も全島的に及び、とくに小木や羽茂・河原田・畑野・相川などの商人や農民たちが多く、二宮などは村やるみが信者だったという。また、当時二見港の繁栄期でもあり、二見あたりから来る人もずいぶん多かった。信者数は五〇〇人にも達したといわれる。二代目太田ムメノ(武次郎の家内)のころである。現在は三代目に当たり、三条教会からはいった人である


★太田玉次郎(しこ名 一本杉)   

『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
佐和田町真光寺の大名乗りで、弘化2年1月16日生まれ、大正2年5月8日没す。小名乗りを杉の若立とも称した。
真光寺字高野、屋号太田長吉家の先祖といわれている。『墓は真光寺の林庄の新宮長四郎家前の畑の隅大椿(板まわり3m)の根元にある。この墓は高さ24cm周囲30cmの石の男根の形としている』と、山本静古は書きとめている。余程強かったとみえて、旧二宮村教育会は、児童向けの副読本に書いてあり、戦後佐渡郡小学校教育研究会の、郷土副読本の中学年の部にも記録されている。


★太田彦治

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明4、新潟に於ける鵜飼の仮葬[三十四年九月二十八日]


★太田浩子

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)太田浩子 57 佐渡の文化行事 太田浩子さん「愛について」 山本修巳


★太田弘道

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
お太田弘道

お太田弘道 (2)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の人で、通称を治右衛門といい、和歌をよくした。(佐渡人名辞書)


★太田六雄

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)太田六雄 31 土田麦僊の思い出


★太田ムメノ

『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
金光教新町教会二代目、初代太田武次郎の家内。
→太田武治郎


★太田熊山(おおたゆうざん)

【生没】生・没年不詳 江戸時代後期の日本的儒学者・漢詩人。父は艮叟といい備前国(岡山県)の人。遊歴の途次、新穂村大野に住み、熊山を生む。本名は退蔵。近くの本間黙斎に経義を学び、一八歳の時、江戸にのぼり、朝川善庵の門に入り、数年にして帰るが、父が江戸へ移住することになって、佐渡を離れる。晩年、下野国(栃木県)壬生藩主鳥居丹後守に仕え儒者となったが、退任の時、後任に佐渡出身の圓山溟北を推薦したことで知られる。詩文稿は伝わらないが、『近世名家詩抄』に十余首が収められている。著書には『師善録』三巻、『如是我聞』一巻あり、広く知られている。安政のじめころ、六○歳前後で、江戸で没したと言われている。
【参考文献】萩野由之『佐渡人物志』、山本修之助『佐渡の百年』 【執筆者】山本修巳 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説.
太田熊山 おおた-ゆうざん
?-? 江戸時代後期の儒者。 本間黙斎,朝川善庵に師事した。下野(しもつけ)(栃木県)壬生(みぶ)藩の儒官となり,藩校学習館でおしえた。安政の初めごろ死去。佐渡(新潟県)出身。名は保。字(あざな)は君明。通称は泰蔵,退蔵。別号に方斎。著作に「師善録」「如是我聞」など。

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)お太田熊山

お太田熊山 (2)

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
お太田熊山 (3)

『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
おお太田熊山

おお太田熊山 (2)

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
名は保、字は君明、通称は退蔵、熊山は号である。父は備前(岡山県)の人で艮叟といい、佐渡の水山を愛して大野に移り住んだ。熊山は家が貧しく、学問を好んだので、新穂の本間然斎が衣食を与えて、教えほげました。十八才の時、江戸に出て朝川善庵の門に入り、数年にして帰った。間もなく父と共に江戸に移った。晩年下野国(栃木県)壬生侯に招かれて儒臣となり、百石を与えられた。間もなくやめて、江戸で塾を開いた。師黙斎の恩に感謝し、師善禄三巻を記した。安政のほじめに六十前後でなくなった。(新潟県史、佐渡人名辞書、佐渡人物志、大日本人名辞書)
                               
『新穂村史』(昭和51年)より
1795頃-1855頃、大野の人で貧苦の中で学を好み、黙斎に助けられて勉強し、後黙斎の後援で江戸の朝川善庵(江戸中期の折衷派の雄仁斎葉に学び、徂徠派にも学び折衷派を確立した人井上金峨の高弟)の門に入り論難弁駁はげしい勉強をした人といわれ、晩年壬生藩(栃木県)に仕えたという。黙斎の徳をあがめ「師善録」三巻を著したが郷里新穂に居ることはは少く、従って郷党を教育したかどうかは疑わしい。その師書録も見当らない。

「新穂まち今昔」(昭和58年刊)より
壬生藩 (下野)の儒臣であった大野村の漢学者太田熊山(本名秦蔵、君明とも号す)の父は、良叟という備前の国の人で仏師であったが、「故ありて佐渡の国大野村に移住せり」と佐嶋遺事にある。

「佐渡の教育の父・円山溟北」(「佐渡の百年」)

「犂雨邨舎の址」(「佐渡の百年」)


★大滝雨山

山形県人で日本画家。佐渡各地を遊歴し、新穂に滞在した時に土田麦僊少年に絵の手ほどきをした。

「舞妓芸術の麦僊」(「佐渡の百年」)


★大竹主計

慶応4年(明治元年)、3月18日に来島した会津藩士5人の代表で、奉行に面会を求め、奉行所に保管してある軍用金を要求した。

「最後の佐渡奉行」(「佐渡の百年」)


★大谷公一(おおたにきみかず)

おお大谷公一 東京ビジネス懇談会代表 お大谷公一
相川高校、立正大学を卒業後佐渡66汽船に勤務し、佐渡汽船東京営業所長。(株)アサヒビジネスプロデュース社長。

「ZAKZAK連載:発掘オモシロ人間!!」
-害虫駆除でビジネスチャンス“ゴキブリバスターズ”大谷公一さん-
・アサヒビジネスプロデュース店舗環境部部長

 「建築物ねずみ昆虫等防除業をやらないか?」と居酒屋チェーン・大庄の平辰社長から誘われ「これからはすき間産業にビジネスチャンスがある」と直感して3年前に始めた。いまや立派にネズミ・ゴキブリバスターズの仲間入りを果たしたアサヒビジネスプロデュースの大谷さん。 「はっきりいって、ネズミやゴキブリの駆除ですよ。特にガード下の店はすごいですよ」と警鐘を鳴らす。都会には田舎にも増して残飯があり、彼らにとっては絶好の場所となる。ラーメン屋、喫茶店など飲食店で見かけるネズミやゴキブリ…。 「どんなにきれいにしていても、清潔にしても彼らの環境にピッタリの場所なんです。夏の冷房も四六時中作動していない。店が終わると切るから、すぐに店内は蒸し暑くなり、彼らの天国と化してエサを求めて動き回る」という。この業務の競合も多数あるが、まずは親会社・大庄の居酒屋テェーンを取引先として駆除をスタートさせた。 開業すぐにはネズミやゴキブリの知識を得るため、大谷さんも学習と駆除に走り回った。「店の閉店時間からが闘いです(笑)。店内の害虫密度を0・5以下にします」。そして毎月1度の定期防除で発生をおさえる。 「ゴキブリの生態はおもしろいですよ。触覚が常にどこかに触れていないと落ち着かない。追われたりすると逃げ回るでしょ。あれはパニック状態なっているからです」1匹が駆除用のエサを食べても、すぐには殺さない。巣に戻ってから死ぬように調整した毒を使用している。「そうすると、ゴキブリは仲間の死骸を食べたりフンを食べますから、連鎖的に巣が全滅! 極力、ゴキブリが
減るわけです」と自信に満ちあふれている。 競合社ともネットワークを組み、情報交換をしながら深夜に活動する。「これからますます起き得る地球温暖化で、余計にこのビジネスが必要になる」と今夜もゴキブリバスターズは奔走する。

★大谷熊次郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
おお大谷熊次郎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)

★大谷熊太郎
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
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★大谷後藤内
「相川暴動」(「佐渡の百年」)

★大谷久吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
お大谷久吉

★大竹忠太郎(露舟)
「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数62

★大谷チヨ
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭和12年度県学童大会最高記録(県小学校体育連盟・県水上競技連盟)
100自 1.51.4(金泉)昭9.8.6、200リレー 3・16・2 (金泉)杉山・大谷・北見・佐藤

★大谷直治
おお大谷直治

★大谷信夫
おお大谷信夫 291216 佐和田中駅伝

★大谷英男
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より 
畑野の医師で昭和十年すぎに、下何代の粟野江地内に内科・呼吸器科・肺臓外科を開院した。同氏は保険会社の嘱託医から金沢市・大阪府の医局長を歴任し、現在東京に在住して健在である。
※現在とは昭和60年頃か

★多田村寡婦しげ
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
お多田村寡婦しげ

★大地栄蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]

★大地五郎兵衛
旧金丸村(真野)村長、明治二八年・四・二二~。

★大地長蔵
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
おお大地長蔵

★大地東太郎 
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
おお大地東太郎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
二見稲鯨郵便局長、勲八等。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★大地直之
佐渡高校時代の昭和60.10.4、陸上競技鼎高校選抜大会(新潟市)400ml位・200m3位
61.5.30~6.1、陸上競技県高校結合体育大全(新潟市)400m6位
61.6.20~22、陸上競技北信越大会(新潟市)400m8位

★大塚章
「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数113

★大塚庄吉
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
相川町 ・大1、第十二回衆議院議員選挙[四年三月二十五日]

★大塚伸次郎
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
おお大塚伸次 新潟県官民肖像録 明治41年

