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2021-01-10

★中川佐一
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
窪田には平松治平の他、明治のころから斎藤弥平、本間留蔵、中島平吉の孫和作、本間藤三郎らが相ついで瓦焼業を経営した。他に小嶋芙山がいる。また、西二宮の前保田では、明治四十年四月、中川佐太郎が、鈴木忠蔵家屋敷の前方一部を借り受け瓦焼きを始め、佐太郎が没したあとは子息佐一がこれを引き継ぎ、昭和二十二、三年頃まで焼き立てた。また、昭和二年八月からは中村久馬吉が同じく鈴木家後方の一部を借りてこの業を起し、中村久馬吉の後は真光寺の本間喜作が富山から釆て、中原に居住していた本間喜作を雇って製瓦し、昭和十二、三年頃まで行った。鈴木家には、「昭和七年七月今村多一」と刻銘の牛の置物などが残されている。西二宮の上保田では窪田から移った中島和作も瓦や人形などを焼いたが、のちに市野沢から長木へ移った。佐渡凰製瓦の創始とされる小沢窯の瓦業は矢島主計没をもって止み、秋津窯へと移る。こうした窪田での瓦業素地の上に、再び弘化二年に来島した中島平吉の瓦焼きから、幕末・明治・大正・昭和近年にかけての窪田と西二宮を中心とする「二宮瓦」の瓦業へと発展していった。
また、平松治平などと同じく、平吉の弟子と思われる窪田の相田嘉左衛門の二男佐市は、文久元年(1862)に久文家を起こした。その後、明治に入ってからであろうか、新穂村正明寺にて瓦業を開き、正明寺・潟上を中心とする「潟上瓦」の端緒となった(『新穂村史』)。

★仲川佐右衛門
新穂田野沢
なか仲川佐右衛門 新穂田野沢

★中川作太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭5、立憲養正會相川支部[十五年七月二十三日]

★中川左源太
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
畑野村 ・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]

★中川佐太郎
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
窪田には平松治平の他、明治のころから斎藤弥平、本間留蔵、中島平吉の孫和作、本間藤三郎らが相ついで瓦焼業を経営した。他に小嶋芙山がいる。また、西二宮の前保田では、明治四十年四月、中川佐太郎が、鈴木忠蔵家屋敷の前方一部を借り受け瓦焼きを始め、佐太郎が没したあとは子息佐一がこれを引き継ぎ、昭和二十二、三年頃まで焼き立てた。また、昭和二年八月からは中村久馬吉が同じく鈴木家後方の一部を借りてこの業を起し、中村久馬吉の後は真光寺の本間喜作が富山から釆て、中原に居住していた本間喜作を雇って製瓦し、昭和十二、三年頃まで行った。鈴木家には、「昭和七年七月今村多一」と刻銘の牛の置物などが残されている。西二宮の上保田では窪田から移った中島和作も瓦や人形などを焼いたが、のちに市野沢から長木へ移った。佐渡凰製瓦の創始とされる小沢窯の瓦業は矢島主計没をもって止み、秋津窯へと移る。こうした窪田での瓦業素地の上に、再び弘化二年に来島した中島平吉の瓦焼きから、幕末・明治・大正・昭和近年にかけての窪田と西二宮を中心とする「二宮瓦」の瓦業へと発展していった。また、平松治平などと同じく、平吉の弟子と思われる窪田の相田嘉左衛門の二男佐市は、文久元年(1862)に久文家を起こした。その後、明治に入ってからであろうか、新穂村正明寺にて瓦業を開き、正明寺・潟上を中心とする「潟上瓦」の端緒となった(『新穂村史』)。

★中川三郎兵衛(小比叡)
『小木町史』より
村の草分けといわれる旧家の人たちは、江戸時代に入っても名主をどの村役人を勤めた者が多くいました。こうした人びとは、戦国時代にはその地を支配した殿さまに仕えた地侍でした。これらの人たちの中には、江戸時代にも姓を名乗ったり、その名残を留めている者がいます。小比叡の釜戸組に中川家があります。南北朝期、康永四年(一三四五)の銘がある小比叡北野神社懸仏には、羽茂の殿さまの代官として、中川三郎兵衛尉の名が記載されています。すでにこのころ小比叡は、羽茂殿の領地であったわけです。

★中川三右衛門
「躍進日本」
なか中川三右衛門「躍進日本」 (2) なか中川三右衛門「躍進日本」

★中川三益
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より 
三宮村の人、「旧幕以来永々医業相続罷在候」(三宮区有文書)と、古くからの医家であった。
しかし、明治期になると漢方医の開業が困難となったためか、三益もその子春陪も学校の教員としての記録はあるが、医業の形跡は見当らない。