★大塚そのえ
「ショートプロフィール」昭和32年生、高千中-青陵高校-日体大-ヨネックス。
鷲埼出身の関根和子と組んで昭和53年カナダオープン優勝、個人2位。昭和45年、ワールドカップで複3位。佐渡では大塚そのえ杯が開催される。
大塚そのえ
昭和32年生、高千中-青陵高校-日体大-ヨネックス。鷲埼出身の関根和子と組んで昭和53年カナダオープン優勝、個人2位。昭和45年、ワールドカップで複3位。佐渡では大塚そのえ杯が開催されている。
おお大塚そのえ (1) おお大塚そのえ (2)

★大塚恒明
「佐渡ジャーナル」関係記事: 「26号」(平成23年7月)佐渡の能を尋ねて(昭和42年卒業論文より)(1)大塚恒明「27号」(平成23年10月)佐渡の能を尋ねて(2)大塚恒明
「28号」(平成24年1月)佐渡の能を尋ねて(昭和42年卒業論文より)(3)大塚恒明

★大塚(本間)伸夫 
おお大塚伸夫 おお大塚伸夫1
平成28年度(大正大学創立90周年)より大正大学学長。大正大学教授、弘法大師研究の第一人者。岩首中学、佐渡高校(昭和51年)卒、大正大学(仏)。
赤玉文殊院の山本憲慈氏の檀家であったが、彼の影響を受け、僧籍を選ぶ。大本山長谷寺(真言宗豊山派)の広報誌「光明」に「弘法大師の聖語からのメッセージ」などに寄稿し、檀信徒980万人に通信。
おお大塚伸夫 H27 10 3
おお大塚伸夫 H27 10 3 (2)
『佐渡ジャーナル』平成28年4月号(45号)
おお大塚伸夫 (1)
おお大塚伸夫 (2)
「佐渡ジャーナル」関係記事: 「45号」(平成28年4月)・シリーズ『Sado人』探訪6 大塚伸夫(遠藤隆)

★大束秀次 
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。秀次は福島県猪苗代市の出身で、北海道士別市大通東二丁目に住し、助次と称して(羽茂出身の)中川與吉に師事して刀剣鍛錬に専念し、與吉の死後掘井俊秀につき源秀次と改名して試作を重ね、昭和十八年の第八回日本刀展覧会に金牌を受賞し、同十九年および二十年にも同展に出品し大臣賞を受けた。終戦後は中止していたが、復活すると、また、昭和三十一年以降毎年作刀技術発表会に出品し入選した。元彦の作刀の命脈はここに伝えられたと言えよう。

★大塚平吉
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
おお大塚平吉 新潟県官民肖像録 明治41年

★大塚椋司(りょうじ)
おお大塚椋司(りょうじ)

★大辻国蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
おお大辻国蔵 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
嘉永四年生 金泉村戸地 ・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋期大会[五年十月二十三日]・明4、第四回佐渡郡会議員選挙[三十六年九月三十日]

★大辻周蔵
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
おお大辻周蔵

★大戸三千枝
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)大戸三千枝 86 佐渡が島と長塚節

★大友順
おお大友順
おお大友順
金井町出身、43歳(2014年)。
宝生流能楽師で同門会「宝友会」を主宰する。
「新潟日報」(平成26年8月1日)
おお大友順 (1)
おお大友順(2)

★大中臣輔弘(おおなかとみすけひろ)
 伊勢神宮神祇権大副正五位下 康和五(1103)佐渡に配流。
前称宜の荒木田宣綱の、火を離宮院に放ち、また落書した罪に坐す。(『殿暦』『本朝世紀』『一三代要略』『百錬抄』)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
伊勢大神宮神主で、正五位下である。弥宜荒木田宜綱等と火を離宮院に放ち、また落書したので、康和五年(一一〇三年)八月十三日に佐渡へ流された。宜綱は伊豆に流された。(越佐史料)

★大錦一徹(おおにしきいってつ)
「ウイキペディア」より 
おお大錦 おお大錦1
おお大錦 (2) おお大錦
おお大錦 (1) おお大錦 (3) おお大錦2 1おお大錦
おお大錦
おお大錦 3009月 おお大錦
1953年9月11日-)は新潟県佐渡郡羽茂町(現・佐渡市)出身の元大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は尾堀盛夫。身長186cm、体重150kg。得意手は左四つ、寄り、上手投げ。最高位は東小結(1973年11月場所)
。現・年寄山科。
元小結大錦
佐渡郡 羽茂中学 大相撲。中学では野球や陸上で活躍。その体格を相撲ファンの近所の味噌工場社長に見出され、「佐渡の怪童」と角界に名が知れる。修学旅行から帰宅したところに元出羽ノ花が勧誘に訪問、一
晩で決意し親の反対を押し切って出羽海部屋入門。1968年初土俵。1973年新入幕。このとき、史上初の新入幕での3賞独占の快挙を。1988年現役引退。生涯戦歴750勝745敗28休。殊勲賞1回、敢闘賞1回、技能賞
1回。

・来歴
中学在学時に出羽海部屋に入門し、1968年5月場所に初土俵を踏んだ。入門から丸5年たった1973年5月場所に19歳で十両に昇進した。十両を2場所で通過し、同年9月場所には新入幕を果たした。部屋の横綱・大
錦の名前を授かった事から如何に期待されていたかがうかがえる。
鋭い出足で左四つになると力を発揮し、新入幕の場所から優勝争いに加わり横綱・琴櫻、大関・貴ノ花を破るなど大活躍。新入幕力士の横綱戦の制覇は1941年5月場所の双見山(西11枚目)が男女ノ川を破って以来
32年ぶりの快挙であった。11勝4敗の好成績を残し史上初の新入幕力士三賞独占受賞を果たした。三賞独占は前場所の大受に続いて2場所連続だった。翌11月場所は最高位の小結に昇進したが、壁にぶつかり星
が伸びなかった(結局三役の経験はこの時が最初で最後)。この当時、北の湖・若三杉・麒麟児・金城と、同じ昭和28年生まれ(麒麟児、金城は早生まれのため学年は違う)の幕内力士がそろったので、「花のニッパチ
組」と呼ばれた。
以後は糖尿病や膝の故障もあり一時は幕下まで陥落したが、持ち前の稽古熱心さと結婚を機に再起し1981年3月場所に再入幕を果たした。なお、幕下陥落場所(1979年5月場所)に前相撲から無敗であった実業団
の大物・板井に初めて土をつけた(その勝利を含め当場所は7戦全勝している)。非力だったが、左で前廻しを取り、おっつけて出てゆくか、左半身で取る、部屋の先輩・出羽錦に似た独特の取り口で、引きずる様な投
げに威力があった。琴風が大関陥落となったことも、大錦の上手投げにより膝を故障したことが原因だった。三役に復帰することは出来なかったが稽古熱心なベテランとして部屋を支え、また横綱・大関戦に強く金星を
8個獲得、引退4場所前の1987年7月場所にも双羽黒から金星を獲得した。
1987年9月場所を最後に十両に陥落し、1988年1月場所限りで現役を引退。年寄・山科を襲名し、出羽海部屋の部屋付きの親方として後進の指導に当たる傍ら、2003年より、協会在勤委員として中学校の同期生[1]
でもある北の湖理事長の秘書室長的役割を負い、理事長が交代した後は、同門の武蔵川前理事長のもとで勤務、2010年2月に役員待遇に昇格した。

・エピソード
1982年9月場所3日目対戦相手の高望山の休場で不戦勝を得たが、翌日急性の腰痛で休場したため(対戦相手は神幸)、史上初めて不戦勝の翌日が不戦敗になった(その後1992年3月場所で起利錦が記録してい
る)。
小錦が幕内に昇進した当時、対戦時には「大きな小錦と小さな大錦」等と紹介されることもあった。ただし身長は大錦が186センチと小錦より2センチ大きい。
・主な戦績
生涯成績:750勝745敗28休(113場所)
幕内戦績:348勝428敗19休(53場所)
金星 8個(琴櫻1個、輪島2個、若乃花3個、千代の富士1個、双羽黒1個)
・三賞
殊勲賞 1回(1973年9月場所)
技能賞 1回(1973年9月場所)
敢闘賞 1回(1973年9月場所)
・各段優勝
十両優勝 3回(1973年7月場所、1977年7月場所、1980年3月場所)
幕下優勝 1回(1979年5月場所)
序二段優勝 1回(1969年3月場所)
・改名歴
尾堀 盛夫(おほり もりお)1968年5月場所~1973年3月場所
尾堀 充周(おほり みつひろ)1973年5月場所~7月場所
大錦 充周(おおにしき-)1973年9月場所~1977年7月場所
大錦 一徹(おおにしき いってつ)1977年9月場所~1988年1月場所
・年寄変遷
山科 盛夫(やましな)1988年1月~
(平成30年9月)
大相撲秋場所3日目の11日に65歳の誕生日を迎え、今場所限りで日本相撲協会を定年退職する山科親方(元小結・大錦)が13日、東京・両国国技館内の記者クラブで会見した。1968年夏場所の初土俵から50年。現在の心境を聞かれると「さっぱりしている」と答えた。
 場所中に20歳の誕生日を迎えた新入幕の73年秋場所では、13日目に大関・貴ノ花を破り、14日目には横綱・琴桜から金星を奪うなど大活躍した。11昇4敗の好成績で三賞を独占し、「佐渡の怪童」と呼ばれた。「怖いもの知らずでやっていた。緊張はしたが、若いって怖いですね」と当時を思い起こした。その後は糖尿病を患って苦しんだが、「自分なりには満足している。病気、ケガも自分の勉強になった」と振り返った。 引退後は出羽海部屋の部屋付き親方となり、同じ昭和28年(1953年)生まれで「花のニッパチ組」の北の湖親方(元横綱)が理事長となった際には相撲協会在勤として陰から支え、「(理事長に)恥をかかせないようにしようと思った」という。2010年には役員待遇となり、17年からは審判部副部長も務めた。70歳までの再雇用制度は利用せず、「元気なうちに協会を離れたい」と話した。自身が離れた後の相撲協会について「不祥事がなく、淡々とやってもらえれば」と期待していた。

★大野温于(おおのあつゆき)
お大野あつゆき
昭和2年(1927)両津梅津大野に生れる。令和2年5月没、92歳。昭和23年(1948)新潟第一師範卒業後、新発田中学校始めとして、佐渡島内の小・中学校に勤務。昭和63年(1988)定年退職。俳文学会会員として佐渡の連歌研究に勤しみ下記の著書論文がある。
「収月序説」(『国語・国文学・国語教育論叢 阿部義雄博士退官記念論集』)(1971年 退官記念事業会)
『初代収月評前句附万句合の研究』(1981年 文部省科学研究費補助) 『初代収月評万句合』(翻刻)(1982年 川柳しなの社)
「収月評万句合における組連の消長」(『文学』)(1994年 岩波書店) 『佐渡 羽茂の連歌』(1994年 羽茂町教育委員会)
『俳文学大事典』(執筆)(1995年 角川書店) 『日本古典文学大事典』(執筆)(1998年 明治書院)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)大野温于 
 66 「佐渡々海道之記」補訂 (その1) 67 佐渡の連歌 (1)  67 「佐渡々海道之記」補訂 (その2)  69 佐渡の連歌 (その2)  71 佐渡の連歌(3) 柳営連歌と佐渡連衆(れんじゅ)(その1)-「柳営御会図」を中心に- 74 佐渡の連歌 (その4) -土屋永輔とその周辺- 75 佐渡の連歌 (その5) -「土屋永輔履歴」をめぐって-  76 佐渡の連歌 (その6) 柳営連歌における佐渡連衆 -出座と詠句の確認- 78 佐渡の連歌 (その7) 萩野甫順とその周辺  79 佐渡の連歌 (その8) 萩野甫順とその周辺 80 佐渡の連歌 (9) 柳営連歌における佐渡連衆 -出座と詠句の確認(続) 82 佐渡の連歌 (その10) 長畝連衆と連歌写本 85 幕末の俳諧宗匠 竹本霞昇のこと 93 連歌師 里村玄碩履歴考 (その1) 95 連歌師 里村玄碩履歴考 (その2)  103 宗忍独吟千句連歌 (1) -諸写本の発見と翻刻- 104 俳書『佐渡美夜介(みやげ)』(狭門美谷計)解題  105 俳文学会第55回全国佐渡大会を顧みて 大野温于・ 本間昭雄・山本修巳 107 宗忍独吟千句連歌 翻刻(二)  110 宗忍独吟千句連歌 翻刻(三) 111 宗忍独吟千句連歌 翻刻(四) 113 宗忍独吟千句連歌 翻刻(五) 115 宗忍独吟千句連歌 翻刻(六)  116 宗忍独吟千句連歌 翻刻(七) 118 宗忍独吟千句連歌 翻刻(八) 118 書評 日下力著『いくさ物語の世界』 120 宗忍独吟千句連歌 翻刻(九) 126 『宗忍千句』校勘記(その1) 127 廬元坊五十年忌追善集『黄鸝塚こうりづか』解題 -玉芽の序文を中心として- 127 盧元坊五十年忌追善集『黄鵬塚』解題(二)  128 盧元坊五十年忌追善集『黄鵬塚』解題(二)ー安永元年十一月松堂追善『松の花』との関連についてー付、書誌ー 129 俳書『あらうみ集』解題  143 解題にかえて―連俳道しるべ ー「連俳用語」の二、三について 154 悼 大野温干 山本修巳

★大野検校
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
盲人取締役。江戸の人である。文政八年(一八二五年)空目人取締のため佐渡を視察した。(佐渡年代記中巻)

★大野春定
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
お大野春定
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の人で、通称を政吉、また愚盲ともいう。七才で失明し、平野真守に和歌を学んだ。
竹逎舎歌集、新撰実用鍼科全書、古今鍼灸学大全、東洋式按摩学、愚盲宗教難詰等の著書がある。
大正二年六月に四十二才でなくなった。(佐渡人名辞書)

★大野清一
「15年目のホームイン」(両津野球連盟15年誌
おお大野清一 「15年目のホームイン」(両津野球連盟15年誌

★大野政吉(まさきち)
「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾 「佐渡ジャーナル2015年7月」)
柴町。(一八七一-一九一二) (出生、生育、居住)鍼灸師。業名「春定(はるさだ)」、雅号「愚盲」。物心つかぬ頃、両親と死別し、七歳で失明する。十一歳の時、鍼灸術を習い、十八歳で長谷川元良から西洋医学を学んだ。二十五歳の時、一夜で点字を覚える。以後、点字教育に努力し、明治三十三年、相川盲人教育会を創立。鍼灸按摩の門人が十余名、点字の門人が二十余名いた。あらゆる楽器を弾き、音楽の門人が十余名いた。盲人に必要な書物は、生計に困難を来しても購入して研究し、貧苦に悩まされ、若くして病死した。著書-『竹廼家(たけのや)歌集』、『新撰実用鍼灸科全書』、『古今鍼灸学大全』、『東洋按摩学』、『愚吉宗教雑話』など。
「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾)
おお大野政吉 金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町 森幾

★大野林火
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)大野林火 87 大野林火の桜の句-第21回全佐渡お花見俳句大会 講話資料-宮津昭彦

★大場かずえ
両津高校時代の1960年度(S35)11月、山一証券懸賞論文4等   

★大場和範

佐渡高校同窓会関東支部長
おお大場和範 佐渡高校同窓会関東支部長
河原田出身、佐渡高校から早大理工学部卒。ソニー勤務の後、40歳で「エイワ (株)」を興す。平成26年より佐渡高校同窓会関東支部長。
佐渡高校時代の31.6.9~10、陸上競技全国高校大会県予選会(新発田市)総合64点優勝、110mH1位
31.7.1、陸上競技全国高校大会信越地区予選会(高田市)総合45点優勝、110mH1位
31.9.22~23、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市) 総合45点2位、110mHl位
32.6.8~9、陸上競技全国高校大会県予選会(柏崎市)総合29点2位、110mH1位・200mH1位
32.6.30、陸上競技全国高校大会信越地区予選会(校本市)総合24点2位、110mHl位・200mHl位
32.8.3~4、陸上競技全国高校大会(富山市)110mH優勝
32.8.18、陸上競技全国高校東西対抗(大宮市)、110mH6位
32.8.30、陸上競技信越高校対抗選手権大会(松本市)110mH・200mHl位
32.9.21~22、陸上競技県総合体育大会(新潟)110mHl位
32.10.27~30、陸上競技国民体育大会(静岡県)110mH6位
 ※110mH全国優勝に対して児高体連表彰を受ける