★中川鹿蔵
(『羽茂村誌』1956年刊より)
大崎座は松之助が去った後でも、木戸場、川口、三郎、小沢、甚太郎等が一丸となって一座の発展につくしていた。 
・当時の青年八尋淵甚太郎、村田豊四郎、渡辺甚次郎が若き情熱を傾けて、研究するに及び、おのずから之等3人が中心の形となり、更に後進の指導を図った。 かかる雰囲気の中で切磋琢磨して後日名人の域にまで達したのが中川甚七と中川鹿蔵で、当時の大崎座は甚七(屋号通称甚太郎)が座元であった。この間の太夫は上山田の渡辺忠蔵(屋号扇畑)で、忠蔵は川茂の池野阿波の一(阿波一)の高弟で、その頃小佐渡の太夫としては高名を謳われ、わけて節廻しの重厚味が買われたと伝えられる。甚七老境に至って弟子に伝授した秘伝は、「遣う時人形は必ずからだにくっつけるべし」の語であったという。・大正7年(1918)に大崎屋松之助の50年忌(死亡年月日不詳なるも一応この年年忌行事を執り行った由)に碑を生家の近くの地に建てた。(なお、『近現代の羽茂』には、「この碑は大正7年(松之助の33回忌)に、当時の佐渡人形芝居の第一人者たちによって建立された・・・」とある)この時奉納に文弥人形を奉納した。 太夫は大谷の中川今吉、上山田の渡辺賢丈、小木の金子琴栄、同仙田八十郎、黒山の中原阿波野、河原田の岡本文司(生まれ・育ちは黒山(静平))、潟上の池田宗玄、遣い手は、大崎の中川甚七、同中川鹿蔵、大谷の中川鉄五郎、小倉の新田伊作、下端の中川伝平、小木の仙田八十郎という豪華版だった。
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎座は明治三十年、大和座に合流以来約三十年の間、交流・共鳴の形で芸道に精進してきたが、昭和の初期、赤泊興業の帰途、意見の衝突から、ついにたがいに出し合っていた人形を分けて帰り、大和座とは完全に分離してしまった。当時の太夫は中川今吉(大谷)、役者は中川鉄五郎(大谷)・中川鹿威・中川伊八・渡辺伝蔵らであった。その後大崎座は鹿蔵を座長として、南部一円を興業してまわった。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
大崎人形の創始者は、天保の末、大崎の通称木戸場、甚太郎、兵衛、三郎、小沢の五人が、伊勢参宮の節、上方から習って来たものだと「大崎村誌」に見える。そして、そのころは手製の人形に渋紙の衣裳をつけ、萱菰(かやごも)を幕の代りにしていたという。太夫は、兵衛(川上)の多聞であったというが、この人が後年の大崎屋松之助であろう。松之助は芸名で、若い時ほ多聞といった。同じ部落の平内牧(へいないまき)へ婿養子に行き、男の子を一人もうけたが離縁になった。この男の子が成長して長塚節の「佐渡が島」に出る平内歌治という博労である。松之助は人形のカシラも刻んだ。大崎座では松之助のものと川口字兵衛の刻んだものをつかっていたが、松之助が小木町へ移住する時、半分を持って行ったという。その後、この一座は八尋淵甚太郎、村田豊四郎、渡辺甚次郎が中心となって後進を指導した。この中から、のちに名人といわれた中川甚七や中川鹿蔵などが出たのである。そのころの太夫は羽茂町上山田の渡辺忠蔵で、赤泊村川茂の池阿波ノ一の弟子であった。大正七年、大崎屋松之助の生家近くに「文弥節遣人形元祖之碑」が建てられ、五十年忌(実際は明治十七年死亡だから三十五年にあたる)の法要をいとなみ、追善興行を行った。この時の太夫は、中川今吉(羽茂・大和座)、池田宗玄(潟上・末広座)、岡本文司(窪田・永楽座)のほか三人、役者は中川甚七・中川鹿蔵(大崎座)、中川鉄五郎(大和座)、新田伊作(小倉・朝日座)、中川伝兵衛(下畑・盛立座)それに小木町の仙田八十郎という佐渡では珍らしい豪華な顔揃いであった。この日の呼びもの「嫗山姥(こもちやまんば)」 の八重桐が鬼女に早変りする場面は、新田伊作がつかうことになっていた。ところが、突然小木町の金子琴栄が太夫の床(ゆか)にあがって語り出すと共に、中川甚七がとび出しで、この早変りの場面を演じた。(これには前もって、ひそかに打ち合せていたものらしい)新田は怒ったが、やめさせるわけにもいかず、そのまま見ているうちに、甚七の演技のすばらしさに「わしゃおよばん、ほんとうに神技というもんだなァ」と激賞したという話が残っている。この時は、甚七は七十歳であった。彼はいつも弟子たちに「人形をつかう時は、からだにかならずくっつけてつかえ」といっていたという。昭和四年二月八十一歳で死んだ。甚七は女形(おやま)をつかうのが得意であったが、荒向きをつかうのは中川鹿蔵が名人であった。その鹿蔵も昭和十二年一月八十六歳で死んだ。この大崎座では明治三十年の洪水に、l行李(こうり)の人形や小道具を流失したが、もう一行季は真野町竹田の人形師のところへ塗りかえに預けてあったので助かった。この中に松之助が刻んだ傑作「おもん人形」をはじめ優秀な人形が残ったのほ何より幸いであった。しかし、この水難は大崎座にとって致命傷であった。この年から同町大谷の「大和座」と合併することになった。「大和座」の役者中川鉄五郎は、合併してから「大崎座」の中川甚七の直接の指導をうけるようになった。鉄五郎ほ、芸熱心で、幕のかげに寝て、甚七のつかう手振りや足つきを研究したといわれる。その後、役者の村田豊四郎は明治三十五年に死に、同じく役者の八尋淵甚太郎も同四十二年に死んだ。大正初年、大崎部落の人たちは「大崎座」の再興をほかり、頼母子講をはじめカシラや小道具の新調や補修をし座員の募集をした。この時、集ったのは渡辺伝蔵、中川伊八、石淵由太郎などで、甚七や鹿蔵の指導をうけた。(甚七は大正九年失明したので、主として鹿蔵が指導した)大正五、六年ころ、大谷座から分離して「里見座」と座名を改め、(のち、再び大崎座とした)葛原五兵衛が加入した。そして、太夫は、渡辺鹿蔵のあと、大谷座の中川令吉、村山の笠井長吉などで、岡本文司もまたつとめたことがある。現在は、座長葛原五兵衛、座員に村田豊治(豊四郎の曽孫)、今倉正太郎、太夫は岡本文盛である。
「山里の人びと」(文弥人形)

★中川司気太(なかがわしきた)
な中川司気太
【生没】一九三三ー九四 本名司気太、のち魁大。昭和八年六月十四日、小木町小比叡字釜戸の農業、幸次・フサエの次男として生まれる。幼少より岬の神童といわれ、特に絵に長じていた。羽茂高校の卒業は昭和二十七年だったので、北嶋吾二平の直接授業は受けなかったが、進学指導をはじめとして大きく影響を受け、京都市立美術大学(現京都芸大)彫刻科に入学。卒業直前に肺結核のため中退し帰郷。回復の後上京、同郷の田中角栄や中央画壇のトップ小磯良平などの後援を得て、任意団体サロン・デ・ボザールを創設、アマチュアの美術指導を始める。昭和四十六年雅号として魁大を使い、全国的な絵画通信指導を開始、生涯学習の波に乗って、全国公募のアマチュア美術展を連年開くなど、故郷小木町に「日本アマチュア美術館」創設(平成元年)の出発点となった。その間、二科展で新人賞を受け、個展は国内はもとより、アメリカ・ヨーロッパとたびたび開く。通信指導向けの著書・ビデオ等も多い。画業は幅が広く、油絵・日本画・墨彩画・彫刻と多彩。特に墨彩画は、独自なものとして評価が高い。平成六年一月十一日没。六○歳。【参考文献】『佐渡の美術』(郷土出版社)、「日本アマチュア美術館資料」 【執筆者】藤井三好 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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中川 司気大(なかがわしきた) 雅号・魁大(かいた)
1933 新潟県・佐渡ヶ島小木に生まれる。
1956 京都市美術大学(現・京都芸大)彫刻科中退。
二科展出品。他公募展出品。個展。新人賞受賞など。
1959 広創社設立。代表取締役。
モニュメント製作、個展(油彩)発表のかたわらヨーロッパに外遊。
1971 ジャパンエスピーアーチス設立。代表取締役。
1972 サロン・デ・ボザール設立。
「サロン・デ・ボザール展」主宰。
「国際美術交流展」主宰。海外展助出品。
1980 東京・日本橋三越本店にて個展。
1981 社団法人美術愛好会サロン・デ・ボザール副会長
(初代理事長)に就任。
死亡まで14年在住。全国各地にて美術普及と指導にあたる。
美術普及誌「月刊ボザール」発行人・編集長。
1981 西ドイツ(レール市招待)個展。
米国(ロサンゼルス招待)個展。
1986 東京・新宿三越にて個展。
以後、毎年個展にて作品発表(油彩、墨彩)
1989 「日本アマチュア秀作美術館」企画立案、創設に参加。
1992 全国生涯学習町づくり研究会(文部省)
小木大会アドバイザー兼パネラー
1992 「広創展」設立主宰。
1993 第一回アートアイランド佐渡ビエンナーレ開催アドバイザー
1994 肺癌のため死去(享年61才)
著書 「墨彩百花・その1」「墨彩百花・その2」
「墨彩百花・その3」「墨彩風景技法」
「水墨無元」(全国学校図書館協議会選定図書)
「墨彩野鳥」
ビデオ 「墨絵の技法」(基礎編)サロン・デ・ボザール製作。
           (草花編 その1)
           (草花編 その2)
(中川司気大の足跡)
昭和8年6月14日、小木に生まれた中川司気大は、昭和27年京都市立美術大学(現京都芸大)彫刻学科に入学。学究に精励したが、病を得(肺結核)昭和31年、卒業を目前に同大学を中退、療養のため佐渡へ帰郷する。当時は不治の病と忌み嫌われ、半分医者にも見放された中川は、手術の前夜病院を脱出、素浜海岸の舟小屋で生家から米、味噌を届けてもらい、絵画制作で生命の最後を燃え尽くそうとする。製作に専念する事一年余り、何が幸いしたか不思議に小康を得て上京、絵画によって命を救われたと信じた中川は、絵画をなんとかして人の為に役立てたいと考えた。たまたま参加したヨーロッパ旅行で福祉が行き届き、ただ漫然と公園で無気力に一日を過ごしている老人の多いのを見て、高齢者が絵画で生きがいを持てる環境づくりの構想を持ちつづけ、昭和47年、不可能とされていた絵画の通信指導システムを開発し、任意団体サロン・デ・ボザールを設立、代表として現社団法人の核づくりに尽力する。権威ある発表の場がないと描き続ける意欲が衰退する現状を見て、翌、48年アマチュアを対称とする全国公募のサロン・デ・ボザール展を文化庁の後援で創設、以後没年まで毎年21回連続開催、名実共に「我が国最大のアマチュア美術展」と称される迄に育てた。それと並行して、国際親善と文化交流を目的に、世界16ヶ国の主要都市で国際美術交流展を開催、また、早くから生涯学習の推奨に力を注ぎ、約200名の絵画指導者を養成すると共に地域文化の発展を図るなど、
我が国の美術文化の向上に多大な功績を残した。
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・「中川司気大さんを悼む」(河北倫明)
私が中川さんの顔をはじめて見たのは、ずっと以前、世田谷区の区民絵画展がヨチヨチ歩きを始めた頃(1980)、区役所内で審査の集まりがひらかれた時だった。当時からそうしたアマチュア美術の振興と展開に情熱を注いでいられたもので、墨彩画における創作的な活躍と共に中川さんの行き方が早くから現れていたと思っている。つまり、中川さんは自分の行く道をユニークな角度で設定し、その開拓に邁進し、やがて日本最初のアマチュア美術集団を大きくまとめあげ、また、佐渡における日本最初のアマチュア美術館といった注目すべき新施設の樹立を果たされたのである。私はよく良寛和尚がいった「花開時蝶来、蝶来時、花開」の詩句を引用するが、芸術を文化の花とすれば、花と蝶とは高い天の摂理で結びついているように思う。蝶はいわば応援団であり批評家でもあるが、まちがいなく蝶来る時に良く花も開くのである。中川さんは意欲十分の蝶であると同時に、墨彩画の花ともなれる人であった。そのどちらの道にも行ける才分を抱いて余人にできない意欲的生涯を送ったのが中川さんだったと私は見ている。そのいささか早すぎた他界を惜しまずにはいられない。
(月刊ボザール平成6年3月号 特集「追悼ー中川司気大人と作品の軌跡を追う」より抜粋)
河北倫明(かわきたみちあき)
美術評論家 元・横浜美術館館長
平成3年、美術評論家では初めての文化功労者として表彰される。
平成7年没
(日本アマチュア秀作美術館)