★大場喜太郎
(『羽茂村誌』1956年刊より)
当地(羽茂)の能楽は、天保年間の大崎の葛原五兵衛が潟上の本間家に学び、後江戸へ上って宝生宗家に就いて修道し、特に仕手方及拍子の技を学んで帰郷したのが始めであると伝えられている。
其後に(大崎の)川口宇平(1818~1876年)も又本間家に就き、後江戸の宝生家に遊学して帰り、加賀船から能装束並びに能面等を買求め、岡崎長左エ門(村山伊賀屋敷の人)と共に、当地方の能楽の普及に努めた佐渡南部に於ける能楽の隆盛はここに因しているのである。(大崎の)本間藤平(1830~1904年)も五兵衛、宇平等に能技を学び、更に本間左京に就いて仕手方の技を究め、太皷は金春惣治郎、又川合清次郎、高安英勝に、小皷は幸流に通じ、森田流の笛を能くし、このため明治時代の能楽は盛んになった。
『羽茂村誌』にないが『近現代の羽茂』には、大崎の藤井泰延(1820~1889)の事が載っている。泰延は、地元の川口宇平から謡を習い、潟上の本間左京由春に入門し、本間太夫の地謡方を務めた。天保10年城腰の三国五郎右ェ門豊水より金春流太鼓を学んだ。安政年間には京都に上がり森田流杉浦兵衛から笛を習い、帰途江戸へ回って森田流笛師藤本生五郎の指導を受けた。また、金春次郎より金春流太鼓の指導も得て帰国。本間宗家3代に仕えて各地の能に出演。明治6年に金春流太鼓宗家金春熊次郎より皆伝、同13年に森田流宗家より笛の皆伝を許された。
大崎には此他にも斯の道に秀でたものが多く、佐久間伝十郎(1819~92年)は太皷を五十里の春藤次郎兵衛に学び、高安英勝からは脇能、小習、大習、頭取等の許を受けて名手となった。其子儀七も父に習うて太皷の名手となった。
本間藤平と共に大正年間の名人とよばれた者に(大崎の)大場喜太郎(1861~1933:本間令桑に就いて其道を究めた)が、いた。此道に熱意をもって教えを乞う者があれば遠近を問わず寒暑をいとわず子弟を指導した。今日名をなす者の多くは此の門下である」
『近現代の羽茂』
『羽茂村誌』にないが『近現代の羽茂』には、大崎の藤井泰延(1820~1889)の事が載っている。泰延は、地元の川口宇平から謡を習い、潟上の本間左京由春に入門し、本間太夫の地謡方を務めた。天保10年城腰の三国五郎右ェ門豊水より金春流太鼓を学んだ。安政年間には京都に上がり森田流杉浦兵衛から笛を習い、帰途江戸へ回って森田流笛師藤本生五郎の指導を受けた。また、金春次郎より金春流太鼓の指導も得て帰国。本間宗家3代に仕えて各地の能に出演。明治6年に金春流太鼓宗家金春熊次郎より皆伝、同13年に森田流宗家より笛の皆伝を許された。
大崎には此他にも斯の道に秀でたものが多く、佐久間伝十郎(1819~92年)は太皷を五十里の春藤次郎兵衛に学び、高安英勝からは脇能、小習、大習、頭取等の許を受けて名手となった。其子儀七も父に習うて太皷の名手となった。
本間藤平と共に大正年間の名人とよばれた者に(大崎の)大場喜太郎(1861~1933:本間令桑に就いて其道を究めた)がいた。此道に熱意をもって教えを乞う者があれば遠近を問わず寒暑をいとわず子弟を指導した。今日名をなす者の多くは此の門下である」
(『佐渡広場』より)(大崎の能の系譜)
葛原五兵衛(1804~1845)→川口宇平(1818~1876)→藤井泰延(1820~1889)→本間藤平(1830~1904)→大場喜太郎(1861~1933)→「今日名をなす者の多くは此の門下である」と1956年刊の『羽茂村誌』にある。また、(羽茂)本郷の三羽烏といわれた飯岡の金子厳、上山田の佐久間甚吉・若林郷太郎の3氏は、大場さんの下で謡曲の勉強をしていたとある(『佐渡広場』「佐渡の能楽45:外山久次翁の能楽人生」)。
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎の人、大正年間に能の名人と呼ばれた。幼時より本間藤平について能を学んだ。謡の態度よく、優れた音声の持主で、長じて立方を学び、本間令桑千孝についてその道をきわめた。この道に熱意を持ち、教えを請う者があれば、遠近を問わず寒暑をいとわず指導した。後名をなした者の多くは、その門下である(昭和八年十二月二日投、七十二歳)。
また、弟の久太郎も、幼時から太鼓を好み、本間藤平について金春流太鼓の皆伝を受けた。その姿勢がよく、揆(ばち)さばきよく、掛声高く響き、北陸lといわれた。
喜太郎は常に後見並びにシテ役を勤め、太鼓は久太郎、笛は藤井泰延、大鼓は佐久間豊吉、小鼓中原豊蔵、地謡は三浦幸太郎・天地堅磐・本間吾三・佐久間伝平・三浦甫吉・高柳幹蔵らで、アイは葛原兵太郎らがつとめた。
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)
「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030367.html?p=4

★大場久太郎
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎の人、大場喜太郎の弟。幼時から太鼓を好み、本間藤平について金春流太鼓の皆伝を受けた。その姿勢がよく、揆(ばち)さばきよく、掛声高く響き、北陸一といわれた。
→大場喜太郎
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)

★大場金太郎
「金井を創った百人」(金井町 平成12年)より
お大場金太郎 (2)

お大場金太郎


★大場憲栄

おお大場憲栄


★大場茂実

おお大場茂実(しげみ)


★大場甚輔

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
吉井村 ・昭1、佐渡立憲民衆党の創立[二年八月十八日]


★大場民右衛門

『加茂村誌』(昭和38年)
おお大場民右衛門

★大場辻蔵

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
安政五年生 澤根町五十里 ・明4、第四回佐渡郡会議員選挙[三十六年九月三十日]


★大場鉄蔵

「近現代の羽茂」
おお大場鉄蔵 「近現代の羽茂」 (1)
おお大場鉄蔵 「近現代の羽茂」 (2)
おお大場鉄蔵 「近現代の羽茂」 (3)
おお大場鉄蔵 「近現代の羽茂」 (4)
おお大場鉄蔵 「近現代の羽茂」 (5)
おお大場鉄蔵 「近現代の羽茂」 (6)
おお大場鉄蔵 「近現代の羽茂」 (7)
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
滝平千手院本望の前右の方に鬼子母神、左に天満宮、中央に聖徳太子の三神造り込みの神社風の彫刻がある。軒長方七尺程で精巧な作品である。大崎の大工、平の作であると伝えられるが、大場鉄蔵のことかと思われる。
※羽茂地区大崎に伝えられてきた「ちょぼくり」は、正しくは「ちょぼくれ」といい江戸時代中期以前に関西から始まった大道芸だといわれています。大崎では明治30年頃、北海道へ移住したり屯田兵に行っていた人が帰ってきて教えたといわれています。明治30年代末頃、大場鉄蔵(慶応元年生まれ)と本間治吉(明治3年生まれ)が中心になって踊っていました。そして大正期にかけて広く普及し、酒が出れば板の間や囲炉裏縁をたたき、畳半畳の広さがあれば踊ったといいます。その後中断していて、昭和39年(1964)、宮本寺にちょぼくりの台本が残っていたことと、かつて踊っていた記憶があった葛原五兵衛、大山満蔵などによって復活しました。そして昭和53年以降「大崎そばの会」の場で上演することによって地域に定着してきました。大崎では地方は机に向かって座し、俎板を火箸で打って調子を取りながら語ります。立方は、衣装は黒い破れ衣に一文字笠、腰に一升徳利を下げ「八升九升飲み流す」で手に取って飲むしぐさ。「おっと変わって」からテンポが早くなると、踊りも早くなり、文句にあったユーモラスな踊りが連続し、最後は雲を霞と逃げて行きます。昭和の戦前~戦後中断していたチョボクリが昭和39年復活したのは、昔の人が楽しんだ芸を残そうという有志と演技者がいたことによる。台本があったことに加え、長老の大山満蔵や葛原五兵衛に記憶があり、本間敞政住職らによる努力があった。時の地方(じがた)は大山満蔵、立ち方(かた)は平内鍵太郎。

★大場浩

『小木町史』(下)より
戟争が終わると小木の山本太一氏が手提篭を研究し、竹の手提篭時代をつくりました。昭和二十三年に、東京から竹芸家林〇斉(『小木町史』(下)p45)氏を招いて技術講習を受け、置物篭の試作がおこなわれ、新しいデザインで全国に積み出されていきました。全国に佐渡の竹細工が認められる一つのきっかけでした。それには佐渡篭という名がつけられました。大場浩氏の篭の改良と染色、山本幸作氏の改良と全国販売の功積は偉大です。しかし、なにしろ竹細工は時代の寵児です。少し社会が変われば、たちまちいままでのものがすたれます。昭和二十七、八年ころにをると、買物篭の売行きが不振とをりました。新しいビニトルという化学製品の出現が、それまで金属や竹にたよっていた部分を一挙に侵しはじめるのです。木を割り、竹のタガをはめてつくられる桶や樽が、ビニール製の桶にとってかわり、桶屋は廃業に追い込まれ、またたく間に島から消え去ることにをりました。
しかし、小木の竹細工はやめることができません。生活がかかっているからです。対抗する製品が生まれれば、さらに竹でなればできない味わいをもつものが追究されます。そのころから、山本太一氏、大場浩氏、数馬浅治氏などが新製品の試作に全力を挙げました。そして、山本太一氏の試作になる「サービス盆」は、竹製品の将来をうらなうものとして、竹工業界の注目を浴びました。昭和三十年のことです。
昭和三十二年、数馬浅治氏が、東京の問屋・日本竹芸株式会社と提携し、千葉の女竹の盆ザルを佐渡竹で編み出しました。さらに数馬氏は、昭和三十四年にあじろ編木の葉型盛器をつくって販売し、新分野を開拓しました。竹製品は、つねに研鎖につぐ研鎖をつまなければならなかったのです。


★大庭みな子(おおばみなこ)

新潟高女専攻科(現 新潟中央高校)時代の恩師に市橋保雄元両津市長が居り、市長の遺稿集に思い出の文章を寄せている。随筆に「佐渡 賽ノ河原のはまなす」がある。1968年、アメリカの市民生活を描いたデビュー作『三匹の蟹』で、群像新人文学賞・芥川賞を受賞した。

「ウィキペディア」より

「島の新聞」
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★大場美和子

 両津高校時代の1989年度(H元)11月、第35回青少年読書感想文全国コンクール(全国学校図書館協議会・毎日新聞社主催) 県審査 佳作 、 1991年度(H3)8月、第4回学生短歌・高校生の部(短歌新聞社) 入選 

★大橋順二
相川小校長
おお大橋順二 相川小校長

★大橋慎作
新潟市の老舗日本料理店「大橋屋」代表。写真中央に両津の櫛谷昭三(鉄工所経営)さんが映っている。櫛谷家と大橋家が親戚筋のことはわかるが詳しくは不明。
おお大橋慎作 (2) おお大橋慎作 (1)

★大橋新太郎
博文館を興した長岡人。本荘了寛の「竹窓日記」を出版し、佐渡初の定期刊行物である「北溟雑誌」出版に尽力した。
「生きたお経をよんだ了寛」(「佐渡の百年」)

★大橋清四郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
お大橋清四郎

★大畠高利
おお大畠高利 (1) おお大畠高利 (2) おお大畠高利 (3)

★大畠利良(としよし)
平成26年(2014)3月没、86歳。加茂歌代出身、新潟第一師範卒、早大第二文学部卒。教師として佐渡女子、相川高校等に勤務。退職後下記の地元の歴史書を出版する。「佐渡加茂歌代幕末小誌余話」「佐渡国想像の木本神社」(新潟日報事業社 2011.11月)

★大畠文一
「島の新聞」索引(人名別)

★大林玄益
『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より                       
羽茂滝平の大林(大林雅省)家の医師。薬研等の医療用器具や医書が残っていた。安政年間に没した等という(下平春次氏談)。
「羽茂の幕末を生きた三人」(『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』)

★大林長太 
高千港の商人。自転車修繕、武力細工、懐中電灯電池、ゴム靴販売とある。『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より

★大林与兵衛
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行。寛政五年(一七九三年)六月三日勘定吟味役より佐渡奉行となり、九年七月十九日留守居番に転役した。名は親用、知行二首俵、役料千五百俵百人扶持である。(佐島遺事)

★大平昌清
『田中圭一講演集(第六集)「長谷川元了と竹中成憲』より
十八世紀から幕末にかけて佐渡からどういう医者が、、どういう所に勉強に行っているのか、少し紹介しておきます・・・・・。華岡流外科に佐渡で最初に行ったのは猪坂尚逸(相川町)、その後中山顕民(川原田町)大平昌清(しょうせい)(相川町)、山本桂(新町、有田八郎の実父)、菊池東純(小倉村)、小倉村には何人もおります。京都伏見の蘭学者小石元俊-杉田玄白や大槻玄沢などと交流があつた-の所へは、鞍立章平(川原田町)、藤沢明卿(湊町)、田中参二郎(相川町)が行っております。また、シーボルト事件(文政十一年、一八二八)で投獄された土生玄碩という眼医者-土生眼科は元は漢方系、シーボルトを通じて西洋医学を取入れた-のところへは時岡亮朔(相川町)、葛西周禎(羽茂本郷村)、北君養(湊町)などがおります。幕末の頃、佐藤尚中(下総佐倉、順天堂の祖)という蘭学者のところへは、近藤玄洋(川原田町)、時岡春台(相川町)です。そして小石川施療所、ご存知「赤ひげ先生」こと桂川甫周のところへ佐藤元沢(潟上村)、鈴木良順(夷町)など。こうざっと見ても、佐渡では十指に余る医者が蘭学で育っております。このように、十八世紀から幕末の頃まで、佐渡から数多くの青年が江戸や京都や長崎を主として他国に医学修行にでかけております。その多くは蘭学者の門をたたいていることが注目されます。

★大平隆
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
(昭和16年・県学童佐渡会場 大会記録)100平 1.34.6 大平隆(両津)昭12

★大平淡
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
お大平淡
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
医家。佐渡相川の人で、名ほ昌清、字は無味鴨処または、菰塘と号した。医業のかたわら詩をよくし、また経史を亀田綾瀬に学んだ。明治年中になくなった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)

★大平勉
相川小校長
おお大平勉 相川小校長

★大平禎作
『田中圭一講演集(第六集)「長谷川元了と竹中成憲』より
明治十年、山形済生館病院建設のため、長谷川元了は東京府病院や陸軍病院などを視察、このときの案内役は、東大病院当直医補助員であった大平禎作(二十五歳)という人物です。大平は、佐渡奉行所(陣屋)詰医師大平昌隆の長男で、十九歳のとき西洋医学勉強のため司馬凌海の家僕となって、司馬からドイツ医学や語学を学んでおります。大平の先祖は土佐の人ですが、慶長の頃相川に来ております。大平は余程(山形県令)三島通庸に見込まれたらしく、土地の嫁さんを世話され酒田で開業、この地で終生医療に尽くし佐渡に帰ることはなかったようです。このほか鞍立常作(川原田)や角坂有馬(両津)など、佐渡からこの山形医学校には意外に大勢勤めていてなかなか面白いことだと思います。
大平道悦・禎作の子孫である明治学院大学心理学部(医師)西園マーハ文教授提供
おお大平禎作 (1) おお大平禎作 (2)

★大平恬処(てんしょ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
柏崎の人で、名は規、字は子準、恬処は号である。先祖は五郎といい、京都天神社司の家に生まれた。永仁六年(一二九八年)冷泉為兼が佐渡に流された時これに従い、五年後の乾元元年(一三〇三年)京都にかえった。為兼は五郎に、自作の菅公像に久明親王の題賛の軸を与えたという。その子孫は乱世をさけて長岡に来て住み、曽祖父源右衛門の時、柏崎に移った。恬処は原松州について学び、学を信州の中沢晴興にうけた。医業の外、子弟を教授した。また卜筮にも通じていた。慶應三年(一八六七年)三月十七日に六十三才でなくなった。大窪の極楽寺に葬った。明治二年門下生が碑を宝筐山下に建てた。水落雲濤の銘で
 古之達人、隠於医卜、君今有之、不慕爵禄、
 米嶽之下、鵜河之辺、水清土固、不崩不騫、
 玆理其骨、魂今安焉
(北越名流遺芳、、新潟県史)

★大平道悦(おおひらどうえつ)
【生没】生・没年不詳 佐渡奉行所付医師。享保五年(一七二○)道悦は江戸より佐渡の薬草を調査し、献上するよう命を受けたとき、同医師益田恂岡と担当して、半夏・天南星・遠志等一四種を送る。その後同七年、江戸幕府の医師丹羽正伯の弟子野呂玄丈ら四人が来島、島内の薬草・薬石を調査し、薬種二四種を採取、これを佐渡の薬種と定め、大石村庄兵衛・中原村理右衛門・三宮村清左衛門・西方村甚兵衛・潟上村杢右衛門の五人に教授した。この時大平・益田が事務にあたり、調査に参加する。さらに享保二十年、殖産興業に熱心であった萩原源左衛門美雅奉行のとき、大平道悦は前記二四種の薬草を、陣屋内薬園に移植した。また、同年幕府に「佐州産物帳」を提出、九九三種を収めている。翌元文元年(一七三六)、大平は藤沢長達とともに、この九九三種の植物・動物・鉱石を、絵図師山尾衛守・古川主左衛門に描かせ、二冊に仕立て幕府に提出した。翌元文二年、両人は奉行所の御薬園掛に任ぜられた。佐渡における薬草栽培の草分けである。【参考文献】萩野由之『佐渡人物志』、伊藤三右衛門『佐渡国略記』 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説.
大平道悦 おおひら-どうえつ ?-? 江戸時代中期の医師,本草家。 佐渡(新潟県)の人。享保(きょうほう)5年(1720)幕命をうけ,薬草の調査に従事。20年薬園掛となった。「佐州産物帳」をあらわし,のち陣屋付医師となる。
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
お大平道悦 (2)
お大平道悦(3)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
お大平道悦
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の医師。享保五年(一七二〇年)幕府の命で益田恂岡ととも佐渡の薬草を調査し、二十年に薬草二十四種をえらんで官園に植え、藤沢長達と薬園掛を命じられた。
またこの年佐州産物帳を編纂し、九首九十三種のせたが、このうち七十八種は絵図師山尾政円、古川主左衛門に模写させて、元文元年(一七三六年)に献上した。
この功により陣屋附医師に任命された。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
(参照)
萩原美雅(はぎわらよしまさ)【生没】 生・没年不詳
享保改革期の佐渡奉行(享保十七年ー一七三二~元文元年ー一七三六)で、特に新田開発と殖産興業に成果をあげた能吏。前職の勘定吟味役時代、大井川の大改修事業で実績をあげ、将軍徳川吉宗の信任あつく、佐渡奉行に任ぜられた。高田備寛が『佐渡四民風俗』で、「享保年中萩原源左衛門殿、宝暦に石谷備後守殿、安永に柘植三蔵殿国産の事別して御世話これあり」として、佐渡の殖産興業に功績があった三奉行の一人にあげている。享保十七年から同二十年の三年間に、新田六百四十六町余を開発した。萩原は、用水さえ古田に支障がなければ、他村の山林原野の開発も見分のうえ許したので、他村の入作を嫌う村では、敢えて村内の開発可能地を開拓し、これが新田開発ブームの一因となった。この時期の代表的な新田開発は、山田村(佐和田町大字山田)太郎右衛門によって拓かれた辰巳村で、国府川河口右岸の砂丘地に、畑地を主に七六町歩で新田村辰巳村ができた。萩原はこうしてできた新田(畑)に「地面相応」の作物の栽培を奨励し、各地に植立物世話煎を置いて、木綿・たばこ・麻・桑・油菜など商品作物が栽培された。綿はこの時はじめて佐渡で栽培され、また、菜種油を銀山入用の灯油として買いあげた。萩原はさきに野呂玄丈らが佐渡で発見した二四種の薬草を、奉行所薬園に植え付けさせ、藤沢長立・大平道悦に管理させ普及につとめた。また、萩原は大平道悦に命じて佐渡の国産を調査させ、国産九九三種を収録した「佐渡産物帳」をつくり幕府に提出した。元文元年長崎奉行に転役したが、後任の佐渡奉行田付景厖に、干鮑・煎生蝋など中国向け俵を、佐渡から長崎に廻送させ、のちの俵物輸出の先鞭をつけた。【参考文献】 『新潟県史』(通史編四・近世二)【執筆者】 児玉信雄
大平道悦・禎作の子孫である明治学院大学心理学部(医師)西園マーハ文教授提供
おお大平禎作 (1) おお大平禎作 (2)

★大平富蔵
『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
お大平富蔵

★大平兵治
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
お大平兵治

★大舟屋半左衛門 
『赤泊村誌(上)』より
江戸時代の始め、相川金銀山の繁栄にわく頃、佐渡の沢根から相川に移った大廻船業者。
※下記、大船屋半右衛門の間違いか?