★中川重子
佐渡高校時代の昭和39,10、全国学生選書展特選 昭和39、白扇書道金主催全国学生書道展全国優良校賞受賞、特賞 

★仲川繁太郎(しこ名 栗野江の鏡山)   
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
明治11年生まれ、昭和36年没。84歳。四股名の鏡山は、粟野江の山の名称。栗野江の喜三郎という家の出。のち、新穂村へ出て、料亭喜楽を営業した。“いとしげなこと鏡山”と、女性に人気のあった力士の原因は、小兵で(1m60ぐらいか。)しばしば大敵を葬った。現在の舞の海の様な相撲ぶりであったことによるものらしい。男気があって、愉快な言動のあった人で、割合あっさりした気質であった。晩年は、新穂の山王祭相撲を主宰して、相撲人としては親方であった。四股名の鏡山は、戦後粟野江の土屋喜代次によって、一時継承された。

★中川重信
『加茂村誌』(昭和38年
なか中川重信

★中川治作
『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)
なか中川治作 ・『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 出版年月日:明34
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
なか中川治作
「小波と水蔭」(「佐渡の百年」)
➡中川収之

★中川七郎
小木の岬のノリは、明治時代にはいっても昔と同じに、その名声を失いませんでした。明治二十六年一月に記録したところによると、ノリの特産地は沢崎と江積で、ノリの品質は沢崎ノリの方が優等であるが、その製法は江積に及ばないとあります。ノリの値段は、上等が百枚で二十二、三銭、中等が百枚で二十銭、下等が百枚で十七、八銭、小木町の中川七郎氏がすべてを買い占め越後方面へ売り出しました。この中川七郎氏は、小木の問屋鍋屋の当主で、このころ、新しい小木町を建設するために大きを役割を演じた人物でした。ノリを対岸に売り出そう。そういう考え方は、従来国仲地方へふり売りしたり、あるいは店積みして待っていると、相川の四十物師がやってきて値をつけて買っていく、というやり方とはかけはをれて稜極的をものでした。そういう頭脳によって、いまや小木は転換期を乗り越えようとしていたのです。ですから、中川七郎氏死亡の北溟雑誌の記事は、次のように氏をいたんでいます。「氏は町会議員として、また商業家として敏腕のきこえ高く、小木公共の事業といえば、一つとして氏の尽力によらぬことなく、とくに航海のことには熱心にて、かつて占魁丸に尽し、今また有志とはかり一町の議を経て、冬期定期航海をひらき、大いになすところあらんとせしにのぞみ、果たさずして黄泉の人となりしは、小木町のために、また同家のために惜しむべき事をり」

★中川七郎兵衛 
剣術一波流継承者
ささ佐々木元英 (3)
ささ佐々木元英 (4)