★大船屋半右衛門
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より」
沢根町の成立については、慶長元年とする説(『佐渡旧記』)、慶長三年説(専得寺文書)または四年説があり一定しない。しかし、戦国時代の末期にはすでに大船屋半右衛門、沢根甚助などの廻船業者が活躍していたと思われ、港町らしい景観を整えつつあったに相違ない。大船屋は家号が示すように大船を持つ海運業老であるが、慶長七年(四年とも)には鶴子の専得寺跡へ移った(「専得寺文書」)。この頃、沢根湊には甚助という海運業老の居たことが記録に残る。甚助は慶長三年(一五九八)七月、豊臣氏の御用杉材を秋田から敦賀まで新潟や出雲崎の廻船問屋と輸送の任に当っている(東北大学所蔵「秋田家文書」)。このように見ると、すでに中世末にほ鶴子銀山の繁栄にともない大船屋や甚助が沢板湊を根拠として活躍して居たことが推測される。

★大間美絵子
佐渡高校時代の平成7.8.24~25、バドミントン県高校1、2年生大会(三条市) 大間美絵子女子シングルス3位
平成7.6.2~4、バドミントン県高校結合体育大会(新潟市) 女子団体ベスト8 高橋久美子・大間美絵子組 女子ダブルスベスト8
平成8.1.11~12、バドミントン県高校選抜大会(新潟市)女子シングルスベスト8 大間美絵子・石渕千恵子組女子ダブルスベスト8
平成8.5.30~6.1、バドミントン県高校総合体育大会(村上市)女子団体ベスト8 大間美絵子女子シングルスベスト8、大間美絵子・近藤杏奈組 金子恵理・村上友美組 女子ダブルスベスト8

★大前田英五郎
寛政5年1793年)-明治7年1874年)2月26日。江戸時代末期に活躍した侠客。栄五郎とも書く。本姓は田島。大場久八、丹波屋伝兵衛と並び「上州系三親分」とも、新門辰五郎、江戸屋寅五郎と共に「関東の三五郎」とも呼ばれて恐れられた。昭和期に好まれ、任侠ものの映画の題材とされた。
(経歴)
1793年、上野国大前田村(現・群馬県前橋市大前田町)にバクチ打ちの父・久五郎と母・きよの子として誕生。祖父は名主も務めた家だったが、父の代に賭博を好み侠客となった。兄・要吉もバクチ打ちであった。
英五郎15歳のとき、武蔵国仁手村の清五郎が父の縄張り内で賭場を開いたため、これを追い払った。この際に賭場で殺傷をおこし、侠客としてしばらく諸国を流浪した。1818年には、新里村山上(現・群馬県桐生市新里町山上)にて久宮村(現・群馬県みどり市笠懸町久宮)の侠客であった丈八と争い、丈八を殺害して逃亡した。この結果丈八一家と対立し、和解は1833年のことである。その後、キップのよさと腕っ節の強さから関東一の大親分として名を馳せた。また、侠客どうしの争いを収めるのが上手く、謝礼に貰った縄張りが全国に200ヶ所以上あったといい、「和合人」と呼ばれたという。
殺人を犯し佐渡送りになるも島破りをして郷里に戻ったと伝わる。しかしこの話は本当かはっきりしない。この島破りで身体が不自由になったともいう。
賭場に出入りしていた若き日の初代前橋市長下村善太郎を、英五郎が戒めたという説もある。
1874年2月26日、82歳の高齢で死去。墓は前橋市大前田町と同市大胡町雷電山の2ヶ所にある。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)大前田栄五郎 52 連載 閑々亭雑記 (11)  侠客大前田栄五郎の島破り 山本修之助
『侠客大前田英五郎』(著者:宝井琴凌 [述][他] 出版者:大川屋書店 出版年月日:昭和11)
p54「英五郎佐渡の島破り」
ウイキペディアより

★大亦博彦
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)大亦博彦 
 125 不思議なご縁の佐渡紀行(順徳院の跡を訪ねて) 128 父をたどるの記 (最終回) -大亦観風さんのことー藤川滋 146 五合庵の良寛 大亦観風画 石井夏海所蔵の良寛遺墨について 山本修巳

★大町桂月
「佐渡土産」
「佐渡ふるさと百科」
おお大町桂月 佐渡ふるさと百科
於:黒木御所
おお大町桂月 黒木御所 お大町桂月 
新穂の羽田清次等と古くから交わり、来島して佐渡を記す。 「 鶯や 十戸の村の 能舞台 」はよく知られる。新穂横町の六観亭で鬼太鼓等観賞する。
※渡辺注:新穂六観亭の経営者は北方の内海亀蔵で、場所は現在の横町「長三郎」。六観亭の後→山田医院(東大卒の山田一郎医師)→「長三郎」(瓜生屋から出て蕎麦屋だった)
・『佐渡の百年』より
「羽茂本郷の菅原神社で催した融資の歓迎会に臨んだ。酒盃を重ねた桂月は上きげんであった。有志の一人の差し出した扇面に「鶯や十戸の村の能楽堂」と、スラスラと筆を走らせた。」有志の誰かが「先生、十戸の村はひどいではありませんか、羽茂本郷は立派な町通りになってますよ」と、口をはさむと桂月は例の無とんちゃくさで「ま、ま、ま、そして置く」とドモリながら答えたという。十戸の村とは漢文風に誇張したもので、十戸ほどもない小さな村でも能楽堂を持っていると言うことを詠んだもの。
『佐渡土産』(桂月全集 大正11年 興文社)
明治・大正時代、名文章家としてその名をうたわれた大町桂月は、大正13年7月、佐渡に来島、妙見山に登っている。その時の見聞をまとめたもの。その中で「佐渡人の言語は…近畿に類す。佐渡はこれ近畿の飛地なり」 と記し、佐渡方言が関西的要素を含むこと (アクセント等) に言及したのはさすがに言葉に対する神経の行き届いた文章家の着眼と言うべきだろう。「鶯や十戸の村の能舞台」の佳句を残している。
→「羽田清次」参照
『来島の文化人・蔵からのささやき』(山本修巳 平成30年)
おお大町桂月 来島の文化人・蔵からのささやき 山本修巳 平成30年
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)大町桂月 
 118 回想 桂月佐渡紀行 中川哲昌 150 羽茂日記(桂月回想) 中川哲昌 
黒木御所跡・順徳帝文学公園ガイドブック
p17大町桂月
諸情報

★近江秀雄
佐渡中学生時代、昭和2年の第9回県立学校陸上運動競技大会において、やり投げで優勝する。さらに、全国中等学校陸上競技大会でも同種目で優勝する。
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
沢根の人、新潟師範時代の昭和2年、第9回県下中等学校陸上競技大会で槍投1位(44m25)。
同年、全国中等学校陸上競技選手権大会で槍投1位(46m18)。
昭和3年、第10回県下中等学校陸上競技大会で槍投1位(45m46)。
昭和4年、第11回県下中等学校陸上競技大会で槍投1位(41m83)。
昭和5年、全国中等学校陸上競技選手権大会(神宮外苑競技場)で槍投4位(46m29)。
同年、第5回神宮体育大会北陸予選会で、槍投1位(50m65)。
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
沢根町(現佐和田町)五十里の人、明治42年10月24日生。沢根尋常高等小学校卒、新潟師範昭・5卒。佐和田町立沢根小学長、昭・24小体連副会長。
新潟師範入学後に寄宿舎生活の結果脚気を患い、短距離を断念、槍投げに転向する。
昭和2年~4年と県大会で3連覇を飾り、また、昭和2年には全国中等学校陸上競技選手権大会で優勝、更に、昭和5年には50m65cmの県の新記録を樹立するなど、『槍の名手』と呼ばれるように活躍した。
昭和5年より両津・二宮・赤泊・金沢・河原田・金泉・沢板の各小学校に勤め、その間に、佐渡の体育関係のリーダーとして全郡の体育の向上発展に尽力された。

★木水弥三郎
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)大水弥三郎 64 詩人・木水弥三郎君逝く

★大道勘次
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
おお大道勘次 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)

★大道淑人
両津高校時代の1980年度(S55)9月、第14回新潟県高等学校美術展 彫塑工芸部門奨励賞 

★大桃一浩
「島の新聞」索引(人名別)

★大森一郎
「島の新聞」索引(人名別)

★大森景山
「小菅徹也先生facebook記事」(平成27年2月20日)
最近鬼籍に入った高野金七老人(86歳)に対する献杯から新年会に入らなければならないとは切ない話だ。
佐渡の銘石に関しては、生き字引のような人であった。それのみならず、彼の人生そのものが波乱万丈で、物語性が豊富で聞きて居ても面白かった。 池田勇人の箱根の別荘へ単身赤玉石を売り込んだり、山口組の大親分に頼まれて赤玉石を遠距離トラック輸送したり、銘石をやる前は3年間築地から新橋まで毎晩 石焼きいもを売って借金(畜産をやれやれと農協に勧められて騙された巨額な借金)を返した話など、愉快痛快の連続人生であったようだ。 高野金七さんと同じ年の銘石老人の大森景山さんは、すでに記憶力も衰え外出も出来ない状態であるから、高野金七さんの逝去で初期の佐渡銘石協会の昔を語れる者は1人も居ないことになってしまった。 足かけ3年前の4月、「過去に利益第一主義であったことを心から反省して、地質学の基礎を習いながら佐渡の銘石の素晴らしさを次世代にきちんと伝えたい。是非共佐渡銘石協会再発足に助力下さい」との懇請を受けた。 この年4回に分けて、①猿ハ・小倉地区、②野浦、赤玉、大杉、小木半島、③岩谷口、真更川、北鵜島、願、鷲崎、④真更川で、それぞれの銘石出土地点を高野さんと大森さんの2人が、当日参加した佐渡銘石協会の次世代に現地でしっかり教えて下さった。 さて、これらの成果と佐渡に現存して居る代表的な銘石の数々を本にして出版しようと言っている最中、最長老が逝ってしまった。