★中川雀子(なかがわじゃくし)
なか中川雀子
「立浪会35年のあゆみ」(昭和34年)
なか中川雀子 立浪会35年のあゆみ 昭和34年 (1)
なか中川雀子 立浪会35年のあゆみ 昭和34年 (2)
なか中川雀子 立浪会35年のあゆみ 昭和34年 (3)
両津夷の人、明治22年生-昭和41年没。本名は中川漷二(かくじ)。真野竹田生まれで両津夷のそば店「くわがらや」主人。郷土史家、俳人、古銭研究家、土人形、土産物制作等多彩な分野で活躍した。「現在の佐渡おけさ」、「佐渡おけさ起源考」、「紅葉山人おけさを踊る」、「佐渡の甚句と両津」、新作佐渡民謡「岩百合」、「佐渡民謡」等民謡関係を多く執筆。
大正10年第2回日本民謡大会に両津夷のおけさを連れて出場した際、初めて「佐渡おけさ」の名称を使う。両津甚句の「りゃんとーりゃんとーりゃんとー」も数多くあった囃子言葉から雀子が特定したもので現在に至る。大正3年設立された両津甚句保存会同人で、現在の両津甚句の祖と言われる松本丈一が両津甚句を学ぶに際し赤塚トクを紹介する。雀子の精緻に書かれた日記等から初期の「両津甚句」について知ることが出来る。又、柳田国男、柳宗悦、鈴木棠三等の佐渡での調査に同行した。夷の子供鬼太鼓の生みの親でもある。このblog中「佐渡民謡に貢献した人」に写真が載る。
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【生没】一八八九ー一九六六 郷土史家。明治二十二年九月二十二日、赤泊村外山に生まれる。父は渡辺伝十郎、母は中川キン。父は外山の産、母は真野町竹田の人で、両方とも跡取りだったので、母方の苗字を名のった。両津へ出たのは明治二十七年(一八九四)。父のそば屋稼業を継いで、明治三十五年夏からそば屋を始め、同三十九年そばの研究に上京し、三年後佐渡に初めて江戸風の種物そばを持ちこんで評判をとった。のちに相川で土産物屋を開業、昭和十四年に再び夷に帰って、土産物の「のろま人形」(粘土製)を売り出し、その方面の佐渡の元祖となった。東京や九州で人形の展覧会をひらくなど、人形作家としても知られる。古銭の収集家でも知られ、とりわけ佐渡小判に明かるかった。大蔵省や日本銀行の古銭の鑑定家で高名な小川浩と、昭和三十八年ごろ小判論争をしたことがあり、佐渡産の小判といえば、佐(○の中に「佐」の文字)の刻印がある正徳小判しかないといわれていたが「筋神」「高神」(草書の馬神)などの、小判座の職人の印のあるものも佐渡産だと、鉱山跡から見つけた製鉄の同名の刻印をもとに主張した。現在では、この中川説が通用しているという。民謡・芸能にも関心が高く、大正十年の全国民謡大会に、夷町のおけさ踊りをつれて上京、初めて「佐渡おけさ」の名前で発表した(『立浪会史』)。七夕祭りの夷子供鬼太鼓の生みの親でもあり、民俗学にも造詣が深く、川上喚涛らと柳宗悦の足どりをもとに、木喰仏の調査をしたり、昭和十一年柳田国男の指導で佐渡の昔話採集に来島した鈴木棠三を、外海府に案内している。
【参考文献】中川紀元「父・中川雀子」(『全国天領セミナール記録集』) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
「島の新聞」索引(人名別)
諸情報

★中川十左衛門
左二枚は新保八幡宮、右端は新保集落多目的研修センター
なか仲川十左衛門 新保八幡宮 (1) なか仲川十左衛門 新保八幡宮 (2) なか中川十左衛門 新保集落多目的研修センター
右写真 『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より(大正5年に講習会所を作り、竹細工を教え島外に売り出す。)
なか中川十左衛門 なか中川十左衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
明治十五年佐渡郡金井町新保に生まれ新潟師範学校を卒業した。病気のため教員をやめ三十七年新保同志団をつくり青年教育をめざした。金沢信用組合が経営不振の時、同志団は肥料の共同購入、相互金融を実施して成績をあげた。大正六年同志団に竹細工講習所を併置し、貧困青年に細工の収入で中学校程度の教育を修得させる組織をつくった。このため大正十三年に宮内省より表彰を受けた。佐渡商船の支配人、県会議員となり佐渡タイムス社を両津に創設して日刊新聞とした。昭和十四年十二月三十日に五十八才でなくなった。(概観佐渡)
・平成30年現在、子孫は新潟に住み(第四BKのOB)仲川十佐夫氏が守る。
「島の新聞」索引(人名別)
「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数108
諸情報

★中川収之(治作)
大野墓地(収之・杏果)
なか中川収之 大野墓地(収之・杏果) (1) なか中川収之 大野墓地(収之・杏果) (2) なか中川収之 大野墓地(収之・杏果) (3) なか中川収之 大野墓地(収之・杏果) (4) なか中川収之 大野墓地(収之・杏果) (5)
左:「新穂村史」(s51年) 右:『新潟県官民肖像録』(明治41年) 
なか中川収之 新穂村史 s51年 なか中川治作(収之) 新潟県官民肖像録 明治41年
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡新穂村の人で通称を治作、方翠園と号し、はじめ支山、見路ともいった。
春湖および芹舎に学び俳詣をよくし芹舎の没後は巴江庵の文台を預った。明治三十二年に七十一才でなくなった。(佐渡人名辞書)
※渡辺注:中川牧之(なかがわぼくし)となっているが明らかに間違いである。
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の俳諧。本間斧刪(明治二九没)、中川収之(明治三二役)の流れがつゞき、明治十二年(一八七九)にほ東京教材監社の新穂分会というものがあり、その奉献額が大日堂の拝殿内に掲げられている。正岡子規等の改革により俳句といわれるようになり、瑞穂会(旧派)、沙鳥会(旧派)、みどり会(新派)等の団体が、大正頃まであった。瑞穂会に渡辺巴郷、高野翠斎、沙鳥会に中川月桂、河原春木、本間最古等の名が「新穂村案内」に見える。
(柴山秀樹さん情報)
後に河原石油となった場所にあった。子(孫?)の治作は新潟古川旅館を興した。
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
な中川収之
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
なか中川収之
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
『新穂村史』(昭和51年刊)より
近世末期の新穂の俳諧の宗匠、一八二八~一八九九)。彼が佐渡の宗匠家としてあげた二十一人の中に巴江、魯山、北岳、夏丸、斧刪、五峯、箕山、朶仙、止足以上九人の新穂人を数える。川上喚濤(両津市和木の人、明治期の俳人)も宗匠十人をあげた中に斧刪、収之の二人をあげている。
※呉服店で尾崎紅葉と交流があった。中川杏果(覺左衛門)の本家で、杏果の書いたものに頻出。場所は後の川原石油となった場所。本間家縁者は新潟に出て礎町で古川旅館を経営した。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)中川収之 44 鑑賞 佐渡のうた (36) -補遺- 一幽軒守遊・竹本霞昇・中川収之・細川加賀 山本修巳
➡中川治作

★中川重蔵(なかがわじゅうぞう)
相川小校長
なか中川重蔵 相川小校長
【生没】一九○九ー七六 明治四十二年八月十日、金泉村達者(現相川町達者)中川初太郎とキイの三男として生まれる。昭和五年(一九三○)新潟師範学校入学、翌六年卒業して相川小学校に勤めたが、同九年再び新潟師範学校専攻科に入学した。昭和十年卒業すると金沢小学校に勤め、同十五年再び相川小学校へ移って、二一年間在勤した。昭和三十六年松ケ崎小学校長、同四十年四月から四十三年三月まで相川小学校長を勤めた。この間、「愛情と信頼」を基底にした教育に情熱を傾け、相川小学校長に就任すると、児童の全面発達をめざす学級経営のあり方を求めて、昭和四十二年十月学級経営研究会を開催した。また、佐渡郡小学校長会長・佐渡郡小学校教育研究会長などの要職を歴任して、教育界をリードした。退職後も昭和四十五年(一九七○)二月、相川町史編纂事務局長、同年十一月相川町総合開発計画審議会長、同五十年四月相川郷土博物館長代理などに就任し、文書館の設立を計画するなど、町の発展に寄与した。特に相川町史の編纂では、発足と同時に事務局長に就任、本編刊行前に一○巻の資料集出版を計画、内四巻(六巻『相川県史』は自ら編集)を刊行して、第五巻の刊行を目前にした昭和五十一年一月二十四日急逝した。
【関連】佐渡相川の歴史(さどあいかわのれきし)・相川県史(あいかわけんし)・相川町文書館(あいかわまちもんじょかん) 【参考文献】『相小の百年』(相川小学校)、中川重蔵『私のあゆみ・相小と私』、中川フミ『追想』 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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長男の明氏は弁護士で上智大学教授。

★中川秀平
畑野出身、実家は中川建設。国学院大卒後、民主党代議士山本悌次郎の秘書となり、上新穂に居住して新潟県議となる。自民党(一時 新政党)系議員として県議会議長となる。71~99年に県議、このうち88~89年に議長を務めた。体調を壊してからは妻カヨ子が県議を後継した。平成24年7月29日没。

★中川重太郎(椿尾、門名ニイヤ)
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
高名な石工である。作品には、小木町の一里塚地蔵(天保十二年 1841)などがある。
小泊の岡崎文泉は、古代の小泊須恵器窯跡発見と調査の功労者であるが、石仏や石塔も愛し、造詣が深かった。彼によると、石工銘があるなしにかかわらずそれぞれ作風があり、弥助の系統、五兵衛の系統、重太郎の系統があるとし、弥助は清楚で仏相をただよわせ、五兵衛は精致、重太郎は人間味にあふれてどっしりしているとする。

★中川淳
青年団長、佐渡農業改良クラブ会長、佐渡離島振興連絡会長、果実協会長、特養はもちの里園長、羽茂町助役、地域審議会長、はもちふる里自治会長。
(句碑:平成十九年三月建碑 樟石丈○、九二㍍)
○どの道も柿の熟れいる羽茂の里 
先駆の多くの方々のお陰で現在はおけさ柿は日本一の評価を受け、地域を潤してくれている。
羽茂の秋はどの道も柿が赤く色づき、素晴らしい景をなしている。
たわわに熟れる柿の里をそのまま句にした。(自註)
『佐渡・羽茂 文学碑めぐり』(平成21年10月刊)より

★中川俊一
真野合沢出身で北海道で財を成した中川平蔵の子。→中川平蔵
真野宮
なか中川俊一 真野宮 (1) なか中川俊一 真野宮 (2) なか中川俊一 真野宮 (3)
なか中川俊一

★中川準一郎
なか中川準一郎「躍進日本」

★仲川純子
「島の新聞」索引(人名別)

★中川順子
「島の新聞」索引(人名別)

★中川俊二
「手わざ図鑑」
なか中川俊二 「手わざ図鑑」

★中川春太
 →小黒ヨシ参照

★中川蕉園
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
なか <br>中川蕉園

★中川昌司
きた北一輝 20200523 (1) きた北一輝 20200523 (2) きた北一輝 20200523 (3)
「エスライフ」2021年2・3月号
なか中川昌司1 エスライフ2021年2・3月号 なか中川昌司 エスライフ2021年2・3月号
左:読売 h29年3月30日 右:北一輝例祭 040819
なか中川昌司 読売 h290330 きた北一輝 040819 (1) 北一輝例大祭1 040819
※NHK放映 2013/02/09
「昭和維新の指導者たち~北一輝と大川周明」

★中川正治
立浪会35年のあゆみ 昭和34年
なか中川正治 立浪会35年のあゆみ 昭和34年

★中川昭太郎
佐渡高校時代の昭和30年、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会にて特選  

★中川如月
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より 
三宮村、半兵衛(中下)家の人で、文化十二年に四国八八ケ所霊場の土砂を小比叡村の策善、小倉村の本間弘学らと持帰り各村村へ配置して佐渡遍路をはじめた。中川如月の家は、文政期には一町二反一畝二〇歩の田地を持っている。

★中川士郎
「佐渡ジャーナル」関係記事:「6号」(平成18年7月)コレガ展開催(中川士郎・小路慧)

★中川治郎右衛門
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年) 
新穂町の呉服商人であった。『新穂村史』の明治末期新穂町並図を見ると中町に中川治郎右衛門家があり俳人、中川収の育った家でもあった。また、県道をへだてた向側には分家の覚左衛門家がある。この家は著名な新聞記者中川杏果が生れた家でもある。この治郎右衛門ほ三宮村の出身だと云う説がある。これは三宮法幢寺の再興に尽力したからで、たしかに同寺の本堂には彼が寄進した金色の本尊阿弥陀如来が祀られてあり、また、墓地には治郎右衛門の大五輪の墓が建っている。法幢寺には祖珍和尚の飼っていた赤猫が奇術をもって治郎右衛門を檀家にしたと云う赤猫の伝説が残っているが、この伝説はともかく貞享元年に祖珍和尚が死んでいるので、それ以前に治郎右衛門は檀那になっていなければならない。中川と云う姓は新穂町では、あまり見かけることは出来ないが、三宮では一番多い姓である。しかし、彼の出身地は宮浦であった可能性もある。三宮で田地四反八畝七歩しか所有していないのに引きかえ、宮浦の元禄検地帳には治郎右衛門は、宇田中に屋敷一反五畝六歩を、分家の覚左衛門も野沢竺畝九歩の屋敷を持ち、そのほかに治郎右衛門は字田中に屋敷一反五畝七歩を持っている。そして現在でも中川姓を名のる者が居る。治郎右衛門は他の入作者のような大地主ではないが、目黒町、三拾二貫村、粟野江村などにも田地をもっており、新穂村の特高と合せると七町八反余の田地を持ち合せることになり、また、村から町へ出て行った人間として管す注目すべきである

★中川甚一
『続佐渡酒誌』(平成14年)
なか中川甚一 『佐渡酒誌』(平成14年)

★中川真一郎
なか中川真一郎
佐渡人3代目84才、赤泊出身。祖父が旧赤泊村出身、明治時代に乙部に移り、ニシン仲買で成功。祖父が残した130年前の土蔵を「街かど小さな工芸美術館」に利用。北海道教育大卒業後、小中学校学校の教職のち大学でも地元美術家に指導された偉大な功労者。中川先生の作品は日展特選「触」「火焔樹」他秀作。鋳造工芸家
「北海道新聞」2023年6月15日
小さな工芸美術館、乙部の街かどに 鋳金造形家が築130年の蔵に開設
【乙部】栄浜地区在住の鋳金造形家、中川真一郎さん(84)が10日、同地区の国道沿いに小さな私設美術館を開いた。自らの作品のほか15人の工芸作家の陶芸や彫刻、レリーフなどを紹介している。「街かどの小さな工藝(こうげい)美術館」と命名した。予約制だが「特に、子どもたちに見にきてほしい」と話している。 約130年前に建てられた約20平方メートルの木造の蔵を、地元事業者の協力を受けながら手作業で2年がかりで改装した。現在は約40点の作品を展示しており、今後も未整理の作品を随時紹介していくという。「子どもたちにも分かる工芸美術館」をコンセプトとし、各作品に「子ども達へ」と題した解説文を添えている。 美術館の入り口には地元の指物師による120年前の欄間を縦にして展示。中川さんの作品では日展で特選を受賞した「蝕」や、館浦温泉公園にあるモニュメントの原型になった鋳金作品、聖武天皇の法要で使われた風鐸(ふうたく)(鐘形の鈴)を再現した「風を待つ鎮鐸」などが目を引く。風鐸は実際に鳴らすことができ、解説にも「そっと触れて千年前の音を聞いてみて」と記した。また、後志管内黒松内町出身の工芸家、阿部憲司さんの複雑なやじろべえなども触って遊ぶことができる。明治期から昭和初期に活躍した彫刻家高村光雲のレリーフや昭和期の洋画家小磯良平の陶器の飾り皿など、貴重な作品も紹介している。中川さんは「大人と違い、子どもたちはみんな目を輝かせて工芸作品を見てくれる。多くの子どもたちにさまざまな作品に接してほしい」と話している。 開館は土、日、祝日の午前10時~午後4時半で、事前予約が必要。予約、問い合わせは中川さん、電話0139・62・3783へ。(米林千晴)