★大森五右衛門
「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)

★大森幸平
新潟日報(h28年4月12日) 畑野の人、佐渡市市会議員
おお大森幸平
せん選挙 h28 4 11 (4) せん選挙 h28 4 11 (5)
平成28年4月10日執行 佐渡市議会議員選挙公報
おお大森幸平

★大屋図書
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行。天保十三年(一八四二年)十月三日、先手鉄砲頭から佐渡奉行となった。
十四年五月二十八相川へ着任した。弘化二年(一八四五年)四月、小普譜奉行に転出した。
名は明啓、知行千百五十石、役料千五百俵百人扶持であった。(佐島遺事)

★大屋清左工門
『新穂村史』(昭和51年)より
北方に通称北方城といわれる城が水城をまわして、よく今日にその姿を伝えている。城の大手は東側で
道路が城内を東西に走るところは新穂の南北と異なっている。城の大きさは、掘の外側で南北二〇間、束西で六〇間ほどである。堀の幅は四間と新穂城に較べるとせまい。城内は南北六〇間、東西四七間はどで城内は宅地が十一筆ほどで、他は畑となっている。北方の地名には「城の内」「外城」「堀」「掘添」「堀田」などがある。この城は勿論北方の村殿の城であろう。北方の村の名字としてほ相田・市橋氏・河原氏・本間氏が多い。城主が誰であったかについてほ速断できないが、村の大家は清左工門だといわれている。

★大屋日香里
おお大屋日香里 日報 h27 9 1

★大屋昌彦
おお大屋昌彦

★大屋(矢)容斎
おお大矢容斎
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より 
畑野何代の福寿院家の西隣りで、元利右衛門の地内で医業を開業していた。容斎は湊町の弥吉家の生れで、父の容斎の代に分家して何代に釆た。同人が漢方か洋方かわからないが、その子督は京都で就学し、のち河原田病院に医員となった洋方医であった。督の妻久子は京都の人で、督が彼地から帰国の際に同伴した。明治二十年すぎに大屋督は京都に転出した。何代十間塚墓地には、「容斎大矢先生墓」の墓碑がある。

★大山郁夫
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、日本大衆党佐渡支部[五年八月二十四日]

★大山巌
「島の新聞」(明治の女子留学生)

★大山重雄
大崎の人、父は大山満蔵。
おお大山重雄

★大山澄太
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)大山澄太 
 20 佐渡慕情
 26 句集「海見ゆる坂」朱鷺への慕情
 
★大山典邦
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)大山典邦
 1 国分寺 石仏散歩 -石に刻まれた庶民の祈り- 10 佐渡石仏散歩  -佐渡の庚申文字塔- 22 佐渡の石仏 34 椰子の実と藻玉(もだま) 50 山居光明仏寺と遊行聖 -浄土教捨世派と興津派の残影-

★大山文兄
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=9

★大山満蔵
おお大山満蔵 (1) おお大山満蔵 (2) おお大山満蔵 (3) おお大山満蔵
大崎の人、明治32年12月7日生れ。農業の傍ら、白寿(99 歳)まで地元の古民謡継承等文化芸能活動に貢献した。その一つが「大崎そば祭り」の立ち上げで、自ら「ちょぼくり」などを演じた。「新潟県の民謡」(昭和61 年:新潟県教育委員会)に「やっとこせー」「ハンヤ節」「昔音頭」を収録。「近現代の羽茂」に「木遣り歌」「そうめんさん」が載る。
(『佐渡広場』より)
・1999年99歳で永眠。チョボクリ復活の第一人者。妻と共に「大崎そばの会」におけるそば作りを指導した。
小冊子「大崎ソバの会の三十年をかえりみる」に、「会の出発が、単にそばを打ってたべるだけでなく、ソバの文化をたずねる会であったことが良かった。第1回のとき大山満蔵夫妻を講師に招いたのが、長続きの原因となった」とある。
※羽茂地区大崎に伝えられてきた「ちょぼくり」は、正しくは「ちょぼくれ」といい江戸時代中期以前に関西から始まった大道芸だといわれています。大崎では明治30年頃、北海道へ移住したり屯田兵に行っていた人が帰ってきて教えたといわれています。明治30年代末頃、大場鉄蔵(慶応元年生まれ)と本間治吉(明治3年生まれ)が中心になって踊っていました。そして大正期にかけて広く普及し、酒が出れば板の間や囲炉裏縁をたたき、畳半畳の広さがあれば踊ったといいます。その後中断していて、昭和39年(1964)、宮本寺にちょぼくりの台本が残っていたことと、かつて踊っていた記憶があった葛原五兵衛、大山満蔵などによって復活しました。そして昭和53年以降「大崎そばの会」の場で上演することによって地域に定着してきました。大崎では地方は机に向かって座し、俎板を火箸で打って調子を取りながら語ります。立方は、衣装は黒い破れ衣に一文字笠、腰に一升徳利を下げ「八升九升飲み流す」で手に取って飲むしぐさ。「おっと変わって」からテンポが早くなると、踊りも早くなり、文句にあったユーモラスな踊りが連続し、最後は雲を霞と逃げて行きます。昭和の戦前~戦後中断していたチョボクリが昭和39年復活したのは、昔の人が楽しんだ芸を残そうという有志と演技者がいたことによる。台本があったことに加え、長老の大山満蔵や葛原五兵衛に記憶があり、本間敞政住職らによる努力があった。時の地方(じがた)は大山満蔵、立ち方(かた)は平内鍵太郎。

★大和田清晴
プロテスタントの伝道士で、明治25年にアメリカ人のケースとビグロと言う二人の婦人と佐渡に来島する。
3年後に相川講義所の牧師として再び来島し池野又七と共に布教し、二年滞在して神戸に移る。

『佐渡プロテスタント小史』(本間雅彦 「佐渡郷土文化」30・32・33号)


★大和田村勘兵衛

「凶作と義民」(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))


★岡鹿門

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)岡鹿門 147 佐渡遊記-岡鹿門『佐渡游乗』を片手にー安藤智重


★岡才次

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明1、佐渡に於ける佐幕党[元年七月]


★岡常次(おかつねじ)

【生没】一八九三ー一九七○ 洋画家・学習院大学教授。明治二十六年十一月二十一日、相川町で生れた。父は才次、母はよね、その二男。旧制佐渡中学を四年で修業、上京して白馬会洋画研究所に入学し、大正三年(一九一四)から黒田清輝指導の葵橋洋画研究所の主任研究員を勤めた。同十二年に、黒田清輝・岡野栄らの推挙で、学習院大学の講師になり、その後助教授・教授を経て、昭和二十一年に同大学を退官する。この間、文部省の美術展覧会洋画部門に出品して、たびたび入選を果し、洋画家として活躍を続けた。神田の文房堂ならびに、銀座紀ノ国屋ギャラリーで、それぞれ毎年のように個展を開いている。関東大震災で葵橋洋画研究所が焼失、解散となったあと、研究生仲間で「天地会」を創設している。また学習院大学出身の洋画同好者で、「水光会絵画研究所」を世田谷画室で開設した。「水光」は、恩師黒田清輝の雅号をとったものである。昭和三十五年代から、新世紀美術展に、「光子」「祈り」「菊花」「疎林夕陽」などをつぎつぎに発表し、洋画界でも知られる存在になった。なくなるのは同四十五年七月で、七八歳。地役人の先祖がねむる、相川町の日蓮宗・瑞仙寺に葬られた。先祖は甲州(山梨)の出身とされ、『佐州地役人家譜略記』によると、幕末のころ一家は弥十郎町に住んでいた。二十俵三人扶持の中級侍の出である。先祖の由縁から自身まとめた、『佐州諸役人先祖書・姓名書』(稿本)が残っている。
【執筆者】本間寅雄(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

「金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町」(森幾 「佐渡ジャーナル2015年7月」)
(一八九三-一九七〇)(出生? 生育?)洋画家。旧制佐渡中学を四年で修業し、東京の白馬会洋画研究所に入学。大正三年、黒田清輝指導の葵橋洋画研究所の主任研究員になり、十二年の関東大震災で研究所が解散するまで勤める。そのご、黒田らの推挙で学習院大学の講師になり、昭和二十一年、教授で退官。この間、文部省の美術展覧会洋画部門にたびたび入選する。世田谷画室で「水光会絵画研究所」を開設。昭和三十五年のころから新世紀美術展に多数の作品を発表する。
おか岡常次 金山の街・相川の近代の人物とその所縁の町 森幾

「酒と放浪の画家」(「佐渡の百年」)


★岡 真

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)岡 真 147 佐渡紀行ー百二十年の時を越えて-


★岡口等伝

「語学の天才・司馬凌海


★岡固重太郎

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
おか岡固重太郎


★岡固申一

・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p407・408

★岡崎敦
「島の新聞」索引(人名別)