★中川甚七(甚太郎)
(『羽茂村誌』1956年刊より)
・大崎座は松之助が去った後でも、木戸場、川口、三郎、小沢、甚太郎等が一丸となって一座の発展につくしていた。 当時の青年八尋淵甚太郎、村田豊四郎、渡辺甚次郎が若き情熱を傾けて、研究するに及び、おのずから之等3人が中心の形となり、更に後進の指導を図った。 かかる雰囲気の中で切磋琢磨して後日名人の域にまで達したのが中川甚七と中川鹿蔵で、当時の大崎座は甚七(屋号通称甚太郎)が座元であった。この間の太夫は上山田の渡辺忠蔵(屋号扇畑)で、忠蔵は川茂の池野阿波の一(阿波一)の高弟で、その頃小佐渡の太夫としては高名を謳われ、わけて節廻しの重厚味が買われたと伝えられる。甚七老境に至って弟子に伝授した秘伝は、「遣う時人形は必ずからだにくっつけるべし」の語であったという。・大正7年(1918)に大崎屋松之助の50年忌(死亡年月日不詳なるも一応この年年忌行事を執り行った由)に碑を生家の近くの地に建てた。(なお、『近現代の羽茂』には、「この碑は大正7年(松之助の33回忌)に、当時の佐渡人形芝居の第一人者たちによって建立された・・・」とある。この時奉納に文弥人形を奉納した。 太夫は大谷の中川今吉、上山田の渡辺賢丈、小木の金子琴栄、同仙田八十郎、黒山の中原阿波野、河原田の岡本文司(生まれ・育ちは黒山(静平))、潟上の池田宗玄、遣い手は、大崎の中川甚七、同中川鹿蔵、大谷の中川鉄五郎、小倉の新田伊作、下端の中川伝平、小木の仙田八十郎という豪華版だった。
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
大崎屋松之助の去った後の大崎座の遣い手、明治中期より大正初期にかけての遣い手。佐渡人形界の第一人者であり、特に女形が得意で、大崎座の座元であった。
大崎座と大和座は分裂以後、たがいに芸道を競い、文弥人形界は活気を呈してきた。中川甚七は昭和四年(一九二九)没し、中川鹿蔵も老境に入り、葛原五兵衛がその後をついで座頭となり、中川伊八・渡辺伝蔵・石渕由太郎・村田豊次・今倉正太郎らと共に、その振興に力を尽した。鹿蔵もまた昭和十一年に世を去った。その後五兵衛は、佐渡人形界の名人の座にあり、全島に「五兵衛さん」の愛称で親しまれ、特に二刀流のつかい手としては、島内の第一人者である。また、薙刀の名演技も鮮かである。中川伊八は薙刀、渡辺伝威は女形・薙刀・若武者、石渕由太郎は女形・若武者を特技とした。太夫は村山の笠井長吉(大山)がつとめ、再び里見座の全盛時代を招来した。笠井長吉の没後、河原田の岡本文司によって各地をまわり、また、潟上の三代池田宗玄も両三度来演されたが、昭和三十年(一九五五)頃より中興岡本文盛太夫となり、羽茂の藤井閑六・長尾閑月らと共に今日に至っている。
(甚七の逸話)
大正七年(一九一八)八月十七日、大崎屋松之助の五十回忌に、生家の近く(秋葉山)に碑を建立した。松之助の死亡年月が不詳のため、一応この年に五十年忌を執り行ったものである。この建碑の記念式には、宮本寺(本間慶隆代)において、松之助初め故人となった太夫・役者の法要を挙行し、佐渡文弥人形の奉納があった。この時の太夫・役者(つかい手)は、次の通りの豪華版であった。太夫 中川今吉(大谷)池田宗玄(潟上)岡本文司(河原田)中原阿波野(黒山)
役者 中川甚七(大崎)中川鹿蔵(大崎)中川鉄五郎(大谷)新田伊作(小倉)中川伝平(下端)仙田八十郎(小木)らで演題は「嫗山姥(こもちやまうば)」であったが、その配役の時、八重桐は新田が遣うことになっていたが、演出が進むと、甚七はいきなり新田をだしぬいて出演してしまった。新田は大いに怒ったが、その演技を見ている中に、甚七の妙技に感じ、「自分はまだ到底彼には及ばない。まさに神技というべきであろう」と名人揃いの満座の中で、称賛をおしまなかったという。これで甚七の妙技のはどもわかることと思う(羽茂村誌より抄出)。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
大崎人形の創始者は、天保の末、大崎の通称木戸場、甚太郎、兵衛、三郎、小沢の五人が、伊勢参宮の節、上方から習って来たものだと「大崎村誌」に見える。そして、そのころは手製の人形に渋紙の衣裳をつけ、萱菰(かやごも)を幕の代りにしていたという。太夫は、兵衛(川上)の多聞であったというが、この人が後年の大崎屋松之助であろう。松之助は芸名で、若い時ほ多聞といった。同じ部落の平内牧(へいないまき)へ婿養子に行き、男の子を一人もうけたが離縁になった。この男の子が成長して長塚節の「佐渡が島」に出る平内歌治という博労である。松之助は人形のカシラも刻んだ。大崎座では松之助のものと川口字兵衛の刻んだものをつかっていたが、松之助が小木町へ移住する時、半分を持って行ったという。その後、この一座は八尋淵甚太郎、村田豊四郎、渡辺甚次郎が中心となって後進を指導した。この中から、のちに名人といわれた中川甚七や中川鹿蔵などが出たのである。そのころの太夫は羽茂町上山田の渡辺忠蔵で、赤泊村川茂の池阿波ノ一の弟子であった。大正七年、大崎屋松之助の生家近くに「文弥節遣人形元祖之碑」が建てられ、五十年忌(実際は明治十七年死亡だから三十五年にあたる)の法要をいとなみ、追善興行を行った。この時の太夫は、中川今吉(羽茂・大和座)、池田宗玄(潟上・末広座)、岡本文司(窪田・永楽座)のほか三人、役者は中川甚七・中川鹿蔵(大崎座)、中川鉄五郎(大和座)、新田伊作(小倉・朝日座)、中川伝兵衛(下畑・盛立座)それに小木町の仙田八十郎という佐渡では珍らしい豪華な顔揃いであった。この日の呼びもの「嫗山姥(こもちやまんば)」 の八重桐が鬼女に早変りする場面は、新田伊作がつかうことになっていた。ところが、突然小木町の金子琴栄が太夫の床(ゆか)にあがって語り出すと共に、中川甚七がとび出しで、この早変りの場面を演じた。(これには前もって、ひそかに打ち合せていたものらしい)新田は怒ったが、やめさせるわけにもいかず、そのまま見ているうちに、甚七の演技のすばらしさに「わしゃおよばん、ほんとうに神技というもんだなァ」と激賞したという話が残っている。この時は、甚七は七十歳であった。彼はいつも弟子たちに「人形をつかう時は、からだにかならずくっつけてつかえ」といっていたという。昭和四年二月八十一歳で死んだ。甚七は女形(おやま)をつかうのが得意であったが、荒向きをつかうのは中川鹿蔵が名人であった。その鹿蔵も昭和十二年一月八十六歳で死んだ。この大崎座では明治三十年の洪水に、l行李(こうり)の人形や小道具を流失したが、もう一行季は真野町竹田の人形師のところへ塗りかえに預けてあったので助かった。この中に松之助が刻んだ傑作「おもん人形」をはじめ優秀な人形が残ったのほ何より幸いであった。しかし、この水難は大崎座にとって致命傷であった。この年から同町大谷の「大和座」と合併することになった。「大和座」の役者中川鉄五郎は、合併してから「大崎座」の中川甚七の直接の指導をうけるようになった。鉄五郎ほ、芸熱心で、幕のかげに寝て、甚七のつかう手振りや足つきを研究したといわれる。その後、役者の村田豊四郎は明治三十五年に死に、同じく役者の八尋淵甚太郎も同四十二年に死んだ。大正初年、大崎部落の人たちは「大崎座」の再興をほかり、頼母子講をはじめカシラや小道具の新調や補修をし座員の募集をした。この時、集ったのは渡辺伝蔵、中川伊八、石淵由太郎などで、甚七や鹿蔵の指導をうけた。(甚七は大正九年失明したので、主として鹿蔵が指導した)大正五、六年ころ、大谷座から分離して「里見座」と座名を改め、(のち、再び大崎座とした)葛原五兵衛が加入した。そして、太夫は、渡辺鹿蔵のあと、大谷座の中川令吉、村山の笠井長吉などで、岡本文司もまたつとめたことがある。現在は、座長葛原五兵衛、座員に村田豊治(豊四郎の曽孫)、今倉正太郎、太夫は岡本文盛である。
「山里の人びと」(文弥人形)

★中川新平
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治元年生 畑野町三宮 ・明4、第四回佐渡郡会議員選挙[三十六年九月三十日]・明4、佐渡進歩党員の動静[四十年九月二十一日]

★中川新兵衛
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
相川町大浦の人、中川儀兵衛と共に大浦(おうら)人形創始者。   
畑野町後山(現在宮浦と改名皐人形を譲りうけたもの。ほはじめ五、六人の共同所有であったが、のち新兵衛・儀兵衛のものになった。太夫は中川常吉(新兵衛家)、中川与三次郎(儀兵衛家)であった。この人形は有名な竹田人形の一部といわれ、男のカシラは大きく、女のカシラほ小さく、そして腰幕も「牡丹に唐獅子」である。著者所蔵の「高崎人形」のカシラ・腰幕と似ている。昭和初年に新兵衛所蔵のカシラを撮影のためおとずれたことがある。のち、畑野町金子太郎平所蔵となっている。儀兵衛のものは、最近手放したといわれる。

★仲川末雄
「佐渡ジャーナル」関係記事:「42号」(平成27年7月)・”米寿まで頑張ろう”の同級会

★仲川進
佐渡高校同窓会報 r108月 39号
なか仲川進 佐渡高校同窓会報 r108月 39号

★中川澄子
羽茂大橋冬居、田の尻家の人。昭和二年生れ。農業。「歌と評論」同人。歌集「枇杷の花」がある。
(歌碑:平成二十年三月建碑 樟石丈○、九三㍍)        
○春めきし陽ざしに映ゆる薮つばき島をつつみてみなみ風吹く
寒さにとざされた長い冬もやっと終わり、今日は島一つ包むかのように優しい南風が吹いています。陽ざしもすっかり暖かくなり、佐渡の其処ここに自生している薮椿も今花盛り、濃緑の菓が、そして紅色の花が春陽に映えて艶やかに輝いています。アァー春だなぁー(自註)
『佐渡・羽茂 文学碑めぐり』(平成21年10月刊)より

★中川精一
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭1、佐渡革政党の秋期大会[三年九月七日]

★中川晴吉
『新潟県官民肖像録』(明治41年) 
なか中川晴吉 新潟県官民肖像録 明治41年
『小木町史』(下)より
小木の町には島外からの輸入品をとりあつかう店が大いにはやりました。明治二十四年の記録に、呉服商の佐々木伊八郎、中川晴吉の二人が、近年一層仕入れを手広にして、土地の便益になっているとあります。佐々木伊八郎は、明治のはじめには廻船持ちの商人でしたが、この頃には呉服商として大をなしていたのです。

★中川清吾
なか中川清吾 なか中川清吾1
明治27年(1894)生、東京帝大法科卒、日本郵船會社貨物課副長。中川健蔵長男。
・下記は中川健蔵一家
 妻 キヨ 明治8年(1875)生
長女 二三子 大正12年(1923)生 神明高女在學
長男 淸吾   明治27年(1894)生 東京帝大法科卒 日本郵船會社貨物課副長
次男 整    明治30年(1897)3月5日生 早稲田卒 滿鐡鐡道總局 
三男 晃成   明治38年(1905)生 東大法科卒 日本電気會社員 ※後 日本航空電子社長、元商工官僚  
四男 哲郎   明治41年(1908)生 東大法科卒 逓信省電気局事務官     
五男 融    明治45年(1912)生 東大法科卒 外務省亞細亞局事務官     
「Araki Histories」(江崎真佐子さんの二女の夫クレイグ氏作成、前田富士子さん訳)

★中川清三郎
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
明治三年に山本半蔵・山本五平・山本藤八郎・島倉伊平・中川清三郎の五人が費用を出しあって「学問所」を開設し、のち、明治五年、この「学問所」が政府の許可を得て「新町郷校」と名称を改めた。先生として佐々木俊蔵(辰之助)を雇い、場所は司馬盈之(司馬凌海)旧宅であった。これが、現在の真野小学校のはじめである。この五人の有志たちが「学問所」の先生を迎えるについて、エピソードがある。心当たりを捜していると、たまたま北海道から釆て西三川村大倉谷の佐々木才三郎方に身を寄せていた佐々木俊蔵という人物が学才にたけているということを聞き、評判だけでは真価がわからないというので、新町の漢方医山本桂に大倉谷まで行かせ、人物試験をさせた。先生を迎えるのに人物試験をして迎えるところに、有志たちの意気が感じられる。
「逃亡藩士の郵便局長」(「佐渡の百年」)

「山本伝十郎家」


★中川清治
(『佐渡広場』より)
「大正以降大崎座を支えた人々は、葛原五兵衛のほか村田豊次、今倉正太郎、遣い手ではなかったが頭(かしら)を作り陰の支援を続けた功労者に宮本寺住職の本間敞政がいる。戦後の復興期には藤井真一が、昭和52年からは草木実、中川清治が始めたが惜しくも中断し、現在 川上公紀・川上良江・渡辺トモ子・西橋健の4人に支えられている。太夫は長尾閑月・白井清次で、ちなみに白井太夫は葛原五兵衛の甥、川上夫妻は大崎屋松之助の生家兵衛家の当主」
『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より
昭和二十四年(一四四九)村田豊次宅の火災により、同家に保管されていた人形一行李を焼失した。上の坊住職本間敵政は、かねてから余技として刻んだ人形を里見座に寄贈して、その不足を補った。その後、石渕由太郎は不幸病魔のため倒れ、渡辺伝蔵・村田豊治も共に歿し、また、昔日の面影はなく、わずかに座頭葛原五兵衛が今倉正太郎と共に、一座をささえている状態となった。しかるに、五兵衛また老境に入り、大崎の文弥人形の将来を危ぶむ声が起ってきた。かねてから藤井真一は岡本文司に師事して文弥を修業し、かたわら人形つかいの技を修め、また昭和五二年(一九七七)には草木実・中川清治・川上公紀・渡辺友子・川1芳枝・中原ムツらの若人が、五兵衛の指導を受けて大崎座の復興にのり出した。しかるに、不幸若手のホープとして嘱望された藤井真一・草木実の両名が相次いで死去の悲運に遭ったが、若い同志の固い結束により、文弥人形の保存と振興のために精進をつづけている。また、昭和五十三年には、文弥人形愛好の有志により、大崎文弥人形保存会を結成して協力しつつある現状である。
「山里の人びと」(文弥人形)