★岡崎卯之吉 
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。不詳。

★岡崎謙
おか岡崎謙
1877(明治10)年に佐渡で生まれ、東京英和学校、国民英和学校、東京高等商業学校(現・一橋大学)で学び、1899(明治32)年に小樽で米、荒物、雑穀、倉庫業を営む家業を継いだ小樽商人の一人。故郷佐渡と能を愛し、英語や商業を学ぶ中で、日本の伝統文化の大切さを認識していった。岡崎氏は自邸を1926(大正15)年に建設した際に能楽堂を併設し、「小樽能楽堂」と称しました。
・小樽能楽堂:岡崎邸の小樽能楽堂では、地域の能楽活動が積極的に行われ、宝生流・野口兼資師、近藤乾三師、世阿弥の流れを汲む観世流宗家など大正・昭和初期に活躍した能楽界のスターたちが競うように演能した。
・小樽市への寄贈:1954(昭和29年)岡崎謙氏が他界すると、故人の遺志として能舞台部分が市に寄贈され、1961(昭和36年)、小樽市公会堂に併設される形で移築された。その際、演能には不可欠である切戸口が閉じられ、専用の見所や楽屋が設置されないなど、正式な能楽公演には不向きの状態となりました。以後、その状況が変えられることなく現在に至っており、また老朽化によって傷みも進んでいるため、その再整備が強く望まれています。
・能に親しむ市民の会:1962(昭和37)年小樽商工会議所の専務理事となった佐藤繁夫氏は北海道新聞記者時代に、実際に岡崎家での野口兼資師の演能を鑑賞し、1974(昭和49)年に有志とともに「能・狂言の会」の設立を検討、1985(昭和60)年に「能に親しむ市民の会」(世話人代表 佐藤繁夫)が発足します。翌年から毎年、鑑賞会・講演会などを実施し、鑑賞会には400~500人が来場、会員も700名に達するほど、小樽での能は定着していきました。1996(平成8)年に佐藤繁夫氏が他界し、実弟である佐藤文義氏(小樽女子短大教授)が代表となり、1997(平成9)年には山田家正氏(元小樽商科大学学長)が引き継ぎます。2007(平成19)年第20回目の鑑賞会を終えて、能に親しむ市民の会は解散しました。
・旧岡崎家能舞台を生かす会:20年にわたる能に親しむ市民の会の活動の中での演能のノウハウや能楽界との人脈を惜しみ、1998(平成10)年から同会幹事であった三ツ江匡弘氏が新たに「旧岡崎家能舞台を生かす会」を2007(平成19)年10月に結成しました。
 旧会の「能・狂言の公演を通して能楽の普及と能舞台再建の気運を高める」のに対し、当会では、「能舞台を利用しながら能楽の普及を図ると同時に能舞台の再建を目指す」とされ、ソフトとともにハードの再建を目指す運動を心掛けています。三ツ江氏は自らも2001(平成13)年から藤井雅之師に師事、能楽の学術的調査や研究をされています。
・小樽観光と能:岡崎 謙氏が小樽に一流の能文化を根付かせ、それを佐藤繁夫氏が継承し、そして今、三ツ江氏に継承されています。小樽で育まれる一流の伝統芸能は、岡崎家が残した能舞台とともに、小樽が誇る文化運動といえるでしょう。そして「小樽へ行ったら能舞台と能の鑑賞を」といえる日も遠くはありません。
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佐渡出身の岡崎は佐渡から神代杉を、九州から檜を調達し、この能楽堂を建て、本州から家元を招き、自身も舞台に立って能を舞ったという。鏡板は狩野派17代モチノブ(って誰だか知らないが)を呼んで描かせたという。佐渡って能楽が盛んなのかな?(かつて佐渡では農家の人が農作業で謡曲を口ずさんだそうだ)能楽堂は大正15年に建てられ、小樽に寄贈されたのは戦後の昭和29年である。昭和36年の公会堂の移転時に現在の公会堂裏に移築されたのである。それまでは自宅のある住吉神社横の入舟町にあったということか。岡崎家の倉庫は現在も小樽築港近くの臨港線の田中酒造の亀甲蔵として残っている。
格式の高さでは国立能楽堂を凌ぐとも言われ、東北以北では唯一の本格的能舞台。
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岡崎謙:明治10年(1877)小泊に生まれる。父が明治20年小樽で荒物業を営んだ翌年に父の元に来た。海産物委託部を設けたり、縄・莚の卸商や倉庫業へ進出し事業拡大。小樽市会議員となり、議長も務める。能楽に傾倒し、遺言により 能舞台・能装束を小樽市に寄贈、今日でも小樽の能楽文化に貢献している。 (06年7月13日号(前掲)、09年11月8日号「係わりの地43:小樽・小樽市能楽堂
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町はずれの真野川畔に倉庫を所有していた。小樽在住ながら佐渡から衆議院議員選挙に立候補し、山本悌二郎に敗れた。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
小泊出身 ・明4、第十一回衆議院議員選挙[四十五年五月十五日]
『小樽区外七郡案内』(山崎鉱蔵著 小樽区外七郡案内発行所 明42年9月刊)
おか岡崎謙(「小樽区外七郡案内」)
おか岡崎謙1(「小樽区外七郡案内」)
『北海道人名辞書』(金子信尚編 北海民論社 大正12年刊)
おか岡崎謙(「北海道人名辞書」)
岡崎健
「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数103
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=21
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029436.html?p=25

★岡崎幸宮
晩年の渡辺湖畔に師事し、湖畔没後、資料を精力的に調査し、独力で『渡邉湖畔遺稿集』をまとめ、湖畔の風貌を偲ばせる『野思幽夢』を著す。

★岡崎砕石(忠蔵)
「酒と放浪の画家」(「佐渡の百年」)

★岡崎壽八
「近現代の羽茂」
おか岡崎壽八 「近現代の羽茂」


★岡崎拓夫

佐渡高校時代の昭和47.6.22、水泳県高校結合体育大会(新潟市)平泳100m・200mに入賞


★岡崎民次郎條弟(なかくに) 

『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。羽茂本郷上町庄三、鍛冶秘伝一軸(安政二年二月)がある。二代庄三、三代清平、四代駒吉、五代清太郎と鍛冶業を受け継ぎ、更に昭和六年頃から機械利用の鉄工所となり、現在の六代哲二に至っている。


★岡崎長左エ門 
(『羽茂村誌』1956年刊より)
当地(羽茂)の能楽は、天保年間の大崎の葛原五兵衛が潟上の本間家に学び、後江戸へ上って宝生宗家に就いて修道し、特に仕手方及拍子の技を学んで帰郷したのが始めであると伝えられている。
其後に(大崎の)川口宇平(1818~1876年)も又本間家に就き、後江戸の宝生家に遊学して帰り、加賀船から能装束並びに能面等を買求め、岡崎長左エ門(村山伊賀屋敷の人)と共に、当地方の能楽の普及に努めた佐渡南部に於ける能楽の隆盛はここに因しているのである。(大崎の)本間藤平(1830~1904年)も五兵衛、宇平等に能技を学び、更に本間左京に就いて仕手方の技を究め、太皷は金春惣治郎、又川合清次郎、高安英勝に、小皷は幸流に通じ、森田流の笛を能くし、このため明治時代の能楽は盛んになった。


★岡崎毅

『続佐渡酒誌』(平成14年)
おか岡崎毅 『続佐渡酒誌』 (平成14年)


★岡崎桐庵

『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
お岡崎桐庵

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
医家。美作(岡山県)の人で名は懐之、字は帰一、更山と号した。
若くして江戸に出て医学を修め、また昌谷精渓について経史を学んだ。
嘉永二年(一八四九年)奥州をめぐり佐渡に渡り、山水の美しさを愛して遂に相川に居を定めて開業した。
安政三年8一八五六年)に四十三才でなくなった。(佐渡人名辞書)


★岡崎利孝

平成29年7月没。84才。羽茂で印刷業の傍ら数々の文芸創作を行い、また多くの雑誌に投稿する。軽妙洒脱な文章はおおらかでユーモア溢れる氏の人間性そのものであった。平成20年代に両津夷(巴屋ビル1f)で骨董店を開業していたこともある。下記作品で第7回新潟出版文化賞(「文芸部門賞」)を受賞した。
「田舎魂第十二集」(岡崎利孝、佐渡市、著者本人) ※自費出版の良さの一つは自分の思いの丈を書き、自分で出版すること。その代表的な作品と言える。分かりやすい文章で、ときどき声を出して笑う部分もあり、郷土性もある。

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)岡崎利孝 随想 2 味
「島の新聞」索引(人名別)


★岡崎文山(盛一) 『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
おか岡崎文山(盛一) (2) おか岡崎文山

★岡崎勝
羽茂小泊の人。令和3年10月没、72歳。

★岡崎實
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)岡﨑實 128 羽茂小泊の岡﨑張道家について その1 我が家のあれこれ


★岡崎実

「島の新聞」索引(人名別)


★岡崎靖

「島の新聞」索引(人名別)


★岡崎世四治  

小木町商工会長
おか岡崎世四治 小木商工会長


★岡岬与四郎

「近現代の羽茂」
おか岡岬伊八郎 「近現代の羽茂」
おか岡岬与四郎 「近現代の羽茂」


★小笠原一夫

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)小笠原一夫 41 司馬凌海とアルブレヒト老烈


★小笠原和男

※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)小笠原和男 
 98 小笠原和男の俳句 -『即刻の文芸』を読んで 藍原清巳
 137 俳句鑑賞
 138 俳句鑑賞 
 139 俳句鑑賞
 140 俳句鑑賞 
 141 俳句鑑賞 


★小笠原年利也

令和2年12月没、83歳。長く佐渡高校陸上部監督として、全国大会に何度も出場し、多くのアスリートを育てた。生まれは相川高千で、旧姓は堀川。実弟も中学校教員で、体育指導者として活躍した畑野の中川茂也氏。
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