★中川政太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
なか中川政太郎

★中川赤水(なかがわせきすい)

1783-1847年。実名は翁助、号が赤水で相川の「あかがわ」に因んだもの。「相川音頭」源平軍談の作者と言われる。吹分所仕事師で確実に赤水作のものは「番匠松蔵、機織りお竹、春の夜の夢物語」。大安寺に一族の墓があり、屋号は「中津屋」で大正初期頃までお盆近くには一族がひら仮名、横書きの音頭本を販売していた。住居は現在の新潟交通前で、その前は羽田町36番地。後裔は東京在住中川ツヤさんで、大正9年上京、12年の関東震災で伝来の品を焼失したと言う。ともあれ、「源平軍談」の作者は、山田良範と中川赤水のどちらかで、良範作と赤水作に違いがあるという説もある。
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【生没】一七八三ー一八四七 相川音頭(口説)の作者。吹分所仕事師。相川音頭は、七・七・七調に綴った歌物語で盆踊りによくうたわれた。赤水の作とわかるものには、「番匠松蔵、機織りお竹、春の夜の夢物語」がある。佐渡の小川村で、実際に起った相対死(心中)の一部始終をうたいこんだもので、音頭本の傑作の一つとされ、四二歳に当たる文政七年(一八二四)ごろの作とされる。この序註に、「しげきつとめのひまひまに、にぶきふでもてかきつづりしものは、あか川のあたりにすむ、静黙堂赤水」とあり、音頭づくりを専業とした人ではなかった。二年後、文政九年の「相川町墨引」(町絵図)では、繁華街の羽田町東側の南端(近年の観光タクシー会社あたり)に家があって、「吹分所仕事師、中川翁助」と職業が出ている。「翁助」が実名「赤水」が号で、吹分所とは金銀を製錬する仕事場をさした。源平のいくさの「義経弓流し」に材をとった音頭本「源平軍談」なども、史証はないものの赤水の作かとされていて、ほかにもかなり作例があったらしい。佐渡奉行の水野藤右衛門に知遇を得て御陣屋へもたびたび呼ばれ、書写など仰せつかり、金百疋を頂戴したこと、折にふれて当国の風俗、古実などを説明し、文政三年(一八二○)に「給米三斗、銭三貫文」の待遇で吹分職職人に抜てきされたことなどが、「古川千種覚え書」に見える。大安寺に一族の墓が残るが、家の屋号を「中津屋」といい、大正の初めころまでお盆が近づくと、家族でひら仮名で横書きに書写した音頭本を、店先に並べて売っていたという。
【関連】水野藤右衛門(みずのとううえもん)・相川音頭(あいかわおんど) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)中川赤水 46 連載 閑々亭雑記(5) 中川赤水の「雑録」より 山本修之助

★中川善兵衛(なかがわぜんべえ)
なか中川善兵衛 なか中川善兵衛 - コピー なか中川」善兵衛 (2) なか中川」善兵衛 (3) 古写真
「 佐渡ふるさと百科」
なか中川善兵衛 佐渡ふるさと百科 なか中川善兵衛 赤泊 (1) なか中川善兵衛 赤泊 (2)
なか中川善兵衛  なか中川善兵衛
赤泊地区
なか中川善兵衛 (1) なか中川善兵衛 赤泊地区 (1) なか中川善兵衛 赤泊地区 (2)
【生没】一八○四ー三九 天保九年(一八三八)の佐渡一国騒動の頭取。羽茂郡上山田村の農民で、善兵衛家は元禄検地帳で耕地一町一反九畝八歩、屋敷四畝二○歩を所持する本百姓であったが、一揆当時はそれほどの大高持ではなかった。善兵衛は村山村白山権現祠官宮岡豊後とはかり、将軍代がわり恒例の巡見使に越訴するため、新穂村山王社・瓜生屋村四条大日堂など、島内各所で寄合を開き、村むらに参加を呼びかけた。善兵衛は自ら「一国願主」となって、各村から出された要求を訴状にまとめあげ、閏四月に来島した御料巡見使広木義太郎に提出、さらに五月来島した諸国巡見使木下内記に対しても、追訴状を提出することに成功した。訴状の内容は、年貢諸役の軽減、広恵倉仕法の廃止、二重課税の廃止、株仲間(鑑札制度・座物指定)の廃止、役人への賄路の廃止等であるが、特に広恵倉仕法の廃止要求が、最大の要求課題であった。それは、殖産興業の奨励と寛延一揆によって認められた、国産の他国移出禁止解除によって勃興した、商品生産や商業活動による利益が、奉行所の莫大な資金で経営される広恵倉仕法によって、収奪されたからである。善兵衛は、五月二十二日、巡見使離島直後に小木で逮捕され、相川へ護送収監された。これを契機に、一揆は数千人が八幡野に結集し、相川へ押し出して善兵衛を奪還する態勢を示した。奉行所はやむなく一旦善兵衛を釈放したが、勝ち誇った一揆は、小木へ押し出して諸問屋を打毀し、打毀しは前浜一帯から国仲方面に波及、殊に八月に入って各地で猛威をふるい、無政府状態になった。同月十二日、老中水野忠邦は直接在府奉行篠山十兵衛に、一揆鎮圧の示達書を下し、篠山奉行は八月二十八日評定所留役、越後高田藩兵二百余を率て入国、さらに江戸よりの幕府軍の入国もあって、一揆は鎮圧された。善兵衛は再度逮捕され、他の一揆指導者も多く逮捕され、相川で審理が開始された。裁判がすすむにつれ役人の不正が明かになり、現地裁判は不可能になって、善兵衛等農民一七人と、役人八人は江戸へ護送され、評定所で裁判が行われた。しかし、裁判の途中農民一七人はすべて牢死し、生きて佐渡の土を踏むことはできなかった。善兵衛は天保十年五月二十九日死去。判決は翌年八月申し渡され、善兵衛は獄門・闕所に処せられた。享年三五歳。広恵倉は、すでにその機能を大幅に縮小されていた。
【関連】佐渡義民殿(さどぎみんでん) 【参考文献】『幕藩制国家の基礎構造』、田中圭一『天領佐渡』 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)中川善兵衛 146 義民中川善兵衛の事 藤井青咲
「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数17
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★中川宗右衛門
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
なか中川宗右衛門 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)

★中川送路
『金沢村誌稿本』(昭和9年7月 金沢村教育会刊)より(俳客伝)
な中川送路 俳客伝

★中川祖賢
くら蔵満理水





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